清史紀事本末明の義軍蜂起の失敗(明起義軍之失敗)

要約

順治二年六月、両京が陥ちて人心は騒然となり義軍が四方に起こったが、民兵は急ごしらえで訓練も糧も武器も足りず、まもなく敗れた。呉県の生員陸世鑰・沈自炳・沈自駉は太湖で、職方主事呉易と挙人孫兆奎は長白蕩で起こり、易は兵卒を農民に紛れさせ博洛の舟を漕がせて中流で船底を穿ち沈めた。巡撫田仰・荊本徹・張士儀らは崇明で義陽王を奉じ、任源邃・呉福之・徐安遠は太湖で、長興の金有鑑は通城王を奉じて湖州を抜き、長興を攻めて王士麟が戦死した。呉志葵と陸世鑰は蘇州を図り、魯之璵が三百人で胥門を破って入城したが満州の騎兵に全滅した。項志甯は常熟で敗死し、宗室盛瀝と盧象観は江甯・溧陽に敗れ、象観は太湖に入った。

閏月、江陰の典吏閻応元と陳明遇が拒み守り、敗れた劉良佐が降を説くと、応元は、一典吏でも故国を忘れぬのに、重兵を握り敵の先駆けとなる者にどの面下げて会えようかと罵った。黄毓祺・徐趨は行塘で応じ、無錫の顧杲は降を申し入れる王如玉らを捕らえたが賊と叫ばれ砂山の団練に殺された。常州の張龍文、余姚の孫嘉績と熊汝霖は夫役三百人を説いて県令を斬り、松江の沈猶龍・陳子龍らは壮士数千で城を守り、会稽の鄭遵謙は義興軍と号して魯王を迎え、寧紹台道于穎は富陽を回復して渡河の筏を穿ち沈め、鄞県の銭粛楽は王之仁と盟って張煌言を台州に遣わし、張国維は東陽で、崑山の王佐才ら、嘉定の侯峒曾・黄淳耀は梁得勝の兵八十四級を斬り、太倉の王湛、休寧の金声と江天一は叢山関を築き、徽州推官温璜は糧を送り、邱祖徳・麻三衡は寧国、尹民興・趙初浣・呉漢超は涇県、貴池の呉応箕は建徳・東流、青陽の龐昌允、嘉興の屠象美・銭秉・徐石麒ら、長興の方元章らは余杭を回復した。

七月、李成棟が嘉定を屠り、侯峒曾・黄淳耀は一門あげて自尽した。江西では夏万亨らが益王を奉じて建昌に拠り、羅川王が郷兵一万余を練ったが、保寧王の内応で城は陥ち、六君子の墓と題された。曾亨応・掲重熙は撫州で募兵が集まらぬうちに王得仁が来て衆は散り、楊廷麟・劉同升は贛州、劉士楨は泰和・廬陵で起こり、胡定海は徳興で敗死し、李含初は徳化・瑞昌、郭賢操は徳安・建昌を回復したが部将の内通で敗れ、瀘渓の張載述らは新任の県令を磔にした。邱祖徳は磔にされ、麻三衡は稽亭山で死んだ。八月、成棟は松江を屠り、黄蜚の兵と騙った者を入れて弁髪と知れ、沈猶竜は流れ矢に死に、李待問・章簡らが殉じた。劉一鵬は峡江・袁州を取って鄧武泰・李時興が死に、金声桓は吉安・万安を取って曠昭が死に、梁于涘は官に就けば神は滅びると言って縊れた。王得仁は臨川で曾亨応を捕らえ、屈しないので樹に吊るし射殺した。把総呉之蕃は嘉定の回復を図って敗れ、父子ともに忠節だと罵って死んだ。江陰は八十一日囲まれて兵の死者七万五千余、閻応元・陳明遇は自尽し、金山衛の侯承祖は四十の矢を受けて捕らえられ罵り死んだ。盧象観・葛麟らは太湖で敗れ、呉易・孫兆奎は陰雨で砲が鳴らず潰え、兆奎は洪承疇を一人か二人かと詰り斬られた。魏国公徐宏基も謀が洩れて殺され、任源邃らも死んだ。

九月、張天禄が涇県を襲って趙初浣が死に、績渓では黄澍が援兵と偽って城を破らせ、金声と江天一は南京で殺され、徽州では黄澍が降って温璜が一門自尽した。呉応箕は私の冠を取るなと言って死に、広徳の呉源長ら、塩城の司石磐、溧陽の銭国華・謝琢も敗死し、淮安の王翹林・繆鼎吉らは新昌王を奉じ塩城・新化を取って敗れた。十一月、陝西の孫守法が秦藩の第四子を漢中王とし、賀珍が鳳翔を回復して諸県が帰した。十二月、陳泰来は上禼・新昌・寧州・万載を回復したが姻戚の戴国士の招きで撫州に敗死した。三年、呉漢超は句容・高淳・溧水・太平を回復したが寧国を襲って潰え死に、金有鑑は長興で戦死し、鎮国将軍常巣は蘄州で敗死し、孫守法・武大定は伯に封ぜられ、許文竜は奉郷で糧尽き死に、新城知県李翺は城陥ちて死に、張飛遠は金山衛を襲って成らず、六月、呉易は再び長白蕩で捕らえられ屈せず死んだ。

十月、金声桓が贛州を屠った。四月から囲まれ、楊廷麟・万元吉は忠誠社を設けて三万近くを集め、李永茂の粤兵で一時囲みを解き、明帝は忠誠府の名を賜ったが、汀州の変と諸援軍の潰走が伝わり、霧と雪の夜に城を登られ、砲が破裂して城は陥ちた。廷麟・元吉・郭維経は自尽し、彭期生ら文武・諸生から郷約・書工に至るまで多くが死んだ。論者はいう、この死事の壮烈さは史可法の揚州、瞿式耜の桂林と相映ずる、と。十一月、無錫の王謀は郷兵一万で常州に迫り殺され、十二月、黄毓祺・徐趨は江陰を襲い趨と十四人が死んだ。

四年、張家玉・韓如璜は東莞を回復して三日で敗れ、陳邦彦は余竜の二万で広州を攻めたが、李成棟が甘竹灘を取ると言うと余竜の兵は引き去った。洪有楨は漳浦、頼天肖は潮州、陳順・簡信は韶州、蘇来は恵州、黄奇策は新会で起こり、馬応房が順徳を取ったが成棟に再び取られ、応房と余竜は死んだ。頼熊は建陽、孫守法は寧州を回復し、張家玉は再び東莞・新安を取り、林質は徳化を取って建陽で敗死した。四月、孟喬芳は興安の伏兵で孫守法を捕らえ、守法は鉄鞭で百十人を打ち殺して死んだ。松江提督呉兆勝の反正は洩れて殺され、沈廷揚・陳子竜・楊廷枢・夏完淳ら数十人が死んだ。岑本高らは浦城で敗れ、王光泰は襄陽で反正したが四川へ走り、鄖西王は建寧・邵武を、周金湯は永州を回復した。七月、陳子壮は九江村で起こり、陳邦彦と禺珠洲に伏せて成棟の舟数十艘を焼いたが、風が変わって大潰えし長子上庸が戦死した。徐定国は懐集を回復し、八月、高明が襲われて子壮は広州で寸刻みに磔にされ、麦而炫も従って死んだ。杜璜・李皇一は肇慶で敗死し、王祥は遵義を回復した。九月、成棟が清遠を破って陳邦彦と白常燦が死に、十月、張家玉は増城で兵を竜・虎・犀・象の四管に分けて十日戦い、力尽きて野塘に身を投げた。陳世亨は瑞安、林汝翥・林垐は福清で敗死し、十二月、李長祥・王翊らの寧波の謀は洩れ、華夏・屠献宸・王家勤らが死んだ。

五年正月、金声桓が王得仁と南昌で反正し、辮髪を切らせて隆武四年と称し、董学成らを殺して姜曰広を盟主に迎え、贛州を除く全省が明に復した。朱継祚は興化を回復したが敗れて自殺し、鄖西王は建寧で敗死し守将の王祁は焼身して死に、三月、蘭州の遠長王は米喇印・丁国棟に擁されたが孟喬芳・張勇に敗れて死に、周損らは六安で敗死した。王翊は四明山に拠って大蘭洞主と号し、五営五司を立てて王江が糧を主り、周囲の城は数年門を閉ざした。四月、李成棟が広東で反正した。愛妾の張氏は内顧の情を絶つため首を刎ね、成棟は佟養甲を脅して永暦の正朔を奉じた。張先壁は靖州・沅州、陳友竜は武岡を明に復し、九月、王䵺は廬州を破ったが守れず、十一月、余応桂・掲重熙・傅鼎銓・劉士楨らは南昌を援けて落星湖に敗れ、金志達と僧了悟は東流・建徳を取って敗死し、李虞夔は姜瓖らの反正に乗じて潼関・䈬州・解州を落とした。

六年正月、譚泰が南昌を屠った。前年七月から囲まれ糧が尽き人が互いに食い、湯執中が内応して城は陥ち、金声桓は湖に、姜曰広は偰家池に身を投げ、王得仁らは市街戦に死んだ。侯応竜らは将軍寨で敗死し、三月、李成棟は贛州に利あらず信豊に退いたところを攻められ、雨で砲が燃えず河を渡って溺れ死んだ。黄毓祺は通州で再挙を図ったが銭謙益に資を断られ、江純一の密告で捕らえられ、薛継周らとともに死んだ。九月、李虞夔は平陸で潰え、姜瓖・万瑓・劉遷・王永強もみな敗死した。七年二月、鳳陽の義軍を総督した王𤐣が捕らえられ屈せず死に、皖の義軍はほぼ尽きた。八年、鄧光遠・傅鼎銓・掲重熙・呉江・余応桂が相次いで捕らえられ死に、王𦚎は奉化で捕らえられ、毎日鬚を梳り漢官の威儀を見せてやろうと言い、定海で射殺された。九月、陳邦傅が清遠衛を襲い白常燦が罵って死に、十二月、朱国楨の孫某が南潯鎮で起こり敗死した。十一年、徐敬時らは広信の九仙山寨で敗れ、十三年、王江が四明山で再び起こり敗死し、休寧の趙立言は江山を落としたが馬がつまずいて水に落ち死んだ。

年表

南京陥落後、江南・浙東・江西・福建・両広・陝西の各地で士人や郷民が蜂起し、いずれも潰えていった顛末を年ごとに列挙した篇である。順治二年(1645年)には呉易・陸世鑰・閻応元・金声・銭粛楽・孫嘉績・孫守法らが相次いで挙兵し、李成棟や張天禄の攻撃で嘉定・江陰・松江・徽州が屠られた。順治三年(1646年)の贛州陥落では楊廷麟・万元吉ら多数が殉じ、順治五年(1648年)には金声桓が南昌で、李成棟が広東で明に復帰したが、翌順治六年(1649年)にいずれも敗死した。以後は王翊・王江らの四明山の抵抗が残るのみとなり、順治十三年(1656年)までに義軍はほぼ絶えた。

年表(9件)

現代語訳全文

西暦1645年 順治二年

  • 夏六月、明の呉県の生員陸世鑰・沈自炳・沈自駉が太湖で兵を起こした。当時は両京(北京と南京)がともに陥落し、南方の人心は騒然として、義軍が四方に起こった。しかし民兵はいずれも急ごしらえで召集されたもので、まだ訓練を経ておらず、兵糧も武器も不足していたため、まもなく敗れた。主謀者たちは皆前後して死んだ。
  • 明の職方主事呉易・挙人孫兆奎が長白蕩で兵を起こした。博洛の兵が到来したが、水戦に慣れていなかった。易は部下の兵卒を農民の中に紛れ込ませ、(博洛の軍の)ために舟を漕がせた。舟を漕いで中流に至ると、船底を穿って沈め(底本「鐅」、「鑿」の誤りか)、溺死する(清兵)は数えきれなかった。当時、部朗(部郎の誤りか)の王期昇・呉景亶らが西山で兵を起こし、長興を落としたが、その兵は易のものほど強くはなく、多くはそこを捨てて易のもとへ帰属した。
  • 明の巡撫田仰、監軍道の荊本徹、総兵の張士儀・張鵬翼、太監の李国輔が崇明で兵を起こし、義陽王を奉じて、舟師をもって崇明沙に駐屯した。
  • 明の生員任源邃・呉福之・徐安遠が太湖で兵を起こした。源邃は各地で兵が起こるのを見て、ともに事を成せる者を求めたが、いずれも意に叶わなかった。福之が挙兵の意を起こすに及んで、源邃と約して、ともに李某という総兵のもとに就き、合わせて一軍となった。
  • 明の長興県の金有鑑が兵を起こし、通城王を奉じて、一戦して湖州を抜き、進んで長興を攻めた。吏員の王士麟が兵を率いてこれに合流し、再び攻めて再び敗れ、士麟は戦死した。
  • 明の呉淞提督呉志葵・生員陸世鑰らが蘇州の回復を図ったが、成らなかった。世鑰は呉易らと兵を合わせて蘇州に迫り、志葵は舟師を率いて来会した。前鋒の魯之璵が三百人を率いて胥門を斬り破って城内に入った。降臣の侍郎李延齢、巡撫の国宝は兵を城内に引き締めて動かさなかった。之璵は入城しても敵に出会わず、内心みずから疑った。府学の官署を過ぎたとき、満州の騎兵が突出して之璵に襲いかかり、そのまま潰えた。之璵と勇士の韋志斌はともに死に、三百人はことごとく殲滅された。志葵と易は軍を引いて退き、世鑰は帰って僧となった。
  • 明の貢生項志甯らが常熟で兵を起こし、もとの知州厳拭を推して主とした。まさに城守を議していたところへ、降将の総兵劉良佐が軍を率いて到来し、志甯はこれに死んだ。
  • 明の宗室盛瀝・中書舎人盧象観が兵を起こして江甯を襲ったが、成らなかった。盛瀝と象観は宜興に至り、士卒を集めて溧陽を攻めたが、また敗れ、象観はそのまま逃れて太湖に入った。
  • 閏月、明の江陰の典吏関応元(後文の閻応元と同人。「閻」の誤りか)・陳明遇が兵を起こして拒み守った。劉良佐はしばしばこれを攻めてしばしば敗れ、遠くから言葉をかけて説得した。応元は言った、「私はただの一典吏にすぎないが、それでも故国を忘れてはいない。お前は爵位は列侯であり、重兵を握りながら、国境を守ることもできず、かえって敵の先駆けとなっている。どの面下げて私に会おうというのか」。良佐は恥じて退いた。
  • 明の江陰の貢生黄毓祺・生員徐趨が行(後文により「行塘」の脱字か)で兵を起こした。当時、江陰が城を守っていると聞き、兵を起こして応援としたのである。
  • 明の無錫の生員顧杲が兵を起こそうと図ったが、成らなかった。杲がまさに兵を起こして盧象観に呼応しようとしたとき、同じ邑の人である王如玉・顧君起に出会った。二人は長州(長洲)へ降伏を申し入れに行くところで、砂山で出会ったのである。杲がその場の部下に命じて二人を捕らえさせると、二人は大声で「こいつこそ賊だ」と叫んだ。砂山の団練は急なことで見分けがつかず、群がり起こって杲を捕らえた。杲はみずから弁明することができず、ついに殺された。その後、砂山の人々はそれが杲であったと知り、大いに悔いて、祠を立ててこれを祀った。
  • 明の常州の生員張龍文が兵を起こし、府城の回復を図ったが、敗れて死んだ。
  • 明の余姚に在籍していた前の九江僉事孫喜績(後文の嘉績と同人。「嘉」の誤りか)・吏科給事中熊汝霖が兵を起こして拒み守った。当時、県令が民を使役して道を修復させており、使役されている者たちは皆泣いていた。嘉績はひそかに彼らに語りかけて言った、「逃げてはどうか」。答えて言った、「逃げれば死にます」。言った、「使役されても死に、逃げても死ぬ。ならばいっそ死地に身を置いて永生を求めてはどうか」。使役されている者は言った、「どうしたらよいのでしょう」。嘉績は言った、「江東の情勢はまだどうなるか分からない。壮士が手をこまねいたまま死んでは、死んでも名が残らない。いま隣の邑が義を挙げている。まことに衆を合わせることができ、江を境に区切って守れば大功となる。もし勝てなかったとしても、たかだか旦夕に死ぬだけのこと(底本「猶紱旦夕死」)。まして必ずそうなると決まったわけでもないのだ」。衆は言った、「命に従います」。そこで使役されていた三百人を率いて県庁に馳せ入り、県令を斬って身柄を押さえ、汝霖とともに兵を起こした。
  • 明の松江に在籍していた前の兵部右侍郎沈猶龍、兵科給事の陳子龍、中書舎人の李待問、羅源県知県の章簡が兵を起こして拒み守った。壮士数千を選んで城を守り、志葵・黄𧉥(黄蜚)と犄角の勢をなした。
  • 明の会稽の生員鄭遵謙が兵を起こし、紹興を回復した。遵謙は客を結ぶのを好み、鼎を持ち上げるほどの力士や剣を使う徒輩が日々その庭に満ちていた。杭州が降ると、遵謙はその徒を集めて義興軍と号し、旗を掲げて事を挙げ、山陰知県の彭万田、紹興知府の張愫を殺し、招撫使を江上で襲って殺し、上表して魯王を迎えて監国とした。諸方の義旗が一時に並び起こった。
  • 明の分巡寧紹台道于穎が兵を起こし、富陽を回復した。これより先、鄭遵謙が張愫を斬り、穎を迎えて入城させた。穎は西のかた蕭山を押さえ、親令(新令の誤りか)の陳瀛を斬った。貝勒博洛が使者に榜文を持たせて至らせると、またこれを捕らえて殺し、その夕べに固陵で兵を起こし、岸に登り、江を境に区切って守った。博洛が木の筏を組んで渡ろうとすると、穎は決死の士である陳勝らを遣わしてこれを穿ち沈めた。杭州にはすでに重兵があり、攻めるのは容易でないと知ると、そこで二道に分けた。下流は橋司から海甯に入り、海塩に出て震沢に通じる道、上流は潭頭から富陽に入り、余杭に通じて独松関を扼する道である。降将の郎斗金が富陽を占拠しており、副将の劉穆らを遣わして夜襲してこれを取った。のちに江上の軍が潰えると、穎は追い従おうとしたが及ばず、帰って黄冠(道士)となって生を終えた。
  • 明の鄞県に在籍していた前の刑部員外郎銭粛楽が寧波で兵を起こし、定海総兵の王之仁と盟を結んで、ともに城を守った。挙人の張煌言を台州に遣わし、上表して魯王を迎えて監国とした。
  • 明の前の兵部尚書張国維が東陽で兵を起こした。
  • 明の崑山の前総兵王佐才、参将の陳宏勲、遊撃の孫志尹、知県の楊永言、挙人の周宝瑜、貢生の朱集璜・陳大任、諸生の呉其沆・陶瑊、帰荘・顧炎武が、それぞれ兵を起こして拒み守った。城が陥ちると、佐才・志尹・宝瑜・集璜・瑊・大任・其沆がこれに死んだ。
  • 明の嘉定に在籍していた前の左通政侯峒曾、進士の黄淳耀らが兵を起こして拒み守り、降将李成棟の部将である梁得勝の兵八十四の首級を斬り、さらに成棟が婁東へ急を告げるために出した驍騎四十を途中で截って殺し、衆に誓わせて城に登り固く守った。
  • 明の太倉の生員王湛が兵を起こし、州城の回復を図ったが、成らず、これに死んだ。ともに殉じた者は、その兄の淳と、その友人の蔡伸昭・魏虎臣である。
  • 明の休寧に在籍していた御史金声、諸生の江天一が兵を起こして拒み守った。天一は声の弟子である。声が兵を起こそうと図ったとき、天一は言った、「徽州は要害の地で、諸県はいずれも阻む地形があって守ることができますが、ただ績渓の一面だけが大通りに当たっています。関所を築き、重兵をもってこれに拠り、他の県と砥柱の勢をなすべきです」。そこで叢山関を築き、軍をその中に屯させ、六嶺を分けて守った。
  • 明の徽州推官温璜が兵を起こして拒み守った。璜は金声が績渓で義を挙げたと聞き、兵糧を転送してその軍に給し、犄角の勢をなした。州の人である黄賡は脅力(膂力の誤りか)があり、重さ数十斤の鉄鞭を振るい、およそ十九戦してことごとく勝ったが、のちに兵が敗れて僧となった。
  • 明の前の山東巡撫邱祖徳、挙人の銭龍文、生員の麻三衡・沈寿蕘が兵を起こし、寧国の回復を図ったが、成らず、これに死んだ。祖徳は退いて山中に帰った。
  • 明の前の職方司郎中尹民興、生員の趙初浣・呉漢超が兵を起こし、涇県を守った。漢超は北都の変を聞き、湯廷釹とともに兵を募って国難に赴こうと図ったが、南都が立ったので取りやめた。ここに至って南都もまた覆ったので、民興とともに、初浣と約して事を挙げた。
  • 明の貴池の副貢生呉応箕が兵を起こして建徳・東流を回復した。当時、諸方の義兵が蜂のように起こり、宗室の朱盛濃を奉じて旗印とする者があった。応箕は兵を起こしてこれに応じ、壁に題して言った、「韓が亡びて子房は奮い立ち、秦が帝を称して魯連は恥じた」。池州を攻めたが成らず、ともに事に当たった者は皆去り、応箕はひとり計略をもって建徳・東流を回復した。
  • 明の前の青陽知県龐昌允が兵を起こそうと図ったが成らず、これに死んだ。昌允はそのとき官を棄てて九華山に隠れており、邑の人である孫象壮とともに義を挙げることを図ったが、事が漏れて捕らえられ、夜に五渓橋の旅店に宿して死んだ。
  • 明の嘉興に在籍していた翰林屠象美、吏部郎中の銭秉が兵を起こし、三塔橋で拒み戦ったが、敗れて、これに死んだ。生員の鄭宗彝・鄭宗琦が兵を起こして拒み守ったが、これもまた敗れて死んだ。同時に義に殉じた者は、前の吏部尚書徐石麒、前の薊遼守備項嘉謨、諸生の張翃・銭応金である。
  • 明の長興参将方元章、瓶窯副将の姚志倬・張起芬が兵を起こし、余杭を回復したが、戦いに敗れ、元章はこれに死んだ。起芳(起芬の誤りか)は捕らえられて杭州に至り、屈せず、樹の間に吊るされ、射殺された。志倬は翌年の冬、残った衆を合わせて江山を攻めたが、また利あらず、詹兆恒を頼って走り、ともに永豊を破った(底本は「走依詹、兆恆同、破永豐」と句読を誤る)。
  • 秋七月、降将の李成棟が嘉定を取ってその城で虐殺を行い、侯峒曾・黄淳耀はいずれも一門を挙げて自尽して死んだ。
  • 明の江西布政使夏万亨、分巡道の王養正、知府の王域、推官の劉允浩・史夏隆、通判の胡縝が建昌で兵を起こしたが、城が陥ち、皆これに死んだ。万亨らは益王を奉じて事を挙げたが、王は年少で柔弱であり、武事に慣れておらず、戦守の機宜を永寧・羅川の二郡王に委ねた。羅川王はそこで東郷の艾命新・艾南英とともに、諸紳と約して集まり議り、劉琦・楊独竜・僧の丹竹ら三十六将を得た。王・謝の二つの巨室が軍餉を捐助し、郷兵一万余を訓練し、城壁を分担して拒み守り、軍勢はかなり振るった。保寧王がひそかに降伏を申し入れ、内応を約したので、城はついに陥ちた。万亨らは皆屈しなかったため殺された。士民はこれを哀しみ、沌砦の河のほとりに葬り、題して「六君子の墓」と言った。同時に難に殉じた者に、南昌の諸生鄧思銘がいる。
  • 明の臨川に在籍していた前の吏部主事曾亨応・掲重熙が撫州で兵を起こした。当時、降将の金声桓が裨将の王得仁を遣わして撫州を侵した。亨応は重熙および艾南英とともに兵を募って守り禦ごうとしたが、まだ集まらないうちに得仁の兵が到来し、衆は皆逃げ去った。
  • 明の在籍の左春坊左庶子楊廷麟、左中允の劉同升が贛州で兵を起こした。当時、江西の諸郡は相継いで陥落し、ただ贛州だけが孤立して懸かり、上流に独り存していた。廷麟は同升と謀り、贛州巡撫の李永茂を招いて紳士を集め、軍餉を出すよう勧めさせ、期日を定めて大挙しようとした。
  • 明の竜泉に在籍していた工部右侍郎劉士楨が兵を起こして泰和・廬陵を回復した。士楨は二邑を落としてこれを守り、翌年にはさらに末子の穉升を遣わして李陳玉に従って信豊で兵を起こさせ、贛州の声援とした。
  • 明の前の汜水知県胡定海が徳興で兵を起こしたが、敗れて、これに死んだ。ともに死んだ者に掲新がいる。
  • 明の徳化の李含初が兵を起こして徳化・瑞昌を回復したが、まもなく敗れて死んだ。含初は家産を傾けて兵を起こし、続けて二邑を破ったが、まもなく、その部将の王拐子が九江の守将余世忠にひそかに降伏を申し入れ、これを襲って破った。含初は殺され、ともに死んだ者は生員の李昭陽、武生の唐扉・鄧士鳳・熊九鼎・宗麻子である。
  • 明の徳安の郭賢操が兵を起こして徳安を回復し、続いて建昌を回復したが、まもなく捕らえられた。賢操は続けて建昌を破ったが、その部将の高長子がひそかに降伏を通じ、賢操を捕らえて差し出した。まもなく釈放された。翌年の夏、衆を集めて再挙を図ったが、事が発覚して逃れ、のちに余世忠に捕らえられて殺された。ともに兵を起こして死んだ者は諸生の桂登魁・胡戒である。
  • 明の瀘渓知県張載述、貢生の魏一柱が兵を起こして拒み守り、新任の県令李光を捕らえ、鄭彩のもとへ送って磔にした。
  • 明の邱祖徳が華陽山寨で捕らえられ、南京に送られたが、屈せず、磔にされて死んだ。
  • 明の麻三衡が稽亭山で兵敗れ、三衡はこれに死んだ。
  • 八月、降将の李成棟が松江で虐殺を行い、明の沈猶竜らがこれに死んだ。これより先、成棟の兵が城を囲んだとき、郷紳の董廷対が内応を図ったが、事が発覚し、郡の人々がこれを磔にした。当時、呉志葵・黄蜚がともに泖湖に水寨を構えて城中と犄角の勢をなしていたが、この月の初旬に敗れ、皆捕らえられて降った。挙人の傅凝之、諸生の戴泓はともに水に赴いて死んだ。その後、蜚の兵の名を騙る者があり、突然やって来て門を叩いた。猶竜はこれを受け入れたが、入城して頭巾を脱ぐと、皆弁髪であった。守兵は驚いて潰え、猶竜は東門を出て、流れ矢に当たって死んだ。ともに殉じた者は舎人の李待問、知県の章簡、教諭の眭明永、尚宝丞の徐念祖、衣工の陸厚元である。
  • 降将の劉一鵬が峡江を攻め、明の守将鄧武泰がこれに死んだ。進んで袁州に迫り、知府の李時興がこれに死んだ。一鵬が峡江を攻めたとき、白之裔が城をもって叛いて降り、勝ちに乗じてついに袁州を取ったのである。
  • 降将の李声桓(金声桓の誤りか)が吉安を破り、巡撫の曠昭がこれに死んだ。進んで万安を取り、知県の梁于涘がこれに死んだ。于涘が捕らえられると、声桓はこれを官に就けようとした。祝賀する客があり、于涘は言った、「私を死なせる者は祝ってよいが弔ってはならず、私を官に就ける者は弔ってよいが祝ってはならない。死ねば形は立ち、官に就けば神は滅びる。どうして神を形と取り換えられようか」。そして自ら縊れて死んだ。
  • 降将の王得仁が臨川で明の曾亨応を襲って捕らえた。亨応は屈せずに死んだ。当時、羅川・永寧の二王が兵を合わせて湖東に出て、建昌を回復し、勝ちに乗じて撫州を抜いた。亨応は兵卒数百を募り、これと犄角の勢をなしていた。得仁はひそかに祝家渡から軍を渡らせ、急のことで支えきれず、捕らえられたのである。得仁は揖して言った、「公は義士である。時勢はどうにもならない。世に随って功名を得てはどうか」。応じないと、数十回打ち、前と同じように問うた。樹の間に吊るして射たが、ついに屈しなかったので、長子の錫とともに死んだ。ともに殉じた者は、亨応の弟の和応、挙人の王秉乾、諸生の湯仲発で、村里は廃墟となった。のちに二王の兵もまた敗れ、皆得仁に殺された。
  • 明の把総呉之蕃が兵を起こし、嘉定の回復を図ったが、成らず、これに死んだ。之蕃が捕らえられたとき、降将の馮嘉猷は鼓吹を並べ、羊と酒で勝ち戦の兵を犒った。之蕃は大笑いして言った、「私は大明の代々の臣であり、父子ともに忠節である。お前たちは逆賊であり、犬や豚でさえ食わぬ者だ。どうしてその面を人に向けられようか」。そして殺された。之蕃の父の斗南は、崇禎のときに流賊を討って戦死した者である。
  • 降将の李成棟が明の江陰を取り、閻応元・陳明遇らがこれに死んだ。成棟は松江を破ったのち、部下十四万を率いて江陰城を囲むこと、あわせて八十一日、三王十八将は皆戦死し、兵士の死んだ者もまた七万五千余であった。おりしも大雨で城が崩れ、衆は皆市街戦で死に、自殺した士女は池や井戸を満たすほどで、応元・明遇はいずれも屈せず自尽した。
  • 降将の李成棟が明の金山衛を襲い、指揮の侯承祖がこれに死んだ。金山は長く囲まれたが落とすことができず、城外には敗れた兵の屍が積み上がって城の狭間と同じ高さになった。おりしも内応する者があって水門を開いて招き入れた。承祖は世禄とともに手勢を率いて市街戦を行い、身に四十本の矢を受け、力尽きて捕らえられた。成棟を罵り、死んだ。世禄もまた屈せず殺された。
  • 明の盧象観・葛麟・毛重泰・陳坦公が太湖で敗れ、皆これに死んだ。麟は力を奮って戦い、当たるところ皆なぎ倒され、湖上で続けて百人を斃した。万矢がこれに注がれたが、麟が矛を風のように振るうと、矢はことごとく水に落ちた。そこで改めて火攻めにすると、舟が焦げてはじめてみずから沈んだ。象観は自分の衆に拝して言った、「われら兄弟は国恩を受けながら報いる術がなく、いたずらに諸君を煩わせた。死んでもなお愧じるに余りある」。そして水に躍り入って死んだ。重泰・坦公もともにこれに死んだ。
  • 明の呉易・孫兆奎が長白蕩で敗れ、兆奎はこれに死んだ。これより先、降将の李遇春が兵船五十四艘を率い、平望から白竜橋に至り、三十里にわたって陣を列ねた。易は兆奎とともに沈自炳・自駉の軍を合わせ、これを破って走らせた。その後、降将の呉勝兆が盧象観らを破り、そのまま兵を率いて追撃してきた。易・兆奎は精鋭の兵を率いて葦の中に伏せ、勝兆の兵を襲って殺すこと甚だ多く、勝兆は退いた。にわかに四郡の兵が合して到来し、八方から取り囲んで攻めた。当時、陰雨が旬を連ねており、砲を放っても砲は鳴らず、弓を持っても弓の弦は解け、兵はついに潰えた。易は南へ走り、兆奎は捕らえられ、南京に送られて洪承疇に会った。大言して言った、「崇禎のときに一人の洪承疇があり、先帝はみずから祭って哭された。いまここにまた一人の洪承疇がある。これは一人なのか二人なのか」。承疇は言った、「お前は自分が一人の人間として事に当たればよいのだ」。追い出して、これを斬った。
  • 明の魏国公徐宏基が兵を起こそうと図ったが成らず、これに死んだ。宏基は匡復を計り、旗を立てて郷勇一千余を募り、戸ごとに割り当てて資を出させ兵糧を助けさせた。富裕な郷紳の陸醇儒が降将の田勝嘉の兵を引き入れ、これを襲って捕らえ、子の文爵とともに殺された。
  • 明の任源邃・呉福之・徐安遠の兵が潰え、皆これに死んだ。呉易が敗れると、源邃の軍もまた潰え、福之・安遠とともに捕らえられ、皆屈せずに死んだ。
  • 九月、降将の張天禄が涇県を襲い、明の尹民興・呉漢超は逃れ、趙初浣がこれに死んだ。民興は謀に長け、漢超は戦に長けていた。城が囲まれて久しく、城を攻める兵には損傷が多く、江陰に劣らないと言われた。城が陥ちると、初浣は殺され、漢超は華陽山中に隠れ、民興は閩中へ逃げ込んだ。
  • 張天禄が績渓を襲い、明の金声らがこれに死んだ。声は兵を起こしたのち、続けて旌徳・寧国の諸県を抜いた。降臣の洪承疇が天禄を遣わしてこれを襲わせた。徽州のもとの御史黄澍が援兵だと偽って称し、声はその者たちが昔の衣冠のままで薙髪していないのを見て、これを信じ、城はついに破られた。声は捕らえられて南京に至り、承疇はこれを降らせようとした。声の門人である江天一もともに捕らえられており、思宗が承疇を諭祭した文を朗誦して承疇を恥じ入らせ、そのまま二人とも殺された。同時に死んだ者に、姜孟卿・陳継遇・呉国楨・余元英・羅騰蛟・閔士英・汪以玉・項遠・洪士魁がいる。
  • 張天禄が徽州に入り、明の黄澍が城をもって降り、温璜がこれに死んだ。璜は金声が敗れたと聞き、まさに兵を厳にして城壁に登ろうとしたが、澍はすでに城を献じて降っていた。璜は一門を挙げて自尽して死んだ。
  • 明の池州推官呉応箕が兵敗れて捕らえられ、これに死んだ。難に臨んだとき、刑を執行する者に語って言った、「私の冠を取るな。これで地下において先朝にまみえるのだ」。義に就いた場所には今なお血の跡が残っている。
  • 明の広徳の太学生呉源長、呉民裘、呉君量が兵を起こして州城を回復し、兵を進めて湖州に向かったが、敗れて死んだ。源長は梭子山で兵を挙げ、君量らとともに広徳を攻め破り、進んで湖州に至ったが、戦いに敗れて捕らえられ、ともにこれに死んだ。
  • 明の塩城の諸生司石磐が兵を起こしたが、成らず、これに死んだ。当時、ともに事を挙げた都司の酆某もともに捕らえられ、石磐を助けようとして言った、「これは書生で、私が脅して書記にした者だ」。石磐は大声で言った、「公の言葉は何と間違っていることか。私こそ首謀者である。どうしてそれを隠すのか」。そして二人とも殺された。
  • 明の溧陽副将銭国華、生員の謝琢が兵を起こしたが成らず、これに死んだ。琢は家を毀って兵糧を出したが、続かずに潰えた。
  • 明の淮安の民である王翹林、繆鼎吉、繆鼎言らが雲台山で兵を起こし、塩城・新化を回復したが、戦いに敗れ、鼎吉・鼎言はこれに死んだ。翹林らは新昌王を奉じて二邑を攻め落としたのである。鼎言・鼎吉は東場の塩丁であり、その徒を率いてこれに応じ、兄弟はともに戦に長けていた。飢えて食を得られなくなり、はじめて捕らえられ、皆屈せずに死んだ。新昌王もまた殺された。
  • 冬十一月、明の陝西都督同知孫守法が兵を起こし、鳳翔を回復した。守法は秦藩の第四子を奉じて漢中王と称し、五郎山に邸を開き、檄をもって各郡の兵を召して西安に迫らせ、副将の賀珍を遣わし、義勇三千をもって鳳翔を回復した。こうして盩厔・鄭湄・涇陽・三原、臨潼・澄城・白水の諸県が次々と帰属し、軍の声威は大いに振るった。当時、東南には義旗が林立していたが、西方の地ではこれが唯一のものであり、当時の議論はこれを高く評価した。
  • 十二月、明の僉都御史陳泰来が兵を起こし、上禼・新昌・寧州・万載を回復し、進んで撫州を攻めたが、敗れて、これに死んだ。挙人の戴国士は泰来と姻戚であり、すでに降って、権(かり)に駅伝道となっていた。金声桓は国士に泰来を招かせ、そのうえで重兵をその後ろに尾けさせた。国士が営に入ったばかりのところへ、兵がすでに陣に迫り、そのまま敗れた。ともに義を挙げた者は、挙人の曹志明・魯国祺・聶明時・黄瑛・黄国彦で、いずれも陣で戦死した。

西暦1646年 順治三年

  • 春正月、明の呉漢超が寧国を襲ったが成らず、これに死んだ。これより先、当塗の人である徐淮が華陽に衆を集め、漢超と兵を合わせ、続けて句容・高淳・溧水・太平を回復していた。この日、漢超が寧国を襲ったが、その部下は皆寧国の人で、めいめい自分の家を気にかけ、闘志を持つ者がなく、そのまま潰えた。
  • 明の金有鑑が長興を攻め、敗れて死んだ。有鑑は再び長興を攻めたが成らず、岑元泰・徐昌明とともに敵陣に突入して戦死した。
  • 二月、明の鎮国将軍常巣が蘄州で兵を起こしたが、敗れて、これに死んだ。常巣は樊山王翊鉹の子である。このとき英山の男子王六姐とともに斗方砦で兵を起こしたが、兵敗れてこれに死んだ。明が孫守法・武大定に爵を封じて伯とした。当時、寧夏・甘粛・神木・靖辺がそれぞれ兵を率いて帰属してきたので、この命があったのである。
  • 三月、明の監軍道許文竜が奉郷で兵敗れ、これに死んだ。これより先、文竜は兵を起こし、新たに置かれた官吏を追い出して、軍を奉郷に屯させていた。城は三か月囲まれ、糧が尽きて、介首砦に走って保ったが、食がまた尽き、捕らえられてついに死んだ。
  • 夏四月、明の新城知県李翺が兵を起こして拒み守ったが、城が陥ち、これに死んだ。翺は新城の徐伯昌を招いて義勇一千人を募らせ、監軍の張家玉とともに城を守ったが、兵はすでに間道から入っており、そのまま殺された。ともに殉じた者は諸生の楊応和・楊居久である。
  • 五月、明の諸生張飛遠が金山衛を襲ったが、成らなかった。飛遠はかつて衆を集めて長白蕩で呉易に従ったが、戦いに敗れ、大将の羅騰蛟を失った。ここに至って金山を取ろうと図り、また敗れたのである。
  • 六月、明の呉易が長白蕩で捕らえられ、屈せず、これに死んだ。易がはじめ長白蕩で敗れたときには、囲みを破って逃れた。この年の春、呉江の人である周瑞が再び長白蕩に衆を集め、易を迎えてその営に入れたが、まもなく衆は潰え、易とともに杭州の草橋門で捕らえられた。その驍将である孫璋・茹略文・周志韜は皆死んだ。
  • 冬十月、降将の金声桓が明の忠誠府で虐殺を行い、明の楊廷麟・万元吉・郭維経らがこれに死んだ。贛州は四月から囲まれ、廷麟・元吉は力を合わせて拒み守り、さらに城内に忠誠社を設けて才智ある者を呼び集めた。遠近から家産を毀って社に入った者は三万人近くに及んだ。この年の六月、前の南贛巡撫李永茂が粤(広東)の兵五十を遣わして到来させ、李家山・九牛山の間で戦い、続けて勝ち、囲みは一時解けた。堅く守ること久しく、明の帝は諭を下して褒め、忠誠府の名を賜った。ここに至って帝が汀州で難に遭い、雲南・両広の諸援軍がことごとく潰えたと聞き、城中全体の気力が萎えた。ちょうどこの日は霧が出て雪も降り、声桓は夜に乗じて城に登った。廷麟はなお郷勇を督して市街戦を行った。夜明けに、城上の砲が破裂し、城が裂けて、ついに陥ち、城全体が虐殺された。廷麟・元吉・維経はいずれも自尽した。同時に死んだ者は、太常卿の彭期生、都御史の楊文薦、御史の姚奇胤、推官の呉世安、通判の唐周慈・郭甯登、主事の周湖・龔棻・林琦・王其宏およびその弟の其窿、黎遂球・曾嗣宗・銭謙亨・于斯昌・柳昂霄、知府の呉国球、知県の陳烈・林逢春、同知の王明汲・盧観象、訓導の胡董明・徐君鼎、副将の馬観鵬、都督僉事の劉天駟、参将の朱永盛、衛千戸の孫経世およびその弟の緯世・紘世、監紀の聶邦晟およびその子の士𤒄・士煥、給事中の万発祥、舎人の袁従諤・劉孟鍧・劉応試、提学副使の符遡中およびその兄の述中、馬平知県の謝讃およびその子の胤繡・甥の胤斗、判官の周世光、挙人の劉曰佺、貢生の楊万言、諸生の董纘卿・馮復京・余学義・欧陽麗天・郭必昌・金之傑・袁汝健・荘某・王統・王純・周葵・陳君猷・段之渾・蕭瑛・楊燧、郷約の謝明登、書工の趙廷瑞、織人の熊国本である。この度の死事の壮烈さは、史可法の揚州守備、瞿式耜の桂林守備と、前後して輝きを映し合うものだと論者は言う。
  • 十一月、明の無錫の生員王謀が兵を起こした。常州の回復を図ったが、敗れて死んだ。謀はもと杭姓で、王氏を嗣いだ。郷兵一万人を率い、夜に郡城に迫ったが、軍は潰えて殺された。
  • 十二月、明の黄毓祺・徐趨が江陰を襲ったが、成らず、趨はこれに死に、毓祺は逃れた。趨が行塘で兵を起こしたとき、江陰が破られ、淮南の山中に走った。ここに至って城中に備えがないと偵知し、王春ら十四人を率いて襲って来たが、成らず、趨と十四人は皆死に、毓祺は逃れた。

西暦1647年 順治四年

  • 春正月、明の前の都御史張家玉、挙人の韓如璜が兵を起こして東莞を回復した。わずか三日で兵が到来し、そのまま敗れて走った。
  • 明の兵科給事中陳邦彦が兵を起こして広州を攻めたが、成らなかった。邦彦は万元吉と、潰走した将である余竜を説き、その衆二万余をもって広州を攻めさせ、自分は高明の兵を発して海路から珠江に入り、竜と軍を会わせようとした。竜は衆を率いて甘竹灘から出て、沿道で水師の船数百艘を焼き、まっすぐ広州に至った。李成棟が引き返して救い、甘竹灘を取ると大言すると、竜の兵卒は家を気にかけ、すぐに引き去り、邦傅(邦彦の誤りか)もまた退き帰った。
  • 二月、明の福建の人である洪有楨が兵を起こして漳浦城を回復したが、まもなく陥ってこれに死んだ。有楨は海浜の壮士数百を糾合し、漳浦に入って拠ったが、まもなく城はまた陥ち、捕らえられ、大いに罵って死んだ。楊淶という者があり、これもまた屈せず殺された。
  • 明の頼天肖が潮州で兵を起こし、降将の文貴・陳虎・余成隆を殺した。同時に陳順・簡信が韶州で兵を起こし、蘇来が恵州で兵を起こし、黄奇策が新会で兵を起こした。
  • 明の陳邦彦が兵を遣わして順徳を回復した。邦彦はその門人の馬応房を遣わし、舟師をもって余竜と会して順徳を取らせたのである。
  • 三月、李成棟が再び順徳を取り、明の陳邦彦は退いて下江門に拠った。成棟が再び順徳を取ったとき、馬応房は戦死し、余竜もまた敗れて死に、邦彦は高明を棄てて下江門に拠ったのである。
  • 明の頼熊が建陽を回復した。
  • 明の孫守法が寧州を回復した。守法は高勲とともに寧州を破り、興安の蕎麦山を抜いた。
  • 明の張家玉が再び東莞を回復した。これより先、韓如璜が敗れて死に、家玉は西郷へ走り、西郷の大豪である陳文豹がこれを奉じていた。おりしも、もとの南海指揮安宏猷と訓導の張治が再び兵を起こして東莞を襲い、知県の鄭鑑、典史の張元鼎を殺し、勝ちに乗じてそのまま新安を取った。
  • 明の林質が再び徳化を取り、重ねて建陽を攻めたが、敗れて死んだ。降将の蔡応科が迎え撃ち、質は戦いに敗れて捕らえられ、これに死んだ。
  • 夏四月、降臣の孟喬芳が興安を襲い、明の孫守法がこれに死んだ。喬芳は甲兵を森林に伏せ、軽騎をもって守法を誘い出し、これを捕らえた。守法は鉄鞭を振るって百十人を打ち殺してから死んだ。
  • 松江提督呉兆勝が松江をもって明に復帰させようと図ったが、事が発覚して殺され、明の侍郎沈廷揚、陳子竜、給事中の楊廷枢らがこれに死んだ。兆勝は事が漏れたため、変を告げた同知の楊之易、推官の方重朗を殺し、海に入るよう命令を下した。その中軍の詹世勲、都司の高永義が兆勝を捕らえ、総督の洪承疇のもとに送って殺させた。子竜・廷枢を捕らえて連行してきたが、いずれも屈せず死んだ。同時に禍に遭った者は、推官の顧咸正およびその子、諸生の天達・天遴、夏之旭、夏完淳、侯岐曾、徐爾穀、銭梅、殷之輅、張寛らで、総勢数十人であった。沈廷揚は海の軍を率いて来会したが、軍が潰えて捕らえられ、洪承疇のもとへ送られ、部下十二人とともに殺された。その新兵六百人には一人も降る者がなく、当時これを田横の士になぞらえた。舟山の人々は廷揚が死んだと聞き、哭する声は雷のようであり、祠を立ててこれを祀った。
  • 明の岑本高らが兵を起こして浦城を攻めたが、敗れて死んだ。本高は王思春・江中英・江中元・張文耀・朱国貞・劉国球とともに浦城を攻め、もとの監軍である呉承昊・徐元・毛文傑・張裔元が内応を約していた。本高らが敗れて死ぬと、国貞は降り、承昊らの謀をすっかり漏らしたので、皆殺された。
  • 襄陽副将の王光泰が襄陽をもって明に復帰した。光泰は襄陽に拠って反正し、永暦の年号を奉じ、荊南巡道の甘文奎を殺し、進んで鄖陽に拠り、陝西の賀珍・武大定と結んで援けとした。降将の孫定遼が兵を率いて鄖陽を援けようとしたが、馬がつまずいて河に沈んだ。侍郎の喀喀木、副将の王平が河を渡って進撃し、光泰は房県に走り、まもなく四川へ走った。
  • 明の鄖西王が建寧・邵武を回復した。鄖西王は建寧を回復すると、その将である王祁を遣わして邵武を回復させたのである。
  • 五月、明の副将周金湯が永州を回復した。金湯は壮士二百人を糾合し、夜に永州を回復した。
  • 秋七月、明の大学士陳子壮が兵を起こし、給事中の陳邦彦と会してともに広州を攻めたが、敗れた。子壮は九江村で兵を起こし、兵には蜑戸(水上に住む民)や番人が多く、戦に長けていた。邦彦と約してともに広州を攻め、もとの指揮である楊可観らと結んで内応とした。事が漏れて可観らは死に、子壮は退いて五羊駅に駐屯した。当時、李成棟はちょうど新安で張家玉を攻めていた。邦彦は子壮と謀り、禺珠洲のかたわらに伏せ、成棟が省城の救援に戻るのをうかがって、火を放ってその舟を焼こうとした。その計のとおりにして、果たして舟数十艘を焼いた。成棟は風下へ走り、軍を引いて西へ向かい、邦彦はこれを尾けた。おりしも日が暮れて風が変わり、成棟は風に乗じて反撃し、邦彦の軍はそのまま大いに潰えた。子壮の長子である上庸は戦死し、子壮は九江村へ走り帰り、邦彦は三水へ奔った。
  • 明の県丞徐定国が懐集を回復した。懐集の城が陥ちたとき、定国は山中に𦸀し(底本は「𦸀」に作る。「匿」の誤りか)、ここに至って計略をもって城を回復したのである。
  • 秋八月、李成棟が高明を襲い、明の大学士陳子壮、御史の麦而炫、主事の朱宝蓮がこれに死んだ。而炫が高明を回復し、子壮を九江村から迎えて、ともに県庁を守った。成棟の兵が到来すると、宝蓮は戦死し、子壮・而炫は捕らえられて広州に連行された。成棟と佟養甲は子壮に怒り、これを寸刻みに磔にし、骨を四方の郊外に投げ捨てた。而炫も従って死んだ。
  • 明の挙人杜璜・李皇一が兵を起こして肇慶を攻めたが、敗れて死んだ。
  • 明の王祥が兵を起こして遵義を回復した。
  • 九月、李成棟が清遠を破り、明の給事中陳邦彦、指揮の白常燦、生員の朱学熙がこれに死んだ。邦彦が三水へ奔ったとき、清遠指揮の白常燦が城をもって迎え奉ったので、清遠に入り、諸生の朱熙とともに城に籠もって苦しみ守った。城が陥ち、常燦らはこれに死に、邦彦とその子の和尹・虞尹は皆殺された。
  • 冬十月、明の兵部尚書張家玉が曾城で兵敗れ、これに死んだ。家玉は兵一万余を募り、竜・虎・犀・象の四管に分け、増城に拠った。李成棟の兵が到来し、家玉は十日にわたって大いに戦ったが、力尽きて敗れ、野塘に身を投げて死んだ。ともに難に遭った者は、家玉の師である林洧、および霊壁の指揮であった安宏猷、程郷の訓導であった張治、挙人の張恂・尹斌である(底本は「指揮靈壁、安宏猷、訓導程鄉、張治」と句読を切る)。
  • 明の中書舎人陳世亨が兵を起こして瑞安を回復したが、敗れて、これに死んだ。当時ともに事を挙げた者に鄧藩理がいたが、援兵が間に合わず、捕らえられて殺された。
  • 明の侍郎林汝翥、員外郎の林垐が兵を会して起こし、福清を回復したが、敗れて死んだ(底本は「員外郎林將會垐起后復福清」に作る)。当時ともに死んだ者に、なお記室の葉子器がいる。
  • 十二月、明の御史李長祥、主事の王翊・華夏・屠献宸、評事の王家勤、推官の楊文琦・董徳欽、生員の杜懋俊・施邦炌が寧波を襲おうと図ったが、成らず、夏・献宸・家勤・徳欽・懋俊・邦炌は皆これに死んだ。これより先、長祥らの謀が漏れ、降った郷紳の謝三宝が変を告げ、兵が到来して、皆殺された。

西暦1648年 順治五年

  • 春正月、江西総兵の金声桓が南昌をもって明に復帰した。声桓は副将の王得仁とともに降ったのち、巡撫の章于天、巡按の董学成が彼らに驕った態度で接し、そのうえ賄賂をせびって飽くことがなかった。また声桓の師である維揚の僧真宗が、つねに図を改めるよう勧めていた。ここに至って諸営に令を下し、ことごとく辮髪を切らせ、諭を出して民を安んじ、隆武四年と称し、およそ纓帽をかぶった軍民があればこれを射殺した。学成および副史の成大業を殺し、章于天を捕らえ、太保の姜曰広を迎え、入れて盟主とした。檄を遠近に伝え、全省が明に復帰し、ただ贛州だけが下らなかった。
  • 明の前の大学士朱継祚が兵を起こして興化を回復した。継祚は明の魯藩の同安伯楊耿と合わせて興化を攻めた。監司の彭遇颶が守将を欺いて出戦させ、ただちに城壁に登って明の旗に取り替え、城を開いて継祚を迎え入れ、これを守らせた。
  • 三月、明の遠長王が蘭州で兵を起こしたが、成らず、これに死んだ。回族の人である米喇印・丁国棟が蘭州に拠り、遠長王を擁立したが、降臣の孟喬芳・張勇が兵を合わせてこれを撃ち破り、王は捕らえられ、これに死んだ。
  • 明の前の兵部尚書周損、安慶知府の傅夢鼎、潜山典史の傅謙之が六安で兵を起こしたが、敗れて、皆これに死んだ(底本は「安慶知府傅夢鼎潛山、典史傅謙之」に作る)。当時、英山・霍山の間には義旗が入り乱れて立ち、寨主・洞主が四十八か所あった。石城王が飛旗寨を立て、周損と甥の羽儀が郷練数百を率いてこれに帰属し、これを奉じて事を挙げたが、兵が敗れて皆自殺した。ともに死んだ者は諸生の桂蟾、僧の義堂である。
  • 明の主事王翊が再び四明山で兵を起こした。翊は屠献宸らと寧波を襲おうと図ったが成らず、募った兵を率いて山に入り、まもなく上虞を破り、印を預かる官を殺し、浙東は震動した。まもなく杜嶴山の団練が兵を導いてこれを攻め破り、翊は四百人とともに走って威遠将軍・天台洞主の兪国望を頼った。ほどなく天台から四明に至り、団練を撃ち散らし、道中で収め集めて、一万余人を得た。再び上虞を破り、山の西北の境に寨を構えて大蘭山と言い、大蘭洞主と号した。山中に五営五司を設け、五営は軍を主り、翊がこれを統べ、五司は兵糧を主り、諸生の王江がこれを主った。江は会計に長け、富める者を集めて勧め、田畝を踏み調べて課税し、兵が兵糧を盗むことがなかった。翊は賞罰に信があり、多くの士は心服し、四明で訴訟のある者は官に行かず大蘭に行き、四明二百八十峰の租税もまた官に行かず大蘭に行った。胥吏はあえて郷に下ることができず、汛の兵は遠くに伏せて眺めやるばかりで、周囲の城はこれを畏れること老いた羆が道をふさいでいるかのようで、城門はことごとく閉ざされ、このようなことが数年続いた。
  • 明の朱継祚が興化で兵敗れ、これに死んだ。城が破れ、継祚と参政の湯芬、給事中の林嵋、知県の都廷諫はいずれも自殺した。
  • 明の鄖西王が建寧で兵敗れ、これに死んだ。その守将の王祁は戦って勝てず、焼身して死んだ。
  • 夏四月、署両広提督の李成棟が広東をもって明に復帰した。これより先、成棟は降ってから、福建・広東・江蘇の各省に従軍し、向かうところ功があったのにわずかに提督の銜を授けられただけで、怨みが言葉と顔色に現れていた。愛妾の張氏がつねに反正するよう勧め、成棟が身内に未練を残すことを気遣って、みずから首を刎ねてその内顧の情を絶った。成棟は大いに哭して言った、「女でありながら、これほどとは」。拝して納棺した。ここに至って総督の佟養甲を脅してともに反正し、永暦の正朔を奉じ、人を遣わして上表を持たせ南寧へ赴かせて駕を迎えさせた。
  • 明の荊江侯張先壁が靖州を回復し、続いて沅州を回復した。当時、沅州道の戴国士が沅州をもって明に復帰した。
  • 五月、副将の陳友竜が武岡をもって明に復帰した。
  • 秋九月、明の前の洧州知県王䵺が兵を起こして廬州を回復した。䵺は曹胤昌とともに兵を起こして廬州を破ったが、守りきれず、靳(蘄の誤りか)・黄の間で転戦し、また霍山の侯応竜らと合わせて霍山を攻めたが、落とせなかった。
  • 冬十一月、明の都昌に在籍していた前の督師余応桂が兵を起こして南昌を援けようとしたが、敗れた。応桂は家に居たが、南昌の囲みが急だと聞き、兵を起こして舟師を率いて援けに向かった。進んで落星湖に至り、敗れた。当時、兵を起こして救援に赴いた者は、掲重熙・傅鼎銓・劉士楨・孔徹元・孔徹哲・蔡観光で、皆敗れ、士楨・徹元・徹哲・観光はいずれもこれに死んだ。
  • 明の九江の生員金志達、僧の了悟が兵を起こして東流・建徳を回復したが、まもなく敗れて死んだ。志達は了悟とともに衆一万余を集め、鄱陽・彭沢の間に営を構え、出て池州で戦い、東流・建徳を取ったが、ほどなく敗れて死んだ。
  • 明の前の寧夏巡撫李虞夔が平陸で兵を起こし、潼関を落とし、続けて䈬州・解州を回復した。当時、大同の兵である姜瓖が反正し、寧武などの地を回復し、在籍の郷官である万練・劉遷・王永強が皆兵を挙げて呼応し、楡林に拠って西安をうかがった。虞夔はその勢いに乗じて兵を起こし、潼関および䈬・解の二州を落とした。

西暦1649年 順治六年

  • 春正月、固山額真の譚泰らが南昌で虐殺を行い、明の前の大学士姜曰広、豫国公の金声桓、建武伯の王得仁がこれに死んだ。南昌は五年七月から囲まれ、糧が尽き、人が互いに食い合った。声桓の部将である湯執中が進賢門を守っていたが、内応を約し、兵を導いて壁に梯をかけて登らせ、城はついに陥ちた。声桓は城東の湖に身を投げ、曰広は偰家池に身を投げた(底本は「聲桓投城東湖,曰:『廣投偰家池。』」に作る)。得仁および宋奎光・劉一鵬・郭天才はいずれも市街戦で死んだ。
  • 明の侯応竜らが将軍寨で兵敗れ、これに死んだ。応竜は張図容・王国士らとともに義を挙げ、衆一万余を有し、王𤐣と合わせて霍山を攻めたが落とせず、退いて舒城・潜山を取り、劉家園から出て南関を攻め、これを抜き、将軍寨に営した。ここに至って寨が破られ、ともにこれに死んだ。
  • 三月、明の恵国公李成棟が信豊で兵潰え、これに死んだ。成棟は嶺を越えて贛州を攻めたが利あらず、退いて信豊に駐屯した。譚泰の兵が到来したが、当時は久しく雨が続いており、成棟は砲を放っても燃えず、左右の者がこれを引いて馬に乗せ河を渡らせた。三日後に、甲を掻き寄せ鞍を抱えたまま水中に立っている者を見た者があり、そこではじめて成棟が死んだと知れた。
  • 明の黄毓祺が再び通州で兵を起こそうと図り、事が発覚して捕らえられ、これに死んだ。毓祺は江陰から逃れたのち、卜者に身をやつし、通州を遊歴し、湖蕩橋の薛継周の家に身を寄せて、まさに義を挙げようとした。銭謙益に書を送って資金を集め兵糧に充てようとしたが、謙益はこれを断った。徴州(徽州の誤りか)の人である江純一が変を告げ、毓祺・継周および武挙の許彦達はともに江寧の獄につながれ、まもなくともに義に就いて死んだ。
  • 秋九月、明の李虞夔が平陸で兵敗れ(底本「滑」、「潰」の誤りか)、これに死んだ。当時、姜瓖・万瑓・劉遷・王永強は皆敗れて死んだ。虞夔の子の宏は平陸山寨で戦いに敗れ、崖に身を投げて死に、虞夔は捕らえられ、屈せず死んだ。

西暦1650年 順治七年

  • 春二月、明の総督鳳陽義軍・尚書の王𤐣が兵敗れて捕らえられ、屈せずこれに死んだ。𤐣は命を奉じて鳳陽の義軍を総督し、衆を率いて潜山・太湖の間で続けて戦った。兵が敗れ、捕らえられて江寧に連行され、屈せずに死んだ。こうして皖省(安徽)の義軍はほぼ尽きた。

西暦1651年 順治八年

  • 春三月、明の永州の諸生鄧光遠が捕らえられ、屈せず死んだ。
  • 明の傅鼎銓が広信で兵を募り、捕らえられた。程郷の敗戦ののち、鼎銓は走って閩(福建)で平西伯の張自盛を頼ったが、自盛が邵武で敗れて死に、鼎銓は広信へ走って兵を募り、守将に偵知され捕らえられ、のちに屈せず死んだ。
  • 夏五月、明の掲重熙が貴渓で兵潰え、捕らえられた。張自盛が敗れて死に、重熙は走って曹大鎬を頼り、百丈磜に至って炊事にとりかかったところであった。遊騎がこれを偵知し、にわかに防軍を呼んで到らせ包囲したので、そのまま捕らえられ、まもなく死んだ。大鎬もまた岑陽関で敗れて死んだ。
  • 明の星子の生員呉江がまさに再び兵を起こそうとして、敗れて死に、前の督師余応柱(応桂の誤りか)がこれに死んだ。これより先、江は兵を起こして南昌に呼応したが、すでに敗れて都昌へ走り、もとの鎮将張士彦の標将である黄才の兵を得て、これを部隊として編制し、再挙しようとしていた。才はひそかに潯(九江)に降を通じ、江を捕らえて叛き、江は死んだ。応柱は落星湖の敗戦ののち、再び家財を傾けて衆を募っており、江の兵が潰えたと聞いて援けに向かった。降将の楊捷が歩騎をもって突如到来し、応柱は子で諸生の顕臨とともに捕らえられ、殺された。
  • 秋八月、明の王𦚎が奉化で兵を募り、捕らえられた。屈せずこれに死んだ。𦚎は降臣の陳錦らが三道から舟山に下ると聞き、再び山に入って散り散りになった者を集めて援けとし、奉化から天台に出て、北渓に至ったところで団練に捕らえられた。毎日、鬚を梳ることを求め、守る者に言った、「お前たちにこの漢官の威儀を見せてやろう」。定海に至ると、錦は命じて集中的にこれを射させ、その僕の石必正・明知とともに殺された。
  • 秋九月、降将の陳邦傅が清遠衛を襲い、明の指揮白常燦がこれに死んだ。邦傅が兵を率いて到来したとき、常燦は彼がすでに叛いたことを知らず、これを迎えた。知ってからは大いに罵り、そのまま乱刃の下に死んだ。
  • 冬十二月、明の故少傅朱国楨の孫某が南潯鎮で兵を起こし、敗れて死んだ。朱某は湖州の南潯鎮で兵を起こし、衆数千を有して呉淞・泖澱の間に出没し、白竜橋の北で転戦したが、捕らえられ、屈せず死んだ。

西暦1654年 順治十一年

  • 春正月、明の進士徐敬時、楊文、李克升が広信で兵を起こしたが、まもなく敗れて死んだ。敬時らは広信の九仙山寨で兵を挙げたが、たちまち寨が破られ、皆殺された。

西暦1656年 順治十三年

  • 秋八月、明の前の魯藩の戸部主事王江が再び四明山で兵を起こしたが、敗れて、これに死んだ。王𦚎が敗れたとき、江は杭州へ走り、ほどなく海に入り、再び長江に入った。おりしも沈調倫が再び山中で起こり、江はこれに赴いたが、ここに至って兵が敗れ、江と調倫はともに敗れて死んだ。
  • 休寧の趙立言が再び残った衆をもって江山を攻め、これを落とした。翌日、軍が大いに集まり、立言は数十人を殺したが、馬がつまずいて水に落ちて死に、子の楨もまた死んだ。
原文(底本)
順治二年,夏六月,明吳縣生員陸世鑰、沈自炳、沈自駉起兵太湖。時兩京淪沒,南中人心洶洶,義軍四起。然民兵皆倉猝召集,未更訓練,餉械又不足,故不久即敗。諸主謀者皆先後死焉。 明職方主事吳易、舉人孫兆奎起兵長白蕩,博洛兵至,不習水戰,易使部卒雜農民中,爲之操舟。棹至中流,鐅沉之,溺死無算。時部朗王期昇、吳景亶等起兵西山,克長興,然兵不及易強,多棄之來歸。 明巡撫田仰,監軍道荊本徹,總兵張士儀、張鵬翼,太監李國輔起兵崇明,奉義陽王,以舟師駐崇明沙。 明生員任源邃、吳福之,徐安遠起兵太湖。源邃見所在起兵,求可與成事者,皆不當意。及福之舉意,約源邃同就李總兵某,合爲一軍。 明長興縣金有鑑起兵,奉通城王,一戰拔湖州,進攻長興,吏員王士麟引兵會之,再攻再敗,士麟戰死。 明吳淞提督吳志葵、生員陸世鑰等謀復蘇州,不克,世鑰與吳易等合兵簿蘇州,志葵以舟師來會,前鋒魯之璵領三百人斬胥門入,降臣侍郎李延齡、巡撫國寶斂兵城內。之璵入城不見敵,內自疑,過府學官,滿騎突出馳之,遂潰,之璵與勇士韋志斌皆死,三百人盡殲,志葵、易引軍退,世鑰歸爲僧。 明貢生項志甯等起兵常熟,推原任知州嚴拭爲主,方議城守而降將總兵劉良佐引軍至,志甯死之。 明宗室盛瀝、中書舍人盧象觀起兵襲江甯,不克,盛瀝、象觀至宜興,收士卒攻溧陽,又敗,象觀遂亡入太湖。 閏月,明江陰典吏關應元、陳明遇起兵拒守,劉良佐屢攻之屢敗,遙說之,應元曰:「我一典吏耳,尚不忘故國。汝爵爲列侯,握重兵,不能捍衛疆圉,乃爲敵前驅,何面見我耶?」良佐慙而退。 明江陰貢生黃毓祺、生員徐趨起兵行。時聞江陰城守,起兵爲應援。 明無錫生員顧杲謀起兵,不克。杲方起兵以應盧象觀,遇邑人王如玉,顧君起,送欵長州,遇於砂山,杲命所在部執之,兩人大呼曰:「此賊也!」砂山團練倉猝未及辨,羣起執杲,杲不能自明,遂遇害。已而砂山人知爲杲,乃大悔,立祠以祀之。 明常州生員張龍文起兵,謀復府城,敗死。 明餘姚在籍前九江僉事孫喜績、吏科給事中熊汝霖起兵拒守。時縣令役民修道,諸役者皆泣,嘉績私語之曰:「盍逃乎?」曰:「逃者死。」曰:「役死,逃亦死,盍死地永生乎?」役者曰:「將安計?」嘉績曰:「江東事未可知。壯士歛手就死,死無名。今鄰邑舉義,誠能合衆,畫江守則大有功,脫不勝,猶紱旦夕死,況未必然耶。」衆曰:「唯命!」乃率所役三百人馳入縣治,斬令以拘,與汝霖同起兵。 明松江在籍前兵部右侍郎沈猶龍、兵科給事陳子龍、中書舍人李待問、羅源縣知縣章簡起兵拒守。簡壯士數千城守,與志葵、黃𧉥相犄角。 明會稽生員鄭遵謙起兵,復紹興。遵謙喜結客,凡扛鼎與劍之徒日盈其庭,杭州降,遵謙集其徒,號義興軍,搴旗舉事,殺山陰知縣彭萬田、紹興知府張愫,襲殺招撫使於江上,表迎魯王監國。諸義旗一時並起。 明分巡寧紹台道于穎起兵,復富陽。先是,鄭遵謙斬張愫,迎穎入城,穎西拘蕭山,斬親令陳瀛。貝勒博洛,使以榜至,又執殺之,即夕起固陵,登岸,畫江以守。博洛札木簰擬渡,穎遣死士陳勝等鑿沉之,知杭已有重兵,攻不易,乃分二道,下流由橋司入海甯,出海鹽以通震澤;上流由潭頭入富陽,通餘杭以扼獨松關。降將郎斗金據富陽,遣副將劉穆等夜襲取之,後江上師潰,穎追扈不及,歸以黃冠終。 明鄞縣在籍前刑部員外郎錢肅樂起兵甯波,與定海總兵王之仁締盟,共城守。遣舉人張煌言赴台州,表迎魯王監國。 明前兵部尚書張國維起兵東陽。 明崑山前總兵王佐才,參將陳宏勳,遊擊孫志尹,知縣楊永言,舉人周寶瑜,貢生朱集璜、陳大任,諸生吳其沆、陶瑊,歸莊顧炎武各起兵拒守。城陷,佐才、志尹、寶瑜、集璜、瑊、大任、其沆死之。 明嘉定在籍前左通政侯峒、曾進士、黃淳耀等起兵拒守,斬降將李成棟之部將梁得勝兵八十四級,復截殺成棟,婁東告急之驍騎四十,誓衆登城固守。 明太倉生員王湛起兵,謀復州城,不克,死之,同殉者其兄淳與其友蔡伸昭、魏虎臣。 明休寧在籍御史金聲、諸生江天一起兵拒守。天一,聲弟子,聲謀起兵,天一曰:“徽州形勝地,諸縣皆有阻礙可守,獨績溪一面當孔道,宜築關隘,以重兵據之,與他縣爲砥柱。”遂築叢山關,屯軍其中,分守六嶺。 明徽州推官溫璜起兵拒守。璜聞金聲舉義績溪,爲轉餉給其軍,與爲犄角。州人黃賡,有脅力,運鐵鞭重數十斤,凡十九戰皆捷,後兵敗爲僧。 明前山東巡撫邱祖德,舉人錢龍文,生員麻三衡、沈壽蕘起兵,謀復寧國,不克,死之。祖德退歸山中。 明前職方司郎中尹民興,生員趙初浣、吳漢超起兵,守涇縣。漢超聞北都之變,與湯廷釹謀募師赴難,南都立,乃止。至是,南都又覆,乃與民興,約初浣起事。 明貴池副貢生吳應箕起兵復建德東流。時諸義兵蠭起,有奉宗室朱盛濃爲號者,應箕起兵應之,題壁曰:「韓亡子房奮,秦帝魯連恥。」攻池州不克,同事者皆去,應箕獨以計復建德東流。 明前靑陽知縣龐昌允謀起兵不克,死之。昌允時棄官隱九華山,與邑人孫象壯謀舉義,事洩被執,夜宿五溪橋旅店死。 明嘉興在籍翰林屠象美、吏部郎中錢秉起兵,拒戰於三塔橋,敗績,死之。生員鄭宗彞、鄭宗琦起兵拒守,亦敗死。同時殉義者,前吏部尙書徐石麒,前薊遼守備項嘉謨,諸生張翃、錢應金。 明長興參將方元章,瓶窯副將姚志倬、張起芬起兵,復餘杭,戰敗,元章死之。起芳被執,至杭州,不屈,懸之樹間,射殺之。志倬明年冬合餘衆攻江山,又不利,走依詹、兆恆同、破永豐。 秋七月降將李成棟取嘉定屠其城,侯峒曾、黃淳耀皆闔門自盡死。 明江西布政使夏萬亨,分巡道王養正,知府王域,推官劉允浩、史夏隆,通判胡縝起兵建昌,城陷,皆死之。萬亨等奉益王起事,王年少柔懦,不習武事,以戰守機宜委之永寧、羅川兩郡王。羅川王乃與東鄉艾命新、艾南英約諸紳集議,得劉琦、楊獨龍、僧丹竹等三十六將,王謝二巨室捐助軍餉,練鄕兵萬餘,分埤拒守,軍勢頗振。保寧王私送欵,約內應,城遂陷。萬亨等皆以不屈見殺,士民哀之,葬之沌砦河側,題曰:「六君子之墓」同時殉難者,有南昌諸生鄧思銘。 明臨川在籍前吏部主事曾亨應揭重熙起兵撫州。時降將金聲桓遣裨將王得仁侵撫州,亨應與重熙及艾南英募兵守禦,未集,而得仁兵至,衆皆亡去。 明在籍左春坊左庶子楊廷麟、左中允劉同升起兵贛州。時江西諸郡相繼失陷,惟贛州孤懸,上游獨存。廷麟與同升謀,邀贛撫李永茂集紳士勸輸軍餉,刻期大舉。 明龍泉在籍工部右侍郎劉士楨起兵復泰和、廬陵。士楨克二邑守之,明年復遣季子穉升從李陳玉起兵信豐,爲贛州聲援。 明前汜水知縣胡定海起兵德興,敗績,死之。同死者有揭新。 明德化李含初起兵復德化瑞昌,尋敗死。含初傾家起兵,連破二邑,未幾,其部將王拐子私欵於九江守將余世忠,襲破之。含初遇害,同死者生員李昭陽,武生唐扉、鄧士鳳、熊九鼎、宗麻子。 明德安郭賢操起兵復德安,遂復建昌,尋被執。賢操連破建昌,其部將高長子私通欵,執賢操以獻,尋釋之。明年夏,集衆圖再舉,事覺走免,後爲余世忠所執殺。同起兵死者諸生桂登魁、胡戒。 明瀘溪知縣張載述、貢生魏一柱起兵拒守,執新令李光,送鄭彩磔之。 明邱祖德被執於華陽山寨,送南京,不屈,磔死。 明麻三衡兵敗於稽亭山,三衡死之。 八月降將李成棟屠松江,明沈猶龍等死之。先是成棟兵圍城,紳董廷對謀內應,事覺,郡人磔之。時吳志葵、黃蜚共結水寨於泖湖,與城中相犄角,是月初旬敗績,皆被執降。舉人傅凝之、諸生戴泓同赴水死。已而有假蜚兵號者,突至扣門,猶龍納之,入城巾脱,皆髮辮也。守兵驚潰,猶龍出東門,中流矢死。同殉者舍人李待問、知縣章簡、敎諭眭明永、尙寶丞徐念祖、衣工陸厚元。 降將劉一鵬攻峽江,明守將鄧武泰死之,進薄袁州,知府李時興死之。一鵬攻峽江,白之裔以城叛降,乘勝遂取袁州。 降將李聲桓破吉安,巡撫曠昭死之,進取萬安,知縣梁于涘死之。于涘被執,聲桓欲官之,客有賀者,于涘曰:『死我者可賀而不可弔,官我者可弔而不可賀。死者形立,官者神滅,豈可以神易形哉!』自縊死。 降將王得仁襲執明曾亨應於臨川。亨應不屈死,時羅川、永寧二王合兵出湖東,復建昌,乘勝拔撫州。亨應募卒數百,與相犄角,得仁潛自祝家渡濟師,倉猝不支,被執。得仁揖之曰:『公義士也!時不可爲,盍隨世以就功名乎?』不應,撾數十,詢之如前。懸諸樹間,射之,終不屈,遂與長子錫俱死之。同殉者,亨應弟和應、舉人王秉乾、諸生湯仲發,村里爲墟焉。後二王兵亦敗,皆爲得仁所害。 明把總吳之蕃起兵,謀復嘉定,不克,死之。之蕃被執,降將馮嘉猷陳鼓吹羊酒犒得勝兵,之蕃大笑曰:『我大明世臣,父子忠節,汝曹逆賊,狗彘不食,何敢以面目向人!』遂被害。之蕃父斗南,於崇禎時以討流賊戰殁者也。 降將李成棟取明江陰,閻應元、陳明遇等死之。成棟旣破松江,率所部十四萬圍江陰城,凡八十一日,三王十八將皆戰殁,兵士死者亦七萬五千有奇。會大雨城崩,衆皆巷戰死,士女自殺者池井爲滿,應元、明遇皆不屈自盡。 降將李成棟襲明金山衛,指揮侯承祖死之。金山圍久不能拔,城外敗兵積屍與城堞等。會有內應者,啟水門以入,承祖與世祿率親兵巷戰,身受四十矢,力盡被獲。罵成棟 ,死,世祿亦不屈見殺。 明盧象觀、葛麟、毛重泰、陳坦公敗績於太湖,皆死之。麟奮力戰,所當披靡,連殪百人於湖,萬箭注之。麟揮矛如風,箭悉墮水,乃更以火攻,舟焦始自沈。象觀拜其衆曰:『我兄弟受國恩,無以報,空煩公等,死有餘愧。』躍入水死。重泰、坦公皆死之。 明吳易、孫兆奎敗績於長白蕩,兆奎死之。先是降將李遇春率兵五十四艘,自平望至白龍橋,列陣三十里,易與兆奎合沈自炳自駉之軍,破走之。已而降將吳勝兆敗盧象觀等,遂引兵追,易、兆奎率銳卒伏蘆葦中,襲殺勝兆兵甚衆,遂退。俄合四郡兵至,八面環攻,時陰雨連旬,舉礮,礮不震,持弓,弓弦解,兵遂潰。易南走,兆奎被執,送南京見洪承疇,大言曰:『崇禎時有一洪承疇者,先帝親祭哭之。今而又一洪承疇,爲一人耶兩人耶?』承疇曰:『爾自爲一人事可耳。』驅出,斬之。 明魏國公徐宏基謀起兵不克,死之。宏基爲匡復計,樹幟募鄕勇千餘,按户出資助餉。富紳陸醇儒引降將田勝嘉兵,刦執之,遂與子文爵同遇害。明任源邃、吳福之、徐安遠兵潰,皆死之。吳易旣敗,源邃軍亦潰,與福之、安遠同被執,皆不屈死。 九月,降將張天祿襲涇縣,明尹民興吳漢超走免,趙初浣死之。民興善謀,漢超善戰,城圍旣久,攻城兵多損傷,謂不亞於江陰也。城陷,初浣被殺,漢超匿華陽山中,民興走入閩中。 張天祿襲績溪,明金聲等死之。聲起兵後,連拔旌德、寧國諸縣,降臣洪承疇遣天祿襲之,徽故御史黃澍詐稱援兵,聲見其故衣冠而未薙髮也,信之,城遂破。聲被執至南京,承疇欲降之,聲之門人江天一同被執,因朗誦思宗諭祭承疇文以愧之,遂並見害。同時死者,有姜孟卿、陳繼遇、吳國楨、余元英、羅騰蛟、閔士英、汪以玉、項遠、洪士魁。 張天祿入徽州,明黃澍以城降,溫璜死之。璜聞金聲敗,方嚴兵登陴,而澍已獻城降矣。璜闔門自盡死。 明池州推官吳應箕兵敗被執,死之。臨難時語刑者曰:『無去吾冠,將以見先朝於地下也。』就義處至今血跡猶存。 明廣德太學生吳源長、民裘、君量起兵復州城,進兵湖州,敗死。源長舉兵梭子山,與君量等攻破廣德,進至湖州,戰敗被執,俱死之。 明鹽城諸生司石磐起兵,不克,死之。時同舉事之都司酆某同被執,欲脱石磐曰:『此書生吾刦之爲書記者。』石磐大聲曰:『公言何謬!吾實首事,奈何諱之?』遂並見殺。 明溧陽副將錢國華、生員謝琢起兵不克,死之。𤥨毀家輸餉,不繼而潰。 明淮安民人王翹林、繆鼎吉、繆鼎言等起兵雲台山,復鹽城、新化,戰敗,鼎吉、鼎言死之,翹林等奉新昌王攻克二邑。鼎言、鼎吉,東場鹽丁也,率其徒應之,兄弟皆善戰。饑不得食,始被執,皆不屈死,新昌王亦被殺。 冬十一月,明陜西都督同知孫守法起兵,復鳳翔。守法奉秦藩第四子,稱漢中王,開邸五郎山,檄召各郡兵將薄西安,遣副將賀珍,以義勇三千復鳳翔,於是盩厔、鄭湄、涇陽三原,臨潼、澄城、白水諸縣次第來歸,軍聲大振。時東南義旗林立,於西土則爲僅見,時論多之。 十二月,明僉都御史陳泰來起兵,復上禼、新昌、寧州、萬載,進攻撫州,敗績,死之。舉人戴國士與泰來爲姻,已降,權驛傳道。金聲桓使之招泰來,而以重兵躡其後,國士甫入營,而兵已壓陣,遂敗。同起義者,舉人曹志明、魯國祺、聶明時、黃瑛、黃國彥俱殁於陣。

  三年,春正月,明吳漢超襲寧國不克,死之。先是當塗人徐淮聚衆華陽,與漢超合兵,連復句容、高淳、溧水、太平。是日漢超襲寧國,所部皆寧國人,各顧其家,莫有鬬志,遂潰。 明金有鑑攻長興,敗死。有鑑再攻長興不克,與岑元泰、徐昌明俱陷陣殁。 二月,明鎮國將軍常巢起兵蘄州,敗績,死之。常巢樊山王翊鉹子,時與英山男子王六姐起兵斗方砦,兵敗死之。明封孫守法、武大定爵爲伯。時甯夏、甘肅、神木靖邊,各以兵來附,故有是命。 三月,明監軍道許文龍兵敗於奉鄉,死之。先是文龍起兵,逐新置官吏,屯師奉鄉。城圍三月,糧盡,走保介首砦,食復盡,被執遂死。 夏四月,明新城知縣李翺起兵拒守,城陷,死之。翺招新城徐伯昌募義勇千人,與監軍張家玉共城守,而兵已從間道入,遂見殺。同殉者諸生楊應和、楊居久。 五月,明諸生張飛遠襲金山衛,不克。飛遠嘗聚衆從吳易於長白蕩,戰敗,失大將羅騰蛟,至是謀取金山,復敗。 六月,明吳易被執於長白蕩,不屈,死之。易初敗於長白蕩也,潰圍走。是年春,吳江人周瑞復聚衆長白蕩,迎易入其營,未幾衆潰,與易並獲於杭州草橋門,其驍將孫璋、茹略文、周志韜皆死。 冬十月,降將金聲桓屠明忠誠府,明楊廷麟、萬元吉、郭維經等死之。贛州自四月被圍,廷麟、元吉協力拒守,復設忠誠社於城內,號召才智,遠近毀家入社者幾三萬人。是年六月,前南贛巡撫李永茂遣粵兵五十至,戰於李家山、九牛山之間,連捷,圍暫解。堅守旣久,明帝諭獎賜名忠誠府,至是聞帝被難汀州,雲南、兩廣諸援師悉潰,合城氣索。值是日天霧且雪,聲桓乘夜登城,廷麟猶督鄉勇巷戰。黎明,城上礟炸,城裂,遂陷,全城被屠。廷麟、元吉、維經皆自盡。同時死者,太常卿彭期生、都御史楊文薦、御史姚奇胤、推官吳世安、通判唐周慈、郭甯登、主事周湖、龔棻、林琦、王其宏及弟其窿、黎遂球、曾嗣宗、錢謙亨、于斯昌、柳昂霄、知府吳國球、知縣陳烈、林逢春、同知王明汲、盧觀象、訓導胡董明、徐君鼎、副將馬觀鵬、都督僉事劉天駟、參將朱永盛、衛千户孫經世、與其弟緯世、紘世、監紀聶邦晟、與其子士𤒄、士煥、給事中萬發祥、舍人袁從諤、劉孟鍧、劉應試、提學副使符遡中及其兄述中、馬平知縣謝讚及其子胤繡、從子胤斗、判官周世光、舉人劉曰佺、貢生楊萬言、諸生董纘卿、馮復京、余學義、歐陽麗天、郭必昌、金之傑、袁汝健、莊某、王統、王純、周葵、陳君猷、段之渾、蕭瑛、楊燧、鄉約、謝明登、書工趙廷瑞、織人熊國本。此次死事之烈,說者謂與史可法之守揚州、瞿式耜之守桂林,爲後先輝映云。 十一月,明無錫生員王謀起兵。謀復常州,敗死。謀本姓杭,嗣王氏,率鄉兵萬人,夜薄郡城,師潰見殺。 十二月,明黃毓祺、徐趨襲江陰,不克,趨死之,毓祺走免。趨之起兵行塘也,江陰破,走淮南山中,至是偵知城中無備,率王春等十四人來襲,不克,趨與十四人皆死,毓祺走免。

  四年,春正月,明前都御史張家玉、舉人韓如璜起兵復東莞。甫三日而兵至,遂敗走。 明兵科給事中陳邦彦起兵攻廣州,不克。邦彥說萬元吉、潰將余龍,以其眾二萬余攻廣州,而已發高明兵由海道入珠江,與龍會師。龍率眾自甘竹灘出,沿途焚水師數百艘,直抵廣州。李成棟反救,揚言取甘竹灘,龍卒顧家,輒引去,邦傅亦卻歸。 二月,明福建人洪有楨起兵復漳浦城,尋陷死之。有楨糾海濱壯士數百,入據漳浦,未幾城復陷,被執,大罵死。有楊淶者,亦不屈見殺。 明賴天肖起兵潮州,殺降將文貴、陳虎、余成隆。同時陳順、簡信起兵韶州、蘇來起兵惠州、黃奇策起兵新會。 明陳邦彥遣兵復順德。邦彥遣其門人馬應房,以舟師會余龍取順德。 三月,李成棟復取順德,明陳邦彥退據下江門。成棟再取順德,馬應房戰死,余龍亦敗歿,邦彥棄高明據下江門。 明賴熊復建陽。 明孫守法復寧州。守法與高勳破寧州,拔興安之蕎麥山。 明張家玉再復東莞。先是韓如璜敗歿,家玉走西鄉,西鄉大豪陳文豹奉之。會故南海指揮安宏猷與訓導張治再起兵襲東莞,殺知縣鄭鑒、典史張元鼎,乘勝遂取新安。明林質復取德化,再攻建陽,敗死。降將蔡應科逆戰,質戰敗被執,死之。 夏四月,降臣孟喬芳襲興安,明孫守法死之。喬芳伏甲森林,以輕騎誘守法出,執之。守法揮鐵鞭格殺百十人乃死。 松江提督吳兆勝謀以松江復歸於明,事覺被殺,明侍郎沈廷揚、陳子龍、給事中楊廷樞等死之。兆勝以事洩,殺告變之同知楊之易、推官方重朗,下令入海。其中軍詹世勳、都司高永義執兆勝,送總督洪承疇殺之。捕子龍、廷樞至,皆不屈死。同時被禍者,推官顧咸正及其子、諸生天達、天遴、夏之旭、夏完淳、侯歧曾、徐爾穀、錢梅、殷之輅、張寬等,凡數十人。沈廷揚以海師來會,師潰被執,送洪承疇與部下十二人同見殺,其新兵六百人無一降者,時比諸田橫之士。舟山人聞廷揚死,哭聲如雷,立祠祀之。 明岑本高等起兵攻浦城,敗死。本高與王思春、江中英、江中元、張文耀、朱國貞、劉國球同攻浦城,有原任監軍吳承昊、徐元、毛文傑、張裔元約爲內應。本高等既敗歿,國貞降,盡洩承昊等謀,遂皆見殺。 襄陽副將王光泰以襄陽復歸於明。光泰據襄陽反正,奉永歷年號,殺荊南巡道甘文奎,進據鄖陽,結陝賀珍、武大定爲援。降將孫定遼率兵援鄖陽,馬蹶沒於河,侍郎喀喀木、副將王平渡河進擊,光泰走房縣,尋走四川。 明鄖西王復建寧、邵武。鄖西王既復建寧,遣其將王祁復邵武。 五月,明副將周金湯復永州。金湯糾壯士二百人,夜復永州。 秋七月,明大學士陳子壯起兵,會給事中陳邦彥共攻廣州,敗績。子壯起兵九江村,兵多蜑戶番人,善戰,約邦彥共攻廣州,結故指揮楊可觀等爲內應。事洩,可觀等死,子壯退駐五羊驛。時李成棟方攻張家玉於新安,邦彥與子壯謀,伏禺珠洲側,伺成棟還救會城,縱火焚其舟。如其計,果焚舟數十。成棟走下風,引而西,邦彥尾之,會日暮風轉,成棟順風反擊,遂大潰。子壯長子上庸戰歿,走還九江村,邦彥奔三水。 明縣丞徐定國復懷集。懷集城陷,定國𦸀山中,至是以計復城。 秋八月,李成棟襲高明,明大學士陳子壯、御史麥而炫、主事朱寶蓮死之。而炫復高明,迎子壯於九江村,共守縣治。成棟兵至,寶蓮戰死,子壯、而炫執至廣州,成棟與佟養甲怒子壯,寸磔之,投骨四郊,而炫從死。 明舉人杜璜、李皇一起兵攻肇慶,敗死。 明王祥起兵復遵義。 九月,李成棟破清遠,明給事中陳邦彥、指揮白常燦、生員朱學熙死之。邦彥之奔三水也,清遠指揮白常燦以城迎奉,乃入清遠,與諸生朱熙嬰城困守,城陷,常燦等死之,邦彥與其子和尹、虞尹皆被殺。 冬十月,明兵部尚書張家玉兵敗於曾城,死之。家玉募兵萬餘,分爲龍、虎、犀、象四管,據增城。李成棟兵至,家玉大戰十日,力竭而敗,投野塘死。同及難者,家玉之師林洧及指揮靈壁、安宏猷、訓導程鄉、張治、舉人張恂、尹斌。 明中書舍人陳世亨起兵復瑞安,敗績,死之。時同舉事者有鄧藩理,援兵不濟,被執見殺。 明侍郎林汝翥、員外郎林將會垐起后復福清,敗死。時同死者尚有記室葉子器。 十二月,明御史李長祥、主事王翊、華夏、屠獻宸、評事王家勤、推官楊文琦、董德欽、生員杜懋俊、施邦炌謀襲寧波,不克,夏、獻宸、家勤、德欽、懋俊、邦炌皆死之。先是長祥等謀洩,降紳謝三寶告變,兵至,皆被殺。

  五年,春正月,江西總兵金聲桓以南昌復歸於明。聲桓與副將王得仁來降後,巡撫章于天、巡按董學成遇之倨,且勒賄無厭,又聲桓師維揚僧真宗,每勸其改圖,至是下令諸營,悉剪辫,出諭安民,稱隆武四年,凡軍民之纓帽者,射殺之。戕學成及副史成大業,擒章于天,迎太保姜曰廣,入爲盟主。傳檄遠近,全省復歸於明,惟赣州未下。 明前大學士朱繼祚起兵復興化。繼祚與明魯同安伯楊耿合攻興化,監司彭遇颶紿守將出戰,即登陴易明幟,開城迎繼祚入守之。 三月,明遠長王起兵蘭州,不克,死之。回人米喇印、丁國棟據蘭州,擁立遠長王,降臣孟喬芳、張勇合兵擊敗之,王被執,死之。 明前兵部尚書周損、安慶知府傅夢鼎潛山、典史傅謙之起兵六安,敗績,皆死之。時英山、霍山間義旗紛樹,有寨主、洞主四十八所。石城王立飛旗寨,周與猶子羽儀率鄉練數百歸之,奉以起事,兵敗皆自殺,同死者諸生桂蟾,僧義堂。 明主事王翊復起兵四明山。翊與屠獻宸等謀襲寧波,不克,率所募兵入山,尋破上虞,殺攝印官,浙東震動。未幾杜嶴山團練導兵攻破之,翊以四百人走依威遠將軍天台峒主俞國望,旋自天台至四明,擊散團練,隨道收合,得萬餘人。再破上虞,結寨於山之西北境,曰大蘭山,號大蘭洞主。於山中設五營五司,五營主軍,翊統之;五司主餉,諸生王江主之。江善會計,彙富以勸,履畝而稅,兵無盜糧。翊信賞罰,眾士悅服,四明之有訟獄者不之官而之大蘭,四明二百八十峯之租賦亦不之官而之大蘭。胥吏無敢下鄉,汛兵則遠伏眺望,列城畏之,若老羆當道,城門盡閉,如是者數年。 明朱繼祚兵敗於興化,死之。城破,繼祚與參政湯芬、給事中林嵋、知縣都廷諫皆自殺。 明鄖西王兵敗於建寧,死之。其守將王祁戰不勝,自焚死。 夏四月,署兩廣提督李成棟以廣東復歸於明。先是成棟既降,從軍福建、廣東、江蘇各省,所向有功而僅授提督銜,怨望形諸詞色。愛妾張氏常勸之反正,慮成棟戀眷屬,因自刎以絕其內顧。成棟大哭曰:『女子乎,是矣。』拜而殮之。至是刦總督佟養甲同反正,奉永歷朔,遣人齎表赴南寧迎駕。 明荊江侯張先壁復靖州,遂復沅州。時沅州道戴國士以沅州復歸於明。 五月,副將陳友龍以武岡復歸於明。 秋九月,明前洧州知縣王䵺起兵復廬州。䵺與曹胤昌起兵破廬州,不守,轉戰靳、黃間,又與霍山侯應龍等合攻霍山,不下。 冬十一月,明都昌在籍前督師余應桂起兵援南昌,敗績。應桂家居,聞南昌圍急,起兵率舟師往援。進至落星湖,敗績。時起兵赴援者:揭重熙、傅鼎銓、劉士楨、孔徹元、孔徹哲、蔡觀光,皆敗績,士楨、徹元、徹哲、觀光皆死之。 明九江生員金志達、僧了悟起兵復東流、建德,尋敗死。志達與了悟集眾萬餘,結營鄱陽、彭澤間,出戰池州,取東流、建德,旋敗歿。 明前寧夏巡撫李虞夔起兵平陸,克潼關,連復䈬州、解州。時大同兵姜瓖反正,復寧武等處,在籍鄉官萬練、劉遷、王永強皆舉兵應,據榆林,窺西安。虞夔乘勢起兵克潼關及䈬、解二州。

  六年,春正月,固山額真譚泰等屠南昌,明前大學士姜曰廣、豫國公金聲桓、建武伯王得仁死之。南昌自五年七月被圍,糧盡,人相食。聲桓部將湯執中守進賢門,約內應,引兵梯壘以登,城遂陷。聲桓投城東湖,曰:『廣投偰家池。』得仁及宋奎光、劉一鵬、郭天才皆巷戰死。 明侯應龍等兵敗於將軍寨,死之。應龍與張圖容、王國士等起義,有眾萬餘,與王𤐣合攻霍山不下,退取舒城潛山,自劉家園出攻南關,拔之,營於將軍寨。至是寨破,俱死之。 三月,明惠國公李成棟兵潰於信豐,死之。成棟踰嶺攻贛州不利,退駐信豐。譚泰兵至,時天久雨,成棟發礮不燃,左右挽之上馬渡河,三日後有見攘甲抱鞍植立水中者,始知成棟死也。 明黃毓祺謀再起兵通州,事覺被執,死之。毓祺自江陰走免後,僞爲卜者,遊通州,主湖蕩橋之薛繼周家將起義,遺書錢謙益摸貲充餉,謙益卻之。徵州人江純一告變,毓祺、繼周及武舉許彦達同就江寧獄,尋俱就義。 秋九月,明李虞夔兵滑於平陸,死之。時姜瓖、萬瑓、劉遷、王永強皆敗歿,虞夔子宏戰敗於平陸山寨,投崖死,虞夔被執,不屈死。

  七年,春二月,明總督鳳陽義軍尚書王𤐣兵敗被執,不屈死之。𤐣奉命總督鳳陽義軍,率眾連戰,潛山太湖間。兵敗,執至江寧,不屈死,於是皖省義師略盡矣。

  八年,春三月,明永州諸生鄧光遠被執,不屈死。 明傅鼎銓招兵廣信,被執。程鄉之敗,鼎銓走依平西伯張自盛於閩,自盛敗死於邵武,鼎銓走廣信募兵,爲守將偵獲,後不屈死。 夏五月,明揭重熙兵潰於貴溪,被執。張自盛敗歿,重熙走依曹大鎬,至百丈磜方就炊。游騎偵知,猝召防軍至圍之,遂被執,尋死,大鎬亦敗歿於岑陽關。 明星子生員吳江將再起兵,敗死,前督師余應柱死之。先是江起兵應南昌,已敗走都昌,得舊鎮將張士彥之標將黃才兵,部勒之,將復舉。才陰款於潯,執江以叛,江死。應柱自落星湖敗後,復傾貲募眾,聞江兵潰往援。降將楊捷以步騎奄至,應柱與子、諸生顯臨同被執,見殺。 秋八月,明王𦚎招兵奉化,被執。不屈死之。𦚎聞降臣陳錦等三道下舟山,復入山集散亡爲援,由奉化出天台,至北溪,爲團練所執,每日求請掠䰅,謂守者曰:『使汝曹見此漢官威儀也!』至定海,錦命叢射之,遂與其僕石必正、明知並見殺。 秋九月,降將陳邦傅襲清遠衛,明指揮白常燦死之。邦傅以兵至,常燦不知其已叛,迎之。既知則大罵,遂死於亂刃下。 冬十二月,明故少傅朱國楨之孫某起兵南潯鎮,敗死。朱某起兵湖州之南潯鎮,有眾數千出沒吳淞泖澱間,轉戰白龍橋北,被執,不屈死。

  十一年,春正月,明進士徐敬時、楊文、李克升起兵廣信,尋敗死。敬時等舉兵廣信之九仙山寨,俄寨破,皆被殺。

  十三年,秋八月,明前魯戶部主事王江復起兵四明山,敗績,死之。王𦚎之敗也,江走杭州,旋入海,再入長江。會沈調倫復起山中,江赴之,至是兵敗,江與調倫皆敗歿。 休寧趙立言復以餘眾攻江山,克之。越日,師大集,立言殺數十人,馬躓墜水死,子楨亦死。

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