清史紀事本末明の南渡三帝と監国魯王(明南渡三帝及監国魯王)
要約
順治元年五月、史可法らが福王由崧(神宗の皇孫)を南京で監国とした。馬士英は次序を主張し、可法は潞王常淓を賢としたが、士英が劉孔昭らと密議し四将が兵で迎えた。大行皇帝の喪を発し大赦し、可法・士英・高宏図・姜曰広・王鐸を東閣大学士とし、王は即位し翌年を弘光元年とした。士英は入相を冀ったが鳳陽督師とされ怒り可法を外へ出し、可法も江上の督師を請い、士民は騒ぎ太学生陳方策らが上疏した。江北を四鎮に分けて沢清を淮安、傑を泗州、良佐を臨淮、得功を廬州に駐し、得功を靖南侯、傑を興平伯、良佐を広昌伯、左良玉を寧南侯とした。六月、崇禎帝を烈と諡し、廟号を思、后を孝節とした。
七月、左懋第・馬紹愉・陳洪範が来聘し、白金十万両・幣帛十万匹と海運米十万石を呉三桂軍に餉したが却けられた。懋第らは祭告を許されず、太牢を陳べて三日哭奠し、剛林と論じて屈しなかった。洪範は摂政王に懋第らの留置を請い、南都では得功・良佐に異心ありと奏したが、帝は反間として信ぜず、懋第は北京で屈せず死んだ。多爾袞は可法に、江左一隅で大国を支える勝負は占うまでもないと諭し、可法は光武・昭烈らの中興を引き、徳を全うせねば義に始まり利に終わると返した。八月、阮大鋮が江防を巡視し、梨園の衣装だと嗤われた。九月、『思宗実録』を修め、姜曰広・劉宗周が罷めた。鳳陽で地が続けて震え、十一月に皇陵が焼けた。夏成徳が海州を取ると豊・沛は降り、可法は宿遷を回復した。十二月、多鐸が河南に下った。
二年正月、許定国が高傑を睢州で誘い殺して降り、傑の兵は衛胤文が総督した。三月、北から来た太子と称する者は王之明、福王邸の妃童氏と称する者もあり、偽冒として獄に下すと中外は騒然とし、得功・良佐・騰蛟・袁継咸・可法が争っても聴かれず、左良玉は君側の賊を清めると称し東下し、士英は淮を守ると議する者は斬ると叫んだ。四月、多鐸が揚州を囲み、可法は劉肇基の兵四千と七昼夜固守したが、黄蜚の軍と詐られ入城され、捕らえられて降らず、揚州の人を殺すなと言い屍は裂けて死に、多鐸は十日後に城を屠った。五月、多鐸は灯火の疑兵を設け、数千騎を龍潭から渡らせ鎮江を陥れ南京に入り、高倬らが殉じた。帝は太平に出奔し劉孔昭に門を閉ざされ、蕪湖で得功に依ったが、得功は流矢に死に、田雄が帝を縛って出し、良佐が江寧県獄に拘した。六月、博洛が潞王を杭州に追い王は降り、高宏図・劉宗周・祁彪佳が殉じた。
閏月、張肯堂らが唐王聿鍵(太祖八世の孫)を福州で監国とし、即位して福州府を天興府、隆武と改元し、弘光帝に聖安皇帝を上り、鄭芝龍が戎政を掌った。銭粛楽らは魯王以海(太祖十世の孫)を紹興で監国とし、張国維が江上で督師し富陽・於潜を回復した。七月、黄道周は芝龍から空の勅数百道を得ただけで江西に兵を募り、十二月、婺源で敗れ張天禄に捕らえられ、洪承疇の茶を擲り屈せず死んだ。十月、浙東に詔を頒ったが監国は受けず、国維が唇亡びて歯寒いと疏して止めた。帝は陸清源に餉十万を送らせたが、方国安が士英・大鋮に唆され餉を劫り詔使を殺し、閩と浙は水火となった。国安らは博洛の兵と江上で七たび戦い勝ち、草橋門下まで追ったが大風雨で退き、粛楽の海道から呉を窺う請いは聴かれなかった。十一月、帝は西郊で誓師し、唐王聿釗らに福京で監国させ、鄭鴻達・鄭彩を浙江・江西に出した。
三年三月、王之仁は今日死ぬのはなお戦って死ぬと上疏し、銭塘で東南の風に乗じ大勝したが、杭州は囲んで克てなかった。明帝は芝龍の異志を知り湘に入ろうとしたが道を遮られ延平に駐まった。五月、江上の兵が潰え国安は魯王を劫し台州に走り、聖安皇は潞王とともに北京で殺された。六月、大旱で江上の水寨が渉れ全軍が渡り、魯王は海に航って厦門、ついで南澳に走り、国維は天下の事を誤ったのは文山と畳山だと言い水に死に、孫嘉績・之仁・余煌・王思任・陳函輝・陳潜夫が殉じた。八月、芝龍が兵を撤し仙霞嶺は空となり、帝は汀州で李成棟に追われ曾后とともに殺され、贛州も陥ちて楊廷麟・万元吉が殉じた。十月、丁魁楚らが桂王由榔(神宗の皇孫)を肇慶で監国とした。十一月、魁楚は贛州陥落を聞き諫めを聴かず王を梧州に避けさせ、蘇観生は隆武帝の弟聿𨮁を広州で立て紹武と改元したので、二百里の内に二政府が相い攻めて外を禦ぐ暇がなくなり、桂王も肇慶で即位して翌年を永暦元年とし、五色の大鳥が来て士民は中興を歓呼した。十二月、成棟が広州を陥れ、聿𨮁と群臣は自ら縊れ、二十四王が害に遭い、観生は自殺し、明帝はまた梧州に奔った。
四年、成棟が肇慶を陥れ、帝は平楽・桂林・全州と転じた。二月、魯王は海澄を囲んで克てず海に退き、五月に周鶴芝が海口、鄭彩が長楽、八月に羅源・連江を回復した。三月、成棟が桂林に迫ると式耜は焦璉を召し、璉は三百騎で追い斬首数千級、南渡以来の武功第一と論ぜられた。孫可旺は張献忠の養子、楊畏知に招安され可望の名を賜った。五月、武岡を奉天府とした。毛文龍の養孫の孔有徳・耿仲明・尚可喜が桂林を攻め璉に大敗した。七月、璉は陽朔・平楽など広西の失地を回復した。八月、劉承胤が叛き降り、帝は靖州に奔り呉炳らが殉じた。十一月、騰蛟が全州で有徳らを大敗させた。五年、有徳はまた桂林で敗績した。金声桓が江西、成棟が広東で反正し、騰蛟は沅州・宝慶・常徳・靖州・奉天を、式耜は梧州を、蜀中も回復して、明帝は七省の地を有し肇慶に駐蹕した。
六年正月、徐勇が湘潭を襲い騰蛟を捕らえ害した。有徳の将馬蛟麟が道州を攻めたが曹志建が却けた。十月、名振が黄斌卿を誅し魯王を迎え舟山に駐蹕し、十一月、日本に師を乞うて果たさなかった。七年十一月、有徳が桂林を破り、式耜・張同敞は優待されたが屈せず死んだ。八年九月、陳錦らが舟山を破り肯堂らが殉じ、張名揚は一門をあげて焼け死に、魯王は海に航った。陳邦傅は姻戚の焦璉を誘ったが従わず自刎し、潯州をもって叛き降った。九年、可望は帝を安龍府に居らせた。七月、李定国が桂林を回復し有徳は一家をあげて焼死し、女の孔四貞だけが逃れ、数日で湖南・広西・四川が明に復した。十一月、尼堪が伏兵に中り陣没し、定国は名王二人を斬り兵威は大いに震った。十一年、定国は羅定・新興・石城・電白・陽江を回復した。明帝は可望の跋扈を患え定国に密勅したが漏れ、呉貞毓ら十六人が可望に害された。十三年、定国は可望を田州で敗り帝を雲南に奉じて滇都とし、晋王に進んだ。八月、伊爾徳が舟山を襲い阮駿・陳六御らが殉じた。十四年四月、聖安帝を安宗簡皇帝、思文帝を紹宗襄皇帝と諡し大赦し、十月、可望は滇都を襲い敗れ承疇に降り義王に封ぜられ、十二月、明は南寧を回復した。十五年、承疇・三桂の請いで三路から滇に進み、四月、洛託が貴陽に入り冷孟銋が殉じ、三桂は遵義に入り、帝は緬甸に出奔した。十六年正月、鐸尼らが滇都に入り劉之謙が殉じ、二月、定国は磨盤山に伏兵を置いたが盧桂生が計を漏らし、三桂は砲で伏兵を発かせたが大敗し精卒数千を喪い、明も竇民望・王璽が陣没した。七月、張煌言が江南・江北の二十九城を下し、東南は大いに震った。十八年、定国・白文選は緬の兵十五万を大金沙江で破ったが帝を迎えられず、九月、三桂の請いで愛星阿が定西将軍として緬に檄したが、緬王は献ずるのを拒み、弟の莽猛白が酋を弑して自立し、十二月、帝を三桂の営に送った。康熙元年四月、三桂は帝と太子を市で絞り、年十二の太子は大いに罵り、太后馬氏・后王氏は喉を扼し死んだ。この年、朱成功が台湾で薨じ、定国が猛猟で薨じ、魯王も台湾で殂し、明は太祖から十八帝、二百九十四年で亡んだ。
年表
順治元年(1644年)の北京陥落後、江南で擁立された弘光(福王由崧)・隆武(唐王聿鍵)・永暦(桂王由榔)の三帝と、紹興で監国となった魯王以海の興亡を、康熙元年(1662年)まで追う。史可法は揚州で殉節し、多鐸の軍が南京を落として弘光帝を捕らえ、隆武帝は鄭芝龍の裏切りののち汀州で殺される。永暦帝は肇慶で即位し、焦璉・何騰蛟・瞿式耜・李定国らの奮戦で一時は七省を有したが、孔有徳・李成棟ら降将の攻勢に押されて緬甸に逃れ、呉三桂に捕らえられて雲南で絞られた。魯王も舟山を失って海上を転々とし、同じ年に台湾で殂して、明は十八帝二百九十四年で滅んだ。
年表(16件)
- 西暦1644年 世祖順治元年史可法らが福王由崧を奉じて南京で監国とし、ついで即位させる
- 西暦1645年 順治二年多鐸が揚州を屠って史可法を殺し南京を陥れ、唐王・魯王が相次いで立つ
- 西暦1646年 順治三年隆武帝が汀州で殺され、桂王由榔が肇慶で監国し即位する
- 西暦1647年 順治四年焦璉が桂林を守り抜き、孔有徳らを大敗させる
- 西暦1648年 順治五年金声桓・李成棟の反正に乗じ、明帝が七省の地を有して肇慶に駐蹕する
- 西暦1649年 順治六年督師何騰蛟が湘潭で捕らえられて死に、魯王は舟山に移る
- 西暦1650年 順治七年孔有徳が桂林を破り、瞿式耜・張同敞が殉節する
- 西暦1651年 順治八年陳錦が舟山を破って魯王は海に航り、焦璉は陳邦傅に誘殺される
- 西暦1652年 順治九年李定国が桂林を回復して孔有徳を殺し、尼堪は衡州で陣没する
- 西暦1654年 順治十一年李定国が羅定・新興など広東の諸県を回復する
- 西暦1656年 順治十三年李定国らが明帝を雲南に迎え入れ、滇都と改める
- 西暦1657年 順治十四年孫可望が李定国に敗れて洪承疇に降り、義王に封ぜられる
- 西暦1658年 順治十五年洛託・呉三桂らが三路から滇へ進み、明帝は緬甸に出奔する
- 西暦1659年 順治十六年呉三桂が磨盤山で李定国の伏兵に大敗する
- 西暦1661年 順治十八年緬の莽猛白が明帝を劫して呉三桂の軍中に送る
- 西暦1662年 清聖祖康熙元年呉三桂が明帝と太子を雲南で絞り、魯王も台湾で殂して明が亡ぶ
現代語訳全文
西暦1644年 世祖順治元年
- 夏五月、明の史可法らが福王由崧を奉じて南京で監国とした。王は神宗の皇孫であり、福王常洵の子である。このとき北京の凶報が南都に至り、諸大臣が君を立てることを議した。鳳陽総督馬士英が兵部尚書史可法および侍郎呂大器に書を移し、王は次序からいって立てるのが当然だと言った。可法は潞王常淓が賢であるとした。決しかねているうちに、士英が誠意伯劉孔昭らと密かに申し合わせ、靖南伯黄得功および高傑・劉沢清・劉良佐らが兵をもって王を迎えて至らせ、これを奉じて監国としたのである。翌日、郊天と告廟の儀礼を行い、大行皇帝のために喪を発し、天下に大赦した。史可法・馬士英・高宏図・姜曰広・王鐸をならびに東閣大学士とし、士英はなお鳳陽など諸処の軍務にあたり、他の者は入閣して事務を執った。
- 明の福王が南京で帝位に即き、馬士英に兵部を掌らせ、入閣して事務を執らせた。大学士史可法は自ら江上で督師することを請い、上はこれを許した。士英はもともと自分に擁戴の功があると思い、朝夕に入相することを冀っていたが、鳳陽督師の命が下るに及んで大いに怒り、兵を率いて入朝し、江のほとりに至って、上疏して即位を勧めた。王はついに皇帝の位に即き、翌年を弘光元年とした。士英は可法にそれとなく外へ出るよう仕向け、可法もまた陽州(揚州の誤りか)の重任を他人に居らせては失敗があるかもしれないと慮って、ついに行くことを請うた。京師では士民が騒いで言った。「どうして我らの史公を奪うのか。」太学生陳方策らが上疏して言った。「淮陽は門戸であり、京師は堂奥であります。門戸に人がいて堂奥に人がいなくてよいものでしょうか。」その疏の中に「秦檜は内に在り、李綱は外に在り」の語があり、朝野はこれを名言とした。
- 明は江北を分けて四鎮とし、高傑・劉良佐・劉沢清・黄得功に分けて統べさせた。可法は疏して、淮陽・廬泗を分けて四鎮とすることを請い、沢清は淮安に駐し、傑は泗州に駐し、良佐は臨淮に駐し、得功は廬州に駐した。ほどなく得功を靖南侯に進め、傑を平伯(興平伯の誤りか)・良佐を広昌伯に封じ、また佐良玉(左良玉の誤りか)を寧南侯に進め封じた。
- 六月、明が崇禎帝と后に諡号を上り、帝を諡して烈といい、廟号を思とし、后を諡して孝節といった。
- 秋七月、明が兵部侍郎左懋第らを遣わして来聘させた。使者に同行したのは太僕少卿馬紹愉・総兵陳洪範である。白金十万両・幣帛十万匹を携えて来て、あわせて海運米十万石を呉三桂軍に餉したが、三桂はこれを却けた。懋第らが至ると、鴻臚寺に宿らせた。懋第らが諸陵および崇禎帝に祭告することを請うたが、許されなかったので、太牢を庁舎に陳べ、将士を率いて三日間、哭して奠を行った。南明の大学士剛林(剛林は清の大学士であり、南明とあるのは誤りか)と往復して弁論し、慷慨として屈しなかった。剛林は嘆じて言った。「これは中国きっての奇男子である。」ほどなく遼遠(底本の字のまま。「遣還」の誤りか)、洪範は途中で密かに摂政王に啓し、懋第・紹愉を留めるよう請い、自ら兵を率いて帰附したいと願い出て、あわせて中南の諸将を反間しようとした。南都に返ってから、密かに黄得功・劉良佐に異心があると奏したが、帝は言った。「これは反間であって、信ずるに足りぬ。」洪範はまた、北兵が旦夕にも南下すると言ったが、帝は言った。「我はみずから強くならねばならぬ。清が和議に応ずるかどうかは、もとより恃みにできるものではない。」懋第は北京にあって、ついに屈せずに死んだ。
- 摂政王多爾袞が明の督師史可法に書を致し、春秋の法では賊があって討たなければ新君は即位を書かれない、と述べ、かつ形勢をもってそれとなく諭し、中華の全勢力をもってしても潢池に制せられたのに、江左一隅をもって大国を兼ね支えようというのでは、勝負の数は蓍亀に占うまでもない、と言った。可法は書を返し、漢の光武帝・照烈帝(昭烈帝の誤りか)、晋の元帝、唐の粛宗、宋の高宗が中興したときの故事を次々に引き、かつ貴国は乱を駆り逆賊を除き、兵は義によって動いたのであるが、もしこの版図を我がものにしようと図って、徳を全うしないならば、義をもって始めて利をもって終わることになり、賊人にひそかに笑われるであろう、と言った。
- 八月、明が阮大鋮を起用して兵部添註右侍郎とし、江防を巡視させた。江上に至ると、白い蟒服を着て碧玉の帯を囲んでおり、見る者は梨園の衣装だと嗤った。
- 九月、明が『思宗実録』を修めた。明の大学士姜曰広・御史劉宗周が罷めた。
- 明の鳳陽で地が続けざまに震えた。
- 太白が昼に見えた。
- 十一月、明の鳳陽皇陵が火災に遭い、松柏はみな燃え尽きた。
- 総兵夏成徳が明の海州を取った。海州が破られると、豊・沛はことごとく降った。明の督師史可法は兵を遣わして宿遷を回復し、進んで邳州を援けた。
- 冬至の日、明の淮安で地震があった。
- 琉球が明に入貢した。
- 十二月、豫親王多鐸が兵を統べて河南に下り、前鋒が河を渡ると、河沿いの塞や堡は風を望んで降り附き、ほどなく河南府に入った。兵を分けて南下させ、沂州・済寧の軍には廟湾から南に渡って邳宿・彰徳に迫らせ、衛輝の軍には孟津から東に渡って帰徳・徐州に逼らせた。
西暦1645年 順治二年
- 春正月、乙酉の朔、日食があった。立春の日、流星が紫微垣に入った。
- 明の許定国が興平伯高傑を睢州で誘い殺し、ほどなく叛いて降って来た。定国はこのとき睢州に駐し、すでに多鐸に款を通じていたが、ただ傑が忠勇であることを畏れていた。傑は徐州に軍を次し、可法が忠義であることに感じて、進取の志がきわめて鋭かった。定国に二心があると聞いて、自ら往ってこれを見たところ、定国に誘い殺された。傑の麾下の将が軍を引いて城を攻め、これを破った。定国は考城に奔り、ほどなく降って来た。可法は、傑にとって甥にあたる李本深に傑がひきいていた軍を代わって統べさせるよう請うたが、朝命は衛允文(衛胤文の誤りか)にその兵馬を総督させ、ほどなく揚州に撤回し、改めて劉良佐に帰徳を防がせた。
- 三月、明で、北から来た太子が南京に至り、これを訊ねたところ王之明であったが、士民は堅く真の太子であると執した。またみずから福王邸の妃童氏であると称する者があった。帝はこれらを偽り冒したものと指弾し、みな獄に下したところ、中外は騒然となった。劉得功(黄得功の誤りか)・劉良佐・何騰蛟・袁継咸・史可法がみな疏して争ったが、聴き入れられなかった。左良玉もまた武昌から疏を馳せ、両案はまだ結着していないと言った。輿論は争っても通らなかったので、そこで「君側の賊を清める」を名として兵を引いて東に下った。諸臣は、左良玉の兵は慮るに足らぬとして、淮を備えるよう請うた。帝もまた良玉は必ず叛かぬと言った。馬士英は目を瞋らせて大声で叫んで言った。「我が君臣は清に死ぬことがあっても、良玉の手に死ぬわけにはいかぬ。淮を守ることを議する者があれば斬る。」
- 夏四月、多鐸が明の泗州を取り、淮を渡って、長駆して揚州に至ってこれを囲み、城は陥ち、明の督師史可法はこれに殉じて死んだ。はじめ可法は左軍の警報を聞いて馳せ入って援けたが、良玉が死んだと聞いて引き返し、道すがら盱眙・泗州がみな叛いて降ったと聞いて、道を兼ねて揚州に至った。河防兵を召したが、来る者は無く、ただ総兵劉肇基だけが白洋河から兵四千を率いて至り、城を背にして一戦することを請うた。可法は野戦は城に憑るに及ばないと言い、肇基とともに城に入って固守すること、七昼夜に亙った。可法が巨砲をもって下に向かって撃ち、死んだ者は数千人であった。にわかに黄蜚の軍が至ったと報せがあり、可法は城を開いて迎え入れるよう命じたところ、戈を反して向かってきたので、初めてそれが詐りであると知った。まもなく西北の城壁が崩れ、兵が入り、可法は捕らえられた。多鐸は繰り返し降るよう説いたが、承知せず、そのうえ言った。「揚州はすでにお前のものとなった、寛大をもって待遇すべきである。しかし死守したのは我である。どうか揚州の人を殺さないでほしい。」多鐸は答えず、左右の者にこれを刃にかけさせ、屍は裂けて死んだ。肇基は部下を率いて巷戦し、一軍はことごとく没した。多鐸は軍を留めること十日、これを屠って南に向かった。
- 五月、多鐸が南京に入り、明の尚書高倬らがこれに殉じて死んだ。叛将劉良佐が明帝に蕪湖で追いつき、これを捕らえた。靖国公黄得功は力戦して死んだ。多鐸の軍が揚子江に至り、両軍は相持すること三日、夜霧にあったので、そこで巨大な筏を編み、その上に灯火を列ね、中流に放って疑兵とし、別に数千騎をもって密かに龍潭の哨から渡らせた。守兵はみな驚いて潰え、鎮江は陥ちた。丹陽・句容を経て、まっすぐ南京に至った。士英は太后を擁して西に走り、明帝は太平に出奔した。このとき劉孔昭が先に遁れて入っており、帝が至ると門を閉ざして納れなかったので、蕪湖に奔り、夜に得功の陣営に幸した。得功は驚き泣いて言った。「上が都城を死守なされば、各鎮はなお兵を合わせて光復を図ることもできましたのに、どうして奸人の言葉を聴いて先に出られたのですか。とはいえ、死を効すことを願います。」多鐸は南京城外に駐軍し、兵を放って大いに掠めること十日、それから城に入り、良佐を遣わして明帝を追襲させた。蕪湖でこれに追いつき、得功が迎え戦って、流矢に中って死んだ。総兵田雄が帝を縛って出し、良佐はこれを挟んで南京に至り、江寧県獄に拘した。
- 六月、多鐸が貝勒博洛を遣わして明の潞王を杭州に進み追わせ、王は降り、前大学士高宏図・都御史劉宗周・江蘇巡撫祁彪佳がこれに殉じて死んだ。王が降ると、馬士英は銭塘に走った。
- 閏月、明の張肯堂らが唐王聿鍵を奉じて福州で監国とした。王は太祖から八世の孫にあたり、唐王碩熿の孫、世子器墭の子である。崇禎年間に勤王を倡議して罪を得、弘光の代に禁錮されていたが、このとき釈されて出され、広西平楽に移り駐まるよう命ぜられ、行って杭州に至った。しかし南都はすでに覆っており、鄭鴻達らがこれを衛って閩に入り、肯堂らとともに奉じて監国としたのである。
- 月食が皆既となり、星が流れて夜通し続いた。
- 明の唐王が福州で即位し、福建を京とし、福州府を天興府とし、隆武と改元し、遥かに弘光帝に尊号を上って「聖安皇帝」といい、黄道周らを大学士とし、鄭芝龍が戎政を掌った。
- 明の銭粛楽らが魯王以海を奉じて紹興で監国とした。王は太祖から十世の孫にあたり、魯王寿鏞の子である。北都が陥ちると王は南下し、聖安帝は台州に居るよう命じた。南都が降ってから、余姚・会稽・鄞県で義兵が入り乱れて起こり、表を奉じて王に監国を請い、紹興に移り駐まり、張国維らを大学士とした。国維は江上で督師し、江を画して守った。
- 秋七月、明の大学士黄道周が江西で兵を募り、恢復を図った。このとき閩中における戦いと守りの方策は、すべて鄭芝龍が政を執っており、廷臣は日々関を出ることを請うたが、芝龍はそのたびに餉が乏しいことを口実とした。ここに至って道周は憤然として、関を出て兵を募ることを請い、かつこれに拠って何騰蛟と連なり進取の計としようとした。芝龍はまた餉を惜しんで与えず、わずかに空の勅数百道を齎して出発した。
- 明の魯王方の張国維が富陽・於潜を回復した。国維は富陽・於潜を連続して克ってから、江沿いの要害に木城を樹て、諸営を聯合して持久の計とした。
- 監国が上方剣を賜い、諸軍を総統させた。
- 冬十月、明が浙東に詔を頒ったが、監国魯王は受けなかった。このとき何騰蛟は兵数十万を有し、分けて十三鎮とし、湖南・湖北に布き列ねていた。また江右督師楊廷麟の一軍が南昌にあって、しばしば戦って勝ち、あわせて吉安を取ってこれを守り、勢いはかなり振るっていた。この時、明の領土は福建・両広・雲貴のほかに、湖南および江西の一部を兼ね有していた。そこで給事中劉中藻を遣わして浙に詔を頒たせたところ、諸将は恐れ惑い、監国は位を避けて台州に返ろうとした。督師張国維は閩中に疏を馳せ、監国は大勢が渙散した日に人を鳩め集めるのに労してこられた、ひとたび退いて藩服の地位に就かれれば、人は依るところが無くなる、閩中は鞭が長くとも及ばず、にわかに変事があれば、唇亡びて歯寒く、悔いても追いつけない、と言った。明帝は悟り、ほどなく部御史陸清源を遣わして餉十万を解送して浙東に至らせ、軍を犒わせた。このとき方国安は厳州を守っており、馬士英・阮大鋮が銭塘から遁れて至り、その軍中にあって国安をそそのかして餉を劫らせ、詔使を捕らえて殺し、かつ閩中を守ることの罪を檄した。これより閩と浙とは水火のようになり、唇歯の勢いは離れた。
- 明の魯王方の方国安らが貝勒博洛の兵と江上で戦い、七たび戦っていずれも勝ち、杭州まで追って還った。この日、国安は厳しく陣を布いて待ち、張国維・銭粛楽が本部兵を率いて後ろに翼した。前鋒の副将鍾鼎新が火攻を用いて緋衣を着た大将一人を撃ち殺し、諸将呂宗忠・王国斌・趙天祥らがそれぞれ数百級を斬り、奪い獲た軍械は数えきれなかった。連戦すること十日、諸軍はみな功があり、第七陣がとくに勝ち、草橋門下まで追ったが、大風雨に遭って弓矢を発することができずに退いた。このとき浙西では義旗が四方に起こり、蘇・松・嘉・湖に営を列ねること数百、杭州はきわめて危うかった。粛楽は兵を率いて海道から呉を窺うことを請うたが、聴き入れられず、論ずる者はこれを惜しんだ。
- 十一月、明帝が西郊で誓師し、唐王聿釗・㔁王鼎器に福京で監国させ、大学士曾櫻が留守した。この日、駕は西郊に幸し、推穀の礼を行い、鄭鴻達を御営左先鋒として浙江に出し、鄭彩を御営右先鋒として江西に出した。舟が芋江五渓に至ると、壺漿して迎える百姓が道に満ちた。
- 十二月、明の督師黄道周の兵が婺源で敗れ、捕らえられて死んだ。道周は広信府に至って兵を募り、一万人を得て、道を分けて進兵したが、みな潰えた。道周は降将張天禄に襲われて捕らえられた。洪承疇が人を遣わして道周に茶を進めさせたが、飲まなかった。左右の者が「相国が清茶を一杯召し上がるようにと請うておられます」と言うと、道周はとっさにこれを地に擲ちつけ、大いに罵って、ついに屈せずに死んだ。
西暦1646年 順治三年
- 春正月、交阯・日本が使を遣わして明に入貢した。
- 三月、明の魯王方の武寧侯王之仁が貝勒博洛の兵と銭塘で戦い、大勝し、進んで杭州を囲んだが、克てなかった。杭州の将士と博洛の兵とは江を跨いで相い距たり、しばしば戦って利あらず、もはや闘志が無かった。之仁は憤然として上疏して言った。「事が起こった日には、人ごとに直ちに黄龍を取る志がありました。ところが一たび敗れた後は、にわかに銭塘を鴻溝にしようとしております。天下の事、どうして口にするに忍びましょうか。臣は隷下の者をもって、船を沈めて一戦することを願います。今日死ぬのは、なお戦って死ぬのです。他日死ぬときには、おそらく戦うことはできますまい。」ちょうど博洛が船を駆り堰を開いて江に入ったので、張国信(張国維の誤りか)は之仁に水師をもって当たれと檄し、江心から襲って戦った。にわかに東南の風が大いに起こり、之仁は帆を揚げて奮って撃ち、砕いた舟は無数であった。鄭遵謙は鉄甲八百余副を獲、諸軍がこれに継いで、ついに大勝した。勝ちに乗じて進んで杭州を囲んだが、克てずに還った。
- 明帝が延平府に幸した。帝は鄭芝龍に異志があることを知り、久しく贛から湘に入って何騰蛟に倚ろうとしていた。ちょうど江・楚から迎駕の疏が相継いで至ったので、ついに行くことを決意した。芝龍は軍民数万に道を遮らせて駕を留めさせ、前に進むことができず、帝はやむを得ず延平に駐まった。
- 夏五月、琉球が明に入貢した。
- 明の江上の兵が潰え、方国安が監国魯王を劫して台州に走った。博洛の兵が巨砲で国安の営黿(「営塁」の誤りか)を撃ち毀ち、国安は退いて紹興に至り、王を劫して南に行った。
- 明の聖安皇が北京で崩じた。聖安は潞王とともに北京にあって、同じ日に殺されたのである。
- 六月、博洛の兵が銭塘江に……(底本は「博洛兵錢塘江」に作り、動詞を欠く)、明の監国魯王は海に航り、督師張国維らがこれに殉じて死んだ。このとき方国安は遁げ去っていたが、諸将はなお厳しく江上を守っていた。大旱に値い、江上の水寨は裳(「尚」の誤りか)渉ることができ、全軍がことごとく渡り、列なる戍は驚き潰えた。馬士英・阮大鋮は国安に王を捕らえて降るよう勧めたが、王は急ぎ走って脱することができ、海に航って厦門に赴き、ほどなく南澳に走った。博洛の兵が義烏に入り、ある者が国維に走るようそれとなく勧めたが、国維は言った。「天下の事を誤ったのは、文山と畳山だ。」水に赴いて死んだ。大学士孫嘉績、武寧侯王之仁、尚書余煌・王思任、侍郎陳函輝、大理卿陳潜夫が同じく殉じた。金華・厳備(厳州の誤りか)が相継いで下った。
- 秋八月、明帝が汀州で崩じた。鄭芝龍はこの年の五月の間にすでに款を通じて兵を撤しており、仙霞嶺の二百里の間は、そこで空になって一人もいなくなっていた。博洛が長駆して入り、帝は延平にあって警報を聞いて出奔し、汀州に至ったが、降将李成棟が軍を率いて追い至り、帝は曾后とともに府の堂で殺された。ほどなく江西の贛州もまた陥ち、楊廷麟・万元吉はみなこれに殉じて死んだ。
- 冬十月、明の丁魁楚らが桂王由榔を奉じて肇慶で監国とした。王は神宗の皇孫であり、桂王常瀛の子である。崇禎年間に永明王に封ぜられ、このとき粤西にいた。汀州の変事を聞いて、魁楚らがこれを奉じて監国としたのである。魁楚と瞿式耜・呂大器とをならびに東閣大学士とした。
- 十一月、明の監国桂王が梧州に奔った。丁魁楚は贛州が陥ちたと聞いて、王を奉じて梧州に避けた。瞿氏耜(瞿式耜の誤りか)が諫めたが、聴かなかった。
- 明の蘇観生が唐王聿𨮁を広州で立てた。聿𨮁は隆武帝の弟である。前大学士蘇観生は、桂王が監国となったとき、自分は擁立に与らなかったので、聿𨮁が広州に至ったのに会って、擁立して帝とし、紹武と改元した。これより二百里の内に、二つの政府があって兵を治めて相い攻め、外を禦ぐ暇が無くなった。
- 明の桂王が肇慶で即位した。丁魁楚は広州で唐王が立ったと聞き、即位しなければ人心を満足させて天下に号召することはできないと言い、そこで桂王は肇慶で即位して、なお隆武二年と称し、翌年を永暦元年とした。この日は和やかな風と旭日であり、五色の大鳥が南から来た。士民は歓呼して、中興を卜うことができると言った。
- 明が遥かに隆武帝と后に尊号を上った。このとき帝と后が捕らえられたと聞いていたが、まだ凶報は知らなかった。帝に号を上って「思文皇帝」といい、后は「思文皇后」といった。
- 十二月、降将李成棟が広州を陥れ、明の唐王聿𨮁が殂し、大学士蘇観生が自殺した。博洛は漳州を陥れ、成棟を遣わして広東を取らせ、続けて潮・恵を破り、急ぎ広州に趨った。門を奪って入ったとき、王はちょうど群臣と会して学を視ていた。君臣はみな倉皇として自ら縊れ、周・益・遼ら二十四王がみな害に遭い、明帝はまた梧州に奔った。
西暦1647年 順治四年
- 春正月、降将李成棟が肇慶を陥れ、明帝は平楽に奔り、ほどなく桂林に赴いた。
- 二月、明の監国魯王が海潜(海澄の誤りか)を囲み、兵を分けて漳州・福州・興化・福清を攻めたが、みな克てず、退いて海に入った。
- 三月、明帝が全州に幸し、瞿氏耜が桂林に留守した。李成棟が襲い至り、総兵焦璉がこれを禦いで却けた。成棟は平楽から長駆して桂林に至ったが、城中は空で甲兵がおらず、式耜は急ぎ璉を黄沙鎮に召し、璉は騎三百を率いてこれに赴いた。入城の翌日、成棟の兵数万がにわかに至り、数十騎が虚に乗じて文昌門に突入し、楼に登って留守の府を見おろし、矢が留守の綸巾に集まった。式耜はこれを叱って言った。「どうしてそのようなことができようか。」璉を呼ぶと、璉は臂を袒いで出て、数十人を射殺し、急ぎ城を閉じた。残りは馬を棄てて城下に越えて来た。璉は三百人を率いて城を開いてこれを追い、騎を引いてまっすぐその営を貫いた。寅から午まで、斬首は数千級であった。衝きかかって来た兵馬を三つに分けたが、敵はまもなくまた合流してこれを囲み、璉は大呼して斬り入り、戈と刃の及ぶところ、血は雨となり肉は飛び、数千騎を殺し、追奔すること数十里、桂林は全きを得た。論ずる者は、南渡以来、武功第一であると言った。
- 孫可旺が明に帰した。可旺は張献忠の養子で、米脂の人である。土司の沙定州が明に叛き、明の石屏副将龍在田がこれを招いて滇に入らせ、定州は大敗して阿迷に遁げ帰った。可旺は明の城邑を次々に陥れたが、巡撫楊畏知がこれを招安し、可望の名を賜った。
- 夏五月、明帝が武岡に駐蹕し、武岡を改めて奉天府とした。
- 明の魯王方の周鶴芝が海口を回復し、鄭彩が長楽を回復した。
- 降将孔有徳・耿仲明・尚可喜が再び桂林を攻め、明の総兵焦璉がこれを大敗させた。有徳・仲明・可喜はみな毛文龍の養孫で、有徳は毛永詩といい、仲明は毛永傑といい、可喜は毛永喜といった。文龍が袁崇煥に殺されると、三人はみな叛いて降って来た。有徳は恭順王に封ぜられ、仲明は懐順王、可喜は智順王に封ぜられた。入関の後、有徳は改めて定南王に封ぜられ、仲明は靖南王、可喜は平南王とされた。ここに至って軍を合わせて桂林に至り、にわかに城に迫った。氏耜と璉は門を分けて守り、西洋銃をもって外の兵を撃ち退けた。璉はまた城を開いて出て戦い、三百人をもって、辰から午まで、数千人を殺した。晡に向かうころ、雨が止まなかった。兵を収め、翌日また出て戦った。璉が力を奮って陣を衝くと、有徳らは甲と武器を棄てて奔った。璉は槊を運らし鞬を提げて、敗走する者を逐うこと二十里、有徳は虞山の樹木を望んで、みな兵ではないかと疑った。
- 秋七月、明の新興伯焦璉が陽朔を回復し、ついで平楽を回復した。孔有徳は大いに挫かれ、また陳子壮・張家玉・陳邦彦が同時に高州・東筦・端州の間で兵を起こしたので、そこで璉は隙に乗じて広西で失った諸城をことごとく回復した。
- 八月、明の総後(総兵の誤りか)劉承胤が奉天をもって叛いて降り、明帝は靖州に奔り、大学士呉炳、尚書傅作霖、参将謝復栄がこれに殉じて死んだ。
- 明の監国魯王が羅源を回復し、また連江を回復した。このとき海師は山鶯・龍門・高公の諸島を破り、進んで羅源・連江を回復し、そこで長楽・永福・閩清の諸城がみな下った。
- 冬十月、明帝が柳州に赴いた。
- 太白が天を経(よぎ)った。
- 明帝が象州に赴いた。
- 十一月、降将孔有徳らが全州に迫り、明の督師何騰蛟がこれを大敗させた。有徳らは続けて湖南の永州・衡州・辰州・黔陽・興安の諸府県を陥れ、進んで全州に逼った。騰蛟は郝永忠・焦璉・盧鼎・趙印選の諸軍を督して分かれて戦い、有徳・仲明・可喜の兵を大敗させ、斬った級は数えきれなかった。有徳らは遁れて湖南に返り、明帝は桂林に還った。このとき諸軍は営を連ねて間道に沿い、三百里に亙った。
西暦1648年 順治五年
- 春三月、安南が明に入貢した。
- 孔有徳が明の桂林を攻め、敗績した。有徳の兵が桂林の北門に至り、何騰蛟は焦璉・胡一青・周金湯・熊兆佐を督して門を分けて出て戦わせた。璉は矛を横たえて陣を陥れ、左右に衝突し、その勢いは游龍のようであった。将軍劉起蛟と(輿は與の誤りか)合わせ撃って、数百人を殺し、営を貫いて出た。一青は馬を躍らせて馳せ撃ち、跳ね躍ることは飛ぶようで、数十歩の外にいる人を槍を投げて仕留めることができ、百発百中であった。馬に乗るたびに必ずその鬃を翦っていた。北兵は誤ってこれを牛と認め、そのたびに互いに戒めて言った。「これは牛に乗った蛮子だ、当たることはできぬ。」一青は璉と兵を合わせて再び戦い、金湯・兆佐が横から撃ち、璉の標下の趙興・白貴が死を決して戦い、有徳は軍を督して二十里退き、あやうく捕らえられるところであったが、そこで北に甘棠を渡って去った。このとき金声桓は江西に拠り、李成棟は広東に拠って、前後して反正し、騰蛟は隙に乗じて兵を発し、阮州(沅州の誤りか)・宝慶・常徳・靖州・奉天を回復し、氏耜は梧州を回復し、また蜀中では義兵が紛々と起こり、川東・川西がみな回復した。そこで明帝は両広・雲貴・江西・湖南・四川の七省の地を有し、肇慶に駐蹕した。
- 秋八月、呂宋が明に入貢し、欧羅巴人が図讖を進めた。
西暦1649年 順治六年
- 春正月、降将徐勇が湘潭を襲い、明の督師何騰蛟がこれに殉じて死んだ。騰蛟は吏卒三十人を携えて湘潭に赴き、赤心に会おうとしたが、至ってみると赤心は去っていた。徐勇は城中に兵が無いことを偵察して知り、入って騰蛟を捕らえ、これを擁して去り、ついに害された。
- 冬十月、明の監国魯王が舟山に駐まった。これより先、大学士劉中藻が福安で敗殃(敗衂の誤りか)し、閩の地はことごとく失われ、王は浙の三盤に次した。ちょうど定西侯張名振が健跳所を回復し、王を迎えてそこに居らせたが、身を舟中に寄せ、河艍の頂を朝房とし、これを水殿と呼んだ。このとき黄斌卿が舟山に拠っていたので、名振は蕩平伯阮進・平西伯王朝先と兵を合わせてこれを撃ち破り、斌卿を誅し、王を迎えて駐蹕させた。
- 降将孔有徳が兵を遣わして道州を攻め、明の永国公曹志建がこれを禦いで却けた。有徳の将馬蛟麟が道州を攻めたが、敗績して遁れた。
- 冬十一月、明の魯王方が日本に師を乞うたが、果たさなかった。
西暦1650年 順治七年
- 冬十一月、孔有徳が桂林を破り、明の督師瞿氏耜・総督張同敞がこれに殉じて死んだ。有徳は二人に降るよう説いたが、みな大いに罵った。別の所に館らせて上賓のように優待したが、ほどなくみな屈せずに死んだ。
西暦1651年 順治八年
- 秋九月、閩浙総督陳錦らが明の舟山を破り、大学士張肯堂らがこれに殉じて死に、監国魯王は海に航った。これより先、安洋将軍劉世勲・左都督張名揚が精兵五百をもって城を背にして戦い、殺傷は相手の方が多かったが、ちょうど主事邱元吉らが城を越えて降り、錦は城中の火薬が尽きたことを知って攻めることをいよいよ急にしたので、城はついに陥ちた。名揚は一門をあげて自ら焼けて死んだ。
- 明の慶国公陳邦傅が宣国公焦璉を誘い殺し、潯州をもって叛き降った。邦伝(以下も底本は邦伝に作る。邦傅の誤りか)は孔有徳に款を通じ、璉に降るよう説いたが、従わず、自刎して死んだ。邦伝は潯州の文武を率いて降った。璉と邦伝とは児女の姻戚であった。邦伝はそこで兵を引いて平楽を取り、都督朱閔如がこれに殉じて死んだ。
西暦1652年 順治九年
- 春二月、明の秦王孫可望が兵を遣わして明帝を扈して安隆所に至らせ、そこに居らせ、安隆所を改めて安龍府とした。
- 秋七月、明の西寧王李定国が桂林を回復し、降将孔有徳を殺した。定国が進んで桂林を攻め、有徳が出て戦ったが、大敗し、死亡した者は数えきれず、屍が野一面に横たわった。有徳は遁れて城に入り、一家をあげて自ら焼けて死に、ただ一人の女である孔四貞だけが逃れ出た。定国はほどなく沅靖・武岡・宝慶・金衡・永彬・桂の諸府州県を破り、南康王劉文秀もまた叙州・重慶を取った。鞏昌侯白文選は辰州を取り、呉三桂は退いて漢中を守った。数日の間に、湖南・広西・四川の三省がみな明に復した。
- 冬十一月、敬謹親王尼堪が明の衡州を取り返し、李定国を追ったが、伏兵に中り、陣中で没した。このとき定国は続けざまに名のある王二人を斬り、兵威は大いに震った。
西暦1654年 順治十一年
- 夏四月、明の李定国が羅定・新興・石城電・白陽・江陽などの県を回復した(石城・電白・陽江の誤りか)。
西暦1656年 順治十三年
- 春三月、明の李定国・白文選が兵を合わせ、明帝を扈して雲南に入り、雲南を改めて滇都とした。これより先、明帝は孫可望の跋扈を患え、九年十一月と十年六月の二度、密かに定国に勅して兵をもって自らを衛らせようとしたが、事の機密が保たれず、朝臣呉貞毓ら十六人がかえって可望に害された。ここに至って定国は可望を田州で敗り、進んで安降(安隆の誤りか)に趨った。ちょうど可望が文選を遣わして兵を将いて蹕を迎えて黔に入らせ、文選が至ると、定国は帝を奉じて雲南に走った。このとき劉文秀が滇を守っていて、迎えて城に入れ、定国を晋王に進め、文秀を蜀王、文選を鞏国公とし、他の者も差をつけて爵秩を進めた。
- 秋八月、大将軍伊爾徳が舟山を襲い、明の英義伯阮駿らがこれに殉じて死んだ。降将田雄が伊爾徳を引いて定海の大洋から舟山を攻め、駿は連日迎え戦って、みな大勝した。この日、濤に乗って出て戦ったところ、にわかに南風が大いに起こり、舟が大きくて浅瀬に膠着して脱することができず、総督陳六御、総兵張晋爵、太常卿陳九徴・兪師範・劉永錫とともにこれに殉じて死んだ。
西暦1657年 順治十四年
- 夏四月、明が聖安帝・思文帝に諡号を上り、大赦した。聖安は「安宗簡皇帝」といい、思文は「紹宗襄皇帝」といった。
- 冬十月、明の孫可望が降って来た。可望は二度、明の滇都を襲ったが、いずれも李定国に敗られ、遁れて長沙に入り、経略洪承疇に投降した。朝命は封じて義王とした。
- 十二月、明が南寧を回復した。
西暦1658年 順治十五年
- 春十二月、貝子洛託を寧南靖寇大将軍に命じ、都統卓布泰、および降臣の呉三桂・洪承疇・線国安らとともに、道を分けて明の滇都を取らせた。このとき議する者は、李定国らはみな百戦を経た者であり、雲南・貴州・四川の東南は地が険しく兵が悍いことから、進兵をやめようとしたが、承疇・三桂が合わせて疏して大挙することを請うたので、ついに洛託に三桂らと会し、三路に分かれて進兵するよう命じた。
- 夏四月、洛託が貴陽に入り、巡撫冷孟銋がこれに殉じて死んだ。
- 呉三桂が遵義に入った。このとき三桂は浮橋で黄葛江を済り、綦江を渡り、滴溜三・陂紅関・石壺関の諸険を経たが、みな峭壁と重なる淵で、一人でも守れるところであった。守将劉正国は風を望んで、水西から雲南に逃げ入り、将軍郭礼受らが迎えて降ったので、ついに遵義に入った。
- 冬十月、信郡王鐸尼に三路の兵を統べて滇に入るよう命じ、曲靖に至ると、明帝は緬甸に出奔した。
西暦1659年 順治十六年
- 春正月、鐸尼らが滇都に入り、主事劉之謙がこれに殉じて死んだ。
- 二月、明帝が騰越に至り、呉三桂は永昌まで追って、兵を引いて還った。潞江を過ぎて二十里のところの磨盤山は、鳥道が深い草むらの中を曲がりくねり、わずかに一騎を通すだけであった。李定国はその間に柵を数重に設け、三つの伏兵を置いて待ち、兵が山頂を越えるのを俟って、号砲が上がれば、首尾から横ざまに突いて截り攻め、必ず一騎も返らせないと約した。三桂は江を渡り、守兵がいないのを見て、もはや備えず、隊伍は散り乱れ、山に上った者はすでに一万二千人になっていた。にわかに明の大理卿盧桂生が降って来て、その計を漏らし、三桂は砲をもってその伏兵を発かせ、みな出てきた。三桂は大敗し、都統以下十余人が死に、精卒数千を喪った。明の泰安伯竇民望・総兵王璽が陣中で没し、死んだ兵士もまた多かった。
- 秋七月、明の魯王方の督師張煌言が軍を率いて江南・江北を徇り、二十九城を下し、あわせて四府三州二十二県が風を望んで帰附し、東南は大いに震った。
西暦1661年 順治十八年
- 春二月、明の晋王李定国・鞏昌王白文選が、たびたび兵をもって明帝を緬甸に迎えようとしたが、果たせず、緬の兵を錫箔江で敗り、進んで大金沙江に拠った。緬の兵十五万が拒ぎ戦った。定国・文選の兵は十分の一にも及ばず、しかも戎器は失われ散っていて、長刀・手槊・白棓をもって、その巨象・巨砲に当たったが、軍士はみな奮って撃ち、大いにこれを破った。緬の兵で倒れ死んだ者は万を数え、その大将辺牙□(底本欠字)が陣中で死んだ。
- 秋九月、降将呉三桂が明帝を緬甸に追った。明帝が緬に入った後、朝議は患いとするに足らないとして、兵を撤し餉を節したが、三桂だけが疏を具して、渠魁を翦らなければ三つの患いと二つの難があると言い、時に及んで進兵することを請うた。そこで大臣愛星阿を定西将軍に命じ、禁旅を率いて会して勦えさせ、緬に檄して明帝を擒えさせようとした。
- 冬十二月、緬の賊莽猛白が明帝を劫し、呉三桂の軍中に送った。これより先、三桂は緬人に檄して帝を献じさせようとしたが、緬王は不可として言った。「人の危うきに因ってこれを利とするのは、不義である。しかも彼は天の立てたところ、中土の戴くところである。我は助けることもできないのにこれに害をなすのは、天に逆らうことだ。天に逆らうのは不祥である。これを全うして後の図りごととするに如かない。」ちょうど王の弟の莽猛白が酋を弑して自立し、明の従官を殺すこと尽きるばかりであった。三桂の兵が旧晩坡に至ると、緬人は帝および太后・中宮を舁いで三桂の営に入れ、三桂はこれを擁して北に旋った。
西暦1662年 清聖祖康熙元年
- 夏四月、明帝が雲南で崩じた。三桂は明帝を擁して雲南に至り、居ること数月、八旗の将士に密かに推戴を謀る者があった。三桂はこれを聞いて大いに驚き、帝および太子を輦で出し、弓弦をもって市で絞った。太子はこのとき年十二であったが、大いに罵って言った。「狡い賊め。我が朝がお前に何を負うたというのか、我ら父子がお前に何の仇があって、こんなことになったのか。」この日は大風が吹いて土煙が立ちこめ、雷電が交々起こり、空中を二匹の龍が蜿蜒として過ぎ去り、軍民で悲しみ悼まない者はなかった。城の北門の外に叢葬した。太后馬氏、后王氏はみな喉を扼して死んだ。この年、延平郡王朱成功が台湾で薨じ、晋王李定国が猛猟で薨じ、監国魯王もまた台湾で殂した。そこで明の南渡三帝および監国魯王の局はこれで結んだ。明は太祖からここまで、あわせて十八帝、二百九十四年、ここに至って亡んだ。
原文(底本)
順治元年,夏五月,明史可法等奉福王由崧監國南京。王神宗孫,福王常洵子也。時北京凶問至南都,諸大臣議立君,鳳督馬士英移書兵部、尚書史可法及侍郎呂大器,謂王於次序當立,可法以潞王常淓賢。持未決,而士英與誠意伯劉孔昭等密飭,靖南伯黃得功、暨高傑、劉澤清、劉良佐等以兵迎王至奉之監國。明日,行郊天告廟禮、發大行皇帝喪、大赦天下。以史可法、馬士英、高宏圖、姜曰廣、王鐸並爲東閣大學士,士英仍鳳陽等處軍務,餘入閣辦事明福王即帝位於南京,以馬士英掌兵部,入閣辦事。大學士史可法自請督師江上,上許之。士英處以爲有擁戴之功,旦夕冀入相,及督師鳳陽命下,大怒,率兵入朝,至江干,上疏勸進,王遂即皇帝位,以明年爲弘光元年。士英諷可法出,可法亦以陽州重任使他人居之,慮有失,遂請行。京師士民譁曰:「何乃奪我史公?」太學生陳方策等上疏言:「淮陽,門戶也;京師,堂奧也。門戶有人而堂奧無人可乎?」疏中有秦檜在內、李綱在外語,朝野以爲名言。明分江北爲四鎮,以高傑、劉良佐、劉澤清、黃得功分統之。可法疏請分淮陽、廬泗爲四鎮,澤清駐淮安,傑駐泗州,良佐駐臨淮,得功駐廬州。尋進得功靖南侯,封傑平伯、良佐廣昌伯,又進封佐良玉寧南侯。六月,明上崇禎帝后諡號,諡帝曰烈,廟號思;諡后曰孝節。秋七月,明遣兵部侍郎左懋第等來聘,偕使者爲太僕少卿、馬紹愉總兵。陳洪範以白金十萬兩,幣帛十萬匹來,並海運米十萬石餉吳三桂軍,三桂卻之,懋第等至館之鴻臚寺,請祭告諸陵及崇禎帝,不許,乃陳太牢寺廳,率將士三日哭奠,與南明大學士剛林往復辯論,慷慨不撓。剛林嘆曰:「此中國奇男子也!」尋遼遠洪範於途中密啓攝政王,請留懋第、紹愉,自願率兵歸附,並反間中南諸將。既返南都,密奏黃得功、劉良佐有異心,帝曰:「此反間,不足信。」洪範又言北兵旦夕南下,帝曰:「我當自強,清之欵否,原不足恃也。」懋第在北京,卒不屈死。 攝政王多爾袞致書明督師史可法,謂春秋之法,有賊不討則新君不得書即位,且諷以形勢,謂以中華全力,受制潢池而欲以江左一隅兼支大國,勝負之數無待蓍龜。可法報書,歷引漢光武、照烈、晉元帝、唐肅宗、宋高宗中興故事,且謂貴國驅亂除逆,兵以義動,若規此幅員,爲德不卒,則以義始而以利終,將爲賊人所竊笑。 八月,明起阮大鋮爲兵部添註右侍郎,巡視江防。至江上,衣素蟒圍碧玉,見者嗤梨園裝束。 九月,明修《思宗實錄》,明大學士姜曰廣、御史劉宗周罷。 明鳳陽地連震。 太白畫見。 十一月,明鳳陽皇陵災,松柏皆燼。 總兵夏成德取明海州。海州既破,豐、沛盡降。明督師史可法遣兵復宿遷,進援邳州。 日短至,明淮安地震。 琉球入貢於明。 十二月,豫親王多鐸統兵下河南,前鋒渡河,沿河塞堡望風降附,尋入河南府。分兵南下,令沂州、濟甯兵自廟灣南渡,簿邳宿、彰德,衛輝兵自孟津東渡,逼歸徐。 二年,春正月,乙酉朔,日食。立春日,流星入紫微垣。 明許定國誘殺興平伯高傑於睢州,尋叛來降。定國時駐睢州,已通欵多鐸,惟畏傑忠勇。傑次師徐州,感可法忠義,進取之志甚銳。聞定國有貳心,親往覩之,爲定國所誘殺。傑部將引軍攻城,破之,定國奔考城,尋來降,可法請以傑甥李本深代統傑軍,朝命衛允文總督其兵馬,尋撤回揚州,改以劉良佐防歸德。 三月,明北來太子至南京,訊之爲王之明,而士民堅執爲真太子。又有自稱福邸妃童氏者。帝指爲假冒,皆下之獄,中外譁然。劉得功、劉良佐、何騰蛟、袁繼咸、史可法皆疏爭之,不聽,左良玉亦自武昌馳疏,言兩案未結。輿論既爭不得,乃以清君賊爲名引兵東下,諸臣謂左兵不足慮,請備淮。帝亦謂良玉必不反,馬士英瞋目大呼曰:「我君臣甯死於清,不可死良玉手。有議守淮者斬!」 夏四月,多鐸取明泗州,渡淮,長驅至揚州,圍之,城陷,明督師史可法死之。初可法聞左軍警,馳入援,聞良玉死,折回,沿途聞盱眙、泗州皆叛降,兼程抵揚州。召河防兵,無至者,獨總兵劉肇基自白洋河以兵四千至,請背城一戰。可法謂野戰不如憑城,與肇基入城固守,亙七畫夜,可法以巨礮下擊,死者數千人。忽報黃蜚兵至,可法命開城迎入,則反戈向,始知其爲詐。俄而城西北崩,兵入,可法被執,多鐸反覆說之降,不可,且曰:「揚州既爲爾有,當待以寬大。而死守者,我也,請毋殺揚州人。」多鐸不答,使左右兵之,屍裂而死。肇基率所部巷戰,一軍盡沒。多鐸留軍十日,屠之而南。 五月,多鐸入南京,明尚書高倬等死之,叛將劉良佐追及明帝於蕪湖,執之。靖國公黃得功力戰死。多鐸師至揚子江,兩軍相持三日,值夜霧,乃編巨筏,列燈火其上,放之中流爲疑兵,而別以數千騎潛從龍潭之哨渡,守兵皆驚潰,遂陷鎮江。由丹陽、句容直抵南京。士英擁太后西走,明帝出奔太平。時劉孔昭先遁入,帝至,閉門不納,乃奔蕪湖,夜幸得功營。得功驚泣曰:「上死守都城,各鎮尚可合兵以圖光復,奈何聽奸人言先出乎?雖然,願效死!」多鐸駐軍南京城外,縱兵大掠十日,始入城,遣良佐追襲明帝。及之蕪湖,得功迎戰,中流矢死。總兵田雄縛帝出,良佐挾之至南京,拘之江甯縣獄。 六月,多鐸遣貝勒博洛進追明潞王於杭州,王降,前大學士高宏圖、都御史劉宗周、江蘇巡撫祁彪佳死之。王既降,馬士英走錢塘。 閏月,明張肯堂等奉唐王聿鍵監國福州,王太祖八世孫、唐王碩熿之孫、世子器墭之子,崇禎間以倡議勤王得罪,禁錮弘光,時釋出,命移駐廣西平樂,行抵杭州。而南都已覆,鄭鴻達等衛之入閩,與肯堂等奉以監國。 月食既,星流竟夕。 明唐王即位於福州,以福建爲京,福州府爲天興府,改元隆武,遙上弘光帝尊號曰「聖安皇帝」,以黃道周等爲大學士,鄭芝龍掌戎政。 明錢肅樂等奉魯王以海監國紹興。王太祖十世孫魯王壽鏞之子,北都陷,王南下,聖安帝命居台州。既降,餘姚、會稽、鄞縣義兵錯起,奉表請王監國,移駐紹興,以張國維等爲大學士。國維督師江上,畫江而守。 秋七月,明大學士黃道周募兵江西,以圖恢復。時閩中戰守機宜,悉鄭芝龍爲政,廷臣日請出關,而芝龍輒以餉絀爲辭,至是道周憤然請出關募兵,且籍以連何騰蛟爲進取計。芝龍復靳餉不與,僅齎空勅數百道而行。 明魯張國維復富陽於潛,國維既連克富陽於潛,樹木城於沿江要害,聯合諸營爲持久計。 監國賜上方劍,總統諸軍。 冬十月,明頒詔浙東,監國魯王不受。時何騰蛟有兵數十萬,分爲十三鎮,布列湖南北。而江右督師楊廷麟一軍在南昌,屢戰克捷,兼取吉安守之,勢頗振。是時,明領土自福建、兩廣、雲貴以外,兼有湖南及江西之一部,因遣給事中劉中藻頒詔於浙,諸將恇惑,監國將避位返台州。督師張國維馳疏閩中,言監國當大勢渙散之日鳩集爲勞,一旦退就藩服,人無所依。閩中鞭長莫及,猝然有變,脣亡齒寒,悔莫可追。明帝悟,尋遣部御史陸清源解餉十萬至浙東犒軍。時方國安守嚴州,馬士英、阮大鋮自錢塘遁至,在其軍中嗾國安刦餉,執殺詔使,且檄守閩中罪。自是,閩浙水火,而脣齒之勢離矣。 明魯方國安等與貝勒博洛兵戰於江上,七戰皆捷,追至杭州而還。是日,國安嚴陣以待,張國維、錢肅樂率本部兵翼後,前鋒副將鍾鼎新用火攻擊殺緋衣大將一,諸將呂宗忠、王國斌、趙天祥等各斬數百級,奪獲軍械無算。連戰十日,諸軍皆有功,第七陣尤捷,追至草橋門下,會大風雨,弓矢不能發而退。時浙西義旗四起,蘇松嘉湖列營數百,杭州危甚。肅樂請率兵由海道窺吳,不聽,說者惜之。 十一月,明帝誓師西郊,以唐王聿釗、㔁王鼎器監國福京,大學士曾櫻留守。是日,駕幸西郊,行推穀禮,以鄭鴻達爲御營左先鋒,出浙江;鄭彩爲御營右先鋒,出江西。舟至芋江五溪,百姓壺漿迎者載道。 十二月,明督師黃道周兵敗於婺源,被執,死之。道周至廣信府募兵得萬人,分道進兵,皆潰,道周爲降將張天祿襲執。洪承疇使人進道周茶,不飲,左右曰:「相國請飲清茶一杯。」道周遽擲於地,大罵遂不屈死。 三年,春正月,交阯、日本遣使入貢於明。 三月,明魯武寧侯王之仁與貝勒博洛兵戰於錢塘,大捷,進圍杭州,不克,杭州將士與博洛兵跨江相距,屢戰不利,無復鬬志。之仁憤然上疏曰:「事起日,人人有直取黃龍之志,乃一敗後,遽欲以錢塘爲鴻溝,天下事何忍言?臣願以所隸,沉船一戰。今日死,猶戰而死,他日即死,恐不能戰也。」會博洛驅船開堰入江,張國信檄之仁以水師,從江心襲戰,忽東南風大起,之仁揚帆奮擊,碎舟無數,鄭遵謙獲鐵甲八百餘副,諸軍繼之,遂大捷,乘勝進圍杭州,不克而還。 明帝幸延平府,帝知鄭芝龍有異志,久欲由贛入湘,倚何騰蛟,會江楚迎駕,疏相繼至,遂決意行。芝龍使軍民數萬遮道留駕,不得前,帝不得已駐延平。 夏五月,琉球入貢於明。 明江上兵潰,方國安刦監國魯王走台州,博洛兵以巨礮擊毀國安營黿,國安退至紹興,刦王南行。 明聖安皇崩於北京。聖安與潞王在北京,同日見殺。 六月,博洛兵錢塘江,明監國魯王航海,督師張國維等死之。時方國安遁去,諸將猶嚴守江上,值大旱,江上水寨裳可涉,全軍畢渡,列戍駭潰。馬士英、阮大鋮勸國安執王降,王亟走得脫,航海赴廈門,尋走南澳。博洛兵入義烏,或諷國維走,國維曰:「誤天下事者,文山疊山也!」赴水死。大學士孫嘉績,武寧侯王之仁,尚書余煌、王思任,侍郎陳函輝,大理卿陳潛夫同殉焉。金華嚴備相繼下。 秋八月,明帝崩於汀州。鄭芝龍於是年五月間已通款撤兵,仙霞嶺二百里間遂虛無一人。博洛長驅入,帝在延平聞警,出奔,至汀州,降將李成棟率師追至,帝與曾后同被戕於府堂。尋江西贛州亦陷,楊廷麟、萬元吉皆死之。 冬十月,明丁魁楚等奉桂王由榔監國肇慶。王神宗孫,桂王常瀛子也,崇禎中封永明王,時在粵西,汀州聞變,魁楚等奉之監國。以魁楚與瞿式耜、呂大器並爲東閣大學士。 十一月,明監國桂王奔梧州。丁魁楚聞贛州陷,奉王避之梧州,瞿氏耜諫,不聽。 明蘇觀生立唐王聿𨮁於廣州。聿𨮁隆武帝弟也,前大學士蘇觀生以桂王監國,己未輿立,會聿𨮁至廣州,擁立爲帝,改元紹武。自是二百里內,有兩政府治兵相攻,不暇外禦矣。 明桂王即位於肇慶,丁魁楚聞廣州唐王之立,謂不即位無以厭人心而號召天下,乃即位於肇慶,仍稱隆武二年,以明年爲永歷元年。是日和風旭日,有五色大鳥自南來,士民歡呼,謂中興可卜云。 明遙上隆武帝后尊號。時聞帝后就執,未知凶訃也。上帝號曰:「思文皇帝」后曰:「思文皇后」 十二月,降將李成棟陷廣州,明唐王聿𨮁殂,大學士蘇觀生自殺。博洛陷漳州,遣成棟取廣東,連破潮、惠,急趨廣州。奪門入,王方會羣臣視學,君臣皆倉猝自縊,周益遼等二十四王皆遇害,明帝復奔梧州。 四年,春正月,降將李成棟陷肇慶,明帝奔平樂,尋如桂林。 二月,明監國魯王圍海潛,分兵攻漳州、福州、興化、福清,皆不克,退入海。 三月,明帝幸全州,瞿氏耜留守桂林。李成棟襲至,總兵焦璉禦卻之,成棟自平樂長驅抵桂林,城中虛無甲兵,式耜急召璉於黃沙鎮,璉率騎三百赴之。入城之明日,成棟兵數萬猝至,數十騎乘虛突入文昌門,登樓瞰留守府,矢集留守綸巾。式耜叱之曰:「何敢爾?」呼璉,璉袒臂出,射殺數十人,急閉城,餘棄馬來越城下。璉率三百人開城追之,引騎直貫其營。自寅至午,斬首數千級。衝來兵馬爲三,已復合而圍之,璉大呼殺入,戈刃所及,血雨肉飛,殺數千騎,追奔數十里,桂林獲全。論者謂南渡以來,武功第一。 孫可旺歸於明。可旺張獻忠養子,米脂人,土司沙定州叛明,明石屏副將龍在田招之入滇,定州大敗,遁歸阿迷。可旺連陷明城邑,巡撫楊畏知招安之,賜名可望。 夏五月,明帝駐蹕武岡,改武岡爲奉天府。 明魯周鶴芝復海口,鄭彩復長樂。 降將孔有德、耿仲明、尚可喜再攻桂林,明總兵焦璉大敗之。有德、仲明、可喜皆毛文龍養孫,有德名毛永詩,仲明名毛永傑,可喜名毛永喜。文龍爲袁崇煥所殺,三人皆叛,來降。有德封恭順王,仲明懷順王,可喜智順王。入關後,有德改封定南王,仲明靖南王,可喜平南王。至是合軍抵桂林,猝簿城。氏耜、璉分門守,以西洋銃擊退外兵,璉復開城出戰,以三百人,自辰至午,殺數千人。向晡,雨不息。收兵,明日復出戰。璉奮力衝陣,有德等棄甲仗而奔。璉運槊提鞬,逐北二十里,有德望虞山樹木,皆疑爲兵。 秋七月,明新興伯焦璉復陽朔,遂復平樂。孔有德大挫,而陳子壯、張家玉、陳邦彥同時起兵高州、東筦、端州間,於是,璉乘間盡復廣西所失諸城。 八月,明總後劉承胤以奉天叛降,明帝奔靖州,大學士吳炳,尚書傅作霖,参將謝復榮死之。 明監國魯王復羅源,又復連江。時海師破山鶯、龍門、高公諸島,進復羅源、連江,於是長樂、永福、閩清諸城皆下。 冬十月,明帝如柳州。 太白經天。 明帝如象州。 十一月,降將孔有德等簿全州,明督師何騰蛟大敗之。有德等連陷湖南永州、衡州、辰州、黔陽、興安諸府縣,進逼全州,騰蛟督郝永忠、焦璉、盧鼎、趙印選諸軍分戰,大敗有德、仲明、可喜兵,斬級無算。有德等遁返湖南,明帝還桂林。時諸師連營間道,亙三百里。 五年,春三月,安南入貢於明。 孔有德攻明桂林,敗績。有德兵抵桂林北門,何騰蛟督焦璉、胡一青、周金湯、熊兆佐分門出戰,璉橫矛陷陣,左右衝突,勢如游龍。輿將軍劉起蛟合擊,殺數百人,貫營而出。一青躍馬馳擊,騰躑若飛,能標槍取人數十步外,百發百中。每乘馬必翦其鬃,北兵誤認爲牛,輒相戒曰:「此騎牛蠻子,不可當也。」一青與璉合兵再戰,金湯、兆佐橫擊之,璉標下趙興、白貴殊死戰,有德督軍退二十里,幾被獲,乃北渡甘棠去。時金聲桓據江西,李成棟據廣東,先後反正,騰蛟乘隙發兵,復阮州、寶慶、常德、靖州、奉天,氏耜復梧州,而蜀中義兵紛起,川東、川西皆復,於是明帝有兩廣、雲貴、江西、湖南、四川七省之地,駐蹕肇慶。 秋八月,呂宋入貢於明,歐羅巴人進圖讖。 六年,春正月,降將徐勇襲湘潭,明督師何騰蛟死之。騰蛟攜吏卒三十人赴湘潭,會赤心,至則赤心去。徐勇偵知城中無兵,入執騰蛟,擁之去,遂見害。 冬十月,明監國魯王駐舟山。先是,大學士劉中藻敗殃於福安,閩地盡失,王次浙之三盤,會定西侯張名振復健跳所,迎王居之,然寄身舟中,即河艍之頂爲朝房,謂之水殿,時黃斌卿據舟山,名振與蕩平伯阮進、平西伯王朝先合兵擊破之,誅斌卿,迎王駐蹕。 降將孔有德遣兵攻道州,明永國公曹志建禦卻之。有德將馬蛟麟攻道州,敗績遁。 冬十一月,明魯乞師日本,不果。 七年,冬十一月,孔有德破桂林,明督師瞿氏耜、總督張同敞死之。有德說二人降,皆大罵,館之別所優待之,如上賓,尋皆不屈死。 八年,秋九月,閩浙總督陳錦等破明舟山,大學士張肯堂等死之,監國魯王航於海。先是,安洋將軍劉世勳、左都督張名揚以精兵五百背城戰,殺傷過當,會主事邱元吉等越城降,錦知城中火藥盡,攻益急,城遂陷,名揚闔門自焚死。 明慶國公陳邦傅誘殺宣國公焦璉,以潯州叛降。邦傳通款孔有德,說璉降,不從,自刎死,邦傳率潯州文武降。璉與邦傳爲兒女戚也,邦傳遂引兵取平樂,都督朱閔如死之。 九年,春二月,明秦王孫可望遣兵扈明帝至安隆所居之,改安隆所爲安龍府。 秋七月,明西甯王李定國復桂林,殺降將孔有德。定國進攻桂林,有德出戰,大敗,死亡不可勝計,橫屍遍野。有德遁入城,舉家自焚死,惟遺一女孔四貞逸出,定國旋破沅靖、武岡、寶慶、金衡、永彬、桂諸府州縣,南康王劉文秀亦取敘州、重慶。鞏昌侯白文選取辰州,吳三桂退守漢中。數日間,湖南、廣西、四川三省皆復爲明。 冬十一月,敬謹親王尼堪復取明衡州,追李定國,中伏,歿於陣,時定國連斬二名王,兵威大震。 十一年,夏四月,明李定國復羅定、新興、石城電、白陽、江陽等縣。 十三年,春三月,明李定國、白文選合兵扈明帝入雲南,改雲南爲滇都。先是,明帝患孫可望跋扈,於九年十一月、十年六月兩次密勅定國以兵自衛,而事機不密,朝臣吳貞毓等十六人反爲可望所害,至是定國敗可望於田州,進趨安降。會可望遣文選將兵迎蹕入黔,文選至,定國奉帝走雲南。時劉文秀守滇,迎入城,晉定國晉王,文秀蜀王,文選鞏國公,餘進爵秩有差。 秋八月,大將軍伊爾德襲舟山,明英義伯阮駿等死之,降將田雄引伊爾德由定海大洋攻舟山,駿連日迎戰,皆大捷。是日乘濤出戰,忽南風大發,舟大,膠淺不得脫,與總督陳六御,總兵張晉爵,太常卿陳九徵、俞師範、劉永錫死之。 十四年,夏四月,明上聖安帝、思文帝諡號,大赦。聖安曰「安宗簡皇帝」,思文曰「紹宗襄皇帝」。 冬十月,明孫可望來降。可望兩次襲明滇都,皆爲李定國所敗,遁入長沙,投降於經略洪承疇,朝命封爲義王。 十二月,明復南甯。 十五年,春十二月,命貝子洛託爲甯南靖寇大將軍,都統卓布泰,偕降臣吳三桂、洪承疇,線國安等分道取明滇都。時議者以李定國等皆百戰之餘,雲貴川東南地險兵悍,欲止進兵,而承疇、三桂合疏請大舉,遂命洛託會三桂等,分三路進兵。 夏四月,洛託入貴陽,巡撫冷孟銋死之。 吳三桂入遵義。時三桂以浮橋濟黃葛江,渡綦江,歷滴溜三、陂紅關、石壺關諸險,皆峭壁重淵,一夫可守。守將劉正國望風,由水西逃入雲南,將軍郭禮受等迎降,遂入遵義。 冬十月,命信郡王鐸尼統三路兵入滇,抵曲靖,明帝出奔緬甸。 十六年,春正月,鐸尼等入滇都,主事劉之謙死之。 二月,明帝至騰越,吳三桂追至永昌,引兵還。過潞江(古怒江)二十里磨盤山,鳥道窔菁屈曲,僅通一騎,李定國設柵數重其間,三伏以待,約俟兵度山顛,號礮起,首尾橫突截攻,必無一騎返。三桂渡江,見無守兵,不復備,隊伍散亂,上山者已萬有二千人。忽明大理卿盧桂生來降,泄其計,三桂以礮發其覆,皆出,三桂大敗,死都統以下十餘人,喪精卒數千。明泰安伯竇民望、總兵王璽陣歿,兵士死者亦衆。 秋七月,明魯督師張煌言率師狥江南北,下二十九城,凡四府三州二十二縣望風歸附,東南大震。 十八年,春二月,明晉王李定國,鞏昌王白文選數以兵迎明帝於緬甸,不得,敗緬兵於錫箔江,進據大金沙江,緬兵十五萬拒戰。定國、文選兵不及十一,且戎器耗散,以長刀、手槊、白棓,當其巨象、巨礮,而軍士咸奮擊,大破之,緬兵僵死萬計,其大將邊牙𬌡死於陣。 秋九月,降將吳三桂追明帝於緬甸。明帝入緬後,朝議以不足爲患,撤兵節餉,而三桂獨具疏謂渠魁不翦,有三患二難,請及時進兵。乃命大臣愛星阿爲定西將軍,率禁旅會勦,檄緬入擒明帝。 冬十二月,緬賊莽猛白刦明帝,送吳三桂軍中。先是,三桂檄緬人獻帝,緬王不可,曰:「因人之危而爲之利,不義,且彼天之所立,中土之所戴,我不能助而爲之害,是逆天也。逆天不祥,不如全之以爲後圖。」會王弟莽猛白弒酋自立,戕明從官幾盡,三桂兵至舊晚坡,緬人舁帝暨太后中宮入三桂營,三桂擁之北旋。 清聖祖康熙元年,夏四月,明帝崩於雲南。三桂擁明帝至雲南,居數月,八旗將士有陰謀推戴者。三桂聞之,大驚,輦帝及太子出,以弓弦絞於市。太子時年十二,大罵曰:「黠賊!我朝何負於汝,我父子何仇於汝,乃至此耶?」是日大風霾,雷電交作,空中有二龍蜿蜒而逝,軍民無不悲悼者。叢葬於城北門外。太后馬氏,后王氏皆扼吭死。是年延平郡王朱成功薨於臺灣,晉王李定國薨於猛獵,監國魯王亦殂臺灣,於是明南渡三帝及監國魯王之局以結。明自太祖至此凡十八帝,二百九十四年,至是亡。
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