三藩紀事本末馬・阮の奸悪(馬、阮之奸)
現代語訳
Kindle版・ペーパーバックとして出版する予定です。
要約
順治元年五月、福王が僭立すると馬士英は東閣大学士に進んだが、なお鳳陽を督させられたので怒り、劉澤清・高傑に上疏させて史可法を淮揚の督師に趣かせ、可法が出ると自ら入閣して兵部を掌った。吏部尚書の張慎言も、大鋮起用の妨げとして劉孔昭らに攻めさせ罷めさせた。
士英は逆案の阮大鋮を兵を知る者として薦め、陛見させた。高弘図が九卿の会議に下すよう請うと、士英は会議すれば用いられまいと言った。郭維経は先帝の手に成った案を抹殺すべきでないと言い、劉宗周・呂大器らも力めて争ったが、月余にして中旨で兵部添注右侍郎に授けられた。
黄澍は入賀の席で士英の奸貪不法を面と向かって糾し、賄を受けた罪は斬に当たると言って笏でその背を打った。士英は内閹に賄い、士英でなければ王は立てられなかったと言わせ、王は留めるよう諭した。澍は十疏を連ねたが聞かれず、楚へ還るよう諭された。
十月、逆案の楊維垣を通政使とした。朱統𨰥が姜曰広を糾弾し、袁彭年・劉士楨の反論も聞かれず、呂大器は暇を賜って去り、曰広は降調された。祁彪佳が三大弊を論じ、閣臣の票擬は革禁としたが発改となり、高弘図は正論をこう容れぬのかと言って切責され去った。内伝をもって張捷を吏部尚書とした。
士英は翼戴の恩で太子太師に進み、累進して太保に至った。大鋮は世仇の左光先を陥れ、その功を弁じた祁彪佳を士英とともに恨んで罪した。越其傑は士英の妹婿ゆえに東萊巡撫に起用され、献賊に降った劉僑も賄によって元官に復した。
士英は銀を納めさせて童生を院試に赴かせ、納貢・助工の例も行ったので、民間に「江南の金を掃い尽くして、馬家の口を填塞する」との謡があった。何光顕が士英を誅せよと上疏すると、詔して光顕を市に戮し、その家を籍没した。黄澍を弾劾した朱盛濃は抜擢され、澍は左良玉の軍中に匿れ、良玉はこれによって隙を生じた。
乙酉二月、阮大鋮を兵部尚書として蟒服を賜った。大鋮は江防を一切問わず、親しい者を要路に布列させ、別に私人二十余人を抜擢して給事・御史とした。白丁や隷卒でも賄が至れば大帥に躋ったので、「職方は物のごとく賤しく、都督は街に満ちて走る」との謡があった。
楊維垣が左副都御史となると、大鋮は報復に務め、維垣・張孫振と謀って東林・復社の諸人を尽く殺そうとし、狂僧の大悲が詔獄に下されると、潞王擁立を諸人に謀らせたことにして一網打尽にしようと、十八羅漢・五十三参の目を造って大悲の袖中に納めた。大獄は上流の告急でたまたま止んだ。また周鑣・雷演祚を従逆案に連座させるべきだと奏して殺した。四月朔、印文から「南京」の二字を去らせた。
初四日、左良玉は兵を挙げて東下し、疏を馳せて士英の罪を数えた。売官鬻爵し、首輔でありながら兵柄を握って大鋮と重兵を操り簒弑を謀り、三案に事寄せて士民を解体させ、七年の嗣君を幽囚に付したのは、いずれも死に容れられぬ罪であるとし、士英を市朝に肆されたいと求めた。
士英は懼れて入直せず、朱大典・阮大鋮・黄得功らに左の兵を禦がせた。大軍はすでに徐州を徇め亳州・泗州を下し、可法は血疏して急を告げた。王が淮揚を守るべきだと諭しても、士英は良玉の死党の遊説だとして聞かず、異議ある者は斬ると言い、王は黙然とした。ほどなく良玉が死に、左夢庚は采石で敗れ、功を論じて大鋮は太子太保に晋んだ。
五月、清軍が長江を渡って江寧を囲むと王は蕪湖に奔り、士英は大鋮とともに太妃を奉じて浙江に走った。広徳州の知州趙景和が詐りだと門を閉じて拒むと、攻め破って殺した。紹興では王思任が上疏し、士英は疆場の重責を史可法に卸してその成功を忌んだとして、その首を斬られたいと言った。杭州が破れると士英は銭塘に走り、清軍に追われて五百級を斬られた。
魯王が紹興で監国となると、張国維は真っ先に士英の誤国十大罪を弾劾した。士英は懼れて朝に入らず方国安に厳州で依り、大鋮は金華で朱大典に身を投じたが士民に逐われて国安のもとに送られた。清軍は士英・国安の兵を余姚・富陽で破り、士英が杭州を窺うとまた大敗した。
丙戌六月、清軍が銭塘江を渡ると、士英・国安は魯王を劫して献じようとしたが王は脱れ去り、大鋮は謝三賓らとともに降った。唐王が福州で僭立すると士英は入関を求めたが、罪が大きいとして許されなかった。八月、清軍は湖賊の呉易を討ち、あわせて士英を捕らえた。順昌で唐王を捕らえて龍扛を捜索すると、士英・大鋮らが降った後に内応を請うた疏が出てきた。大鋮は自ら崖に身を投げて死んだが、なお屍を戮し、士英ら四人は延平城下で斬られ、妻子は兵丁に給賜された。
年表
福王が江南で僭立してから弘光政権が崩れるまでの、馬士英と阮大鋮による専権の顛末。士英は史可法を淮揚へ出して入閣し、逆案の阮大鋮を兵を知る者として起用、高弘図・姜曰広・呂大器・祁彪佳ら反対する諸臣を次々に退けた。大鋮は兵部尚書となって売官を重ね、大悲の獄に乗じて東林・復社の一網打尽を謀り、周鑣・雷演祚を殺した。左良玉が士英の罪状七箇条を挙げて東下する一方、清軍が江を渡って江寧を囲み、士英は太妃を奉じて浙江へ逃れる。順治三年、士英は捕えられて斬られ、大鋮は降ったのち崖に身を投げて死に、なお屍を戮された。
年表(3件)
- 順治元年甲申1644年馬士英が入閣し、逆案の阮大鋮を薦めて諸臣の反対を押し切る
- 順治二年乙酉1645年左良玉が士英の罪を挙げて東下し、清軍が江を渡って江寧を囲む
- 順治三年丙戌1646年士英は捕えられて斬られ、大鋮も崖に投じて死に屍を戮される
原文(底本)
順治元年甲申五月,福王僭立於江南,進馬士英東閣大學士,仍督鳳陽。士英大怒,陰令劉澤清、高傑疏趨史可法督師淮揚。可法出,士英遂入閣,掌兵部事。 八月,中旨傳升張有譽為戶部尚書。時欲起用阮大鋮,故先以清望傳升有譽。 吏部尚書張慎言罷。士英慮慎言秉銓,大鋮終不能起,乃令劉孔昭、湯國祚、趙之龍等攻去之。 馬士英奏薦逆案阮大鋮以知兵;賜冠帶,陛見。初,大鋮被斥,居江寧,與士英及守備太監韓贊周深相結。福王僭立,贊周屢稱大鋮才,王固已心識之。及士英以邊才薦,遂命陛見。高弘圖請下九卿會議;士英曰:會議則大鋮必不得用。弘圖曰:臣非阻大鋮,舊制京堂必會議。姜曰廣亦如弘圖言。士英遂言:魏忠賢之逆,非闖賊可比。弘圖、曰廣於己所愛者即曰先帝無成心,於己所惡者即曰成案不可翻;欺罔莫甚!於是劉宗周言祖宗故事,九列大僚必用廷推。郭維經言:案成先帝之手,今將此案抹殺,起用大鋮,赫赫英靈,恐有餘恫。羅萬象言:輔臣薦用大鋮,或以愧世無知兵者;然大鋮實未知兵。詹兆恆言先:帝異變,百姓莫不灑血捶胸;近聞燕、齊之間,士紳皆白衣冠聚兵以圖復仇。一旦忽翻前案,召用大鋮,豈不上傷在天之靈、下短忠義之氣?呂大器、熊汝霖、萬元吉、陳良弼、王孫蕃、左光先、尹民興等,各疏力爭。於是,士英為大鋮奏辯,力攻曰廣、大器等。月餘,遂以中旨授兵部添註右侍郎。 湖廣巡按御史黃澍入賀,面糾士英奸貪不法;且言嘗受獻賊偽兵部尚書周文江賄,罪當斬。承天守備太監何志孔復前助澍。士英跪乞處分,澍直前舉笏挈其背。士英佯稱疾,而陰賂內閹田成、張執中等言王非士英不得立,今逐之,是背舊恩也。且士英在閣,主上可以優閒;士英若去,誰複有念主上者?王遂諭留士英。澍連上十疏,稱自古未有奸臣在朝,而將帥能立功於外者。又言:自魏璫竊窺神器以來,實釀今禍;附逆之人與薦逆之人皆有賊心,乞懸諸日月以除魍魎。王不聽,諭澍還楚。 十月,以逆案楊維垣為通政使。 鎮國中尉侯考吏部朱統𨰥疏糾姜曰廣,詞連史可法、呂大器等。禮科給事中袁彭年疏言:中尉有奏,請先啟親王參詳可否,然後給批賫奏。若俟考吏部則與外吏等,應從通政司封進。今何徑、何竇,直達御前。宜加禁戢!通政使劉士楨言:曰廣勁骨戇性,守正不阿;居鄉立朝,皆有公論。統𨰥何人,不由職司,飛章越奏?此真奸險之尤,豈可容於聖世者!皆不聽。先是,呂大器奏士英賣官鬻爵、敗法亂紀諸罪,而曰廣事事與士英為忤,故士英授意詰之。大器予告去,曰廣降調;而換授統𨰥為行人。 內批予卦疆失事太監孫呈琇原官。章正宸疏爭,不聽。 卿史祁彪佳論詔獄、廷杖、緝事三大弊,票擬革禁發改。高弘圖言:擬票發改,不審內廷何人主持,使正論不容若此?王切責,弘圖尋予告去。 內傳以張捷為吏部尚書。 例轉科道陸朗為僉事、黃耳鼎為副使,內批留用。 加翼戴恩,進士英太子太師,蔭錦衣衛指揮僉事。九月,敘江北功,加少傳,兼太子太師、建極殿大學士。十二月,以南臨恩,進少師。明年二月,敘殿工恩,進太保。 罷浙江巡撫黃鳴俊、降調浙江巡按任天成,以許都餘黨複叛故也。並議前任巡按左光先罪。光先係光斗弟,與大鋮世仇,又首劾士英;大鋮故借事陷之。蘇松巡撫祁彪佳言:許都之變,實發於東陽、義烏、浦江皆無堅城。光先事竣出境,聞變復還,調兵措餉宵夜經營;變起不一月,元凶授首。既不錄其功,豈可反以激變罪之乎?於是,士英、大鋮并恨彪佳,遂嗾御史張孫振論其好貪,罪之。 起越其傑巡撫東萊。其傑以貪遣戍,以士英妹婿,起用。 召降獻賊劉僑至京,補原官。僑以玉杯、古玩進,張獻忠即用為錦衣都督。左良玉複蘄、黃,僑削髮逃去。士英納僑賄,遂複原官。 士英請免府州縣童生應試,分上、中、下戶納銀若干,即赴院試。又行納貢、助工等例。於是,民間有「掃盡江南金,填塞馬家口」之謠。 布衣何光顯上疏,請誅士英;詔:戮於市,籍其家。 以楚宗朱盛濃為池州府推官。盛濃疏劾御史黃澍毀制辱宗、貪贓激變,故士英擢之。立命逮澍;江督袁繼咸為申理,乃止。澍匿左良玉軍中,良玉由是有隙。 二年乙酉二月,以阮大鋮為兵部尚書,賜蟒服。大鋮雖長兵部專職,江防軍事一切不問。引所善蔡琛、唐世濟、張孫振、袁弘勳等布列要路,撓六部權;任劉應賓文選,濁亂銓政;擢私人林有本、王錫袞等二十餘人為給事、御史。江督袁繼咸薦鄧林奇為總兵,大鋮索賄;既足,始給敕印。白丁、隸後,賄至立躋大帥。時有「職方賤如物、都督滿街走」之謠。 賜中書舍人林翹一品武銜。翹善星術,決士英必大用,士英薦授中書舍人。尋躐一品武銜,蟒服趨事。 以被勘杭州府推官黃端伯為禮部主事。端伯入京稱姜曰廣逆謀有狀,故有是擢。 以楊維垣為左副都御史。大鋮得志,專務報複,與維垣謀盡殺東林、複社諸人。時有狂僧大悲出語不類,為總督京營戎政趙之龍所獲,下詔獄。大鋮因與維垣及張孫振謀,令引諸人擁潞王,則一網可盡。因造十八羅漢、五十三參之目,海內人望無不備列,納之大悲袖中。大獄將興,會上游告急而止。 倉場尚書賀世壽、僉都御史郭維經告病去,大鋮密遣人劫之江中。 殺禮部主事周鑣、原任武惠道雷演祚。鑣,鐘從兄,以附東林;而演祚與大鋮有隙,因於從逆案內奏二人宜連坐,遂殺之。 四月初一日,命各衙門印文盡去「南京」二字。禮部管紹寧印被竊,謀於士英,因請於王,各衙門俱改鑄另給。 初四日,寧南侯左良玉舉兵東下;馳疏云:竊見逆賊馬士英出自苗族,性本凶頑;身在行間,無日不聞其罪狀、無人不恨某奸邪。先帝皇太子至京,道路洶傳:陛下屢發矜慈,士英以真為假,必欲置之於死而後快。臣前兩疏,望陛下從容審處。猶冀士英夜氣稍存,亦當剔腸悔過,以存先帝一線;不意奸謀日甚一日,臣自此不與奸賊共天日矣。臣已提師在途,將士裂目指髮,人人思食其肉。臣恐百萬之眾,發而難收,震驚宮闕;且聲其罪狀,正告陛下。仰祈剛斷,與天下共棄之。自先帝之變,人人號泣;士英利災擅權,事事與先帝為難。欽案,先帝手定者,士英首翻之;要典,先帝手焚者,士英修復之。思宗改諡,明示先帝不足思,以絕天下報仇雪恥之心:罪不容於死者一也。國家提衡文武,全恃名器鼓舞人心。自賊臣竊柄一來,賣官鬻爵殆無虛日,都門有「職方賤如物、都督滿街走」之謠。如越其傑以貪罪遣戍,不一年而立陞巡撫。張孫振以贓污絞犯,不數月而夤緣僕少。袁洪勳與張浚道,皆詔獄論罪者也,借起廢竟復原官。如楊文驄、劉泌、王燧、黃鼎、趙書辦等,或行同犬彘、或罪等叛逆,皆用之於當路。凡此之類,直以千計:罪不容於死者二也。閣臣司票擬、政事歸六部,至於兵柄尤不得兼握。士英已為首輔,猶復掌樞,是弁髦太祖法度。且又引其腹心阮大鋮為添設尚書,以濟其篡弒之謀。兩子梟獍,各操重兵,以為呼應,司馬昭復見於今日:罪不容於死者三也。陛下選立中宮,典禮攸關。士英居為奇貨,先擇其尤者以充下陳,罪通於天;而私買歌女寄養阮大鋮家,希圖進選,計亂中宮,陰謀叵測:罪不容於死者四也。陛下即位之初,恭儉神明;士英百計誆惑,進優童艷女損傷德盛。每對人言,惡則歸君:罪不容於死者五也。國家遭此大難,須寬仁慈愛,以收人心;士英自引用阮大鋮以來,睚眥殺人如雷演祚、周鑣等煆煉周內,株連蔓引。尤其甚者,借題三案,深埋陷阱,將生平不快意之人一網打盡,令天下士民重足解體,罪不容於死者六也。九重秘密,豈臣子所敢言?士英遍布私人,凡陛下一言、一動無不窺視。又募死士竄伏皇城,詭名禁軍,以觀陛下動靜,曰廢立由我:罪不容於死者七也。率土碎心痛號者,先帝殉難、皇子猶存。前此定王之事,海內至今傳疑未已;況今皇太子授受分明,臣前疏已悉。士英乃與阮大鋮一手握定,不是天道、神明、二祖、列宗,不畏天下公議,不畏萬古綱常,忍以先帝已立七年之嗣君為四海謳歌訟獄所歸者,附之幽囚;天昏地慘,神人共憤。凡有血氣者,皆欲寸磔士英、大鋮等以謝先帝。此非臣之私言,諸將士之言也;非獨臣標將士之言,天下忠臣、義士、愚夫、愚婦之公言也。伏乞陛下立將士英等肆諸市朝,傳首四方,用抒公憤。臣等束兵計刻以待,不禁大聲疾呼,激切以聞。士英大懼,專理部事,不入直。左兵由九江、安慶至建德,順流而下;士英遣朱大典、阮大鋮、黃得功、劉孔昭等禦之,而撤劉良佐等以從。時,大兵已過山東,徇徐州,下毫、泗;史可法血疏告急,大理少卿姚思孝、御史喬可聘、成友謙等皆云良玉非叛,請無撤江北兵。十九日,王諭士英:左良玉師不該興兵逼南京,然看他本上,原不曾反叛;如今還該守淮揚,不可撤防江兵。士英厲聲指諸臣言:此皆良玉死黨為遊說,其言不可聽。寧可君臣同死於清,不可死於左良玉手;有異議者斬。王嘿然。未幾,良玉死,左夢庚敗於采石;論功,晉大鋮太子太保。 五月,王師渡江,圍江寧;王奔蕪湖。士英以黔兵與大鋮奉太妃走浙江,兵至廣德州,知州趙景和言:彼不奉王而奉太后,詐也。閉門拒守。士英攻破之,殺景和。至紹興,紹人猶未知王存亡。原任九江僉事王思任因上疏言:戰鬪之氣,必發於忠憤之心;忠憤之心,必發於廉恥之念。至今日人人無恥、在在不憤矣。所以然者,南都定位以來,從不曾真真實實講求報雪也。主上寬仁有餘、剛斷不足,心惑奸相馬士英爰立之功,將天下大計盡行交付;而士英公竊大阿,肆無忌憚,窺上之微而有以中之:上嗜飲則進𨤍醁,上悅色則獻妖淫,上喜音則進優鮑,上好玩即奉古董。以為君逸臣勞,而以疆場擔子一肩卸與史可法;又心忌其成功,而決不照應之。每一出朝,招集無賴,賣官鬻爵,攫盡金錢。四方狐狗輩,願出其門下者,得一望見,費至百金;得一登簿,費至千金。以至文選職方,乘機打劫;巡撫總督,見兌即題。其餘編頭修腳、服錦橫行者,不在話下矣。所以然者,士英獨掌朝綱,手握樞柄,知利而不知害、知存而不知亡,朝廷篤信之,以至於此也。茲事急矣,政本閣臣,可以走乎?兵部尚書,可以逃乎?不戰不守而身擁重兵,口稱護太后之駕,則聖駕獨不當護耶?一味欺蒙,滿口詭說,英雄所以解體、豪傑所以灰心也。及今猶可呼號泣召之際,太后宜速趨上照臨出政,斷酒絕色,臥薪嘗膽,立斬士英之頭傳示各省,以為誤國欺君之戒;仍下哀痛罪己之詔,以昭悔悟,則四方之人心猶可復鼓。又上書士英,言:閣下政本自由、兵權獨握,只知酒色逢君,、門牆固黨,從不講戰守之備,以致乘輿播遷,謀國至此;即喙長三尺,何以自解?以愚上計,莫若明水一盂,自刎以謝天下。若仍逍遙湖上、潦倒煙霞,效賈似道之故轍,千古笑齒已經冷絕;再不然,如伯嚭渡江,則我越乃報仇雪恥之邦、非藏垢納汙之地,職當先赴胥濤,乞素車白馬以拒閣下。至杭州,熊汝霖責士英當從王;士英無以應。杭州破,士英走錢塘;王師追躡之,斬其五百級。 魯王監國紹興,張國維首參士英誤國十大罪。士英懼,不敢入朝,而依方國安於嚴州。時,大鋮投朱大典於金華,士民檄逐之,乃亦送於國安。未幾。王師復敗,士英兵於餘姚、國安兵於富陽。已,士英率眾渡江窺杭州,復大敗。 三年丙戌六月,王師渡錢塘江,士英、國安計劫魯王來獻,王脫去;阮大鋮同謝三賓、宋之晉、蘇壯等來降。 唐王僭立於福州,士英擁兵求入關;王以其罪大,不許。 八月,王師討湖賊吳易,并獲士英,詔俱斬之而野史則雲士英遁至台州,來降於王師。已,大兵執唐王於順昌,搜龍扛,得士英、大鋮及方國安父子、方逢年請駕出關為內應疏在已降後。大鋮方游山,自投崖死,仍戮尸;斬士英等四人於延平城下,妻子給賜兵丁。