清史紀事本末道光の世局(道光世局)

要約

道光の一代は日食・地震・河決が相次ぎ、江南十七州県の大水、五省の雹害、東南の大地震があった。元年、雲南永北庁の夷乱を慶保が平らげ瞎眼唐老大を擒え、安定門が火災、京中の大疫は死者日に千百、閩省の荔枝・素心蘭の進上を停めた。二年、山西二十一州県の丁徭銀を銭糧に繰り入れ、青海の蘊依、河南新蔡の教匪の朱麻子、四川果洛克の番乱を長齢・程祖洛・桂涵が平らげ、奏稿を刪改した松筠を降し、書役の増置・漕米の横領・漕総の名目・阿片密輸を禁じた。三年、「墊完民欠」を禁じ、四年、黄河氾濫で張文浩を伊犁に、孫玉庭を革職留任とした。

五年、汪世紱の請で糧船の水手の教門の弊を籌議させた。水手は潘安・老安・新安と号し、羅祖を祀り老官を主教として四、五万人、旗丁を脅して賃を増させた。六年、初めて海運を試み、台湾の黄文潤の乱に許松年を遣わしたが、孫爾準に械闘案の処理誤りを弾劾され革職された。九年、光中通宝以下の銭文とアホンの公事干渉を禁じた。十年、白役を八十名に裁革し、阿片販売の章程を布き、両淮の塩政を総督に帰した。

十一年、広東の黎人の乱を李鴻賓が平らげ韋色容が伏法し、陶澍の請で淮北の塩を官督商運とし票塩法を行い、新疆に屯田を始めた。十二年、白蓮・八卦などの教の首犯は赦さぬと定め、于家湾の阿隄を盗み切られた張井を革職し、台湾嘉義の陳辦を十三年正月に擒え、二月に四川越嶲の夷乱に那彦宝・桂涵らを遣わし、五月に峩辺の夷人の桑樹格を擒えた。十四年、峩辺の夷人が焼き掠めたので楊芳を二等侯に降した。

十五年正月、曹振鏞が卒した。君意をうかがうのみで学問なく、答案の崩れ字を摘んで文体を頽れさせ、誤字を摘んで言路を塞ぎ、吏治と民生の衰え、内外の兵禍と未曾有の変局を開いた罪は一人にあるが、帝は信任して文正と諡した。同年、山西趙城の教匪の曾順の乱で知県の楊延亮が一家ごと害に遭い、のち峩辺の夷匪とともに粛清された。十六年、円明園の三殿が火災。十七年、昭勇侯楊遇春が卒した。数百戦傷を受けず、帝は福将と嘆じた。山東の塩務を巡撫に帰し、四川凉山の夷乱を凱因布らが平らげた。

十八年、濫囚と役者の隠匿で惇親王の緜愷を郡王に降し、尼寺で阿片を吸った奕𧷨と溥喜の爵を革め、貴州の謝法真の乱を伊里布が平らげた。十九年、治河の工法で功のあった栗毓美と、羅必勝と号された羅思挙が卒した。二十一年、祥符汛の河溢で文冲を革め、王鼎に東河の大工事を督辦させ、伊犁の林則徐を呼び戻して効力させた。二十二年、湖北崇陽の鍾人傑の乱を平らげ、王鼎が和議に反対して縊死し、遺書で穆彰阿を弾劾し林則徐を薦めたが、穆彰阿は張芾に子の伉を脅させ遺疏を別稿に代えさせた。

二十三年、海疆で軍律を失した奕山・奕経・文蔚・琦善・牛鑑・余歩雲らを処断し、部議は歩雲を斬立決、文蔚を革職留任、余を斬監候としたが、二日後に琦善ら三人が起用され、陳慶鏞が刑賞の錯りだと奏して革職させたが、数か月で皆また起用され、慶鏞は降格帰郷した。同年、雲南南甸の土匪を平らげ、中牟の決口を麟魁・廖鴻荃に督辦させた。二十四年、中牟が再決して二人は革職され、台湾の洪協、耒陽の陽大鵬も伏誅した。二十五年、西寧の番乱で総兵の応和が殺された。

二十六年、果勇侯楊芳が卒して二楊と並称された。雲南永昌の回乱は二十七年に粛清され、緬人が辺を騒がせ、喀什噶爾の回乱に布彦泰らを遣わし、湖南乾州の苗乱は裕泰らが撫定した。二十八年、会匪と海上の盗匪の捕縛を飭した。二十九年、四川中驣対の野番の工布朗の乱を琦善が平らげ、江蘇以下四省は五十日余の大雨で百年来の大水となり、正陽門の箭楼が火災。三十年正月、帝が崩じ皇四子の奕詝が嗣立した。寿六十九、諡は成、廟号は宣宗、易州平安峪の慕陵に葬った。

年表

道光元年(1821年)から三十年(1850年)まで、宣宗の治世三十年の内政と各地の騒擾を年ごとに記す。西南の夷人や台湾・貴州・新疆の反乱、黄河・永定河の氾濫と河督の罷免が繰り返され、阿片の密輸禁止、塩法の改革、海運の試行、白役の裁革といった施策が並ぶ。曹振鏞が君主の意を迎えて言路を塞いだことを、内外の兵禍を醸した罪として厳しく論じ、和議に反対して縊死した王鼎や、海疆で敗れながら再起用された琦善・文蔚・奕経と、これを論駁した陳慶鏞の末路を対比する。楊遇春・楊芳ら二楊の死を経て、道光三十年正月に帝は崩じ、皇四子奕詝が嗣立した。

年表(29件)

現代語訳全文

西暦1821年 宣宗道光元年

  • 春正月壬午朔、日食。
  • 二月、雲南永北庁に属する夷人が事を起こし、総督の慶保に討伐を命じ(底本は「𠢱辦」に作る。「勦辦」の誤りか)、ほどなく呢瑪善に欽差大臣を授け、雲南の軍務を督辦させた。まだ京を出ないうちに慶保が奏報した。「掃討して粛清し、首魁の逆賊である瞎眼唐老大を擒えました」と。
  • 六月、安定門が火災にあった。
  • 秋七月、京中で大疫がはやり、死者は日に千百を数えた。
  • 九月、閩省から毎年進上する荔枝の樹、素心蘭の二項目を停めるよう命じた。

西暦1822年 宣宗道光二年

  • 春正月、山西の孟県など二十一州県の丁徭の銀両を、一律に銭糧に繰り入れて徴収するよう諭した。撫臣の葉世倬の請に従ったのである。
  • 夏五月、青海の番人の蘊依らが事を起こし、陝甘総督の長齢がこれを討ち平らげた。
  • 六月、吏部尚書の松筠を員外郎に降した。理藩院の奏稿を刪り改めて弾劾されたためである。
  • 山東の衛河が溢れた。直省の各衙門が定額外に書校(書記の胥吏)を増やし置くことを重ねて禁じた。
  • 秋八月、河南新蔡の教匪の朱麻子が事を起こし、巡撫の程祖洛がこれを捕えて処断した。
  • 河南の沁河がふたたび溢れた。
  • 九月、四川果洛克の番人が事を起こし、提督の桂涵がこれを討ち平らげた。涵は教匪を平らげて功を立て、羅挙と名を斉しくし、当時「羅桂」と称された。
  • 冬十月、漕米を収める州県の書役による横領・搾取の各弊害を重ねて禁じ、あわせて漕総という名目を禁じた。
  • 十二月、海口の各関津に、阿片煙の密輸を厳しく取り締まるよう重ねて諭した。

西暦1823年 宣宗道光三年

  • 夏五月、直省の銭糧徴収において、民の未納分を役人が立て替えて完納したことにする「墊完民欠」の名目を、永遠に禁じ除くよう諭した。
  • 六月、永定河が溢れた。
  • 北運河が溢れた。
  • 秋七月、河南の漳河が溢れた。
  • 江南の十七州県が大水となり、民が飢えた。

西暦1824年 宣宗道光四年

  • 夏四月、程含章に蒋攸銛と会同して真隸(「直隷」の誤りか)の河工を籌辦するよう命じた。
  • 六月、癸巳朔、日食。
  • 彗星が西方に現れた。
  • 秋七月、蘇州府城の西の愣伽山の五通祠を毀つよう命じた。
  • 冬十二月、黄河が氾濫したため、河督の張文浩を免職とし、工事現場で一か月のあいだ首かせをはめてさらす枷号の刑に処し、期限が満ちてから伊犁に送って効力させた。両江総督大学士の孫雲廷(「孫玉庭」の誤りか)は免職のうえ留任とした。

西暦1825年 宣宗道光五年

  • 春三月、各省の獄卒が囚人を虐げることを重ねて禁じた。
  • 夏五月、王鼎に軍機処行走を命じた。
  • 六月、漕運総督および漕運のある各省の総督・巡撫に、糧船の水手が教門を設けて金銭を集める弊害を防ぐ策を議させた。当時、各幇の糧船の水手には潘安・老安・新安などという教門の名目があり、祀るところの神を「羅祖」といい、その主教を老官と称した。幇ごとに老官船一隻があって羅祖を供え設け、入教する者は老官を拝して師とし、各船の水手が連名で資金を助けた。三教を合計すると約四、五万人で、沿道で船を曳く縴手はなおその中に入らない。水手の雇い賃(底本は「傕直」に作る。「僱直」の誤りか)は先例では一両二銭であったが、これより旗丁を脅して、一名につき二、三千などと一定せずに要求した。また船が尾を連ねて進んでいるとき、突然停泊し、老官が一枚の紙を伝え出す。これを「溜子(触れ書き)で価を上げよと要求する」といった。旗丁は従わないわけにいかない。水手が事を起こせば老官のところへ送って処置させ、軽ければ責め罰し、重ければただちに殺して河中に沈めた。沿道で縴手を雇い集める(底本は「招傕」に作る。「招僱」の誤りか)には、必ずかつて械闘して傷を受けた者を推して頭目とし、争闘があれば赤い箸を合図として、人はたちまち集まった。新安の一教はとりわけ匪徒が多かった。ここに至って御史の汪世紱が防禁を奏請し、漕運総督および各総督・巡撫に心を尽くして籌議するよう諭し飭した。

西暦1826年 宣宗道光六年

  • 春三月、初めて海運を試行した。
  • 夏六月、台湾で広東出身の民の黄文潤が事を起こし、福建水師提督の許松年に馳せ赴いて取り調べるよう命じた。
  • 秋八月、提督の許松年を免職とし、台湾に留めて効力させた。提督の孫爾準が台湾に着いた後、その北路の械闘の案件の処理が誤っていたと弾劾したためである。
  • 冬十一月、台湾の残りの匪徒がことごとく平らいだ。

西暦1827年 宣宗道光七年

  • 夏四月、丙午朔、日食。

西暦1828年 宣宗道光八年

  • 春三月、庚子朔、日食。
  • 秋九月、戊戌朔、日食。

西暦1829年 宣宗道光九年

  • 春正月、光中通宝・景盛通宝・景興通宝・景巨通宝・景興大宝・嘉隆通宝の各種の銭文を用いることを禁じた。
  • 二月、回子でアホン(阿渾)を務める者は、経典を読み習うことだけを許し、公事に干渉することを許さないと命じた。そのアホンの子弟で官の差役に当たる者やベク(伯克)を務める者は、重ねてアホンを兼ねることを許さず、こうして制限を示した。
  • 秋八月、帝は太后を奉じて盛京に詣で、陵に謁した。
  • 九月、壬辰朔、日食。
  • 冬十月、京師に還った。
  • 十一月、一人の子が二家の祭祀を継ぐ一子両祧の服制を定めた。
  • 十二月、山東で地震があった。

西暦1830年 宣宗道光十年

  • 夏五月、州県衙門の白役(定員外の無給の役人)を裁革した。地方の公事が最も繁多なところでも八十名を超えてはならず、その他は順次減らす。すべての白役は一概に禁じ革める。言官の王瑋慶の請に従ったのである。
  • 六月、内地で阿片を売りさばくことを取り締まる章程を宣布した。
  • 冬十月、両淮の塩政を廃し、総督の管理に帰属を改めた。

西暦1831年 宣宗道光十一年

  • 春三月、広東の黎人が事を起こし、総督の李鴻賓がこれを討ち平らげ、匪首の韋色容が伏法した。
  • 夏五月、淮北の塩の販売を官督商運に改めた。江督の淘澍(「陶澍」の誤りか)が、淮北の商人の資力が積年疲弊していると陳奏し、しばらく借入金を工面し、官が運搬を監督することを請うたからである。
  • 六月、辺境沿いの夷民が私かに罌粟を植えることを禁じた。
  • 秋七月、高郵の湖と河が溢れた。
  • 九月、新疆で初めて屯田の法を行った。叔師(「督師」の誤りか)大学士の長齢の請に従ったのである。
  • 冬十二月、山東で地震があった。
  • 票塩法を行った。淮北の暢岸(塩の売れ行きのよい販売区)はなお商運に帰属させ、その他の滞岸は、山東・浙江の票と引とを兼ね行う法に依拠して、行店を分けて設け、民が行店に出向いて購買し運んで売ることに任せた。江督の陶澍の請に従ったのである。

西暦1832年 宣宗道光十二年

  • 春正月、白陽・白蓮・八卦・紅陽などの教の首犯についての扱いを定めた。赦に遭っても赦さず、また減刑の例を援くことも許さない。
  • 三月、帝は東陵に竭し(「謁し」の誤りか)て鑾を回し、南苑に行幸し、五日間巻狩りをして京師に還った。
  • 秋九月、桃南庁に属する于家湾の阿隄が湖辺の民に盗み切られ、河督の張井の職を奪った。
  • 閏月、江西巡撫に会匪を厳しく捕えるよう飭した。
  • 冬十月、台湾嘉義県の民の陳辦が事を起こし、総督の陳祖洛(「程祖洛」の誤りか)、将軍の瑚松額、都統の哈啷阿に、はかって馳せ赴き討伐するよう命じた。

西暦1833年 宣宗道光十三年

  • 春正月、陳辦が擒えられ、台湾の乱が平らいだ。
  • 二月、四川越嶲庁の夷人が事を起こし、那彦宝・桂涵らに討伐を命じた。
  • 夏五月、四川峩辺庁の夷人の桑樹格が擒えられ、残りの衆はみな降った。
  • 秋七月、四川越嶲の夷の乱が、一律に粛清された。
  • 八月、雲南で地震があった。
  • 九月、庚子朔、日食。

西暦1834年 宣宗道光十四年

  • 秋七月、峩辺の十三支の夷のうち、雅札などの支の夷が事を起こし、瑚松額・楊芳に取り調べを命じた。
  • 東河の朱家湾で堤が切れた(底本は「浸口」に作る。「漫口」の誤りか)。
  • 九月、永定河が溢れた。
  • 冬十二月、四川峩辺の夷人が巣を出て焼き掠めたことにより、提督の果勇侯楊芳を二等侯に降し、総兵として甘粛におもむき候補させた。

西暦1835年 宣宗道光十五年

  • 春正月、曹振鏞が卒した。振鏞は内閣にあって、もっぱら君主の意向をうかがうばかりで、しかも平素学問が無かった。命を奉じて文を評するたびに、答案でいささか古雅なものを得ると、いつも内容を解せず、答案の中の一つ二つの崩れた字体の字を摘み出して劣等に落とした。そこで文体は日ごとに頽れ、学術もそのために振るわなくなった。また帝は言官が事を論ずるのを最も厭い、振鏞もまたこの方法を教え、上奏文の中に破題や誤字と疑われるものがあれば摘み出して部に下し厳しく議させた。そこで科道の官は互いに戒め合って事を論じようとしなくなり、言路は塞がった。ついに三十年の間、吏治は日ごとにいい加減になり、民生は日ごとに困窮し、内外の兵禍を醸成し、千古いまだかつて無い変局を開いたのは、みな振鏞一人の罪である。しかし帝は深く彼を信任し、歿すると文正の諡を賜った。
  • 三月、山西趙城県の教匪の曾順が事を起こし、知県の楊延亮が一家をあげて害に遭った。
  • 夏四月、峩辺の夷の匪徒が粛清された。
  • 趙城の教匪が粛清された。

西暦1836年 宣宗道光十六年

  • 秋九月、円明園の三殿が火災にあった。

西暦1837年 宣宗道光十七年

  • 春三月、致仕していた陝甘総督の昭勇侯楊遇春が卒し、忠武と諡した。遇春は若いときから従軍し、大小数百戦、いずれも敵陣に突入し、石や矢を冒したが、あるいは冠の羽根がみな砕け、あるいは袍や袴がみな穴だらけになっても、いまだかつて毛筋ほどの傷も受けなかった。帝は嘆じて福将だとした。
  • 夏六月、峩辺の夷人が事を起こし、鄂山に討伐を命じた。
  • 秋七月、山東の塩務を巡撫の管理に改め帰すよう命じた。
  • 冬十月、吉林の採珠を停めた。
  • 十一月、四川凉山の夷人が事を起こし、将軍の凱因布、総督の鄂山がこれを討ち平らげた。

西暦1838年 宣宗道光十八年

  • 夏五月、惇親王の緜愷を郡王に降した。先例に違って多くの人を囚え禁じ、さらに役者を邸内に隠し匿っていたためである。
  • 秋九月、荘親王の奕𧷨、輔国公の溥喜の爵を革めた。尼僧の廟内に赴いて阿片煙を吸ったためである。
  • 冬十一月、旗人の婦女の纏足を重ねて禁じた。
  • 貴州の民人の謝法真が乱を起こし、総督の伊里布がこれを討ち平らげた。

西暦1839年 宣宗道光十九年

  • 春二月、壬戍朔(「壬戌」の誤りか)、日食。
  • 河東河道総督の栗毓美が卒し、恭勤と諡した。毓美は甎(かわら)をもって石に代える工法を唱え、河を治めて功があり、後世これを手本とした。
  • 三月、湖北提督の羅思挙が卒し、壮勇と諡した。思挙は郷勇として四川で従軍し、身を起こして節鎮の地位に至り、威名は二楊に次いだ。軍中では羅必勝と号された。
  • 冬十二月、戸部侍郎の文慶を免職とした。文慶は江南で試験を主宰したとき、私かに湖南の挙人の熊少牧を試験場に連れ入れ、弾劾された。

西暦1841年 宣宗道光二十一年

  • 夏六月、河南下南庁の祥符汛で河が溢れ、河督の文冲を免職とし、朱襄をその代わりとし、ほどなく王鼎に東河の大工事を督辦するよう命じた。伊犁に流されていた林則徐を引き返させ、東河で効力させた。

西暦1842年 宣宗道光二十二年

  • 春正月、湖北崇陽県の民の鍾人傑が乱を起こし、これを討ち平らげた。
  • 夏四月、天夫星が西南に現れた。
  • 五月、大学士の王鼎が自殺し、文恪と諡した。鼎は河を治める功を了えて帰り(底本は「藏功」に作る。「蕆功」の誤りか)、和議に反対して争い、史魚が死骸をもって諫めたのにならい、縊れて死んだ。遺書をしたためて厳しく穆璋阿(「穆彰阿」の誤りか)を弾劾し、あわせて林則徐が大いに用いるべき人物であると薦めた。穆璋阿は懼れ、その門下の士である張芾を使って、恐ろしい言葉で鼎の子の伉を脅し、遺疏を取り出させ、芾は同じ郷里の人である軍機章京の聶澐に別の草稿を作らせて進上させた。
  • 秋八月、江南桃北庁で河が溢れた(底本は「可溢」に作る。「河溢」の誤りか)。

西暦1843年 宣宗道光二十三年

  • 夏四月、熱河都統の琦善、古城領隊大臣の文蔚、葉爾羌幇辦大臣の奕経の三人を免職とした。これより先、海疆で軍律を失したことにより、前後して将軍の奕山・奕経、参賛の文蔚、総督の琦善・牛鑑、提督の余歩雲らを逮えて処断した。部の議では、余歩雲は斬立決、文蔚は免職のうえ留任、その余は斬監候に擬した。ところが余歩運(「余歩雲」の誤りか)を処刑して二日後、ただちに琦善・文蔚・奕経らを起用した。御史の陳慶鏞が奏称し(底本は「秦稱」に作る。「奏稱」の誤りか)、琦善ら三人の起用は刑罰と恩賞の処置を誤るもので、民を服させることができないと述べた。帝は清議に屈して三人を免職とするよう命じ、慶鏞の敢えて言う態度を諭して奨めた。数か月も経たぬうちに、三人および奕山・牛鑑もみな起用され、しかも隆隆として(底本は「隆隆」に作る。意味不通)にわかに昇進し、他方で慶鏞は事に坐して降格され、官を解いて郷里に帰った。
  • 六月、雲南南甸の土匪が乱を起こし、これを討ち平らげた。
  • 河南中牟で河が決壊し、河督の慧成を免職とし、鍾祥をその代わりとした。ほどなく尚書の麟魁・廖鴻荃に赴いて督辦するよう命じた。
  • 冬十一月、己巳朔、日食。

西暦1844年 宣宗道光二十四年

  • 春二月、中牟の諸口がふたたび決壊し、麟魁・廖鴻荃を免職とした。
  • 三月、台湾の民人の洪協が乱を起こし、まもなく誅された。
  • 夏六月、直隷の永定河が溢れた。
  • 秋七月、湖南耒陽県の民の陽大鵬が乱を起こし、まもなく捕えられ、伏誅した。
  • 湖北荊州の万成隄が溢れた。
  • 八月、宝興に四川の国匪(「嘓匪」の誤りか)を捕え処断するよう命じた。
  • 山西・河南・陝西・湖北・安徽で雹の災害があった。
  • 江南で地震があった。

西暦1845年 宣宗道光二十五年

  • 夏四月、西寧の番人が乱を起こし、総兵の応和が殺され、恵吉に甘粛へおもむいて取り調べるよう命じた。
  • 六月、江蘇中河庁の桃源汛で河が溢れた。

西暦1846年 宣宗道光二十六年

  • 春三月、帝は南苑に行幸し、六日間巻狩りをして京師に還った。
  • 夏五月、前任の湖南提督の果勇侯楊芳が卒し、勤勇と諡した。芳は遇春と名を斉しくし、二楊と称された。
  • 閏月、雲南永昌の回人が乱を起こした。
  • 六月、東南の各省で地が大いに震えた。
  • 冬十月、また震えた。

西暦1847年 宣宗道光二十七年

  • 春正月、緬人が辺境を騒がせた。
  • 三月、永昌の回の乱が粛清された。
  • 六月、京師で地震があり、多くの星が落ちた。
  • 秋八月、喀什噶爾の回人が事を起こし、布彦泰に定西将軍を、奕山に参賛大臣を授け、馳せ赴いて討伐させた。
  • 九月、丁丑朔、日食。
  • 冬十二月、湖南乾州庁の苗人が事を起こし、裕泰らに討伐を命じ、ほどなく撫して平定した。

西暦1848年 宣宗道光二十八年

  • 夏四月、両広・湖南・江西の各総督・巡撫に諭し、会匪を捕えるよう飭した。
  • 秋八月、道府以下の官について、祖・孫・父・子・兄・弟および外姻の親族が同省・同府にいる場合の回避の例を重ねて定めた。総督・巡撫と河督・塩政とで糾察に関わりのある者も、また回避させた。
  • 冬十月、浙江巡撫の劉韻珂に諭し、浙江沿海の盗匪を捕えるよう飭した。
  • 海疆の各総督・巡撫・提督・総兵に重ねて諭し、水師を督し飭して洋上の盗賊を塞ぎ捕えさせた。

西暦1849年 宣宗道光二十九年

  • 春二月、庚子朔、日食。
  • 四川中驣対の野番の工布朗が巣を出て事を起こし、琦善に討伐を命じた。
  • 夏四月、江蘇・浙江・安徽・湖広で大雨が五十日余り続き、水がにわかに漲って田はことごとく水没した。水の大きさは百年来なかったものである。
  • 山東巡撫の徐沢醇に中諭(「申諭」の誤りか)し、沿海の村や砦の盗賊の巣窟を捕えるよう飭した。
  • 五月、中驣対の野番が平らいだ。
  • 冬十一月、正陽門の箭楼が火災にあった。

西暦1850年 宣宗道光三十年

  • 春正月、甲午朔、日食。
  • 帝が崩じ、皇四子の奕詝が嗣立した。帝の寿は六十九、諡を成廟(底本は「諡曰成廟,號宣宗」に作る。「諡曰成,廟號宣宗」の誤りか)といい、宣宗と号し、易州の平安峪に葬り、慕陵と号した。
原文(底本)
宣宗道光元年,春正月壬午朔,日食。 二月,雲南永北廳屬夷人滋事,命總督慶保𠢱辦,尋授呢瑪善為欽差大臣,督辦雲南軍務。未出京而慶保奏報:『勦洗肅清,首逆瞎眼唐老大就擒。』 六月,安定門災。 秋七月,京中大疫,死者日以千百數。 九月,命停閩省歲進荔枝樹、素心蘭二項。

二年,春正月,諭山西孟縣等二十一州縣丁徭銀兩一律攤入錢糧徵收,從撫臣葉世倬請也。 夏五月,青海番人蘊依等滋事,陝甘總督長齡討平之。 六月,降吏部尚書松筠爲員外郎,因刪改理藩院奏稿被劾也。 山東衛河溢,申禁直省各衙門額外增置書校。 秋八月,河南新蔡教匪朱麻子滋事,巡撫程祖洛捕治之。 河南沁河再溢。 九月,四川果洛克番人滋事,提督桂涵討平之。涵以平教匪立功,與羅舉齊名,時稱『羅桂』 冬十月,申禁收漕州縣書役、侵漁各弊,並禁漕總名目。 十二月,申諭海口各關津嚴擊夾帶鴉片烟。

三年,夏五月,諭直省徵收錢糧,將墊完民欠名目永遠禁除。 六月,永定河溢。 北運河溢。 秋七月,河南漳河溢。 江南十七州縣大水,民饑,

四年,夏四月,命程含章會同蔣攸銛籌辦真隸河工。 六月,癸巳朔,日食。 彗星見西方。 秋七月,命毀蘇州府城西愣伽山五通祠。 冬十二月,以黃河泛溢,革河督張文浩職,在工枷號一月,期滿發往伊犁效力。兩江總督大學士孫雲廷革職留任。

五年,春三月,申禁各省獄卒陵虐監犯。 夏五月,命王鼎在軍機處行走。 六月,命漕運總督及有漕各省督撫,議防糧船水手設教歛錢流弊。時各幫糧船水手設有潘安、老安、新安等教名目,所祠之神曰『羅祖』,其主教稱老官。每幫有老官船一隻供設羅祖,入教者投拜老官爲師,各船水手聯名資助。統計三教,約四五萬人,沿途縴手尚不在內。水手傕直向例一兩二錢,自是挟制旗丁,每名索二三千不等。及銜尾前進,忽然停泊,老官傳出一紙,名曰『溜子索添價值』。旗丁不敢不從。水手滋事,送老官處治,輕則責罰,重則立斃,沉入河中。沿途招傕縴手,必推曾經械鬪受傷者爲頭目,遇有爭鬪,以紅箸爲號,人即立聚。新安一教,尤多匪徒,至是爲御史汪世紱奏請防禁,諭飭漕督及各督撫悉心籌議。

六年,春三月,初次試行海運。 夏六月,臺灣粵民黃文潤滋事,命福建水師提督許松年馳往查辦。 秋八月,革提督許松年職,留臺效力。因提督孫爾準抵臺后劾其辦理北路械鬪案錯誤也。 冬十一月,臺灣餘匪悉平。

七年,夏四月,丙午朔,日食。

八年,春三月,庚子朔,日食。 秋九月,戊戌朔,日食。

九年,春正月,禁用光中通寶、景盛通寶、景興通寶、景巨通寶、景興大寶、嘉隆通寶各種錢文。 二月,命回子當阿渾者,止准念習經典,不准干預公事。其阿渾子弟有當差及充當伯克者,不准再兼阿渾,以示限制。 秋八月,帝奉太后詣盛京謁陵。 九月,壬辰朔,日食。 冬十月,還京師。 十一月,定一子兩祧服制。 十二月,山東地震。

十年,夏五月,裁革州縣衙門白役。地方公事至繁者,不得過八十名,其餘以次遞減。所有白役概行禁革,從言官王瑋慶請也。 六月,宣查禁內地行銷鴉片章程。 冬十月,裁兩淮鹽政,改歸總督管理。

十一年,春三月,廣東黎人滋事,總督李鴻賓勦平之,匪首韋色容伏法。 夏五月,改淮北銷鹽爲官督商運,因江督淘澍奏陳淮北商力積疲,請暫籌借項,官爲督運也。 六月,禁沿邊夷民私種罌粟。 秋七月,高郵湖河溢。 九月,新疆始行屯田法,從叔師大學士長齡請也。 冬十二月,山東地震。 行票鹽法。淮北暢岸仍歸商運,其餘滯岸。即依照山東、浙江票引兼行之法,分設行店,聽民投行購買運銷,從江督陶澍請也。

十二年,春正月,定白陽、白蓮、八卦、紅陽等教首犯。遇赦不赦,亦不準援減例。 三月,帝竭東陵回鑾,幸南苑,行圍五日,還京師。 秋九月,桃南廳屬于家灣阿隄爲湖民盜決,奪河督張井職。 閏月,飭江西巡撫嚴拿會匪。 冬十月,臺灣嘉義縣民陳辦滋事,命總督陳祖洛、將軍瑚松額、都統哈啷阿籌馳往勦辦。

十三年,春正月,陳辦就擒,臺亂平。 二月,四川越嶲廳夷人滋事,命那彥寶、桂涵等勦辦。 夏五月,四川峩邊廳夷人桑樹格就擒,餘眾皆降。 秋七月,四川越嶲夷亂,一律肅清。 八月,雲南地震。 九月,庚子朔,日食。

十四年,秋七月,峩邊十三支夷內雅札等支夷滋事,命瑚松額、楊芳查辦。 東河朱家灣浸口。 九月,永定河溢。 冬十二月,以四川峩邊夷人出巢焚掠,降提督果勇侯楊芳爲二等侯,以總兵前往甘肅候補。

十五年,春正月,曹振鏞卒。振鏞在內閣,專伺人主意旨,而素不學。每奉命衡文,得試卷稍古雅者,輒不解事,摘卷中一二破體字,抑之劣等,於是文體日頹,而學術因之不振。又帝最厭言官言事,振鏞亦教以此法,遇章疏中有破題疑誤字者,摘出交部嚴議,於是科道相戒不敢言事,而言路壅塞,遂使三十年中,吏治日媮,民生日困,釀成內外兵禍,開千古未有之變局,皆振鏞一人之罪也!然帝深信任之,及歿,賜諡文正。 三月,山西趙城縣教匪曾順滋事,知縣楊延亮全家遇害。 夏四月,峩邊夷匪肅清。 趙城教匪肅清。

十六年,秋九月,圓明園三殿災。

十七年,春三月,予告陝甘總督昭勇侯楊遇春卒,予諡忠武。遇春結髮從戎,大小數百戰,皆陷陣,冒石矢,或冠翎皆碎,或袍袴皆穿,未嘗受毫髮傷,帝嘆爲福將。 夏六月,峩邊夷人滋事,命鄂山勦辦。 秋七月,命山東鹽務改歸巡撫管理。 冬十月,停吉林採珠。 十一月,四川凉山夷人滋事,將軍凱因布、總督鄂山討平之。

十八年,夏五月,降惇親王緜愷爲郡王,以違例囚禁多人,復將優人藏匿府中故也。 秋九月,革莊親王奕𧷨、輔國公溥喜爵,因赴尼僧廟內吸食鴉片煙也。 冬十一月,申禁旗人婦女纏足。 貴州民人謝法真作亂,總督伊里布討平之。

十九年,春二月,壬戍朔,日食。 河東河道總督栗毓美卒,予諡恭勤。毓美倡以甎代石之法,治河有功,後世師之。 三月,湖北提督羅思舉卒,予諡壯勇。思舉以鄉勇從軍四川,起家至節鎮,威名亞二楊,(遇春、芳) 軍中號爲羅必勝。 冬十二月,革戶部侍郎文慶職。文慶典試江南,私帶湖南舉人熊少牧入闈,被劾。

二十一年,夏六月,河南下南廳祥符汛河溢,革河督文沖職,以朱襄代之,尋命王鼎督辦東河大工。發遣伊犁林則徐折回東河效力。

二十二年,春正月,湖北崇陽縣民鍾人傑作亂,討平之。 夏四月,天夫星見於西南。 五月,大學士王鼎自殺,予諡文恪。鼎治河藏功歸,以爭和議,效史魚尸諫,自縊死。爲遺書嚴劾穆璋阿,並薦林則徐可大用。穆璋阿懼,使其門下士張芾以危言脇鼎之子伉,取遺疏出,芾令其同邑人軍機章京聶澐別草一稿以進。 秋八月,江南桃北廳可溢。

二十三年,夏四月,革熱河都統琦善、古城領隊大臣文蔚、葉爾羌幫辦大臣奕經三人職。先是以海疆失律,前後逮治將軍奕山、奕經、參贊文蔚、總督琦善、牛鑑提督余步雲諸人。部議,余步雲斬立決;文蔚革職留任;餘擬斬候。乃余步運正法二日,即行起用琦善、文蔚、奕經等。御史陳慶鏞秦稱,琦善等三人起用,爲刑賞失措,無以服民。帝屈於清議,命革三人職,諭獎慶鏞敢言。不數月,三人及奕山、牛鑑又均起用,且隆隆驟遷,而慶鏞以事降調,解組回籍矣。 六月,雲南南甸土匪作亂,討平之。 河南中牟河決,革河督慧成職,以鍾祥代之。旋命尚書麟魁、廖鴻荃往督辦。 冬十一月,己巳朔,日食。

二十四年,春二月,中牟諸口復決,革麟魁、廖鴻荃職。 三月,臺灣民人洪協作亂,旋就誅。 夏六月,直隸永定河溢。 秋七月,湖南耒陽縣民陽大鵬作亂,旋就執,伏誅。 湖北荊州萬成隄溢。 八月,命寶興拿辦四川國匪。 山西、河南、陝西、湖北、安徽雹災。 江南地震。

二十五年,夏四月,西寧番人作亂,總兵應和被戕,命惠吉赴甘肅查辦。 六月,江蘇中河廳桃源汛河溢。

二十六年,春三月,帝幸南苑,行圍六日還京師。 夏五月,前任湖南提督果勇侯楊芳卒,予諡勤勇。芳與遇春齊名,稱二楊。 閏月,雲南永昌回人作亂。 六月,東南各省地大震。 冬十月,又震。

二十七年,春正月,緬人擾邊。 三月,永昌回亂肅清。 六月,京師地震,眾星殞。 秋八月,喀什噶爾回人滋事,授布彥泰爲定西將軍,奕山爲參贊大臣,馳往勦辦。 九月,丁丑朔,日食。 冬十二月,湖南乾州廳苗人滋事,命裕泰等勦辦,尋撫定。

二十八年,夏四月,諭兩廣湖南、江西各督撫,飭拿會匪。 秋八月,申定道府以下官,祖、孫、父、子、兄、弟及外姻親族,同省、同府迴避例。督撫與河督、鹽政有關糾察者,亦令迴避。 冬十月,諭浙江巡撫劉韻珂,飭拿浙江沿海盜匪。 申諭海疆各督撫提鎮,督飭水師,堵拿洋盜。

二十九年,春二月,庚子朔,日食。 四川中驣對野番工布朗出巢滋事,命琦善勦辦。 夏四月,江蘇、浙江、安徽、湖廣大雨,五旬餘,水驟漲,田盡沒,水之大,爲百年所未有。 中諭山東巡撫徐澤醇,飭拿沿海村塢盜藪。 五月,中驣對野番平。 冬十一月,正陽門箭樓災。

三十年,春正月,甲午朔,日食。 帝崩,皇四子奕詝嗣立。帝壽六十有九,諡曰成廟,號宣宗,葬易州平安峪,號慕陵。

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