清史紀事本末開国の法制・兵制・官制(開国法制、兵制及官制)

要約

満洲は万暦十五年正月に国政を定め、悖乱を禁じ盗賊を取り締まって法制が立った。四十三年十一月、理政聴訟大臣五人とジャルグチ十人を置き、獄訟は十人が調べ、五大臣が再審し、諸ベイレに申し述べた。十二月、兵制を定めた。万暦十一年に甲十三副で図倫城を破って以来、十人に長一人を立ててニル・エジェンとしたが、二十九年に三百人を一ニルとし、五ニルにジャラン・エジェン、五ジャランにグサ・エジェン、その左右にメイレン・エジェン二人を置いた。黄・紅・藍・白の四旗に四旗を増し、縁取りを施して八旗とし、堅甲の者を前鋒、射に長じた者を後ろの衝撃とし、精兵を応援に当てた。四十六年四月、練兵の制を頒ち、一ニルに雲梯二つと甲二十を出させ、軍令に違う者は死罪とし、攻城は陣列が定まって先に登った者を功とした。四十八年三月、八旗の官を改めて総兵官を三等に分け、ニル・エジェンを備禦官とし、のちに蒙古・漢軍にも八旗を設けた。六月、納言の木を門外に設けて訴状を懸けさせた。

天啓六年九月、ホンタイジが位を嗣いで官制を議定し、旗ごとに総管大臣一人を置いて八大臣とし、国政は諸ベイレとともに議し、佐管大臣二人は出征させず、調遣大臣二人を出兵・駐防に応じさせた。崇禎二年、蒙古軍の例を定め、文館を設けて漢籍の翻訳と朝政の記録を分掌させ、行軍の賞罰の例を定めた。四年、出征軍の例を定め、六部を設けてベイレ一人に主らせ、承政・参政・啓心郎・筆貼式を置いた。五年、賭博を禁じ、城守官を三年ごとの考察とした。九年、文館を内国史院・内秘書院・内弘文院と改め、都察院を設けた。十年、旗ごとに議政大臣五員を置き、十一年、理藩院を設け、衙門ごとに満洲承政一員とし、以下を参政・理事・副理事・啓心郎・額者庫の五等とした。

順治元年十月、帝は京師で即位し、内外の官制はおおむね明の制度に倣って損益し、満・漢を併せ用いた。八旗の都統以下は兵部が、驍騎参領以下は各旗、前鋒・護軍の参領以下は統領が補授した。八旗を京城内に分置し、驍騎営・親軍・前鋒営・護軍営・領侍衛府・歩軍営・八旗駐防を設け、緑営は督標・撫標・提標・鎮標・協標・河標・漕標とした。二年、腳筋を割き耳鼻を貫く刑法を除き、御史を増した。三年、推官と主簿を裁減し、四年、四川総督を設け、五年、漢尚書・漢都御史と漢主事を増した。八年、在京の諸臣は革職ののち刑部で審問することとし、翰林院を内三院に分属させた。九年、宗人府を設け、十年、御史を二十員とし、寺人は四品を超えないものとした。十一年、三公三孤と東宮の三太三少を加銜とした。十三年、日講官を選び、贓十両以上は家産を籍没し、大閲を三年に一度の例とした。十五年、直隷総督を裁して巡撫を置き、殿閣大学士を設けて内三院の名を除き、閩浙の総督を分置し、宮闈の女官の品級を定めた。十六年、内閣は大学士と中書のみとし、満官の侍読学士以下を中書舎人と改め、誣告の禁を厳しくした。十七年、士子が社の名を立てることを禁じ、八旗の漢字の官名を定めて固山額真を都統、梅勒章京を副都統、甲喇章京を参領とした。十八年、巡按を停め、内閣をまた内三院とし、直省に総督各一員、五省に提督を増し、千総を正六品、把総を正七品と定めた。

年表

満洲が国家として立ち上がっていく過程で整えた法制・兵制・官制の沿革を、明の万暦十五年(1587年)から清の順治十八年(1661年)までたどる篇である。ヌルハチが国政を定め、ニル・ジャラン・グサの編成から八旗を創り、理政聴訟大臣とジャルグチによる裁判の仕組みを置いた。ホンタイジの代には八大臣・十六大臣の官制、文館・六部・都察院・理藩院が次々に設けられ、内三院へと発展する。順治帝の入関後は明の制度に倣った内外の文武官制が敷かれ、督標・撫標などの緑営、殿閣大学士、御史の増減、八旗の漢字官名の制定などが相次ぎ、清朝の官制の骨格が固まった。

年表(25件)

現代語訳全文

西暦1587年 明神宗万暦十五年

  • 春正月、満洲ははじめて国政を定めた。悖乱(道にそむく乱れ)を禁じ、盗賊を取り締まり、法制がこれによって立った。

西暦1615年 明神宗万暦四十三年

  • 冬十一月、満洲は理政聴訟大臣五人を置き、ジャルグチ(札爾固斉)十人が国事の処理を補佐することとした。およそ裁きを要する事があれば、まずジャルグチ十人が取り調べ、そののち五大臣に申し述べる。五大臣はみずから再審を行い、そののち諸ベイレ(貝勒)に申し述べる。衆議がすでに定まっても、なお冤罪や抑圧があることを恐れ、国主がさらに詳しくこれを問い質した。訴訟や獄事を詳しく慎重に扱い、国人はこれを称えた。
  • 十二月、満洲は兵制を定めた。これより先、万暦十一年に、満洲は甲十三副をもって図倫城を攻めてこれを破り、いよいよ兵力を励まし、順次に諸部を削平することができた。はじめに定めたところでは、出兵や巻狩りに際して人数の多少を数えず、それぞれ族党や屯寨に従って行動した。一人ごとに矢を一本ずつ取り、おおよそ十人につき長を一人立ててこれを率いさせ、その長をニル・エジェン(牛录額真)と称した。のちに万暦二十九年正月のあいだに、諸国から来服する者が多くなったので、三百人を編成して一ニル(牛录)とし、ニルごとにエジェン(額真)一人を置き、五ニルごとにジャラン・エジェン(甲喇額真)一人を置き、五ジャランごとにグサ・エジェン(固山額真)一人を置き、グサ・エジェンごとにその左右にメイレン・エジェン(梅勒額真)二人を置いた。はじめは四旗を設け、旗は純色をもって区別し、黄・紅・藍・白といった。ここに至って四旗を増設し、その色を参用して縁取りを施し、幅が黄・白・藍のものは紅で縁取り、幅が紅のものは白で縁取って、合わせて八旗とした。行軍のときは、土地が広ければ八旗が並び立ち、土地が狭ければ八旗が一路に合して進んだ。軍士には騒ぎ立てることを禁じ、行伍には割り込み追い越すことを禁じた。両軍が交戦するときには、堅い甲を着て長矛や大刀を執る者を前鋒とし、軽い甲を着て射に長じた者が後ろから衝撃を加え、精兵を他の場所に馬を立たせておいて、機を見て応援に当たらせた。

西暦1618年 明神宗万暦四十六年

  • 夏四月、満洲は練兵の制を頒布して定めた。その法は、一ニルごとに雲梯二つを製作し、甲二十を出して攻城に備えるというものである。およそ兵士は、出兵の日から凱旋するまで、それぞれ自分のニルに従って離れてはならず、もし本纛(自分の部隊の旗)を離れる者があれば、捕えて問い質す。ジャラン・ニルなどの管轄の官が、頒布された法令をもって諸軍に申し諭し戒めなかった場合は、それぞれ馬一匹を罰とする。もし諭しても聴かず、あえて軍令に違う者は、死罪に論ずる。およそ攻城に際しては、一人二人が先を争って進み出てはならず、もし一人二人が軽々しく進んで損傷を受けた場合は、賞を及ぼさず、戦死したとしても功としない。陣列がすでに定まったうえで先に登った者は、はじめてその功を記録する。一人二人が先に登って城を陥れた場合は、ただちに馳せて本旗の大臣に告げる。一軍がことごとく登り終わるのを待って、そののち螺を吹き鳴らし、諸軍に螺の声を聴かせて一斉に進ませた。

西暦1620年 明神宗万暦四十八年

  • 春三月、満洲は八旗の官を改めて設け、総兵官を三等に分け、その副将・参将・遊撃もまた同様にした。各ニル・エジェンはみな備禦官とし、ニルごとにその下に千総四人を置いた。のちに蒙古・漢軍それぞれ八旗を設けたが、その旗色は満洲八旗と同じであった。
  • 夏六月、満洲は納言の木を門外に設け、訴え出る者は、その訴状を書いて木に懸けることとした。

西暦1626年 明熹宗天啓六年

  • 秋九月、満洲の主ホンタイジ(皇太極)が位を嗣ぎ、諸ベイレを集めて官制を議定した。はじめ、満洲の主ヌルハチ(努爾哈赤)は部落から起こり、諸事は草創であって、官を設けることはきわめて簡略であった。その後、諸部を削平し、八旗を創制して、旗ごとに総管大臣一人、佐管大臣各二人を置き、また理政大臣五人、ジャルグチ十人を置いたが、しばしば総管や佐管などがこれを兼ね、みなが別々に授けられたわけではなかった。ここに至って建議し、旗ごとに従前どおりそれぞれ総管大臣一人を置き、これを八大臣とした。およそ国政を議するときは、諸ベイレとともに坐して、ともにこれを議する。狩りに出、軍を行るときは、それぞれ本旗の兵を率いて行き、いっさいの事務は、みなその稽察に従う。その佐管大臣は、旗ごとに従前どおりそれぞれ二人を置き、この十六大臣は本旗の事務を補佐して処理し、出征させない。また旗ごとにそれぞれ調遣大臣二人を置き、この十六大臣は出兵・駐防し、時に応じて調遣される。所属の訴訟については、なお審理させることとした。

西暦1629年 明思宗崇禎二年

  • 春三月、満洲は蒙古軍の例を定めた。
  • 夏四月、満洲は文館を設立し、儒臣に命じて職を分かち、一方は漢字の書籍を翻訳させ、一方は朝政の得失を記録・注記させた。
  • 秋八月、満洲は行軍の賞罰の例を定めた。

西暦1631年 明思宗崇禎四年

  • 春二月、満洲は出征軍の例を定めた。
  • 秋七月、満洲は六部を設立し、部ごとにベイレ一人をもってこれを主らせ(底本はここに割注の丸括弧だけがあって中の字が無い)、それぞれに満洲・蒙古・漢の承政(底本はここに割注の丸括弧だけがあって中の字が無い)一人、参政八人(底本はここに割注の丸括弧だけがあって中の字が無い)を置いた。ただし工部だけは十員とし、満八人、蒙・漢各二人とした。啓心郎は一人、ただし工部だけは二人で、満・漢各一人とした。筆貼式(「貼」は「帖」の誤りか)は定額が無く、各部の事務の繁簡を見てこれを補って授けた。

西暦1632年 明思宗崇禎五年

  • 春二月、満洲の主が刑部に諭して賭博を禁じ、城守官を三年ごとに考察する例を定めた。

西暦1636年 明思宗崇禎九年

  • 春三月、満洲は文館を改めて内三院とした。一を内国史院と名づけ、大学士一人・学士一人を置く。一を内秘書院と名づけ、大学二人・学士一人を置く(「大学」は「大学士」の誤りか)。一を内弘文院と名づけ、大学士一人・学士二人を置く。
  • 夏五月、満洲は都察院を設けた。

西暦1637年 明思宗崇禎十年

  • 夏四月、ベイセ(貝子)のカンロト(堪羅託)に命じて国政を博議させた。旗ごとにさらに議政大臣五員を置いた。

西暦1638年 明思宗崇禎十一年

  • 夏六月、満洲は理藩院を設け、もっぱら蒙古諸部の事を治めさせた。
  • 秋七月、満洲は部院の官制を改め定めた。これより先、部院の諸衙門には満洲・蒙古・漢の承政をそれぞれ三、四員置き、その余はみな参政として、あわせて二等であった。ここに至って大学の范文程らが奏請し(「大学」は「大学士」の誤りか)、衙門ごとに満洲承政一員だけを置き、以下は適宜に左右参政・理事・副理事・啓心郎・額者庫(底本はここに割注の丸括弧だけがあって中の字が無い)の各官を置き、あわせて五等とすることとした。これに従った。

西暦1644年 清世祖順治元年

  • 冬十月、帝が京師に入り、即位して、内外の文武の官制を定めた。内は閣部から庶司に至るまで、外は藩司・臬司・守令、提督・鎮将・将弁に至るまで、おおむね明の制度に倣ってこれに損益を加え、満・漢の人を併せ用いた。
  • また定めるところでは、八旗の都統・副都統・統領・駐防・将軍・都統・副都統は、いずれも兵部が名簿を開列して具題し補授する。陵寝を守衛する総管、翼領・白塔の監守、信砲総管、犠牲所の所収、黒竜江・吉林の水手を管する官は、みな八旗の公中から陞補する欠員であり、いずれも兵部が引見して補授する。在京の驍騎参領以下の官、駐防の協領以下の官は、各旗が引見して補授する。前鋒・護軍の参領以下の官は、それぞれの統領が引見して補授する。五品以上は兵部に咨して月末にまとめて具題し、六品以下は兵部に咨して注冊する。その駐防の嶺催から驍騎校に陞補する分は、月末のまとめての具題に付け加える。
  • 満洲・蒙古・漢軍の八旗を京城内に分置した。
  • 驍騎営・親軍・前鋒営・護軍営・領侍衛府・提督九門歩軍営・内府三旗・盛京八旗駐防・直省八旗駐防を設け、各省の形勢に応じて将軍・都統を置いた。あるいは城守尉・防守尉・直省の緑営兵だけを置いた。総督の所属を督標とし、巡撫の所属を撫標とし、提督の所属を提標とし、総兵の所属を鎮標とし、副将の所属を協標とし、河道総督の所属を河標とし、漕運総督の所属を漕標とした。外藩ジャサク(札薩克)の各旗、および陵寝を守衛する兵がある。

西暦1645年 清世祖順治二年

  • 夏閏六月、腳筋を割き耳鼻を貫き穿つ刑法を除いた。
  • 秋七月、御史十五員を増設した。

西暦1646年 清世祖順治三年

  • 夏四月、各府の掛銜で別に駐する推官、および大小の県の主簿を裁減した。

西暦1647年 清世祖順治四年

  • 冬十一月、四川総督一員を設けた。

西暦1648年 清世祖順治五年

  • 春二月、六部の漢尚書および都察院の漢都御史をそれぞれ一員設けた。
  • 夏四月、戸部十四司の漢主事をそれぞれ一人増やした。

西暦1651年 清世祖順治八年

  • 夏六月、在京の満・漢の諸臣が罪を犯した場合は、必ず旨を奉じて免職とし、そののち刑部に関送して審問することを定めた。
  • 秋七月、翰林院の官を内三院に分属させ、内翰林国史院・内翰林秘書院・内翰林弘文院と称した。

西暦1652年 清世祖順治九年

  • 春正月、都察院の御史四十員を増やした。
  • 夏四月、各道の御史二十員を裁減した。
  • 宗人府の衙門を設けた。

西暦1653年 清世祖順治十年

  • 夏四月、御史を二十員と定めた。
  • 六月、寺人(宦官)は四品を超えないものと制した。

西暦1654年 清世祖順治十一年

  • 夏六月、成例に照らして、太師・太傅・太保・少師・少傅・少保および東宮の三太・三少を、文武大臣の加銜として用いることとした。

西暦1656年 清世祖順治十三年

  • 春三月、満・漢の詞臣八人を選び、原の官銜のままで日講官に充てた。
  • 秋七月、内外の大小の官吏は、およそ贓を受けること十両以上の者は、律によって罪を定めるほか、枉法と不枉法とを分かたず、いずれもその家産を籍没して官に入れることを定めた。
  • 各省の守催銭の満官を撤去した。
  • 八月、三年に一度の大閲を命じ、これを例と定めた。
  • 満官を遣わして関の税を榷することを停めた。
  • 冬十月、毎年六月内に立決の重犯を審定し、七月を待って具奏して法に正すことを定めた。
  • 六科の漢軍副理事官を裁減した。

西暦1658年 清世祖順治十五年

  • 夏五月、直隷総督を裁減し、改めて巡撫一員を設けた。
  • 秋七月、殿閣大学士を設け、内三院の秘書・弘文・国史という名称を除き去った。
  • 各道の御史三十員を増設した。
  • 閩・浙両省の総督をそれぞれ一員ずつ分けて設けた。
  • 九月、中和殿・保和殿・文華殿・武英殿・文淵閣・東閣の大学士を設けた。
  • 冬十一月、宮闈の女官の名数・品級および供事の宮女の名数を定めた。乾清宮は夫人一、秩は一品。淑儀一、二品。婉侍六、三品。柔婉二十、芳婉三十、いずれも四品。尚宮局は尚宮・司紀・司簿各二、司聞四、女史六。尚儀局は尚儀一、司薬二、司籍・司宝・司賛各四、女史三。尚服局は尚服一、司仗四、司宝・司衣・司飾・女史各二。尚績局は尚績一、司製四、司珍・司彩・司計・女史各二。宮正司は宮正・女史各二で、いずれも六品。慈寧宮は貞容一、二品。慎容一、三品。勤侍は品級無し。

西暦1659年 清世祖順治十六年

  • 春正月、吏部に諭した。「旧制では内閣にはただ大学士および典籍・撰文・辦事の中書があるのみで、もとより学士・侍読学士などの員は無かった。いま現在の満・漢の学士はいずれも原の官のまま留任させ、今後は重ねて補ってはならない。典籍・撰文・辦事の中書は旧に照らして満・漢を兼ね設ける。その満官の侍読学士以下の各員は、いずれも中書舎人と改め、なお現在の品級に照らして加銜せよ。用いるべき員数は、職掌を調べ照らし合わせ、内閣と会同して議して奏せよ。翰林院は満・漢の掌院学士を設けるほか、重ねて満・漢の翰林官を設ける必要はない。」
  • 閏三月、誣告の禁を重ねて厳しくした。
  • 五月、旧例に照らして侍読学士・侍講学士、侍読・侍講をそれぞれ三員設けた。
  • 冬十月、進士は庶吉士を除くほかは、いずれも推官・知県に用い、知州に除授してはならぬと定めた。品級の隔たりが大きすぎるからである。

西暦1660年 清世祖順治十七年

  • 春正月、士子がみだりに社の名を立てることを禁じた。科の衆が会盟し、その名刺を投じて往来するに当たっても、「同社」「同盟」の字様を用いることを許さず、違う者は罪に処することとした。
  • 三月、八旗の漢字の官名を定めた。固山額真は、漢字では都統と称する。梅勒章京は、漢字では副都統と称する。甲喇章京は、漢字では参領と称する。牛彔章京は、漢字では佐領と称する。昂邦章京は、漢字では総管と称する。満字はみな旧のままとした。
  • 秋七月、御史を遣わして各省を巡按させることを停めた。
  • 冬十一月、やはり巡按御史を設けた。

西暦1661年 清世祖順治十八年

  • 夏五月、各省の巡按の差遣を停めた。
  • 秋七月、ふたたび内閣を改めて内三院とした。
  • 進士の観政の例を罷めた。
  • 八月、直省にそれぞれ総督一員を設けることを定めた。
  • 九月、直隷・山西・山東・河南・雲南の五省に提督を増設した。
  • 冬十月、順天巡撫を裁減し、保定巡撫に帰して兼管させた。直隷にすでに総督を設けたからである。
  • 十二月、営の千総を正六品、把総を正七品と定めた。
原文(底本)
明神宗萬厯十五年,春正月,滿洲始定國政。禁悖亂,戢盜賊,法制以立。

  四十三年,冬十一月,滿洲置理政聽訟大臣五人,札爾固齊(蒙古語理事官也)十人佐理國事。凡有聽斷之事,先經札爾固齊十人鞠訊,然後言於五大臣。五大臣親行覆審,然後言於諸貝勒。眾議既定,猶恐有冤抑,國主更詳問之,詳慎訟獄,國人稱之。 十二月,滿洲定兵制。先是萬厯十一年,滿洲以甲十三副攻圖倫城,破之,益厲兵力,得以次削平諸部。初定出兵校獵,不計人數之多寡,各隨族黨屯寨而行。每人各取一矢,凡十人設長一人領之,其長稱為牛录額真。後於二十九年正月間,以諸國倈服人眾,編三百人為一牛录,每牛录設一額真(後改稱為牛录章京,即佐領),至五牛录設一甲喇額真(後改稱甲喇章京,即參領),五甲喇設一固山額真(後改稱固山章京,即都統),每固山額真左右設兩梅勒額真(後改稱梅勒章京,即副都統)。初設有四旗,旗以純色為別,曰黃、曰紅、曰藍、曰白。至是增設四旗,參用其色鑲之,幅之黃、白、藍者,緣以紅;幅之紅者,緣以白,共為八旗。行軍時地廣則八旗並立,地狹則八旗合一路而行。軍士禁喧囂,行伍禁攙越。當兩軍交戰,被堅甲執長矛大刀者為前鋒,被輕甲善射者自後衝擊,俾精兵立馬他處,相機接應焉。

  四十六年,夏四月,滿洲頒定練兵之制。其法,每一牛录製雲梯二,出甲二十以備攻城。凡兵士自出兵日以至班師,各隨牛录勿離,如離本纛,執而詰問之。甲喇、牛录等管官不以所頒法令申誡眾軍者,各罰馬一匹。若諭之不聽,敢違軍令者,論死。凡攻城,不得一二人爭先競進,若一二人輕進致受損傷者,賞不及,雖戰死,不為功。迨列陣既定,然後先登者,始錄其功,有一二人先登陷城者,即馳告本旗大臣。俟一軍畢登,然後鳴螺,俾眾軍聽螺聲而並進焉。

  四十八年,春三月,滿洲改設八旗官,分總兵官為三等,其副將、參將、遊擊亦如之。各牛录額真俱為備禦官,每牛录下設千總四人。後設蒙古、漢軍各八旗,其旗色與滿洲八旗同。 夏六月,滿洲設納言之木於門外,赴訴者,書其狀而縣之木。

  熹宗天啟六年,秋九月,滿洲主皇太極嗣位,集諸貝勒議定官制。初,滿洲主努爾哈赤起自部落,諸事草剏,設官甚簡,其後削平諸部,剏制八旗,每旗設總管大臣(即固山額真)一,佐管大臣(即梅勒額真)各二,又設理政大臣五,札爾固齊十,往往即以總管或佐管等兼之,不皆分授。至是建議,每旗仍各設總管大臣一,是為八大臣,凡議國政,與諸貝勒偕坐,共議之;出獵行師,各領本旗兵行,一切事務,皆聽稽察。其佐管大臣,每旗仍前設各二,此十六大臣,贊理本旗事務,不令出征。又每旗各設調遣大臣二,此十六大臣出兵駐防,以時調遣。所屬詞訟,仍令審理。(後為駐防副都統、前鋒統領、護軍統領諸職)

  思宗崇禎二年,春三月,滿洲定蒙古軍例。 夏四月,滿洲設立文館,命儒臣分職,一繙譯漢字書籍,一記註朝政得失。 秋八月,滿洲定行軍賞罰例。

  四年,春二月,滿洲定出征軍例。 秋七月,滿洲設立六部,每部以一貝勒主之(),各有滿洲、蒙古、漢承政()一,參政八()。惟工部則十員,滿八,蒙、漢各二。啟心郎(即繙譯員)一,惟工部二,滿、漢各一,筆貼式無定額,視各部之事務繁簡而補授之。

  五年,春二月,滿洲主諭刑部禁賭博,定城守官三年考察之例。

  九年,春三月,滿洲改文館為內三院。一名內國史院,設大學士一,學士一;一名內秘書院,設大學二,學士一;一名內弘文院,設大學士一,學士二。 夏五月,滿洲設都察院。

  十年,夏四月,命貝子堪羅託博議國政。每旗復設議政大臣五員。

  十一年,夏六月,滿洲設理藩院,專治蒙古諸部事。 秋七月,滿洲更定部院官制。先是部院諸衙門設滿洲、蒙古、漢承政各三四員,其餘皆為參政,凡二等。至是大學范文程等奏請每衙門止設滿洲承政一員,以下酌量設左右參政、理事、副理事、啟心郎、額者庫()各官,凡五等。從之。

  清世祖順治元年,冬十月,帝入京師,即位,定內外文武官制。內自閣部至庶司,外藩臬守令,提鎮將弁,略訪明制而損益之,兼用滿、漢人。 又定八旗都統、副都統、統領、駐防、將軍、都統、副都統,均由兵部開列具題補授。守衛陵寢總管、翼領白塔監守,信礮總管、犧牲所所收,黑龍江、吉林管水手官,皆係八旗公中陞補之缺,均由兵部引見補授。在京驍騎參領以下官,駐防協領以下官,由各旗引見補授。前鋒護軍參領以下官,由各該統領引見補授。五品以上,咨兵部月終彙題,六品以下,咨兵部註冊。其駐防嶺催陞補驍騎校,附入月終彙題。 分置滿洲、蒙古、漢軍八旗於京城內。 設驍騎營、親軍、前鋒營、護軍營、領侍衛府、提督九門步軍營、內府三旗、盛京八旗駐防、直省八旗駐防,隨各省形勢設將軍、都統。或但設城守尉、防守尉、直省綠營兵。總督所屬爲督標,巡撫所屬爲撫標,提督所屬爲提標,總兵所屬爲鎮標,副將所屬爲協標,河道總督所屬爲河標,漕運總督所屬爲漕標。外藩札薩克各旗(凡二十五部,爲五十一旗),守衛陵寢兵。

  二年,夏閏六月,除割腳筋及貫穿耳鼻法。 秋七月,增設御史十五員。

  三年,夏四月,裁各府掛銜別駐推官及大小縣主簿。

  四年,冬十一月,設四川總督一。

  五年,春二月,設六部漢尚書及都察院漢都御史各一員。 夏四月,增戶部十四司漢主事各一。

  八年,夏六月,定在京滿漢諸臣犯罪,必奉旨革職,然後關刑部審問。 秋七月,以翰林院官分隸內三院,稱內翰林國史院、內翰林秘書院、內翰林弘文院。

  九年,春正月,增都察院御史四十員。 夏四月,裁各道御史二十員。 設宗人府衙門。

  十年,夏四月,定御史爲二十員。 六月,制寺人不過四品。

  十一年,夏六月,照成例以太師、太傅、太保、少師、少傅、少保及東宮三太、三少用爲文武大臣加銜。

  十三年,春三月,選滿漢詞臣八人,以原銜充日講官。 秋七月,定內外大小官員,凡受贓十兩以上者,除依律定罪外,不分枉法不枉法,俱籍其家產入官。 撤各省守催錢滿官。 八月,命三年一大閱,定爲例。 停遣滿官榷關。 冬十月,定每年六月內審定立決重犯,俟七月具奏正法。 裁六科漢軍副理事官。

  十五年,夏五月,裁直隸總督,改設巡撫一員。 秋七月,設殿閣大學士,除去內三院秘書、弘文、國史諸名稱。 增設各道御史三十員。 分設閩、浙兩省總督各一。 九月,設中和殿、保和殿、文華殿、武英殿、文淵閣、東閣大學士。 冬十一月,定宮闈女官名數品級及供事宮女名數:乾清宮夫人一,秩一品;淑儀一,二品;婉侍六,三品;柔婉二十,芳婉三十,俱四品;尚宮局尚宮、司紀、司簿各二,司聞四,女史六;尚儀局尚儀一,司藥二,司籍、司寶、司贊各四,女史三;尚服局尚服一,司仗四,司寶、司衣、司飾,女史各二;尚績局尚績一,司製四,司珍、司彩、司計,女史各二;宮正司宮正、女史各二,俱六品;慈寧宮貞容一,二品;慎容一,三品;勤侍無品級。

  十六年,春正月,諭吏部:舊制內閣止有大學士及典籍、撰文、辦事中書,原無學士、侍讀學士等員,今見在滿漢學士俱以原官留任,嗣後不必再補,典籍、撰文、辦事中書照舊滿漢兼設,其滿官侍讀學士以下各員,俱改爲中書舍人,仍照見在品級加銜。應用員數,察照職掌,會同內閣議奏。翰林院設滿漢掌院學士外,不必再設滿漢翰林官。 閏三月,申嚴誣告之禁。 五月,照舊例設侍讀學士、侍講學士,侍讀、侍講各三員。 冬十月,定進士除庶吉士外,著俱以推官、知縣用,不得除授知州。因品級太懸也。

  十七年,春正月,禁士子不得妄立社名。科衆會盟,其投剌往來,亦不許用同社、同盟字樣,違者治罪。 三月,定八旗漢字官名。固山額真,漢字稱爲都統;梅勒章京,漢字稱爲副都統;甲喇章京,漢字稱爲參領;牛彔章京,漢字稱爲佐領;昂邦章京,漢字稱爲總管。滿字皆依舊。 秋七月,停遣御史巡按各省。 冬十一月,仍設巡按御史。

  十八年,夏五月,停各省巡按差。 秋七月,復改內閣爲內三院。 罷進士觀政例。 八月,定直省各設總督一員。 九月,增設直隸、山西、山東、河南、雲南五省提督。 冬十月,裁順天巡撫,歸保定巡撫兼管,以直隸已設總督故也。 十二月,定營千總爲正六品,把總爲正七品。

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