清史紀事本末諸儒の出処進退と学問のあらまし(諸儒出処学問之概)
要約
康熙十四年夏四月、容城の処士孫奇逢が卒した。象山・陽明を宗として朱子をも調和し、十一度召されて応ぜず年九十二で卒した。近い学派に李顒・顧炎武・黄宗羲ら、朱子学に陸世儀らがいた。
十八年春三月、博学宏儒の試に李顒・傅山・杜越は辞して赴かなかった。顒は盩厔の人、関中の学を任とし、省城に至らされると六日食を絶って自ら刺そうとしたので取りやめになり、以後は扉を閉ざした。山は陽曲の人、朱衣黄冠で土窟に母を養い、荘列を学ぶ者で仁義は口にするを恥じるといい、召されても城内に入らず、魏象枢が老病を上聞して試を免ぜられ中書舎人を加えられた。越は容城の人、弟子を教えて名を求めず、中書の銜を辞して帰った。
二十年春正月、明の遺臣顧炎武が卒した。崑山の人、亭林先生と称され、国変の後は諸生の身で義兵を唱えて魯王を助け、成らずに諸省を流浪して六度孝陵・思陵に詣で、晩年は要地の華陰に住んだ。薦めにも身を殉ずる覚悟を誓って免れ、年六十九で卒した。『日知録』は一代の学術のもととなり、『天下郡国利病書』『音学五書』も際立つ。黄宗羲・王夫之・顔元・劉献廷とともに五志士と称された。宗羲は余姚の人、梨洲先生と称され、画江の役に世忠営を号して義を唱え、日本に援兵を乞い、宏博に薦めようとする者は陳錫嘏が止め、明史修纂の薦めは固辞した。『明儒学案』は三百年の儒林の集まるところ、『明夷待訪録』の「原君」「原臣」はルソーの『民約論』の座を奪い、『律呂新義』は律学の祖である。夫之は衡陽の人、永暦の行人ののち石船山の観生居に門を閉ざして船山先生と称され、『正蒙注』『読通鑑論』『宋論』『黄書』は民権の理を発いた。元は習斎、嗜欲を忍び筋力を苦しめるを法門とし、『存性』『存学』『存治』『存人』を孔子の学として程朱と区別し、高弟に李塨・王源がいる。献廷は継荘、数十年流浪して経世を主とし、『新韻譜』を作ったが著書は散逸して『広陽雑記』のみ伝わる。近い者に唐甄・陳瑚・胡承諾・顧祖禹がいる。
四十三年夏六月、太原の処士閻若璩が卒した。『尚書古文疏証』で東晋に遅れて出た二十五篇を偽作と定めた。同じころの経師に胡渭・万斯大・万斯同・馬驌がいた。渭は『禹貢錐指』で九州の山川と郡の分合を弁じ、斯大は黄宗羲の高弟で『礼書』『春秋説』を作り、斯同は明史館で俸禄を受けなかったが、『読礼通考』『明史稿』は徐乾学・王鴻緒に奪われて自作として刻された。驌は『左伝事緯』『繹史』を著した。
四十四年夏閏四月、宣城の処士梅文鼎を召見した。天文暦算の著書は二十九種、帝は船中に三日留めて論じ合い絶学と称えた。のちの『暦象考成』は多く彼の手から出て王錫闡の『暁庵新法』を種本とする。
編者は言う、清初の諸儒は実践実用の学で唱え導いて明季の空想の弊は絶えたが、名臣にして名儒を兼ねるといわれた魏象枢・熊賜履・陸隴其・張伯行らが出ると、心力を科挙に集め性理を誇り、経世済民の学を講じなかったので、門戸は乱れ人材は日に卑しくなった、と。徐乾学は佞倖で進んだ者で、清廷が人心収拾に隠逸を召し宏博を挙げると山林をあさって迎合し、亡明の忠義の士に節を全うし得ぬ者を生じさせた。湯斌は旧将李玉庭を誘い殺し、李光地は友の陳夢雷を売って寵貴を得ながら日々忠孝を論じたが、聖祖は斌を斥け台臣は光地を弾劾した。毛奇齢は貴くなると師友も賢哲も敵とし、恩ある者に怨みで報いた。学界を害した賊は、前には湯斌・李光地の偽君子、後には奇齢ら真の小人より醜いものは無い。
乾隆二十三年夏五月、処士恵棟が卒した。呉江の人、父祖の家学を承け、『九経古義』『周易述』らは精博で、経学が呉派・皖派に分かれると呉派の開祖となり、弟子に江声・王鳴盛・銭大昕らがいる。皖派の領袖戴震は休寧の人、江永に学びのち棟と交わり、『孟子字義疏証』らを著し、学問は字を識るを第一義とする論は識者が正しいとした。『四庫全書』に召され、書目提要は大部分その手から出たが紀昀が名を占めた。弟子に段玉裁・王念孫・王引之・兪樾らがいる。敵対した桐城派の巨頭姚鼐の弟子方東樹は『漢学商兌』で両派を攻撃したが学は恵・戴の敵でなかった。浙東派では邵晋涵が『四庫全書』の編纂に加わり、全祖望は書院で節義を表彰し、章学誠に『文史通義』がある。
編者は言う、乾隆・嘉慶の間は経学の盛んな一時期で、呉派・皖派の疏注は国学とともに不朽たるに足る、と。桐城の文士は程朱に付き従ったが理学家でも経学家でもなく、王懋竑のみ朱子学でほぼ及第、唐鑑の『学案小識』は識者が狭陋とした。浙東の学は姚江に源を発し、邵晋涵・全祖望が南雷の統を存続させた功は偉大である。陳宏謀・李紱らは学界に影響が無く、紀昀・阮元・畢沅の輩も家を成せなかった。
道光二十二年秋七月、仁和の龔自珍が卒した。段玉裁に小学を、劉逢禄に『公羊春秋』を受け、史では西北の地理に長じた。上官に逆らって帰り、父と子は五か月のうちに相次いで卒した。年五十。その文集は専制政体に嘆きを寄せて人を思想の自由へ導き、「但だ風気を開くのみにして師とは為らず」の句がある。魏源は時務と地理に精しく、『海国図志』は対外の観念を奨励して、日本の佐久間象山・吉田松陰・西郷隆盛はみなこれに刺激されて維新の事があった。経に明るい者に李兆洛・皮錫瑞らがいる。
光緒二十四年夏四月、工部主事の康有為を召見した。南海の人、朱次琦に学び、広州の長興里に塾を設けた。九度の上書は達せず、強学会・保国会も禁じられたが名は天下に満ちた。翁同龢・徐致靖らの薦めにより総理各国事務衙門の勤務を命じられ、変法に鋭意の帝はその言を納れた。政変の前に京を出てイギリス艦の保護で難を逃れたが、弟の広仁、門人の林旭および楊深秀・楊鋭・譚嗣同・劉光第の六人は殺され、同龢は職を奪われ、端棻・蔭桓は新疆に流され、致靖は監禁された。有為はアメリカで同志を連合して新会を創った。著書に『孔子改制考』らがある。弟子の梁啓超は上海で『時務報』の主筆となり『変法通議』らを著し、陳宝箴らの招聘で湖南時務学堂の講席を主宰し、大学堂訳書局の事務を命じられた。政変では日本に難を逃れ、著述は『飲氷室文集』である。秋八月、京卿の譚嗣同らを殺した。瀏陽の人、旧学を捨てて西洋の学を究め、金陵で『仁学』を成した。湖南では新政の鉄路・学堂・南学会・『湘報』を画策し、気風を開いた。七月、徐致靖の推薦で軍機章京に抜擢され、楊鋭・林旭・劉光第と四軍機と称された。政変で捕らえられ、渡日を勧められても聞かず、「各国の変法は流血によらず成ったものはない。中国ではまだ聞かぬ。あるとすれば嗣同から始めたい」といって禍に遭った。年三十三。
二十九年秋八月、江西巡撫の夏時が湖南の挙人王闓運を江西学堂の総教習に招くことを奏請し、許された。湘綺先生と称され、召されても赴かず『湘軍志』を成した。諸将帥と忘年の交わりを結んだので戦事の記述は詳しく確かだが、直筆で曾氏を貶める言葉も多く、曾国荃と李元度は書を焼こうとした。書院で講席を主宰し、群経を注して『詩補箋』らを成した。弟子の廖平は『公羊』で六経を治めて著書百種に及び、康有為の『公羊』も淵源はかなり平から出ている。
三十三年春二月、已に故人の翰林院編修兪樾の学行を国史の儒林伝に列させよと詔した。曲園先生と称され、宰相に逆らって罷められ、著述を『春在堂集』という。
宣統元年冬十二月、遊学専門の厳復に進士を賜い編訂名詞館の事務を命じた。アメリカに遊学し、ハクスリーの『天演論』、アダム・スミスの『原富』らを訳した。算術家では李善蘭が『幾何原本』、華衡芳が『奈端数理』を訳した。
編者は言う、我が国人の思想の束縛はほとんど二十年に及んだが、龔自珍・魏源が今文で経を治めて人を思想の自由へ導いたのは新しい学界の兆しであった、と。これより今文説が世に出て王闓運・廖平が今学の大成を集め、康有為・譚嗣同が改革を唱え、さらに厳氏が西洋の新学を移し入れて思想は日ごとに進化してやまない。これら諸氏の賜物である。
年表
清一代の学者たちの出処進退と学問の系譜を、康熙十四年(1675年)の孫奇逢の死から宣統元年(1909年)の厳復まで、二百三十余年にわたって概観する。清初は孫奇逢・李顒・傅山・顧炎武・黄宗羲・王夫之・顔元・劉献廷らが節を守って徴召に応ぜず、実践実用の学を唱えた。ついで閻若璩・胡渭・万斯大・万斯同・梅文鼎らの経学・暦算が興り、乾隆年間には恵棟の呉派と戴震の皖派、姚鼐の桐城派、邵晋涵・全祖望・章学誠の浙東派が並び立った。道光以降は龔自珍・魏源が今文経学によって思想の自由を開き、王闓運・廖平を経て康有為・梁啓超・譚嗣同の変法に至り、光緒二十四年の政変で譚嗣同らが死んだ。編者は湯斌・李光地・毛奇齢らを学界の賊と難じつつ、龔・魏から厳復に至る流れが国人の思想を進化させたと結ぶ。
年表(11件)
- 西暦1675年 聖祖康熙十四年夏四月処士孫奇逢が九十二で卒し十一度の召しにも応じなかった
- 西暦1679年 康熙十八年春三月博学宏儒の試に李顒・傅山・杜越がいずれも辞して赴かない
- 西暦1681年 康熙二十年春正月明の遺臣顧炎武が六十九で卒し『日知録』などを遺す
- 西暦1704年 康熙四十三年夏六月閻若璩が卒し『尚書古文疏証』で古文二十五篇を偽作と定める
- 西暦1705年 康熙四十四年夏閏四月帝が徳州で梅文鼎を召見し暦算を論じて絶学と称える
- 西暦1758年 高宗乾隆二十三年夏五月処士恵棟が卒し呉派の開祖となり戴震の皖派と並ぶ
- 西暦1842年 宣宗道光二十二年秋七月龔自珍が五十歳で卒し魏源とともに今文経学を唱える
- 西暦1898年 徳宗光緒二十四年夏四月康有為が召見され変法に参画するが八月の政変で六人が殺される
- 西暦1903年 光緒二十九年秋八月江西巡撫夏時が王闓運を江西学堂の総教習に招くことを奏請する
- 西暦1907年 光緒三十三年春二月故編修兪樾の事蹟を国史の儒林伝に列するよう詔する
- 西暦1909年 末帝宣統元年冬十二月厳復に進士を賜い編訂名詞館の事務を取り扱わせる
現代語訳全文
西暦1675年 聖祖康熙十四年夏四月
- 容城の処士、孫奇達(下文には「奇逢」とあり、いずれかが誤りか)が卒した。奇達は字を鍾元といい、明の万暦庚子(万暦二十八年)の挙人である。若くして東林の諸子と交わり、気節をもって互いに尊び合った。
- その学術は象山(陸九淵)・陽明(王守仁)を宗とし、さらに朱子の説をも調和して通じさせ、理学の宗統を伝えるものとなった。とくに周(敦頤)・程・張(載)・邵(雍)・朱(熹)・陸(九淵)・薛(瑄)・王(守仁)および羅念・𤲅顧・涇陽(「羅念庵・顧涇陽」の誤りか)を表彰して十一子とし、別に諸儒の考を作ってこれに付した。
- 国が変わったのち、易州の五公山に入った。康熙八年、河を渡って蘇門に至り、水部郎の馬光裕が夏峰の田地と住まいを献じたので、そのまま居を移してそこに住み、子弟を率いて自ら耕した(底本は「恭耕」に作る。「躬耕」の誤りか)。四方から学びに来て留まることを願う者にも、田を授けて耕させ、住むところは人の集まる里となった。
- 前後あわせて十一度も召し出されたが、いずれも応じなかった。そしてこのとき卒した。年は九十二であった。
- 四男の博雅は字を君僑といい、最も名を知られた。隠逸として召し出されようとしたが、力を尽くして辞した。平生、孝と友愛を重んじた。卒するに及び、士林はその義を高しとして文孝先生と称した。
- 当時、学派が奇逢と近かった者としては、李顒・傅山・顧炎武・黄宗羲・王夫之・顔元・劉献廷の諸人のほか、なお祁州の刁包(蒙吉)、山陰の劉汋(伯縄)、無錫の高世泰(彙旃)、余姚の沈国模(求如)、仁和の沈昀(甸華)がいた。
- また専ら朱子学を治めた者には、太倉の陸世儀(桴亭)、済南の張爾岐(蒿庵)、桐郷の張履祥(楊園)、また仁和の応撝謙(潜斎)、南豊の謝文洊(約斎)、絳州の李生光(閣章)、崑山の朱用純(伯廬)といった人々がいる。学派の別は同じではないが、要するにみなそれぞれ聞くところを尊んで、門戸の見を持たなかった。
西暦1679年 康熙十八年春三月
- 内外から薦挙された博学宏儒を体仁閣で試験したが、李顒・傅山・杜越は辞して赴かなかった。
- 顒は字を中孚といい、晩年みずから二曲と署した。陝西の盭屋(盩厔の誤りか)の人である。関中の学を盛んにすることを自らの任とし、学ぶ者はまず象山(陸九淵)・慈湖(楊簡)・陽明(王守仁)・白沙(陳献章)の書を見て、心性を明らかにし、まっすぐに根本のはじめを指し示し、そののちに二程・朱子および康斎(呉与弼)・敬軒(薛瑄)・涇野(呂柟)・整庵(羅欽順)の書を取って、玩味し探求して実践の功を尽くすべきだ、と説いた。
- はじめは隠逸として薦められ、次いで宏博の科に召されたが、いずれも病と称して辞した。このとき召して試験せよとの旨があり、大吏が出発をせき立てたが、固辞した。病が重いとして、その寝台をかつがせて省城に至らせると、六日間食を絶ち、ついには刀を抜いて自ら刺そうとしたので、大吏は驚いて取りやめた。
- そこで嘆じて言った。「我が名を生んだものが、我が身を殺すのだ。これはみな平生、心を洗うことが綿密でなく、自ら世に隠れきれなかったことの招いた結果である。」以後は柴の扉を内から閉ざし(底本は「反鏆」に作る。「反関」の誤りか)、人と交わらなかった。著した書は人に示さず、耳から入って口から出るだけの学に近いとして、ただ『反身録』だけを学ぶ者に示した。
- 晩年は兵乱の気配のために富平に移り住み、同郡の李天生(因篤)、郿県の李雪木(柏)とともに「関中の三李」と称された。門人の王心敬は号を澧川といい、鄭県(鄠県の誤りか)の人で、よくその学を伝え、二度賢良方正に挙げられたが、いずれも赴かなかった。
- 山は字を青主といい、山西陽曲の人である。王朝が改まったのちは朱衣に黄冠の姿をして、土窟に住んで母を養い、しかも天を仰ぎ見、地を俯して察することを、一日として止めたことがなかった。学を問う者があれば告げて言った。「老夫は荘子・列子を学ぶ者である。この世間のさまざまな仁義の事柄については、実のところ口にするのを恥じる。」あるいは強いて宋の諸儒について問えば、言った。「どうしてもというなら、わしは同甫(陳亮)を取る。」
- このとき給諫の李宗孔が薦めたが、病と称して固辞した。役人が無理に出立させ、京に着こうとするや、死をもって拒んで城内に入らなかった。閣臣の馮溥に公卿を率いて出迎えるよう命じたが、かつがれた寝台の中に頑として横たわったまま、礼をしようとしなかった。憲臣の魏象枢がそこでその老病を上聞し、詔して試験を免じて帰らせ、あわせて中書舎人を加えた。
- 溥がそこで参内して謝恩するよう勧めたが、承知しない。賓客の百皋に説得させ、そこで病が重いと称して、かつがせて入らせた。午門を望み見ると、涙がはらはらと落ちた。溥が脇を支えて謝恩させようとすると、地に倒れ伏した。象枢は急いで進み出て言った。「よい、よい、これがすなわち謝恩である。」
- 翌日帰るとき、宰輔以下がみな城を出て見送った。山は突然嘆じて言った。「今より後は、さっぱりと我が身を煩わすものが無くなる。」やがて大声で溥に向かって言った。「もし後世、みだりに我を劉因の輩の類として賢人扱いするようなことがあれば、死んでも目を閉じられぬぞ。」聞く者は舌を巻いた。
- 越は字を君異といい、容城の人である。明の諸生で、家に居て弟子を教え、名が世に聞こえることを求めず、毅然として往聖を継ぎ来学を開くことを自らの任とした。一時の才俊の士は遠近を問わずみなこれに師事した。
- このとき無理に起こされて都に入り、傅山とともに中書の銜を加えられたが、衰えと病を理由に辞して帰った。当時ともに召された者には、なお寧都の魏叔子(禧)、長洲の蔡九霞(方炳)、銭唐の馮山公(景)がいたが、みな至らなかった。
西暦1681年 康熙二十年春正月
- 明の遺臣、顧炎武が卒した。炎武は字を寧人といい、学ぶ者は亭林先生と称した。江蘇崑山の人である。
- 国が変わったのち、諸生の身で郷里において真っ先に義兵を唱え、魯王の監国の事を助けた。それが成らないと、さらに海上に赴いて鄭氏と通じようとしたが、道が塞がって進めなかった。
- そこで秦・晋・斉・豫・燕・代・淮・浙に流浪の旅をし、あわせて六度孝陵に詣で、六度思陵に詣でた。至るところの要害の地では、いつも老兵や退役の兵卒を呼んで、その詳しい事情を尋ねた。
- 晩年は陝西の華陰に住み、その地は関中と河南との出入り口を締めくくる要地であって、変事があれば山に入って険を守るのに十里の距離にも満たず、もし志が四方にあるなら、ひとたび関門を出れば瓶の水を高屋から落とすような勢いの便もある、と言った。そこで華山のふもとに田五十畝を置いて朝夕の糧にあて、東西のあいだの開墾から得た収入は別に蓄えて、事あるときに備えた。
- 閣臣の熊賜履らが前後して薦め、宏博の科に応じて『明史』を修めさせようとしたが、いずれも書を送って身を殉ずる覚悟を誓い、免れることができた。卒したとき年は六十九であった。
- 著述は豊富で、そのなかでも特に優れたものを『日知録』といい、一代の学術の出てくるもととなった。『天下郡国利病書』および『肇域志』は、今に至るまで学ぶ者の参考の用に供されている。そのほか『音学五書』『金石文字記』なども、みな際立ったものである。
- 平生、母の遺訓を守って他民族に臣従せず、国事に数十年奔走しながら、ついに何ら補い救うところが無かった。その志もまた悲しむべきである。
- 当時の同志には黄宗羲・王夫之・顔元・劉献廷がおり、時に五志士と称された。
- 宗羲は字を太沖といい、学ぶ者は梨洲先生と称した。浙江余姚の人である。明の崇禎末に閣臣の周延儒が薦めて中書としたが、辞して就かなかった。
- 画江の役では郷里の子弟数百人を糾合して世忠営と号し、孫嘉績らに従って江上に義を唱えた。軍が敗れると砦を結んで自ら固め、さらに馮京第の副となって日本に援兵を乞うた。関所を越えて転々と移り住むこと二十年近く、母を奉じて郷里に帰り、力を尽くして著述した。
- その学は濂洛の系統をもって諸家を総合し、横渭(横渠の誤りか)の礼教、康節(邵雍)の象数、東莱(呂祖謙)の文献、艮斎(薛季宣)・止斎(陳傅良)の経術、水心(葉適)の文章、いずれをも傍らから推し究めて互いに通じさせないものはなかった。
- 康熙十七年、宏博の科に薦めようとする者があったが、庶常の陳錫嘏は「それは先生を畳山(謝枋得)・九霊(戴良)のように身を殺させることになる」と言って、力を尽くしてこれを止めた。徐元文が薦めて『明史』を修めさせようとしたが、これも固辞した。詔してその著述を写して進めさせた。
- 著すところ、たとえば『明儒学業』(『明儒学案』の誤りか)六十二巻は、三百年の儒林の集まるところである。『明夷待訪録』の「原君」「原臣」の諸篇は、ほとんどルソーの『民約論』の座を奪うほどであり、その他にもまた法治の精神がある。『律呂新義』二巻は、これ以後、律学を語る者がみなこれを祖とした。『句股図説』『開方命算』『測図要義』あわせて若干巻があり、その後、梅文鼎が『周髀』に本づいて暦を論じ、世は絶学として驚いたが、実はこの書がそれを啓いたのである。
- 康熙三十四年に卒した。年は八十六であった。弟の宗炎は字を晦木、宗会は字を石田といい、学ぶところは同じであった。子の百家は字を主一といい、よくその学を世々受け継いだ。
- 夫之は字を而農といい、湖南衡陽の人である。明の崇禎壬午(崇禎十五年)の挙人。永暦の朝廷が建てられると行人を授けられ、楚・粤・滇・黔の諸省を転々と移った。緬甸(ビルマ)で永暦帝の朝廷が覆ると、そのまま身を晦まし隠して、郴・永・漣・邵のあたりに足跡を残した。
- 最後に衡陽の石船山に帰り、土室を築いて「観生居」と名づけ、朝も夕も門を閉ざしていた。学ぶ者は船山先生と称した。平生、横渭(横渠の誤りか)を崇拝した。著すところの『正蒙注』『思問録』『読通鑑論』『宋論』『黄書』の諸種は、よく天と人の理を明らかに通じ、民権の理を発いており、いずれも傑作である。
- 兄の介之は号を石厓といい、壬午(崇禎十五年)に同じく郷試に挙げられたのち、国の変に遭って、そのまま隠居して世に出なかった。子の敔は字を虎止といい、博学で文名があった。
- 元は号を習斎といい、直隷博野の人である。勇気と知略があり、射を善くし、常に竹を折って刀とし、それで剣客に勝った。手綱を離して馬を馳せながら射て、六つの的に命中させ、日々その門徒とともに射圃で練習し、終身衰えることがなかった。
- その学は、もっぱら嗜欲を忍び筋力を苦しめるという趣旨を掲げ、それを学道の唯一の法門とした。その著述は、しばしば宋の滅亡に際して才士が挫折してその用を尽くせなかったことを嘆息しており、その志は察することができる。『存性』『存学』『存治』『存人』の四篇があり、これをもって孔子の学とし、みずから程朱と区別した。その高弟の蠡県の李剛主(塨)、大興の王崑縄(源)は、いずれも著作が多い。
- 献廷は号を継荘といい、先祖はもと呉の人であったが、大興に寄籍した。それゆえ足跡は多く江南にあった。数十年間流浪して、ほとんど中国の大半を尽くしたが、その行跡は異様で、秘密結社の運動家のふるまいに類するところがあった。
- その学は経世を主とし、天文の象・律暦(底本は「律厝」に作る。「律暦」の誤りか)から辺塞の関所の要地、財賦・軍政の類に及び、傍らは医方や仏老の家の言説にまで及んで、研究しないものはなかった。
- みずから音韻の学については別に窺い得たところがあると言い、かつて『新韻譜』を作った。華厳の字母を基本とし、これに天竺の陀羅尼、泰西の爉頂(「蠟頂」の誤りか)、小西天の梵書および天方、蒙古・女真などの音を参照した。
- また地理学を発明し、地理は社会の治め方と密接な関係があると説いた。その言うところは西洋の地理学者と同じである。惜しむらくは著した書は多く散逸し、伝わるものは『広陽雑記』一書のみである。
- 平生、学を講じた友は王夫之・王源の二人のほか、南豊の梁質人(份)、無錫の顧畇滋(培)がおり、とりわけ心服していたのは南昌の彭躬庵(士望)であった。
- 同じころ学派が諸人と近かった者としては、なお達県の唐鋳万(甄)がおり、『潜書』二篇四巻を著して、よく民権の公理を発いた。太倉の陳確庵(瑚)は、かつて全史を編んで四大部とし、政事と人文とによって区別したが、いずれも手ずから書き写して熟読し、暗誦することができた。その他の著述は農田・水利・兵法に関するものがことに多い。天門の胡石荘(承諾)には『繹志』六十一篇があり、無錫の顧景范(祖禹)には『読史方輿紀要』百二十巻がある。
西暦1704年 康熙四十三年夏六月
- 太原の処士、間若璩(「閻若璩」の誤りか)が卒した。若璩は字を百詩といい、明の諸生である。『尚書古文疏証』八巻を著し、東晋になって遅れて世に出た二十五篇が偽作であることを定めた。卒したとき年は六十九であった。
- 同じころ経師として称された者に、胡渭・万斯大・万斯同・馬驌がいる。
- 渭は字を東樵といい、浙江徳清の人である。『禹貢錐指』を著し、漢の孔安国、唐の孔穎達、宋の蔡沈らの著作は地理について粗略・誤りが多いとして、広く群書を引いて九州の山川の形勢および古今の郡の版図の分合・異同を弁じ、さらに図を作ってこれを表した。
- 斯大は字を充宗といい、鄞県の万氏の八人の子は、みな黄宗羲の高弟である。斯大は兄弟の序列では第六にあたる。幼いころから科挙の業を事とせず、広く群経を究め、とりわけ『春秋』と三礼に精通した。『礼書』三百巻、『春秋説』二百四十巻を作った。同郷の李杲堂(鄴嗣)は、かつて「経を説くこと無双、名は八龍に擅ままにす。昔は慈明あり、今は充宗を見る」と言った。
- 斯同は斯大の末弟で、字を季野といい、学ぶ者は石園先生と称した。史学に精しく、とりわけ明代の故実に詳しかった。かつて宏博の科に薦められたが、力を尽くして辞して免れた。のちに明史館の席に就いたが、官の俸禄は受けず、みずから「国史の権を握って故国に報いたい」と言った。卒するに及び、門人は私に貞文と諡した。著した稿はみな弟子の銭名世に持ち去られ、その『読礼通考』『明史稿』は、また徐乾学・王鴻緒に奪われて自分の作と称して刻された。
- 驌は字を宛斯といい、山東鄒平の人である。『左伝事緯』および『繹史』を著した。
西暦1705年 康熙四十四年夏閏四月
- 宣城の処士、梅文鼎を召見した。文鼎は字を定九といい、若いころ弟の文鼐とともに天文暦算の学を修め、著書は二十九種にのぼる。
- 四十一年、帝が南巡して徳州に至ったとき、その書を取り寄せて留め置き閲覧するよう命じた。このとき帝が再び徳州を通り、参内して対応するよう命じ、御製の暦算の書を出して論じ合い、船中に留めること三日に及んだ。帝は撫臣の李光地に語って、絶学であると称えた。
- はじめ文鼎が算を学んだとき、淄川の薛儀甫(鳳祚)、呉江の王寅旭(錫闡)の著した算書を読み、いずれにも会得するところがあったが、とりわけ錫闡の『暁庵新法』に心服した。のちに帝が作らせた『暦象考成』は、多くが文鼎の手から出たものであり、いずれも錫闡を種本としている。
史論(編者曰)
- 編者は言う。清初の諸儒は実践実用の学をもって互いに唱え導き、一時は風になびくように従う者が多く、明の李(「明季」の誤りか)の詭弁・空想の弊はほとんど絶えた。ところが、いわゆる名臣にして名儒を兼ねる者と称された魏象枢・魏裔介・熊賜履・陳鵬年・陸隴其・張伯行といった人々が現れると、彼らは相ともに心力を科挙の業に集め、あるいは性理を大げさに論じて高きを誇り、先王の経世済民の学は一概にこれを迂遠だとして(「日」は「曰」の誤りか)講じなかった。門戸は入り乱れ、人材もまた日に日に卑しくなり、ついに天下に人材が乏しいという嘆きを生じさせた。
- 徐乾学のごときに至っては、佞倖の縁によって進んだ者で、もとより学を知らない。折しも国人が明を思ってそむき動き、落ち着かない時であった。清廷は人心を収拾するはかりごととして、隠逸を召し、宏博を挙げ、明史館を開き、蒲を巻いた車輪の車を四方に走らせ、うわべを飾り優しい言葉で人を求め、「賢を尊ぶ」といい「才を求める」といった。乾学はこの時機を利用し、あくせくと山林をあさり探って迎合し、あるいは利禄をもって心を動かし、あるいは威勢をもって迫り脅した。鴻は冥々たる空高く飛ぶ、射手はどうしてこれを捕らえられよう。それがついに、亡明の忠義の士のなかに、書を読み道を行うこと数十年でありながら、海上に節を全うすることを得られぬ者を生じさせた。ああ、痛ましいことである。
- 湯斌は明の旧将の李玉庭を誘い出して殺し、李光地は友の陳夢雷を売って耿氏・鄭氏を滅ぼし、いずれもそれによって寵と貴い地位を得た。しかもこの二人は日々忠孝を論じていた。ほどなく聖祖は君を欺いたかどで斌を斥け、台臣は親を忘れ位を貪るとして光地を弾劾したのである。その人となりは士の列に加えるに値しないのに、みなひそかに朱・程・陸・王に付き従って、大儒として当時に名を知られた。世を欺くことのはなはだしさは、これ以上のものがあろうか。
- 毛奇齢は虫を彫るような小技と人に取り入る才をもって、つてを求めて詞翰の任に加わることができた。貴くなると、その師友および宋明の前代の賢哲をあまねく敵とし、およそ自分に恩のあった者には、みな怨みをもって報いた。しかも妻を捨てて、妻に訴え出られる始末であった。その門人の張希民は、奇齢は七言八句を作るのにも必ず獺の祭りのように書物を並べ広げねばできなかった、と言った。すると奇齢は客に向かってこれを罵り返した。その軽薄で恥知らずなことはここまで極まっていた。それなのに世の人はこれを儒者として尊ぶ。見識の無さもはなはだしい。
- ゆえに当時の学界を害した賊を論ずるならば、前には湯斌・李光地の輩が偽君子として互いに導き合ったのより悪いものは無く、後には奇齢らが真の小人であることを自ら誇ったのより醜いものは無い。一代の学徒の節義の風儀は、おそらくここから始まったのであろうか。
西暦1758年 高宗乾隆二十三年夏五月
- 処士の恵棟が卒した。棟は字を定宇といい、江蘇呉江の人である。幼くしてその祖父の周惕、父の士奇の家学を受け継ぎ(「丞」は「承」の誤りか)、経史・諸子百家の雑説から仏道二蔵に至るまで、渡って究めないものはなかった。著すところ、たとえば『九経古義』『周易述』『明堂大道録』『古文尚書考』『左伝補注』は、いずれも精密博識で会得するところがある。
- 当時、経学は盛んに行われ、呉派・皖派の二派に分かれたが、棟は呉派の開祖となった(「間祖」は「開祖」の誤りか)。その以前にもすでに長洲の何義門(焯)、沈帰愚(徳潜)、呉江の沈冠雲(彤)、陳少章(景雲)がおり、みな博く通ずることを尊び、経史と文辞をあわせ治めていた。
- 棟の弟子で最も著名な者は、同郷の江艮庭(声)、余古農(蕭客)、嘉定の王西荘(鳴盛)、銭竹汀(大昕)、青浦の王蘭泉(昶)、江都の汪容甫(中)、劉端臨(台拱)であり、蕭客の弟子の江鄭堂(藩)もまた名を知られた。
- 皖派の領袖を戴震といい、字は東原、休寧の人である。若くして婺源の江慎修(永)に学び、のちに棟と交わってその学を伝えた。『孟子字義疏証』『方言疏証』『考工記図』『声韻考』『声類表』『爾雅文字表』を著し、そのほか暦算や水利・地理に関する著述もなお多い。学問を求めるには字を識ることを第一義とするという論は、識者がこれを正しいとした。挙人の身で召されて『四庫全書』の編纂に加わり、その書目提要は大部分がみなその手から出たものだが、紀昀がその名を占めているのである。
- その郷里の同学で名声のある者は金輔之(榜)、程易疇(瑶田)で、後には凌次仲(廷堪)および胡樸斎(匡衷)、胡文水(承珙)、胡竹邨(培暈)がいる。戴震の弟子で著名な者は興化の任幼植(大椿)、余姚の盧抱経(文弨)、曲阜の孔巽軒(広森)であり、なかでもとりわけ著名なのは金壇の段若膺(玉裁)、高郵の王懐祖(念孫)、念孫の子の伯申(引之)、徳清の兪蔭甫(樾)、丹徒の馬眉叔(建忠)である。継いで起こった者は郝懿行・桂馥・侯康・陳澧・馬瑞辰・陳立・陳奐・劉文淇・鍾文蒸・劉宝楠・焦恂・龔麗正・朱右曾・陳喬樅である(底本はこの後に「齊詩翼」の三字を置く。陳喬樅の著『斉詩翼氏学疏証』の書名が紛れ込んだものか)。
- 当時、呉派・皖派と敵対した者としては桐城派がある。派中の巨頭は姚姫伝(鼐)であり、鼐は古文辞をよくし、その郷里の先輩である方望渓(苞)に倣い、劉海峰(大櫆)および自分(鼐)の伯父である姜䲧(範)から法を受けた。鼐の弟子の方植之(東樹)は、かつて両派に挑戦し、『漢学商兌』を著して力の限り攻撃した。その文辞は美しく整っていたが、その学は恵棟・戴震の敵ではなかった。
- また浙東派というものがあり、余姚の邵晋涵、鄞県の全祖望、会稽の章学誠をその派中の巨頭とする。晋涵はその郷里の人である王守仁・劉宗周・黄宗羲の学を私淑し、経では『春秋』三伝および『爾雅』に深く、史ではとりわけ明代の故実に詳しかった。『四庫全書』および国史の編纂に加わった。作る文は奥深く広く、深遠で美しく、学ぶ者はこれを宗として二雲先生と称した。
- 祖望は字を謝山といい、進士となって官についたばかりで、すぐに辞して帰り、蕺山・端渓の諸書院を主宰した。講学の余暇には、広く郷里の故実、王朝交替の際の遺聞を修め、節義を表彰することは、及ばないのを恐れるかのようであった。学誠は字を宝斉といい、『文史通義』がある。
- そのほか陽湖の趙甌北(翼)、瑞金の羅台山(有高)、呉県の汪大紳(搢)、長洲の彭尺木(紹升)は、みなこの派とやや近い。
史論(編者曰)
- 編者は言う。乾隆・嘉慶の間は、経学が明らかに盛んになった一時期である。諸経師の家の疏注の宏大博識で精密確実なことは、国学とともに不朽たるに足るものがある。呉派・皖派のごときがそれである。
- 桐城の文士はみずから程朱に付き従ったが、結局のところ伝えるべきものが無く、理学家でもなければ経学家でもなかった。そのなかに宝応の王白田(懋竑)という者がおり、朱子学を治めることにおいてはほぼ及第と言えよう。『朱子年譜考異録』を著している。善化の唐鏡海(鑑)は、琦善・耆英らを弾劾したことで直言の声望を著し、その気骨をうかがうに足りるが、その作った『学案小識』はもっぱら門戸を保つもので、識者はこれをかなり狭く陋いものとした。
- 浙東の学は姚江(王守仁)に源を発し、邵晋涵・全祖望が南雷(黄宗羲)を助け守ってその一筋の系統を存続させたのであり、その功もまた偉大である。
- そのほか陳宏謀・楊名時・朱軾・李紱・孫嘉洤らは、みな朱子学をもって自ら鳴らしたが、学界には実のところ何の影響も無かった。
- 紀昀・阮元・畢沅の輩に至っては、漢学を鼓吹することもまた甚だ力があったように見える。しかし地位が高く任務が重く、わずかに文学・政事の余暇に、たまたま合い間を得て経を治めた程度であり、著述はしばしば人の手を借りることが多かった。それゆえ、いずれもみずからその家を成すことができず、取り立てて言うに足りない。
西暦1842年 宣宗道光二十二年秋七月
- 仁和の龔自珍が卒した。自珍は麗正の子で、号を定盦といい、己丑(道光九年)の進士、官は礼部主事である。
- 幼くして母方の段玉裁に従って小学を受け、長じては陽湖の劉申受(逢禄)に従って『公羊春秋』を受けた。武進の荘方耕(存与)の経学以来、要約して『春秋公羊伝』を取り、逢禄がその学を伝えて『公羊釈例』を作った。それゆえ自珍の経学はみな荘・劉から汲んだものである。史においては西北の地理に長じたが、これは益友である桐郷の程春廬(同文)およびその先輩の大興の徐星伯(松)から得たものである。
- その人は抜きん出て英気があった。太平の世に生まれ合わせ、国じゅうが酔い夢みているなかで、ひとり落ち着かず、重い憂いを抱いているかのようであった。ある事で上役の官に逆らい、親の養いを願い出て帰り、二年住んだが、父と子は前後して五か月のうちに卒した。年は五十歳であった。
- 文集三巻、続集四巻がある。集中の諸篇は専制政体に対して深く嘆きと恨みを寄せ、また社会学に明るい。それゆえその文はしばしば人を思想の自由へと導く。みずから、生涯、門弟子を抱えないと言い、かつて詩を賦して志を示し、「但だ風気を開くのみにして師とは為らず」の句がある。
- 当時これと名を斉しくした者に魏源がおり、龔・魏と称された。
- 源は字を黙深といい、湖南邵陽の挙人で、官は高郵の州牧である。はじめ経を治め、のちさらに時務に心を尽くし、とりわけ地理学に精しかった。『詩古微』『書古微』『公羊微』『春秋繁露注』などの書を著し、また『海国図志』があって、国民の対外の観念を奨励した。日本の平象山(佐久間象山)、吉田松陰、西郷隆盛の輩は、みなこの書に刺激されて、尊王攘夷・維新の事があったのである。
- 龔・魏と前後して経に明るいことで知られた者には、なお陽湖の李申者(兆洛、「申耆」の誤りか)、長洲の宋于庭(翔鳳)、仁和の邵位西(懿辰)、姚平泉(光晋)、善化の孫鼎臣、孫詒譲、皮鹿門(錫瑞)がいる。
西暦1898年 徳宗光緒二十四年夏四月
- 工部主事の康有為を召見した。有為は字を広夏、号を長素といい、広東南海の人である。幼くしてその祖父の賛修の家学を承け、子供のころからすでに聖賢を志した。郷里の人は戯れにこれを呼んで「聖人為」と言った。思うに、口を開けばすぐ聖人を称し、しかもその名が有為であったからである。
- 長じて同郷の朱九江(次琦)の門に遊び、その後さらに仏典に心を潜め、ひとり西樵山に四年こもった。世に出て気ままな漫遊をし、北は山海関を出て万里の長城に登り、南は江漢に遊び、東は孔林に詣で、そのまま燕・斉・楚・呉・荊襄の間に足跡を残した。続いて西のかた長江の峡谷をさかのぼって桂林に行き、帰って粤城(広州)の長興里に賞舎(塾舎)を設け、ほどなく桂林で学を講じた。
- その学は孔子の学・仏学・宋明の学をもって体とし、史学・西学をもって用とする。その教科は音学から兵式体操の諸科に至るまで、備わらないものはなかった。
- 前後あわせて九度上書したが、いずれも上には達しなかった。二度京師で会を開き、強学会といい保国会といったが、いずれも間もなく政府に禁じられた。しかしこれより名は天下に満ち、これを崇拝する者は康先生と称し、あるいは康南海と言った。
- このとき大学士の翁同龢、尚書の李瑞棻(下文には「端棻」とあり、いずれかが誤りか)、侍郎の張蔭桓、学士の徐致靖、給事中の高燮曾が前後して上疏して薦めたので、ついに召見された。ほどなく総理各国事務衙門で勤務するよう命じられた。帝はちょうど鋭意変法を行おうとしており、その言を納れないことはなく、それゆえ企画立案するところが多かった。
- 八月の政変に至ったが、すでにその前に詔を奉じて京を出ており、イギリス艦の保護によって難を逃れた。その弟の広仁、門人の林旭および楊深秀・楊鋭・譚嗣同・劉光第ら六人は、みな殺された。同龢は職を奪われて監視下に置かれ、端棻・蔭桓は新疆に流され、致靖は永遠監禁とされた。
- 有為はアメリカ大陸に着くと、国内外の同志を連合して新会を創り、将来をはかった。のちに庚子(光緒二十六年)七月の漢口の役があった。その国事に尽くしたさまは、努め励んで力を尽くしたと言うことができよう。著すところに『公理通』『孔子改制考』『春秋三世義』『大同学説』がある。
- 弟子で最も著名な者は梁啓超で、広東新会の人、字は卓如、号は任公である。光緒二十一年春、日清の和議が成ると、啓超はそのとき京師にいて、広東省の挙人百九十人を代表して上書し、時局について述べたが、取り上げられなかった。翌年、上海に至って『時務報』の主筆となり、『変法通議』『西学書目表』などの書を著した。
- そのまた翌年、使臣の黄遵憲・伍廷芳、疆吏の王文韶・張之洞、大理卿の盛宣懐が前後して薦めて招いたが、いずれも就かなかった。湖南巡撫の陳宝箴、督学の江標が招聘して湖南時務学堂の講席を主宰させた。その講学は精神教育を重んじた。漢口の役の烈士である林述唐(圭)、李虎村(炳寰)、田均一(拝璸)、蔡樹珊(鍾浩)は、みなその門から出た者である。
- 啓超が湖南にいたとき、折しも省中に南学会と『湘報』が創設され、その助け尽くした力はとりわけ多かった。この年五月、侍郎の徐致靖および総理衙門がそろって上章して薦め、召見され、大学堂訳書局の事務を取り扱うよう命じられた。
- 八月の政変に及び、日本人の義俠によって難を逃れた。日本に着くと、東京に『清議報』および学校を設け、ほどなくハワイ島で『維新報』を創った。二十六年六月、拳匪の乱を聞いて急ぎ上海に戻り、何ごとかをはかろうとしたが、上海に至った翌日に漢口の難が起こり、去って香港に行き、オーストラリアに遊び、ふたたび日本に至って『新民叢報』『国風日報』『新小説』を設けた。その著述で刊行されたものが『飲氷室文集』である。
- 秋八月、京卿の譚嗣同らを殺した。嗣同は字を復生、号を壮飛といい、湖南瀏陽の人である。若くして並外れた資質があり、学問においては窺わないものが無く、日々新たであることを宗旨とした。かつて考拠・箋注・金石・彫刻・詩古文辞の学を修め、とりわけ中国古来の兵法を読むことを好んだ。のちにそれらをことごとく捨て去り、西洋の天文暦算・物理化学・政治・歴史の学に心を究め、いずれにも会得するところがあった。
- 二十歳のころ新疆で従軍し、そのまま直隷・新疆・甘粛・陝西・河南・湖南・湖北・江蘇・安徽・浙江・台湾の各省を往来した。日清の戦事ののち、いよいよ発奮して新学を提唱し、瀏陽に学会を設けた。ほどなく父の命により金陵で官に就き、候補知府となって順番待ちをすること一年、門を閉ざして著述し、『仁学』一書を成した。
- 当時、義寧の陳宝箴が湖南を巡撫し、慨然として湖南の開化を自らの任とし、按察使の嘉応の黄遵憲、督学の仁和の徐仁鋳、前の学政である元和の江標とはかって、大いに志士を湖南に集め、新政を行って諸省の先駆けとしようとした。嗣同を促して帰らせ、湖南の内河の小型汽船、商弁の鉱務、湘粤鉄路、時務学堂、武備学堂、保衛局、南学会、『湘報』は、みな彼が唱え論じ画策したものである。
- そこで彼を南学会の学長とした。会に臨むたびに演説し、慷慨して天下の事を論じ、聞く者はみな感動しないことがなく、一時に気風が大いに開けた。その功が最も多い。
- この年七月、侍郎の徐致靖の推薦により参内して対応し、四品卿の銜に抜擢されて軍機章京となり、楊鋭・林旭・劉光第とともに新政に参預し、称して四軍機といった。
- そしてこのとき政変が起こり、ともに捕らえられた。難が起ころうとする前日、日本の志士数人が力を尽くして嗣同に日本へ渡ることを勧めたが、聞き入れなかった。強いて勧めると言った。「各国の変法は、流血によって成らなかったものはない。いま中国では、まだこれがあったと聞かない。これがこの国の栄えない理由である。あるとすれば、どうか嗣同から始めさせてほしい。」そのまま禍に遭った。年は三十三であった。
- 著した書は『仁学』のほかに『寥天一閣文』『莽蒼蒼斎詩』『遠遺堂集外文』『興算学議』『思緯吉凶台短書』『壮飛楼治事』『秋雨年華録』『叢脞書』『剣経衍葛』『印録』の各種があり、また政論数十篇はみな『湘報』に見え、友と学を論じ事を論じた書簡が数十篇ある。
西暦1903年 光緒二十九年秋八月
- 江西巡撫の夏時が、湖南の挙人である王闥運(下文には「闓運」とあり、いずれかが誤りか)を招いて江西学堂の総教習とすることを奏請し、これに従った。
- 闓運は字を壬秋といい、学ぶ者は湘綺先生と称した。湘潭の人である。郷試に挙げられたのちはいよいよ経史に志を刻み、立身出世に意を向けなかった。同治から光緒中葉まで、しばしば薦められ召されたが赴かず(底本はここに「不」を欠くか)、心を尽くして著述し、『湘軍志』一書を成した。もとより早くから名を知られていた。
- 咸豊・同治の諸将帥である曾国藩・駱秉章・胡林翼・左宗棠・丁宝楨・彭玉麐の類は、みな年齢の序列を曲げて彼と忘年の交わりを結んだ。それゆえこの書が当日の戦事を記述するのは、目で見たのと異ならないほど詳しく確かである。事が定まると書もすぐに出て、その事に関わった諸人は、とりわけ先に見るのを喜びとして争って買い求めた。しかし記すところはみな直筆で、へつらい好むところが無く、曾氏に対しても貶める言葉が多く、事実を記したのである。
- 国藩の弟の国荃および国藩の門人の李元度は、その書を焼こうとしたほどで(「燩」は「燬」の誤りか)、広く行われているために重い資金を懸けて買い取ろうとしたが、応じる者は少なかった。今なお存する書は十のうち八、九である。その価値は察することができる。
- 前後して友人および地方の人士の請いに従い、四川の尊経書院に八年、衡州の船山書院に十年、思賢講舎に三年、講席を主宰した。その余暇に群経をあまねく注し、『詩補箋』『周官(箋)』『儀礼(箋)』『礼記箋』などの書を成した。
- このとき江西が学堂を開設するにあたり、巡撫の夏時が上疏して招聘し主教に充てたいと請い、奏が入って許可された。
- 子の代豊は幼くして聡明であったが早く卒し、代功が学を積んで最も名を知られた。その弟子でとりわけ著名な者を廖平といい、字は季平、四川井研の人である。進士となったのち仕官を楽しまず(「火職」は「仕職」の誤りか)、改めて教諭に就いた。師説を受け、『公羊』をもって六経を治め、さらにこれに補いを加えた。著書は百種に及ぶ。康有為が続いて起こって『公羊』を治めたが、その淵源はかなりこの平氏から出ている。『孔経哲学発微』『四変記』があり、最近の作である(底本は「出自此平人有孔經哲學發微」に作る。「人」は「又」の誤りか)。その友の楽至の謝無量がこれに序を書いて刊行した。
西暦1907年 光緒三十三年春二月
- 詔して、已に故人となった翰林院編修の兪樾の生涯の学問・行状の事蹟を国史の儒林伝に列させた。
- 樾は字を蔭甫といい、浙江徳清の人で、学ぶ者は曲園先生と称した。道光庚戌(道光三十年)の進士。編修の身で河南の学政となったが、時の宰相に逆らって罷免され帰った。門を閉ざして経を抱き、著述は豊富で、『春在堂集』という。
西暦1909年 末帝宣統元年冬十二月
- 遊学専門の厳復に進士を賜い、編訂名詞館の事務を取り扱うよう命じた。
- 復は字を佑陵、号を幾道といい、福建侯官の人である。アメリカに遊学すること二十余年、ハクスリーの『天演論』、アダム・スミスの『原富』などの書を訳した。
- 当時の算術家で著名な者は、海寧の李壬叔(善蘭)で『幾何原本』を訳し、金匱の華若汀(衡芳)で『奈端(ニュートン)数理』を訳した。
史論(編者曰)
- 編者は言う。我が国人の思想が束縛を受けたことは、ほとんど二十年に及ぶ。龔自珍・魏源が突出して起こり、今文によって経を治め、人を思想の自由に入る道へと導いた。これは実に、この後に新しい学界を開拓する一つの兆しであった。
- これより群経の今文説がみな世に出て、王闓運・廖平が今学の大成を集め、康有為・譚嗣同が相次いで興り、改革を唱えて国人に恵みをもたらした。思想界の感化によって、その後、国人の思想界の前途には無窮の希望を抱くことができるようになった。
- さらに厳氏なる者があって、書笈を背負って海を越え、数十の寒暑を経て西洋の新学を移し入れて帰り、それを我が国人に供した。我が国人の思想は、こうして日ごとに大きく進化してやまない。
- その因縁をさかのぼれば、これら諸氏の賜物をいただいたものではなかろうか。
原文(底本)
聖祖康熙十四年,夏四月,容城處士孫奇達卒。奇達,字鍾元,明萬曆庚子舉人。少與東林諸子遊,以氣節相尚。其學術以象山陽明宗,更和通朱子之說,爲理學宗傳。特表周、程、張、邵、朱、陸、薛、王及羅念、𤲅顧、涇陽爲十一子,別爲諸儒考附之。國變後,入易州五公山。康熙八年,渡河至蘇門,水部郎馬光裕,奉以夏峯田廬,遂移室居之,率子弟恭耕,四方來學願留者,亦授田使耕,所居成衆。前後凡十一徵,皆不起,至是卒,年九十有二。四子博雅,字君僑,最知名,當以隱逸徵,力辭,平生重孝友。及卒,士林高其義,稱文孝先生。時學派與奇逢相近者,如李顒、傅山、顧炎武、黃宗羲、王夫之、顏元、劉獻廷諸人外,尚有祁州刁蒙、吉包,山陰劉伯繩汋無錫高彙旃世泰餘姚沈求如國模仁 和沈甸華昀而專治朱學者有若太倉陸桴亭世儀濟南張蒿庵爾岐桐鄉張楊園履祥又仁和 應潛齊撝謙南豐謝約齋文洊絳州李閣章生光崑山朱伯廬用純諸人派別雖不同要皆各尊 所聞無門户之見也 十八年,春三月,試內外薦舉博學宏儒於體仁閣李顒傅山杜越辭不赴顒字中孚晚自署曰二 曲陜西盭屋人以昌關學爲己任言學者當先觀象山慈湖陽明白沙之書闡明心性直指本初 然後取二程朱子及康齋敬軒涇野整庵之書玩索以盡踐履之功始以隱𨓜薦繼以宏博徵皆 辭以疾至是有旨召試大吏趣行固辭疾篤舁其牀至省則絕粒六日至欲拔刀自刺大吏駭而 止因嘆曰生我名者殺我身此皆生平洗心未宻不能自晦之所致也自是荆扉反鏆不得與人 接所著書不以示人以爲近於口耳之學惟以反身錄示學者晚年因兵氛遷寓富平與邑人李 天生因篤郿縣李雪木柏稱關中三李門人王心敬號澧川鄭縣人能傳其學兩舉賢良方正皆 不赴 山字靑主山西陽曲人鼎革後朱衣黃冠居土穴養母而仰視天俯察地未嘗一日止有 問學者則吿之曰老夫學莊列者也於此間諸仁義事實羞道之或強以宋諸儒爲問則曰必不 得已吾取同甫至是以給諌李宗孔薦固辭以疾有司迫之行將至京以死拒不入城命閣臣馮 溥率公卿出迎堅臥舁牀中不復爲禮憲臣魏象樞乃以其老疾上聞詔免試放歸並加中書舍 人溥因勸其入謝不可令賓客百皋說之遂稱疾篤使舁以入望見午門淚涔涔下溥掖之使謝 則仆於地象摳急進曰止止是卽謝矣翌日歸宰輔以下皆出城送之忽嘆曰今而後其脱然無 累我旣而大聲目溥曰使後世或妄以劉因輩賢我且死不瞑目矣聞者咋舌 越字君異容城 人明諸生家居授徒不求聞達毅然以繼往開來爲己任一時才俊士無遠近咸師事之至是強 起入都與傅山同加中書銜以衰疾辭歸時同徵者尙有寧都魏叔子禧長洲蔡九霞方炳錢唐 馮山公景皆不至 二十年,春正月,明遺臣顧炎武卒炎武字寧人學者稱亭林先生江蘇崑山人國變後以諸生首 倡義里中贊魯王監國事旣不克更欲赴海上通鄭氏道梗不前遂浪游秦晉齊豫燕代淮浙凡六謁孝陵六謁思陵所至扼塞皆呼老兵退卒詢曲折晚居陜之華陰謂其地綰關河之口有警 入山守險不過十里之遥若志在四方則一出關門亦有建瓴之便因置田五十畝於華下供晨 夕而東西間墾所入別貯之以備有事閣臣熊賜履等先後薦應宏博脩明史皆貽書誓以身殉 得免卒年六十有九譔著䋣富其特別者曰日知錄爲一代學術所從出天下郡國利病書及肇 域志至今供學者叅攷之用他如音學五書金石文字記皆表表者平生恪守母訓不臣他族奔 走國事數十年而卒無所補救其志亦可悲已一時同志有黃宗羲王夫之顏元劉獻廷時稱五 志士 宗羲字太沖學者稱梨洲先生浙江餘姚人明崇禎末閣臣周延儒薦爲中書辭不就畫 江之役糾里中子弟數百號世忠營從孫嘉績等倡義江上軍敗結寨自固復副馮京第乞師日 本問關轉徙垂二十年奉母返里門畢力著述其學以濓洛之統綜會諸家横渭之禮敎康節之 象數東萊之文獻艮齋止齋之經術水心之文章莫不旁推交通康熙十七年有擬以宏博薦者 庶常陳錫嘏曰是將使先生爲疊山九靈之殺身也力止之徐元文薦之脩明史亦固辭詔錄其 著述以進所著如明儒學業六十二卷三百年儒林之藪也明夷待訪錄之原君原臣諸篇幾奪 盧梭民約之席餘亦有法治之精神律吕新義二卷後此言律學者皆祖之句股圖說開方命算 測圖要義共若干卷其後梅文鼎本周髀言曆世驚爲絕學實此書有以啟之康熙三十四年卒 年八十有六弟宗炎字晦木宗會字石田所學同子百家字主一能世其學 夫之字而農湖南 衡陽人明崇禎壬午舉人永歷建國授行人轉徙楚粵滇黔諸省緬甸旣覆遂自晦匿浪跡郴永 漣邵間最後歸衡陽之石船山築土室曰觀生居晨夕杜門學者稱船山先生平生崇拜横渭所 著正蒙注思問錄讀通鑑論宋論黃書諸種能通天人之故發民權之理皆傑作也兄介之號石厓壬 午同鄉舉後值國變遂隱居不出子敔字虎止博學有文名 元號習齋直隸博野人有勇畧善 射常折竹爲刀以勝劍客罄控馳射中六的日與其徒肄於射圃終身不衰其學尃標忍嗜欲苦 筋力之旨爲學道不二法門其著述往往嘆息於宋之亡才士摧折不盡其用其志可知已有存 性存學存治存人四篇以是爲孔子之學而自別於程朱其高第弟子蠡縣李剛主𤧴大興王崑 繩源皆多所著作 獻廷號繼莊先世本吳人寄籍大興故足跡多在江南浪游數十年幾盡中 國之強半而蹤跡詭異有類於秘密運動家所爲其學主於經世自象緯律厝邊塞關要財賦軍 政之屬旁及岐黃釋老家言靡不研究自謂於聲音之學別有所窺嘗作新韻譜以華嚴字母爲 本而參之以天竺陀羅尼泰西爉頂(拉丁)小西天𣑽書(西藏)暨天方(河剌伯)蒙古 女眞等音又發明地理學謂地理與羣治有密切之關繫所言與泰西地理家同惜所著書多散 佚傳者惟廣陽雜記一書平生講學之友王夫之王源兩人外有南豐梁質人份無錫顧畇滋培 而尤心服者則南昌彭躬庵士望同時學派與諸人相近者尙有達縣唐鑄萬甄著有潛書二篇 四卷能發民權公理太倉陳確菴瑚嘗編全史爲四大部以政事人文別之皆手抄熟讀能背誦 其他著述關於農田水利兵法者尤多天門胡石莊承諾有繹志六十一篇無錫顧景范祖禹有 讀史方輿紀要百二十卷 四十三年,夏六月,太原處士間若璩卒若璩字百詩明諸生著尙書古文疏證八卷定東晉晚出二十五篇之僞卒年六十有九同時以經師稱者有胡渭萬斯大萬斯同馬驌 渭字東樵浙江 德清人著禹貢錐指謂漢孔安國唐孔穎達宋蔡沈諸作於地理多疏舛乃博引羣書以辨九州 山川形勢及古今郡圖分合異同且爲圖以表之 斯大字充宗鄞縣萬氏八子皆黃宗羲高座 弟子斯大於凡弟行爲第六自幼不事科舉博極羣經尤精春秋三禮爲禮書三百卷春秋說二 百四十卷同邑李杲堂鄴嗣嘗曰說經無雙名擅八龍昔有慈明今見充宗 斯同斯大季弟字 季野學者稱石園先生精史學尤熟於明代掌故曾以宏博薦力辭免後就明史館席不受官俸 自言欲握國史權以報故國及卒門人私謚曰貞文箸稿皆爲弟子錢名世持去其讀禮通攷明 史稿又爲徐乾學王鴻緒攘稱己作刻之 驌字宛斯山東鄒平人著有左傳事緯及繹史 四十四年,夏閏四月,召見宣城處士梅文鼎文鼎字定九少與弟文鼐共習天算學箸書二十九 種四十一年帝南巡至德州命取其書留覽至是帝再過德州命入對出御製曆算書與商榷留 舟中凡三日帝語撫臣李光地稱爲絕學初文鼎習算時讀淄川薛儀甫鳳祚吳江王寅旭錫闡 所箸算書皆有心得尤折服於錫闡之曉庵新法後帝製曆象攷成多出文鼎手皆蓝本於錫闡 矣 編者曰:清初諸儒以實踐實用之學相倡率一時風靡景從明李詭辯空想之弊幾絕自有所 謂以名臣兼名儒如魏象樞魏裔介熊賜履陳鵬年陸隴其張伯行諸人者相與萃心力於舉 業或侈譚性理以鳴高舉先王經世有濟之學一槪日爲迂闊而不講門户錯出人才亦日卑 遂使天下有乏材之嘆至若徐乾學緣佞倖以進固不知學時值國人思明反側不安清廷爲 收拾人心計於是徵隱逸舉宏博開明史館蒲輪四出厚貌嫗言以求之曰尊賢曰求才乾學 卽利用此時機汲汲焉搜剔山林以相迎合或以利祿相歆動或以威勢相迫脅鴻飛冥冥弋 人何篡致令亡明忠義士有讀書行道數十年而不得全海上之節者噫可痛也湯斌誘殺明 舊將李玉庭李光地賣友陳夢雷以滅耿鄭皆以是獲寵貴顧二人日譚忠孝未幾聖祖以欺 君斥斌臺臣以忘親貪位劾光地矣其人應不齒於士列而皆竊附於朱程陸王以大儒聞於 時不亦欺世已甚哉毛奇齡以雕蟲炙輭之才彙緣得預詞翰旣貴徧仇其師友及宋明前哲 凡恩彼者皆怨報之且棄其婦致婦陳吿其門人張希民謂奇齡作七言八句亦必獺祭乃成 奇齡復對客還詬之其儇薄無恥至於此極人且以儒者尊之不諒甚矣故論當時學界蠡賊 前莫惡於湯李輩以僞君子相率後莫醜於奇齡等以眞小人自豪一代學子節義風徽殆由 此始乎 高宗乾隆二十三年,夏五月,處士惠棟卒棟字定宇江蘇吳江人幼丞其祖周惕父士奇家學自 經史諸子百家雜說釋道二藏靡不津逮所著如九經古義周易述明堂大道錄古文尙書攷左 傳補注皆精博有心得時經學盛行分吳皖兩派棟爲吳派間祖而其先已有長洲何義門焯沈 歸愚德潛吳江沈冠雲彤陳少章景雲皆尙通洽雜治經史文辭棟之弟子最著者同邑江艮庭 聲余古農蕭客嘉定王西莊鳴盛錢竹汀大昕靑浦王蘭泉昶江都汪容甫中劉端臨台拱蕭客 弟子江鄭堂藩亦知名皖派領䄂曰戴震字東原休寧人少受業婺源江愼脩永後從棟游傳其 學著孟子字義疏證方言疏證攷工記圖聲韻攷聲類表爾雅文字表餘關於曆算水地之著述 猶多其論求學以識字爲第一義識者韙之以舉人召入纂脩四庫全書其書目提要大部分皆 出其手而以紀昀尸其名也其鄉里同學有聲稱者金輔之榜程易疇瑶田後有凌次仲廷堪及 胡樸齋匡衷胡文水承珙胡竹邨培暈其弟子著者興化任幼植大椿餘姚盧抱經文弨曲阜孔 巽軒廣森其尤著者金壇段若膺玉裁高郵王懷祖念孫念孫子伯申引之德清兪蔭甫樾丹徒 馬眉叔建忠繼起者郝懿行桂馥侯康陳澧馬瑞辰陳立陳奂劉文淇鍾文蒸劉寶柟焦恂龔麗 正朱右曾陳喬樅齊詩翼時有與吳皖派樹敵者爲桐城派派中巨擘爲姚姬傳鼐鼐善爲古文 辭效其鄉先輩方望溪苞而受法劉海峯大櫆及其世父薑䲧範鼐之弟子方植之東樹嘗與兩 派挑戰箸漢學商兌抨擊之不遺餘力其文辭斐然而其學則非惠戴敵也又有浙東派者以餘 姚邵晉涵鄞縣全祖望會稽章學誠爲其派中鉅子晉涵私淑其鄉人王守仁劉宗周黃宗羲之 學於經深三傳及爾雅於史尤熟明代掌故與脩四庫全書及國史爲文奧衍淵懿學者宗之稱二雲先生祖望字謝山甫釋褐卽吿歸主蕺山端溪諸書院講學之暇廣脩枌社掌故桑海遺聞 表章節義如不及學誠字寶齊有文史通義餘如陽湖趙甌北翼瑞金羅臺山有高吳縣汪大紳 搢長洲彭尺木紹升皆與此派畧近 編者曰:乾嘉之間一經學昌明之時期也。諸經師家疏注之宏博精確,有足與國學俱不朽者。如吳派皖派是已桐城文士乃自附於程朱而究無以傳非理學家亦非經學家其間有寳應 王白田𢡟竑者於治朱學殆庶幾之著有朱子年譜攷異錄善化唐鏡海鑑雖以劾琦善耆英 輩著直聲足覘風骨而所爲學案小識專持門户識者頗隘陋之浙東源出姚江邵全羽翼南 雷存其一綫功亦偉已他如陳宏謀楊名時朱軾李紱孫嘉洤等皆以朱學自鳴於學界實無 有影響至紀昀阮元畢沅輩鼓吹漢學似亦甚力然位高任重僅於文學政事之餘偶得以間 治經著述每多假手故皆不能自名其家無足道也 道光二十二年,秋七月,仁和龔自珍卒自珍麗正子號定盦己丑進士官禮部主事幼從外氏段 玉裁受小學及長從陽湖劉申受逢祿受公羊春秋自武進莊方耕存與治經學約取春秋公羊 傳逢祿傳其學爲公羊釋例故自珍經學皆挹自莊劉於史則長西北輿地蓋得自其益友桐鄉 程春廬同文及其前輩大興徐星伯松者其人卓犖有英氣生值承平舉國醉夢獨儳然若有重 憂以事忤堂上官乞養歸居二年父子前後五月卒年五十歲有文集三卷續集四卷集中諸篇 於專制政體深致嘆恨又明社會學故其爲文每導人以思想自由自言生平不蓄門弟子嘗賦 詩見志有但開風氣不爲師之句時與齊名者有魏源稱龔魏 源字默深湖南邵陽舉人官高 郵州牧始治經己更悉心時務尤精輿地學著有詩古微書古微公羊微春秋繁露注等書又有 海國圖志獎勵國民對外之觀念日本平象山吉田松陰西鄉隆盛輩皆爲是書所激刺以有尊 攘維新之事與龔魏相先後而以明經聞者尙有陽湖李申者兆洛長洲宋于庭翔鳳仁和邵位 西懿辰姚平泉光晉善化孫鼎臣詒讓皮鹿門錫瑞 德宗光緒二十四年,夏四月,召見工部主事康有爲有爲字廣夏號長素廣東南海人幼承其祖 贊脩家學童時便有志於聖賢里中人戲呼之曰聖人爲蓋以其開口輙稱聖人而其名有爲也 長游於同邑朱九江次琦之門旣又潛心佛典獨居西樵山四年出爲汗漫游北出山海關登萬 里長城南游江漢東謁孔林遂浪跡燕齊楚吳荊襄間繼而西泝江峽如桂林歸設賞舍於粵城 之長興里旋講學於桂林其學以孔學佛學宋明學爲體以史學西學爲用其敎科如音學至兵 式體操諸科無不備前後凡九上書皆不達兩開會於京師曰強學曰保國皆不久爲政府所禁 然自是名满天下崇拜之者稱之曰康先生或曰康南海至是以大學士翁同龢尙書李瑞棻侍 郎張蔭桓學士徐致靖給事中高燮曾先後疏薦遂召見尋命在總理各國事務衙門行走帝方 銳意變法於其言無不納故多所贊畫至八月政變已先期奉詔出京以英艦保護出險其弟廣 仁門人林旭及楊深秀楊銳譚嗣同劉光第等六人皆被殺同龢奪職管束端棻蔭桓遣戍新疆 致靖永遠監禁旣至美洲聨合海內外同志刱新會以圖將來後遂有庚子七月漢口之役其爲 國事亦可謂黽勉盡瘁矣所著有公理通孔子改制攷春秋三世義大同學說弟子最著者梁啟 超廣東新會人字卓如號任公光緒二十一年春中東和議成啟超時在京師代表粵省公車百 九十人上書陳時局不省明年至上海任時務報主筆著變法通議西學書目表等書又明年使 臣黃遵憲伍廷芳疆吏王文韶張之洞大理卿盛宣懷前後薦辟皆不就湖南巡撫陳寳箴督學 江標聘主湖南時務學堂講席其講學注重精神敎育漢口之役烈士林述唐圭李虎村炳寰田 均一拜璸蔡樹珊鍾浩皆出於其間其在湖南時值省中刱設南學會湘報其賛盡之力尤多至 是年五月以侍郎徐致靖及總理衙門交章薦被召見命辨理大學堂譯書局事務及八月政變 以日人仗義出險旣至日本設清議報暨學校於東京尋刱維新報於夏威夷島二十六年六月 聞拳亂急返滬欲有所圖至滬之明日漢口難作去適香港游澳洲復至日本設新民叢報國風 日報新小說其著述刊行者爲飲氷室文集 秋八月殺京卿譚嗣同等嗣同字復生號壯飛湖 南瀏陽人少有異質於學無所不窺而以日新爲宗旨嘗爲攷據箋注金石刻縷詩古文辭之學 尤好讀中國古兵法後悉棄去究心泰西天算格致政治歷史之學皆有心得弱冠從軍新疆遂 往來於直隸新疆甘肅陜西河南湖南北江蘇安徽浙江臺灣各省中日戰事後益發憤提倡新學 設學會於瀏陽旋以父命就官金陵爲候補知府需次一年閉户著述成仁學一書時義寧陳寳 箴撫湖南慨然以湖南開化爲己任與按察使嘉應黃遵憲督學仁和徐仁鑄前學政元和江標 謀大集志士於湖南辦新政以爲諸省倡促嗣同歸刱辦湖南內河小輪船商辦礦務湘粵鐵路 時務學堂武備學堂保衛局南學會湘報皆其所倡論擘畫者卽任之爲南學會學長每蒞會演 說慷慨論天下事聞者無不感動一時風氣大開其功居多是年七月以侍郎徐致靖薦入對擢 四品卿銜軍機章京與楊銳林旭劉光第同參預新政稱曰四軍機至是政變同被逮難將作之 前一日日本志士數輩力勸嗣同東游不𦗟強之則曰各國變法無不從流血而成今中國未聞 有此此國之所以不昌也有之請自嗣同始遂及於禍年三十有三所箸書仁學之外有寥天一 閣文莽蒼蒼齊詩遠遺堂集外文興算學議思緯吉凶臺短書壯飛樓治事秋雨年華錄叢脞書 劍經衍葛印錄各種又政論數十篇皆見湘報及與所友論學論事書數十篇 二十九年,秋八月,江西廵撫夏時奏請延聘湖南舉人王闥運爲江西學堂總敎習從之闓運字 壬秋學者稱湘綺先生湘潭人鄕舉後益刻志經史無意進取自同治至光緒中葉屢被薦徵 赴瘁心箸述成湘軍志一書固知名早咸同諸將帥曾國藩駱秉章胡林翼左宗棠丁寳楨彭 玉麐之流皆折行輩與訂忘年交故是書述當日戰事無異目擊至詳確事定書亦旋出在事諸 人尤以先覩爲快爭購之然所志皆直筆無阿好於曾氏卽多貶詞紀實也國藩弟國荃及國藩 門人李元度至欲燩其書以風行廣懸重資以取寡有應者今存書猶十之八九焉其價值可知 已前後徇所友及邦人士之請主講四川尊經書院八年衡州船山書院十年思賢講舍三年以 其暇徧注羣經成詩補箋周官儀禮記箋等書至是以江西開辦學堂廵撫夏時疏請聘充主敎 奏入報可子代豐幼慧早卒代功績學最知名其弟子尤著者曰廖平字季平四川井研人釋褐 後不樂火職改就敎諭受師說以公羊治六經而更附益之著書及百種康有爲繼起治公羊其 淵源頗出自此平人有孔經哲學發微四變記爲最近之作其友樂至謝無量爲之序以刊行 三十三年,春二月,詔已故翰林院編脩兪樾生平學行事蹟列入國史儒林傳樾字蔭甫浙江德 淸人學者稱曲園先生道光庚戌進士以編脩視學河南忤時相罷歸閉關抱經著述緐富曰春 在堂集 末帝宣統元年,冬十二月,賜游學專門嚴復進士命辦理編訂名詞館事務復字佑陵號幾道福 建侯官人游學美國二十餘年譯有赫胥黎天演論斯密亞丹原富等書時算術家箸者海寧李 壬叔善蘭譯有幾何原本金匱華若汀衡芳譯有奈端數理 編者曰:吾國人之思想受束縛者幾二十年矣!龔魏崛起,以今文治經,導人以入思想自由之塗徑,實爲後此開闢新學界之一徵兆,自是羣經今文說皆出,而王廖集今學之大成,康譚接踵而興,倡言改革惠國人,以思想界之感化而後國人思想界之前途抱有無窮之希望,復有嚴氏者負笈越海,歷數十寒暑轉輸泰西新學而歸,以餉我國人。我國人之思想遂日以大進化而不已。溯及因緣,非食諸氏之賜歟?
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