清史紀事本末回部、張格爾の役(回部張格爾之役)
要約
道光五年、長齢を伊犁将軍署理とした。乾隆の南路平定の際に浩罕へ逃げた薩木克らは、歳贈銀一万両で汗が監視していた。嘉慶末年以来、参賛大臣の斌静が荒淫で回人の心を失った。五年八月、薩木克の次子の張格爾が布魯特の衆数百を借りて喀什噶爾を襲った。警急を告げて叱られた蘇蘭奇は憤り回人と合流した。色普徵額が破ったが、斌静は擒えた八十余人を殺して口を塞ぎ、蘇蘭奇を誣告した。帝は疑って慶祥に調べさせ、回民を奴隷とし回女を漁った罪状を得て逮えた。九月、巴彦巴図が塞外で布魯特の婦女子百余人を殺し、汰劣克に襲われて全軍が陥没すると、四城の回人が呼応した。
六年、これより先、張格爾は回城に突入して和卓の墓を拝し、囲みを出た。長齢を揚威将軍、楊遇春らを参賛としたが、張格爾は浩罕の安集延兵三千を得て喀什噶爾を陥し、慶祥は渾河に敗れて自ら縊れ、英吉沙爾・葉爾羌・和闐も陥ちた。
七年、長齢らは柯爾坪・大阿拐・沙布都爾荘・阿瓦己特で連破し、渾河北岸に軍を移した。回衆十余万が河を隔てて陣したが、大風と濃霧を天助として楊遇春は索倫千騎に下流を牽制させ、自ら砲隊で上流を渡り風上を占め、敵陣は乱れ、喀什噶爾・英吉沙爾・葉爾羌を克復した。五月、楊芳が玉努斯を斬って和闐を回復したが、張格爾は辺外へ逃げた。八月、楊芳は塔爾克で浩罕の兵に敗れ、帝は諸将を切責し那彦成に善後を籌らせた。十二月、楊芳は張格爾に虐殺された黒山党に官兵撤退と反間させ、潜入した張格爾は奔ったが、喀爾鉄蓋山で布魯特に捕えられた。長齢を威勇公、楊芳を果勇侯、伊薩克を郡王に封じた。
十年九月、回疆が再び乱れ楊遇春を欽差大臣とした。浩罕が和卓木の子孫の引き渡しを拒むと帝は貿易を絶たせ、那彦成が安集延の商民を逐って財産を没収したため、浩罕王は怒って張格爾の兄の摩訶末玉素普を奉じ辺を侵した。伊薩克の密告を札隆阿は信ぜず、塔斯哈は明約洛で陥没し、諸城が囲まれ那彦成を褫職した。十一年、賊を畏れて迂回した容安を代えた哈豊阿が哈拉布扎什に破って囲みを解き、浩罕も布哈爾との不和で西へ還った。十月、浩罕が和を請い、長齢は羈縻に如かずと奏し、帝も絶ち方が過ぎたと咎めて許した。和約は俘虜を互いに返し、和卓木一族は浩罕が禁錮し、中国は免税で通商を許し財産を返すものである。二十七年の加他漢ら七和卓木の乱もまもなく平定された。
編者はいう、この役の後、中国の兵威は葱嶺以西に及ばず、譲歩は極点に達し、乾隆一朝の武功の盛んなさまは再び得られぬ、と。
年表
天山南路の回疆で、大和卓木の孫にあたる張格爾が浩罕・布魯特の兵を借りて起こした反乱と、その平定および浩罕との和約までを、道光五年(1825年)から道光十一年(1831年)までの経緯として描く。南路参賛大臣の斌静の荒淫や巴彦巴図の殺戮が回人の離反を招き、張格爾は喀什噶爾など四城を陥れて慶祥を死なせた。揚威将軍の長齢、楊遇春、楊芳らが渾河の戦いで大勝して諸城を回復し、楊芳の反間の計で張格爾は布魯特人に捕らえられた。のち浩罕が張格爾の兄玉素普を奉じて再侵入したが、長齢の建議で羈縻策に転じ、通商再開と俘虜交換の和約が結ばれて回疆は定まった。
年表(5件)
- 西暦1825年 宣宗道光五年張格爾が布魯特の衆を借りて喀什噶爾近辺を襲い、巴彦巴図の全軍が陥没して四城の回人が呼応する
- 西暦1826年 宣宗道光六年張格爾が安集延の兵を得て喀什噶爾を陥れ、慶祥は自縊し四城が落ちる
- 西暦1827年 宣宗道光七年長齢・楊遇春が渾河の戦いで大勝して諸城を回復し、年末に張格爾が布魯特人に捕らえられる
- 西暦1830年 宣宗道光十年通商断絶に怒った浩罕が張格爾の兄玉素普を奉じて侵入し、喀什噶爾など諸城を囲む
- 西暦1831年 宣宗道光十一年哈豊阿が囲みを解き、十月に浩罕が和を請うて通商再開の和約が成り回疆が定まる
現代語訳全文
西暦1825年 宣宗道光五年
- 冬十月、大学士の長齢を伊犁将軍署理とし、軍務を籌辦させた。
- 乾隆朝に天山南路を平定したとき、回の酋長である大和卓木波羅泥都の子の薩木克、および喀什噶爾地方の人民が、浩罕国に逃げ入った。葱嶺より西である。その汗はモンゴルの察合台汗の裔であり、薩木克らを受け入れた以上、戦事の波及を受けることを恐れ、中国に告げて、逃亡者を監視し守る責任を担いたいと願い出た。政府もまたその勢いを利用し、毎年銀一万両を贈って、拘束を加えさせた(底本は「約東」に作る。「約束」の誤りか)。
- 嘉慶末年になると、南路参賛大臣の斌静が荒淫で節度が無く、回の人々の心を失った。薩木克の次子の張格爾という者は、その人となりに胆力があり、浩罕に入ってからは、経を誦し、福を祈り、諸部から食を供されることによって、回人にたいそう崇め奉じられていた。張格爾は南路の人心の不平につけこみ、機に乗じて布魯特に身を投じ、衆数百を借り、この年八月に喀什噶爾の近辺を襲った。
- 布魯特の頭目の蘇蘭奇が関に入って警急を告げたが、かえって章京の綏善に叱られ、憤って塞を出て走り、回人と合流した。領隊大臣の色普徵額が兵を率いて往き撃ち、これを破った。張格爾はわずかに三十人を余し、馬を捨てて徒歩で走った。色普徵額は追って塞外に出たが、敵の跡が見えず、そのまま軍を喀什噶爾に返し、斌静とともに中秋の節を宴し賞した。
- 擒えた八十余人を、斌静はことごとく殺して口を塞ぎ、そのうえ蘇蘭奇が逆賊の裔と通じ、衆を導いて事を起こさせたのだと奏上した。帝は心にこれを疑い、伊犁将軍の慶祥に命じて往って調べさせ、斌静が回民を奴隷として飼い、回の女を漁り狩ったという諸々の罪状をつぶさに得て、京に逮え入れて罪を治め、永芹をその代わりとした。張格爾はふたたび兵を集め、しばしば塞の近くを騒がし掠め、永芹が軍を率いて出撃するたびに遁れたという。
- 九月に至り、令隊(「領隊」の誤りか)大臣の巴彦巴図が兵二百をもって塞を出ること四百里、やはり遇うものが無く、そこで布魯特の遊牧の婦女子百余人をほしいままに殺して還った。その酋長の汰劣克はたいそう憤り、部下二千を率いて山谷の間でこれを追い襲い、巴彦巴図の全軍は陥没した。そこで四城の回人は争い起こって呼応した。詔して、長齢を慶祥に代えて伊犁を鎮守させ、慶祥を永芹に代えて喀什噶爾で軍を視させた。
西暦1826年 宣宗道光六年
- 秋八月、張格爾が喀什噶爾を陥し、慶祥はそこで死んだ。
- これより先、張格爾は兵を率いて開斉山の路からにわかに回城に突入し、その先祖の和卓の墓を拝した。喀什噶爾を距たること八十余里であり、協辦大臣の舒爾哈善らに命じてこれを囲ませた。張格爾は囲みを突いて出た。帝はこれを聞き、長齢に揚威将軍を授け、陝甘総督の楊遇春、山東巡撫の武隆阿に詔して参賛とし、軍を督して討伐を助けさせた(底本は「助勤」に作る。「助勦」の誤りか)。
- 軍がまだ集まらないうちに、張格爾はすでに浩罕国から安集延の兵三千を乞い得て、この月に喀什噶爾を攻め陥した。慶祥は渾河で迎え戦い、敗績し、自ら縊れて死んだ。凌河と阿穆克登が前後して陣中に歿し、英吉沙爾・葉爾羌・和闐の三城が同時に陥落し(底本は「英吉沙爾葉同羌和間三城」に作る。「葉爾羌・和闐」の誤りか)、回の人々はことごとく騒ぎ乱れた(底本は「悉淩」に作る。「悉叛」の誤りか)。
西暦1827年 宣宗道光七年
- 春三月、将軍の長齢、総督の楊遇春が喀什噶爾を克復し、張格爾は遁れた。
- これより先、長齢らは六年十月に阿克蘇に至った。時に提督の達淩阿はすでに托什罕河で敵を破っていた。張格爾はまた兵を遣わして柯爾坪を扼し(底本は「所柯爾坪」に作る。「扼柯爾坪」の誤りか)、進軍の路を阻んだ。長齢は諸将を督し、あわせて路を分けて進み、ことごとくその衆を殲した(底本は「悉臘其眾」に作る。「悉殲」の誤りか)。
- この年二月に至り、軍は大阿拐に次し、敵は洋河已特に屯した。夜に乗じて営に攻め寄せたが、これを撃ち退けた。翌日、中路から進んで襲い、一万余人を殲し、二十余里追い殺し、三千余人を擒えた。張格爾はまた十余万の衆を糾合して沙布都爾荘で抗拒したが、諸将は奮い勇んで側面から撃ち、渾水河まで追い迫り、またこれを破り、そのまま阿瓦己特に進軍した。三路から不意を襲って殺し、捕虜と斬首は二万有余、さらに洋達瑪河まで追い、捜索して殺し尽くし、この月に軍を渾河の北岸に移した。
- 回の衆十余万は河を隔てて陣をなし、二十里にわたり、穴を掘り塁を築いて砲を轟かせ(底本は「轟䂭」に作る。「轟礮」の誤りか)、鼓と角笛の音は天を震わし、その勢いはたいそう盛んであった。その夜、大風が砂を巻き上げ、濃い霧で暗く、長齢は晴れるのを待って進もうとしたが、遇春は承知せず言った。「これは天が我らを助けるのだ」と。そこで索倫の千騎を遣わして下流に回り込ませその勢いを牽制し、自ら砲隊を督して上流をにわかに渡り、風上を占めた。砲の勢いと風砂の勢いが互いに搏ち合い、百十万の兵のようであった。摧き圧しつつにわかに至ると、敵の陣は乱れた(底本は「亂陣亂」に作る)。夜明けには全軍が渡り終え、風は止み霧は晴れ、勢いに乗じて敵陣に突き入ると、土が崩れるようであった。そのまま勝ちに乗じて喀什噶爾に至り、その城を克復した。英吉沙爾・葉爾羌の二城も同時にことごとく回復した。
- 夏五月、提督の楊芳が回の衆を昆拉𫞩で破り、その酋長の玉努斯を擒えて斬り、和闐を回復した。時に張格爾はすでに木吉から辺を出て、達爾瓦斯の蔵堪という地方へ逃げ去っていた。
- 秋八月、楊遇春・楊芳が道を分けて塞を出、張格爾の跡を追った。芳の軍は塔爾克に至り、浩罕の兵に遇い、一昼夜激戦し、その兵を失った。協領の都凌河、侍衛の色克精阿が力戦して陣中に亡くなった。芳は急ぎ兵を引いて退き、一歩ごとに営を構え、厳重に陣を敷いて険しい地を出た。厳しい旨をもって諸将を切責し、詔して遇春を関内に入らせ、那彦成に欽差大臣として往って善後の事宜を籌らせた。
- 冬十二月、楊芳が張格爾の衆を喀爾鉄蓋山で大いに破った。布魯特の人が張格爾を誘って捕え、軍前に送った。
- 張格爾はもと白山党の領袖であり、喀什噶爾を拠としていたとき、黒山党の徒をかなり多く虐殺したので、黒山党には二心があった。加えて軍中には賞格が懸けられ、張格爾を擒獲した者には親王の爵と金十万を与えるとされていた。芳はそこで密かに黒山党を辺外に遣わし、反間を放って、官兵はすべて撤退し喀什噶爾は空虚である、人々は首を挙げて和卓を待ち望んでいると言わせた。張格爾はこれを信じ、また歩騎五百を率いて阿爾古の回城に潜入したが、やがて聞いていたことが事実でないと気づき、引き返して辺外へ奔った。芳は星夜追いかけ、喀爾鉄蓋山でこれに追いつき、斬獲はほとんど尽きた。張格爾は残兵三十を率い、馬を棄てて徒歩で走り、布魯特の人に遇い、誘われて捕えられ、軍中に送られた。捷報が聞こえると、詔して長齢を威勇公、楊芳を果勇侯、阿克蘇の貝子の伊薩克を郡王に封じ、その他の文武にも昇進と褒賞に差等があった。
西暦1830年 宣宗道光十年
- 秋九月、回疆がふたたび乱れ、楊遇春を欽差大臣として回疆の軍務を督辦させた。
- 張格爾が擒えられたとき、長齢は浩罕・布哈爾などの国に檄して張格爾の家族を献じさせようとしたが、浩罕は、家族は返してよいが和卓木の子孫は献じられないと言った。帝もまたそれを必ず手に入れることはできまいと知り、しばらくそのままにし、ただ那彦成・楊芳に辺境を厳守し、浩罕との貿易を絶ってこれを困らせるよう諭した。
- そこで那彦成は、安集延の商民を駆逐して辺外に出し、さらにその財産を没収し、その家族を断ち離し、また大黄・茶葉の輸出を禁止することを奏請した。浩罕王の摩訶末阿利は、中国が絶ち方が甚だしすぎることを怒り、武力によって通商の利を回復しようと思い、人を布哈爾に遣わして張格爾の兄の摩訶末玉素普を軍中に迎え、この年八月にその将の哈庫庫爾および勒西克爾に彼を奉じさせ、喀什噶爾から流寓していた人々を率いて大挙して辺を侵させた。
- 回の郡王の伊薩克が参賛の札隆阿に密告したが、信じなかった。警報を聞いてはじめて幫辦大臣の塔斯哈に命じて兵を発し拒み戦わせた。明約洛という地方に至って伏兵に遇い、陥没した。敵軍はそのまま長駆して喀什噶爾・英吉沙爾・葉爾羌の諸々の回の村荘を奪い、諸城を包囲した。変を聞き、楊遇春・楊芳・長齢らに兵を調えて援けに赴くよう命じ、那彦成の職を褫奪した。
西暦1831年 宣宗道光十一年
- 春正月、伊犁参賛大臣の容安を逮えて獄に下し、哈豊阿をその代わりとした。初め容安は詔を奉じて喀什噶爾などの地へ援けに赴いたが、軍が阿克蘇に至ると、賊の勢いを畏れて敢えて進まず、かえって烏什に道を迂回し、敵のいない和闐へ趨いたため、諸城の囲みは久しく解けなかった。押送して刑部に送るよう命じた。
- 提督の哈豊阿は以前阿克蘇に駐屯していたが、喀什噶爾が危急であったため、兵三千五百を帯びて至り、哈拉布扎什で敵を破り、そのまま英吉沙爾河まで追い、喀什噶爾の諸城の囲みもまた解けた。
- 冬十月、浩罕が使者を喀什噶爾の軍中に遣わして和を請い、ふたたび浩罕の通商を許した。
- 浩罕の兵が辺に入った後、ちょうどその国は布哈爾と不和になり、軍を治めて攻め合おうとしていたので、東でほしいままにする暇が無かった。各路の援兵が大挙して至ったときには、浩罕の兵はすでに囲みを解いて去っており、玉素普はもともと情け深く、殺すことを好まなかったので、やはり軍を引いて西へ還った。
- 時に将軍の長齢は命を奉じて喀什噶爾に赴き軍を督していたが、七月に軍に至って浩罕の書を得た。七十余年の通商の旧好を歴述し、互市の条約をあらためて修めることを請い、そうすれば俘虜を返すという内容であった。長齢はそこで奏して言った。「辺を安んずる策は、もとより威を振るうのを上とし、羈縻はこれに次ぎます。しかし浩罕の地のようなところは城池が無く、みな騎を列ねて陣に突き入り、連環槍を放たれると先に逃げ去ります。そのうえ鉄列・克嶺の両山の中には荒れた谷川があり、わずかに騎馬一騎を容れるだけで、二日行ってようやく隘口を出ることができ、遠く渉るにもまた適当ではありません。羈縻の便には及びません」と。帝もまた、これまで浩罕を絶ったことがすでに甚だしすぎたと深く咎め、そこでその奏を可とした。和約が成った。
- 両国は互いに俘虜を返す。和卓木の一族で浩罕にいる者は、浩罕が中国のために囲い込んで禁錮する。
- 中国はなお浩罕の通商を許し、あわせて免税とする。
- 中国は、以前没収した浩罕人の財産を返還する。
- これより回疆の事は定まった。二十七年(1847年)、また張格爾の子弟の加他漢ら、七和卓木が復讐の軍を起こしたが、まもなくこれも平定された。
史論(編者曰)
この役の後、中国の兵威はふたたび葱嶺以西に及ぶことができなくなった。しかも今回の条約において、中国の譲歩はすでに極点に達しており、ふたたび乾隆一朝の武功の盛んであったさまのようにしようとしても、得られなくなったのである。
原文(底本)
宣宗道光五年,冬十月,以大學士長齡署伊犂將軍,籌辦軍務,當乾隆朝之平定天山南路也。回酋大和卓木波羅泥都之子薩木克及喀什噶爾地方人民亡入浩罕國,於蔥嶺以西。其汗為蒙古察合台汗之裔,既納薩木克等,恐遭戰事上之波及,因告中國,願擔負監守逃人之責。政府亦因勢利用之,𡻕賄以銀一萬兩,使加約東。及嘉慶末年,南路參贊大臣斌靜荒淫無度,失回眾心。薩木克次子張格爾者,其人有膽力,自入浩罕後以誦經、祈福、傳食諸部,頗為回人所崇奉。張格爾乃因南路人心之不平,乘機投入布魯特,假眾數百,以是年八月襲喀什噶爾近邊。布魯特碩目蘇蘭奇入關告警,反為章京綏善所叱,遂憤走出塞,與回人合,領隊大臣色普徵額率兵往擊,破之。張格爾僅餘三十人,舍騎徒步而走。色普徵額追出塞外,不見敵踪,遂回軍喀什噶爾,與斌靜宴賞中秋節。所擒八十餘人,斌靜悉令殺之滅口,而以蘇蘭奇交通逆裔,導眾滋事入奏,帝心疑之,命伊犁將軍慶祥往勘,具得斌靜奴畜回民,漁獵回女諸罪狀,逮入京治罪,以永芹代之。張格爾復集兵,屢騷掠近塞,永芹引軍出擊輒遁云。至九月,令隊大臣巴彥巴圖以兵二百出塞四百里,復無所遇,乃縱殺布魯特遊牧婦孺百餘而還。其酋汰劣克憤甚,率所部二千追襲之於山谷間,巴彥巴圖全軍陷沒,於是四城之回人爭起響應詔,以長齡代慶祥鎮守伊犁,慶祥代永芹視師喀什噶爾。 六年,秋八月,張格爾陷喀什噶爾,慶祥死之。先是,張格爾率兵由開齊山路突入回城,拜其先和卓之墓。距喀什噶爾八十餘里,令協辦大臣舒爾哈善等圍之。張格爾突圍出,帝聞,授長齡揚威將軍,詔陝甘總督楊遇春、山東巡撫武隆阿為參贊,督師助勤。軍未集而張格爾已乞得浩罕國安集延兵(安集延兵鷙悍善戰,時有百回兵不如一安集延之語)三千,於是月攻陷喀什噶爾。慶祥迎戰於渾河,敗績,自縊死焉。淩河阿穆克登先後歿於陣,於是英吉沙爾葉同羌和間三城同時陷落,群回悉淩。 七年,春三月,將軍長齡、總督楊遇春克復喀什噶爾,張格爾遁。先是,長齡等於六年十月抵阿克蘇,時提督達淩阿已敗敵於托什罕河,張格爾復遣兵所柯爾坪,阻進兵之路。長齡督將,並分路進,悉臘其眾,至是年二月,師次大阿拐,敵屯洋河已特。乘夜來犯營,擊卻之。越日,由中路進襲,殲萬餘人,追殺二十餘里,擒三千餘人。張格爾復糾眾十餘萬抗拒於沙布都爾莊,諸將奮勇抄擊,逼至渾水河,又破之,遂進軍阿瓦己特。三路掩殺,俘斬二萬有奇,復追至洋達瑪河,搜殺罄盡,遂於是月移師渾河北岸。回眾十餘萬阻河為陣,亘二十里,穴壘轟䂭,鼓角震天,勢張甚。是夜,大風揚沙,大霧晦,長齡欲待霽而進,遇春不可,曰:『此天贊我也。』乃遣索倫千騎,繞趨下游牽其勢,而親督礮隊,驟渡上游,據上風。礮勢與風沙勢相搏,如百十萬兵。摧壓驟至,亂陣亂。比曉,全軍盡渡,風止霧霽,乘勢衝入敵陣,若土崩,遂乘勝抵喀什噶爾,克復其城。英吉沙爾、叶爾羌二城同時盡復。 夏五月,提督楊芳破回眾於昆拉𫞩,擒斬其酋玉努斯,復和闐。時張格爾已自木吉出邊,往達爾瓦斯之藏堪地方颺去。 秋八月,楊遇春、楊芳分道出塞,踪跡張格爾。芳軍至塔爾克,遇浩罕兵,激戰一晝夜,亡失其眾。協領都凌河、侍衛色克精阿力戰陣亡。芳急引兵退,步步爲營,嚴陣出險。嚴旨切責諸將,詔遇春入關,命那彥成以欽差大臣往籌善後事宜。 冬十二月,楊芳大破張格爾之眾於喀爾鐵蓋山。布魯特人誘執張格爾,送軍前。張格爾本白山黨領袖,據喀什噶爾時,虐殺黑山黨徒頗眾,故黑山黨有貳心。加以軍中懸賞格,擒獲張格爾者,爵親王、金十萬,芳因密遣黑山黨出邊,縱反間,言官兵全撤,喀什噶爾空虛,諸翹首以望和卓。張格爾信之,復率步騎五百潛入阿爾古回城,已而覺所聞不實,折奔出邊。芳星夜追逐,及之於喀爾鐵蓋山,斬獲幾盡。張格爾率殘兵三十,棄騎徒走,遇布魯特人,誘而執之,送軍中。捷聞,詔封長齡威勇公,楊芳果勇侯,阿克蘇貝子伊薩克郡王,餘文武陞賞有差。 十年,秋九月,回疆復亂,以楊遇春爲欽差大臣,督辦回疆軍務。張格爾之就擒也,長齡檄浩罕、布哈爾等國獻張格爾家屬,浩罕言家屬可返,和卓木子孫不可獻。帝亦知其必不能致,姑任之,惟諭那彥成、楊芳嚴守邊境,絕浩罕貿易以困之。於是那彥成奏請馳逐安集延商民出邊,且沒收其財產,斷離其眷屬,又禁止大黃、茶叶出口。浩罕王摩訶末阿利怒中國絕之太甚,思以武力回復通商之利,乃使人往布哈爾迎張格爾兄摩訶末玉素普至軍中,以是年八月使其將哈庫庫爾及勒西克爾。奉之,率流寓之喀什噶爾人大舉侵邊。回郡王伊薩克告密於參贊札隆阿,不信,既聞警,始命幫辦大臣塔斯哈發兵拒戰。至明約洛地方,遇伏陷沒,敵軍遂長驅奪喀什噶爾、英吉沙爾、葉爾羌諸回莊,而包圍諸城。變聞,命楊遇春、楊芳、長齡等調兵赴援,禠那彥成職。 十一年,春正月,逮伊犁參贊大臣容安下獄,以哈豐阿代之。初容安奉詔赴援喀什噶爾等處,師抵阿克蘇,畏賊勢,不敢進,反繞道烏什,趨無敵之和闐,致諸城圍久而不解。命押解刑部。提督哈豐阿前駐阿克蘇,以喀什噶爾危急,帶兵三千五百至,破敵於哈拉布扎什,遂追至英吉沙爾河,喀什噶爾諸城之圍亦解。 冬十月,浩罕遣使至喀什噶爾軍中請和,復許浩罕通市。浩罕兵入邊後,適其國與布哈爾失和,將治軍相攻,無暇東逞。及各路援兵大至,浩罕兵已解圍去,玉素普故慈善,不好殺,亦引軍西還。時將軍長齡奉命赴喀什噶爾督師,七月至軍得浩罕書,歷述七十餘年通商之舊好,請復修改互市條約,當返俘虜。長齡乃奏曰:『安邊之策,固以振威爲上,羁縻次之。然如浩罕之地無城池,皆以列騎衝陣,遇放連環槍則先已奔逸。且鐵列、克嶺兩山中有廢澗,僅容單騎,行兩日方能出隘口,於遠涉亦非所宜,不如羈縻之便。』帝亦深咎前此絕浩罕爲已甚,遂可其奏。和約成: 兩國互還俘虜。和卓木族在浩罕者,浩罕當爲中國圈禁。 中國仍許浩罕通商,並免稅。 中國將前所抄沒浩罕人財產給還。 自是回疆事定。二十七年,復有張格爾子弟加他漢等、七和卓木起復仇之師,然未幾亦定。 編者曰:自是役之後,中國兵威不復能及䓤嶺以西。而此次條約中,中國之讓步已達於極點,欲復如乾隆一朝武功之盛,不可得矣。
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