十七史百將傳巻六 呉 呂蒙

現代語訳

Kindle版『現代語訳 十七史百將傳 2 巻六〜巻十』(全2巻の第2巻)として出版する予定です。

要約

呂蒙は字を子明といい、汝南の富陂の人である。若くして南へ渡り、姉の夫の鄧當に身を寄せ、十五、六でひそかに従って賊を撃ち、虎穴に入らずんば虎の子は得られぬと母に言った。侮って辱めた役人を殺して出奔したが、孫策は並外れた者と見て側近くに置いた。

鄧當が死ぬと張昭が後任に薦めて別部司馬となった。権が兵の少ない諸将を併せようとすると、蒙は借りをして衣と脚絆をあつらえ、閲兵の隊列は赫々として、権は悦んで兵を増やした。

黄祖征伐では前鋒を率いて都督の陳就の首を梟し、祖は城を捨てて逃げて捕えられ、権は蒙を横野中郎将とした。

帰順した襲肅の兵を周瑜が加えようとすると、蒙は奪うべきでないと言った。甘寧が夷陵で曹仁に囲まれると、蒙は柴で険路を断てば賊の馬が得られると説き、敵は馬を捨てて歩き、馬三百匹を獲た。曹仁は退き、南郡を占拠して荊州を鎮め定めた。

陸口へ赴く魯肅が立ち寄ると、蒙は関羽への備えを問い、その場で処置しようという答えに、五つの策を示した。魯肅は背を撫でて、才略がここまでとは知らなかったと言い、蒙の母に拝礼して友誼を結んだ。

成當・宋定・徐顧の兵を併されると、子弟が幼くとも家を廃してはならないと固辞し、師を選んだ。

濡須では奇計を進め、水口を挟んで塢を築かせて曹公を退けた。曹公が朱光に皖で稲田を開かせると、実れば兵が増えると説き、権は自ら皖を征した。蒙は甘寧を先頭に立たせ、みずから鼓を打ち、朝食の時刻には破って廬江太守となった。

廬陵の賊を諸将が捕えられずにいると、権は蒙に討たせ、蒙は首謀者を誅して残りを平民に戻した。

権が三郡を取らせると二郡は帰服し、零陵太守の郝普だけが降らなかった。権が零陵を捨てて魯肅を助けよと命じると、蒙はこれを秘し、郝普の旧友の鄧元之に、劉備も関羽も余力がなく、郝普は望み無き救援を待つ魚だと語らせた。郝普は懼れて聴き入れ、蒙は四将に城門を押さえさせ、郝普の手を執って船に下り、書を見せて笑った。その日のうちに益陽へ赴いた。

曹公がまた濡須に出ると、蒙は督として前の塢に拠り、強弩一万張で防ぎ、陣屋を構え終えぬ前鋒を破った。

魯肅が卒すると陸口に駐屯して人馬一万余を属され、関羽と境を接した。蒙は、関羽は併呑の心を持ち呉の上流に居て久しくは難いとし、壮健なうちに図るべきだと策を陳べ、権は容れた。表向きは好誼を結び、関羽が樊を討って備えを留めると、病を名目に還れば関羽は兵を襄陽へ向かわせ、その空虚を襲えば南郡は落とせると上疏した。関羽は信じて兵を引き払い、湘関の米を擅に取ったので、権は出発し、まず蒙を先発させた。

蒙は尋陽で精兵を船に伏せ、白衣の者に櫓を漕がせて昼夜兼行し、江辺の見張りを捕縛した。南郡に到ると士仁・糜芳が降り、蒙は関羽と将士の家族を慰撫し、民家の笠で鎧を覆った同郷の兵を涙して斬った。老人を見舞わせ、府庫は封印して権を待った。関羽の使者に城中を巡らせると、還った者は家が無事だと知り、士も吏も戦う気を失った。関羽は麥城へ走り、漳鄉で兵衆に捨てられ、朱然・潘璋に道を断たれて父子ともに捕えられ、荊州は平定された。

蒙は南郡太守・孱陵侯となった。病むと権は内殿に置いて看護を尽くしたが、年四十二で卒した。自分を上申した蔡遺を恨まず豫章太守の後任に薦め、粗暴な甘寧も庇って、権は厚く遇しその働きを得た。

孫権は、公瑾は孟徳を破って荊州を開拓し魯肅を招き寄せた、魯肅は降伏論に反駁したと言い、子明は長じて籌略が公瑾に次ぎ、関羽を図り取ったのは魯肅に勝ると評した。

孫子はいう、敵を料って勝を制す、因間は郷人を用う、備えなきを攻む、法令は孰れか行わる、と。蒙が険路を断って馬を得、鄧元之で郝普を降し、南郡を襲い、同郷の者を斬ったのがこれ。

原文(底本)
呂蒙,字子明,汝南富陂人也。少南渡,依姊夫鄧當。當為孫策將,數討山越。蒙年十五六,竊隨當擊賊,當顧見大驚,呵叱不能禁止。歸以告蒙母,母恚欲罰之,蒙曰:"貧賤難可居,脫誤有功,富貴可致。且不探虎穴,安得虎子?"母哀而舍之。當職吏以蒙年小輕之,曰:"彼孺子何能為?此欲以肉餵虎耳。"他日與蒙會,又笞辱之。蒙大怒,引刀殺吏,出走。後策召見,奇之,引置左右。數歲,鄧當死,張昭薦蒙代當,拜別部司馬。權統事,料諸小將兵少而用薄者,欲併合之。蒙陰賒貰,為兵作絳衣行滕。及簡日,陳列赫然,兵人練習。權見之大悅,增其兵。從征黃祖,祖令都督陳就逆以水軍出戰。蒙勒前鋒,親梟就首,將士乘勝,進攻其城。祖聞就死,委城走,兵追禽之。權曰:"事之克,由陳就先獲也。"以蒙為橫野中郎將。益州將襲肅舉軍來附,周瑜表以肅兵益蒙。蒙盛稱肅有膽勇,且慕化遠來,於義宜益不宜奪也。權善其言,還肅兵。瑜使甘寧前據夷陵,曹仁分眾圍寧。寧困急,使使請救。蒙說瑜分遣三百人柴斷險道,賊走可得其馬。瑜從之。軍到夷陵,即日交戰,所殺過半。敵夜遁去,行遇柴道,騎皆舍馬步走。兵追蹙擊,獲馬三百匹,方船載還。於是將士形勢自倍,乃渡江立屯,與相攻擊,曹仁退走。遂據南郡,撫定荊州。魯肅代周瑜,當之陸口,過蒙屯下。肅意尚輕蒙,或說肅曰:"呂將軍功名日顯,不可以故意待也。君宜顧之。"遂往詣蒙。酒酣,蒙問肅曰:"君受重任,與關羽為鄰,將何計略,以備不虞?"肅造次應曰:"臨時施宜。"蒙曰:"今東西雖為一家,而關羽實熊虎也,計安可不豫定?"因為肅畫五策。肅於是越席就之,拊其背曰:"呂子明,吾不知卿才略所及乃至於此也。"遂拜蒙母,結友而別。時蒙與成當、宋定、徐顧屯次比近,三將死,子弟幼弱,權悉以兵並蒙。蒙固辭,陳啟顧等皆勤勞國事,子弟雖小,不可廢也。書三上,權乃聽。蒙於是又為擇師,使輔導之,其操心率如此。後權拒曹公於濡須,數進奇計,又勸權夾水口立塢,所以備御甚精,曹公不能下而退。曹公遣朱光為廬江太守,屯皖,大開稻田,又令間人招誘鄱陽賊帥,使作內應。蒙曰:"皖田肥美,若一收熟,彼眾必增,如是數歲,操態見矣,宜早除之。"乃具陳其狀。於是權親征皖,引見諸將問以計策。蒙乃薦甘寧為升城督,督攻在前,蒙以精銳繼之。侵晨進攻,蒙手執桴鼓,士卒皆騰踴自升,食時破之。既而張遼至夾石,聞城已拔,乃退。權加其功,即拜廬江太守,所得人馬皆分與之。廬陵賊起,諸將討擊,不能禽。權曰:"鷙鳥累百,不如一鶚。"復令蒙討之。蒙至,誅其首惡,余皆釋放,復為平民。是時,劉備令關羽鎮守,專有荊土。權命蒙西取長沙、零、桂三郡。蒙移書二郡,望風歸服,惟零陵太守郝普城守不降。而備自蜀親至公安,遣羽爭三郡。權時住陸口,使魯肅萬人屯益陽拒羽,而飛書召蒙,使舍零陵,急還助肅。初,蒙既定長沙,當之零陵,過酃,載南陽鄧元之。元之者,郝普之舊也,欲令誘普。及被書當還,蒙秘之,夜召諸將,授以方略,晨當攻城,顧謂元之曰:"郝子太聞世間有忠義事,亦欲為之,而不知時也。左將軍在漢中,為夏侯淵所圍。關羽在南郡,今至尊身自臨之。近者破樊本屯,救酃,逆為孫規所破。此皆目前之事,君所親見也。彼方首尾倒垂,救死不給,豈有餘力復營此哉!今吾士卒精銳,人思致命,至尊遣兵,相繼於道。今子以旦夕之命,待不可望之救,猶牛蹄中魚,冀賴江漢,其不可恃亦明矣。若子太必能一士卒之心,保孤城之守,尚能稽延日夕,以待所歸者,可也。今吾計力度慮,而以攻此,曾不移日,而城必破。城破之後,身死何益於事。而今百歲老母,戴白受誅,豈不痛哉?度此家不得外問,謂援可恃,故至於此耳。君可見之,為陳禍福。"元之見普,具宣蒙意,普懼而聽之。元之先出報蒙,普尋後當至。蒙豫敕四將,各選百人,普出,便入守城門。須臾普出,蒙迎執其手,與俱下船。語畢,出書示之,因拊手大笑。普見書,知備在公安,而羽在益陽,慚恨入地。蒙留孫河,委以後事,即日引軍赴益陽。後曹公又大出濡須,權以蒙為督,據前所立塢,置強弩萬張於其上,以拒曹公。曹公前鋒屯未就,蒙攻破之。魯肅卒,蒙西屯陸口,肅軍人馬萬餘盡以屬蒙,又拜漢昌太守,與關羽分土接境。知羽驍雄,有並兼心,且居國上流,其勢難久。初,魯肅等以為曹公尚存,禍難始構,宜相輔協,與之同仇,不可失也。蒙乃密陳計策曰:"今征虜守南郡,潘璋住白帝,蔣欽將游兵萬人,循江上下,應敵所在,蒙為國家前據襄陽,如此,何憂於操,何賴於羽?且羽君臣,矜其詐力,所在反覆,不可以腹心待也。今羽所以未便東向者,以至尊聖明,蒙等尚存也。今不於強壯時圖之,一旦僵仆,欲復陳力,其可得邪?"權深納其策。初至陸口,外倍修恩厚,與羽結好。後羽討樊,留兵將備公安、南郡。蒙上疏曰:"羽討樊而多留備兵,必恐蒙圖其後故也。蒙常有病,乞分士眾還建業,以治病為名。羽聞之,必撤備兵,盡赴襄陽。大軍浮江,晝夜馳上,襲其空虛,則南郡可下,而羽可禽也。"遂稱病篤,權乃露檄召蒙還,陰與圖計。羽果信之,稍撤兵以赴樊。魏使于禁救樊,羽盡禽禁等,人馬數萬,托以糧乏,擅取湘關米。權聞之,遂行,先遣蒙在前。蒙至尋陽,盡伏其精兵舳艫中,使白衣搖櫓,作商賈人服,晝夜兼行,至羽所置江邊屯候,盡收縛之,是故羽不聞知。遂到南郡,士仁、糜芳皆降。蒙入據城,盡得羽及將士家屬,皆撫慰,約令軍中不得干歷人家,有所求取。蒙麾下士,是汝南人,取民家一笠,以覆官鎧。官鎧雖公,蒙猶以為犯軍令,不可以鄉里故而廢法,遂垂涕斬之。於是軍中震慄,道不拾遺。蒙旦幕使親近存恤耆老,問所不足,疾病者給醫藥,饑寒者賜衣糧。羽府藏財寶,皆封閉以待權至。羽還,在道路,數使人與蒙相問,蒙輒厚遇其使,週遊城中,家家致問,或手書示信。羽人還,私相參訊,咸知家門無恙,見待過於平時,故吏士無斗心。會權尋至,羽自知孤窮,乃走麥城,西至漳鄉,眾皆委羽而降。權使朱然、潘璋斷其徑路,即父子俱獲,荊州遂定。以蒙為南郡太守,封孱陵侯。蒙疾,權時在公安,迎置內殿,所以治護者萬方。年四十二,遂卒。蒙常以部曲事為江夏太守蔡遺所白,蒙無恨意。及豫章太守顧邵卒,權問所用,蒙因薦遺奉職佳吏,權笑曰:"君欲為祁奚邪?"於是用之。甘寧粗暴好殺,既常失蒙意,又時違權令,權怒之。蒙曰:"將如寧難得,宜容忍之。"權遂厚寧,卒得其用。孫權與陸遜論周瑜、魯肅及蒙曰:"公瑾雄烈,膽略兼人,遂破孟德,開拓荊州,邈焉難繼,君今繼之。公瑾昔要魯肅來東,致達於孤,孤與宴語,便及大略帝王之業,此一快也。後孟德因獲劉琮,張言方率數十萬眾水步俱下。孤請諸將,問所宜,俱言宜遣使迎之。肅即駁言不可,勸孤急呼公瑾,付任以眾,逆而擊之,此二快也。且其決計策意,出張、蘇遠矣。後雖勸吾借玄德地,是其一短,不足以損其二長也。周公不求備於一人,故孤忘其短而貴其長,常以比方鄧禹也。又子明少時,孤謂不辭劇易,果敢有膽而已。及長,學問開益,籌略奇至,可以次於公瑾,但言議英發不及之耳。圖取關羽,勝於魯肅。肅答孤書云:帝王之起,皆有驅除,羽不足忌。此肅內不能辨,外為大言耳。孤亦恕之,不苟責也。"

孫子曰:"料敵制勝,計險厄遠近。"蒙料賊必遁而柴險得馬。又曰:"因間者,因其鄉人而用之。"蒙因鄧元之而降郝普。又曰:"攻其無備。"蒙令關羽撤兵而襲南郡。又曰:"法令孰行?"蒙鄉人盜笠而斬之是也。