十七史百將傳巻九 唐 裴行倹(守約)
現代語訳
Kindle版『現代語訳 十七史百將傳 2 巻六〜巻十』(全2巻の第2巻)として出版する予定です。
要約
裴行儉は字を守約、絳州聞喜の人。蘇定方はその用兵の術をことごとく与えた。
儀鳳二年、阿史那都支らが安西を動揺させ吐蕃と和を結ぶと、行儉は、泥涅師を波斯王に立てる使者の路は二つの蕃を通ると議して使いとなった。
莫賀延磧で道を失うと祭り水泉は遠くないと令し、果たして水草の地に出た。西州では秋を待つと言いふらして都支を油断させ、狩りと偽って子弟一万人を部伍に編成し、道を倍して進んで閑暇を装い、急ぎ召された都支はあわてて営に詣でたところを擒にされた。襲われた李遮匐も都支の擒を告げられて降り、帝は文武兼備だとして禮部尚書兼右衛大將軍とした。
調露元年、阿史德溫傅が反いて衆は数十万となり、行儉は定襄道行軍大總管として三十余万を統率した。糧が掠め取られていたので偽の糧車に壮士を伏せ、車を掠めて鞍を解いた虜を殺し尽くすと、近づく者は絶えた。單于の北では営を高い岡へ移させ、夜の風雨で先の営地は水深一丈余りとなり、なぜ分かったのかと問う衆には、私の指図のとおりにせよとだけ言った。賊は黑山で敗れ続け、泥熟匐は配下に殺された。
行儉が帰ると阿史那伏念が可汗を称して溫傅と合し、翌年、反間を放って互いに疑わせ、伏念は溫傅を縛って自ら効したいと請うた。南へ煙塵が向かうと、伏念が溫傅を捕らえて降って来たのだと言って備えさせ、果たしてそのとおりであった。行儉は死なせぬと許していたが、裴炎が功を嫉んで建言し、二人は都の市で斬られ、行儉の功も録されなかった。降った者を殺せば降る者がなくなると嘆じ、病と称して出仕せず、永淳元年に卒した。
行儉は勝つ日を言い当て、程務挺・黑齒常之ら名将を引き立て、鞍を壊した令史も盤を砕いた軍吏も罪に問わず、賜った金の器も麾下に分け与えた。
孫子はいう、用いて用いざるを示す、利に因り権を制す、告ぐるに言をもってするなかれ、事は間より密なるはなし、と。閑暇を装い、糧車に兵を伏せ、営を移す故を告げず、反間で溫傅を縛らせたのがこれである。
年表
字は守約、絳州聞喜の人(裴行儉)。貞観年間に明經で挙げられて左屯衛倉曹參軍となり、大將軍の蘇定方からその用兵の術をことごとく授けられた。波斯王を冊立して送る名目で西域に入り、狩りに託して兵を集め、十姓可汗の阿史那都支と李遮匐を兵に血を塗らずして擒にし、禮部尚書兼右衛大將軍に拜せられた。定襄道行軍大總管として突厥の阿史德溫傅を討ち、偽の糧車に伏兵を置く計で虜を破り、黑山に戦って残党を追った。のち阿史那伏念の降伏を受けたが、裴炎に功を嫉まれて降人は斬られ、功は録されず、病と称して出仕しなくなった。陰陽・暦術に通じ、人を見る眼から多くの名将を世に出した。
年表(3件)
- 西暦677年 儀鳳二年阿史那都支・李遮匐が安西を動揺させたため、波斯王冊立の使者に名を借りて西へ向かうよう詔される
- 西暦679年 調露元年突厥の阿史德溫傅が反き、定襄道行軍大總管として三十余万を統べてこれを討つ
- 西暦682年 永淳元年卒する
原文(底本)
裴行儉,字守約,絳州聞喜人。貞觀中,舉明經,調左屯衛倉曹參軍。時蘇定方為大將軍,謂曰:「吾用兵,世無可教者,今子也賢。」乃盡畀以術。儀鳳二年,十姓可汗阿史那都支及李遮匐誘蕃落以動安西,與吐蕃連和,朝廷欲討之。行儉議曰:「吐蕃叛援方熾,敬玄失律,審禮喪元,安可更為西方生事?今波斯王死,其子泥涅師質京師,有如遣使立之,即路出二蕃,若權以制事,可不勞而成功也。」帝因詔行儉冊送波斯王,且為安撫大食使。經莫賀延磧,風礫晝冥,導者迷,將士飢乏。行儉止營,致祭,令曰:「水泉非遠。」眾少安。俄而雲徹風恬,行數百步,水草豐美,後來者莫識其處。眾皆驚,以方漢貳師將軍。至西州,諸蕃郊迎,行儉召豪傑千餘人自隨。揚言:「大熱,未可以進,宜駐軍須秋。」都支覘知之,不設備。行儉徐召四鎮酋長,偽約畋,謂曰:「吾念此樂未始忘,孰能從吾獵者?」於是子弟願從者萬人,乃陰勒部伍。數日,倍道而進,去都支帳十餘裡,先遣其所親問安否,外若閒暇,非討襲者。又使人趣召都支。都支本與遮匐計,及秋拒使者,已而聞軍至,倉卒不知所出,率子弟五百餘人詣營謁,遂禽之。是日,傳契箭,召諸部酋長悉來請命,並執送碎葉城。簡精騎,約齎,襲遮匐。道獲遮匐使者,釋之,俾前往諭其主,並言都支已禽狀,遮匐乃降,悉俘至京師。將吏為刻石碎葉城以紀功。帝親勞宴,曰:「行儉提孤軍深入萬里,兵不血刃,而叛黨禽夷,可謂文武兼備矣,其兼授二職。」即拜禮部尚書兼右衛大將軍。調露元年,突厥阿史德溫傅反,單于管二十四州叛應之,眾數十萬。都護蕭嗣業討賊不克,死敗系踵。詔行儉為定襄道行軍大總管討之。率大僕少卿李思文、營州都督周道務部兵十八萬,合西軍程務挺、東軍李文暕等,總三十餘萬,旗幟亙千里行,儉咸節制之。先是,嗣業饋糧,數為虜鈔,軍餒死。行儉曰:「以謀制敵可也。」因詐為糧車三百乘,車伏壯士五輩,齎陌刀、勁弩,以羸兵挽進,又伏精兵踵其後。虜果掠車,羸兵走險。賊驅就水草,解鞍牧馬。方取糧車中,而壯士突出,伏兵至,殺獲幾盡,自是糧車無敢近者。大軍次單于北,暮,已立營,塹壕既周,行儉更命徙營高岡。吏白:「士安堵,不可擾。」不聽,促徙之。比夜,風雨暴至,前立營所,水深丈餘,眾莫不駭嗟,問何以知之,行儉曰:「自今第如我節制,毋問我所以知也。」賊據黑山,數戰皆敗,行儉縱兵,前後殺虜不可勝計。偽可汗泥熟匐為其下所殺,持首來降,又禽大首領奉職而還,餘黨走狼山。行儉既還,阿史那伏念偽稱可汗,復與溫傅合。明年,行儉還總諸軍,頓代州之陘口,縱反間,說伏念,令與溫傅相貳。伏念懼,密送款,且請縛溫傅自效。行儉秘不布,密以聞。後數日,煙塵漲天而南,斥候惶駭,行儉曰:「此伏念執溫傅來降,非他也。且受降如受敵。」乃敕嚴備,遣單使往勞。既而果然。於是,突厥餘黨悉平。帝悅,遣戶部尚書崔知悌勞軍。初,行儉許伏念以不死,侍中裴炎害其功,建言:「伏念為程務挺脅逐,又磧北迴紇逼之,計窮而降。」卒斬伏念及溫傅於都市,行儉之功不錄。行儉歎曰:「渾、濬之事,古今恥之。但恐殺降則後無復來矣!」遂稱疾不出。永淳元年,卒。行儉通陰陽、歷術,每戰,豫道勝日。善知人,所引偏裨,若程務挺、崔智睟、王方翼、黨金毗、郭大封、李多祚、黑齒常之,類為世名將,傔奏至剌史將軍者數十人。嘗賜馬及珍鞍,令史私馳馬,馬蹶鞍壞,懼而逃。行儉招還之,不加罪。初,平都支、遮匐,獲環寶不貲,藩酋將士願觀焉,行儉因宴,遍出示坐者。有瑪瑙盤廣二尺,文彩粲然,軍吏趨跌盤碎,惶怖,叩頭流血。行儉笑曰:「爾非故也,何至是?」色不少吝。帝賜都支資產皿金三千餘物,橐駝馬牛稱是,行儉分給親故洎麾下,數日輒盡。 孫子曰:「用而示之不用。」行儉實欲襲都支,而偽示以閒暇。又曰:「因利而制權。」行儉因敵鈔掠而伏兵糧車。又曰:「犯之以事,勿告以言。」行儉不告士卒以徙營之由。又曰:「事莫密於間。」行儉縱反間而縛溫傅是也。