清史紀事本末治河の政策(治河之政策)

要約

康熙九年四月、河が帰仁堤で決壊して淮安・揚州の二府などの田地が水没し、十年十月に桃源県で決壊し、十一月に王光裕の請いで淮陽の襄河を浚った。十一年六月、清水潭が決壊して高郵・宝応など十八州県衛が被災した。

十六年二月、功無き王光裕に代えて靳輔を河道総督とした。七月、靳輔は治河八事を陳べ、河床の浚渫と築堤、引水の河、堤のかさ上げ、決壊口の締め切り、運河の浚渫、費用の予定、余官の整理、巡河官兵を請うた。朝議は軍費不足を難じたが、三たび奏して堅持し、帝は許した。

十七年七月、河は碭山・蕭県で決壊した。靳輔は高家堰の石工と土堤を各三尺かさ上げし戧堤を築き、十月に減水壩十三か所と新河の浚渫を請うた。十八年四月、長堤二筋が成って七州県の田が涸れ出たと報じ、七月に黄河が淮を奪って以来六百余年の水害と、潘季馴が東堤を議さず九河を生じた失を述べ、翟家壩の九河を締め切り、涸れ出た湖に開墾者を招くことを奏した。

二十一年十月、河が蕭家口で決壊し靳輔を京に召した。先に崔維雅が三十四事を挙げて減水壩の法を改めようとしたのを論駁し、蕭家渡は翌正月に成ると面奏して帝も是とした。伊桑阿は不堅固の堤を挙げて罷免を請うたが、帝は罪を負ったまま督工させ、二十二年四月、工が成り河は旧道に戻り官を復された。

二十三年十月、帝は南巡して北岸を視察し、天妃閘を草壩に改めて二閘で勢いを分けさせた。十一月、高家堰に臨み、淮揚の屏障で積砂を洗う要地だから年々防護せよと諭し、閲河の詩と御舟を靳輔に賜った。

二十四年、靳輔は減水閘・石壩の増設、考城・儀封・陽武の堤など七千九百八十九丈の増築、河務官の増設、民の青柳の免除を請うて許された。十月、合わぬ于成龍とともに京に召され、靳輔は大河を開き長堤で水を束ねよと言い、于成龍は海口の旧河の浚渫を主張した。九卿は靳輔に、成其範ら三人は于成龍に従い、喬萊は靳輔の非を極言した。薩穆哈らは海口に益無しと報じ、二十五年閏四月、湯斌の奏で孫在豊に下河を浚わせ、靳輔の議は止んだ。

二十七年三月、靳輔は中河が成って漕道が通じたと奏した。やがて郭琇・陸祖修・劉楷が功無しと劾し、慕天顔と孫在豊も互いに劾し合い、靳輔は罷免され幕客陳璜も職銜を奪われ、王新命が代わった。四月、靳輔は三人の結託を論じ、国帑二百五十一万しか用いぬのに浪費を謗られると弁じ実測を請うた。凱音布らは河漕ともに利ありと報じ、帝は于成龍が私怨で河務を妨げると責めた。馬斉らの再検分も靳輔の規定どおりでよいとし、慕天顔は拷問に于成龍の書簡によると供したが、追及はなかった。

二十八年正月、張玉書らが中河に三閘を設けよと奏し、靳輔は小閘と涵洞によるべきだと言って議が合わず、帝は自ら中河を視察して支口を開かせた。三月、淮安で高家堰を視察し、靳輔は功ありとして官を復し原品で退官した。

三十一年二月、王新命を免じて再び靳輔を河道総督とし、老病の固辞を許さず御舟を賜った。四月、新荘閘の再建と増閘を請い、十一月に両岸に柳を植え涵洞を設けよと請い、病を押して清河から三門・砥柱まで西の漕運を計った。在職のまま六十で没し、文襄と諡された。治河十余年、ことに中河の工は百世の利で、宋礼・陳瑄に劣らぬと論じられた。十二月、于成龍を河道総督とした。靳輔は初め、一労永逸の計を立てねば築くたびに崩れると疏して許され、帝はのち、その規模は後の河臣も変えられぬと言った。

三十三年正月、于成龍は河官増設と民夫免除の請いを不当とされ、靳輔を謗ったことも詰問され革職留任となった。三十八年二月、帝は南巡し、三月に于成龍へ水土を測らせ、洪沢湖の水が黄・運と合して氾濫するのだから、河を北に導いて洪沢の水を洩らし、清水で積砂を洗えば治まると諭し、靳輔の減水壩は上流ばかり顧みたと評した。

三十九年二月、于成龍が死んで張鵬翮が代わり、六月、海口の攔黄壩を壊して河床を浚い、大通口と改めて河神の廟を請うた。四十年正月、河神に顕佑通済昭霊効順金龍四大王の号を加え、三月には張鵬翮の請いで治水の上諭を編ませた。帝はしばしば南河を巡視した。四十四年七月、堤岸が決壊して張鵬翮は革職留任、四十六年二月、溜淮套の議で宮保の銜を奪われ、五月、帝は靳輔に太子太保を追贈した。四十七年十月、秋の増水が穏やかで処分を取り消した。これより両河は安寧であった。

年表

清の聖祖康熙年間における黄河・淮河・運河の治水事業の顛末を記す。康熙九年(1670年)の帰仁堤決壊に始まり、王光裕に代えて靳輔を河道総督に起用してからは、高家堰の補強、減水壩の増設、中河の開削などが進められた。靳輔は于成龍・慕天顔・孫在豊らと方策をめぐって争い、一度は罷免されたが、帝は自ら南巡して河を視察し、その功を認めて復官させ、再任のうえ在職のまま死去した。のちを継いだ于成龍・張鵬翮も治水に当たり、康熙四十七年(1708年)に両河は安寧となった。

年表(23件)

現代語訳全文

西暦1670年 聖祖康熙九年

  • 夏四月、黄河が帰仁堤で決壊し、淮安・揚州の二府などの各地で、田地がことごとく水没した。

西暦1671年 聖祖康熙十年

  • 冬十月、黄河が桃源県で決壊し、民の堤二百五十丈を壊した。
  • 冬十一月、河道総督の王光裕が上疏して、人夫を募って淮陽の襄河を大々的に浚渫することを請い、これに従った。

西暦1672年 聖祖康熙十一年

  • 夏四月、侍衛の呉丹と学士の郭廷祚に河川工事を視察させ、図を描いて奉呈させた。
  • 六月、黄河が清水漂(清水潭の誤りか)で決壊し、高郵・実応(宝応の誤りか)など十八の州県衛が被災した。

西暦1677年 聖祖康熙十六年

  • 春二月、王光裕は治水に功がないとして任を解くよう命じ、靳輔を河道総督とした。
  • 秋七月、靳輔が治水についての八事を箇条書きにして陳べた。一つ、清江清(清江浦の誤りか)以下、雲梯関を経て海口に至る一帯の河床の土を浚い、それで両岸の河堤を築くこと。一つ、洪沢湖の下流、高家偃(高家堰)以西から清口に至るまで、引水の河を一筋浚うこと。一つ、幇潤・七里墩・武家墩・高家墩・高良港から周家閘に至るまでの、欠け崩れて薄くなった堤の工事をかさ上げすること。一つ、古溝・翟家壩一帯の堤の工事を築き、あわせて黄河と淮河それぞれの決壊口を塞ぐこと。一つ、通済の閘と壩を閉じ、運河を深く浚い、清水潭などの箇所の決壊口を塞いで、漕運の船を通すこと。一つ、費用が莫大であるから、あらかじめ計画を立てて工事の入り用を賄うこと。一つ、河川工事の余分な役人を整理統合し、有能な官の異動を奏請して、工事に赴いて事を助けさせること。一つ、河を巡視する官兵を設けること。
  • この上奏がなされると、朝議は軍事の起こりで軍費が不足していることを理由に靳輔を難じた。靳輔はあわせて三度奏上し、いずれも前の議論を堅持し、帝は特に請うところのとおりにした。

西暦1678年 聖祖康熙十七年

  • 秋七月、黄河が碭山県の石将軍廟と蕭県の九里溝の二か所で決壊した。
  • この月、靳輔が上疏して、高家堰の石工事をさらに三尺かさ上げして土の堤と平らにし、その上で改めて土の堤を三尺かさ上げし、また高家堰・高良港一帯に戧堤(支えのために添える堤)を一筋築き加えることを請い、これに従った。
  • 冬十月、靳輔は宿州・徐州などの州県が被災したことから、減大壩(減水壩の誤りか)十三か所を築くことを請い、また清口を閉め切って、文華寺から新しい河を七里閘まで浚い、七里閘を漕運の入り口とし、武家墩の爛泥渡から転じて黄河に入るようにすることを請うた。

西暦1679年 聖祖康熙十八年

  • 夏四月、靳輔が上疏して言った、「清水潭は塞ぐたびにたびたび突き崩され、山陽・高郵など七州県の田畑が水没しております。臣が東西の長堤二筋を築き、工事が完了しましたので、七州県の田畑はすべて水が引いて現れ(底本は「潤出」に作る。「涸出」の誤りか)、漕運の船も民の船も、永く波静かに通ることができます」と。報告を受けた旨の返答があった。
  • 秋七月、靳輔が上疏して言った、「淮河の東岸、翟家壩から周橋閘までは、淮陽運河の上流の門戸であり、山陽・塩城など七州県の民の生活の要となる所です。黄河が禹の古い河道に沿っていたときは、淮河の流れの水はまっすぐ下ることができ、この地で水害があったとは聞きません。黄河の流れが南に移って(底本は「南徒」に作る。「南徙」の誤りか)淮河の道を奪うに及び、淮河の流れは滞りなく注ぐことができず、そこでせき止められて四方に溢れました。山陽・宝応・高郵・江都の四州県、河の西の低く窪んだ地域が、ことごとく水浸しの国となってから六百余年になります。
  • 明の万暦の初め、河道が荒れ壊れたのは今日ほどひどくはありませんでしたが、清口が埋まり、高家堰が決壊したのは、今日の状況と似ております。その時の河臣の潘季馴は堤を築き決壊口を塞ぎ、その治め方ははっきりと効き目がありました(底本は「治班班效斑」に作る)。しかしこの箇所については堤のかさ上げを議しませんでした。思うに明代の祖陵が西にあったため、河の東側の障壁をやめて水を洩らしたのです。淮河の増水が西を侵すことを心配したのなら、両岸を並べて築くのに何の困難がありましょうか。それをせずかえって門口に患いを残し、年を経ることすでに久しく、ついに九筋の河ができてしまい、淮陽の地に重ねて水害を受けさせました。臣は、潘季馴が治水に巧みだと称されながらこのような失策もあったことを、残念に思わずにはいられません。
  • 皇上は漕運の道と民の生活を心にかけられ、大いに国庫の金を出して、臣に広く修治するよう命じられました。いま翟家壩で九筋の河となっていた箇所は、幅合わせて千三百二十三丈二尺ありましたが、すでに締め切りを終えました。さらに調べますと、山陽・宝応・高郵・江都の四州県の河西の諸湖もしだいに水が引いて陸となっておりますので、方法を立てて開墾する者を招き、戸数を増やして民を足らせたいと存じます」と。

西暦1682年 聖祖康熙二十一年

  • 冬十月、黄河が蕭家口で決壊し、靳輔を京へ召した。蕭家渡の決壊口の修築をちょうど議していたからである。
  • これより先、布政使の崔維雅が『河防芻議』『両河治略』の二書を奏上し、条を注して三十四事を列挙し、靳輔が行っている減水壩などの方法を改めようとした。靳輔は詳しく論駁して実行できないとした。ここに至って靳輔は京に着き、蕭家渡の工事は翌年正月には必ず完成できると面と向かって奏上し、あわせて崔維雅の言うことの誤りを力説し、帝はこれを是とした。
  • このとき衆議は、尚書の伊桑阿が河川工事を検分した一疏を取り上げた。その冊子には、堅固でなく規格に合わない堤の工事が合わせて一万五千余丈、水が漏れる堤の工事が四千余丈、および減水壩二基の堅固でない箇所が挙げられ、靳輔を罷免して重く罪に処すべきだ、とあった。帝は不慣れな者に交代させて事を誤ることを恐れ、なお靳輔を留任させ、罪を負ったまま工事を監督させた。靳輔は河上に戻り、自ら工事を監督し、まもなく決壊口はすべて塞がり、水は元の河道に戻った。

西暦1683年 聖祖康熙二十二年

  • 夏四月、靳輔が上疏して蕭家渡の工事が成り、黄河が元の河道に戻ったと報告し、手厚い詔で返答があって靳輔の官職を戻した。

西暦1684年 聖祖康熙二十三年

  • 冬十月、帝は南巡して泰安に至り、泰山に登り、ついで宿遷から黄河の北岸に臨んで視察した。天妃閘に至り、水の勢いが激しく速いのを見て、河臣に指示を与えて草壩に改めさせ、別に七里・太平の二閘を設けて水勢を分けさせた。
  • 十一月、高家堰に臨んで視察し、靳輔に諭して言った、「高家堰の地勢を見ると、宝応・高郵の諸水より数倍高い。前人がここに石の堤を築いて水を遮ったのは、実に淮安・揚州の屏障である。しかも洪沢湖と淮河の水に力を合わせて黄河に対抗させ、積もった砂を洗い流させるもので、関わるところが最も重い。いま高家堰の旧い決壊口および周橋・翟家壩は、修築してから久しいとはいえ、なお年ごとに防護せねばならず、軽んじて前の功を崩してはならない」と。
  • のちに黄河の南岸を視察し、靳輔に善後の策を十分に計り、黄河の水が運河に逆流して注ぎ込まないようにせよと諭した。帝は河を視察して大いに喜び、閲河の詩を書いて靳輔に賜い、あわせて靳輔に佳哈御舟(御用の舟)、および御用の帷幕を賜った。

西暦1685年 聖祖康熙二十四年

  • 春正月、靳輔が上疏して、黄河南岸の毛城鋪に減水閘一基、王家山に減水閘三基、北岸の太谷山に減水閘二基を増設して徐州上流の堤の工事を保ち、あわせて帰仁堤に石壩二基、攔馬河と清河県の漕運口にそれぞれ石閘一基を増設することを請うた。
  • 秋九月、靳輔はまた、考城・儀封・陽武の三県の河堤七千九百八十九丈、封丘県の荊隆口の大月堤三百三十丈、滎沢県の埽工(粗朶を束ねて造る護岸)二百十丈を増築して、上流の異常な増水に備えることを請うた。あわせて蘭陽・儀封・滎沢に河務の官を増設し、開封・帰徳の二府の民に青柳を調達させるのを免除することを請い、いずれも従われた。
  • 冬十月、河道総督の靳輔と按察使の于成龍に、駅伝を乗り継いで京に来るよう命じ、九卿および科道の官と河川工事の事務を詳しく議させた。当時、于成龍は命を受けて海口および下河の事務を管理していたが、なお靳輔の統制を受けており、その主張は靳輔と合わないことが多かったので、朝議は二人ともに都に召して詳しく議させたのである。
  • 十一月、靳輔と于成龍が京に着き、朝廷の臣と河川工事の方策を議した。靳輔は、大河を開き、高さ一丈五尺の長堤を築いて水を一丈に束ね、海の潮に対抗すべきだと言った。于成龍は海口の旧河道を開き浚うことを強く主張した。大学士と九卿はみな靳輔の議に従い、通政司参議の成其範・給事中の王又旦・御史の銭鈺は于成龍の議に従った。侍読の喬萊は宝応の人であり、靳輔の議は正しくないと極言した。そこで尚書の薩穆哈らを検分に行かせ、まもなく海口を開いても益がないと報告してきた。

西暦1686年 聖祖康熙二十五年

  • 夏閏四月、礼部尚書の湯斌が参内して応対し、下河は浚渫すべきだと奏上した。帝は侍郎孫在豊にその事を監督しに行かせ、靳輔の議は取り止めとなった。

西暦1688年 聖祖康熙二十七年

  • 春三月、靳輔が中河の工事が完了して漕運の道が新たに通じたと奏上し、遥堤(本堤から離して築く控えの堤)をさらに高く築いて永く保つことを図りたいと請い、これに従った。
  • まもなく御史の郭琇・陸祖修、給事中の劉楷が相次いで靳輔の治水に功がないと弾劾し、また漕運総督の慕天顔と侍郎孫在豊が河川工事のことで互いに弾劾し合い、靳輔は官を罷免され、あわせてその幕客の陳璜の職と肩書きを剥奪して京に護送し、裁きを待たせた。
  • 陳璜は字を天裔といい、秀水の無位の人であった。靳輔が公用で邯鄲を通ったとき、壁に題した詩を見て大いに感嘆し、その跡をたどって本人を探し当て、礼を尽くして幕下に迎え入れた。帝が工事を視察したとき、ゆったりと尋ねて言った、「そなたには必ず今に通じ古に博い人が補佐しているのだろう」と。靳輔は陳璜のことを答えた。さらに靳輔の推薦によって、陳璜は僉事道の肩書きを賜った。靳輔が任を解かれると、王新命を河道総督に転任させた。
  • 夏四月、靳輔が京に着き、上疏して于成龍・慕天顔・孫在豊が結託して陥れようと謀った有様を論じ、あわせて弁明した。部の官が検分して見積もったところでは六百万両を要したが、臣は苦心して節約し、国庫の金を二百五十一万しか用いず、部の官の見積もりの半分にも達していない。それなのに諸臣は、国庫の金を浪費して私腹を肥やし、田を奪って屯田開墾したとそしり、必ず臣を陥れて臣を殺さずにはおかないという。帝がもう一度巡幸して自ら堤の工事を視察し、さらに重臣に命じて実測させ、隠れた田畝を調べ見積もっていただきたい、と。
  • 帝は学士の凱音布らを検分に行かせた。ここに至って帝は朝臣に言った、「先に于成龍は靳輔が中河を開いたのは功がないと奏上したが、いま凱音布らは河道と漕運の両方に利があると言っている。もし靳輔の治水に功がないと言うのなら、朕も代わって不平に思う。于成龍は私怨を抱いて河務を妨げており、まことに不都合である。いま九卿はすでに靳輔の罪を議したが、もし王新命までが于成龍の説に従って大事を大きく改めるなら、それは各々が私憤を抱いて河川工事を誤らせること浅くない。しかも黄河は宿遷から下流で決壊するのはまだ修治できるが、もし宿遷より上流で氾濫するようなことになれば、害は非常に大きい」と。
  • そこで馬斉・張玉書・図訥を遣わして確かに検分し、帰って奏上させた。靳輔が定めた規定のとおりにすべきで、改める必要はない、とされた。また凱音布が、中河を通行する漕運船を慕天顔が無理に引き返させ、支流の口を塞ぐことを許さなかったと奏上したことにより、慕天顔を京に引き立てて拷問で取り調べ、そそのかした者を厳しく追及せよとの旨が下った。まもなく慕天顔は、于成龍が手紙でこのように処理するよう頼んできたのだと供述したが、帝はこれを追及しなかった。

西暦1689年 聖祖康熙二十八年

  • 春正月、帝は張玉書らを遣わして河川工事を視察させ、彼らは京に帰って、中河は狭いので中河に三つの閘を設けて水を減らし流したいと奏上した。(帝が靳輔に)問うと(底本は「以減洩之而問」に作り、「問」の下に「靳輔」等の脱字があるか)、靳輔は二、三十里の間に小さな閘と涵洞(暗渠)を造るべきだと言い、言うところが食い違って、河川工事の是非についに定まった結論が出なかったため、帝は自ら河上に臨んで検分しようとした。車駕は済南に至り、船に乗って中河から河道を視察し、鎮口閘・微山湖などの箇所に支流の口を開き、黄河の漕運の道はそのまま残して廃さないよう命じた。そして清河県から黄河を渡り、揚州に至り、鎮江府の金山寺に船を泊めた。
  • 二月、帝は杭州に至り、銭塘江を渡り、禹の陵に参拝した。
  • 三月、帝は淮安府に至り、高家堰一帯の堤・岸・閘・壩を視察し、靳輔は治水に功があるとしてその官を回復し、元の位のまま退官させ、真心をもって事に当たったとの褒め言葉があった。

西暦1692年 聖祖康熙三十一年

  • 春二月、河道総督の王新命が事件によって免職となり、再び靳輔を河道総督に用いた。靳輔は老齢と病を理由に固く辞退したが許されず、重ねて佳哈御舟(御用の舟)を賜って、これを特別に表彰した。
  • 三月、渾河の堤を修めた。
  • 夏四月、靳輔が上奏して、新荘閘を再建して漕運の道に利することを請い、また仲家閘の下の陶家荘の地には閘を一つ増設すべきで、二つの閘で漕運を行わせ、互いに水を流し落とせるようにすれば、黄河・中河の両河にとってとりわけ大いに益がある、と請うた。
  • 冬十一月、靳輔が上奏して、黄河の両岸に柳を植え草を播き、あわせて涵洞を設けることを請うた。このとき靳輔は病を押して西方の漕運を計画し、清河から滎沢に至り、三門・砥柱にまで達して、流れは穏やかで支障がなかった。
  • 事が終わって病状を報告すると、靳輔の子で副参領の治豫と、内大臣の明珠に見舞いに行かせた。まもなく在職のまま死去した。年は六十。祭祀と葬儀を賜い、文襄と諡された。靳輔は治水を命ぜられて十余年、精力をすべて使い果たした。なかでも中河の工事はとりわけ百世の利益であり、論者はその功は宋礼が会通河を開き、陳瑄が清江浦を掘ったのに劣らない、といっている。
  • 十二月、于成龍を河道総督とした。はじめ靳輔が治水を命ぜられたときは、ちょうど黄河の水が四方に決壊してもはや海に帰らず、清口の漕運の道はすべて塞がっていた。そこで靳輔は上疏して言った、「清口より下流を浚い築かなければ黄河と淮河の水は帰るところがなく、清口より上流に引水の河を掘らなければ淮河は滞りなく流れず、高家堰の決壊口をすべて塞がなければ淮河の水は分かれて河床を洗い流す力が弱まり、黄河は必ず内へ逆流して下流の清水潭もまた危うくなります。しかも黄河の南岸に堤を築かなければ高家堰にはなお隠れた憂いがあり、北岸に堤を築かなければ山(山東の意か)以東は必ず決壊に遭います。ゆえに堤岸を築き、下流を浚い、決壊口を塞ぐことには、いずれも先後の順序はあっても緩急の別はありません。いま一度の労苦で永く安んずる計を立てなければ、築くたびに崩れ、その勢いはどこで行き着きましょうか」と。
  • 疏が入ると群臣には異議が多かったが、帝は特に請うところのとおりにした。功が成し遂げられないうちに于成龍らがその過失を極言し、靳輔はついに任を解かれて去った。のちに帝は悟って、再び靳輔にその事に当たらせた。靳輔が死ぬと、帝はこれを思って言った、「靳輔が経営した事業は、後の河臣が互いに増減を加えたとはいえ、その規模と創設したものは変えることができない」と。

西暦1694年 聖祖康熙三十三年

  • 春正月、九卿は、河道総督の于成龍が上奏して請うた、河道の官吏を増設することと民の人夫を免除することについて審議し、いずれも不適当であり、免職にすべきだとした。帝は于成龍を京に召し、先ごろ靳輔を力をこめてそしったこと、および減水壩は塞ぐべきで開くべきでないと論じたことを詰問した。于成龍は罪を認め、免職のうえ留任させ、罪を負ったまま功を立てるよう命じられた。

西暦1699年 聖祖康熙三十八年

  • 春二月、帝は皇太后を奉じて南巡し、河川工事を視察した。
  • 三月、黄河を渡り、土地の高低を見定めて方策を指示した。河道総督の于成龍に水と土を測量させ、図を描いて奉呈させた。
  • そこで大学士らに諭して言った、「水が治まらないのは、洪沢湖の水勢が非常に大きく、洩らすこともできない上に、黄河と運河の二つが合わさって勢いがいよいよ広大になるからで、それゆえ氾濫するのである。昔は元々帰仁堤があって遠くから防いでいた。この方法が最もよいが、いまはすでに水没して調べようがない。靳輔は減水壩を築いたが、名は減水といっても四方に奔り流れ、押し流して決壊させたことが非常に多い。彼はただ上流の河ばかりを顧みて下流の河を顧みなかった。それでどうして水が治まろうか。ただ河を導いてやや北に寄せ、清水に侵入させないようにし、そして洪沢湖の水を洩らして下流に流し、もっぱら清水を用いて積もった砂を洗い流せば、水はおのずと治まらないことはない」と。

西暦1700年 聖祖康熙三十九年

  • 春二月、于成龍が死に、張鵬翮を河道総督に転任させた。
  • 夏六月、河道総督の張鵬翮が奏上して言った、「旨に従って海口を視察し、欄黄壩(「欄」は「攔」の誤りか)をすべて取り壊し、河床を深く通るように浚いました。攔黄壩を大通口と改称することを願い、あわせて河神の廟を建立することを請います」と。

西暦1701年 聖祖康熙四十年

  • 春正月、河神に顕佑通済昭霊効順金龍四大王の封号を加えた。先に河道総督の張鵬翮が、海口が浚われて通じ、黄河・淮河の二水が交わり合い、漕運を助けることが神速であるのは、みな河伯が霊験を現したことによるとして、河神に封号を加えることを請うたので、ここに至って請うところのとおりに行われた。
  • 三月、張鵬翮は、治水に関する上諭を史館に下して編纂し一書にまとめることを請い、詔して張鵬翮に編集して奉呈するよう命じた。

西暦1702年 聖祖康熙四十一年

  • 秋九月、帝は南河を巡視した。
  • 冬十月、帝は京師に還った。

西暦1703年 聖祖康熙四十二年

  • 春正月、帝は南河を巡視した。
  • 三月、帝は京師に還った。

西暦1705年 聖祖康熙四十四年

  • 春二月、帝は南巡した。両河の工事が完成したので、自ら行って巡視したのである。
  • 夏閏四月、帝は京師に還った。
  • 秋七月、古溝・唐埂・清水溝・韓家荘の四か所で堤岸が決壊し、河道総督の張鵬翮を免職としたが、なお留任させた。

西暦1707年 聖祖康熙四十六年

  • 春正月、帝は南巡して河を視察した。
  • 二月、溜淮套を開くことを議したことにより、河道総督の張鵬翮の宮保の肩書きを剥奪し、寛大な処置として留任させた。
  • 夏五月、帝は靳輔の治水の功を追想し、太子太保を追贈し、拝他喇布勒哈図の世職を与えるよう命じた。

西暦1708年 聖祖康熙四十七年

  • 冬十月、秋の増水期の工事が穏やかであったので、河道総督の張鵬翮の処分を取り消すよう命じた。これより両河は安寧となり、堤岸に憂いはなくなった。地は平らかに天は成り、一度の労苦で永く安んずる効果であった。
原文(底本)
聖祖康熙九年,夏四月,河決歸仁隄,淮安、揚州二府等處,田地悉被淹沒。

  十年,冬十月,河決桃源縣,壞民堤二百五十丈。 冬十一月,河道總督王光裕疏請募夫大挑淮陽襄河,從之。

  十一年,夏四月,命侍衛吳丹,學士郭廷祚閱視河工,繪圖進呈。 六月,河決清水漂,高郵實應一十八州縣衛被災。

  十六年,春二月,以王光裕治河無功,命解任,以靳輔為河道總督。 秋七月,靳輔條陳治河八事:一挑清江清以下,歷雲梯關至海口一帶河身之土,以築兩岸河堤;一挑洪澤湖下流,高家偃以西,至清口,引水河一道;一加高幫潤、七里墩、武家墩、高家墩、高良港至周家閘殘缺單薄堤工;一築古溝、翟家壩一帶堤工,並堵塞黃淮各自決口;一閉通濟閘壩,深挑運河,堵塞清水潭等處決口,以通漕船;一錢糧浩繁,須預籌畫以濟工需;一請裁併河工冗員,奏調幹員,赴工襄事;一請設巡河官兵。章上,廷議以軍興餉絀難之輔。凡三奏,均堅持前議,帝特如所請。

  十七年,秋七月,河決碭山縣石將軍廟及蕭縣九里溝二處。 是月,靳輔疏請高家堰石工再加三尺,與土隄平。然後另加土隄三尺,又高家堰,高良港一帶加築戧隄一道,從之。 冬十月,靳輔以宿、徐等州縣被災,請建減大壩一十三座,又請將清口閉斷,自文華寺挑新河至七里閘,以七里閘為運口,由武家墩爛泥渡轉入黃河。

  十八年,夏四月,靳輔疏言:『清水潭屢塞屢衝,山陽、高郵等七州縣田畝淹沒。臣築東西長堤二道,工竣,七州縣田畝全行潤出,運艘民船,永可安瀾。』報聞。 秋七月,靳輔疏言:『淮河東岸,自翟家壩至周橋閘,乃淮陽運河上游門戶,山鹽等七州縣民生關鍵也。當黃河循禹故道時,淮流水可直下。此地未聞水患;迨黃流南徒奪淮,淮流不能暢注,於是壅遏四漫。山陽、寶應、高郵、江都四州縣,河西低窪之區,盡成澤國者,六百餘年矣。明萬歷初,河道廢壞,雖不若今日之甚,而清口淤,高堰決,與今日情形相似。彼時河臣潘季馴,築隄堵口,治班班效斑。然此處不議加高,蓋明代祖陵在西,故停河東之障以洩水。不知如慮淮漲西侵,何難兩岸並築,而顧留患門庭歷年旣久,遂致成河九道,使淮陽叠受水災。臣不能不憾潘季馴以善治河稱而亦有此失者也。皇上軫念運道民生,大發帑金,命臣徧爲修治。今翟家壩成河九道之處,共寬一千三百二十三丈二尺,今已合龍,更查山寳高江四州縣河西諸湖亦逐漸涸出,擬設法招墾,庶幾增户足民矣。』 

  二十一年,冬十月,河決蕭家口,召靳輔來京,以蕭家渡決口方議脩築故也。先是布政使崔維雅奏上河防芻,議兩河治略二書,註條列三十四事,欲更改輔所行減水壩諸法,輔詳辯爲不可行,至是輔至京面奏蕭家渡工程來歲正月必可吿竣,且力言維雅所言之謬,帝韙之。時衆議尙書伊桑阿察勘河工一疏,冊開不堅固不合式隄工,共一萬五千餘丈,漏水堤工四千餘丈,及減水壩二座不堅固之處,應將輔撤任從重治罪。帝恐更易生手誤事,仍著輔留任戴罪督修。輔囬至河上,親督工程,未幾決口皆塞,水歸故道。

  二十二年,夏四月,靳輔疏報蕭家渡工成,河歸故道,優詔批答還輔職。

  二十三年,冬十月,帝南巡至泰安,登泰山,尋自宿遷臨閱黃河北岸。至天妃閘,見水勢湍,急指授河臣改爲草壩,另設七里、太平二閘以分水勢。 十一月,臨閱高家堰,諭靳輔曰:『觀高堰地勢,高於寳應、高郵諸水數倍。前人於此築石隄障水,實爲淮揚屏蔽。且使洪澤湖與淮水倂力敵黃,衝刷淤沙,關係最重。今高堰舊口及周橋翟壩修築雖久,仍須歲歲防護,不可輕視,以隳前功。』後閱黃河南岸,諭輔妥籌善後之策,勿令黃水倒灌運河。帝閱河甚喜,書閱河詩賜輔,並賜輔佳哈御舟及御用帷幙。

  二十四年,春正月,靳輔疏請添建黃河南岸毛城鋪減水閘一、王家山減水閘三、北岸太谷山減水閘二,以保徐州上流堤工,並於歸仁堤添建石壩二、攔馬河及清河縣運口各添建石閘一。 秋九月靳輔又請添築考城、儀封、陽武三縣河隄七千九百八十九丈,封邱縣荆隆口大月隄三百三十丈,榮澤縣埽工二百一十丈,以防上流異漲。並請增設蘭陽、儀封、榮澤河員,免開歸二府民採辦靑柳。均從。 冬十月,命河道總督靳輔、按察使于成龍馳驛來京,與九卿科道詳議河工事務。時成龍奉命經理海口及下河事宜,仍聽輔節制,持議與輔多不合,故廷議並召入都詳議。 十一月,靳輔、于成龍至京,與廷臣議河工事宜。輔謂宜開大河,建長隄高一丈五尺,朿水一丈,以敵海潮。成龍力主張開濬海口故道。大學士九卿俱從輔議,通政司參議成其範、給事中王又旦、御史錢鈺從成龍議。侍讀喬萊,寳應人也,極言輔議非是。乃命尙書薩穆哈等往勘,尋以開海口無益入吿。

  二十五年,夏閏四月,禮部尙書湯斌入對,奏下河宜疏濬。帝命侍郎孫在豐往董其事,寢輔議。

  二十七年,春三月,靳輔奏中河工竣,運道新通,請加高築遥隄以圖永保,從之。尋御史郭琇、陸祖修、給事中劉楷相繼參輔治河無功,又漕督慕天顏、侍郎孫在豐因河工事互相糾參,罷輔仕並革其幕客陳璜職銜,解京監候。璜字天裔,秀水布衣,輔以公事過邯鄲,見題壁詩,大爲嘆異,因蹤跡得之,禮之入幕。帝閱工時,嘗從容問曰:『爾必有通今博古之人爲之佐。』輔以璜對,復以輔薦,得賜僉事道銜。輔旣解任,調王新命爲河督。 夏四月,靳輔至京,疏論于成龍、慕天顏、孫在豐朋謀傾陷狀,並辯明部臣勘估計需六百萬兩。臣苦心節省,止用帑二百五十一萬,不及部臣估計之半,而諸臣詆爲糜帑營私,奪田屯墾,必欲陷臣殺臣而後已。請帝再巡親閱隄工,更命重臣清丈,隱估田畝。帝命學士凱音布等往勘,至是帝謂廷臣曰:『前于成龍奏靳輔開中河無功,今凱音布等則云河漕兩利,若謂靳輔治河無功,朕亦代爲不平也。于成龍懷挾私仇,阻撓河務,殊爲不合。今九卿已將靳輔議罪,若王新命亦順從于成龍之說,大事更張,是各懷私忿,貽誤河工匪淺。且黃河自宿遷以下衝決,猶可修治,若宿遷而上或致泛濫,則爲害甚大。』因令馬齊、張玉書、圖訥前往確勘還奏。應如輔所定章程,無庸改。又因凱音布奏稱中河所行漕艘,慕天顏勒令退囬,支河之口不許閉塞,有旨著將慕天顏提京夾訊,嚴追唆使之人。尋天顏供稱,係成龍緘囑其照此辦理,帝亦不之究。

  二十八年,春正月,帝以張玉書等往閱河工,囬京奏言中河狹隘,欲於中河立三閘以減洩之而問,靳輔則云於二三十里之間應修小閘及涵洞,所言歧異,河工是非終無定論。因欲親臨河上察勘,車駕至濟南,乘舟由中河閱視河道,命於鎮口閘、微山湖等處開支河口,其黃河運道仍存而不廢,遂自清河縣渡黃河,至揚州,泊舟鎮江府之金山寺。 二月,帝至杭州,渡錢塘,謁禹陵。 三月,帝至淮安府,閱視高家堰一帶隄岸閘壩,以靳輔治河有功,復其官,令以原品致仕,有實心任事之褒。

  三十一年,春二月,河道總督王新命因事革職,復用靳輔爲河督。輔以老病固辭,不許,再賜佳哈御舟以旌異之。 三月,脩渾河隄。 夏四月,靳輔奏請復建新莊閘以利運道,又仲家閘下陶家莊地方應添造一閘,使兩閘行運,互相洩㵼,尤於黃中兩河大有禆益。 冬十一月,靳輔奏請於黃河兩岸栽柳種草,並設立涵洞。時輔力疾經畫西運,自清河至榮澤,達三門砥柱,安流無恙。事竣以病狀聞,命輔子副參領治豫,及內大臣明珠往視,尋薨于位,年六十,予祭葬,謚文襄。輔受命治河十餘年,精力俱瘁,而中河之役尤百世之利,論者謂功不在宋禮開會通。陳瑄鑿清江浦下云。 十二月,以于成龍爲河道總督。初輔受命治河時,值黃水四潰,不復歸海,清口運道盡塞。輔因上疏言:『清口以下不濬築則黃淮無歸,清口以上不鑿引河則淮河不暢,高堰之口不盡封塞則淮分而刷河不力,黃必內灌而下流清水潭亦危。且黃河南岸不隄則高堰仍有隱憂,北岸不隄山以東必遭衝潰,故築隄岸,疏下流,塞決口,俱有先後無緩急。今不爲一勞永𨓜之計,屢築屢圮,勢將何所底止?』疏入,羣臣多異議,帝特如所請,功未竟而于成龍等極言其失,輔遂解任去。後帝悟,復使輔充其事。輔旣卒,帝思之曰:『靳輔經理之任雖後來河臣,互有損益,而規模創置不能易也。』

  三十三年,春正月,九卿議覆河督于成龍奏請,增設河道官員及豁免民夫,俱不合,應革職。帝召成龍來京,詰以前日力詆靳輔及論減水壩宜塞不宜開,成龍引罪,命革職留任,戴罪圖功。

  三十八年,春二月,帝奉皇太后南巡,閱視河工。 三月渡河,相地高下,指示方略。命河督于成龍測量水土,繪圖以進。因諭大學士等曰:『水之不治,由洪澤湖水勢甚大,旣不能洩又加以黃運兩河合倂,勢愈浩瀚,故致泛溢。昔時原有歸仁隄遙爲捍禦,此法最善,今已淹没不可考。靳輔則築減水壩,名爲減水而四處奔瀉,漂決甚多。彼但顧上河而不顧下河,水何以治?惟有導河稍北,使不得侵入清水,而疏洩洪澤湖,使之下流,全用清水以刷淤沙則水自無不治矣。』

  三十九年,春二月,于成龍卒,調張鵬翮爲河道總督。 夏六月,河督張鵬翮奏稱:『遵旨看視海口,將欄黃壩盡行拆去,河身開濬深通。乞將攔黃壩改稱大通口,幷請建立河神廟。』

  四十年,春正月,加封河神爲顯佑通濟昭靈效順金龍四大王。因前河督張鵬翮奏海口疏通,黃淮二水交會,濟運神速,皆河伯效靈所致,請加河神封號,至是如所請行。 三月,張鵬翮請將上諭治河事宜敕下史館,纂集成書,詔卽著張鵬翮編輯呈覽。

  四十一年,秋九月,帝廵視南河。 冬十月,帝還京師。

  四十二年,春正月,帝廵視南河。 三月,帝還京師。

  四十四年,春二月,帝南廵。因兩河吿成,親往廵閱也。 夏閏四月,帝還京師。 秋七月,古溝、唐埂、清水溝、韓家莊四處隄岸潰決,革河督張鵬翮職,仍留任。

  四十六年,春正月,帝南廵閱河。 二月,以議開溜淮套,革河督張鵬翮宮保銜,從寬留任。 夏五月,帝追念靳輔治河功,著加贈太子太保,給拜他喇布勒哈圖世職。

  四十七年,冬十月,以秋汎工程平穩,著開復河督張鵬翮處分。自是兩河安𡩋,隄岸無虞,地平天成,一勞永逸之效也。

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