十七史百將傳巻二 前漢 韓信

現代語訳

Kindle版『現代語訳 十七史百將傳 1 巻一〜巻五』(全2巻の第1巻)として出版する予定です。

要約

韓信は淮陰の人である。若いころは貧しく素行もよくなく、人に寄食して嫌われた。南昌亭長の家に通うと妻が嫌って明け方に寝床で飯を食べてしまい、信は怒って縁を切った。城下で釣る信に綿をさらす婦人が数十日食を与え、報いると言う信を「一人前の男が自分で食えぬのを哀れんだのだ」と怒った。屠殺場の若者に「死ねるなら刺せ、死ねぬなら股をくぐれ」と辱められると、信は股をくぐり、皆が笑った。

項梁が淮水を渡ると信は剣を杖にして従ったが名を知られず、項梁が敗れると項羽に属して郎中となり、策を献じたが用いられなかった。

漢王が蜀に入ると信は漢に帰して連敖となった。斬られる順が回ると滕公を見上げ「上は天下を取ろうとは思われぬのか。なぜ壮士を斬るのか」と言い、釈放されて治粟都尉となったが、上はまだ用いなかった。南鄭で信が逃げると蕭何は自ら追い、「信は国士無双です。天下を争うなら信のほかに事を計る者はおりません」と説いた。王は許し、何の求めで吉日を選び斎戒し壇場を設けて礼を整えた。任命の日、それが韓信であったので全軍が驚いた。

信は王に「天下の権を争う相手は項王ではありませんか。勇悍さ・仁愛・強さでどちらが上とお考えですか」と問い、漢王が「及ばない」と答えると言った。「項王が怒号すれば千人がへたりこみますが、賢将に任せられぬ匹夫の勇です。功に封ずべきときは印がすり減るまで惜しむ婦人の仁です。関中に居らず彭城に都し、名は覇でも実は天下の心を失っています。大王が武勇の士に任せ城邑を功臣に封ずれば、服さぬものはありません。三秦の王は秦の降卒二十余万が穴埋めにされたなかで免れた者で、秦の父兄の怨みは骨髄に入っています。大王は武関に入って苛酷な法を除き法三章を約された。東へ向かわれれば三秦は檄を伝えるだけで平定できましょう」。漢王は大いに喜び、信を得るのが遅かったと思った。

漢王は陳倉に出て三秦を平定した。二年、彭城で敗れると信は滎陽で落ち合い、楚を京・索のあいだに破って西進を止めた。魏王豹が叛くと信は左丞相として撃ち、疑兵を並べて臨晉を渡るふりをし、伏兵は夏陽から木の甕で渡って安邑を襲い、豹を捕らえて河東郡とした。信は兵三万を請い、張耳とともに代の兵を破って夏說を閼與で捕らえた。

信は張耳と数万で井陘を下ろうとし、趙王と成安君陳餘は二十万と号して井陘口に集まった。広武君李左車は奇兵で輜重を絶ち塁を固めて戦うなと説いたが、成安君は詐謀を用いぬと称して聴かなかった。信はこれを知って下り、夜半に軽騎二千へ赤い旗を持たせ、趙が塁を空にしたら旗を抜いて赤い旗を立てよと命じ、「今日、趙を破ってから会食しよう」と言った。

信は一万を先に出して水を背に陣させ、趙軍は笑った。明け方、旗鼓を立てて出ると趙は塁を開いて戦い、信と張耳が旗鼓を捨てるふりをして水際へ走ると、趙は塁を空にして追ったが決死の漢軍を破れなかった。その間に二千騎が趙の塁の旗を抜いて赤い旗を立て、帰った趙軍は驚いて乱れ散り、漢は挟み撃ちにして成安君を泜水のほとりで斬り、趙王歇を捕らえた。信は広武君の縛めを解いて師として仕え、術を問う諸将には「死地に陥れてこそ生きる。市中の人を駆り立てて戦わせるのだから、生地を与えれば皆逃げる」と答えた。

燕・斉を取る策を問われた広武君は、将軍の威は天下を震わせたが兵は疲れ、燕の堅城の下で日を空しくすれば斉も国境を固めると説き、趙を鎮めて士をねぎらい、弁士に書状を持たせて長所を燕に見せれば燕は従い、次いで斉に告げれば服す、と言った。信は従い、燕は靡いた。信は漢に報じて張耳を趙王に立てたいと請い、許された。

楚が漢王を滎陽に囲むと、漢王は河を渡って修武へ走り、明け方、漢の使者と称して趙の塁に馳せ入り、寝ている二人の印と符を奪って諸将の配置を入れ替えた。漢王は張耳に趙を守らせ、韓信を相国として趙の兵で斉を撃たせた。

信は東へ向かい、酈食其が斉を降させたと聞いて止めようとしたが、蒯通に「将となって数年、一人の儒者の功にも及ばぬのですか」と説かれ、河を渡って備えを解いた歷下の軍を襲い、臨に至った。斉王田広は酈生を釜ゆでにして高密へ走り、楚に救援を請い、楚は龍且を遣わした。龍且は「信は股の下で辱めを受けた男だ。戦わずして降しては何の功があろう」と言って戦いを選んだ。信は濰水を挟んで陣し、夜に一万余の袋へ砂を詰めて上流をせき止め、半ば渡って撃ち、負けたふりをして退いた。龍且が追って渡ると袋を切り開かせ、水が押し寄せて渡れぬ軍を撃ち、龍且を殺した。斉王広は逃げ去った。

信は斉を平定すると、「斉は偽り多く変わりやすい。仮王を立てねば安定しません」と言わせた。囲まれていた漢王は怒ったが、張良と陳平が足を踏んで諫め、漢王は「大丈夫たる者、真の王になるだけだ」と罵り、張良を遣わして信を斉王に立てた。

龍且を失った項王は武涉を遣わし、漢に叛いて楚と連合し天下を三分せよと説かせた。信は「項王のもとでは言は聴かれなかった。漢王は上将軍の印を授け、衣を脱いで着せ、食を推して食わせた」と断った。

次いで蒯通が人相を見ると称し、「顔を相すれば封侯どまりで危うく、背を相すれば貴いこと言いようもない」と言い、天下を三分して鼎の足のように並び立てと説いた。信が漢王の厚遇に背けぬと言うと、蒯通は常山王と成安君の刎頸の交わりが互いを捕らえ合ったことを挙げ、「勇略が主を震わせる者は身が危うい」と言った。信はためらい、功が多いから斉を奪われまいと思って断った。

漢王は項羽を追ったが固陵で信・越と落ち合えず大いに破られた。張良が「地を分けていないから来ないのです。睢陽以北から谷城までを越に、陳から東を信に与えなさい」と説き、使者を発すると二人は兵を率いて来た。項羽が破れると、高祖は斉王の軍を奪い、信を楚王に移して下邳に都させた。

国に着いた信は漂母に千金を賜い、南昌亭長には百銭を賜って「公は小人だ。徳を施すのに最後までやらなかった」と言い、股をくぐらせた若者は楚の中尉として「これは壮士だ。殺しても名分がないゆえ堪えたのだ」と告げた。

兵を連ねて県邑を巡る信の謀反を訴える者があり、高帝は陳平の計で巡狩と称して陳に諸侯を集め、信を襲った。縛られた信は「兎が死ねば良犬は煮られ、敵国が破れれば謀臣は亡びる」と言った。洛陽で赦されて淮陰侯とされたが日ごとに怨み、樊噲に拝送されると「この年になって噲などと伍する仲間になったか」と笑った。上に将いられる兵を問われて「陛下はせいぜい十万」「臣は多ければ多いほどよい」と答え、なぜ捕らえられたかと笑われて「陛下は将を将いるのがお上手です」と答えた。

鉅鹿守となった陳豨が暇乞いに来ると、信は左右を退け「公の居る所は天下の精兵のある所だ。三度叛きを言われれば陛下は必ず自ら出る。私は内から起とう」と言った。豨が叛いて上が出ると、信は病のため従わず、詔と偽って徒刑囚や官奴を赦し、呂后と太子を襲おうとした。舎人の弟が訴え出、呂后は蕭相国とはかって豨が討たれたと偽り、参内した信を武士に縛らせて斬った。

孫子はいう、計をもって比べ量りその実情を探る、と。楚漢の長短を量ったのがこれ。またいう、遠くにありながら近くに見せる、と。臨晉に兵を並べて夏陽から渡ったのがこれ。またいう、深く入れば専一となる、と。国を離れて遠く戦ったのがこれ。またいう、死地に置いてこそ生きる、と。水を背に陣したのがこれ。またいう、戦わずして人の兵を屈服させる、と。燕が靡いたのがこれ。またいう、半ば渡ったところを撃つのが利、と。濰水で龍且を斬ったのが、これである。

年表

淮陰の人。貧しく人に寄食し、股くぐりの辱めに堪えた若き日を経て、項梁・項羽に従うも用いられず、漢に帰して蕭何の推挙で大将に立てられた韓信。漢中対で項王の匹夫の勇・婦人の仁を説き、三秦を平定、魏王豹を捕らえ、背水の陣で趙を破って成安君を斬り、広武君に師事して燕を降し、濰水の袋堰で龍且を斬って斉を平定した。斉王、のち楚王に立てられたが、武涉・蒯通の自立の勧めを退けた末、謀反を訴えられて淮陰侯に降され、陳豨と通じたとして呂后に斬られた。

年表(1件)
  • 二年前205年関を出て魏・河南を収め、彭城の敗後に楚を京・索の間で破る
原文(底本)
韓信者,淮陰人也。始為布衣時,貧無行,不得推擇為吏,又不能治生商賈,常從人寄飲食,人多厭之者。常數從其下鄉南昌亭長寄食,數月,亭長妻患之,乃晨炊蓐食。時信往,不為具食。信亦知其意,怒,因絕去。信釣於城下,諸母漂,有一母見信飢,飯信,終漂數十日。信喜,謂漂母曰:"吾必有以重報母。"母怒曰:"大丈夫不能自食,吾哀王孫而進食,豈望報乎?"淮陰屠中少年有侮信者,曰:"若雖長大,好帶刀劍,中情怯耳。"眾辱之曰:"信能死,剌我;不能死,出我胯下。"於是信熟視之,俯出胯下,蒲伏。一市人皆笑信,以為怯。及項梁渡淮,信杖劍從之,居麾下,無所知名。項梁敗,又屬項羽,以為郎中。數以策干項羽,不用。漢王之入蜀,信亡楚歸漢,未得知名,為連敖。坐法當斬,其輩十三人皆已斬,次至信,信乃仰視,適見滕公,曰:"上不欲就天下乎?何為斬壯士?"滕公奇其言,壯其貌,釋而不斬,與語,大說之。言於上,上拜以為治粟都尉,上未之奇也。信數與蕭何語,何奇之。至南鄭,諸將行道亡者數十人。信度何等已數言上,上不我用,即亡。何聞信亡,不及以聞,自追之。人有言上曰:"丞相何亡。"上大怒,如失左右手。居一二日,何來謁上,上且怒且喜,罵何曰:"若亡,何也?"何曰:"臣不敢亡也,臣追亡者爾。"上曰:"若所追者誰何?"曰:"韓信也。"上復罵曰:"諸將亡者以十數,公無所追;追信,詐也。"何曰:"諸將易得耳,至如信者,國士無雙。王必欲長王漢中,無所事信;必欲爭天下,非信無可與計事者。顧王策安所決耳。"王曰:"吾亦欲東耳,安能鬱郁久居此乎?"何曰:"王計必欲東,能用信,信即留;不能用信,信終亡耳。"王曰:"吾為公以為將。"何曰:"雖為將,信必不留。"王曰:"以為大將。"何曰:"幸甚。"於是王欲召信拜之。何曰:"王素慢無禮,今拜大將如呼小兒耳,此乃信所以去也。王必欲拜之,擇良日,齋戒,設壇場,具禮,乃可耳。"王許之。諸將皆喜,人人各自以為得大將。至拜大將,乃韓信也,一軍皆驚。信拜禮畢,上坐。王曰:"丞相數言將軍,將軍何以教寡人計策?"信謝,因問王曰:"今東鄉爭權天下,豈非項王邪?"漢王曰:"然。"曰:"大王自料勇悍仁強孰與項王?"漢王默然良久,曰:"不如也。"信再拜賀曰:"惟信亦以為大王不如也。然臣嘗事之,請言項王之為人也。項王喑惡叱咤,千人皆廢,然不能任屬賢將。此特匹夫之勇耳。項王見人恭謹慈愛,言語嘔嘔,人有疾病,涕泣分食飲;至使人有功當封爵者,印刓弊,忍不能予。此所謂婦人之仁也。項王雖霸天下,不居關中而都彭城。所過無不殘滅,天下多怨,百姓不親附,特劫於威強耳。名雖為霸,實失天下心,故曰其強易弱。今大王誠能反其道,任天下武勇,何所不誅!以天下城邑封功臣,何所不服!以義兵從思東歸之士,何所不散!且三秦王為秦將,將秦子弟數歲矣,所殺亡不可勝計;又欺其眾降諸侯,至新安,項王詐坑秦降卒二十餘萬,唯獨邯、欣、翳得脫。秦父兄怨此三人,痛入骨髓。今楚強以威王此三人,秦民莫愛也。大王之入武關,秋毫無所害,除秦苛法,與秦民約法三章耳,秦民無不欲得大王王秦者。於諸侯之約,大王當王關中,關中民咸知之。大王失職入漢中,秦民無不恨者。今大王舉而東,三秦可傳繳而定也。"於是漢王大喜,自以為得信晚。漢王舉兵東出陳倉,定三秦。二年,出關,收魏、河南,令齊、趙共擊楚。至彭城,漢兵敗散而還,信復發兵與漢王會滎陽,復擊破楚京、索間,以故楚兵不能西。漢之敗卻彭城,魏王豹謁歸視親疾,至國,即絕河關反漢,與楚約和。漢王使酈生說豹,不下。以信為左丞相,擊魏。信問酈生:"魏得毋用周叔為大將乎?"曰:"柏直也。"信曰:"豎子耳。"魏王盛兵蒲坂,塞臨晉,信乃益為疑兵陳船欲渡臨晉,而伏兵從夏陽以木罌缶渡軍,襲安邑。魏王豹驚,引兵迎信,信遂虜豹,定魏為河東郡。使人請漢王:"願益兵三萬人,臣請以北舉燕、趙,東擊齊,南絕楚之糧道,西與大王會於滎陽。"漢王遣張耳與信俱引兵東北擊趙、代,破代兵,禽夏說閼與。信之下魏破代,漢輒使人收其精兵,詣滎陽以距楚。信與張耳以兵數萬,欲東下井陘擊趙。趙王、成安君陳餘聞漢且襲之也,聚兵井陘口,號稱二十萬。廣武君李左車說成安君曰:"聞漢將韓信涉西河,虜魏王,禽夏說,新蹀血閼與,議欲下趙,此乘勝而去國遠斗,其鋒不可當。臣聞千里饋糧,士有飢色,樵蘇後爨,師不宿飽。今井陘之道,車不得方軌,騎不得成列,行數百里,其勢糧食必在其後。願足下假臣奇兵三萬人,從間路絕其輜重;足下深溝高壘,堅營勿與戰。彼前不得斗,退不得還,吾奇兵絕其後,使野無所掠,不至十日,而兩將之頭可致於麾下。願君留意臣之計。否,必為二子所禽矣。"成安君,儒者也,常稱義兵不用詐謀奇計,曰:"吾聞兵法:十則圍之,倍則戰之。今韓信兵號數萬,其實不過數千,能千里而襲我,亦已罷極。今如此避而不擊,後有大者,何以加之?則諸侯謂吾怯,而輕來伐我。"不聽廣武君策,廣武君策不用。韓信使人間視,知其不用,還報,則大喜,乃敢引兵遂下,未至井陘口三十里,止舍。半夜傳發,選輕騎二千人,持一赤幟,從間道萆山而望趙軍,誡曰:"趙見我走,必空壁逐我,若疾入趙壁,拔趙幟,立漢赤幟。"令其裨將傳飧,曰:"今日破趙會食!"諸將皆莫信,佯應曰:"諾。"謂軍吏曰:"趙已先據便地為壁,且彼未見吾大將旗鼓,未肯擊前行,恐吾至阻險而還。"信乃使萬人先行,出,背水陳。趙軍望見而大笑。平旦,信建大將之旗鼓,鼓行出井陘口,趙開壁擊之,大戰良久。於是信、張耳佯棄鼓旗,走水上軍。水上軍開入之,復疾戰。趙果空壁爭漢鼓旗,逐韓信、張耳。韓信、張耳已入水上軍,軍皆殊死戰,不可敗。信所出奇兵二千騎,共候趙空壁逐利,則馳入趙壁,皆拔趙旗,立漢赤幟二千。趙軍已不勝,不能得信等,欲還歸壁,壁皆漢赤幟,而大驚,以為漢皆已得趙王將矣,兵遂亂,遁走。趙將雖斬之,不能禁也。於是漢兵夾擊,大破虜趙軍,斬成安君泜水上,禽趙王歇。信乃令軍中毋殺廣武君,有能生得者購千金。於是有縛廣武君而致麾下者,信乃解其縛,東鄉坐,西鄉對,師事之。諸將效首虜,休畢賀,因問信曰:"兵法右倍山陵,前左水澤,今者將軍令臣等反背水陳,曰破趙會食,臣等不服。然卒以勝,此何術也。"信曰:"此在兵法,顧諸君不察耳。兵法不曰陷之死地而後生,置之亡地而後存?且信非得素拊循士大夫也,此所謂驅市人而戰之,其勢非置之死地,使人人自為戰。今予之生地,皆走,寧尚可得而用之乎!"諸將皆服曰:"善,非臣所及也。"於是信問廣武君曰:"仆欲北攻燕,東伐齊,何若而有功?"廣武君辭謝曰:"臣聞:敗軍之將,不可以言勇;亡國之大夫,不可以圖存。今臣敗亡之虜,何足以權大事乎?"信曰:"仆聞之:百里奚居虞而虞亡,在秦而秦霸,非愚於虞而智於秦也,用與不用,聽與不聽也。誠令成安君聽足下計,若信者亦已為禽矣。以不用足下,故信得待耳。"因固問曰:"仆委心歸計,願足下勿辭。"廣武君曰:"臣聞:智者千慮,必有一失;愚者千慮,必有一得。臣計本不足用,願效愚忠。夫成安君有百戰百勝之計,一旦而失之,軍敗鄗下,身死泜上。今將軍涉西河,虜魏王,禽夏說,一舉下井陘,不終朝破趙二十萬眾,誅成安君,名聞海內,威震天下。若此,將軍之所長也。然而眾勞卒罷,其實難用。今將軍欲舉倦弊之兵,頓之燕堅城之下,欲戰恐久力不能拔,情見勢屈,曠日糧竭,而弱燕不服,齊必距境以自強也。燕齊相持而不下,則劉項之權未有所分也。若此者,將軍所短也。故善用兵者不以短擊長,而以長擊短。"韓信曰:"然則何由?"廣武君對曰:"方今為將軍計,莫如按甲休兵,鎮趙撫其孤,百里之內,牛酒日至,以饗士大夫醳兵,北首燕路。而後遣辯士奉咫尺之書,暴其所長於燕,燕必不敢不聽從。燕已從,使喧言者東告齊,齊必從風而服。雖有智者,亦不知為齊計矣。如是,則天下事皆可圖也。兵固有先聲而後實者,此之謂也。"韓信曰:"善。"從其策,發使使燕,燕從風而靡。乃使使報漢,因請立張耳為趙王,以鎮撫其國。漢王許之。楚方急圍漢王於滎陽,漢王南出,之宛、葉間,得黥布,走入成皋,楚又復急圍之。漢王出成皋,東渡河,獨與滕公俱,從張耳軍修武。至,宿傳舍。晨自稱漢使,馳入趙壁。張耳、韓信未起,即其臥內上奪其印符,以麾召諸將,易置之。信、耳起,乃知漢王來,大驚。漢王奪兩人軍,即令張耳備守趙地,韓信為相國,收趙兵未發者擊齊。信引兵東,未渡平原,聞漢王使酈食其已說下齊,韓信欲止。范陽辯士蒯通說信曰:"將軍受詔擊齊,而漢獨發間使下齊,寧有詔止將軍乎?何以得毋行也!且酈生一士,伏軾掉三寸之舌,下齊七十餘城;將軍將數萬眾,歲餘乃下趙五十餘城。為將數歲,反不如一孺儒之功乎?"於是信然之,從其計,遂渡河。齊已聽酈生,即留縱酒,罷備漢守御。信因襲齊歷下軍,遂至臨。齊王田廣以酈生賣己,乃烹之,而走高密,使使之楚請救。韓信已定臨,遂東追廣至高密西。楚亦使龍且將,號稱二十萬,救齊。齊王廣、龍且並軍與信戰,未合,人或說龍且曰:"漢兵遠斗窮戰,其鋒不可當;齊、楚自居其地戰,兵易敗散。不如深壁,令齊王使其信臣招所亡城,亡城聞其王在,楚來救,必反漢。漢兵二千里客居,齊城皆反之,其勢無所得食,可無戰而降也。"龍且曰:"吾平生知韓信為人,易與耳。寄食於漂母,無資身之策;受辱于闐下,無兼人之勇。不足畏也。且夫救齊,不戰而降之,吾何功?今戰而勝,齊之半可得,何為止?"遂戰,與信夾濰水陳。韓信乃夜令人為萬餘囊,滿盛沙,壅水上流,引軍半渡擊龍且,佯不勝,還走。龍且果喜曰:"固知信怯也。"遂追信渡水。信使人決壅囊,水大至。龍且軍大半不得渡,即急擊,殺龍且。龍且水東軍散走,齊王廣亡去。信平齊,使人言漢王曰:"齊偽詐多變反覆之國也,南邊楚,不為假王以鎮之,其勢不定,願為假王便。"當是時,楚方急圍漢王於滎陽,韓信使者至,發書,漢王大怒,罵曰:"吾困於此,旦暮望若來佐我,乃欲自立為王!"張良、陳平躡漢王足,因附耳語曰:"漢方不利,寧能禁信之王乎?不如因而立,善遇之,使自為守。不然,變生。"漢王亦悟,因復罵曰:"大丈夫定諸侯,即為真王耳,何以假為!"乃遣張良往立信為齊王,發其兵擊楚。楚已亡龍且,項王恐,使武涉往說齊王信曰:"天下共苦秦久矣,相與戮力擊秦。秦已破,計功割地,分土而王之,以休士卒。今漢王復興兵而東,其意非盡吞天下者不休,其不知厭足如是甚也。且漢王不可必,身居項王掌握中數矣,項王憐而活之。然得脫,輒倍約,復擊項王,其不可親信如此。今足下雖自以與漢王為厚交,為之盡力用兵,終為之所禽矣。足下所以得須臾至今者,以項王尚存也。當今二王之事,權在足下。足下左投則漢王勝,右投則項王勝。項王今日亡,則次取足下。足下與項王有故,何不反漢與楚連和,三分天下而王之?今釋此時,而自必於漢以擊楚,且為智者固若此乎!"韓信謝曰:"臣事項王,官不過郎中,位不過執戟,言不聽,畫不用,故倍楚而歸漢。漢王授我上將軍印,予我數萬眾,解衣衣我,推食食我,言聽計用,故吾得以至於此。幸與信謝項王!"武涉已去,齊人蒯通知天下權在韓信,欲為奇策而感動之,以相人說韓信曰:"相君之面,不過封侯,又危不安。相君之背,貴乃不可言。"韓信曰:"何謂也?"蒯通曰:"當今兩主之命懸於足下:足下為漢則漢勝,與楚則楚勝。臣願效愚計,恐足下不能用也。誠能聽臣之計,莫若兩利而俱存之,三分天下,鼎足而居,其勢莫敢先動。夫以足下之賢聖,有甲兵之眾,據強齊,從燕、趙,出空虛之地而制其後,因民之欲,西鄉為百姓請命,則天下風走而響應矣。蓋聞天與弗取,反受其咎;時至不行,反受其殃。願足下熟慮之。"韓信曰:"漢王遇我甚厚,吾豈可以鄉利背義乎?"蒯通曰:"常山王、成安君為布衣時,相與為刎頸之交。後爭張、陳澤之事,二人相怨。常山王殺成安君泜水之南,頭足異處,卒為天下笑。此二人相與,天下至歡也。然而卒相禽者,何也?患生於多欲,而人心難測也。今足下欲行忠信,以交於漢王,必不能固於二君之相與也,而事多大於張黶、陳澤。故臣以為足下必漢王之不危己,亦誤矣。大夫種、范蠡存亡越,霸勾踐,立功成名而身死亡。野獸已盡,而獵狗烹。夫以交友言之,則不如張耳之與成安君者也;以忠信言之,則不過大夫種、范蠡之於勾踐也。且臣聞勇略震主者身危,而功蓋天下者不賞。今足下戴震主之威,挾不賞之功,歸楚,楚人不信;歸漢,漢人震恐。足下欲持是安歸乎?夫勢在人臣之位,而有震主之威,竊為足下危之。"韓信猶豫不忍背漢,又自以為功多,漢終不奪我齊,遂謝蒯通。漢王追項羽至陽夏南,止軍與齊王信、魏相國越期會擊楚。至固陵,不會。楚擊漢軍,大破之。漢王復入壁,深塹而守,謂張良曰:"諸侯不從,奈何?"張良曰:"楚兵且破,未有分地,其不至固宜。君王能與共天下,可立致也。齊王信之立,非君王意,信亦不自堅。彭越本定梁地,始君王以魏豹故拜越為相國,今豹死,越亦望王,而君王不早定。今能取睢陽以北至谷城皆以王越,從陳以東傅海與信。捐此地以許兩人,使各自為戰,則楚易敗也。"於是,漢王發使使信、越皆引兵來。項羽已破,高祖襲奪齊王軍,徙齊王信為楚王,都下邳。信至國,召所從食漂母,賜千金。及下鄉南昌亭長,賜百錢,曰:"公小人也,為德不卒。"召辱己之少年令出胯下者,以為楚中尉,告諸將相曰:"此壯士也。方辱我時,我寧不能殺之邪?殺之無名,故忍而就於此。"信初之國,行縣邑,陳兵出入。人有上書告楚王信反。高帝以陳平計,天子巡狩發使告諸侯會陳:"吾將游雲夢。"實欲襲信。信謁高祖於陳,上令武士縛信,載後車。信曰:"果若言:狡兔死,良狗烹;高鳥盡,良虧藏;敵國破,謀臣亡。天下已定,我固當烹!"上曰:"人告公反。"遂械繫信。至洛陽,赦信罪,以為淮陰侯。信由此日怨望,居常怏怏,羞與絳、灌等列。信嘗過樊將軍噲,噲跪拜送迎,言稱臣,曰:"大王乃肯臨臣!"信出門,笑曰:"生乃與噲等為伍!"上常從容與信言諸將能不,各有差。上問曰:"如我能將幾何?"信曰:"陛下不過能將十萬。"上曰:"於君何如?"曰:"臣多多而益善耳。"上笑曰:"多多益善,何為為我禽?"信曰:"陛下不能將兵,而善將將,此乃信之所以為陛下禽也。且陛下所謂天授,非人力也。"陳豨拜為鉅鹿守,辭於淮陰侯。淮陰侯挈其手,辟左右,與之步於庭,仰天嘆曰:"子可與言乎?欲與子有言也。" 豨曰:"唯將軍令之。"淮陰侯曰:"公所居,天下精兵處也;而公,陛下之信幸臣也。人言公之畔,陛下必不信;再至,陛下乃疑矣;三至,必怒而自將。吾為公從中起,天下可圖也。"陳豨果反,上自將而往,信病不從。乃謀與家臣夜詐詔赦諸官徒奴,欲發以襲呂后、太子。其舍人得罪於信,信因欲殺之。舍人弟上變,呂后與蕭相國謀,詐令人從上所來,言豨已得死,列侯群臣皆賀。相國紿信曰:"雖疾,強入賀。"信入,呂后使武士縛信斬之。

孫子曰:"校之以計而索其情。"信料楚漢之長短。又曰:"遠而示之近。"信陳兵臨晉而渡於夏陽。又曰:"入深則專,十人不克。"信去國遠斗,其鋒不可當。又曰:"置之死地而後生。"信使萬人出,背水陳。又曰:"不戰而屈人之兵。"信暴其所長,燕從風而靡。又曰:"半渡而擊之,利。"信決濰水而斬龍且是也。
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