清史紀事本末ロシアとのネルチンスク条約と通商条約の増訂(俄訂尼布楚条約及増訂市約)
要約
雍正四年(1726年)春正月、革職された尚書の隆科多らを楚庫拝姓に遣わしロシアとの疆界事務を処理させた。尼布楚条約(康熙二十八年・1689年)以後、辺境の紛議は消え、喀爾喀三汗の内附でロシアの貿易は中国政府との交渉に転じた。康熙五十八年(1719年)、ピョートル一世はイズマイロフらに商約改訂を請わせたが、政府は九叩首を強要して答えず、事は成らなかった。雍正三年(1725年)にエカチェリーナ一世が立つと、ラグジンスキーを遣わして前の請いと疆界会議を求め、帝は許した。
五年(1727年)夏六月、隆科多は玉牒抄写の事で拏問され、図理琛が代わった。秋八月、策淩らはロシア公使サワと後貝加爾洲で会議し、十一条の《恰克図条約》が成った。逃亡人の相互送還、恰克図の通商地化、ロシア商人の三年一度二百名までの北京貿易、京師のロシア館と会堂などを定め、文書往復は理藩院とサナト衙門による。
六年(1728年)秋八月、図理琛は定界の際に礮を鳴らして天に謝した等で革職・治罪された。七年(1729年)から九年(1731年)まで、準噶爾の役にロシアの中立を求め、また女帝アンナ・イヴァノヴナの即位を賀して托時をたびたび出使させた。
乾隆五十七年(1792年)春正月、庫倫辦事大臣の松筠・普福が喀爾喀貝子の遜都布多爾済、ロシア公使セレフィトと恰克図互市約五条を増訂した。条約以来、煙草・茶葉・緞布の貿易が盛んとなり、乾隆二年(1737年)に北京貿易を停めて恰克図に帰し、二十七年(1762年)に庫倫辦事大臣を設けた。両国とも税を榷らず漠北は繁富となったが、ロシア人は私に貨税を徴し、両国の辺民も馬匹を偸竊し、二十九年(1764年)に閉関、三十年(1765年)には桑斉多済の爵を削り丑達を誅した。のち復市と閉関を重ね、五十年(1785年)には行劫により絶市した。
五条は、再び和を失えば開市を望むな、期日どおり決済せよ、守辺の官は賢能を選べ、布哩雅特らの不法を禁ぜよ、交渉事件は会同審訊して各々属下を治めよ、という。夏四月、ふたたび市を開いた。ロシア人は閉関七年の損失で市利を欲し、交渉は平和に終わった。帝は西蔵と廓爾哈が貿易の事件で釁を啓いたのを戒めとし、外交文書を改良させ、互市は絶えなかった。
年表
尼布楚(ネルチンスク)条約以後の中国とロシアの国境画定・通商交渉を記す。喀爾喀三汗の内附により対露交渉が中国政府の手に移り、ピョートル一世の遣わしたイズマイロフらの改約要求は覲見の礼を争って果たされなかった。雍正四年(1726年)に隆科多、次いで図理琛が派遣され、五年に策淩らがロシア公使サワと会議して恰克図条約全十一条を結び、通商地・中立地・北京での貿易と教堂などを定めた。その後は托時をロシアに使わして準噶爾の役への中立を求め、乾隆年間には閉関と開市を繰り返したのち、乾隆五十七年(1792年)に松筠らが市約五条を増訂して恰克図の市を再開するまでを扱う。
年表(7件)
- 西暦1726年 世宗雍正四年隆科多らを楚庫拝姓に遣わしてロシアとの疆界事務を処理させる
- 西暦1727年 雍正五年図理琛を代わりに派し、策淩らがサワと会議して恰克図条約十一条を結ぶ
- 西暦1728年 雍正六年定界の処置とロシア商人の入界を咎めて図理琛の職を革する
- 西暦1729年 雍正七年托時をロシアに出使させ、準噶爾の役で厳正中立を守るよう請う
- 西暦1730年 雍正八年女帝アンナ・イヴァノヴナの即位を賀するため再び托時を遣わす
- 西暦1731年 雍正九年ロシアが準部の後援となるのを恐れ、三たび托時を遣わして款める
- 西暦1792年 高宗乾隆五十七年松筠らがロシア公使と市約五条を増訂し、恰克図の市を再び開く
現代語訳全文
西暦1726年 世宗雍正四年
- 春正月、免職された吏部尚書の隆科多らを楚庫拝姓の地方に遣わして、ロシアとの疆界事務を処理させた。
- 康熙二十八年(1689年)十月に尼布楚(ネルチンスク)条約が締結されて以後、中露の辺境における紛議はしだいに消えた。まもなく喀爾喀(ハルハ)の三汗が内附し、その一切の主権はみな中国が握るところとなった。ロシア人の喀爾喀土謝図部との貿易は、転じて中国政府との交渉となり、ここに中露互市の問題が起こった。
- 康熙五十八年(1719年)に及び、ロシアの(底本は「俄這」に作る。「這」は「主」の誤りか)ピョートル一世(底本は「彼得第一」に作る)は使臣のイズマイロフ(底本は「義斯麻伊兒」に作る)およびラング(底本は「蘭給」に作る)を遣わして、商約の改訂を請わせた。国書を呈遞するとき、政府はロシア使と覲見の礼節をめぐって鑿々として争い(底本は「政府推與俄使」に作る。「推」は「遂」の誤りか)、九叩首の礼を行うよう強要し、外国の使者が中華に至れば中華の俗に従うべきである、と言った。しかしその請うところについては、これを置いて答えなかった。ロシア使もまたこれに屈従した。中国に議約の意の無いことを察知すると、イズマイロフはついに手ぶらで帰国し、ラングを京師に留め置いて、徐々に改約の事を商議させたが、久しく経ってもやはりその目的を達することができなかった。
- 雍正三年(1725年)に及び、ピョートルが崩じ、女帝エカチェリーナ一世(底本は「加他鄰第一」に作る)が立った。この年、使者のラグジンスキー(底本は「拉克青斯奇」に作る)を遣わして前の請いを申し述べさせ、かつ喀爾喀とシベリアの疆界を会議しようと欲した。帝はこれを許した。
- ここに至って、その使者サワが楚庫振姓の地方に到着しようとしており、特に隆科多に命じて往かせ、喀爾喀郡王で額駙の策淩、貝勒の博貝、散佚大臣(「散秩大臣」の誤りか)の伯四格、護軍統領の喀爾吉善と会同して処理させた。阿爾泰(アルタイ)の界務の事が終わり次第、ただちに楚庫拝姓に赴き、ロシア使と会同して辺界を議定させることとした。
西暦1727年 雍正五年
- 夏六月、吏部侍郎の図理琛に命じて、郡王で額駙の策淩、内大臣の伯四格らと会同し、喀爾喀とロシアとの辺界を定めに往かせた。当時、隆科多は私に玉牒を抄写した事で拏問されて京に帰っており、特に図理琛を改めて派して代わらせた。
- 秋八月、議約使の策淩らは、ロシア公使のサワと後貝加爾洲(ザバイカル)の地方で会議し、それぞれ員を遣わして辺界を審定した。約は成って全十一条、いわゆる《恰克図条約》である。ブラ条約とも称する。その主要なものは次のとおりである。
- 一、両国の辺吏は、互いに双方の逃亡人を調査し、捕らえて本国に送るべきである。ただし逃亡が和約締結以前のものは問わない。
- 二、恰克図を両国の通商地とする。額爾古納河の岸から、斉克泰奇闌に至るまで、楚庫河をもって界とする。ここより以西は、博木沙畢鼐をもって界とする。それぞれ界標を立ててこれを標示する。
- 三、烏特河の地方を両国の中立地とし、双方とも侵し占めてはならない。
- 四、ロシアの商人は三年に一度、北京に至って貿易することができる。ただし人数は二百名を限りとする。京に留まるのは八十日を超えてはならない。往来は官の定めた路径によるべきで、道を迂回して他へ往ってはならない。違反する者は貨物を没収する。
- 五、京師のロシア館は、今後、京に来るロシア人の居住にまかせる。ロシア公使が京師に会堂を建てようと欲するならば、中国はこれに補助を与え、ロシアの教徒の居住にまかせる。教徒は本国の例規により、堂内で読経し拝礼することができる。
- 六、公文を逓送する者は、往来は恰克図によるべきである。
- 七、両国の辺界には、それぞれ頭目を置き、公を秉って一切を処理する。
- この条約が両国政府の批准を得た後は、両国の文書の往復は、いずれも皇帝の名をもってせず、中国は理藩院をもってし、ロシアはサナト衙門をもってすることとした。双方の貿易および国交の端緒は、ここに日ごとに繁密となった。
西暦1728年 雍正六年
- 秋八月、吏部侍郎の図理琛の職を革した。さきに界を定めたとき、ロシア使とともに礮を鳴らして天に謝し、あわせて木牌を定界の辺所に立て、まもなくこれを焼いたこと、またほしいままにロシアの貿易人を界内に入れたことを追って議したためで、ついに逮えて罪を治めた。
西暦1729年 雍正七年
- 春三月、免職された倉場侍郎の托時に侍郎の銜を賞加し、ロシアに出使させた。当時、準噶爾を討つことを議しており、ロシア人がこれに干渉することを恐れ、特に托時を遣わして聘問させ、厳しく中立を守るよう請うたのである。
西暦1730年 雍正八年
- 春二月、ふたたび侍郎の托時を遣わしてロシアに使いさせた。当時、ロシアの女帝アンナ・イヴァノヴナ(底本は「安那宜萬斯」に作る)が新たに立ったので、即位を賀しに往かせたのである。
西暦1731年 雍正九年
- 夏四月、ふたたび侍郎の托時を遣わしてロシアに出使させた。当時、まさに準噶爾に用兵していたが、伊利はロシアの疆に密邇していたので、それが準部の後援となることを恐れ、外交政策に藉ってこれを款めたのである。
西暦1792年 高宗乾隆五十七年
- 春正月、庫倫辦事大臣の松筠・普福が(底本は「松筠普福」と連書し区切らない。庫倫辦事大臣二人=松筠と普福か)、喀爾喀貝子の遜都布多爾済と会同し、ロシア公使のセレフィトと恰克図互市約五条を増訂した。
- 雍正五年(1727年)にロシアと恰克図条約を結んで成立して以来、内地の商民で恰克図および庫倫に往って貿易する者は日ごとに多くなった。その輸出貨は煙草・茶葉・緞布を大宗とした。乾隆二年(1737年)に至り、ロシア使館を監督する御史の赫慶の請いにより、ロシア人の北京における貿易を停止し、すべて恰克図に統べ帰せしめ、土謝図親王・台吉らに命じてその事を董治させた。二十七年(1762年)には、特に庫倫辦事大臣二人を設けて辺務を理めた。一人は在京の蒙古大臣の中から簡放し(底本は「蒙大臣」に作る。「蒙古大臣」の誤りか)、一人は外蒙古の札薩克の中から特派した。
- これより先、恰克図の貿易では、両国ともに税を榷らなかった。ここにおいて恰克図の地方には百貨が雲集し、市肆は喧しく賑わい、漠北の荒涼たる区は一変して繁富の域となった。まもなくロシア人はしだいに禁約に違背し、ひそかに貨税を徴収した。両国の辺民もまた時に馬匹を偸竊する事があり、その数は稽えようがなかった。ロシア人が文書を移して償いを責めるときには、必ずその数を浮報した。帝はこれを厭い、二十九年(1764年)に恰克図を閉ざし、通市しなかった。
- ところが辦事大臣らはややもすれば隙に乗じて舞弊し、ひそかに交易した。朝廷は震怒し、三十年(1765年)に土謝図郡王の桑斉多済の爵を削り、大臣の丑達を誅し、閉関の策を厲行した。三十三年(1768年)に及び、庫倫大臣の慶桂が、ロシアが罪を悔いて開市を請うていると告げ入れたので、ついに貿易は元どおりとなった。のち四十四年(1779年)、ロシアの辺吏が罪犯を庇護して会審に応じず、大臣の索林が査辦を奏請し、ふたたび閉関し、年を越えて事ははじめて解けた。五十年(1785年)には、またロシアに属する布哩雅特種の人である烏哷勒咱らが辺内に入って行劫したので、旨を奉じて市を絶った。
- ここに至って、松筠らは、ロシアが恭順であって恩を乞うている旨をもって上奏し、開市を請うた。そこでふたたび市約五条を増訂した。恰克図の市圈で交換した。
- 一、恰克図の互市は、中国にとってもとより何の利益もない。大皇帝はあまねく衆生を愛し、ロシアの小民が困苦するのを忍びない。またお前のサナト衙門が叫び請うたので、それゆえ許して行うのである。もしふたたび和を失うならば、二度と開市を希冀してはならぬ。
- 二、中国とお前の国との貨物は、もとより両国の商人が自ら価を定めるものである。お前の国の商人は、お前の国において厳しく管束すべきである。互いに貨物を交易した後は、それぞれ約束の期日を違えさせず、即時に決済させ、負債を残させず、争端を啓くことのないようにせよ。
- 三、今、お前の国の守辺の官はみな恭順で礼を知っており、わが遊牧の官は皆こぞって好いと称している。お前の以前の守辺の官がみなこのようであったなら、どうして二度までも妄りに振る舞って和を失い、絶市に至ることがあったろうか。今後、お前の守辺の官は、慎んで賢能の者を選び、わが遊牧の官と遜順に相接せよ。
- 四、恰克図以西の十数の卡倫では、お前の布哩雅特・哈哩雅特が不法をなし、そのために烏哷勒咱の事件が起こった。今、お前の国は厳しく禁束を加え、その盗竊を杜ぐべきである。
- 五、今回の通市は、一切なお旧章に照らし、すでにお前のサナト衙門に頒行してある。両辺の民人の交渉事件、たとえば盗賊・人命のごときは、それぞれ近くで査験して罪犯を緝獲し、辺界の官吏と会同して審訊し、明確になった後、こちらの属下の人はこちらで罪を治め、お前のところの属下の者はお前のところで罪を治め、それぞれ文書を行って知照し、衆に示す。その盗竊された物は、あるいは一倍、あるいは幾倍の罰賠とし、一切みな旧例に照らして処理する(「昭」は「照」の誤りか)。
- 夏四月、ふたたび恰克図の市を開いた。当時、ロシア人は閉関七年のために損失が少なくなく、急いで市の利を回復しようと欲した。それゆえ今回の交渉はきわめて平和に至った。そして大臣の松筠らは、ロシア人が「皇仁に感激し、倍して誠敬を申べた」などの語を款に列ねて具奏した。帝もまた、前回、西蔵と廓爾哈(「廓爾喀」の誤りか)とが貿易上の事件によって釁を啓き、兵を構えること数年に及んだことから、特に筠らに訓諭してこれを戒めとさせ、商民を約束し、欺詐を厳禁して、争端を啓くのを免れさせた。また理藩院(底本は「事藩院」に作る。「理藩院」の誤りか)に命じて外交文書を改良させ、公誠信義を主とすることに務めさせた。これより、両国の商民の互市は絶えることがなかった。
原文(底本)
世宗雍正四年,春正月,遣革職吏部尚書隆科多等,往楚庫拜姓地方辦理俄羅斯疆界事務。自康熙二十八年十月,尼布楚條約締結以後,中俄邊境之紛議漸泯,未幾,喀爾喀三汗內附,其一切主權皆操之中國,俄人於喀爾喀土謝圖部之貿易轉而與中國政府爲交涉,於是中俄互市之問題以起。逮五十八年,俄這彼得第一遣使臣義斯麻伊兒及蘭給來請改訂商約,當呈遞國書時,政府推與俄使鑿鑿爭覲見禮節,強之行九叩首禮,謂外使至華,當從華俗,則於其所請則置之不答,俄使亦屈從之。既察知中國無議約意,義斯麻伊兒遂徒手返國,留蘭給居京師以徐商改約事,然久之仍不得達其目的。及雍正三年,彼得崩,女帝加他鄰第一立,以是歲遣使拉克青斯奇來申前請,且欲會議喀爾喀與西伯利亞之疆界,帝許之。至是,其使薩丸將蒞楚庫振姓地方,特命隆科多前往,會同喀爾喀郡王額駙策淩、貝勒博貝、散佚大臣伯四格、護軍統領喀爾吉善辦理。阿爾泰界務事竣,即赴楚庫拜姓,會同俄使議定邊界。 五年,夏六月,命吏部侍郎圖理琛會同郡王額駙策淩、內大臣伯四格等往定喀爾喀,與俄羅斯邊界。時隆科多以私抄玉牒事拏問回京,特改派圖理琛往代。 秋八月,議約使策淩等,與俄羅斯公使薩丸會議於後貝加爾洲地方,各遣員審定邊界,約成共十一條,所謂《恰克圖條約》者也,亦稱布拉條約,其要者如下: 一、兩國邊吏當互查彼此逃人,捕送本國。但逃亡在和約締結以前者勿論。 二、以恰克圖爲兩國通商地。自額爾古納河岸,至齊克泰奇闌,以楚庫河爲界。自此以西,以博木沙畢鼐爲界。各立界標誌之。 三、以烏特河地方爲兩國中立地,彼此不得侵佔。 四、俄國商人得三年一至北京貿易,但人數以二百名爲限。留京不得過八十日。往來當由官定之路徑,不得迂道他往,違者沒收貨物。 五、京師俄羅斯館,聼嗣後俄人來京者居住。俄公使欲於京師建會堂,中國當予以補助,聼俄國教徒居住。教徒得依本國例規,於堂內讀經拜禮。 六、遞送公文者,來往當由恰克圖。 七、兩國邊界,各置頭目,秉公辦理一切。 此條約得兩國政府批准後,兩國文書往復,均不以皇帝之名,中國以理藩院,俄國以薩那特衙門。彼此貿易及國交之端緒,遂日繁密矣。 六年,秋八月,革吏部侍郎圖理琛職。因追議前定界時,與俄使鳴礮謝天,並立木牌於定界邊所,旋焚之,又擅納俄國貿易人入界,遂逮治。 七年,春三月,以革職倉場侍郎托時賞加侍郎銜,出使俄羅斯。時議討準噶爾,恐俄人干涉之,特遣托時往聘,請其嚴守中立。 八年,春二月,復遣侍郎托時往使俄羅斯。時以俄女帝安那宜萬斯新立,往賀即位也。 九年,夏四月,復遣侍郎托時出使俄羅斯。時方用兵準噶爾,而伊利密邇俄疆,恐其爲準部後援,故籍外交政策以欵之。 高宗乾隆五十七年,春正月,庫倫辦事大臣松筠普福會同喀爾喀貝子遜都布多爾濟,與俄羅斯公使色勒裴特增訂恰克圖互市約五條。自雍正五年,與俄訂恰克圖條約成立後,內地商民往恰克圖及庫倫貿易者日衆,其出口貨以烟草、茶葉、緞布爲大宗。至乾隆二年,以監督俄羅斯使館御史赫慶之請,停止俄人於北京之貿易,令統歸恰克圖,命土謝圖親王台吉等董治其事。二十七年,特設庫倫辦事大臣二人,理邊務。一由在京蒙大臣內簡放,一由外蒙札薩克內特派。先是,恰克圖貿易,兩國均不榷稅,於是恰克圖地方百貨雲集,市肆喧闐,漠北荒涼之區一變而爲繁富之域。未幾,俄人漸渝禁約,私收貨稅,兩國邊民又時有偷竊馬匹之事,其數不可稽。俄人移文責償,必浮報其數,帝厭之,乃於二十九年閉恰克圖,不與通市。而辦事大臣等輒乘間舞弊,私與交易,朝廷震怒,於三十年削土謝圖郡王桑齊多濟爵,誅大臣丑達,厲行閉關之策。及三十三年,庫倫大臣慶桂以俄羅斯悔罪請開市入告,遂貿易如初。後四十四年,俄邊吏庇護罪犯,不予會審,大臣索林奏請查辦,復閉關,逾年事始解。而五十年,又以俄屬布哩雅特種人烏哷勒咱等入邊行刦,奉旨絕市,至是松筠等以俄羅斯恭順,乞恩入請,乃復與增訂市約五條。在恰克圖市圈(買賣城)互換。 一、恰克圖互市,於中國初無利益,大皇帝普愛衆生,不忍俄國小民困苦。又因爾薩那特衙門𥸤請,是以允行,若復失和,罔再希冀開市。 二、中國與爾國貨物原係兩國商人自行定價。爾國商人應由爾國嚴加管束,彼此貨物交易後,各令不爽約期,即時歸結,勿令負欠,致啓爭端。 三、今爾國守邊官皆恭順知禮,我遊牧官羣相稱好。爾從前守邊官皆能如此,又何致兩次妄行失和,以致絕市呼?嗣后爾守邊官當慎選賢能,與我遊牧官遜順相接。 四、恰克圖以西十數卡倫,爾之布哩雅特、哈哩雅特不法,故致有烏哷勒咱之事,今爾國當嚴加禁束,杜其盜竊。 五、此次通市,一切仍照舊章,已頒行爾薩那特衙門矣。兩邊民人交涉事件,如盜賊人命,各就近查驗緝獲罪犯,會同邊界官員審訊,明確後,本處屬下人由本處治罪,爾處屬下之由爾處治罪,各行文知照示衆。其盜竊之物,或一倍,或几倍罰賠,一切皆昭舊例辦理。 夏四月,復開恰克圖市。時俄人以閉關七年之故,損失不少,急欲回復市利,故此次交涉極臻平和,而大臣松筠等則以俄羅斯人『感激皇仁、倍申誠敬』等語列欵具奏。帝亦以前次西藏與廓爾哈因貿易上事件啟釁,構兵數載,特訓諭筠等引此爲戒,約束商民,嚴禁欺詐,免啟爭端。又飭事藩院改良外交文書,務主公誠信義,。自是,兩國商民互市不絕焉。
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