清史紀事本末苗族・金川の征討(苗族及金川之征勦)
要約
乾隆元年春三月、経略の張広泗が兵を八路に分けて牛皮箐の苗寨を攻め破り、苗が平定された。苗族は言語風俗が中国と異なるので、元・明以来、土司を置いて世襲させ、酋長を官に任じて羈縻した。だが苗民は劫略殺戮を生業とし、土官も虐使したのでつねに辺患となり、雲南・貴州で甚だしかった。雍正四年、雲南巡撫の鄂爾泰が改土帰流の策を建て、世宗は喜んで三省総督の印を授けた。鄂爾泰は生苗二千余寨を招服し、苗地二三千里を開き、五、六年で三省の辺防は定まった。
後継の者は苗の事を易しと見なし、地方官も糧を徴して変乱を招き、十三年春、各寨が蜂起して黄平以東の諸城を陥れた。哈元生は討伐、董芳は懐柔を主張し、張照は改土帰流を策にあらずと密奏して命令が一致せず、帝は位を継ぐと三人を罷めて広泗を七省経略とし、牛皮大箐で千二百二十四寨を焼き三百八十八寨を赦した。
十二年三月、広泗を川陝総督に転じて大金川を討たせた。金川は四川西辺の土司で、雍正元年に莎羅奔が金川安撫使を授かったが、乾隆十一年、小金川の沢旺の印を奪って弟の良児吉に与え、革布什咱らを侵し救援の軍を撃った。大金川は険阻で戦碉が林立し、広泗が囲む間に張興・孟臣が殺された。十三年四月、訥親を経略、岳鍾琪を提督としたが、訥親は碉をもって碉に迫るのみで任挙・賈国良も戦死し、良児吉の内通もあって寸功がなかった。十二月、傅恒を経略とし、訥親に死を賜い広泗を殺した。傅恒は良児吉を誅し、阿扣・王秋ら間諜を斬って内通を絶ち、碉を囲む兵を撤して中堅を衝いた。十四年四月、鍾琪が単騎で噶喇依の営に入ると、かつてその麾下にあった莎羅奔は地に伏して罪を請い、翌日軍門に降って大金川は平定された。
三十一年、莎羅奔の兄の子の郎卡が大金川を継いで驕り猛り、その子の索諾木は小金川の僧格桑と約して革布什咱・沃日を攻めた。三十六年十月、阿爾泰を罷めて死を賜い、温福・桂林に討たせ、三十七年には桂林に代えて阿桂が小金川を攻め取り、僧格桑は大金川に逃げた。三十八年六月、木果木で酒宴を張り諫言を退けていた温福は襲われて殺され、戦死三千余、潰走一万余で小金川は再び陥ちたが、阿桂を定西将軍として十月に回復した。三十九年七月、阿桂の軍が勒烏囲に迫ると索諾木は僧格桑を毒殺して屍を差し出し停戦を請うたが許されず、四十年八月に勒烏囲は破られた。索諾木らはすでに噶爾崖へ逃げ込んでいた。四十一年二月、四十余日の包囲ののち索諾木は莎羅奔とともに家族以下二千余人を率いて降り、金川の全境が平定され、小金川を美諾庁、大金川を阿爾古庁として四川に直隷させた。
編者はいう、三十六年に再び両金川に兵を用いてから平定まで、得た土地は千里に過ぎず、人は三万にも満たぬのに、軍を野に曝すこと五年、金七千万両を費やした。行軍の難は地理の険阻と土兵の死力によるが、当時の軍備が頼みにならず将帥の戦略も称するに足らなかったことも知れる。時の君主はなお陵に参詣し、太学に碑を立て、闕里に成功を告げ、甚だしく盛んな事と飾り立てた。これはまた何としたことか、と。
年表
雲貴の苗族平定と四川の大小金川征討を扱う。雍正期に鄂爾泰が改土帰流を建議して三省の辺防を定めたが、雍正十三年に苗の各寨が蜂起し、乾隆元年(1736年)に経略の張広泗が牛皮箐を破って苗を平定した。次いで乾隆十二年(1747年)から大金川の莎羅奔の討伐が始まり、訥親・張広泗が失敗して誅され、傅恒と岳鍾琪が十四年に莎羅奔の降伏を得た。乾隆三十六年(1771年)に索諾木・僧格桑が再び叛き、温福が木果木で戦死したのち阿桂が指揮を執り、四十一年(1776年)に噶爾崖を落として金川全境を平定、四十年間にわたる西南の征討が終わった。
年表(9件)
- 西暦1736年 高宗乾隆元年経略の張広泗が兵を八路に分け牛皮箐を破り、貴州の苗が平定される
- 西暦1747年 乾隆十二年張広泗を川陝総督に転じ、大金川の莎羅奔を討伐させるが戦碉に阻まれる
- 西暦1748年 乾隆十三年訥親が経略となるも功なく、死を賜い張広泗も殺され、傅恒が経略に代わる
- 西暦1749年 乾隆十四年岳鍾琪が単騎で噶喇依に入り、莎羅奔が降って大金川が平定される
- 西暦1771年 乾隆三十六年索諾木と僧格桑が結んで諸土司を攻め、温福・桂林に小金川を討たせる
- 西暦1772年 乾隆三十七年桂林を罷めて阿桂を四川総督とし、阿桂が小金川の美諾を攻め取る
- 西暦1773年 乾隆三十八年木果木で温福が戦死し小金川が再び陥ちるが、阿桂・明亮がこれを回復する
- 西暦1775年 乾隆四十年阿桂ら三路の軍が勒烏囲を破り、進んで噶爾崖を包囲する
- 西暦1776年 乾隆四十一年噶爾崖が落ち莎羅奔と索諾木が降り、金川の全境が平定される
現代語訳全文
西暦1736年 高宗乾隆元年
- 春三月、経略の張広泗が兵を八路に分け、合わせて牛皮箐の苗寨を攻めてこれを破り、苗が平定された。
- 苗族は種族の名が一つではない。四川にいる者は僰といい、生番といい、両広にいる者は僮といい、黎といい、湖南・貴州にいる者は徭といい、雲南にいる者は倮といい、野人という。その言語・風俗はもともと中国とまったく異なっていたので、中国では元・明以来、宣慰・宣撫・招討・安撫長官などの土司を設け、また土府・土州県を置き、その長はみな世襲することができ、自治権を握っていた。これはその旧来の風俗をそのままにし、その酋長を官に任じて、羈縻(ゆるくつなぎとめること)しようとしたのである。
- 順治・康熙以来、明の旧制を受け継いで、それぞれに土官を設けた。しかし苗民は耕作を知らず、もっぱら劫略と殺戮を生業とし、土官のほうもまた積み重ねた威勢をかさに着て、過酷に取り立て虐げて使役し、ほしいままに不法をはたらいた。そこで苗族はつねに辺境の患いとなった。そして雲南・貴州においてとりわけ甚だしかった。
- 雍正四年から、鄂爾泰が雲南巡撫となり、改土帰流(土司を廃して中央から派遣する流官に改めること)の策を建て、それにあたって従前の「夷をもって夷を治める」やり方が失策であったことを極言した。ただし土司を流官に改めようとするならば、大いに兵を用いないわけにはいかない、ことごとく土地を献じ貢を納めさせ、違う者は討伐すべきである、とした。世宗はその上疏を見て大いに喜び、「卿は朕の奇臣である。これは天が卿を朕に賜ったのだ」と言った。そして生年月日を差し出すよう命じ、養心殿に召し出し、自ら鋳させた三省総督の印を手ずから授けた。
- 鄂爾泰は任地に着くと、遊撃の哈元生を用いて烏蒙・鎮雄の事を委任し、総兵の石礼哈を用いて貴州広順の長寨を捜索討伐させ、貴州辺境の東・西・南三方面の生苗二千余寨を招いて服従させ、知府の張広泗を用いて古州を招撫させ、苗の地二三千里を開いた。
- 前後して雲南霑益土州の安氏、鎮沅土府の刁氏、および赭楽長官司・威遠州・広南府の各土目を弾劾して退け、瀾滄江以東の地をことごとく平定して、普洱を府とした。広西の諸土官も泗城の岑氏以下、あいついで勅書と印を返上し、武器二万余を納めた。兵を用いること五、六年で、三省の辺防はひとまず定まった。世宗はその功を非凡だとし、批答の文書に「朕は実に感謝している。どのように卿を遇したら心が安まるのか分からぬほどだ」とまで記した。そこで鄂爾泰は積み重ねた勲功によって襄勤伯に封ぜられ、武英殿大学士を授けられて入朝した。広泗もまた雲南巡撫から湖広総督に移った。
- 後を継いだ者たちはみな苗の事をたやすく見なし、地方長官もまた糧を徴収して変乱を引き起こした。そして十三年の春に至り、各寨が蜂のように蜂起し、清江・台拱のあいだに集結し、黄平以東の諸城を陥れた。彼らは鄂爾泰が軍を督していたとき、捕らえた苗をみな腸を割き首を切り、崖の木に分けて掛けてほとんど一杯にしたことに憤りを積もらせていた。ここに至って抵抗の意志はいよいよ固く、自らの手で妻と娘を刺し殺してから出撃するほどであった。鎮沅の苗は知府の劉宏度を柱に縛りつけ、その娘を裸にして犯し、その首を引きずるまでに至った。鄂爾泰は骨身にしみるほど恥じ怒り、罪を引き受けて自ら弾劾したが、苗の患いは蔓延してもはや制することができなくなった。
- そのとき詔して雲南・四川・湖広・広東の四省の兵を発して会同討伐させたが、軍中ではそれぞれ意見を抱き、将軍の哈元生は討伐を主張し、提督の董芳は懐柔を主張し、撫苗大臣の張照はまた改土帰流は策ではないと密奏し、しかも諸将に書を送って土地を棄てる議論を唱えた。そのため命令が一致せず、数か月軍を治めても、ついに成功しなかった。
- このとき帝はすでに位を継いでおり、張照・哈元生・董芳をことごとく罷免して罪に問い、広泗を七省経略に任じた。広泗は前後して台拱の九股苗および清江下流の各寨を攻め落とした。そしてここに至って、さらに兵を増やして八路に分け、丹江・古州・郡勻(都勻の誤りか)・台拱のあいだの大森林に逃げ込んだ者を包囲した。これがいわゆる牛皮大箐である。合わせて千二百二十四寨を焼き、三百八十八寨を赦し、貴州の苗族はことごとく平定された。それから十年を経て、四川大金川の役があった。
西暦1747年 乾隆十二年
- 春三月、雲貴総督の張広泗に命じて川陝総督に転じさせ、四川に駐在して機を見て大金川の苗部を討伐させた。
- 金川は四川西辺の諸土司の一つで、漢代の冉駹の地であり、隋は県を置き、唐は雅州に属し、明は雑谷安撫司に隷し、もとは吐蕃の領地であった。風俗はラマ教を信じ、明のとき、その部の哈伊拉木を演化禅師に封じ、代々大金川・小金川の流域の地を領有した。のちに二部に分かれ、小金川に居る者を攢拉といい、大金川に居る者を促浸といった。順治七年、小金川の酋長である卜児吉細に土司の職を授けた。康熙五年、大金川の酋長である嘉勒巴に演化禅師の印を授けた。雍正元年、嘉勒巴の孫の莎羅奔が康熙五十九年に西蔵の羊岡に従軍して功があったので、金川安撫使に授けた。
- 乾隆十一年、莎羅奔は勢いが強盛となり、諸隣部を併合しようと図り、婚姻政策によって小金川の酋長である沢旺を羈縻し、その印を奪って沢旺の弟の土舎良児吉に与え、さらに兵力をもって革布什咱および明正土司を侵略し、あわせて救援に赴いた中国の軍を撃って傷つけた。ここに至り、広泗が先に苗を征討して功があったことから、命じて四川に赴任させ、もっぱら大金川の軍事にあたらせたのである。
- 広泗は着任すると、小金川の美諾に進んで駐屯し、漢奸の王秋の言を信用して良児吉を道案内とした。しかし大金川は地形が険しく、また防禦工事に長け、石を積んで高い塁を築き、これを戦碉と名づけ、大小の碉が林立していた。数か月包囲攻撃したが、諸将には失態が多く、副将の張興、遊撃の孟臣はいずれも降伏した番人に誘い出されて殺された。
西暦1748年 乾隆十三年
- 夏四月、大学士の訥親を経略とし、もとの将軍である岳鍾琪を起用して提督とし、大金川の軍営に急ぎ赴かせた。訥親は軍に着くと、碉をもって碉に迫るのを唯一の戦術としたが、一つの碉を得るごとに数えきれぬほどの人を傷つけた。総兵の任挙、副将の賈国良はいずれも戦死した。広泗が用いた道案内の良児吉は、先にその兄の沢旺の印を奪い、またその兄嫁の阿扣と通じており、莎羅奔に深く恩義を感じていたので、軍中にあってつねに動静を莎羅奔に通報していた。そのため攻め戦うこと再び数か月、なお寸尺の功もなかった。
- 冬十二月、大学士の傅恒を経略とし、訥親には死を賜い、張広泗を殺した。傅恒は着任すると、総兵の冶大雄を総統とし、副将の馬良玉に良児吉をおびき出して誅させ、あわせて阿扣・王秋ら間諜を斬って内通を絶ち、各方面で碉を包囲していた兵を撤収し、中堅を直接衝く計とした。陣営はここに至って一新された。
西暦1749年 乾隆十四年
- 夏四月、大金川土司の莎羅奔が降り、詔して軍を還らせた。
- これより先、傅恒は上疏して、精鋭を選んで深く攻め入る計画を述べ、四月をもって勝報を奏する期限とした。そのとき帝は兵を長く労させていることを思い、またその地が険しいことから兵を止めようとし、詔して傅恒に朝廷へ還るよう命じた。しかし傅恒はすでに鍾琪と軍を分けて深く入っており、総兵の哈攀竜・哈尚徳らが続けて巴郎の平碉および色爾力の石碉を攻め落としていた。傅恒は詔を奉じ、鍾琪に敵営へ出向いて降伏を諭させた。西蔵の役のとき、莎羅奔は従軍して鍾琪の麾下に属し、もとよりその威徳に服していた。ここに至って鍾琪は単騎で噶喇依の営中に入り、莎羅奔を見やり、わざと手綱をゆるめて「お前たちはまだ私が分かるか」と言った。人々は驚いて「まことに我らが岳公だ」と言い、みな地に伏して罪を請い、幕中に導き入れて泊まらせた。鍾琪は衣を解き、いつもと変わらず安んじて眠った。翌日、莎羅奔は衆を率いて軍門に至って降り、大金川は平定された。
西暦1771年 乾隆三十六年
- 冬十月、四川総督の阿爾泰を罷め、尚書の温福、侍郎の桂林をこれに代え、小金川を討伐させた。
- はじめ乾隆三十一年、大金川の莎羅奔の兄の子である郎卡が大金川の事を継いだが、しだいに驕り猛り、しばしば隣部と争いを起こし、総督の命令も効き目がなかった。帝は阿爾泰に命じて九土司に檄を伝えさせ、これを取り囲んで攻めさせた。土司のなかには兵力が多い者もいたが敵わず、阿爾泰はまた小金川を利用して郎卡を抑えることを知らなかった。郎卡はそこでかえって小金川・綽斯甲布と和親し、いよいよ猖獗をきわめた。郎卡が死ぬと、その子の索諾木はまたひそかに小金川の沢旺の子である僧格桑と攻守同盟の約を結び、ついに合わせて革布什咱および沃日の諸土司を攻めた。帝は阿爾泰を罷めるよう命じ、ほどなく死を賜い、温福を大学士、桂林を総督とし、兵を率いて道を分けて進み討たせた。
西暦1772年 乾隆三十七年
- 夏五月、桂林の職を剥奪し、阿桂を四川総督とした。桂林は温福と軍を分け、打箭炉・汶川から進んでしだいに小金川の境に迫った。しかし桂林の部将の薛琮が深く入り込んで援けがなく、全軍を陥没させ、水を泳いで帰った者はわずかに二百余人であった。桂林はこれを隠して奏さなかったため弾劾されて罷免となり、阿桂にこれを代えるよう命じた。
- 冬十二月、阿桂が小金川を攻め取り、温福を定辺将軍、阿桂を副将軍とした。阿桂は川督に代わって以来、転戦して功があり、ここに至って美諾に直行した。僧格桑は大金川に逃げ込んだ。阿桂は索諾木に檄をもって求めたが応じなかった。帝は一挙に併せ滅ぼそうとした。そのためこの命があったのである。
西暦1773年 乾隆三十八年
- 夏六月、小金川の降った番人が木果木を攻め落とし、温福が戦死した。阿桂を定西将軍に授け、参賛の豊伸額を左副将軍、明亮を右副将軍とした。
- これより先、温福らは道を分けて進発したが、やがて温福は敵が険を扼していて進めなかったため、大金川の東境の木果木に軍を駐めた。たやすく勝てるのに慣れて、もはや各路の兵馬を集めようとせず、ただ提督の董天弼に命じてその東に分屯させ、小金川の地を守らせるだけで、毎日諸将と酒宴を張って高会した。額駙の色騰布、護軍統領の伍岱、提督の馬銓が前後して諫言に入ったが、かえって彼らが軍心を煽り惑わしていると弾劾した。帝は色騰布を召還し、伍岱を辺境守備に遣った。緑営の兵三千人を遣って碉や関所を取らせたが、負傷者が出るとかえってこれを責めた。人心はともに緩み、超勇公の海蘭察は刀の鐔を叩いてこれを嘲るほどであった。
- 引き延ばすこと一か月あまり、敵は兵が弱いことを偵知し、精鋭数千を整えて東に天弼の軍を攻め、天弼の軍は戦わずして自ら潰えた。進んで温福を襲った。温福はちょうど礼服を着けて戦を督していたところで、そのまま捕らえられ、ほどなく殺された。その部下で戦死した者は三千余、潰走した者は一万余、小金川は再び陥落した。
- 冬十月、阿桂らが小金川を回復した。阿桂は命を受けると道を改めて沃日に出て小金川の東境を攻め、明亮はその南を攻めた。ここに至って阿桂は美諾に直行し、明亮もまた向かうところ功があり、小金川の地はことごとく回復された。
西暦1775年 乾隆四十年
- 秋八月、阿桂・豊伸額・明亮が大金川の勒烏囲を攻め破り、進んで噶爾崖を包囲した。
- 三十八年十二月から、阿桂らの軍は三道に分かれて大金川を進攻した。阿桂は小金川からその東を攻め、豊伸額・明亮は党壩からその西北を攻め、富徳は革布什咱からその西南を攻めた。三十九年七月、阿桂の軍は勒烏囲に迫った。そのとき索諾木はその従祖父の莎羅奔とともにその地を守っていたが、阿桂の軍が深く入ったのを見て、僧格桑を毒殺してその屍と家族を差し出し、攻撃の停止を請うた。阿桂は許さなかった。そしてこの年の八月に勒烏囲を破った。莎羅奔と索諾木はすでにそれ以前に噶爾崖へ逃げ込んでおり、ここに至って三路の軍が噶爾崖の城下に会し、これを包囲した。
西暦1776年 乾隆四十一年
- 春二月、阿桂らが噶爾崖を攻め落とし、莎羅奔と索諾木が衆を率いて降り、金川の全境が平定された。
- 阿桂らは噶爾崖を包囲攻撃すること四十余日、索諾木はようやく莎羅奔とともに家族以下二千余人を引き連れて出て降り、あわせて捕虜として京師に献じられた。大金川は再び平定された。両金川が平定されると、詔して小金川の地を美諾庁とし、大金川の地を阿爾古庁として、四川に直隷させた。
史論(編者曰)
- 乾隆三十六年に再び両金川に兵を用いてから平定に至るまで、得た土地は千里に過ぎず、人は三万人にも満たない衆であるのに、軍を野に曝すこと五年、国庫の金七千万両を費やした。その行軍が困難であった理由は、もとよりその地理の険阻と、その土兵が心を同じくして死力を尽くしたことにある。だがそれとともに、当時の国家の軍備が頼みにならず、将帥の戦略も称するに足らなかったことも想像できよう。それなのに時の君主はなお自ら陵に参詣し、太学に碑を立て、さらに東巡して闕里(孔子の郷里)に成功を告げ、これを甚だしく盛んな事として飾り立てた。これはまた何としたことか。
原文(底本)
高宗乾隆元年,春三月,經略張廣泗分兵八路,合攻牛皮箐苗寨,破之,苗平。苗族種名不一,在四川者曰僰、曰生番;在兩廣者曰僮、曰黎;在湖南、貴州者曰徭;在雲南者曰倮、曰野人。其語言風俗既與中國絕異,故中國自元明以來,設有宣慰、宣撫、招討、安撫長官等土司,又有土府、土州縣,其長皆得世襲,握自治權,蓋欲仍其舊俗,官其酋長,以羈穈之也。順康以來,襲明舊制,分設土官,然苗民不知耕作,專以刦殺爲生,土官又以積威,苛斂虐使,恣爲不法,故苗族常爲邊患。而於雲貴爲尤甚。自雍正四年,鄂爾泰巡撫雲南,建策改土歸流,因極言從前以夷治夷之失計,然欲改土爲流,非大用兵不可,宜悉令獻土納貢,違者勦。世宗覽疏,大喜曰:“卿,朕奇臣也!此天以卿賜朕也!”命進呈生年日月,召赴養心殿,手鑄三省總督印付之。鄂爾泰抵任,用遊擊哈元生,委任以烏蒙、鎮雄之事;用總兵石禮哈,搜討貴州廣順之長寨,招服黔邊東西南三面生苗二千餘寨,用知府張廣泗招撫古州,闢苗疆二三千里 清史紀事本末三 42 前後劾黜雲南霑益土州安氏鎮沅土府刁氏及赭樂長官 司威遠州廣南府各土目悉定瀾滄江以東地以普洱爲府廣西諸土官自泗城之岑氏以下亦 先後繳勅印納軍器二萬餘用兵五六年三省邊防粗定世宗奇其功至批劄云朕實感謝矣不 知如何待卿而後心安於是鄂爾泰以積勛封襄勤伯授武英殿大學士入朝廣泗亦由雲南廵 撫移督湖廣繼之者皆易視苗事疆吏又以徵糧激變至十三年春各寨蠭起聚集清江台拱閒 陷黃平以東諸城積忿於鄂爾泰督軍時所獲苗皆刳腸截脰分挂崖樹幾滿至是抵抗之志益 堅至手刃妻女而後出戰鎮沅苗至縛知府劉宏度於柱裸淫其女而頭曳之鄂爾泰雖慙怒次 骨引咎自劾而苗患蔓延不復可制矣時詔發滇蜀楚粵四省兵會勦而軍中各懷意見將軍哈 元生主勦提督董芳主撫撫苗大臣張照又密奏改流非策且致書諸將倡棄地之議因命令不 能一致治軍數月迄無成功時帝已嗣位盡罷張照哈元生董芳治罪而以廣泗任七省經略先 後攻克台拱之九股苗及清江下流各寨至是復增兵分八路圍其逋逃於丹江古州郡勻台拱 閒之大森林所謂牛皮大箐也凡燒千二百二十四寨赦三百八十八寨貴州苗族悉平越十年 而有四川大金川之役 十二年春三月命雲貴總督張廣泗改督川陜駐四川相機進勦大金川苗部金川爲四川西邊 諸土司之一爲漢冉駹地隋置縣唐屬雅州明隸雜谷安撫司本吐蕃領地俗信剌麻敎明時封 其部哈伊拉木爲演化禪師世有大小金川流域地後分兩部居小金川者曰攅拉(譯言小河 濱)居大金川者曰促浸(譯言大河濱)順治七年授小金川酋卜兒吉細土司職康熙五年 授大金川酋嘉勒巴演化禪師印雍正元年以嘉勒巴孫莎羅奔於康熙五十九年從征西藏羊 岡有功授爲金川安撫使乾隆十一年莎羅奔勢強盛謀兼倂諸鄰部以結婚政策羈縻小金川 酋澤旺而奪其印以與澤旺弟土舍良爾吉復以兵力侵略革布什咱及明正土司並擊傷中國 之赴援軍至是以廣泗前征苗有功命移節川中專仕大金川軍事廣泗至進屯小金川之美諾 信用漢奸王秋言良爾吉爲鄉導然大金川地險又長於防禦工事以石築高壘名曰戰碉大小 林立圍攻數月諸將多失事副將張興游擊孟臣皆爲降番所誘殺 十三年夏四月以大學士訥親爲經略起故將軍岳鍾琪爲提督馳赴大金川軍營訥親至軍用 以碉逼碉爲唯一之兵略而得一碉輙傷人無算總兵任舉副將賈國良皆戰殁廣泗所用之嚮 導良爾吉前奪其兄澤旺印又烝其嫂阿扣感莎羅奔甚故在軍中每以動静通報莎羅奔以故 攻戰復數月仍無尺寸功 冬十二月以大學士傅恆爲經略賜訥親死殺張廣泗傅恆至任總 兵冶大雄爲總統使副將馬良玉誘誅良爾吉並斬阿扣王秋閒諜以絕撤諸方圍碉兵爲直搗 中堅之計壁壘至是爲之一新 十四年夏四月大金川土司莎羅奔降詔班師先是傅恆上疏陳選銳深入之計畫期以四月奏 捷時帝念勞兵久又以其地險欲罷兵詔傅恆還朝而傅恆已與鍾琪分軍深入總兵哈攀龍哈 尙德等連克巴郎平碉及色爾力石碉傅恆奉詔令鍾琪前往敵營諭降西藏之役莎羅奔從征 隸鍾琪麾下素服其威德至是鍾琪單騎入噶喇依營中目莎羅奔而故緩其轡曰汝等猶識我 否衆驚曰果我岳公也皆伏地請罪導入帳中留宿鍾琪解衣安寢如常次日莎羅奔帥衆詣軍 門降大金川平 三十六年冬十月罷四川總督阿爾泰以尙書溫福侍郎桂林代之進勦小金川初乾隆三十一 年以大金川莎羅奔兄子郎卡繼大金川事漸桀驁時與鄰部搆釁總督命令致無效帝令阿爾 泰檄九土司(松岡梭磨卓克基沃日革布什咱綽斯甲布小金川黨壩巴旺)環攻之土司中 兵力旣多不敵阿爾泰又不知利用小金川以制郎卡郎卡遂反與小金川綽斯甲布和親愈猖 獗郎卡死其子索諾木又陰與小金川澤旺子僧格桑結攻守同盟之約遂合攻革布什咱及沃日 諸土司帝命罷阿爾泰尋賜死以溫福爲大學士桂林爲總督令率兵分路進討 三十七年夏五月褫桂林職以阿桂爲四川總督桂林與溫福分軍由打箭爐汶川進漸逼小金 川境而桂林將薛琮以深入無援致全軍陷没泅水歸者僅二百餘人桂林以隱匿不奏劾罷命 阿桂代之 冬十二月阿桂攻取小金川以溫福爲定邊將軍阿桂爲副將軍阿桂旣代爲川督 轉戰有功至是直抵美諾僧格桑竄大金川阿桂檄索索諾木不應帝欲一舉並滅之故有是命 三十八年夏六月小金川降番攻陷木果木溫福死之授阿桂爲定西將軍以參贊豐伸額爲左 副將軍明亮爲右副將軍先是溫福等分道進發旣而溫福以敵扼險不得進駐軍大金川東境 木果木以狃於易勝不復調集各路兵馬惟令提督董天弼分屯其東以守小金川地而日與諸 將置酒高宴額駙色騰布護軍統領伍岱提督馬銓先後入諫反劾其煽惑軍心帝爲召還色騰 布而遣戌伍岱遣綠營兵三千人取碉卡有傷者反責之人心並懈超勇公海蘭察至扣刀以誚 之遷延月餘敵偵知兵弱整勁旅數千東攻天弼軍不戰自潰進襲溫福溫福方雅服督戰遂被 執尋殺之所部戰死者三千餘潰者萬餘小金川復陷 冬十月阿桂等克復小金川阿桂旣受 命改道出沃日攻小金川東境而明亮攻其南至是阿桂直抵美諾明亮亦所向有功小金川地 盡復 四十年秋八月阿桂豐伸額明亮攻破大金川之勒烏圍進圍噶爾崖(括耳崖)自三十八年 十二月阿桂等軍分三道進攻大金川阿桂自小金川攻其東豐伸額明亮自黨壩攻其西北富 德自革布什咱攻其西南三十九年七月阿桂軍逼勒烏圍時索諾木與其從祖莎羅奔守其地 見阿桂軍深入酖殺僧格桑獻其屍及其家族請停止攻擊阿桂不許至是年八月破勒烏圍莎 羅奔索諾木已先期竄噶爾崖至是三路軍會於噶爾崖城下包圍之 四十一年春二月阿桂等攻克噶爾崖莎羅奔索諾木帥衆降金川全境蕩平阿桂等圍攻噶爾 崖四十餘日索諾木始與莎羅奔挈家族以下二千餘人出降並俘獻京師大金川再定兩金川 旣平詔以小金川地爲美諾廳(後改名懋功)以大金川地爲阿爾古廳(卽今綏靖屯)直 隸四川 編者曰自乾隆三十六年再用兵兩金川以迄於平定得地不過千里人不滿三萬衆而暴師 五年縻帑七千萬兩其行軍困難之理由固其地理之險阻與其土兵之同心効死要亦可想 見當日國家之兵備爲不可恃將略爲不足稱已顧時主猶躬親謁陵勒碑太學復東廵吿成 於闕里鋪張爲甚盛事也抑又何哉
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