十七史百將傳巻十 唐 郭子儀

現代語訳

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要約

郭子儀は華州の鄭の人。武挙に及第し、累進して単于副都護となった。

天寶十四載、安禄山が反くと朔方節度使として東へ討たせられ、光弼と合して史思明を藁城に破った。賊はわれを侮る、侮れば心が固まらぬ、戦えば克てると言い、歩将一人を戮すと士は死をかけて闘った。昼は兵を揚げ夜は塁を搗いて息をつかせず、嘉山で斬首四万級。哥舒翰が敗れ太子が霊武で即位し軍を還らせた。

廣平王に従い十五万で長安を回復する際、李歸仁の勁騎に官軍が騒ぐと嗣業が長刀で突出し、回紇が背へまわり挟み撃ちにして斬首六万級。王が京師に入ると老幼はふたたび官軍を見ようとは思わなかったと叫んだ。新店でも嗣業が回紇を率いて撃つと賊は大敗し東都も回復され、帝は国家が再び造られたのはそなたの力だと労った。

乾元元年、中書令に進んだ。九節度の師で慶緒を討たせたが、子儀と光弼は統べ難く帥を立てなかった。子儀は衛州で射の巧みな三千を壁内に伏せ、偽り遁げて賊が営に迫ると射そそぎ、斬首四万で回復した。相州では漳水を灌いだが破れず、城中は人が人を食い、大風で先も見えぬと王師は潰えた。統べる者なく功を責める所が定まらず敗れた。魚朝恩の讒言で帝は子儀に代え光弼に朔方兵を領させたが、恨みはなかった。

光弼が邙山で敗れるに及び、子儀は天下兵馬副元帥・汾陽郡王として絳州に屯した。不予の帝に、お目にかからねば目を瞑れぬと請うと、帝は臥所へ引き入れ河東の事は委ねると言った。代宗が立つと程元振の離間で副元帥を罷められ、肅宗の詔勅千余篇を奉って明らかにした。

廣德二年、僕固懷恩が吐蕃・回紇らを誘って侵入すると、子儀は奉天に屯し、帝の問いに、懷恩は士の心を失い、彼らはみな臣の旧部曲だ、忍んで刃を向けようかと答えた。戦えと言う者は斬ると令して壁を堅くすると、賊は遁げた。

永泰元年、懷恩が吐蕃・回紇ら三十万を説きつけて京師は震え、子儀は一万で涇陽に屯したが虜の囲みは合わさっていた。回紇は郭令公と聞き、懷恩は令公も天可汗も世を去ったと言うゆえ従って来た、欺かれたと悟った。子儀は旧交を棄てて叛臣を助けるとは愚かだと諭させ、至誠を示そうと数十騎で出て冑を脱ぐと、回紇は兵を捨て馬を下りて拝し、まことにわが父上だと言った。好みを誓うと、懷恩の急死もあり虜は承諾、吐蕃は引き去り、子儀は吐蕃十万を西原に破った。

大曆元年、周智光の叛謀に帝は蠟書を賜って討たせ、同州・華州の将吏が智光を殺した。回紇が馬一万匹の交易を請い有司が千匹だけ買うと、子儀は俸禄を納めてもその意に答えよと言い、人々はその忠を認めた。帝には、吐蕃の勢いは十倍を超え臣の士は賊の四分の一にも当たらぬ、選抜と訓練が行き届かぬのだ、精卒五万を北辺に屯させれば勝ちを制し、大鎮の兵を関中へ赴かせれば全うできると上書した。德宗が立つと尚父の号を賜わり、年八十五で薨じた。

子儀は上に誠、下に恕、賞罰に信があり、詔旨あればその日に道に就いたので、讒言や離間は行われなかった。魚朝恩が父の墓を発いても天の譴めだと号泣し、害意を告げられても家僮十数人で赴いたので、魚朝恩は公が長者でなければ疑いを招いたろうと泣いた。田承嗣も西に望んで今公のために拝するのだと言った。宿将数十人を部曲のごとく進退させ、幕府の六十余人は将相となった。光弼と名を斉しくしたが寛厚で人を得ては勝り、天下の安危を担って二十年であった。

孫子はいう、逸なれば労せしめよ、利をもって動かし卒をもって待つ、三軍が疑い惑えば諸侯の難が至る、強ければ避ける、敵衆くとも闘うこと無からしむべし、と。昼に兵を揚げ夜に塁を搗き、兵を伏せて偽り遁げ、功を責める所が定まらず敗れ、壁を堅くして待ち、至誠を示して回紇が感服したのがこれである。

年表

華州鄭の人、字も子儀。武挙に異等で及第して世に出た唐中興の元勲である。安史の乱では朔方節度使として河北に転戦し、廣平王に従って長安・洛陽の両京を回復した。相州の敗戦と魚朝恩らの讒言で一度は退けられたが、吐蕃・回紇の入寇のたびに起用され、涇陽では単騎で回紇の大酋に会って和を結んだ。李光弼と名を斉しくしつつ、寛厚で人を得ることでは勝り、二十年にわたり天下の安危を身に担った。

年表(7件)
原文(底本)
郭子儀,字子儀,華州鄭人。長七尺二寸,以武舉異等累遷單于副都護。天寶十四載,安祿山反,詔子儀充朔方節度使,率本軍東討,與李光弼合破賊史思明眾數萬於藁城。南攻趙郡,禽賊四千,還常山。思明以眾數萬尾軍,及行唐,子儀選騎五百更出挑之。三日,賊引去,乘之,又破於沙河,遂趨恆陽以守。祿山益出精兵佐思明。子儀曰:"彼恃加兵,必易我;易我,心不固,戰則克矣。"與戰未決,戮一步將以徇,士殊死鬥,遂破之,斬首二千級,俘五百人,獲馬如之。於是晝揚兵,夜搗壘,賊不得息,氣益老。乃與光弼、僕固懷恩、渾釋之、陳回光等擊賊嘉山,斬首四萬級,獲人馬萬計。思明圖范跳奔博陵。於是河北諸郡往往斬賊首,迎王師。方北范陽,會哥舒翰敗,天子入蜀,太子即位靈武,詔班師。子儀與光弼率步騎五萬赴行在。拜子儀同中書門下平章事,仍總節度。肅宗大閱六軍,鼓而南,至彭原。宰相房琯自請討賊,次陳濤,師敗,眾略盡,故帝唯倚朔方軍為根本。俄從元帥廣平王率蕃、漢兵十五萬收長安。李嗣業為前軍,元帥為中軍,子儀副之,王思禮為後軍,陣香積寺之北,距澧水,臨大川,彌亘一舍。賊李歸仁領勁騎薄戰,官軍囂,嗣業以長刀突出,斬賊數十騎,乃定。回紇以騎兵繚賊背,夾攻之,斬首六萬級。賊帥張通儒夜亡陝郡。翌日,王入京師,老幼夾道呼曰:"不圖今日復見官軍!"王休士三日,遂東。安慶緒聞王師至,遣嚴莊悉眾十萬屯陝,助通儒,旌幟鉦鼓徑百餘里。師至新店,賊已陣,出輕騎,子儀遣二隊逐之,又至,倍以往,皆不及賊營輒反。最後,賊以二百騎掩軍,未戰走,子儀悉軍追,橫貫其營。賊張兩翼包之,官軍卻。嗣業率回紇從後擊,塵且坌,飛矢射賊,賊驚曰:"回紇至矣!"遂大敗,殭屍相屬於道。嚴莊等走洛陽,挾慶緒渡河保相州,遂收東都。於是河東、河西、河南州縣悉平。入朝,帝遣具軍容迎灞上,勞之曰:"國家再造,卿力也。"乾元元年,破賊河上,執安守忠以獻。還朝,進中書令。帝即命大舉九節度師討慶緒,以子儀、光弼皆元功,難相臨攝,第用魚朝恩為觀軍容宣慰使,而不立帥。子儀自杏園濟河,圍衛州。慶緒分其眾為三軍。將戰,子儀選善射三千士伏壁內,誡曰:"須吾卻,賊必乘壘,若等噪而射。"既戰,偽遁,賊薄營,伏發,注射如雨。賊震駭,王師整而奮,斬首四萬,執安慶和,收衛州。連營進圍相州,引漳水灌城,漫二時,不能破。城中糧盡,人相食。慶緒求救於史思明,思明自魏來,李光弼前軍遇之,戰鄴南,勝負相當。子儀督後軍,未及戰。會大風拔木,遂晦,跬步不能相物色,於是王師南潰,賊亦走,輜械滿野。時王師眾而無統,進退相顧望,責功不專,是以及於敗。魚朝恩素疾其功,因是媒譖之,故帝以李光弼代子儀領朔方兵。子儀雖失軍,無少望,乃心朝廷。議者謂子儀有社稷功,而孽寇首鼠,乃置散地,非所宜。帝亦悟。及光弼敗邙山,失河陽,河中亂,殺李國貞,太原戕鄧景山。朝廷憂二軍與賊合,而少年新將望輕不可用,遂以子儀為天下兵馬副元帥,進封汾陽郡王,屯絳州。時帝已不豫,群臣莫有見者,子儀請曰:"老臣受命,將死於外,不見陛下,目不瞑。"帝引至臥內,謂曰:"河東事一以委卿。"子儀嗚咽流涕。至屯,誅首惡數十人,太原辛雲京亦治害景山者。代宗立,程元振自謂於帝有功,忌宿將難制,離構百計,因罷子儀副元帥。子儀懼讒且成,盡裒肅宗所賜詔敕千餘篇上言之,因自明。詔曰:"朕不德,貽大臣憂,朕甚自愧,自今公毋有疑。"廣德二年,僕固懷恩誘吐蕃、回紇、党項數十萬入寇,朝廷大恐,詔子儀屯奉天。帝問計所出,對曰:"無能為也。懷恩本臣偏將,雖剽果,然素失士心。今能為亂者,因思歸之人,劫與俱來,且皆臣故部曲,素以恩信結之,彼忍以刃相向乎?"帝曰:"善。"虜寇州,先驅至奉天,諸將請擊之。子儀曰:"客深入,利速戰。彼下素德我,吾緩之,當自攜貳。"因下令:"敢言戰者斬!"堅壁待之,賊果遁。子儀至,進拜尚書令。永泰元年,懷恩盡說吐蕃、回紇、党項、羌、渾、奴剌等三十萬,掠涇、邠,躪風翔,入醴泉、奉天,京師大震。於是帝命李忠臣屯渭橋,李光弼屯雲陽,馬璘、郝廷玉屯便橋,駱奉先、李日越屯厔盩,李抱玉屯風翔,周智光屯同州,杜冕屯坊州,天子自將屯宛中。急召子儀屯涇陽,軍才萬人。比到,虜騎圍已合,乃使李國臣、高升、魏楚玉、陳回光、朱元琮各當一面,身自率鎧騎二千出入陣中。回紇怪問:"是謂誰?"報曰:"郭令公。"驚曰:"令公存乎?懷恩言天可汗棄天下,令公即世,中國無主,故我從以來。令公存,天可汗存乎?"報曰:"天子萬壽。"回紇悟曰:"彼欺我乎!"子儀使諭虜曰:"昔回紇涉萬里,戡大憝,助復二京,我與若等休戚同之。今乃棄舊好,助叛臣,一何愚!彼背主棄親,於回紇何有?"回紇曰:"本謂公雲亡,不然,何以至此。今誠存,我得見乎?"子儀將出,左右諫:"戎狄野心,不可信。"子儀曰:"虜眾數十倍,今力不敵,吾將示以至誠。"左右請以騎五百從,又不聽。即傳呼曰:"令公來!"虜皆持滿待。子儀以數十騎出,免胄見其大酋曰:"諸君同艱難久矣,何忍忘忠誼而至是耶?"回紇舍兵下馬拜曰:"果吾父也。"子儀即召與飲,遺錦彩結歡誓好如初。因曰:"吐蕃本吾舅甥國,無負而來,棄親也。馬牛被數百里,公等若倒戈乘之,若俯取一芥,是謂天賜,不可失。且逐成得利,與我繼好,不兩善乎?"會懷恩暴死,群虜無所統一,遂許諾。吐蕃疑之,夜引去。子儀遣將白元光合回紇眾追躡,大軍繼之,破吐蕃十萬於靈武西原。大曆元年,赤心節度使周智光謀叛,帝間道以蠟書賜子儀,令率軍討之。同、華將吏聞軍起,殺智光,傳首闕下。回紇赤心請市馬萬匹,有司以財乏,止市千匹。子儀曰:"回紇有大功,宜答其意,中原須馬,臣請內一歲奉,佐馬直。"詔不聽,人許其忠。帝嘗與語吐蕃方強,慷慨至流涕。退,上書曰:"朔方,國北門,西御犬戎,北虞獫狁,五城相去三千里。開元、天寶中,戰士十萬,馬三萬匹,僅支一隅。自先帝受命靈武,戰士從陛下征討無寧歲。頃以懷恩亂,痍傷雕耗,亡三分之二,比天寶中止十之一。今吐蕃兼吞河、隴,雜羌、渾之眾,歲深入畿郊,勢逾十倍,與之角勝,豈易得耶?屬者虜來,稱四節度,將別萬人,人兼數馬。臣所統士不當賊四之一,馬不當賊百之二,外畏內懼,將何以安?臣惟陛下制勝,力非不足,但簡練不至,進退未一,時淹師老,志廣勢分。願於諸道料精卒滿五萬者,列屯北邊,則制勝可必。竊惟河南、河北、江淮大鎮數萬,小者數千,殫屈廩給,未始搜擇。臣請追赴關中,勒步隊,示金鼓,則攻必破,守必全,長久之策也。"德宗嗣位,賜號:"尚父"。薨,年八十五。子儀事上誠,御下恕,賞罰必信。遭幸臣程元振、魚朝恩短毀,方時多虞,握兵處外,然詔旨,即日就道,無纖芥顧望,故讒間不行。破吐蕃靈州,而朝恩使人發其父墓,盜未得。子儀自涇陽來朝,中外懼有變,及入見,帝唁之,即號泣曰:"臣久主兵,不能禁士殘人之墓,人今發先人墓,此天譴,非人患也。"朝恩又嘗約子儀修具,元載使人告以軍容將不利公。其下衷甲願從,子儀不聽,但以家僮十數往。朝恩曰:"何車騎之寡?"告以所聞。朝恩泣曰:"非公長者,得無致疑乎?"田承嗣傲狠不軌,子儀嘗遣使至魏,承嗣西望拜,指其膝謂使者曰:"茲膝不屈於人久矣,今為公拜。"麾下宿將數十,皆王侯貴重,子儀頤指進退,若部曲然。幕府六十餘人,後皆為將相顯官,其取士得材類如此。與李光弼齊名,而寬厚得人過之。代宗不名,呼為大臣。以身為天下安危者二十年。

孫子曰:"逸而勞之。"子儀揚兵搗壘而賊不得息。又曰:"以利動之,以卒待之。"子儀伏卒壁內而為遁。又曰:"三軍既疑且惑,則諸侯之難至矣。"子儀與光弼責功不專而及於敗。又曰:"強而避之。"子儀謂賊利速戰,而堅壁待之。又曰:"敵雖眾,可使無斗。"子儀示以至誠而回紇感服是也。
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