清史紀事本末順治帝の入関(順治入関)

要約

世祖順治元年は明の崇禎十七年である。夏四月、摂政王多爾袞を奉天大将軍として山海関外を取らせ中原を経略させた。明は二月に関外の城守を撤して呉三桂を召したが、三桂は豊潤で京師の陥落と帝后の殉難を聞き進まなかった。自成は父の襄に書かせて招き、三桂は降を諾したが、愛妾の陳沅が掠われたと聞いて憤り、喪服で哀を発し、先帝の復讐を声言して山海関に馳せ帰った。

自成が唐通らに追わせると三桂は軍を返して破り、自成は十余万で山海関を攻め、兵を分けて関外に回らせた。三桂の乞いで多爾袞は沙河に疾駆し、阿済格・多鐸に各一万騎で東西の水関から入らせ、一片石で唐通を破った。三桂は謁し薙髪して誓い、入関を請うた。

承疇は居庸に出て空虚な北京を占め救援を待って擒にすべきだと説いたが、三桂は関門の禍が急だとして不可とし、多爾袞は三桂の兵を白布の目印で先行させた。自成は関内に北山から海まで陣を列ねたが、精鋭は一万に満たず、掠奪に飽き帰心を抱き、辺兵が動くと聞いて心を寒くした。三桂が衆を出し寇数千を殺すと、自成は明の太子と二王を挟んで岡から戦を観た。正午に風塵で両軍が見分けられなくなると、阿済格・多鐸の鉄騎が横ざまに陣へ躍り込み、辮髪を見た衆が満洲兵だと言うと寇は潰散し、自成は永平へ走った。この日、関の内外の兵民に薙髪させ、三桂を平西王に進めた。

五月、多爾袞が京師に入った。三桂は明の太子の即位を請うたが許されず、西へ賊を追わされ、太子を高起潜に送った。朔日、城中は義興元年と署した太子の手勅を受け取り、期日に駱養性らが哭臨し王徳化らが法駕を備えて迎えたが、入ったのは太子でなく、先駆けの騶者が都人の白い冠を取り去らせ、多爾袞が満洲兵を率いて入城した。諸臣が勧進すると范文程は、わが国の皇帝は去年すでに即位しておられる、何の勧進があろうかと言い、明の帝のために発喪・改葬して懐宗端皇帝と諡した。六月、燕京に都を建てて帝を迎え、九月に京師に至り、十月、南郊に祭告して時憲書を頒ち、明末の加派や廠衛の弊政を除いた。

十二月、明の太子慈烺を市に棄てた。太子は外祖父周奎の邸に寄ったが、姓を劉と偽れという勧めに従わず追い出され、夜行の禁を犯して捕らえられた。常進節・王徳化も東宮に侍衛した十人も真の太子だと言い、百姓数千も同じ声で呼んだが、降った晋王求桂だけが違うと言った。銭鳳覧は真と報告して求桂を呵し、謝陛らは偽と主張し、商民は釈放を請うた。多爾袞は、太子の真偽は問題でない、晋王は明の宗室、謝陛は明の大臣であるのに鳳覧が呵し百姓が罵るのはみな乱民だと言って獄に下し、太子と十五人を市に棄てさせた。

二年、朝鮮の来貢が常例となり、圏占の地の墳墓の祭掃を許し、生員を国子監に入れ、明史の纂修を始めた。六月、薙髪の制を定め、十日以内に明の制を存する者は殺して赦さぬとした。天罡星と称した劉伯泗、清光と建号した胡守龍は斬られた。洪承疇に江南を、呉惟華らに諸省を招撫させ、無主の地を旗人に与え、薙髪免除を請うた孔文標の職を削った。三年、会試の額を四百名に広げ、逃人隠匿の禁を厳しくし、明の魯王ら十一人を殺し、白蓮など諸教を捕らえ、五事の上奏を治罪するとした。四年、『大清律』を頒行し、マカオの佛朗西人の省会入りを禁じた。五年、満漢の通婚を許し服飾を満洲の装いに依らせ、明の后と称した天津の張氏を殺し、六年、捐納の例を開いた。

八年正月、帝は親政して大赦し、蘇克薩哈・鰲拝らを議政大臣とし、狩猟で圏占した地を原主に返し、諸王に部院を管理させたが九年に罷めた。魏象枢の諫疏は報聞とされ、会試第一の程可則は革名された。楊雍建が畋遊を諫めると帝は怒って苑の庭に跪かせ罪を数えたが、雍建は、臣はただ皇上を忠愛することを知るのみだと声を張った。洪承疇・陳之遴は星変と飢饉を挙げてダライ・ラマの親迎の停止を請うて容れられ、范文程らの屯田四事は是とされ、京師の大豪李応試らは殺された。

十年、李呈祥が部院から満官を去らせ漢人を用いよと条議すると、帝は、朕は人を用いるのに満漢を分けないのに異議を生ずるのかと怒り、盛京に流した。旱に直言を求め、福清王の嫡子の由杞、泰昌帝の子の由極ら二十九人を殺し、改折を一条鞭に定めた。十一年、趙開心の条奏に怒り、陳名夏は、頭髪を留め衣冠を復せば天下は太平になると語ったのを奏聞され絞殺された。十二年、季開生は女子採買の撤回を請うて流され、景山・瀛台の名を賜った。十三年、災変に祭告して三事で自らを責め、オランダが来貢し、閣臣の議政を停めた。十四年、北闈の関節で張我樸らを殺し、十五年、内監の呉良輔を殺し、孫可望を迎えて麻勒吉に辱められ自刎しようとした総督の張懸錫を、大臣の体を失ったとして三級降し、のち懸錫は縊死した。十六年、雲南蕩平により秋も会試を行い、誣告の禁を厳しくした。十七年、封駁の典を行い、八月に貴妃の董鄂氏が薨じた。もと董小宛、冒辟疆の姫人で、端敬と諡された。十八年正月、彗星が現れ帝が崩じた。年二十四、玄燁が嗣ぎ、世祖と号して孝陵に葬り、董鄂氏が殉じて貞妃を追封された。

編者はいう、端敬皇后が歿すると帝は朝を輟めて養心殿に独居して慟き、詔諭には「朕はまた人の世に何の心があろうか」とあり、遺詔にも喪祭の典礼が優厚に過ぎたとある。帝は崩ぜず位を遜って緇衣で雲遊し、五台山の清涼寺がその卓錫の処で、聖祖の行幸は帝に謁するためだと伝えられた。貞妃は端敬皇后の妹で、帝の出亡を知るのは妃だけであったが、告げる者があり懼れて自尽したという。施氏の『行在陽秋』には八旗の将士が明の永暦帝を推戴しようと謀った事が載り、文廷式が得た順治十三年の暦書は偽造でなく、聖祖は康熙元年の憲書を頒じつつ内廷には順治十九年の本を並び行わせたという。その言はみな拠るところがあり信じてよさそうだが、附会を疑うので篇には記さなかった、と。

年表

明の崇禎十七年(=順治元年、1644年)、李自成が北京を陥れたことを機に、呉三桂が山海関で清に援けを求め、摂政王多爾袞が入関して李自成を破り、燕京に都を移すまでの経緯から始まる一篇。以後は順治帝の治世十八年間を年ごとに追い、薙髪令・圏地・逃人の禁といった入関後の諸政策、明の太子や宗室の処刑、科挙・明史編纂などの文治、たび重なる地震・日食・水旱の災異を記す。洪承疇・范文程・陳名夏ら漢人大臣の登用と失脚、帝の狩猟をめぐる楊雍建・魏象枢らの諫争も描かれる。順治八年(1651年)の親政から順治十八年(1661年)の崩御、董鄂妃の死と出家伝説までで結ぶ。

年表(18件)

現代語訳全文

西暦1644年 世祖順治元年

  • 世祖順治元年は、すなわち明の思宗崇禎十七年である。
  • 夏四月、摂政王多爾袞に命じて奉天大将軍とし、軍を率いて明の山海関外の地を取らせ、あわせて中原を経略させた。これより先、この年の二月初め、明は流寇が内地に迫ってきたため、薊遼総督の王承吉(王永吉の誤りか)を用い、議を尽くして関外の城守をすべて撤し、寧遠総兵の呉三桂を召して辺境の兵を統べさせ京師を守衛させようとした。三桂は寧遠の兵五十万の衆を徒(「徙」=移すの誤りか)して西に向かい、豊潤に至ったとき、李自成がすでに京師を陥れ、帝と后が殉難したと聞いて、前進しようとしなかった。自成は三桂の父の襄を捕らえ、書を作らせて三桂を招かせ、三桂は降ることを承諾した。ほどなく、愛妾の陳沅が賊に掠われたと聞いて大いに憤り、たちまち白い喪服に着替えて哀を発し、先帝のために復讐すると声言して、山海関に馳せ帰り、軍事を部署した。
  • 自成は降将の唐通らを遣わして兵を率いて三桂を追わせ、滐州(灤州の誤りか)を越えて東に向かわせた。三桂は軍を返してその衆を撃破した。自成はみずから部下の衆十余万を率いて山海関を攻め、兵を分けて撫寧の東北の境の長城に向かわせ、関外へ回り込ませて挟み撃ちにした。三桂は大いに懼れ、急ぎ使者を多爾袞の軍前に遣わして援軍を乞うた。
  • そのとき多爾袞はまだ寧遠に至っていなかったが、三桂の書を得ると、大学士の洪承疇らとともにその日のうちに兵を進め、途中でまた三桂の出兵を催促する使者に出会い、疾駆して沙河に至った。関を距てることわずか十里であった。ちょうど三桂の哨騎が来て、寇がすでに辺の外に出たと報じたので、英王阿済格・豫王多鐸にそれぞれ一万騎を率いさせ、東西の水関から道を分けて入らせ、みずからは大軍を率いて続いて進んだ。この夜、唐通の兵に出会い、一片石でこれを撃破し、進んで関門に迫った(底本「簿」は「薄」の誤りか)。三桂は騎兵を率いて後ろから突き出て、多爾袞に謁し(底本は「多爾痛袞」に作る。「痛」は衍字か)、そのまま軍中で髪を薙って誓いを立て、ただちに入関することを請うた。
  • 承疇が言った。「寇の衆は東に出ており、京師は空虚です。西北から回って居庸関に出、北京を襲って占拠し、寇の軍が救援に来るのを待って、しかるのちに一戦してこれを擒にすべきです。」しかし三桂は関門の禍が急迫していると言い、堅く不可とした。多爾袞もまた、流寇は百戦を経たあとで、標悍(「剽悍」の誤りか。荒々しく強いこと)で匹敵する者がなく、軽々しく敵としてはならないと慮った。そこで三桂の兵には白布を肩に繋いで目印とさせ、これを率いて先行させて賊を試させ、みずからは精鋭を率いてこれに従った。
  • 着いてみると、自成はすでに関内に陣を列ね、北の山から横に亘って海にまで及んでいた。自成が初めて都城を破ったとき、その精鋭は一万を数えるにも及ばず(底本「不遇」は「不過」の誤りか)、至るところ虚勢の声で下の者を脅し、大敵を経てきたかのように示していたが(「示當經大敵」は「未嘗經大敵」=いまだかつて大敵に遭ったことがない、の誤りか)、すでに掠奪に飽きて帰ることを思っていた。辺境の兵が動いたと聞いて、心を寒くしない者はなかった。自成は成敗が一戦で決すると知り、いよいよ衆を駆り立て、営を連ねて並び進んだ。
  • 三桂は衆をことごとく出して戦い、一人で百人に当たらぬ者はなく、奮撃して寇数千を殺した。寇もまた勇を奮って重ねて進んだ。自成は明の太子および永王・定王の二王をはさんで高い岡に登り、馬を立てて戦を観た。寇の衆は三面から三桂を囲み、三桂の兵は東へ西へ馳せ突き、寇は散ってはまた合した。正午になると、風が起こって塵が舞い上がり、両軍は互いを見分けられなくなった。阿済格と多鐸が鉄騎を率いて横ざまに躍り込んで陣に入り、向かうところ靡かぬものはなかった。にわかに城が開き、衆は甲を着て辮髪(底本「辨髮」)にした者を見て「満洲兵だ」と言った。自成は馬に鞭打って走り、諸々の寇はみな潰散し、互いに踏みにじり合って、死ぬ者がはなはだ多かった。自成は数千騎を率いて急ぎ永平へ走った。
  • この日、多爾袞は令を下して、関の内外の兵民に薙髪させ、三桂の爵を進めて平西王とした。
  • 五月、多爾袞が京師に入った。そのとき明の太子はすでに三桂の軍中に来ており、三桂は太子を護衛して京師に入り、大位に即かせることを請うた。多爾袞は許さず、檄して西に行って賊を追わせた。三桂はそこで太子を明の太監高起潜のもとに送った。都は自成が逃げ去ってから、原任御史の曹溶が衆を率いて城を守り、残った賊を捜索していた。
  • この月の朔日、城中は太子の手勅を受け取った。初二日に都に入り、大行皇帝・大行皇后のために大事を挙行するというもので、末尾に「義興元年四月二十六日」と署してあった。その期日になると、にわかに太子がすでに城外に至ったと伝えられ、錦衣衛都指揮使の駱養性と侍郎の沈維炳らは崇禎帝の位を立てて哭臨し、司礼監の王徳化らは法駕を備えて太子を迎えた。諸臣は塵を望んで俯伏した。朝陽門に入ってきたのは太子ではなかった。衆は驚き愕いた(底本は「眾駭愕前,前騶者」に作る。「前」の重出は衍字か)。先駆けの騶者が都の人々を指図して白い冠をことごとく取り去らせ、そこへ多爾袞が満洲の兵を率いて入城したのである。
  • ここにおいて、明の文武の諸臣は表を具えて勧進した。大学士の范文程は知らぬふりをして衆に語った。「わが国の皇帝は去年すでに即位しておられる。何の勧進があろうか。」そして明の帝のために発喪し、軍民にそれぞれ三日の喪に服させ、あわせて礼部・太常寺に諭して礼をもって改葬させ、帝に懐宗端皇帝と諡し、后を烈皇后とした。ほどなく官を遣わして盛京に奏報した。
  • 六月、太白が現れ、白気が西南から東北にかけて立った。多爾袞は諸王・貝勒・大臣らと議を定めて燕京に都を建てることとし、輔国の兵・屯・奔哈などの処を遣わし(底本「遣輔國兵屯奔哈等處」。文字に乱れがあるか)、表を奉って帝を迎えさせた。
  • 秋七月、多爾袞は官を房山に遣わして、金朝の陵の初始を訪ねさせ、図を描いて進覧させた。
  • 八月丙辰朔、日食。
  • 九月、金星が昼に現れた(底本「畫」は「晝」の誤りか)。帝が京師に至った。
  • 冬十月、帝はみずから南郊に詣り、天地・社稷に祭告し、時憲書を頒ち、中外に詔して、明末の加派の税餉や廠衛など諸々の弊政をことごとく除いた。文臣の衣冠は暫く明の制に従わせた。このときはまだ薙髪令を厳しく行ってはいなかった。堂子を御河橋の東、長安左門の外に建てた。満洲では古くから竿を立てて天を祭り、また社稷の諸神を静室に総祀して、これを堂子と名づけていた。
  • 十二月、明の太子慈烺を市に棄てた(市中で処刑してさらすこと)。これより先、十月の間に太子は高起潜のもとから逃げ出し、内侍の楊玉に随って、その外祖父である嘉定伯周奎の邸に身を寄せた。周奎の甥の鐸が導いて長平公主と会わせ、頭を抱えて慟哭した。周奎は食事を供し、一家をあげて君臣の礼を行い、夕方に哭して別れ去った。数日して再び来ると、公主は錦の袍一着を贈り、「くれぐれも再び来てはなりません」と戒めた。十九日にまた来た。周奎は泊めて、こう言った。「太子はみずから姓を劉と偽り、書生ということにすれば、まず禍を免れましょう。そうでなければ官府に差し出して究明していただくまでです。」太子が従わず、門外に追い出し、夜行の禁を犯したかどで捕らえられた。
  • 刑部がその事を勘問し、内侍の旧臣である常進節、旧司礼の王徳化を訊問すると、ともに「これは真の太子である」と言った。審理を見物する百姓が数千人おり、これも同じ声で「真の太子だ」と呼んだ。廷訊のときに至って、太子が語る宮中の事はすべて誤りがなかった。もとの錦衣官の李時蔭、およびかつて東宮(底本「東官」)に侍衛した者十人を召してこれを証させると、十人は声に応じて「真です」と答えた。ただ一人、かつて降った晋王求桂だけが違うと言った。そこで太子および常侍・内監・錦衣の十五人を獄に下した。刑部の承審官である山東司主事の銭鳳覧は詳しく訊問して、真の太子であると報告した。求桂に命じて出向いて否定させようとしたところ、鳳覧はこれを呵した。そこで再び廷訊が行われた。内閣の謝陛・馮銓らは偽物であると主張し、鳳覧はまた上書して力争した。その大略に言う、そもそも太子は危うい立場であり、かねてから覬覦する者がその名を借りるものである、と。
  • 京師の商民はそれぞれ書を具えて太子を釈放するよう請い、順天府の民人の楊博らもまた、太子を留めて明の祀を奉じさせるよう疏請した。また宛平の楊時茂という者は上疏して、時茂の身を切り刻んで泥とし、骨を砕いて粉として太子を贖いたいと請い、疏の中であわせて謝陛は禽獣で無道であると言った。多爾袞は言った。「太子の真偽は問題ではない。ただ晋王は明の宗室、謝陛は明の大臣である。鳳覧が晋王を呵し、百姓が謝陛を罵るのは、みな乱民である。」そして獄に下して死なせるよう命じた。鳳陽の民の張三が、にわかに衆に誓って太子を救おうとし、生員の楊生・孫生がこれに応じたが、いずれも捕らえて殺され、かくて太子および十五人を市に棄てるよう命じた。

西暦1645年 順治二年

  • 春正月、朝鮮が来貢した。以後、毎年の常例となった。
  • 二月、詔して、民間の墳墓で満洲の圏占した土地の内にあるものは、その子孫が歳時に祭掃することを許した。給事中の向玉軒の言に従ったものである。詔して、民間の家屋で旗下に割り当てられたものは期限を寛くし、移転を待ってから旗人に管業させることとした。言官の傅景星の請に従ったものである。
  • 三月、詔して、直省の府・州・県学の生員のうち、文と行いのともに優れた者を、大学は二名、小学は一名ずつ遣わして国子監に入れて学業を修めさせ、監臣の考課を受けさせ、なお貢監の名目で取りまとめて送り応試させることとした。
  • 夏四月、武会試を挙行した。
  • 五月、詔して明史を修することとし、大学士の馮銓・洪承疇・李建泰・范文程・剛林・祁充格らを纂修官とした。宣府の民人の劉伯泗が地を掘って石の匣を得たが、中に天書が入っており、また石の弾の中に元帥の印があったので、みずから天罡星と称した。巡撫の馮兆聖がこれを捕らえて斬った。
  • 六月、薙髪の制を定めた。十日以内を限り、なお明の制を存する者があれば、殺して赦さないとした。陝西の民人の胡守龍が数万の衆を集め、みずから徐会公と称し、清光元年と建号した。総督の孟喬芳がこれを擒にして斬った。
  • 閏月、大学士の洪承疇に命じて江南の各省を招撫させた。恭順侯の呉惟華、尚書の孫之獬、侍郎の黄熙允・江禹緒・丁之龍・謝弘儀らに、広東・広西・江西・福建・湖南・雲南・貴州などの省を招撫させた。群臣の王公以下および生員・耆老の頂戴の品式を定めた。河が王家圓で決壊した。江南の民が納める漕糧・白糧の二糧を官の扱いに改め、官が兌して納めさせることとした。
  • 秋七月、詔して、今後は内外の章奏をすべて通政使司を経て封進させることとした。太堂寺(太常寺の誤りか)典簿の王文が、江南・長江一帯に蘆政を設立し、荻蘆の常税を徴収することを疏請した。当時は江南の地方が定まったばかりであるとして、許されなかった。
  • 九月、明の新昌王を殺した。明の懐安王が降ってきた。戸部に諭して、河間・滐州(涿州の誤りか)・遵化などの州府県で、およそ無主の地は旗人に与えて耕作させ、前明の公・侯・伯・駙馬・皇親・太監の地は、家口に照らして給発するほか、余りは八旗に与えることとした。
  • 冬十月、原任陝西河西道の孔文標の識(「職」の誤りか)を削って民とした。孔氏の子孫の薙髪免除を請うたためである。
  • 十二月乙卯朔、日食。刑部がみだりに詞訟を牧(「收」=受理するの誤りか)することを禁じた。以後、民間の詞訟は、外にあっては撫按・監司に、内にあっては順天府と大宛の二県(大興・宛平の二県)に帰属させ、もし冤抑があれば、通政使司に赴いて、発審して部に送るよう呈請することを許す。もし問刑の衙門の聴断が公平でなく、小民に冤を受けさせた場合は、事が発覚すれば重ねて治罪する。内監が朝参および排班することを禁じた。

西暦1646年 順治三年

  • 春正月、歳ごとに陵・廟を祭る礼を定めた。本年の会試の中式の額数を広げて四百名に至らせ、房員は二十員としたが、後には例としなかった。
  • 三月、明の洪武の実訓(「宝訓」の誤りか)を翻訳し終え、中外に頒示した。詔して、本年八月に再び郷試を行い、来年二月に再び会試を行うこととした。まだ帰附していない地の生員・挙人で、投誠していない者も、一様に応試することを許した。
  • 夏五月、満洲の選人(「逃人」の誤りか)を隠匿することの禁を厳しくした。明の魯王ら十一人を殺した。
  • 六月、白蓮・大成・混元・無為などの教を厳しく捕らえた。
  • 秋九月、京師で地震があり、その音は南から北へ向かった。
  • 冬十月、帝は近畿で六日狩猟し、宮に還った。諭して、薙髪・衣冠・圏地・逃人・牽連の五事について具奏する者は、一概に治罪し、その上奏文はもとより封進を許さないとした。

西暦1647年 順治四年

  • 春正月、漕運総督の王文奎の職を奪い、刑部に下して罪を議させた。ほしいままに荒田の租賦を免じ、また前明の陵寝の祀典をみだりに請うたことによる。
  • 三月、在京の三品以上および在外の総督・巡撫・総兵などの官に命じて、それぞれ一子を送って入侍させた。『大清律』を頒行した。江寧・西安の駐防の旗員に圏地を給した。江寧では一人につき六十畝から五百八十畝、西安では一人につき二百五十畝から二百四十畝である。
  • 夏六月、戸部副理事官の繆尚義らを広東の雷州・廉州などの地に遣わして真珠を採らせた。
  • 秋七月、帝は辺外で狩猟した。
  • 八月、京師に還った。佛朗西人で濠境澳(マカオ)において貿易する者が、広東の省会に入ることを禁じた。
  • 冬十月、吏部が三年ごとの考績を定制とするよう奏請し、可と報じられた。
  • 十一月、五鳳楼が完成した。

西暦1648年 順治五年

  • 春二月、詔して満漢の通婚を許し、あわせて官民の服飾の制を定め、ことごとく満洲の装いに依らせた。
  • 夏五月己丑朔、日食。
  • 秋七月、天津の婦人の張氏が明の天啓帝の后と称し、事を起こそうと謀り、捕らえて殺した。

西暦1649年 順治六年

  • 春正月朔、帝は痘を避け、朝賀を免じた。
  • 夏六月、歳用が不足したため、監生・吏典・承差などの捐納の例を開き、また内外の僧道に度牒を給し、徒・杖などの罪を銭で贖うことを准した。
  • 秋七月、江南の蘇州・揚州・淮安・鳳陽の各属の州県・衛所、および河南の磁州・羅山県で大きな雹が降り、作物を傷めた。

西暦1650年 順治七年

  • 冬十月辛巳朔、日食。

西暦1651年 順治八年

  • 春正月、帝が初めて親政し、太和殿に御して賀を受け、詔を頒して大赦した。蘇克薩哈・詹岱・伊図・鞏阿岱・鰲拝・巴哈詹・杜爾瑪を議政大臣とした。
  • 二月、戸部に諭して、各処で狩猟に備えて圏占した民の地は、ことごとく原主に返還させた。
  • 閏月、僧道への度牒の給付を停めた。
  • 三月、諸王・貝勒・貝子らに命じて各部院の事務を管理させた。巽親王を吏部、承沢親王を兵部、端重郡王を戸部、敬謹郡王を礼部、順承郡王を刑部、謙郡王を工部、貝勒の喀爾楚渾を理藩院、貝子の呉達海を都察院に派した。連日の風霾のため、刑部に命じて刑獄を通じさせた。
  • 夏四月、帝は沙河に行幸した。
  • 五月、京師に還った。
  • 冬十月、給事中の魏象枢が遊幸を諫める疏を上げたが、報聞(奏上を受け取ったと伝えるのみで処置しないこと)とされた。

西暦1652年 順治九年

  • 春正月朔、帝は南苑で痘を避け、朝賀を免じた。
  • 京師で地震があった。
  • 安郡王の岳楽に工部の事を管理させ、貝勒の尚喜に理藩院の事を管理させた。
  • 三月、会試の中式第一名の挙人である程可則の名を革退し、あわせて考官の胡統虞らを治罪した。閣臣の范文程が、可則の文は理が荒謬であり、首篇はとりわけ甚だしく、経の注に悖戻(背反)していると奏したことによる。諸王・貝勒・貝子が部の事務を管理することを罷めた。
  • 夏五月、徳州で大きな雹が降り、大きいものは瓜のようであった。三人が死に、漕舟一艘が沈んだ。吏部が京察について奏し、帝が親政した辛卯の年を始めとして、六年に一度、寅年・申年に行うべきだとした。これに従った。
  • 六月、江南で旱と飢饉があった。帝は南苑で十日狩猟して宮に還った。これより先、兵科給事中の楊雍建は車駕がしばしば出ると聞いて上疏して諫めたが、その中に「起居を慎み、出入を謹み、獣を狩ることに勤しまれるな」という語があった。帝は震怒し、苑の庭に跪かせ、面と向かってその罪を数えあげ、冠を脱いで謝らせようとした。雍建は声を張り上げて言った。「臣はただ皇上を忠愛することを知るのみで、他に罪はありません。」帝はますます怒って顔色を変え、幾度もその前を往き来し、責め詰ってやまなかった。侍直の諸臣はみな股を震わせたが、雍建は動じなかった。
  • 秋八月、戸部左侍郎の王永吉が疏して言った。「いま直隷・山東・河南・山西はみな大水を報じ、江南・江北・湖広・浙江はみな大旱を称しております。遊観を停め、音楽を減らし、臣工を董戒し、実際に修省を図られますよう。」報聞とされた。
  • 九月、太白星が日と光を争い、流星が紫微宮に入った。そのとき大学士の洪承疇・陳之遴が疏して言った。「星変が異常です。おそれ慎むべきです。しかも今年は南方は旱に苦しみ、北方は水害に苦しみ、飢饉と寇の警報が処々から報告されております。ダライ・ラマを親迎することを停止されますよう。」これに従った。
  • 冬十月、范文程らが屯田を興す四事を奏した。一、屯を挙げるには人を選び得ること。一、開望(「開墾」の誤りか)は法どおりに収穫すること。一、積み貯えは転運に方法があること。一、責成は賞罰を必ず信にすること。帝はこれを是とした。
  • 十二月、帝は南苑で狩猟し、十日で宮に還った。
  • 京師の大豪である李応試・潘文学らを殺した。応試は別名を黄膘李三といい、もとより年来の重犯で、もっぱら劫盗を養い、奸梟と結託し、官司と交わりを結び、衙門の蠹を使役していた。その住宅は六部になぞらえて分け、崇文門の一切の税務にならって、ほしいままに課銭を取り立て、罪案は山と積まれていた。鞫審の日、閣臣の甯完我・陳之遴・陳名夏らは発言することさえできなかった。応試が広く声気を通じていて、陥害されるのを恐れたためである。文学は応試の一党である。

西暦1653年 順治十年

  • 春二月、帝が内院に至り、少詹事の李呈祥が、部院の衙門から満官を裁き去ってもっぱら漢人を用いるべしと条議した一疏を見て、怒って洪承疇に言った。「朕は人を用いるのに満漢を分けない。汝らはなぜかえって異議を生ずるのか。」承疇らは答えられなかった。ほどなく呈祥を免職とし、死を免じて盛京に流徙した。
  • 三月、帝は南苑で狩猟し、漢の大臣および諸々の詞臣を召して宴を賜い、院(「苑」の誤りか)の外に出て三日狩猟し、苑の中で一日網で魚を捕った。これより毎年二、三回を常とするようになり、いちいち記さない。
  • 夏四月、元旱(「亢旱」=ひどい旱の誤りか)のため、詔して直言を求め、内外の法司に諭して獄を清めさせた。
  • 五月、明の福清王の嫡子である由杞を殺した。
  • 六月、各省の本色の銭糧を改折することを一条鞭法に定めた。直隷で大水があり、京師の海河一帯の家屋・田の作物が水に浸かった。
  • 冬十一月、災を報じる期限を定める法を制定した。夏の災は六月末を限り、秋の災は九月末を限る。まず被災の情況を馳せ奏し、ついで一月以内に軽重の分数を調査確認して、蠲免を奏請する。期限を一月超えた者は、巡撫および道・府・州・県の官の俸を罰し、一月以上超えた者は降級、遅滞がはなはだしい者は免職とし、永く例と定める。明の泰昌帝の第三子の由極ら二十九人を殺した。
  • 十二月、京師で地震があり、音がした。

西暦1654年 順治十一年

  • 春正月、左都御史の趙開心が六款を条奏したが、その中に「奏対には勤めるべし」「畋遊を退けるべし」という語があり、帝は大いに怒り、厳しく戒めて行わせた。
  • 二月、盛京の猟戸の李百総に衣服・鞍馬を賞した。山海関内の貧民四百余口を収養したので、これを嘉したのである。
  • 三月、大学士の陳名夏を絞殺した。名夏はかつて帽を押しやり頭を撫でながら甯完我に語った。「頭髪を留め、衣冠を復せば、天下はただちに太平になる。」完我がこれを奏聞し、絞に処するよう命じられた。子の掖臣および家族は遣戍された。
  • 夏四月、京師で地震があった。命婦が交替で入侍する例を停めた。
  • 六月、陝西で地震があった。河が大王廟で決壊した。
  • 秋八月、明の楽安王の翊淜を殺した。
  • 冬十二月、湖南で大火があり、民家一万六千余戸を焼いた。

西暦1655年 順治十二年

  • 春二月、江南で地震があった。
  • 三月、給事中の季開生の職を削り、尚陽堡に流徙した。揚州で女子を採買せよとの成命を撤回するよう請い、旨に忤ったためである。同じころ、戸部右侍郎の趙開心もまた、旗下に隠匿された逃人の禁を寛くするよう請うたことで、五級を降されて調用された。
  • 夏六月、紫禁城の後山に景山、西華門外の台に瀛台という名を賜った。
  • 秋七月癸未朔、日食。廷臣を遣わして各省の刑を恤ませた。

西暦1656年 順治十三年

  • 夏四月、山西の陽曲で地震があった。近ごろの冬の雷、発雪(底本「發雪」)、隕石、雨土、および連年の水旱の諸々の災変によって、南郊と太廟に祭告し、三事をもってみずからを責めた。
  • 六月、オランダが来貢した。山東の莒州で地震があった。
  • 秋九月、官を遣わして畿輔の囚を審録させた。閣臣の議政を停めた。

西暦1657年 順治十四年

  • 春二月、山西の雲鎮で地震があった。
  • 三月、詔して直省の学臣に遺書を訪ね求めさせた。
  • 夏四月、四咱(「四川」の誤りか)の保寧府・成州・茂州で大きな地震があった。
  • 五月癸卯朔、日食。
  • 秋九月、帝は経筵に御した。京師で大きな地震があった。
  • 冬十月、大理評事の張我樸・張振鄴、中式の挙人の田耜らを殺した。本年の北闈で関節が通じていたのを、御史の任克溥が糾弾したことによる。

西暦1658年 順治十五年

  • 春三月、内監の呉良輔を殺した。内外の官吏と通じて不正を働き、賄賂を受け取ったことによる。
  • 夏四月、直隷・河南・山東総督の張懸錫を三級降して調用した。懸錫が順徳府に至って義王の孫可望を迎えたとき、学士の麻勒吉に辱められ、羞じ憤ってみずから首を刎ねようとしたが、左右の者に救われて免れた。帝は懸錫が大臣の体を失ったとして、三級を降して調用させたのである。後に懸錫はついに麻勒吉に容れられず、やはり縊死するに至った。
  • 秋八月、江蘇の松江で地震があった。

西暦1659年 順治十六年

  • 春二月、本年の秋にもう一度会試を行うよう命じた。雲南が蕩平されたことによる。
  • 夏四月、誣告の禁を申し重ねて厳しくした。

西暦1660年 順治十七年

  • 夏五月、ひどい旱のため、詔して直言を求めた。
  • 六月、大臣を遣わして刑獄を清理させた。封駁の典を行った。掌翰林院事学士の折庫納の条奏に従ったものである。詔して、今後、諭旨に確かでないところがあれば、内閣および諫垣の各官が封駁することを聴すこととした。
  • 秋八月、貴妃の董鄂氏が薨じた。后はもと姓を董氏、名を小宛といい、明末の遺民である冒辟疆の姫人であった。順治二年に没収されて宮に入り、ここに至って卒した。皇后を追封し、端敬と諡した。

西暦1661年 順治十八年

  • 春正月、彗星が夜に現れた。帝が崩じた。太子の玄燁が嗣立した。帝は年二十四であった。章と諡し、廟号を世祖といい、直隷の遵化州の豊台嶺に葬って孝陵と号した。妃の董鄂氏が殉じ、貞妃を追封された。

史論(編者曰)

  • 端敬皇后が歿したとき、帝は朝を輟めて政務を視ず、これより養心殿の中に独居して、朝夕悲しみ慟いた。群臣に下した詔諭には「朕はまた人の世に何の心があろうか」という語があり、遺詔の中にもまた「予の心は深く痛悼し、賢淑を追念するあまり、喪祭の典礼は優厚に過ぎた。礼をもって情を止めることができず、諸事は度を越えて経に外れた」云々とあった。
  • そこで、帝は実は崩じておらず、后を痛んだために位を遜って宮を出、緇衣をまとって雲遊したのだ、五台山の清涼寺こそその卓錫の処である、と言い伝えられた。後に聖祖がしばしば太皇太后・皇太后を奉じてその地に行幸し、諸寺を虔んで礼拝したのは、すなわち帝に謁するためである、と。
  • 貞妃は端敬皇后の妹で、帝が出亡したとき、ただ妃だけがこれを知っていた。後に太后に告げる者があり、妃は懼れて自尽した。
  • 施氏の『行在陽秋』の中には、八旗の将士がひそかに明の永暦帝を推戴しようと謀った事が載せられている。諸々の将士は言った。「これこそ真の主である。我らに主があるとはいえ、今その所在を知ろうか。これを奉じて不世の功を成すに如くはない。」
  • また光緒の中葉、江右の学士である文廷式が、京師の琉璃廠の書肆の一つの書架の中から、順治十三年の暦書一冊を購い得た。欽天監の朱印が捺してあり、調べたところ偽造の本ではなかった。その事を知る者があって言うには、帝が出亡した後、聖祖が位を嗣ぎ、すでに康熙元年の憲書を頒行していた。しかし内廷の進御のためには、別に順治十九年の本を刊行し、康熙の本と並び行わせて孝敬を彰したのである。それは帝が緇衣を脱いだ後になって初めて已んだ、という。
  • 以上を総合して観ると、その言はみな拠るところがあって、信じてよさそうである。しかしひそかにそれが附会から出たものではないかと疑うので、篇には記さなかった。
原文(底本)
世祖順治元年,即明思宗崇禎十七年也。夏四月,命攝政王多爾袞為奉天大將軍,率師取明山海關外地,並經略中原。先是,是年二月初,明以流寇內逼,用薊遼總督王承吉,議盡,撤關外城守,召寧遠總兵吳三桂統邊兵入衛京師。三桂,徒寧遠兵五十萬眾而西,抵豐潤,聞李自成已陷京師,帝后殉難,不敢前。自成執其父襄,命作書招之,三桂許降。已而,聞其愛妾陳沅被掠於賊,遂大憤,遽易縞素髮哀,聲言為先帝復仇,馳歸山海關,部署軍事。自成遣降將唐通等率兵追之,越滐州而東。三桂回軍擊破其眾,自成親將部眾十餘萬攻山海關,分兵撫寧東北境長城,繞至關外,夾擊之。三桂大懼,急遣使至多爾袞軍前乞師。時多爾袞尚未至寧遠,得三桂書,偕大學士洪承疇等即日進兵,途中復遇三桂趣兵之使,疾馳至沙河,距關僅十里。值三桂哨騎來報,寇已出邊,乃令英王阿濟格、豫王多鐸各將萬騎,由東西水關分道入,而自率大軍繼進。是夜,遇唐通兵,於一片石擊敗之,進簿關門。三桂率騎後突出,謁多爾痛袞,即军中薙髮設誓,請即入關。承疇言:「寇眾東出,京師空虛,宜由西北繞出居庸關,襲據北京,俟寇軍援,然後一戰擒之。」而三桂則謂關門禍急,堅持不可。而多爾袞亦慮流寇當百戰之後,標悍無匹,不可輕敵,因令三桂兵以白布繋肩為號,率之先行以嘗賊,而自率精銳以從。至則自成已列陣關內,自北山橫亙至海。自成初破都城,精銳不遇萬數,所至虛聲脅下,示當經大敵,既飽掠思歸。聞邊兵動,無不寒心。自成知成敗決於一戰,益驅眾,連營並進。三桂悉眾出戰,無不一當百,奮擊、殺寇數千,寇亦賈勇疊進。自成挾明太子及永定二王登高岡,立馬觀戰。寇眾三面圍三桂,三桂兵東西馳突,寇散而復合。及午,風發塵起,兩軍不相辨,阿濟格、多鐸率鐵騎橫躍入陣,所向披靡。俄城開,眾見甲而辨髮者曰滿洲兵矣。自成策馬走,諸寇皆潰散,自相蹂躪,死者甚眾。自成以數千騎急走永平。是日,多爾袞下令,使關內外兵民薙髮,進三桂爵為平西王。 五月,多爾袞入京師。時明太子已至三桂軍中,三桂請護之入京師,即大位。多爾袞不許,檄之西行追賊。三桂乃送太子於明太監高起潛所,都自自成遁去,原任御史曹溶率眾城守,搜餘賊。是月朔日,城中接太子手勅,以初二日入都,為大行皇帝、大行皇后舉行大事,末署義興元年。四月二十六日,至期,忽傳太子已至城外,錦衣衛都指揮使駱養性與侍郎沈維炳等立崇禎帝位哭臨,司禮監王德化等,備法駕迎太子。諸臣望塵,俯伏,入朝陽門,非太子也,眾駭愕前,前騶者麾都人悉去白冠,則多爾袞率滿洲兵入城矣。於是,明文武諸臣,具表勸進。大學士范文程偽為不知也者,語眾曰:「我國皇帝去歲登極矣,何勸進之有?」遂為明帝發喪,令軍民各服喪三日,並諭禮部太常寺以禮改葬,諡帝懷宗端皇帝,后為烈皇后。尋遣官至盛京奏報。 六月,太白見,有白氣自西南至東北。多爾袞與諸王貝勒大臣等定議建都燕京,遣輔國兵屯奔哈等處,表迎帝。 秋七月,多爾袞遣官往房山,訪金朝陵初始,令繪圖進覽。 八月丙辰朔,日食。 九月,金星畫見。帝至京師。 冬十月,帝親詣南郊,祭告天地社稷,頒時憲書,詔中外,盡除明季加派稅餉、廠衛諸弊政。令文臣衣冠暫從明制。時尚未厲行薙髮令也。建堂子於御河橋東,在長安左門外。滿洲舊以設竿祭天,又 總祀社稷諸神於靜室,名曰堂子。 十二月,棄明太子慈烺於市。先是,十月間太子自高起潛所逸出,隨內侍楊玉,投其外祖嘉定伯周奎府中。奎姪鐸,引與長平公主相見,抱頭慟哭。奎飯之,舉家行君臣禮,傍晚哭別而去。數日復至,公主贈一錦袍,戒云:「慎勿再至。」至十九日又至,奎留宿,語之曰:「太子自詭姓劉,為書生,庶可免禍,否即向官府究論。」太子不從,逐之門外,遂以犯夜被擒。刑部勘問其事,訊內侍舊臣常進節,舊司禮王德化,共言此真太子。百姓觀審者數千人,亦同聲呼真太子。及廷訊時,太子言宮中事悉無訛,召故錦衣官李時蔭及嘗侍衛東官者十人證之。十人應聲對曰:「真也。」獨有曾降之晉王求桂言非是,遂下太子及常侍、內監、錦衣十五人於獄。刑部承審官山東司主事錢鳳覽詳訊,以真太子報,命求往詆,鳳覽呵之,乃復廷訊。內閣謝陛、馮銓等執為偽,鳳覽復上書力爭,略謂前太子危地也,向所覬覦而假之。京師商民各具書請釋太子,順天府民人楊博等亦疏請留太子以奉明祀。又有宛平楊時茂者上疏請將茂身剁為泥,骨䂳成粉以贖太子,疏中並言謝陛禽獸無道。多爾袞曰:太子真偽無傷,但晉王明之宗室,謝陛明之大臣,鳳覽之呵晉王,百姓之詈謝陛,皆亂民也,令下獄死。鳳陽民張三忽誓眾救太子,生員楊生、孫生應之,俱擒殺,遂命棄太子及十五人於市。

  二年,春正月,朝鮮來貢,自後歲以為常。 二月,詔民間墳墓,在滿洲圈占地內者,許其子孫歲時祭掃,從給事中向玉軒言也。詔民間房屋撥給旗下者,寬予期限,俟其搬移,始令旗人管業,從言官傅景星請也。 三月,詔直省府州縣學生員,各遣文行兼優者,大學二名,小學一名,送入國子監肆業。聽監臣考課,仍以貢監名色,彙送應試。 夏四月,舉行武會試。 五月,詔修明史,以大學士馮銓、洪承疇、李建泰、范文程、剛林、祁充格等為纂修官。宣府民人劉伯泗,掘地得石匣,內含天書,又石彈內有元帥印,遂自稱天罡星。巡撫馮兆聖捕斬之。 六月,定薙髮之制。限旬日內,有仍存明制者,殺無赦。陝西民人胡守龍聚眾數萬,自稱徐會公,建號清光元年。總督孟喬芳擒斬之。 閏月,命大學士洪承疇招撫江南各省。恭順侯吳惟華、尚書孫之獬、侍郎黃熙允、江禹緒、丁之龍、謝弘儀等招撫廣東、廣西、江西、福建、湖南、雲、貴等省。定群臣王公以下及生員、耆老頂戴品式。河決王家圓。改江南民解漕、白二糧為官,兌官解。 秋七月,詔自今內外章奏俱由通政使司封進。太堂寺典簿王文言:疏請設立江南、長江一帶蘆政,徵收荻蘆常稅。時以江南地方初定,不許。 九月,殺明新昌王。明懷安王來降。諭戶部,河間、滐州、遵化等州府縣,凡無主之地,給與旗人耕種,其前明公、侯、伯、駙馬、皇親、太監地,著照家口給發外,餘給八旗。 冬十月,削原任陝西河西道孔文標識為民。因請免孔氏子孫薙髮也。 十二月,乙卯朔,日食。禁刑部濫牧詞訟,後民間詞訟,在外歸撫按監司,在內歸順天府、大宛二縣,如有冤抑,准赴通政使司,呈請發審送部。如問刑衙門聽斷不公,致使小民受冤者,事發疊治。禁內監朝參及排班。

  三年,春正月,定歲祭陵、廟禮。廣本年會試中,式額數至四百名,房員二十員,後不為例。 三月,譒譯明洪武實訓成,頒示中外。詔本年八月再行鄉試,來年二月再行會試。其未歸附地生員、舉人,不投誠者,准一體應試。 夏五月,嚴隱匿滿洲選人之禁。殺明魯王等十一人。 六月,嚴捕白蓮、大成、混元、無為等教。 秋九月,京師地震,其聲自南而北。冬十月,帝獵於近畿六日,還宮。諭,有為薙髮、衣冠、圈地、逃人、牽連五事具奏者,一概治罪,本不許封進。

  四年,春正月,奪漕運總督王文奎職,下刑部議罪。坐擅免荒田租賦及瀆請前明陵寢祀典也。 三月,命在京三品以上及在外總督、巡撫、總兵等官,各送一子入侍。頒行《大清律》。給江寧、西安駐防旗員圈地。江寧人六十畝至五百八十畝,西安人二百五十畝至二百四十畝。 夏六月,遣戶部副理事官繆尚義等赴廣東雷州、廉州等處採珠。 秋七月,帝獵於邊外。 八月,還京師。禁佛朗西人在濠境澳貿易者,不許入廣東省會。冬十月,吏部奏請以三載考績為定制,報可。 十一月,五鳳樓成。

  五年,春二月,詔許滿漢通婚,並定官民服飾之制,悉依滿裝。 夏五月,己丑朔,日食。 秋七月,天津婦人張氏稱稱明天啟后,謀起事,捕殺之。

  六年,春正月朔,帝避痘,免朝賀。 夏六月,以歲用不足開監生、吏典、承差等捐例,及給內外僧道度牒,准徒杖等罪折贖。 秋七月,江南蘇、揚、淮、鳳各屬州縣衛所及河南磁州、羅山縣大雨雹。傷稼。

  七年,冬十月,辛巳朔,日食。

  八年,春正月,帝始親政,御太和殿受賀,頒詔大赦。以蘇克薩哈、詹岱,伊图、鞏阿岱、鰲拜、巴哈詹、杜爾瑪為議政大臣。 二月,諭戶部,各處圈占民地以備畋獵者,悉數退還原主。 閏月,停給僧道度牒。 三月,命諸王貝勒、貝子等管理各部院事務。派巽親王吏部,承澤親王兵部,端重郡王戶部,敬謹郡王禮部,順承郡王刑部,謙郡王工部,貝勒喀爾楚渾理藩院,貝子吳達海都察院。以連日風霾,命刑部通刑獄。 夏四月,帝幸沙河。 五月,還京師。 冬十月,給事中魏象樞疏諫遊幸報聞。

  九年,春正月朔,帝避痘南苑,免朝賀。 京師地震。 命安郡王岳樂管工部事,貝勒尚喜管理藩院事。 三月,革退會試中式第一名舉人程可則名,並治考官胡統虞等罪。以閣臣范文程奏可則文理荒謬,首篇尤悖,戾經注也。罷諸王貝勒、貝子管理部務。 夏五月,德州大雨雹,大者如瓜。殺三人,沈漕舟一。吏部奏京察,應以帝親政辛卯年為始,六年一次,遇寅申年舉行。從之。 六月,江南旱饑。帝獵於南苑十日,還宮。先是,兵科給事中楊雍建聞駕數出,上疏諫,中有慎起居,謹出入,毋勤於原獸語,帝震怒,宣跪苑庭,面數其罪,令免冠謝。雍建抗聲曰:「臣但知忠愛皇上,無他罪。」帝益怒,色變,往返數數過其前,譙讓不已。諸臣侍直者,皆股栗,雍建不為動。 秋八月,戶部左侍郎王永吉疏言:「現直隸、山東、河南、山西皆報大水,江南、江北、湖廣、浙江皆稱大旱,請停罷遊觀,減撤音樂,董戒臣工,實圖修省。」報聞。 九月,太白星與日爭光,流星入紫微宮。時大學士洪承疇、陳之遴疏言:星變異常,宜𢢩惕。且今年南方苦旱,北方苦澇,歲饑寇警,處處入告。請停止親迎達賴喇嘛。從之。 冬十月,范文程等奏興屯四事:一舉屯宜選舉得人,一開望宜收穫如法,一積貯宜轉運有方,一責成宜賞罰必信。帝是之。 十二月,帝獵於南苑,十日還宮。 殺京師大豪李應試、潘文學等。應試,別名黃膘李三,原係積年重犯,專一豢養劫盜,勾結奸梟,交結官司,役使衙蠹。其住宅分照六部,仿崇文門一應稅務,擅抽課錢,罪案山積。鞠審之日,閣臣𪧟完我、陳之遴、陳名夏等至不敢發言,以其廣通聲氣,恐遭陷害也。文學,應試黨。

  十年,春二月,帝至內院,見少詹事李呈祥條議部院衙門裁去滿官,專一漢人一疏,怒與洪承疇曰:「朕用人不分滿漢,汝等何反生異議?」承疇等不能答,尋革呈祥職,免死流徙盛京。 三月,帝獵於南苑,召漢大臣及諸詞臣賜宴,出院外獵三日,苑中網魚一日。自是歲以二三次為率,不備紀。 夏四月,以元旱,詔求直言,諭內外法司清獄。 五月,殺明福清王嫡子由杞。 六月,定改折各省本色錢糧於一條鞭法。直隸大水,京師海河一帶房舍田禾被淹。 冬十一月,制立限報災法。夏災限六月終,秋災限九月終。先將被災情形馳奏,隨於一月內查覈輕重分數,奏請蠲豁。其逾限一月者,巡撫及道府州縣罰俸,逾限一月外者降級,遲緩已甚者革職,永著為例。殺明泰昌帝第三子由極等二十九人。 十二月,京師地震,有聲。

  十一年,春正月,左都御史趙開心條奏六款,中有奏對宜勤及屏斥畋遊語,帝大怒,著嚴飭行。 二月,賞盛京獵戶李百總衣服鞍馬,以其收養山海關內貧民四百餘口,故嘉之。 三月,絞殺大學士陳名夏。名夏嘗推帽摩首語𪧟完我曰:「留頭髮,復衣冠,天下即太平矣。」完我以聞,命處絞。子掖臣及家屬遣戍。 夏四月,京師地震。停命婦更番入侍例。 六月,陝西地震。河決大王廟。 秋八月,殺明樂安王翊淜。 冬十二月,湖南大火,延燒民房萬六千餘戶。

  十二年,春二月,江南地震。 三月,削給事中季開生職,流徙尚陽堡。因請收回揚州採買女子成命。忤旨。同時,戶部右侍郎趙開心亦以請寬隱匿旗下逃人之禁,降五級調用。 夏六月,賜名紫禁城後山為景山,西華門外臺曰瀛臺。 秋七月,癸未朔,日食,遣廷臣恤刑各省。

  十三年,夏四月,山西陽曲地震。以近者冬雷、發雪、隕石、雨土,連年水旱諸災變,祭告南郊太廟。以三事自責。 六月,荷蘭來貢。山東莒州地震。 秋九月,遣官畿輔𪪟囚。停閣臣議政。

  十四年,春二月,山西雲鎮地震。 三月,詔直省學臣訪求遺書。 夏四月,四咱保寧府、成州、茂州地大震。 五月,癸卯朔,日食。 秋九月,帝御經筳。京師地大震。 冬十月,殺大理評事張我樸、張振鄴、中式舉人田耜等。因本年北闈通關節,為御史任克溥所糾也。

  十五年,春三月,殺內監吳良輔。以交通內外官員作弊、納賄也。 夏四月,降直隸、河南、山東總督張懸錫三級。調用懸錫至順德府,迎義王孫可望,為學士麻勒吉所辱,羞憤自剄,為左右救免。帝以懸錫失大臣體,令降三級調用。後懸錫卒不見容於麻勒吉,仍至縊死。 秋八月,江蘇松江地震。

  十六年,春二月,命於今年秋再行會試。以雲南蕩平故也。 夏四月,申嚴誣告之禁。

  十七年,夏五月,以亢旱,詔求直言。 六月,遣大臣清理刑獄。行封駁之典。從掌翰林院事學士折庫納條奏也。詔嗣後諭旨有未確之處,聽內閣及諫垣各官封駁。 秋八月,貴妃董鄂氏薨。后原姓董氏,名小宛,為明季遺民冒辟疆之姬人。順治二年,沒收入宮,至是卒,追封皇后,諡端敬。

  十八年,春正月,彗星夜見,帝崩,(自帝崩之耗出,有謂彗星之發見,實不祥者。有謂帝實未崩,假彗星之發見而出家於五臺山者。傳聞如是,附紀於此。)太子玄燁嗣立。帝年二十有四,諡曰章,廟號世祖,葬直隸遵化州之豐臺嶺,號孝陵,妃董鄂氏殉,追封貞妃。

編者曰:方端敬皇后之歿也,帝輟朝不視事,自是獨居養心殿中,朝夕悲慟。詔諭群臣,有朕復何心於人世語,遺詔中亦有予心深為痛悼,追念賢淑,喪祭典禮,過從優厚。不能以禮止情,諸事踰濫不經云云。於是相傳帝實未崩,當是因痛后故,遜位出宮,披緇雲遊。五臺山清涼寺實其卓錫處。後聖祖數奏太皇太后、皇太后幸其地,虔禮諸寺,即為謁帝也。貞妃為端敬皇后妹,帝出亡時,惟妃知之,後有言於太后者,妃懼自盡。施氏《行在陽秋》中載:「八旗將士陰謀推戴明永歷帝事,諸將士曰:『此真主也,我等雖有主,今知其安在?不如奉此,以成不世之功。』」又光緒中葉,江右學士文廷式,在京師琉璃廠肆一書擽中,購得順治十三年曆書一冊,蓋有欽天監硃印,審非偽造之本,有知其事者,謂帝出亡後,聖祖嗣位,已頒行康熙元年憲書。而內廷進御,另刊順治十九年之本,與康熙本並行,以彰孝敬。自帝脫緇後始已云。綜以上觀之,其言皆持之有故,宜若可信。然竊疑其出於附會,故不著於篇。

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