清史紀事本末三藩の起事と孫延齢(三藩起事及孫延齢)

要約

康熙元年五月、雲南平定の功で呉三桂を親王に進封した。世祖の世、孔有徳は広西、尚可喜・耿仲明は広東、三桂は四川・雲南を平定して留鎮し、有徳は子無く爵を除かれ、仲明の子継茂が福建に移り精忠が嗣いで三藩が並んだ。三桂は長子応熊を京師に留めて朝政を知らせ、禍心を包み隙をうかがった。世祖の崩御には兵を擁して弔問に入り、朝廷は変を恐れ城外で哭礼させた。

六年、帝は親政して中央集権を志し藩鎮を警戒、諸藩は自ら安んぜず、七月、三桂は目疾と偽り雲貴の事務の解任を請い朝意を試した。帝は藩務を総督・巡撫に管さしめ、卞三元らの復帰の請も許さなかった。

十二年三月、尚可喜が隠退を請い、朝議は之信の跋扈を慮り藩をあげ帰籍させ、七月、米思翰らの同時撤去論で耿精忠に入京、三桂に山海関外への移鎮を命じた。十一月、撤藩の使者が将吏を凌辱し、三桂は永暦帝の陵に慟哭、撫臣朱国治を諸将に殺させ、天下都招討兵馬大元帥と称し翌年を周元年とした。曹申吉・李本深・張国柱が応じ、雲貴総督甘文焜は自殺した。十二月、勒爾錦を寧南靖寇大将軍とし荊州に赴かせた。

十三年正月、馬宝が沅州・常徳を陥れ長沙・岳州も降り四川も応じた。二月、孔有徳の婿孫延齢が広西で反し安遠大将軍と称し臨江王に封ぜられ、三月、耿精忠が福建で反し裕民と建元、曾養性ら三路が浙江・江西を侵し、鄭経らと広東挟撃を約し、弟耿聚忠の招諭も拒み、希爾根が討った。四月、三桂の子応熊と長孫世霖に死を賜い、江西の軍は三十余城を陥れた。九月、劉進忠が福建兵を潮州に引き入れ馬雄らも三桂に降り、岳楽を広東へ遣った。十二月、王輔臣が寧羌州で叛き莫洛を殺し、帝は諸将の遷延を責め親征を議したが止めた。

十五年二月、尚之信が叛き三桂に降り輔徳親王に封ぜられ、父可喜は憂死した。六月、図海が王輔臣を平涼で破り降し、九月、傑書が馬九玉を衢州に破り白顕忠も降り、十月、耿精忠が延平で降り、爵を返して部衆を統べさせた。十二月、耿昭忠を鎮閩将軍とし福州に駐守させ、反正を図った孫延齢は馬雄の訴えで三桂の従孫琮に桂林で殺された。十六年五月、糧餉に苦しんだ尚之信が莽依図を迎え降り平南王を襲いだ。

十七年三月、三大援と江西を失った三桂は衡州で帝を称し、国号を大周、昭武と建元、暦を頒り人心をつないだが、明を復すと檄した初めと異なり孤を称するに及び天下は離散した。六月、永興を囲んで抜けず、八月、三桂が没し孫の世璠が洪化と改元、馬宝らに三方から攻めさせたが、三桂の死で囲みは解けた。十九年八月、尚之信は弟之孝と王国棟に罪を仕立てられ、金儁が獄を上聞、国棟を誘殺した李天植は謀反に坐して誅せられ、死んだ者百八人、之信は死を賜い、之節・之瑛・之璋も斬に坐した。

二十年十月、応麒は岳州を棄て、傅宏烈らは桂林、王進宝は漢中、趙良棟は成都を落とし、彰泰は三道の軍を合わせ雲南を囲み、呉世璠は自殺し雲貴が平定された。二十一年正月、弟昭忠らの訴えで耿精忠を磔にし、顕祚・曾養性・劉進忠も斬った。藩財は籍没して軍餉に充て、藩兵は京師に帰し、要省に八旗を駐防させ兵・爵・土地を世襲させず、中央集権の制が備わった。

編者はいう。藩の変の初め、清朝は漢人の武臣を猜疑し諸方面を王・貝勒に督させたが、将帥は紈袴で軍旅を知らず、三桂の席巻に二心を抱き襄陽以北を挙げて降ろうとする者もあり、蔡毓栄が持ちこたえた。岳州城下に八年屯し戦わず、三桂の死で兵が退くと勝報を聞き進んだ。事が平らぐと諸将は賞を蒙ったが、趙良棟は弾劾されてほとんど免れず、蔡毓栄は吏議で爵を奪われ職を削られ、九華寺で剃髪した、と。

年表

清初、南方平定の功で雲南に封じられた平西王呉三桂、広東の平南王尚可喜、福建の靖南王耿精忠の三藩が割拠し、聖祖が撤藩に踏み切ったことから起きた大乱の顛末を記す。康熙元年(1662年)の呉三桂進封から康熙二十一年(1682年)の耿精忠処刑まで、約二十年間を扱う。康熙十二年の撤藩令に呉三桂が雲南で挙兵し、耿精忠・尚之信・孫延齢・王輔臣らが呼応して戦線は湖南・江西・福建・広東・広西・四川・陝西に広がった。呉三桂は衡州で帝を称したがまもなく没し、孫の呉世璠が雲南で自殺して乱は終息する。三藩の財産は籍没され藩兵は撤され、以後は八旗の駐防に改められて中央集権の制が整った。

年表(10件)

現代語訳全文

西暦1662年 聖祖康熙元年

  • 夏五月、雲南平定の功を論じ、呉三桂を親王に進封した。
  • 初め、世祖が帝業を定めたころ、東南はしばしば静まらなかったので、定南王孔有徳に広西を、平南王尚可喜と靖南王耿仲明に広東を、平南王呉三桂(平西王の誤りか)に四川および雲南を、それぞれ巡って平定させた。
  • 南方がおおむね平定されると、諸王にそれぞれ配下の緑旗兵を率い、その地に留まって鎮守するよう命じた。そのとき孔有徳はすでに死んで子が無く、爵は除かれ、耿仲明も没して子の耿継茂が封を襲っていた。こうして呉三桂は雲南に王となり、尚可喜と耿継茂は広東に王となり、まもなく耿継茂は福建の王に移された(底本は「從」に作る。「徙」の誤りか)。継茂が没すると子の耿精忠が嗣いだ。これが三藩が並び立った始まりである。
  • 呉三桂は西征にあたり、長子の呉応熊を京師に留め、朝廷の意を安んじた。応熊はやがて公主を娶り、京師に住み、朝政は大小を問わず知り尽くさぬことがなかった。呉三桂はこれによって禍心を包み隠し、日々隙をうかがって動こうとした。世祖が崩御すると、三桂は兵を擁して弔問に入った。燕(北京)に至った先駆けの人馬が道をふさぎ(底本は「前驅至燕者。人馬塞途」に作り、句点の位置が乱れている)、住民は逃げ隠れ、朝廷はその変を恐れて、京城の外に幕を張り祭壇を設けさせた。三桂は哭礼を整えて去った。

西暦1667年 聖祖康熙六年

  • 秋七月、平西王呉三桂が目の病を理由に雲南・貴州両省の事務を解くことを求め、これを許した。帝は親政して中央集権の制を実行しようとし、藩鎮が強大であるのは国家の利でないと知って、ひそかにその備えをした。諸藩はここから自ら安んじなくなった。三桂は上疏して偽って目疾と称し、両省の事務を辞して朝廷の意を試したのである。帝は当該藩の管轄する各項の事務を総督・巡撫に責任をもって管理させ、大小の文官はみな部の題奏によって授けさせた。
  • 九月、雲貴総督卞三元、提督張国柱・李本深が連名で、平西王呉三桂に引き続き雲南・貴州の事務を総管させるよう請うた。手厚い詔で答えて言った。「該藩はみずから年齢と気力が衰えたとして(「年国」は「年力」の誤りか)、改派を奏請したのである。いま王に再び事務を処理させるのは、体恤を示すゆえんではない。軍機の重要な事があれば、王はおのずと処理を心得ていよう。」

西暦1673年 聖祖康熙十二年

  • 春三月、平南王尚可喜に藩を撤して遼東へ帰ることを命じた。当時、尚之信は父の愛を失っており、可喜は之信を廃して之孝を立てようとした。そこで上疏して遼東に隠退することを請い、之信を留めて広東を鎮めさせ、帝に見えて自ら事情を申し述べることを願った。朝議は、之信が衆を擁して広東に留まり、跋扈して制しがたくなることを慮り、藩をあげてことごとく帰籍させるよう請うた。
  • 秋七月、靖南王耿精忠に藩兵を統率して入京し旨を待つよう命じ、平西王呉三桂には山海関外へ鎮を移すよう命じた。精忠と三桂は広東の藩の撤去が許されたと聞き、同時に上疏して安置を請い、朝廷の意向を探った。当時、朝議では雲南の藩の請いには従うべきでないとしたが、尚書の米思翰・明珠・莫洛らは同時に撤去することを強く主張した。
  • 冬十一月、呉三桂が雲南で反した。当時、侍郎の哲可肯らが撤藩の命を奉じ(底本は「輸」に作る。「諭」の誤りか)、雲南で実行を甚だ急がせ、しばしばその将吏を凌辱したので、将吏はみな怒った。三桂は教(命令書)を下して諸将を集めて言った。「いま出発の期日は迫った。朝廷の厳しい譴責は逃れられぬ。ただ、かつての主君永暦帝の陵墓がここにある。別れを告げずにおられようか。」諸将はみな再拝して命を聴き、そこで日を卜して陵に詣でることとした。
  • 期日に先立って再び諸将を集めて言った。「旧主に別れを告げるには旧主の時の衣服で見えるべきである。諸君はあらかじめこれを図れ。」みな「承知」と答えた。当日、それぞれ漢官の威儀を具えて陵下に集まり、三桂は方巾・素服で酒を地に注ぎ、山呼して再拝し、慟哭して地に伏し起き上がれなかった。三軍もみな哭し、声は雷のように震えた。人々は異志を抱いた。
  • 出発しようとして、三桂はまた病と称して起きなかった。撫臣の朱国治がこれを急き立てると、三桂は堅く臥して応じず、諸将を激して言った。「老夫と諸君は王室に大勲がある。章皇帝は老臣を不肖とせず、藩封を賜い、それは盟府に記されている。いま撫臣は一介の外吏でありながら、我らを凌ぐことこの通りだ。ひとたび獄門に入って廷尉に付されれば、我らに生きる道があろうか。」諸将は憤然と出て、撫臣を襲い捕らえて殺した。三桂は檄を遠近に回し、兵を発して反し、みずから天下都招討兵馬大元帥と称し、翌年を周の元年とした。貴州巡撫曹申吉、貴州提督李本深、雲南提督張国柱はみな起ってこれに応じた。雲貴総督甘文焜は変を聞き、貴陽から鎮遠に赴き、戦いに敗れて自殺した。
  • 十二月、順承郡王勒爾錦を寧南靖寇大将軍とし、軍を統べて荊州に赴かせ呉三桂を討たせた。先に都統巴爾布らを遣わして満洲の旗兵を率いて常徳を守らせ、都統珠満らには歩兵三千で岳州を守らせた。都督尼雅翰・赫業席布根(「赫業」「席布根」の2名か)・特穆占・佟国瑤らは、西安・漢中・安慶・袞州(「兗州」の誤りか)・鄖陽・汝寧・南昌の諸要地に分かれて馳せ、調遣を聴かせた。また雲南と四川は境を接するので、西安将軍瓦爾哈に騎兵を率いて四川へ赴かせた。

西暦1674年 聖祖康熙十三年

  • 春正月、呉三桂は大将の馬宝を遣わして湖南を侵し、沅州・常徳を陥れ、澧州・長沙・岳州が相次いで降った。同時に四川巡撫羅森、提督鄭懐麟、総兵(原文「総後」は「総兵」の誤りか)譚洪・呉之茂が、四川をあげて三桂に応じた。
  • 二月、撫蛮将軍孫延齢が広西で反し、呉三桂に応じた。三桂は臨江王に封じた。延齢は孔有徳の娘四貞の婿で、初め和碩額駙・内輔政大臣・都勒機昂邦を授けられ、一等阿思尼哈番を世襲した。順治十七年、鎮守広西将軍を授けられ、まもなく上柱国・光禄大夫に特進した。三桂が反すると、朝議は広西の境が貴州に隣接するのを考えて、延齢に撫蛮将軍を授け、厳重に兵を備えて固守させたが、ここに至って叛き、みずから安遠大将軍と称した。
  • 三月、耿精忠が福建に拠って反し、みずから総統天下兵馬大将軍と称した。裕民元年、三路に分かれて出寇し、曾養性は東路に出て浙江の温州・台州を占め、白顕忠は西路に出て江西の広信・建昌・饒州を占め、馬九玉は中路に出て浙江の金華・厳州および衢州・徽州を占めた。また台湾の鄭経、潮州の劉進忠と約して、内外から広東を挟撃しようとした。帝はその弟の耿聚忠を福建に遣わして招諭させたが、衢州まで至ったところで拒まれて入れられなかった。内大臣希爾根を定南大将軍とし、軍を率いてこれを討たせた。
  • 夏四月、呉三桂の子の応熊および長孫の世霖に死を賜った。当時、三桂は新たに常徳に赴いて兵を督し、甥の呉応麟に岳州を守らせ、澧州・石首・華容・松滋の間に重兵を配して犄角の勢とした。討伐に赴く諸軍は荊州に雲集したが、あえて一部隊を遣わして江を渡り角逐しようとする者はなかった(底本は「赴剿諸軍。雲集荊州」に作り、句点の位置が乱れている)。ここに至って貝勒尚善を安遠靖寇大将軍とし、勒爾錦を助けて岳州攻略を進めさせた。三桂は兵を分け、一方は長沙から江西へ出し、一方は四川から陝西をうかがわせた。江西へ出た軍は袁州・吉安の境に分かれて騒ぎ、耿精忠の軍と合し、三十余城を陥れ、声勢は甚だ盛んであった。
  • 秋九月、安親王岳楽を定遠平寇大将軍とし、軍を率いて広東へ赴かせた。当時、潮州総兵(原文「総後」は「総兵」の誤りか)劉進忠はひそかに耿精忠と通じ、福建兵を潮州に引き入れ、広西提督馬雄、左江総兵郭義はともに呉三桂に降り、広西全省が震動した。
  • 冬十二月、帝は親征を議した。当時、陝西提督王輔臣が寧羌州で叛き、経略の莫洛を劫かして殺し、定西大将軍貝勒董額は漢中に退いて守った。帝は兵を統べる諸将帥が指授に従わず、遷延して観望し、この変を招いたと厳しく責め、親征の議を下したが、のちに群臣が力を尽くして諫めたので、取りやめた。

西暦1676年 聖祖康熙十五年

  • 春二月、尚之信が叛いて呉三桂に降り、三桂は之信に招討大将軍を授け、輔徳親王に封じた。これより先、之信の父の可喜は、東西に敵を受け、また内では之信に抑えられ、力が支えきれず、援軍を乞うた。詔して鎮南将軍舒恕、副都統莽依図に兵を率いて赴かせた。之信は軍が至ったと聞き、旗を改め服を易えて変を起こし、厳重に兵を置いて可喜の府を守り、檄を諸郡に回し、兵を出して江西を侵犯した。可喜はまもなく憂いのうちに没した。
  • 六月、撫遠大将軍都統図海らが、王輔臣を平涼城の北で撃ち破り、輔臣は降った。
  • 秋九月、康親王傑書の兵が福建に入り、馬九玉の軍を衢州で破った。当時、白顕忠は広信に兵を止めていたが、窮迫して降を乞うた。
  • 冬十月、傑書の兵が延平に至り、耿精忠が降った。当時、精忠は両路の軍がともに覆り、また内では鄭氏に迫られ、延平がすでに失われたと聞いて大いに恐れ、子の顕祚を延平に遣わし、軍を迎えて福州に至らせた。精忠は配下の文武を率いて出降し、帝は精忠の爵を返し、その部衆を統べさせた。
  • 冬十二月、額駙耿昭忠を鎮閩将軍(原文「鎮閲将軍」は「鎮閩将軍」の誤りか)とし、福州に駐守させた。
  • この月、呉三桂は従孫の呉琮を遣わして兵を率いて桂林に入らせ、孫延齢を捕らえて殺した。延齢はもとより馬雄と恨みがあり、雄はすでに三桂に降り附いて、三桂は雄を東路総督としていた。延齢は雄と事を共にしたが、彼に己が脅かされるのを畏れ、そこで再び反正(清に帰順し直すこと)の意を萌した。その妻の孔四貞は日夜、恩徳を説いて、順に帰るよう勧め、計はすでに決していた。雄はこれを偵知し、三桂に訴えて、延齢に異志があるから急ぎ除くべきだと言い、ついに害された。

西暦1677年 聖祖康熙十六年

  • 夏五月、莽依図の兵が韶州に入り、尚之信が降った。これより先、之信は三桂の糧餉徴発に苦しみ、かなり悔いる志を萌していたが、ここに至って莽依図の軍が至ったと聞き、軍民を率いて迎え降った。詔して之信に平南王の爵を襲がせた。

西暦1678年 聖祖康熙十七年

  • 春三月、呉三桂が衡州で帝を称し、国号を大周、建元して昭武とし、まもなく利用と改めた。衡州府を昇格して定天府とした。当時、三桂はすでに陝西・福建・広東の三大援を失い、また江西をも失って、領域は日々狭まり、財力も次第に尽きた。大勢すでに去ったと知り、将士が離散するのを恐れ、偽って威重を示して人心をつなごうとした。そこで号を建て元を改め、官を置いて封拝を行い、新しい暦を制定して頒ち、雲南・貴州の郷試を挙行し、遠近に号召した。三桂が初め事を起こしたときは、檄文で明を復すことを言葉としたので、洛邑の頑民がなお禄父を思ったように、義旗をひとたび指せば所々で呼応した。西南で孤(帝王の自称)を称し、みだりに尊大にふるまったと聞くに及んで、天下は離散し、才を競って集まる者も、みなこれを屈服させようと思うようになった。
  • 夏六月、呉三桂の兵が永興を攻めたが、抜けず、これを囲んだ。
  • 秋八月、呉三桂が没し、孫の世璠が嗣立して洪化と改元し、将の馬宝らを遣わして三方から永興を囲み攻め、城は陥落寸前となった。この戦役では、三桂は永興を衡州の門戸として、必ず得ようとしていた。当時、簡親王喇布の軍は茶陵に屯していたが、あえて救わず、穆占は郴州にあって兵を遣わして援けたが、これもあえて進まなかった。都統伊里布、副都統哈克山が相次いで戦死し、前鋒統領碩岱らが力を協せて死守したが、城はしばしば危機に瀕した。ちょうど三桂が死に、諸将は営を抜いて衡州に帰ったので、囲みは解けた。

西暦1680年 聖祖康熙十九年

  • 秋八月、平南王・和碩額駙の尚之信に死を賜った。之信は降ってのち、広西征討に従い、宣武に駐軍した。ちょうどその弟の之孝が藩位を襲おうと謀り、藩下の人の張士選を京に遣わして之信を訴えさせ、之信は心に怨望を抱き、放言して上を誹謗していると言わせた。都統王国棟という者は、もと旗下の逃亡人であったが、之信が愛して心腹として頼っていた。ここに至って彼もまた之孝に附き、罪状を仕立てた。朝廷は侍郎の宣昌河らに命じて馳せ向かわせ取り調べさせた。之信は詔を聞くと、ただちに印を解いて広州に還り、上疏して罪を待ち、詔により京に送られて対決の取り調べを受けた。李天植という者は藩下の総兵であったが、国棟が主を売ったことを憎み、誘い出して殺した。撫臣の金儁は之信の富を羨み、賄賂を求めて得られず、罪に陥れてその獄を上聞した。天植は謀反に坐して誅に伏し、同時に死んだ者は百八人、之信には死を賜い、之節・之瑛・之璋もあわせて斬に坐した。

西暦1681年 聖祖康熙二十年

  • 冬十月、定遠平寇大将軍彰泰らが中路から分かれて雲南に入り、呉世璠(原文「英世璠」は「呉世璠」の誤りか)が自殺し、雲南・貴州が平定された。
  • 初め、世璠は立ったのち衡陽に居ることができず、退いて貴州に駐まり、四川・湖広・貴州を屏蔽として頼んだ。当時、湖南には安親王、広西には傅宏烈ら、四川には平涼提督王進宝、陝西提督趙良棟がおり、みな戦うたびに勝った。呉応麒は岳州から常徳へ走り、まもなくまた城を棄てて遁れ、長沙・衡州が相次いで下った。同時に宏烈らもまた桂林を攻め落とし、進宝は漢中を落とし、王屏藩は保寧に退いて守ったが、ほどなく自殺した。良棟もこの時に成都を落とした。ちょうど朝廷は貝子彰泰を岳楽に代え、雲南・貴州を進み取らせ、総督蔡毓栄に漢兵を節制して先に進ませ、広西・四川・陝西三道の軍に檄して合わせて雲南・貴州に向かわせ、自らは湖南を平定した軍を率いて沅州に出、平越を経て貴陽に向かった。世璠は雲南へ走った。毓栄は勝ちに乗じて西進し、頼塔と曲靖で会師した。軍が雲南に至ると、良棟が四川の軍を率い、頼塔の福建・広東の軍もまた至って、合囲してこれを攻め落とし、世璠は自刎して死に、雲南・貴州はことごとく平定された。

西暦1682年 聖祖康熙二十一年

  • 春正月、靖南王・和碩額駙の耿精忠を磔にし、あわせてその子の耿顕祚、および曾養性・劉進忠らを斬った。精忠は降ってのち、康親王に従って福建を征し、興化・漳州・泉州などの郡を回復し、鄭経を追って台湾に入らせた。ちょうどその弟の昭忠が、藩下の参領徐鴻弼らをそそのかして部に赴かせ、精忠は帰順した後もなお不軌の志を蓄えていると訴えさせ、同時に昭忠もまた上疏して告げた。そこで精忠を召して入朝させたが、その時は精忠の配下の都統馬九玉がなお兵権を握っていたので、あえてその罪を暴き立てなかった。雲南・貴州が平定され、九玉が任を解かれて旗に帰るに及んで、はじめて精忠を市で磔にした。三藩はことごとく平定され、藩の財産はすべて籍没して軍餉に充て、藩兵を撤して京師に帰し、各地の要となる省・郡には八旗兵を置いて駐防させ、二度と兵・爵・土地を代々臣下に与えることはしなかった。こうして封建の藩の弊は絶え、中央集権の制もまた次第に完備していった。

史論(編者曰)

  • 編者は言う。藩の変が起こりはじめたころ、清の朝廷は漢人の武臣を猜疑することがいよいよ甚だしく、諸方面はみな王・貝勒に軍を督させたが、その将帥はみな紈袴(富貴の家の子弟)で、そもそも軍旅が何であるかを知らなかった。呉三桂が席巻して出て、至るところ風になびくように帰順するのを見ると、諸将もそれぞれ二心を抱き、襄陽以北を挙げて降ろうとする者さえあった。綏遠将軍蔡毓栄がこれを持ちこたえたことによって、それは免れた。それゆえ岳州城下に兵を屯して八年戦わず、諸将はみな営塁を閉ざし、壁上観(高みの見物)を決め込んだ。三桂が死ぬと、その兵は自ら退いた。また東西両路がたびたび勝報を奏したと聞いて、ようやくやむを得ず兵を進めた。事が平定されると、諸将はみな上からの賞を蒙ったが、東西両路にはかえって敗亡を理由に罪を得る者があった。趙良棟は弾劾されてほとんど免れず、蔡毓栄はついに吏議にかかって爵を奪われ職を削られ、九華寺で剃髪するに至った。
原文(底本)
聖祖康熙元年,夏五月,敘平滇功,進封吳三桂親王。初,世祖定鼎,東南時有不靖,因命定南王孔有德循廣西,平南王尚可喜、靖南王耿仲明循廣東,平南王吳三桂循四川及雲南。及南方略定,命諸王各帥所部綠旗兵,留鎮地方。時有德已死,無子,爵除,仲明亦卒,子繼茂襲封,於是王雲南,可喜繼茂王廣東,尋從繼茂王福建。繼茂卒,子精忠嗣,是爲三藩並建之始。三桂西征,留長子應熊於京師,以固朝廷意。應熊旋尚主,居京師,朝政巨細,無所不悉。三桂以是包藏禍心,日伺釁以動。世祖賓天,三桂擁兵入臨,前驅至燕者。人馬塞途,居民走匿,朝廷恐其爲變,令於京城外張幕設奠,三桂哭臨成禮而去。

  六年,秋七月,平西王吳三桂以目疾求解雲貴兩省事務,許之。帝親政,欲實行中央集權之制,知藩鎮強大非國家之利,陰爲之備,而諸藩始不自安。三桂因上疏詭稱目疾,疏辭兩省事務以相嘗試。帝令將該藩所管各項事務責令該督撫管理,其大小文官均由部題授。 九月,雲貴總督卞三元,提督張國柱、李本深合詞請命平西王吳三桂仍總管滇黔事務,優詔答曰:「該藩自以年國就衰,奏請改派。今若令王復理事務,非所示體恤。遇有軍機重要,王自知料理也。」

  十二年,春三月,命平南王尚可喜撤藩回遼。時之信失愛於父,可喜欲廢之,而立之孝,因疏請歸老遼東,留之信鎮粵,冀得見帝自陳也。廷議慮之信擁衆留粵,跋扈難制,因請令盡從全藩回籍。 秋七月,命靖南王耿精忠統帥藩兵來京候旨,平西王吳三桂移鎮山海關外,精忠、三桂聞允撤粵藩,因亦同時疏請安插以探廷旨。時廷議請勿從滇藩,而尚書米思翰明珠、莫洛等則力主同撤。 冬十一月,吳三桂反於雲南。時侍郎哲可肯等奉命輸撤藩,在滇促行甚急,且時復凌辱其將吏,將吏皆怒,三桂乃下教會諸將曰:「今行期迫矣,朝廷之嚴譴不可逃也,惟事故君永歷帝之陵寢在焉,可無別乎?」諸將皆再拜聽命,於是卜日謁陵。先期復集諸將,謂之曰:「別故君當以故君之衣服見,諸君其預圖之。」皆曰:「諾。」至日,各具漢官威儀,集陵下,三桂方巾素服,酹酒,山呼再拜,慟哭,伏地不能起。三軍皆哭,聲震如雷。人懷異志,將行,復稱疾不起。撫臣朱國治驅之急,三桂堅臥不應,激諸將曰:「老夫與諸君有大勳於王室,章皇帝不以老臣爲不肖,錫之藩封,載在盟府。今撫臣一外吏,相凌乃爾,一旦入圜門,付廷尉,我輩豈有生路耶?!」諸將忿然出,襲執撫臣殺之,三桂乃移檄遠近,發兵反,自稱天下都招討兵馬大元帥,以明年爲周元年。貴州巡撫曹申吉,貴州提督李本深,雲南提督張國柱皆起應之。雲貴總督甘文焜聞變,自貴陽趨鎮遠,戰敗自殺。 十二月,命順承郡王勒爾錦爲寧南靖寇大將軍,統師赴荊州討吳三桂。先遣都統巴爾布等,帥滿洲旗兵守常德;都統珠滿等,以步兵三千守岳州。都督尼雅翰、赫業席布根、特穆占、佟國瑤等,分馳西安、漢中、安慶、袞州、鄖陽、汝寧、南昌諸要地,聽調遣。又以滇蜀接壤,命西安將軍瓦爾哈,帥騎兵赴川中。

  十三年,春正月,吳三桂遣其大將馬寶犯湖南,陷沅州常德,澧州、長沙、岳州相繼降。同時四川巡撫羅森,提督鄭懷麟,總後譚洪、吳之茂,以四川應三桂。 二月,撫蠻將軍孫延齡,反於廣西,以應吳三桂,三桂封為臨江王。延齡為孔有德女四貞之婿,初授和碩額駙、內輔政大臣、都勒機昂邦,世襲一等阿思尼哈番。順治十七年,授鎮守廣西將軍,尋特進上柱國光祿大夫。三桂反,廷議以廣西境隣貴州,授延齡為撫蠻將軍,令嚴兵固守,至是叛,自稱安遠大將軍。 三月,耿精忠據福建反,自稱總統天下兵馬大將軍。裕民元年,分三路出寇,曾養性出東路,據浙之溫台;白顯忠出西路,據江西廣信、建昌、饒州;馬九玉出中路,據浙之金嚴、衢徽。又約台灣鄭經、潮州劉進忠,內外夾擊廣東。帝使其弟聚忠赴閩招諭,至衢州,拒不納。命內大臣希爾根為定南大將軍,帥師討之。 夏四月,賜吳三桂子應熊及長孫世霖死。時三桂新赴常德督兵,而令其從子應麟守岳州,布重兵於澧州石首華、容松滋間,為犄角,赴剿諸軍。雲集荊州,無敢遣一旅渡江與之角者。至是命貝勒尚善為安遠靖寇大將軍,助勒爾錦進圖岳州。三桂乃分兵,一由長沙出江西,一由四川窺陝西。其出江西者,分擾袁州吉安境,與耿精忠之軍合,陷三十餘城,聲勢張甚。 秋九月,命安親王岳樂為定遠平寇大將軍,帥師赴廣東。時潮州總後劉進忠暗通耿精忠,引閩兵入潮州,廣西提督馬雄、左江總兵郭義,俱降吳三桂,廣西全省震動。 冬十二月,帝議親征。時陝西提督王輔臣叛於寧羌州,刦殺經略莫洛,定西大將軍貝勒董額退守漢中。帝切責統兵諸將帥,不遵指授,遷延觀望,致有此變,因下親征之議,後以羣臣力諫,乃止。

  十五年,春二月,尚之信叛降吳三桂,三桂授之信招討大將軍,封輔德親王。先是之信之父可喜,因東西受敵,又內制於之信,力不支,乞師往援。詔以鎮南將軍舒恕、副都統莽依圖,引兵赴之。之信聞師至,改幟易服以變,嚴兵守可喜府,移檄諸郡,出師侵犯江西。可喜尋以憂卒。 六月,撫遠大將軍都統圖海等,擊敗王輔臣於平涼城北,輔臣降。 秋九月,康親王傑書兵入閩,破馬九玉之眾於衢州。時白顯忠頓兵廣信,窮蹙乞降。 冬十月,傑書兵抵延平,耿精忠降。時精忠兩路之師俱覆,又內迫於鄭氏,聞延平已失,大懼,遣子顯祚赴延平,迎師至福州。精忠帥所屬文武出降,帝命還精忠爵,俾乃統其部眾。 冬十二月,以額駙耿昭忠為鎮閱將軍,駐守福州。 是月,吳三桂遣其從孫琮引兵入桂林,擒殺孫延齡。延齡故與馬雄有怨,雄既降附三桂,三桂以雄為東路總督。延齡與之共事,而畏其逼己,乃復萌反正之意。其妻孔四貞,日夜以恩德為言,勸其反順,計已決矣。雄偵知之,訏諸三桂,謂延齡有異志,宜急除之,遂被害。

  十六年,夏五月,莽依圖兵入韶州,尚之信降。先是之信苦三桂徵餉,頗萌悔志,至是聞莽依圖軍至,帥軍民迎降。詔之信襲平南王爵。

  十七年,春三月,吳三桂稱帝於衡州,國號大周,建元昭武,尋改利用。升衡州府為定天府。時三桂既失陝西、福建、廣東三大援,又失江西,疆宇日蹙,財力漸竭。知大勢已去,恐將士解體,欲偽示威重,以維人心,於是建號改元,置官封拜,頒製新厯,舉行雲貴鄉試,以號召遠近。三桂初發難時,檄文中以復明為詞,於是洛邑頑民,猶思祿父,故義旗一指,所在響應。及聞西南稱孤,妄自尊大,由是天下解體,角材而至者,皆思有以詘之矣。 夏六月,吳三桂兵攻永興,不克,圍之。 秋八月,吳三桂卒,孫世璠嗣立,改元洪化,遣將馬寶等三面環攻永興,城垂陷。是役也,三桂以永興為衡州門戶,勢在必得。時簡親王喇布軍屯茶陵,不敢救,穆占在郴州,遣兵來援,亦不敢進。都統伊里布、副都統哈克山相繼戰歿,前鋒統領碩岱等,協力死守,城屢瀕於危。會三桂死,諸將拔營回衡州,圍乃解。

  十九年,秋八月,平南王和碩額駙尚之信賜死。之信既降,從征廣西,駐軍宣武。會其弟之孝謀襲藩位,令藩下人張士選赴京控之,謂之信心懷怨望,放言訕上。都統王國棟者,故旗下逃人,之信愛之,倚為心腹,至是亦附之孝,構成罪狀,朝命侍郎宣昌河等馳往按問。之信聞詔,即解印還廣州,上疏待罪,詔解京對簿。李天植者,藩下總兵也,惡國棟賣主,誘殺之。撫臣金儁,艷之信富,索賄不得,羅致其獄以聞。天植坐謀反伏誅,同死者一百八人,之信賜死,之節、之瑛、之璋、並坐斬。

  二十年,冬十月,定遠平寇大將軍彰泰等,分中路入滇,英世璠自殺,雲貴平。初,世璠既立,不敢居衡陽,退駐貴州,恃川湖貴為屏蔽。時湖南有安親王,廣西有傅宏烈等,四川有平涼提督王進寶,陝西提督趙良棟,皆累戰累捷。吳應麒自岳州走常德,尋復棄城遁,長衡相繼下。同時宏烈等亦攻克桂林,進寶克漢中,王屏藩退守保寧,俄自殺。良棟亦於是時克成都,會朝廷以貝子彰泰代岳樂,進取雲貴,命總督蔡毓榮節制漢兵先進,檄廣西、四川、陝西三道之師,合趨雲貴,而自帥平定湖南之師出沅州,由平越趨貴陽。世璠走雲南,遂乘勝西進,與賴塔會師於曲靖。軍抵雲南,良棟帥川師,與賴塔閩粵之師亦至,合圍攻克之,世璠自刎死,雲貴悉平。

  二十一年,春正月,磔靖南王和碩額駙耿精忠,並斬其子耿顯祚,及曾養性、劉進忠等。精忠既降,從康親王征閩,收復興化、漳泉等郡,逐鄭經入臺灣。會其弟昭忠,嗾藩下參領徐鴻弼等,赴部首精忠歸順後,仍蓄不軌之志,同時昭忠亦具疏入告,因召精忠入朝,以其時精忠所屬都統馬九玉,尚握兵權,不敢據發其罪。及雲貴平,九玉解任歸旗,始磔精忠於市,三藩悉平,盡籍藩產充餉,撤藩兵回京師,而於各緊要省郡地方,設八旗兵駐防,不復以兵爵土地,世予臣下,於是封建藩之弊絕,而中央集權之制亦漸以完密矣。

  編者曰:方藩變之初起也,清廷猜忌漢武臣愈甚,諸路皆以王貝勒督軍,諸帥皆紈絝,固不知軍旅為何事。及見三桂席捲而出,所至望風歸附,諸將亦各懷二心,至有欲舉襄陽以北降者。賴綏遠將軍蔡毓榮持之以免,故屯兵岳州城下,八年不戰,諸將皆閉營壘,作壁上觀。至三桂死,其兵自退。又聞東西兩路,屢次奏捷,始不得已進兵。及事平,諸將皆蒙上賞,而東西兩路反有以敗亡致罪者。趙良棟被劾幾不免,毓榮竟罣吏議,奪爵削職,至披剃九華寺中。

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