清史紀事本末流賊の平定(削平流寇)
要約
順治元年四月、李自成は永平から京師へ遁れ還り武英殿で帝号を僭称した。呉三桂が山海関で破り追うと和を議したが、太子と二王を返せと言い伏兵で太子を奪わせ、自成は大敗し襄と家族を殺した。大順永昌元年と僭号し高氏を皇后とし、宮殿を焼き二王を挟み西へ走った。三桂は太子の即位を称したが多爾袞は許さず、高起潜に送り追撃した。
七月、自成は定州で谷可成を失い、真定でも大敗し流矢に中って山西に入った。三桂は平西王に進められた。自成は平陽で李巌を殺した。巌は殺さず人心を収めよと勧め、京師で士大夫を拷問せず懿安皇后を保護して称えられたが、河南行きを請うと、牛金星が故郷に大兵を与えるのは蛟龍に雲雨を貸すようだと告げ、李牟とともに殺され、軍士は解体した。八月、葉臣が府谷の李過を撃ち半ば以上を殲した。
十月、山西・山東が平定され、阿済格を榆林・延安から陝西の背後に、多鐸を河南から潼関に向かわせた。十二月、多鐸は洛陽・陝州を破り潼関の外を収めた。二年正月、劉宗敏が潼関を固め自成も救援したが敗れ、馬世耀の偽降も斬られ、阿済格が延安を下し、腹背に敵を受けて西安へ還った。
二月、多鐸が西安に入り、自成は武関から襄陽へ走った。田見秀は倉廩を焼く命に従わず、秦人を活かそうと一楼を焼くにとどめ誅毀を免れた。五月、阿済格が追うと、自成は武昌で五十万を四十八部に分け東下を謀ったが、暴風に旗槍が折れて湖南へ向かい、九宮山の玄帝廟で郷兵に劫盗と疑われ斬り殺された。衆は何騰蛟に降り、隆武帝がその営に忠貞の名を賜い、騰蛟が自成の子の錦に赤心、弟の一功に必正の名を賜った。騰蛟は功を言わず、元凶は除かれたと上疏するのみであった。
十二月、豪格が順慶に入り張献忠を磔にした。献忠は元年八月に成都で大西と僭号し大順と改元し、近郡を屠り蜀の数千里に人跡が絶えた。民が尽きると成都を焼いて川北へ出、川の兵も殺そうとしたので、保寧の劉進忠が逃れて嚮導となった。鳳凰坡の大霧に軍が山に登り、諜者が三たび告げても信ぜず斬り、鉄騎が迫って出たところを布蘭が射て額に中て、薪の下から引き出された。四年二月、遵義の孫可旺は献忠の妻劉氏を主としたが、豪格が重慶を克つと后を焼き貴州へ遁れ、流寇は平らげられた。
年表
順治元年(1644年)から順治四年(1647年)までの、李自成・張献忠ら流寇の掃討を扱う。山海関の敗北後、李自成は北京で帝号を僭称して西へ奔り、呉三桂の追撃と葉臣らの各地平定を経て、英親王阿済格と豫親王多鐸が二路から陝西に迫る。李自成は李巌を讒言によって殺して人心を失い、潼関・西安を棄てて襄陽へ走り、順治二年(1645年)に通山の九宮山で郷兵に殺され、残衆五十万は明の何騰蛟に降った。同年、豪格が四川で張献忠を鳳凰坡に射て磔にし、順治四年(1647年)に孫可旺が遵義から貴州へ遁れて流寇は平定された。
年表(3件)
- 西暦1644年 順治元年李自成が山海関に敗れて北京で帝号を僭称し西へ奔る
- 西暦1645年 順治二年李自成が九宮山で殺され、豪格が張献忠を捕らえて磔にする
- 西暦1647年 順治四年孫可旺が遵義を棄てて貴州へ遁れ流寇が平定される
現代語訳全文
西暦1644年 順治元年
- 順治元年、夏四月、流寇の李自成は永平から京師へ遁れ還り、武英殿で僭して帝号を称し、ついで山西へ奔った。
- 呉三桂は自成を山海関で破った。自成は永平へ走り、三桂が追って至ると、自成は使者をその軍中に遣わして和を議した。三桂は言った。「わが太子と二王を返してこそ、そのうえで可である(底本「而復可」は「而後可」の誤りか)。」自成は太子を出して三桂に会わせた。三桂はあらかじめ守備の張成、指揮の范玉にそれぞれ兵一千を率いさせ、賊の旗幟を用いて東西に伏兵を置き、太子が出たならば急ぎ賊の営を撃たせ、また都統の耿士良に全軍を率いて応じさせて、太子を奪い取ろうとした。自成は果たして伏兵に中って大敗し、怒って三桂の父の襄およびその家族を殺した。
- そして僭号して大順永昌元年と称し、七代を追尊してみな帝・后とし、妻の高氏を立てて皇后とし、袞冕を着けて儀仗を列ね、天を郊祭して朝賀を受けた。この夕、火を放って宮殿を焼き、翌朝、二王を挟んで(底本「狹」は「挾」の誤りか)西へ走った。
- 三桂は城に火の起こるのを望み見て、自成がすでに去ったことを知り、京師に伝え諭して、太子を護って入城させ大位に即けると称した。摂政王の多爾袞は許さず、檄して西へ行かせた。三桂はそこで太子を高起潜のもとに送り、兵を起こして自成を追った。
- 秋七月、李自成は西安へ遁れ帰った。自成は西へ走って定州に至ったが、呉三桂が清水河でこれに追いついた。自成は迎え撃ったが、また大敗し、その将の谷可成は陣中で歿し、そこで真定へ走って屯した。三桂は遼東巡撫の黎玉田と兵を合わせて追いつき、自成は精騎を勒して迎えた。三桂は二翼を張って進み、斬首一万級を挙げた。自成は兵を増して搏戦し、諸将を率いてまっすぐ営の前に迫った。三桂は兵を分けて交互に戦い、朝から暮れまで戦った。自成は流れ矢に中って馬から落ち、脇を支えられて騎乗し、営を抜いて西へ遁れ、故関を度って山西に入った。三桂は兵をもってこれを逐ったが、関に及んで止め、京師へ還った。そのとき多爾袞はすでに燕京を定めており、三桂の爵を進めて平西王とした。
- 自成は平陽に至り、讒言によってその将の李巌を殺した。巌はもともと自成に、殺さないことによって人心を収めるよう勧めていた。彼が京師にいたとき、諸々の賊は日々人を殺したが、巌は士大夫に対して拷問も掠奪もせず、また懿安皇后を保護して危地から出し、従容として自死させており、軍中で彼を称える者が多かった。定州の敗戦のとき、河南の州県の多くが反正したと伝えられ、巌は兵を率いて往くことを請うた。牛金星はひそかに自成に告げた。「巌は雄武にして大略があり、久しく人の下に居る者ではありません。しかも河南は巌の故郷です。もし大兵を与えれば、これは蛟龍に雲雨を貸すようなもので、必ず制しきれなくなります。」そこで自成に巌を除くよう勧め、ついに巌およびその北车(「弟牟」=弟の李牟の誤りか)を捕らえて殺した。ここにおいて軍士は解体し、自成はついに再び戦うことができず、西安へ帰った。別将を遣わして漢中を攻め落とし、また兵を分けて潼関から出し、河南および四川の保寧の一路を掠めた。張献忠が兵を出して拒んだので、引き返した。
- 八月、都統の葉臣が賊を府谷で破った。自成の将の李遏(「李過」の誤りか)が新安から衆三万を糾合して府谷を犯し、大同に迫った。葉臣が兵を出してこれを撃ち、殲殪すること半ばを過ぎた(底本「過车」は「過半」の誤りか)。過は傷を負い、綏徳へ逃げ帰った。
- 冬十月、英親王の阿済格、豫親王の多鐸を遣わし、二路に分かれて西安に赴き李自成を討たせた。そのとき帝は盛京に至っており、近畿の諸々の統兵官が相次いで勝報を奏した(底本「奏捉」は「奏捷」の誤りか)。直隷巡撫の衛周允らは真定・大名・順徳・広平の四府の山寨を削平し、都統の葉臣らは進んで三晋を平らげ、至るところ迎え降った。巡撫の馬国柱は汾州・平陽の諸々の寇を進剿し、山西はことごとく平らいだ。粛王の豪格は清州(「青州」の誤りか)の満家洞の各路を平定し、山東の諸郡はみな定まった。ここにおいて大挙して陝西に入ることを議し、二路に分かれて出師した。阿済格を靖遠大将軍とし、呉三桂・尚可喜らを率いて、大同の辺外から諸々の蒙古の兵と会して榆林・延安に赴かせ、陝西の背後に出させた。多鐸を定国大将軍とし、孔有徳らを率いて河南から潼関を挟撃させ、西安で会師する期とした。
- 十二月、多鐸が賊を洛陽で破り、進んで陝州を攻めてこれを破った。多鐸の軍は孟津を渡り、寇の将の張有声を洛陽で破り、延河(「沿河」の誤りか)の寨堡を収めた。進んで陝州に至ると、張有曽が霊宝に拠って守り拒んだが、前鋒参領の索渾らがこれを撃破し、潼関の外の地をことごとく収めた。
西暦1645年 順治二年
- 春正月、李自成が軍を率いて潼関を救援したが、敗績して西安へ遁れ帰った。自成の将の劉宗敏は潼関に兵を盛んにし、守禦の計を立てた。多鐸の軍が至ると、自成の将の劉芳亮が迎え拒んだが、多鐸の軍はこれを破った。自成はみずから兵を率いて救援に来て、宗敏に山に依って陣を構えて待たせた。そのとき多鐸は大砲がまだ到着していなかったので、前鋒将の索渾に兵三千をもって、関を距てること二十里の地に営を立てさせた。宗敏はこれを三日囲んだが、夜になっても人馬は静まりかえっていて、寇の衆はその意図を測りかね、あえて撃たなかった。軍が大いに集まるに及んで、自成は関を出て迎え戦ったが利あらず、将の馬世耀を遣わして衆とともに偽って降らせたが、多鐸はこれを斬った。自成は返って延安に拠ろうとしたが、阿済格の一軍はすでに保徳州から筏を編んで河を渡り綏徳に入り、続けて延安・鄜州を下し、西安の北に迫っていた。自成は腹背に敵を受け、関を棄てて西安へ還った。
- 二月、多鐸が西安に入り、李自成は襄陽へ走った。潼関の敗戦で、自成の将の谷英・李過はともに潰えて逃げ、ただ李錦だけが榆林の一軍をもってこれに従った(底本「縱之」は「從之」の誤りか)。自成は西安を守りきれないと知り、田見秀に命じて倉廩を焼き、宮室を焼かせ、東門を出て、商州の龍駒寨から武関へ走り、襄陽に入った。自成が見秀に積み蓄えを焼き、あわせて宮室や市街を焼くよう命じたとき、ちょうど自成はすでに去っていたので、見秀は言った。「秦の人々は飢えている。この米を残して百姓を活かそう。」そして東城の一楼を焼いただけにとどめた。商州で自成に追いついて「すでに焼きました」と言った。後に劉宗敏らの宗族や墳墓で秦中にあるものはみな誅せられ毀たれたが、ひとり見秀の家だけは免れた。
- 夏五月、阿済格が李自成を追って大いにこれを破った。自成は走って死んだ。自成が武昌に至ったとき、左良玉はすでに衆を率いて東へ下っており、城中に人はいなかった。自成の諸将の田見秀・袁宗第・劉体乾・劉芳亮・張鼎・呉従義・牛万才らはみな従って入った。衆はなお五十万あり、四十八部に分け、江夏を改めて瑞符県とし、永昌銭を鋳造し、舟を奪って東下し宣城を取ろうと謀って言った。「西北は定まらないとはいえ、東南までどうしてまた失ってよかろうか。」出発しようとすると陰霾が四方を塞ぎ、暴雨と烈風で旗や槍がことごとく折れた。また阿済格がその後を追ってくるのを恐れ、南京を取りに往くと誓言した。ある夕、営を抜いて起ち、湖南に拠ろうと思い、その四十八部に先発を命じ、みずからは十二騎で殿をつとめた。にわかに軍騎は通山の九宮山へ赴き、玄帝廟に入った。郷兵は劫盗かと疑い、刃で斬り殺した。
- その衆はことごとく明の湖広総督の何勝蛟(「何騰蛟」の誤りか)に武器を投じて降った。隆武帝はその営に「忠貞」という名を賜った。騰蛟は旧来の軍を混ぜて十三鎮に分け、湖の西北に列ね、自成の子の錦に赤心という名を賜い、弟の一功に必正という名を賜い、みな龍虎将軍を掛けさせ、列侯に封じた。妻の高氏は忠義夫人とした。自成は中国を乱すこと二十年、帝都を陥れ、廟社を覆した。その死ぬに及んで、その衆五十万はことごとく騰蛟に帰し、当時これを異事と称した。しかし騰蛟は口に功を言わず、上疏してはただ、元凶はすでに除かれ、いささか神と人の憤りを晴らしました、郊廟に告謝すべきです、と言うのみであった。人々はこのことで彼を多とした。
- 冬十二月、豪格が順慶に入り、張献忠を捕らえて磔にした。献忠は元年八月に成都に拠り、僭号して大西といい、大順と改元し、成都を名づけて西京といい、孫可旺・艾能奇・白文選らを遣わして附近の諸々の郡邑を手分けして屠らせ、蜀の全土数千里に人跡が絶えた。川中の民が尽きると、そこで西安をうかがうことを謀り、成都の宮殿・廬舍をことごとく焼き、その城を平らげた。衆を率いて川北へ出、また川の兵をことごとく殺そうとした。その保寧の守将の劉進忠はもと川の兵を統べていたが、献忠はこれを捕らえてその衆を坑にしようとした。その言を洩らして聞かせる者があり、進忠はこれを聞いて、一軍を率いて逃げた。ちょうど豪格の軍が漢中に至ったので、進忠は来奔して嚮導となることを請うた。
- 塩亭・丁充の間の鳳凰坡に至ったとき、たまたま大霧となり、ひそかに軍を率いて山に登った。賊の諜者が馳せて告げたが、献忠は進忠が朝天関を守っていると思い、兵が来るとは思いもせず、告げた者を斬った。このようなことが三度あった。豪格は鉄騎を揮ってこれに迫った。そのときはちょうど辰の刻で、献忠は飯を口に含んだまま牙将数十人に命じて慌ただしく出て視させた。進忠が指し示すと、射術に巧みな章京の布蘭がこれを射て、その額に中った。献忠は逃げて積んだ薪の下に伏したが(底本は「逃逃伏積薪下」に作る。「逃」の重出は衍字か)、引きずり出されて磔にされた。その将の孫可旺らは遵義へ走った。
西暦1647年 順治四年
- 春二月、孫可旺が明の遵義を陥れ、ほどなく貴州へ走った。賊は遵義に入ると、献忠の妻の劉氏を奉じて主とし、桃花洞に駐まった。ほどなく豪格の軍が重慶を克ったので、可旺は賊の后を焼き、貴州へ遁れ入った。流寇はことごとく平らげられた。
原文(底本)
順治元年,夏四月,流寇李自成自永平遁還京師,僭帝號於武英殿,遂奔山西。吳三桂破自成於山海關。自成走永平,三桂追至,自成遣使赴其軍中議和。三桂曰:「歸我太子、二王而復可。」自成出太子見三桂,三桂先令守備張成指揮范玉各率兵一千,用賊旗幟東西設伏,俟太子出,疾擊賊營,又令都統耿士良率全軍為應,以奪太子。自成果中伏大敗,怒殺三桂之父襄及其家屬,遂僭號稱大順永昌元年,追尊七代皆為帝后,立妻高氏為皇后,袞冕列仗,郊天受朝賀。是夕,縱火焚宮殿,詰旦狹二王西走。三桂望城火起,知自成已走,傳諭京師,稱護太子入城即大位。攝政王多爾袞不許,檄之西行,三桂乃送太子於高起潛所(旋逸於民間),起兵追自成。 秋七月,李自成遁歸西安。自成既西走至定州,吳三桂追及之於清水河,自成迎戰,復大敗,其將谷可成陣歿,遂走屯真定。三桂與遼東巡撫黎玉田合兵追及之,自成勒精騎迎之,三桂張二翼以進,斬首萬級,自成益兵博戰,率諸將直逼營前,三桂分兵迭戰,自晨至暮,自成中流矢墜馬,掖而騎,拔營西遁,度故關入山西,三桂以兵逐之,及關而止,遂還京師。時多爾袞已定燕京,晉三桂爵平西王。自成至平陽,以讒殺其將李巖。巖故勸自成以不殺收人心。其在京師,諸賊日殺人,而巖於士大夫無所拷掠,又嘗保護懿安皇后出險而俾之從容自死,軍中多稱之。定州之敗,傳言河南州縣多反正,巖請率兵往。牛金星陰告自成曰:「巖,雄武有大略,非久居人下者,且河南,巖故鄉,若以大兵與之,是假蛟龍以雲雨,必不制矣。」因勸自成除之,遂收殺巖及其北车,於是軍士解體,自成遂不能復戰而復歸西安。遣別將攻陷漢中,復分兵出潼關,掠河南及四川之保寧一路。張獻忠出兵拒之,乃還。 八月,都統葉臣敗賊於府谷。自成將李遏自新安糾眾三萬犯府谷,逼大同葉臣出兵擊之,殲殪過车,過中創,竄歸綏德。 冬十月,遣英親王阿濟格、豫親王多鐸分兩路趨西安討李自成。時帝至盛京,近畿諸統兵官先後奏捉,直隸巡撫衛周允等削平真定、大名、順德、廣平四府山寨,都統葉臣等進平三晉,所至迎降。巡撫馬國柱進剿汾州、平陽諸寇,山西悉平。肅王豪格平定清州滿家洞各路,山東諸郡皆定。於是議大舉入陝,分兩路出師,以阿濟格為靖遠大將軍,率吳三桂、尚可喜等,由大同邊外,會諸蒙古兵赴榆林、延安,出陝西之背。以多鐸為定國大將軍,率孔有德等由河南夾攻潼關,期與西安會師。 十二月,多鐸敗賊於洛陽,進攻陝州,破之。多鐸軍渡孟津,敗寇將張有聲於洛陽,收延河寨堡。進至陝州,張有曾據靈寶拒守,前鋒參領索渾等擊破之,盡收潼關外地。 二年,春正月,李自成率師援潼關,敗績,遁歸西安。自成將劉宗敏盛兵潼關,為守禦計。多鐸軍至,自成將劉芳亮迎拒,敗之。自成親率兵來援,令宗敏依山為陣以待。時多鐸以大礮未至,遣前鋒將索渾以兵三千,距關二十里立營。宗敏圍之三日,夜,人馬寂然,寇眾莫測,所以不敢擊。及師大集,自成出關迎戰,不利,遣將馬世耀以眾偽降,多鐸斬之。自成欲返據延安,而阿濟格一軍已自保德州,編筏渡河入綏德,連下延安、鄜州,逼西安之北,自成腹背受敵,棄關還西安。 二月,多鐸入西安,李自成走襄陽。潼關之敗自成將谷英、李過俱潰逃,惟李錦以榆林一軍縱之。自成知西安不能守,令田見秀燒倉廩,焚宮室,出東門,由商州龍駒寨走武關以入襄陽。方自之命見秀焚積聚,並爇宮室市里也,會自成已去,見秀曰:秦人饑,留此米活百姓,止燒東城一樓。追及自成於商州曰:「已焚矣!」後劉宗敏等宗族墳墓在秦中者皆被誅毀,獨見秀家獲免。 夏五月,阿濟格追李自成,大破之。自成走死,自成至武昌,左良玉已率眾東下,城中無人。自成諸將田見秀、袁宗第、劉體乾、劉芳亮、張鼎、吳從義、牛萬才等皆從入。眾尚五十萬,分為四十八部,改江夏為瑞符縣,鑄永昌錢,謀奪舟東下取宣城曰:「西北雖不定,東南距再失之。」將發而陰霾四塞,暴雨烈風,旗槍盡折。又恐阿濟格躡其後,誓言往取南京。一夕拔營起,思據湖南,命其四十八部先發,而自以十二騎殿。忽軍騎趨通山之九宮山,入玄帝廟。鄉兵疑為劫盜,刃劈之死,其眾悉投械於明湖廣總督何勝蛟。隆武帝賜其名營曰「忠貞」。騰蛟參以舊軍,分為十三鎮,列湖西北,賜自成子錦名赤心。弟一功名必正,皆掛龍虎將軍,封列侯。妻高氏,忠義夫人。自成亂中國二十年,陷帝都,覆廟社。及死,其眾五十萬,悉歸騰蛟,一時稱異事。而騰蛟口不言功,上疏但言元兇已除,稍洩神人之憤,宜告謝郊廟,人以此多之。 冬十二月,豪格入順慶,獲張獻忠,磔之。獻忠於元年八月據成都,僭號大西,改元大順,名成都曰西京,遣孫可旺、艾能奇、白文選等分屠附近諸郡邑,全蜀數千里無人跡。川中民盡,乃謀窺西安,盡焚成都宮殿廬舍,夷其城。率眾出川北,又欲盡殺川兵,其保寧守將劉進忠故統川兵,獻忠將執之而坑其眾。洩言於聞者,進忠聞之,率一軍逃。會豪格軍至漢中,進忠來奔,請為嚮導。至鹽亭丁充間之鳳凰坡,會大霧,潛勒軍登山,賊諜馳告。獻忠以進忠守朝天關,不虞兵至也,斬之,如是者三,豪格揮鐵騎促之。時方辰時,獻忠含飯命牙將數十人倉皇出視,進忠指善射者章京布蘭射之,中其額。獻忠逃逃伏積薪下,曵出,磔之,其將孫可旺等走遵義。 四年,春二月,孫可旺陷明遵義,尋走貴州。賊入遵義,奉獻忠妻劉氏為主,駐桃花洞。已而,豪格師克重慶,可旺乃焚賊后,遁入貴州,流寇悉平。
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