清史紀事本末欧州人の通商・布教と和議の始まり(欧人通商、布教及和議之開始)

要約

康熙三年閏六月、オランダ国王に緞匹と銀両を頒った。順治十三年の互市の請いに八年一度の来航を許され、のち金門・厦門の攻撃を助けた功で約を議しに来たが、銀幣のほかは許さなかった。

四年三月、暦学で世祖の知遇を受けた宣教師湯若望を、楊光先が新法の誤りを摘発したため監正から罷めた。朝議の磔の論は旧勲により免ぜられた。六年五月、ロシアの通使の請いは、辺を騒がし逋逃を納れるとして許さなかった。

八年三月、南懐仁を欽天監監副に授けた。監正となった光先の暦に合わぬ点が多く、懐仁が験して実を得たので職を削られた。懐仁は監正に進んで三藩の役に大砲を鋳させ、宣教師らは銃砲・通訳・測量にも用いられて布教も禁じられず、洗礼を受けた者は数十万に及んだ。

十四年五月、ロシアの界約・貿易・俘虜交換の請いも許さなかった。内属した根忒木爾が役人に虐げられてロシアへ奔ったので引き渡しを迫ったが、応じなかった。

二十五年七月、連年の侵犯を患えた帝が水陸から攻めさせ、彭春らは雅克薩城を攻め取り守将図爾布青は死んだ。帝がオランダ公使杜都を介し界を約する書を致すと、ロシア皇帝は囲みを解けば使者を遣わすと答えたので撤兵した。

二十七年三月、索額図らの色楞格斯克行きは喀爾喀の兵乱に阻まれ、二十八年四月、会場が尼布楚に改まって赴いた。ロシアは黒竜江を界に北岸を有そうとし、索額図は尼布楚までを中国に属させよと言って議は調わず、宣教師が調停した。索額図が宣戦の構えを示すとロシアは格爾必斉河・額爾古納河の線を許し、双方が退き譲って議は成った。根忒木爾は引き渡されず、九月、六条の『尼布楚条約』を交換した。

条約は、外興安嶺の嶺南を中国、嶺北をロシアとし、西は額爾古納河を界として河南を中国、河北をロシアとし、雅克薩城を毀ち、越界を懲罰し、逃亡者を留めず、文票ある者の貿易を許す。十二月、界に五体の文字の碑を立てた。これより中露は修好し、外交と武力の表裏をなすことが知られた。

年表

清初における欧州諸国との通商・布教の開始と、ロシアとの国境交渉の経緯を記す。康熙三年(1664年)のオランダへの銀幣頒賜から、康熙二十八年(1689年)の『尼布楚条約』締結とその翌年の界碑建立までを扱う。宣教師湯若望は楊光先の弾劾で罷免されたが、ベルギー人南懐仁が暦法の実験で勝って欽天監に復し、大砲鋳造や外交通訳にも用いられて布教も黙認された。ロシアとは黒竜江辺の侵犯と逃亡者根忒木爾の引き渡しをめぐって交渉が難航し、彭春が雅克薩城を攻略したのち和議に入った。索額図と費要多羅は宣教師張誠・徐日昇の調停を経て、格爾必斉河・外興安嶺・額爾古納河を界とする六条の条約を結んだ。

年表(8件)

現代語訳全文

西暦1664年 聖祖康熙三年

  • 夏閏六月、オランダ(荷蘭)国王に段匹(「緞匹」=絹織物の誤りか)と銀両を頒ち贈った。これより先、オランダは順治十三年(底本は「順治十三」に作り、「年」字を脱すか)に使者の哥頁および開沢を遣わし、爪哇(ジャワ)から京師に至り、互市を請うた。朝議はオランダ船が八年に一度来ることを許し、船数は四艘を限りとした。その後、鄭成功が台湾を占領すると、オランダはしばしば艦隊を遣わして金夏(金門・厦門)の攻撃を助けて功があった。ここに至って秋、その報酬を求め、使臣の謌倫を遣わし、あわせて巴達維亜(バタビア)総督の命によって来て約を議した。詔を頒ち、銀幣に差をつけて与えたが、他に請うたところはみな許さなかった。

西暦1665年 聖祖康熙四年

  • 春三月、欽天監監正の湯若望を罷めた。初め、世祖の朝、ドイツ(徳意志)の宣教師湯若望は暦学によって知遇を受け、欽天監の事を掌るよう命ぜられ、まもなく太常寺卿を賜い、通政使を加えられ、通元教師に封ぜられた。ここに至って、回回教徒で新安衛の官生である楊光先が上書して若望を攻撃し、その新法の十の誤りを摘発した。朝議では、本朝の暦祚は無窮であるのに若望が二百年の暦を進めたにとどまるのは当を得ないとし、また栄王の安葬の日取りを選ぶのに慎重を欠いたとして、磔と論じた。帝は若望に以前の勲があるので死を免じ、その官を罷めた。

西暦1667年 聖祖康熙六年

  • 夏五月、ロシアの使者が来て互いに使を通じることを請うたが、帝はロシア人が連年辺を騒がし、また逃亡者(原文「適逃」は「逋逃」の誤りか)を受け入れているとして、許さなかった。

西暦1669年 聖祖康熙八年

  • 春三月、南懐仁を欽天監監副に授けた。楊光先が湯若望を弾劾して退けてから、光先を監正とし、西洋の法を罷めて用いなかった。ほどなく光先の論ずる閏月には合わないところが多かった。ベルギー(比利時)人の南懐仁はそのとき修暦治正の任にあり、重ねて疏してこれを論じ、比べ験して実を得、光先は職を削られて配所に遣られ、懐仁に監副を授けた。まもなく監正に進み、太常寺卿を加えられた。のち三藩の事が起こると、懐仁を工部の技師長に任じ、大砲の鋳造を監督させた。事が平らぐと功を論じて工部右侍郎を加え、没して礼部侍郎を贈られ、諡を勤敏と賜った。
  • 懐仁らは暦法に明るく習熟していただけでなく、あわせて諸技にも通じ、政府もこれを利用し、暦を治めるほかに、あるいは銃砲を鋳させて軍用を助けさせ、あるいは外交の通訳および(原文「太」は「及」の誤りか)測量の事に任じた。それゆえその布教も禁じなかった。当時、洗礼を受けた臣民は数十万人を下らず、中国の数学および暦学は東洋における一時の盛りを極めた。北京天文台の壮観はことに全世界の冠であった。

西暦1675年 聖祖康熙十四年

  • 夏五月、ロシアの使者が至り、中国と界約を結び、貿易を開き、俘虜を交換することを請うたが、許さなかった。初め順治十年、ロシア軍が什爾喀河の流域に侵入した。そのとき土着の首長である根忒木爾が部衆を率いて内属し、保護を求めたが、のち中国の役人は彼を虐げ、根忒木爾はまたロシアへ奔った。世祖は特に使者をモスクワ(莫斯科)に遣わし、中国に還して罪を治めさせようとしたが、ロシア人は返答しなかった。ここに至ってこの件でロシア人を難詰し、逃亡者の根忒木爾を引き渡さなければならぬと言った。ロシア人はついに引き渡さなかった。

西暦1686年 聖祖康熙二十五年

  • 秋七月、都統彭春らがロシア辺境の雅克薩城を攻め取り、ロシアの守将図爾布青は戦って没し(「戰役」は「戰歿」の誤りか)、ロシア人が和を請い、これを許した(原文「許多」は「許之」の誤りか)。これより先、ロシアに属する羅刹は連年黒竜江の辺境を侵し騒がし、帝はこれを患え、彭春らを遣わして狩猟を名目に江を渡らせ、情勢を偵察させた。帰って羅刹は取れる状況だと言ったので、彭春に水陸の軍を統べて並び進ませ、その城を攻め落とした。図爾布青は弾に中って死に、その陸軍大佐の伯伊頓が代わって守った。軍中に疫病があったので、兵を罷めることを思った。帝はこれを聞いてやはり同意を表し、オランダ公使の杜都を仲介として、ロシア皇帝に書を致し、辺境を約定しようとした。ロシア皇帝はまもなく返書して、「先に中国からしばしば我が国に書を贈られたが、国中に漢文を解し通せる者がなかったので、長く返報しなかった。いまは辺の人が釁を構えた罪を知った。まず雅克薩の囲師(原文「圖師」は「圍師」の誤りか)を解かれたい。ただちに使者を辺に遣わして界を定めよう」と言ったので、詔して彭春に兵を撤して帰らせた。

西暦1688年 聖祖康熙二十七年

  • 春三月、内大臣の索額図・佟国偉・馬喇を公使とし、色楞格斯克に赴いてロシアの使者と界約を議させたが、まもなく召し返した。索額図らが喀爾喀の境まで行くと、土謝図と噶爾丹が兵を構えているのに遇い、道が塞がって前に進めなかった。帝はこれを聞き、侍衛の官保を遣わして追わせ、退いて汎界に駐まるよう令した。

西暦1689年 聖祖康熙二十八年

  • 夏四月、索額図らに尼布楚へ赴き、ロシアの使者と会議するよう命じた。これより先、ロシア人が来て告げ、会場を尼布楚に改めたので、帝は索額図らに詔してそこへ赴かせ、都統郎談に兵一万を発し、黒竜江から水陸ともに進んで使臣の後援とさせた。索額図らは尼布楚に至り、城外に駐軍した。ロシアの将軍烏拉索は中国の軍隊が至ったと聞き、他の故があるのではと疑い、書を飛ばして阻止した。索額図は応じなかった。ロシアの使者である費要多羅は色楞格斯克に至り、中国の兵衛の甚だ盛んなのを見て、気力は大いに沮み、まもなくその地に幕を張って会場とした。
  • 両国の公使が会するにあたり、護衛の兵はそれぞれ二百余、人はみな幕の傍らで刃を露わにしていた。ロシア人はさらに兵五百を城の南に列ねて中国の陸軍に当て、また兵五百を尼布楚河の岸に陳ねて中国の水軍に当てた。
  • ロシアの使者は議を発し、黒竜江を両国の国境とし、江南の地を中国とし、自らはその北岸を有そうとした。索額図は、東は雅克薩から西は尼布楚・色楞格斯克に至るまで、およそロシアが領する黒竜江および後貝加爾の殖民地は、すべて中国に属させるべきだと言った。ロシアの使者は認めなかった。翌日また会し、索額図は言葉をやや譲って、尼布楚をもって分界とすることを請うたが、ロシアの使者はこれを難じた。こうして議は長く調わなかった。
  • そのとき中国の訳官である宣教師の張誠・徐日昇らが両使の間を調停し、数回往復して、索額図ははじめて、北は格爾必斉河および外興安嶺、南は額爾古納河をもって界とし、ロシア人が客爾古納河の南に築いた堡寨は北の界へ移す、という議を出した。ロシアの使者はなお承知しなかった。そこで索額図は議を止め、営を抜いて尼布楚城に向かい、宣戦しようとする構えを示し、かつモンゴルおよび通古斯人でロシアに降っていた者を招撫して内応させようとした。ロシアの使者はもとより決裂を欲しなかったので、額爾古納・格爾必斉の両河を中露の国境線とすることを許した。ところが索額図は翌日また議を翻し、ロシアの使者に書を致して、北境の分界線は外興安嶺ではなく、後貝加爾から朱古特岬に至る一帯の長い嶺であると言った。ロシアの使者は大いに怒り、議はまた塞がった。宣教師が両使に説き、互いに過当な要求をしてはならず、平和があってはじめて事は緒に就くと言ったので、双方が退き譲り、国界の議はようやく成った。
  • そこで重ねて逃亡者の事に及んだが、ロシアの使者は、根忒木爾はすでにモスクワで洗礼を受け、名も改めたとして、引き渡しを承知しなかった。索額図もついには得られないと知り、これ以上争わず、和約はここに成った。この年の九月に交換した。凡そ六条、いわゆる『尼布楚条約』がこれである。一名『黒竜江条約』という。
  • 一、黒竜江の支流である格爾必斉河から、外興安嶺に沿って海に至るまで、およそ嶺の南の諸川で黒竜江に注ぐものは中国に属し、嶺の北はロシアに属する。
  • 二、西は額爾古納河をもって界とし、河の南は中国に属し、河の北はロシアに属する。
  • 三、雅克薩城を毀つ。雅克薩の居民および物資はロシア領へ移ることを聴す。
  • 四、両国の猟戸・人等はみだりに国界を越えることを許さず、違反した者は所司に送って懲罰する。
  • 五、両国は互いに逃亡者を受け入れ留めてはならない。
  • 六、旅行者で官の許した文票のある者は、貿易して差し支えない。
  • 冬十二月、中露両国は員を遣わし、格爾必斉河の東および客爾古納河の南に碑を立てて界標とし、満洲・漢・モンゴル・拉丁およびロシアの五体の文字で書いて刻んだ。これより中露は修好し、中露交渉の起源となった。ここに当時の外交の優れていたさまが見られる。かつ国家を有する者にとっては、外交と武力とが確かに表裏をなす実があって、一つを欠いてはならないことが知られる。
原文(底本)
聖祖康熙三年,夏閏六月,頒贈荷蘭國王段匹銀兩。先是,荷蘭於順治十三遣使哥頁及開澤,自爪哇抵京師,以互市爲請。廷議許荷蘭船八歲一至,船數以四艘爲限。其後,鄭成功占領臺灣,荷蘭數遣艦隊助攻金夏有功,至是秋,以求報酬,遣其使臣謌倫,復以巴達維亞總督之命來議約,詔頒,予銀幣有差,他所請皆不許。

  四年,春三月,罷欽天監監正湯若望。初,世祖朝德意志宣教師湯若望,以厯學受知遇,命掌欽天監事,尋賜太常寺卿,加通政使,封通元教師。至是,回回教徒新安衛、官生楊光先上書攻擊若望,摘其新法十謬。廷議以本朝厯祚無疆,若望不應止進二百年厯。又選擇榮王安葬日期不慎,論磔。帝以若望有前勛,免死,罷其官。

  六年,夏五月,俄使來請互使,帝以俄人連年擾邊,又容納適逃,不許。

  八年,春三月,授南懷仁爲欽天監監副。自楊光先劾退湯若望後,以光先爲監正,罷西法不用。既而光先論閏多不合。比利時人南懷仁時任修曆治正,復疏論之,較驗得實,光先削職遣戍,授懷仁監副。未幾,晉監正,加太常寺卿。後三藩事起,任懷仁工部技師長,令督鑄大礮。事平敘功,加工部右侍郎,卒贈禮部侍郎,賜諡勤敏。懷仁等不獨明習曆法,且旁通百技,政府亦利用之,自治曆之外,或令鑄槍礮以佐軍用,或任外交通譯太測量事,故亦不禁其布教,時臣民受洗禮者不下數十萬人,而中國之數學及曆學極東洋一時之盛。北京天文台之壯觀尤爲環球冠。

  十四年,夏五月,俄使至,請與中國訂界約,開貿易,交換俘虜,不許。初順治十年,俄軍侵入什爾喀河流域,時土酋根忒木爾帥部衆內從,求保護後,中國有司遇之虐,根忒木爾復奔俄。世祖特遣使莫斯科,令交還中國治罪。俄人不報,至是以此難俄人,謂非交付逃人根忒木爾不可。俄人卒不交出。

  二十五年,秋七月,都統彭春等攻取俄羅斯邊境雅克薩城,俄守將圖爾布青戰役,俄人請成,許多。先是,俄羅斯所屬羅剎連年侵擾黑龍江邊境,帝患之,遣春等以行獵爲名渡江偵察情形,歸言羅剎可取狀,乃命春統水陸軍並進,攻陷其城。圖爾布青中彈死,其陸軍大佐伯伊頓代之守。以軍中病疫,思罷兵,帝聞之,亦表示同意,以荷蘭公使杜都爲介紹,致書俄皇,約定邊境。俄皇旋覆書,謂前者中國數贈書於本國,因國中無人能通解漢文,故久不爲報,今已知邊人構釁之罪,請先釋雅克薩之圖師,即當遣使詣邊定界,乃詔春撤兵歸。

  二十七年,春三月,以內大臣索額圖、佟國偉、馬喇爲公使,赴色楞格斯克會俄使議界約,尋召還。索額圖等行至喀爾喀界,值土謝圖與噶爾丹構兵,道梗不得前。帝聞,遣侍衛官保往追之,令其退駐汎界。

  二十八年,夏四月,命索額圖等赴尼布楚,與俄使會議。先是,俄人來告,改以尼布楚爲會場,帝詔索額圖等赴之,命都統郎談發兵一萬,自黑龍江水陸並進,以爲使臣後援。索額圖等抵尼布楚,駐軍城外,俄將軍烏拉索聞中國軍隊至,疑有他故,飛書阻止。索額圖不應,及俄使費要多羅至色楞格斯克,見中國兵衛甚盛,氣大沮,旋張幕於其地爲會場。兩國公使既會,護兵各二百餘,人皆露刃帳側。俄人復以兵五百列城南當中國陸軍,又以兵五百陳尼布楚河岸當中國水軍。俄使發議,欲劃黑龍江爲兩國國境,以江南地爲中國,而自有其北岸。索額圖則謂東自雅克薩,西至尼布楚、色楞格斯克,凡俄領黑龍江,以及後貝加爾殖民地,當盡以屬中國。俄使不可。翌日復會,索額圖詞少遜,請以尼布楚爲分界,俄使難之。以是議久不能諧,時中國譯官宣教師張誠、徐日昇等調停兩使間,往復數回,索額圖始議北以格爾必齊河及外興安嶺,南以額爾古納河爲界,而俄人於客爾古納河南所築堡寨遷移北界,俄使猶不允,於是索額圖輟議,拔營向尼布楚城,示將宣戰,且招撫蒙古及通古斯人之之降俄者,令爲內應。顧俄使雅不欲決裂,乃允以額爾古納及格爾必齊兩河爲中俄界綫,而索額圖翌日復翻議,致書俄使,謂北境之分界綫非外興安嶺,爲自後貝加爾至朱古特岬之一帶長嶺。俄使大恚,議復梗,宣教師乃言於兩使,謂彼此不得要求過當,平和始克就緒,於是雙方退讓,國界之議乃成。因復及逃人事,俄使謂根忒木爾已在莫斯科受洗禮,更名,不允交付。索額圖亦知其終不可致,亦不復爭,和約乃成。於是年九月交換,凡六條,所謂《尼布楚條約》是也,一名《黑龍江條約》。

一、自黑龍江支流格爾必齊河,沿外興安嶺以至於海,凡嶺南諸川,注入黑龍江者屬中國,嶺北屬俄。

二、西以額爾古納河爲界,河南屬中國,河北屬俄。

三、毀雅克薩城。雅克薩居民及物用聽遷往俄境。

四、兩國獵戶人等毋許擅越國界,違者送所司懲罰。

五、兩國彼此不得容留逃人。

六、行旅有官許文票者,得貿易不禁。

  冬十二月,中俄兩國遣員立碑於格爾必齊河東及客爾古納河南爲界標,書以滿、漢、蒙古、拉丁及俄羅斯五體文字勒之,自是中俄修好,爲中俄交涉之起源。於以見當時外交之優勝。且知有國家者,外交與武力確有相爲表裏之實,而不可缺一者焉。

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