清史紀事本末乾隆帝の全盛(乾隆極盛)
要約
乾隆元年春正月、詔して西北両路の兵を撤し、京師および各省の捐納の例を停めた。六月、四川巡撫の王士俊を逮えて獄に下した。世宗の朝は政令が繁多苛酷で、内外が騒然としていたため、帝は即位してその弊を救おうとしたが、枉ったものを矯めて度を過ごし、寛によって玩を生じ、諸事はしだいに廃れ弛んでいった。士俊は密摺で、近ごろの条陳はただ前の案を翻し駁するばかりで、先帝の時の事を翻案しさえすればよい条陳になると公然と言う者さえあり、天下に伝われば人の耳を驚かせましょう、と痛切に陳べた。帝は激怒して士俊を京に送り、法司に厳審させて斬監候と定めた。しかしこれ以後、法は日ごとに繁く細かくなり、大獄がしきりに起こって、村里への煩累はかえって雍正年間に劣らなかった。
四年三月、嵇曾筠が卒した。治水に引河の法を用い河工・塘工に功をあげたので、靳輔・斉蘇勒と同じく祠に祀らせ、文敏と諡した。十二月、宗人府の福寧が、理親王の弘晳は安泰の邪術に耳を傾け大逆不道であると首告したので、弘晳を景山東の菓園に圏禁し、安泰も絞に処せられた。六年三月、御史の仲永壇が提督の鄂善の収賄を弾劾し、帝が自ら訊問して事実を得たので鄂善に自尽を賜い、永壇を僉都御史に抜擢した。山西学政の喀爾欽は、賄を取って生員・童生の資格を売った罪で殺された。十一月、尚書の徐元夢が卒し文定と諡した。十二月、大学士の張廷玉が部務を解くことを請うたが許さなかった。さきに都御史の劉統勲が、輿論は張・姚の二姓が縉紳の半ばを占めたと言うので抑制を加えられたい、また公爵の訥親は兼任が多すぎるので減らすがよい、と上疏していたが、のちにこの二人は晩節を全うせず、統勲の言のとおりとなった。
十年、張広泗の請いにより赤水河を、張允随の請いにより金沙江上流の蜈蚣嶺などの早瀬を開いた。十三年、浙江巡撫の常安を貪欲により絞に論じた。閏月、湖広総督の塞楞額、知府の金文醇を殺し、周学健・彭樹葵・楊錫紱を革職して直隷の城壁修築に当たらせた。いずれも皇后の喪中に剃頭した罪であり、刑部尚書の盛安も金文醇の罪案を軽く議したため死罪に論じられた。九月、宝璽を排定するとその数は二十五で、青玉の宝以上の四宝は世々伝わるもので改めてはならず、以下の二十一は清字の篆体に彫り直せと諭した。
二十二年、雲貴総督の恒文は属官に金を買わせて代価を値切り、家丁の門包強請を放任して自尽を賜い、山西布政使の蔣洲は公金を欠損させて殺された。呂宋の船が厦門で貿易することを許した。二十八年七月、松江府で暴風が三日三晩やまず、諸県の田は一粒の収穫もなく、府の役所さえ白昼に略奪されたが、巡撫の洪之傑は災害を隠して報ぜず、句容県の青苗一束で嘉禾の図を描いて献じ、璽書で嘉賞されて内外に宣示された。三十三年九月、人の髪の辮を盗み切る事件が江蘇・浙江に始まって直隷・山東に蔓延し、高晋・明徳・彰宝らを捕縛に不熱心として厳議させた。十二月、台湾の民の黄教が乱を起こし、翌年捕らえられ、前の総兵の王巍は措置を誤って法に伏した。三十五年、貴州巡撫の良卿を、法を曲げて賄賂を貪ったとして殺した。三十六年、大学士の尹継善が卒し文端と諡した。四たび両江総督となり、前後三十余年もっぱら人材を引き立てた。三十九年、内監の高雲従を閣臣の于敏中と通じたとして殺し、山東兗州の民の王倫の乱を討ち平らげ、各省に保甲の法を行わせた。
四十三年九月、錦県の生員の金従善を殺した。帝が盛京から還御する途中、道端で四か条を差し出し、その第一に皇太子を立てることを請うたのを憎んだのである。四十六年三月、甘粛の回人の蘇四十三らが新教の擁立を争って旧教の回人を殺傷し、知府の楊士璣、副将の新柱を殺害して河州を占拠したので阿桂に討たせた。四月、西寧鎮総兵の貢楚達爾らが河州を回復し、六月、海蘭察らが巣窟を破って蘇四十三らを陣中で斬り、残衆の拠った華林寺も攻め破って殲滅した。七月、陝甘総督の勒爾錦、巡撫の王亶望・王廷賛らが蝗害を捏造して賑恤の穀を騙し取り捐監の銀を横領した罪で法に伏し、陝甘・新疆の捐監の例を停めた。八月、四川の嘓匪が梁山・墊江などを略奪したので胡範年ら五十一人を斬り、総督の文綬は革職して伊犁に戍し、福康安を四川総督とした。四十七年、『四庫全書』が完成し、続けて三部を書写して文滙閣・文宗閣・文淵閣に分蔵させ、遼・金・元三史の訳し直しも成った。十月、浙閩総督の陳輝祖は、王亶望の家産を差し押さえる際に玉器・書画を抜き取って入れ替えたため自尽を賜った。四十八年、『貳臣伝』を編ませ、劉良臣ら百二十余人を貳臣、呉三桂ら二十余人を逆臣とした。四十九年、甘粛の新教の回人の田五らが事を起こし、李侍堯・剛塔に討たせたが、李侍堯の上奏した処置が妥当を得ないとして革職し、阿桂・福康安・海蘭察らに討たせ、張文慶・馬四娃・李可魁らを捕らえて誅して回乱は平定され、十一月、李侍堯・剛塔を逮え、李侍堯を斬監候、剛塔を伊犁の戍に処した。五十年正月、在位五十年の国慶をもって天下に詔を頒ち、千叟の宴を賜った。王・大臣から蒙古の貝勒・台吉・額駙、回部・番部、朝鮮国の使臣、士・商・民・兵にいたる六十歳以上の三千人であった。二月、文廟に釈奠し、辟雍に臨んで講学した。五十二年、湖南鳳凰庁の句補寨の苗人の石満宜らが事を起こし、総兵の伊徳禧が平らげた。五十七年十二月、『御製十全記』を頒ち、チベットのブダラ山にある聖祖のチベット平定の碑のかたわらに立てさせた。二たび金川を定め、二たび伊犁を定め、一たび回部を定め、一たびビルマに入り、一たび台湾を定め、一たび安南を回復し、二たびグルカに勝ったと数え、自ら十全老人と称した。五十九年、台湾の民の周全が乱を起こしたがほどなく平定した。六十年秋九月、第十五皇子の嘉親王顒琰を皇太子に立て、翌年を嗣皇帝の嘉慶元年とすると諭し、十二月、来年丙辰の元日に位を譲るため、官を遣わして天地・社稷・宗廟・奉先殿に祭告した。
年表
高宗乾隆元年(1736年)から乾隆六十年(1795年)まで、六十年に及ぶ乾隆帝治世の内政記事を年ごとに列ねる。即位当初は雍正期の苛酷な政令を改めて捐納停止・賢良方正の保挙などの寛政を敷いたが、王士俊を獄に下した一件が示すように法の適用はかえって繁細となり、大獄がしきりに起こった。鄂善・喀爾欽・常安・恒文・良卿・郝碩・陳輝祖ら貪官の摘発、水旱蝗災と河決、日食・彗星の記事が続き、甘粛の蘇四十三・田五の回乱、山東の王倫、台湾の黄教・周全の乱が起きてはいずれも阿桂・海蘭察・福康安らに平定された。他方で『律例』『医宗金鑑』『会典』『御批歴代通鑑輯覧』『四庫全書』『貳臣伝』などの修書が相次ぎ、在位五十年の千叟の宴、八十歳の万寿、『御製十全記』による十全老人の自称と極盛を誇った。末年に第十五皇子顒琰を皇太子に立て、翌年の譲位を天地宗廟に祭告して終わる。
年表(26件)
- 西暦1736年 高宗乾隆元年西北両路の兵を撤し捐納を停めるが、王士俊を獄に下し法は繁細に転じる
- 西暦1739年 高宗乾隆四年理親王弘晳を邪術に与したとして景山東の菓園に圏禁する
- 西暦1741年 高宗乾隆六年提督鄂善に収賄で自尽を賜い、学政喀爾欽を売官の罪で誅する
- 西暦1745年 高宗乾隆十年貴州赤水河の開削を許し、遵義から重慶への往来が便利となる
- 西暦1748年 高宗乾隆十三年皇后喪中の剃頭を咎めて塞楞額らを誅し、宝璽二十五の篆文を改める
- 西暦1757年 高宗乾隆二十二年雲貴総督恒文に自尽を賜い、呂宋船の厦門貿易を許す
- 西暦1761年 高宗乾隆二十六年紫光閣が落成し、大学士公博恒以下五十人の画像を賜う
- 西暦1763年 高宗乾隆二十八年松江の暴風で全収を失うが、巡撫洪之傑は災を隠し嘉禾図を献じて賞される
- 西暦1766年 高宗乾隆三十一年『会典』が成り、脱獄した流刑人犯の即時正法を命じる
- 西暦1768年 高宗乾隆三十三年辮髪を盗み切る事件が江浙から直隷山東へ蔓延し、督撫を厳しく議罪する
- 西暦1769年 高宗乾隆三十四年台湾の匪徒黄教を捕らえ、前総兵王巍を措置の誤りで法に伏させる
- 西暦1770年 高宗乾隆三十五年貴州巡撫良卿を枉法収賄の罪で誅する
- 西暦1774年 高宗乾隆三十九年山東兗州の民王倫が乱を起こし討ち平らげ、各省に保甲の法を行わせる
- 西暦1778年 高宗乾隆四十三年生員金従善が皇太子の建立を請うたため、帝は憎んで市に棄てさせる
- 西暦1780年 高宗乾隆四十五年正陽門城楼が焼け、永定河・汶河など各所で河が決壊する
- 西暦1781年 高宗乾隆四十六年甘粛の回人蘇四十三が乱を起こし、海蘭察らが華林寺を破って殲滅する
- 西暦1782年 高宗乾隆四十七年『四庫全書』が完成し三部を写して文滙・文宗・文淵の三閣に分蔵させる
- 西暦1783年 高宗乾隆四十八年『貳臣伝』を編ませ、劉良臣ら百二十余人を貳臣、呉三桂らを逆臣とする
- 西暦1784年 高宗乾隆四十九年甘粛の新教回人田五が挙兵し、阿桂・福康安らが張文慶らを誅して平定する
- 西暦1785年 高宗乾隆五十年在位五十年の詔を頒ち、六十歳以上三千人に千叟の宴を賜う
- 西暦1786年 高宗乾隆五十一年両広総督富勒渾が家丁の不正放任で革職され斬監候に擬せられる
- 西暦1787年 高宗乾隆五十二年湖南句補寨の苗人石満宜らの蜂起を伊徳禧が討ち平らげる
- 西暦1790年 高宗乾隆五十五年八十歳の万寿をもって天下に詔を頒つ
- 西暦1792年 高宗乾隆五十七年『御製十全記』を頒ちブダラ山に碑を立て、自ら十全老人と称する
- 西暦1794年 高宗乾隆五十九年台湾の民周全が乱を起こすがほどなく捕らえて平定する
- 西暦1795年 高宗乾隆六十年第十五皇子嘉親王顒琰を皇太子に立て、翌年の譲位を祭告する
現代語訳全文
西暦1736年 高宗乾隆元年
- 春正月、詔して西北の両路の兵を撤収させた。
- 京師および各省の捐納(金銭を納めて官位を得る制度)の例を停止した。
- 夏四月、賢良方正の士を保挙(推薦)するよう命じた。
- 六月、四川巡撫の王士俊を逮え、獄に下した。これより先、世宗の朝では政令が繁多で苛酷であり、もっぱら厳しく取り調べることを事とし、中央も地方もそのために騒然としていた。帝が即位すると、その弊害を救おうとしたが、枉(まが)ったものを矯めて度を過ごし、寛大さによって玩(なおざり)を生じ、諸事はしだいに廃れ弛んでいった。王士俊は密摺(密封の上奏)で痛切にその害を陳べ、おおよそ次のようにいった。近ごろの条陳(意見具申)はただ前の案を翻し駁するばかりで、はなはだしきは人前で公然と、ただ先帝の時の事を翻案しさえすればそれで良い条陳になるのだ、という説を口にする者がある。これが天下に伝われば、まことに人の耳を驚かせましょう、と。帝はこの上奏を見て激怒し、士俊を逮えて京に送らせ、法司に交付して厳しく審理させ、ついで斬監候(死刑を宣告して秋審まで収監する刑)と定めた。しかしこれ以後、法の適用は日ごとに繁く細かくなり、大獄がしきりに起こって、その村里への煩わしい累害は、かえって雍正年間に比べて、まさることはあっても劣ることはなかった。
西暦1737年 高宗乾隆二年
- 夏四月、旱魃のため、刑部に命じて未決の囚人を調べさせた。
- 傅爾丹・陳泰・岳鍾琪を獄から出した。
- 五月、新進士が地方の利害得失を条奏(箇条書きで上奏)することを許した。
- 秋七月、永定河が決壊した。閏九月、直隷浹水県の拒馬河を小規模に浚渫した。
西暦1738年 高宗乾隆三年
- 春三月、旱魃のため、刑部に命じて未決の囚人を調べさせた。
- 夏四月、旱魃のため、広く意見を求めた。
- 五月、各省の水害・旱害が五分(五割)に及べば租税を免除する例を定めた。
- 秋七月、江南に蝗の害があった。
- 冬十一月、寧夏に地震があり、水が新渠に湧き出て、宝豊県の県庁所在地が水没した。
西暦1739年 高宗乾隆四年
- 春三月、嵇曾筠が卒した。曾筠は治水に引河(分水路を引いて水勢を殺ぐ)の法を用い、前後して河工(河川工事)でも塘工(海塘=防潮堤の工事)でもことごとく功績をあげたが、ここに至って卒し、先の河臣であった靳輔・斉蘇勒と同じく祠に祀ることを命じ、文敏と諡(おくりな)した。
- 夏四月、旱魃のため、重ねて命じて広く意見を求め、滞った未決の囚人を処理させた。
- 直隷・江南に蝗を捕らえるよう命じた。
- 冬十二月、理親王の弘晳を景山の東の菓園に圏禁(幽閉)した。宗人府の福寧が、弘晳は安泰の邪術に耳を傾け大逆不道であると首告したためである。安泰もまた絞刑に処せられた。
西暦1740年 高宗乾隆五年
- 春二月、直隷・山東・山西・湖南・広東などの省に命じて、商人を招いて石炭を採掘させた。
- 夏五月、旱魃のため、滞った未決の囚人を処理するよう命じた。
- 秋七月、旗地(八旗に与えられた土地)を私的に売ることを禁じた。
- 冬十一月、『律例』および『一統志』の重ねての編輯が成った。
西暦1741年 高宗乾隆六年
- 春三月、提督の鄂善に自尽を賜った。御史の仲永壇(「壇」は「檀」の誤りか)が上疏して彼の収賄を弾劾し、帝が自ら訊問して事実を得たためである。永壇を抜擢して僉都御史とした。
- 秋七月、北方の諸省に命じて、民に自力で溝洫(田の用排水路)を開くことを勧めさせた。
- 山西学政の喀爾欽を殺した。賄賂を取って生員・童生の資格を売り、僕を放任して私腹を肥やさせ、禁を犯して女色をあさったなどの罪により法に伏したのである。
- 冬十一月、尚書の徐元夢が卒し、文定と諡した。元夢は当初、明珠に与しなかったために、あやうく讒言を構えられて死ぬところであった。
- 十二月、大学士の張廷玉が部務(兼任している部の職務)を解くことを請うたが、許さなかった。これより先、都御史の劉統勲が疏を奉って(「収疏」は「上疏」の誤りか)いうには、世間の輿論はややもすれば、張・姚の二姓が縉紳(官吏の名簿)の半ばを占めてしまったと言っておりますので、抑制を加えられたい、と。また尚書で公爵の納親(「納親」は「訥親」の誤りか)は兼任する職務があまりに多いので、量って減らすのがよい、と。帝はその疏を廷臣に示し、廷玉はそこで部の兼任を辞することを上奏したが、帝は許さなかった。のちにこの二人は晩節を全うせず、まったく統勲の言のとおりになった。
西暦1742年 高宗乾隆七年
- 春正月、彗星が現れた。
- 二月、選抜(貢生を選ぶ制度)を十二年に一度とする例を定めた。以前は六年に一度の挙行で、間隔があまりに近かったためである。
- 三月、直臣を挙げて、台諫(御史・給事中)の選に備えるよう命じた。
- 夏四月、文科と武科の郷試・会試を互いに受験させる例を停止した。
西暦1743年 高宗乾隆八年
- 春二月、河工に堪える人員を保挙するよう命じた。
- 夏四月、『医宗金鑑』の纂修が成った。
- 六月、旱魃のため、重ねて命じて広く意見を求めた。
- 冬十一月、彗星が現れた。
- 新たに選任された州県官を引見・査察する際に、律例の数条を摘んで問い、それに条を追って答えさせ、覆歴(履歴の審査書類)とともに呈させることとし、これを例として定めた。
- 十二月、諸省(各省)に命じて蝻(いなごの幼虫)の害を取り除かせた。
西暦1744年 高宗乾隆九年
- 春正月、大学士の訥親に命じて、河南・山東・江南の営伍(軍隊の編制)を査閲させ、あわせて河工・海塘を検分させた。
- 夏四月、旱魃のため、未決の囚人を調べるよう命じた。
- 五月、大学士の劉於義に命じて保定に赴かせ、高斌と会同して直隷の水利のことを計画させた。
- 冬十二月、各省の銭穀(財政)・刑名(司法)について、年末に帳簿をまとめて部に報告するよう命じた。
西暦1745年 高宗乾隆十年
- 春正月、会試の期日を三月に改め、永く例とするよう命じた。
- 夏四月、各省に重ねて諭して文体を正させた。
- 旱魃のため、未決の囚人を調べるよう命じた。
- 貴州大定府畢節県に属する赤水河を開くことを許した。総督の張広泗の請いに従ったのである。遵義府から直接四川重慶府に達し、往来が便利になったと称された。
- 五月、江南の河工のための捐納の例を停止した。
- 秋九月、法に定められていない刑具を用いることを禁じた。
- 冬十月、四川に国匪(「國匪」は「嘓匪」の誤りか)を厳しく取り調べるよう命じた。
- 十二月、雲南の金沙江上流の蜈蚣嶺などの早瀬を開くことを許した。総督の張允随の請いに従ったのである。
西暦1746年 高宗乾隆十一年
- 春三月、慶復に甘粛の営伍を査閲するよう命じ、ほどなく召し入れて武英殿大学士とした。
- 三月、道員・知府に堪える人員を保挙・選任するよう命じた。
- 夏五月、総督・巡撫の養廉銀(職務手当)の額を定めた。
- 秋七月、己丑の朔、日食があった。
- 東南の海沿いで暴風・海嘯(高潮)があった。
西暦1748年 高宗乾隆十三年
- 夏五月、福建の商人・民が天主教に入ることを禁じた。
- 秋七月、浙江巡撫の常安を殺した。総督の喀爾吉が彼の貪欲を弾劾し、訊問して事実であったので絞刑に論じたのである。
- 閏月、湖広総督の塞楞額、知府の金文醇を殺し、江南の部河(「河道」の誤りか)の周学健、湖広巡撫の彭樹葵、楊錫紱の職を革(と)き、罰として直隷の城壁修築の工事に当たらせた。いずれも皇后の喪中に剃頭(辮髪のために頭を剃ること)をした罪に当たったのである。刑部尚書の盛安は、金文醇の罪案を軽きに従って議した(「従経」は「従軽」の誤りか)ために、死罪に論じられた。
- 秋九月、本朝の宝璽(御璽)について諭した。朕は順序を追って排定したところ、その数は二十五であり、印文は従来、満文と漢文を併せ用いている。そのうち青玉の宝は、清字(満洲文字)の篆文であって、識見ある士が当時遺したものである。これより以上の四つの宝は、いずれも世代を継いで伝わり、世々の宝として伝えられてきたものだから、軽々しく改めてはならない。その檀香の宝以下の二十一の宝は、改めて清字の篆体を定めて彫り直せ、と。
- 冬十一月、各処からの本章(上奏文書)を、おしなべて題本(公事用の上奏形式)に改めるよう諭した。
西暦1749年 高宗乾隆十四年
- 秋八月、歳試・科試で生員・童生に経書を暗記して書かせる例を定めた。山西学政の徳保の請いに従ったのである。
西暦1750年 高宗乾隆十五年
- 夏五月、癸丑、日食があり、臣下たちに政治の欠失を直言するよう命じた。
西暦1751年 高宗乾隆十六年
- 夏五月、丁酉の朔、日食があり、知県を三年で行取(中央官に抜擢)する例を停止した。
- 冬十二月、苗人を額兵(定員の兵)に充てることを禁じた。
西暦1753年 高宗乾隆十八年
- 秋八月、銅山県の堤が決壊し、工事を誤らせた同知の李焞、守備の張賓を殺した。
西暦1755年 高宗乾隆二十年
- 春二月、乙巳の朔、日食があった。
- 夏六月、南方で長雨が降り、天気は冬のように寒かった。
- 秋七月、蝝(いなごの幼虫)が生じ、棉と穀物が実らなかった(「不賔」は「不登」の誤りか)。
- 冬十二月、地震があった。
西暦1756年 高宗乾隆二十一年
- 秋七月、免職された人員について、おしなべて捐納による復職を許す例を定めた。
西暦1757年 高宗乾隆二十二年
- 春正月、会試の第二場(「二声」は「二場」の誤りか)の表文を改めて、五言八韻(「八律」は「八韻」の誤りか)の唐律一首とした。
- 夏四月、内監(宦官)の于栄煥を黒竜江に戍(守備の労役)に遣わした。勢いを恃んで街中で巡検の張若瀛を戯れ侮ったためである。若瀛が法に照らして懲罰したところ、事が上聞に達し、遣戍を命じられた。
- 秋九月、雲貴総督の恒文に自尽を賜った。属官に金を買わせ、金の代価を値切って支払い、また家丁(使用人)が門包(取次料)を強請するのを放任した罪に当たったのである。
- 冬十一月、山西布政使の蔣洲を殺した。公金を欠損させた罪に当たったのである。
- 十二月、一方面の軍務を専管するに堪える人員を保挙するよう命じた。
- 呂宋(ルソン)の船が厦門で貿易することを許した。
西暦1758年 高宗乾隆二十三年
- 夏四月、郷試・会試の第一場の四書文のあとに性理論一道(一題)を加えるよう諭した。言官の呉竜見の請いに従ったのである。
- 冬十二月、癸丑の朔、日食があった。丁卯の望(十五日)、月食があった。
西暦1759年 高宗乾隆二十四年
- 春三月、彗星が南方に現れ、一か月あまりで消えた。
- 夏四月、旱魃のため、滞った未決の囚人を処理するよう命じ、臣下が利害得失を言上することを許した。
西暦1760年 高宗乾隆二十五年
- 夏五月、甲辰の朔、日食があった。
西暦1761年 高宗乾隆二十六年
- 春正月、紫光閣が落成し、大学士で公爵の博恒以下五十人の画像を賜った。
- 夏五月、貴州の民と苗の通婚の禁を緩めた。
- 秋七月、三度以上の減等・緩決に及んだ人犯の罪を減じるよう命じた。
西暦1762年 高宗乾隆二十七年
- 秋八月、総督・巡撫は同じ省の布政使に印篆(官印=職務)を代理させてはならないと諭し、これを例として定めた。
- 九月、庚申の朔、日食があった。
西暦1763年 高宗乾隆二十八年
- 秋七月、松江府の境内で暴風が三日三晩やまず、稲はことごとく倒れ、諸県の田は一粒の収穫もなく、府の役所さえ白昼に略奪された。巡撫の洪之傑は災害を隠して報告せず、かえって句容県の青苗(青々とした苗)一束を取り、嘉禾(めでたい稲穂)の図を描いて献上した。璽書(皇帝の書)で嘉賞され、中央と地方に宣示された。
- 九月、乙卯の朔、日食があった。
西暦1765年 高宗乾隆三十年
- 春三月、甘粛に地震があった。
- 秋七月、甘粛に再び地震があった。
- 九月、各省の書院の山長について、六年を経た者のうち成果のある者は程度に応じて議叙(考課して昇叙)することを命じ、山長の称を院長と改めた。
- 冬十月、大挑(挙人から官を選ぶ制度)を挙行する例を定めた。新科の者を除くほか、ただちに一科を差し引き、また現任の教職にある者は大挑に参加できないものとした。
西暦1766年 高宗乾隆三十一年
- 冬十月、流刑地へ送られる人犯で脱獄した者は、擬律のうえ即座に正法(処刑)せよと命じた。
- 冬十二月、『会典』が成った。
西暦1767年 高宗乾隆三十二年
- 夏四月、各省の大計(地方官の考課)にあたっては、布政使・按察使の両司は総督・巡撫が考課を出すよう命じた。
西暦1768年 高宗乾隆三十三年
- 春正月、『御批歴代通鑑輯覧』が成った。
- 秋九月、民間で人の髪の辮を盗み切る事件が起こり、江蘇・浙江に始まって直隷・山東の諸省に蔓延した。帝は各総督・巡撫の捕縛が不熱心であるとして、高晋・明徳・彰宝・馮鈐・熊学鵬・永徳らをみな部に交付して厳しく議罪させた。
- 冬十二月、台湾の民の黄教が乱を起こし、台湾道の張𤥻の職を革いた。
西暦1769年 高宗乾隆三十四年
- 夏四月、台湾の匪徒の黄教が捕らえられ、前の総兵の王巍は措置を誤ったとして法に伏した。
- 五月、壬午の朔、日食があった。
- 秋七月、彗星が現れた。
- 東南で大風の災いがあり、海辺の住民で死んだ者は数万にのぼった。
- 冬十月、彗星が再び現れた。
西暦1770年 高宗乾隆三十五年
- 春二月、貴州巡撫の良卿を殺した。法を曲げて賄賂を貪ったためである。
- 夏五月、旱魃のため、滞った未決の囚人を処理するよう命じた。
- 閏月、侍郎の裘日修に命じて薊州・宝坻一帯に赴いて蝗を捕らえさせたが、ほどなく捕獲の督励が不熱心であるとして免職した。
西暦1771年 高宗乾隆三十六年
- 夏四月、旱魃のため、滞った未決の囚人を処理するよう命じた。
- 大学士の尹継善が卒し、文端と諡した。継善は四たび両江総督となり、前後三十余年にわたって、もっぱら人材を引き立てることを務めとした。
西暦1774年 高宗乾隆三十九年
- 春正月、衆を集めて盟を結ぶ罪を定めるよう命じた。
- 夏四月、旱魃のため、滞った未決の囚人を処理するよう命じた。
- 秋七月、内監の高雲従を殺した。閣臣の于敏中と通じたためであり、敏中は部に下して厳しく議罪させた。
- 八月、壬午の朔、日食があった。
- 江南の老壩口で河が溢れた。
- 九月、江南に地震があった。
- 山東兗州の民の王倫が乱を起こし、これを討ち平らげた。
- 冬十月、秋審で情実(事情が確実で死刑相当)とされた人犯が、十度にわたって勾決(処刑の裁可)されなかった場合は緩決に改めるよう諭し、これを令とした。
- 各省に保甲の法を行うよう命じた。
西暦1775年 高宗乾隆四十年
- 夏五月、旱魃のため、礼部に雨乞いを命じた。
- 秋八月、丙子の朔、日食があった。
- 冬十二月、甲辰の朔、日食があった。
西暦1776年 高宗乾隆四十一年
- 春二月、寧夏の廠地(官営の工場・牧場の用地)を測量し、民に開墾を任せるよう命じた。
- 夏四月、湖北沔陽州の堤が潰れた。
西暦1778年 高宗乾隆四十三年
- 夏四月、京師と河南が旱魃となった。
- 閏六月、河南祥符県で河が溢れた。
- 秋九月、錦県の生員の金従善を殺した。帝が盛京から還御する途中、従善が道端で四か条の条陳を差し出し、その第一に皇太子を立てることを請うたところ、帝はこれを憎み、市に棄てる(公開処刑する)ことを命じたのである。
西暦1779年 高宗乾隆四十四年
- 夏六月、直隷の漳河・淦河・沙河が同時に堤を越えて決壊した。
- 秋七月、寧寿宮が落成した。
西暦1780年 高宗乾隆四十五年
- 春二月、両金咱(「金川」の誤りか)の番衆に薙髪(辮髪に剃ること)を命じるよう諭した。
- 夏五月、正陽門の城楼が火災にあった。
- 六月、江南睢陽県の郭家渡で堤が決壊した。
- 秋七月、永定河東の蔡家荘、山東省の汶河、張家油房などの各所で河が決壊した。
- 冬十二月、陳輝祖に命じて、大学士で公爵の阿桂とともに海塘に赴き、塘工のことを計画させた。
西暦1781年 高宗乾隆四十六年
- 春三月、甘粛の回人の蘇四十三らが乱を起こし、知府の楊士璣、副将の新柱を殺害し、進んで河州を占拠し、阿桂に命じて河南の地から向かわせて討伐させた。回人は新教の擁立を争ったことから、旧教の回人を殺傷し、総督の勒爾錦が檄を発して士璣らを派遣して取り調べさせたところ、河州の白荘子まで来たところで回人の衆千余人に遭遇し、包囲された。その夜、士璣らは殺害されたのである。
- 夏四月、西寧鎮総兵の貢楚達爾らが河州を回復し、蘇四十三らは蘭州城外の山の尾根に逃げ込んで拠った。
- 閏五月、『熱河志』が成った。
- 六月、邳睢の黄河南岸の魏家荘で堤を越えて決壊した。
- 領侍衛内大臣の海蘭察らが回人の巣窟を攻め破り、蘇四十三らを陣中で斬り、残りの衆は退いて華林寺に拠った。
- 六月、海蘭察らが華林寺を攻め破り、回人の衆はことごとく殲滅された。
- 万錦灘の堤が潰れた。
- 秋七月、陝甘総督の勒爾錦、巡撫の王亶望・王廷賛らが、蝗害を捏造して賑恤の穀を騙し取り、監損の銀(「監損」は「監捐」=捐監の銀の誤りか)を横領した罪で法に伏し、陝甘・新疆での捐監(金銭を納めて監生となる制度)の例を停止した。
- 八月、四川の国匪が梁山・墊江などの県を襲って略奪し、胡範年ら五十一人を捕らえて斬り、総督の文綬は処理が不熱心であるとして免職され、伊犁に流されて戍とされ、福康安を四川総督に転任させた。
- 九月、江蘇沛県で河が溢れた。
- 冬十月、満洲の駐防兵が年老いて退役したのち京に帰って養われる例を定めた。
西暦1782年 高宗乾隆四十七年
- 春正月、江蘇に鳥銃を禁じるよう命じた。
- 『四庫全書』が完成し、続けて三部を書写させ、楊州(「楊州」は「揚州」の誤りか)の文滙閣、鎮江の文宗閣、杭州の文淵閣に分けて収蔵するよう命じた。
- 夏四月、遼・金・元の三史の訳し直しが完成した。
- 秋八月、己卯の望、月食があった。
- 冬十月、浙閩総督の陳輝祖に自尽を賜った。王亶望の家産を差し押さえる際に、玉器・書画を抜き取って入れ替えたためである。布政使の国棟らはみな、同調して隠し立てしたとして、斬監候に議せられた。
西暦1783年 高宗乾隆四十八年
- 夏六月、体仁閣が火災にあった。
- 秋七月、各省の大挑で振り分けられた挙人を、知県または佐貳官に分けて補用(底本は「捕用」に作る。「補用」の誤りか)するよう命じた。
- 冬十月、黄河の堤沿いに柳を植えるよう命じ、堤の近くで土を取ることを重ねて禁じた。
- 『古今儲貳金鑑』を編むよう命じた。
- 『貳臣伝』を編むよう命じ、明の降将の劉良臣ら百二十余人を貳臣とし、呉三桂ら二十余人を逆臣とした。
西暦1784年 高宗乾隆四十九年
- 夏四月、各省の試用人員で補職の順番がまだ遠い者は、申し出て原籍に帰り、順番が来たときに元の省に戻って任用されることを許した。
- 緑営で退役した人員のうちかつて戦陣で負傷した者には、全額の俸給を支給することを許すと諭し、これを令とした。
- 甘粛の新政(「新政」は「新教」の誤りか)の回人である田五らが、新教を興そうと謀って衆を集め事を起こし、李侍堯・剛塔に命じてこれを討たせた。
- 五月、李侍堯が、賊の首領の田五は銃撃されて死に、残りの衆は馬家堡に逃げ込んだ、と上奏した。帝はその処理がまだ妥当を得ていないと責め、免職するよう命じ、大学士の阿桂、尚書の福康安、領侍衛内大臣の海蘭察らに馳せ向かって討伐させた。
- 秋七月、甲寅の朔、日食があった。
- 江西巡撫の郝碩に自尽を賜った。属官に割り当てを強いて銀両を贈らせたためである。
- 『河源紀略』が成った。
- 叛いた回人の張文慶・馬四娃・李可魁らが捕らえられて誅に伏し、回乱は平定され、阿桂らにはそれぞれ差をつけて論功の賞が与えられた。
- 八月、辟雍(国子監の学堂)が落成した。
- 河南睢州で河が溢れた。
- 冬十一月、各省で官に就く人員は、原籍から五百里の範囲であれば回避(赴任させない)することを命じた。
- 李侍堯・剛塔を逮えて罪に問い、ほどなく李侍堯を斬監候、剛塔を伊犁の戍に処するよう命じた。
西暦1785年 高宗乾隆五十年
- 春正月、在位五十年の国慶をもって、天下に詔を頒ち、それぞれに厚い恩恵を及ぼした。
- 千叟の宴を賜った。王・大臣から蒙古の貝勒・貝子・公・台吉・額駙、回部、番部、朝鮮国の使臣、および士・商・民・兵にいたるまで、六十歳以上の者、あわせて三千人であった。
- 二月、文廟に詣でて釈奠(孔子を祀る儀)を行い、辟雍に臨んで講学した。
- 夏四月、甘粛に地震があった。
- 六月、湖南巡撫の陸耀が卒した。耀は母に孝行に仕え、官にあっては清廉の徳があり、湖南を巡撫すること一年で卒した。著すところに『甘薯録』があり、今日まで飢饉に備える者がこれを宝としている。
- 冬十二月、『一統志』および遼・金・元の三史を続修した。『国語解』が成った。
西暦1786年 高宗乾隆五十一年
- 春正月、丙午の朔、日食があった。
- 三月、もと大学士の徐本・高斌、将軍の伊勒図、総督の方観承・薩載を、いずれも賢良祠に入れて祀るよう諭した。
- 秋七月、伊犁に地震があった。
- 山安(山陽・安東)の清江・淮関一帯で河が決壊した。
- 両広総督の富勒渾が、家丁を放任して不正を働かせたとして免職され罪に問われ、ほどなく斬監候に擬せられた。
- 冬十二月、苗地の辺防を整備するよう命じた。
西暦1787年 高宗乾隆五十二年
- 夏五月、湖南鳳凰庁に属する句補寨の苗人の石満宜らが事を起こし、総後(「總後」は「總兵」の誤りか)の伊徳禧がこれを討ち平らげた。
- 満洲・蒙古の翻訳科の郷試・会試を、五年に一度挙行する例を定めた。
- 六月、山東睢州の下汛、十三堡で河が溢れた。
- 秋八月、江南の周家溝などの各所で河が溢れた。
- 冬十一月、今後、葉爾羌(ヤルカンド)・和闐(ホータン)では毎年春季の採玉を停止し、秋季には従来どおり採って運ばせよと諭し、これを令とした。
- 十二月、郷試・会試で経書ごとに分けて合格者を出す例を停止し、一科ごとに一つの経から題を出し、五経を順ぐりに分けて試験することとした。
西暦1788年 高宗乾隆五十三年
- 夏四月、旱魃のため、徒刑以下の罪を減じるよう命じた。
- 五月、壬戌の朔、日食があった。
- 諭していう。四川省には以前から無頼の徒が仲間を集めて強奪することがあり、𠴱嚕と名づけられ、これまでしばしば聖旨を下して厳しく捕らえ究明させてきたが、当省の奏摺はおおむね「𠴱匪」の字を書いている。しかし「𠴱」の字は音が「国」の字と近いので、今後この種の案件があれば、みな「𠴱嚕匪犯」と改めよ、と。
- 秋七月、荊江の堤が決壊し、府城が水に押し流され浸かった。
- 九月、各省が私に班館(私設の留置施設)を設け、私に刑具を備えることを禁じた。
西暦1789年 高宗乾隆五十四年
- 夏六月、州県が法外の刑をみだりに用いることを禁じた。
- 冬十月、癸丑の朔、月食があった。
- 順天の挙人の覆試(再試験)を挙行するよう命じた。
西暦1790年 高宗乾隆五十五年
- 春正月、八十歳の万寿(誕生日)をもって天下に詔を頒った。
- 夏六月、王平荘の堤が二百八十余丈にわたって決壊し、永城・宿州・霊壁などの各所の田地・家屋が水に浸かった。
西暦1791年 高宗乾隆五十六年
- 春三月、直隷永定河の支流および山東の馬頰河を浚渫するよう命じた。
- 六月、各省で訴え出られた重大案件は、総督・巡撫が自ら被告人を引き出して審理せよと重ねて諭し、これを令とした。
西暦1792年 高宗乾隆五十七年
- 夏四月、旱魃のため、徒刑以下の罪を減じるよう命じた。
- 五月、各省で訴え出られた重大案件は、総督・巡撫が自ら被告人を引き出して審理せよと諭し、これを令とした。
- 冬十二月、『御製十全記』を頒ち、チベットのブダラ山にある聖祖のチベット平定の碑のかたわらに立てさせた。帝は、即位以来、二たび金川を定め、二たび伊犁を定め、一たび回部を定め、一たびビルマに入り、一たび台湾を定め、一たび安南を回復し、二たびグルカ(ネパール)に勝った、と数え、自ら十全の武功があるとした。そこで『十全記』を著し、碑を立て亭を建てて、武功の成就を十度告げたことを記し、自ら十全老人と称した。
西暦1793年 高宗乾隆五十八年
- 春二月、東南の海沿いの諸省で海水に虫が生じた。色は赤く、形は蜈蚣(むかで)に似て、長さは三、四寸、夕暮れになって初めて姿を見せた。
- 秋七月、旱魃のため、徒刑以下の罪を減じるよう命じた。
- 冬十一月、冬に入って雪が無いことから、緩決三度に及んだ人犯について、それぞれ等を減じるよう命じた。
- 十二月、雷のような音がして、電のような光が、箕宿の分野から輿鬼宿に至って消えた。おそらくこれが天狗であろうと言われた。
西暦1794年 高宗乾隆五十九年
- 夏五月、直隷・山東が旱魃となった。
- 台湾の民の周全が乱を起こし、ほどなく捕らえて平定した。
- 六月、小銭を重ねて禁じ、沙板・鵞眼などの名目のあるものを一律に厳禁した。
- 秋七月、永定河が溢れた。
- 徒刑以下の罪を減じるよう命じた。
- 東南の海沿いで大風・海嘯があった。
- 冬十月、郷試の覆試を停止した。
西暦1795年 高宗乾隆六十年
- 春正月、甲申の朔、日食があった。
- 戊戌の望、月食があった。
- 夏六月、旱魃のため、徒刑以下の罪を減じるよう命じた。
- 福建・浙江の両省に会同して洋上の海賊を捕らえるよう命じた。
- 秋九月、第十五皇子の嘉親王顒琰を皇太子に立て、翌年をもって嗣皇帝の嘉慶元年とすると諭した。
- 冬十二月、官を遣わして天地・社稷・宗廟・奉先殿に祭告した。来年の丙辰の元日に、皇太子に位を譲るためである。
原文(底本)
高宗乾隆元年,春正月,詔撤西北兩路兵。 停京師及各省捐納例。 夏四月,命保舉賢良方正。 六月,逮四川巡撫王士俊下獄。初,世宗朝,政令繁苛,專事刻覈,中外爲之騷然。帝即位,欲拯其弊,而矯枉過正,因寬成玩,諸事遂日形廢弛。士俊密摺痛陳其害,略謂近日條陳惟在翻駁前案,甚則對衆揚言有止須將先帝時事翻案,即係好條陳之說。傳之天下,甚駭聽聞。帝覽疏震怒,命逮士俊來京,交法司嚴審,嗣定爲斬監候。然自是用法日趨於繁密,疊興大獄,其爲閭閰之擾累,反視雍正中,有過之無不及矣。 二年,夏四月,以旱,命刑部察獄。 出傅爾丹、陳泰、岳鍾琪於獄。 五月,准新進士條奏地方利弊。 秋七月,永定河決。閏九月,小濬直隸浹水縣拒馬河。 三年,春三月,以旱,命刑部察獄。 夏四月,以旱,求言。 五月,定各省水旱災五分即蠲免例。 秋七月,江南蝗災。 冬十一月,寧夏地震,水湧新渠,寶豐縣治沉沒。 四年,春三月,嵇曾筠卒。曾筠治水用引河殺險之法,前後於河工塘工咸能底績,至是卒,命與前河臣靳輔、齊蘇勒一體祠祀,予諡文敏。 夏四月,以旱,申命求言,清獄。 飭直隸、江南捕蝗。 冬十二月,圈禁理親王弘晳於景山東菓園。因宗人府福寧首告弘晳,聽安泰邪術,大逆不道也。安泰亦坐絞。 五年,春二月,命直隸山東、山西、湖南、廣東等省,招商採煤。 夏五月,以旱,命清獄。 秋七月,禁私售旗地。 冬十一月,重輯《律例》及《一統志》成。 六年,春三月,賜提督鄂善自盡。因御史仲永壇疏劾其受賄,親訊得實也。擢永壇爲僉都。 秋七月,命北省勸民私開溝洫。 殺山西學政喀爾欽,以賄賣生童,縱僕私營違禁漁色等罪伏法。 冬十一月,尚書徐元夢卒,予諡文定。元夢初以不附明珠,幾爲構死。 十二月,大學士張廷玉請解部務,不許。先是,都御史劉統勲收疏言,外間輿論,動云張、姚兩姓占卻半部縉紳,請加裁抑。又尚書公納親兼差太多,宜量予減省。帝以疏示廷臣,廷玉因奏辭兼部,帝不允。後二人晚節不終,一如統勲言。 七年,春正月,彗星見。 二月,定選拔爲十二年一次例。因以前六年一舉,爲期太近也。 三月,命舉直臣,以備臺諫之選。 夏四月,停文武鄉會互試例。 八年,春二月,命保舉堪任河工人員。 夏四月,纂修《醫宗金鑑》成。 六月,以旱,申命求言。 冬十一月,彗星見。 令新選州縣官驗看時,摘問律例數條,令其條對,與覆歷並呈,著爲例。 十二月,飭直省控除蝻孽。 九年,春正月,命大學士訥親查閱河南、山東、江南營伍,並勘驗河工海塘。 夏四月,以旱,命察獄。 五月,命大學士劉於義往保定,會同高斌籌畫直隸水利事。 冬十二月,命各省錢穀刑名,年終彙冊報部。 十年,春正月,命會試改期三月,永爲例。 夏四月,申諭各省釐正文體。 以旱,命察獄。 允開貴州大定府畢節縣屬赤水河,從督臣張廣泗請也。由遵義府直達四川重慶府,往來稱便。 五月,停江南河工捐例。 秋九月,禁用非法刑具。 冬十月,命四川嚴查國匪。 十二月,允開雲南金沙江上游之蜈蚣嶺等灘,從督臣張允隨請也。 十一年,春三月,命慶復查閱甘肅營伍,尋召入爲武英殿大學士。 三月,命保選堪勝道府人員。 夏五月,定督撫養廉銀兩。 秋七月,己丑朔,日食。 東南濱海暴風、海嘯。 十三年,夏五月,禁福建商民入天主教。 秋七月,殺浙江巡撫常安,因督臣喀爾吉劾其貪婪,訊實論絞。 閏月,殺湖廣總督塞楞額、知府金文醇,革江南部河周學健、湖廣巡撫彭樹葵、楊錫紱職,罰修直隸城工,皆坐皇后喪中剃頭也。刑部尚書盛安因議文醇罪案從經,論死。 秋九月,諭國朝寶璽。朕依次排定,其數二十有五,印文向兼滿漢。內青玉寶,係清字篆文,乃有識之士時所貽。自是以上四寶,均世代相承,傳爲世寶,不宜輕易。其檀香以下二十一寶,重新定清字篆體改鐫。 冬十一月,諭各處本章,概改用題本。 十四年,秋八月,定歲科考生童默寫經書例,從山西學政德保請也。 十五年,夏五月,癸丑,日食,命臣工直陳闕失。 十六年,夏五月,丁酉朔,日食,停止知縣三年行取例。 冬十二月,禁苗人充補額兵。 十八年,秋八月,銅山縣隄決,殺貽誤工程之同知李焞,守備張賓。 二十年,春二月,乙巳朔,日食。 夏六月,南方霪雨,天氣寒如冬。 秋七月,蝝生,棉穀不賔。 冬十二月,地震。 二十一年,秋七月,定革職人員,概准捐復例。 二十二年,春正月,改會試二聲表文爲五言八律唐律一首。 夏四月,戍內監于榮煥於黑龍江,因倚勢在街市中戲侮巡檢張若瀛。若瀛按法懲治,事聞,命遣戍。 秋九月,賜雲貴總督恆文自盡。坐令屬員買金,短發金價及縱容家丁勒索門包也。 冬十一月,殺山西布政使蔣洲。坐虧帑也。 十二月,命保舉堪管專閫人員。 准呂宋船於廈門貿易。 二十三年,夏四月,諭鄉會試第一場四書文後增性理論一道,從言官吳龍見請也。 冬十二月,癸丑朔,日食。丁卯望,月食。 二十四年,春三月,彗星見南方,月餘乃滅。 夏四月,以旱,命清獄,准臣工言利弊。 二十五年,夏五月,甲辰朔,日食。 二十六年,春正月,紫光閣落成,賜大學士公博恆以下五十人畫像。 夏五月,弛貴州民苗結婚禁。 秋七月,命減緩三次以上人犯罪。 二十七年,秋八月,諭督撫同省不得交布政使攝篆,著爲例。 九月,庚申朔,日食。 二十八年,秋七月,松江府境暴風,三日夜不息,禾盡偃,諸縣田顆粒無收,府署白日被劫。巡撫洪之傑諱災不告,反取句容縣青苗一束,繪嘉禾圖上獻。璽書嘉獎,宣示中外。 九月,乙卯朔,日食。 三十年,春三月,甘肅地震。 秋七月,甘肅地再震。 九月,命各省書院山長,六年後者,有成效者量予議敘,改山長稱爲院長。 冬十月,定舉大挑例。除新科外,直扣一科,其見任教職者不得與挑。 三十一年,冬十月,命問擬發遣人犯越獄,即行正法。 冬十二月,會典成。 三十二年,夏四月,命各省大計,藩、臬兩司由督撫出考。 三十三年,春正月,《御批歷代通鑑輯覽》成。 秋九月,民間人有偷剪髮辮,始於江浙,蔓延直隸、山東各省。帝以各督撫緝捕不力,高晉、明德、彰寶、馮鈐、熊學鵬、永德等俱交部嚴議。 冬十二月,臺灣民黃教作亂,革臺灣道張𤥻職。 三十四年,夏四月,臺匪黃教就擒,前總兵王巍以措置乖方伏法。 五月,壬午朔,日食。 秋七月,彗星見。 東南大風災,臨海居民死者數萬。 冬十月,彗星復見。 三十五年,春二月,殺貴州巡撫良卿,以骫法婪贓故也。 夏五月,以旱,命清獄。 閏月,命侍郎裘日修赴薊州寶坻一帶捕蝗,尋以督捕不力革職。 三十六年,夏四月,以旱,命清獄。 大學士尹繼善卒,予諡文端。繼善四督兩江,前後三十餘年,頗以汲引人才爲務。 三十九年,春正月,命定聚衆結盟罪。 夏四月,以旱,命清獄。 秋七月,殺內監高雲從,以交通閣臣于敏中也,敏中交部嚴議。 八月,壬午朔,日食。 江南老壩口河溢。 九月,江南地震。 山東兗州民王倫作亂,討平之。 冬十月,諭秋審情實人犯,經十次未勾,改入緩決,著爲令。 命各省行保甲法。 四十年,夏五月,以旱,命禮部祈雨。 秋八月,丙子朔,日食。 冬十二月,甲辰朔,日食。 四十一年,春二月,命勘丈寧夏廠地,聽民墾種。 夏四月,湖北沔陽州隄潰。 四十三年,夏四月,京師、河南旱。 閏六月,河南祥符縣河溢。 秋九月,殺錦縣生員金從善。帝自盛京回鑾,從善於道旁呈遞條陳四事,首請建儲,帝惡之,命棄於市。 四十四年,夏六月,直隸漳河、淦河、沙河同時漫口。 秋七月,寧壽宮成。 四十五年,春二月,諭令兩金咱番衆薙髮。 夏五月,正陽門城樓災。 六月,江南睢陽縣郭家渡隄決。 秋七月,永定河東蔡家莊、山東省汶河、張家油房等處河決。 冬十二月,命陳輝祖會同大學士公阿桂往海塘籌畫塘工事。 四十六年,春三月,甘肅回人蘇四十三等作亂,戕知府楊士璣、副將新柱,進據河州,命阿桂由河南地往剿辦。回人因爭立新教,殺傷舊教回人,總督勒爾錦檄士璣等前往查辦,行至河州白莊子,遇回衆千餘,圍之。是夜,士璣等被害。 夏四月,西寧鎮總兵貢楚達爾等收復河州,蘇四十三等竄據蘭州城外山梁。 閏五月,《熱河志》成。 六月,邳睢黃河南岸魏家莊漫口。 領侍衛內大臣海蘭察等攻破回巢,斬蘇四十三等於陣,餘衆退據華林寺。 六月,海蘭察等攻破華林寺,回衆悉殲。 萬錦灘隄潰。 秋七月,陝甘總督勒爾錦,巡撫王亶望、王廷贊等,以揑蝗冒振、侵蝕監損伏法,停止陝甘、新疆捐監例。 八月,四川國匪搶刦梁山、墊江等縣,捕斬胡範年等五十一人,總督文綬以辦理不力革職,遣戍伊犁,調福康安爲四川總督。 九月,江蘇沛縣河溢。 冬十月,定滿州駐防兵年老退休回京就養例。 四十七年,春正月,命江蘇查禁鳥槍。 《四庫全書》告成,命續繕三分,分庋楊州文滙閣、鎮江文宗閣、杭州文淵閣。 夏四月,改譯遼、金、元三史告成。 秋八月,己卯望,月食。 冬十月,賜浙閩總督陳輝祖自盡,以查抄王亶望家產,抽換玉器、字畫故也。藩司國棟等均以扶同狥隱,議斬監候。 四十八年,夏六月,體仁閣災。 秋七月,命各省大挑分發舉人,以知縣佐貳分別捕用。 冬十月,命黃河沿隄植柳,申禁近隄取土。 命編《古今儲貳金鑑》。 命編《貳臣傳》,以明降將劉良臣等百二十餘人爲貳臣,吳三桂等二十餘人爲逆臣。 四十九年,夏四月,准各省試用人員補其尚遠者,呈明回籍,俟到班時,仍回原省補用。 諭綠營告休人員曾臨陣受傷者,准食全俸,著爲令。 甘肅新政回人田五等,以謀興新教,聚衆滋事,命李侍堯、剛塔勦之。 五月,李侍堯奏賊首田五槍斃,餘衆竄馬家堡。帝責其辦理,未臻妥協,命革職,令大學士阿桂、尚書福康安、領侍衛內大臣海蘭察等馳往勦辦。 秋七月,甲寅朔,日食。 賜江西巡撫郝碩自盡,因勒派屬員饋送銀兩也。 《河源紀略》成。 逆回張文慶、馬四娃、李可魁等就擒伏誅,回亂肅清,阿桂等敘賞有差。 八月,辟雍成。 河南睢州河溢。 冬十一月,命各省服官人員,距原籍五百里者迴避。 逮李侍堯、剛塔治罪,尋命李侍堯斬監候,剛塔戍伊犁。 五十年,春正月,以五十年國慶,頒詔天下覃恩有差。 賜千叟宴。自王大臣至蒙古貝勒、貝子,公、台吉、額附,回部,番部,朝鮮國使臣,暨士、商、民、兵等年六十以上者,凡三千人。 二月,詣文廟釋奠,臨辟雍講學。 夏四月,甘肅地震。 六月,湖南巡撫陸耀卒。耀事母孝,居官有清德,撫湖南一年而卒。所著有《甘薯錄》,至今備荒者寶之。 冬十二月,續修《一統志》及遼、金、元三史。《國語解》成。 五十一年,春正月,丙午朔,日食。 三月,諭原任大學士徐本、高斌,將軍伊勒圖,總督方觀承、薩載俱著入祀賢良祠。 秋七月,伊犁地震。 山安清江、淮關一帶河決。 兩廣總督富勒渾以縱容家丁舞弊革職治罪,尋擬斬候。 冬十二月,命整飭苗地邊防。 五十二年,夏五月,湖南鳳凰廳屬句補寨苗人石滿宜等滋事,總後伊德禧討平之。 定滿州蒙古繙譯鄉會試,五年舉行一次例。 六月,山東睢州下汛,十三堡河溢。 秋八月,江南周家溝等處河溢。 冬十一月,諭嗣後葉爾羌和闐每年春季停止採玉,秋季仍令採運,著爲令。 十二月,停鄉會試分經中式例,每科以一經命題,將五經輪流分試。 五十三年,夏四月,以旱,命減徒以下罪。 五月,壬戌朔,日食。 諭川省向有棍徒糾夥搶劫,名爲𠴱嚕,歷經降旨嚴拏究辦,該省奏摺率寫𠴱匪字樣。但𠴱字聲音與國字相近,嗣後遇有此等案件俱著改爲𠴱嚕匪犯。 秋七月,荆江隄決,府城被水衝淹。 九月,禁各省私立班館,私置刑具。 五十四年,夏六月,禁州縣濫用非刑。 冬十月,癸丑朔,月食。 命舉行順天舉人覆試。 五十五年,春正月,以八旬萬壽頒詔天下。 夏六月,王平莊壩決二百八十餘丈,永城、宿州、靈壁等處田廬被淹。 五十六年,春三月,命濬直隸永定河支河,及山東馬頰河。 六月,申諭各省呈控重案,著督撫親提審辦,著爲令。 五十七年,夏四月,以旱,命減徒以下罪。 五月,諭各省呈控重案,著督撫親提審辦,著爲令。 冬十二月,頒《御製十全記》於西藏布達拉山聖祖平藏碑旁豎立。帝以臨御以來,兩定金川,兩定伊犁,一定回部,一入緬甸,一定臺灣,一復安南,兩勝廓爾喀。自謂有十全武功。製《十全記》,豎碑建亭,以志武成十告,自稱十全老人。 五十八年,春二月,東南濱海各省海水生蟲,色赤,狀如蜈蚣,長三四寸,昏暮始見。 秋七月,以旱,命減徒以下罪。 冬十一月,以入冬無雪,命將緩決三次人犯,分別減等。 十二月,有聲如雷,光如電,自箕分至輿鬼而滅,蓋即天狗云。 五十九年,夏五月,直隸、山東旱。 臺灣民周全作亂,尋捕平之。 六月,申禁小錢,有沙板鵞眼等名目一率嚴禁。 秋七月,永定河溢。 命減徒以下罪。 東南濱海大風、海嘯。 冬十月,停止鄉試覆試。 六十年,春正月,甲申朔,日食。 戊戌望,月食。 夏六月,以旱,命減徒以下罪。 命閩浙兩省會緝洋盜。 秋九月,諭立皇十五子嘉親王顒琰爲皇太子,以明年爲嗣皇帝嘉慶元年。 冬十二月,遣官祭告天地、社稷、宗廟、奉先殿,以來歲丙辰元日,傳位太子故也。
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