清史紀事本末日露戦争(日俄之戦)
要約
光緒二十九年冬十二月、日露が開戦したため局外中立を宣告した。甲午の役後ロシアは遼東を日本から取り返させ、名は中国への返還としながら満州を属地と見なし、李鴻章の渡露を機に中露密約を成した。拳匪が起こると、連合軍と北京・天津を攻める一方、黒竜江を占めて南下し三省の城砦を分け取ったが、政府は問えなかった。和議では中露に特別の関係があるとして東三省は別議だと譲らず、公使楊儒を脅して返還条約を議させた。要求は過酷で李鴻章は許そうとしたが、劉坤一・張之洞と士紳が力争し、日本も旧怨から英米と語らって阻んだ。別条約は成らず、代わりに中露で公約を結び、六か月ごと三度に分け撤兵すると定めた。両宮は還京し各国は撤兵したが、ロシアは退かず増兵して奉天を再占領した。政府は責問できず、督撫の請戦も義勇隊・対露同志会の議も詔旨で謝絶し協商に頼った。ロシアは増兵を鉄道保衛のためと言い逃れ、交渉は決裂して両国公使は帰国し、期日を切って決戦となった。戦線は中国と朝鮮の内にあったが、両国とも口を挟めなかった。
三十年春正月、日本兵が鴨緑江でロシア兵を破り九連城・鳳凰城を占領した。開戦前、皇帝ニコライ二世は極東の責任をアレクセーエフに帰すと詔し、彼は日本は必ず戦わぬと奏したので、首都に出戦を見込む者はなく、大公らは軍備の名で国庫の金を私し、満州の軍は備えも糧も乏しかった。レッサル公使に英米仏の調停を望ませたが拒まれ開戦した。旅順が魚雷艇に迫られたときもアレクセーエフらは宴を張り、戦艦ペトロパヴロフスクでは太平洋艦隊司令長官マカロフ以下士官二十三名、兵卒六百余名が死んだ。夏四月、日本兵は大孤山に上陸して金州を取り、皇帝はアレクセーエフに代えクロパトキンを起用したが、東郷平八郎は備えの整わぬに乗じて北上し、要害を占めて旅順の援を絶った。六月、大石橋・営口・牛荘・析木城・海城を取り、クロパトキンは自ら督戦して重傷を負い、ロシアは二千余、さらに五千余を失った。瓦房店では退くなと命じたシュタッケルベルク大将に兵が従わず、自ら頭を撃って死んだ。国内では革命党が猖獗し、ポーランドも独立を図った。秋八月、日本の両軍は各地で連破して遼陽を占領し、さらに沙河でも破った。太子河に落ちたロシア軍は死者多く、前後十日、死傷数万の一大戦であった。冬十一月、バルチック艦隊の東航に備え沿海各省に戒厳を命じた。十二月、年を越して攻められた旅順のロシアは自ら砲台・軍艦を爆破して降り、乃木希典大将が許し、捕虜は武官八百七十八名、兵士二万三千四百九十一名、守将ステッセルは帰国した。
三十一年春二月、二十一日の激戦で日本兵は奉天の省城を占領し、ロシア軍は鉄嶺に退いた。この役のロシア軍は歩兵三十万零八百、騎兵二万六千七百、大砲千五百六十八門、捕虜四万数千、死傷十一万六千五百、日本の死傷も四万二千二百余。クロパトキンは満州軍司令長官を剥奪されリネウィッチが代わったが、新敗の軍は連勝の兵に敵わず鉄嶺・開原も取られた。夏四月、バルチック艦隊が対馬島海峡で殲滅された。東郷大将は帰国と公言して密かに西へ迎え、マダガスカル・安南沖・台湾海峡を経て対馬に至ったロシア艦隊を沖ノ島で撃った。ロシアは主力二十六艘中二十二艘を失い、総司令官羅司諦司温司開は浜田で捕らえられ、第三艦隊司令長官尼布格爾土夫は軍士を率いて降り、海軍大佐納綺麻夫と兵士二千二百二十三名が捕らえられた。日本の沈没は水雷艇三艘、死傷およそ千四百人、古来まれな大海戦だという。六月、日本兵は樺太を取り、司令長官利波諾夫が将校七十名、兵士三千二百名を率いて降った。秋八月、ルーズベルトの調停で小村寿太郎・高平小五郎とウィッテ・ローゼンがポーツマスで議し、和約十条が成った。朝鮮での日本の最大の権利、双方の満州撤兵と返還・門戸開放、樺太の折半、遼東租借の引き渡し、ハルビン以南の鉄道の割譲、満州鉄道の商業路線化、捕虜養育費として日本金百五十兆元の給付、日本の漁業権である。開戦から二十九か月で定まった。
編者はいう、ロシアと中国はともに大国と号し、列強も北方の熊・東方の獅子と呼んだのに、十年も経たぬ間にともに小島国の日本に大敗した。敗因は両国に同じ点が多い。民族の複雑、政体の専制、官吏の貪汚、軍紀の腐敗、公文書の虚飾、財政の紊乱が同じで、君主が母后に牛耳られ官邸で軍職を売ることまで同じである。日本人は軽々しく戦を言わず戦備を整えたのに、露清は宣戦の詔が敵の朝廷に届いてから準備を始め、開戦後も将領は任に堪えず、兵士は命に従わず、軍中で淫楽と博打にふけり、味方が敗れても救わず、一軍が挫ければ万人が逃げ隠れた。大東溝と対馬島の二戦を待たずとも、日清・日露の勝敗の理由はすでに明らかであった。ただ世人が察しなかっただけだ、と。
年表
日清戦争後に遼東へ進出し、義和団事件に乗じて満州を占領したロシアが撤兵約束を破ったことから、日本との交渉が決裂し、清は局外中立を宣告した。光緒二十九年(1903年)から三十一年(1905年)までの戦局は、鴨緑江・九連城から金州・旅順、大石橋・営口、遼陽、奉天、鉄嶺・開原へと日本軍の連勝が続き、クロパトキンやアレクセーエフらロシア将帥は敗退を重ねた。旅順のステッセルは降伏し、バルチック艦隊は対馬島海峡で東郷の連合艦隊に殲滅され、樺太も日本に占領された。最後にアメリカ大統領ルーズベルトの調停で小村寿太郎・ウィッテらがポーツマスで会し、十条の和約が成って戦争は終わった。
年表(3件)
- 西暦1903年 徳宗光緒二十九年日露開戦により清は局外中立を宣告し、ロシアは東三省撤兵の公約を破って奉天に増兵する
- 西暦1904年 三十年日本軍が鴨緑江から旅順・遼陽へ進撃してロシア軍を破り、旅順守将ステッセルが降伏する
- 西暦1905年 三十一年日本軍が奉天・鉄嶺を占領し、バルチック艦隊も対馬で全滅し、ポーツマスで和約十条が成る
現代語訳全文
西暦1903年 徳宗光緒二十九年
- 冬十二月、日本とロシアが開戦したため、局外中立を宣告した。
- 甲午の役(日清戦争)のとき、ロシアは遼東を日本人の手から取り返させた。名目は我が中国に返すというものであったが、実際は自らの勢力を拡張し、満州を自国の属地と見なすものであった。
- 李鴻章がロシアに赴いて皇帝の戴冠を祝賀すると、ロシア皇帝は恩をもって彼を手なずけた(「𩚩」は「餌」の誤りか)。そこで中露密約が成立し、満州人の祖宗発祥の地を売り渡し、その上、各国が満州を狙って紛争する端緒を開くことになった。
- 拳匪(義和団)が蜂起すると、ロシア人は一方で各国の連合軍とともに北京・天津を攻め、他方では兵を進めて黒竜江を占拠し、そのまま鉄道沿いに南下して三省の城や砦を分け取り、官吏や属僚を配置し、城堡を築いた。政府はこれを問いただすことができなかった。
- 和議が開かれると、ロシア人は中露には特別の関係があるということを口実にし(底本は「有有特別關係」に作る。「有」は衍字か)、東三省の事は両国で別に協議すべきものだと主張して譲らず、北京での事とは別の話にするとした。
- 列国との和約が定まると、ロシアはそこで中国のロシア駐在公使楊儒を脅して、別に東三省返還条約を結ぶ協議をさせた。その要求はきわめて過酷で、李鴻章はこれを許そうとした。そこで関東の各地はすべてロシアの勢力範囲の下に置かれることとなったが、東南の疆吏である劉坤一・張之洞および各省の士紳が力を尽くして争い、日本もまた以前の遺恨からロシアを怨んでいたので、イギリス・アメリカ両国と語らって力を合わせてこれを阻んだ。
- 別条約はついに成立せず、代わりに公約を結んだ。その東三省撤兵の期限は、調印の六か月後にまず盛京の西南の一段から遼河までの兵を撤退させ、さらに六か月で盛京の残りの各段および吉林省の兵を撤退させ、さらに六か月で黒竜江省の兵を撤退させる、と取り決められた。
- 条約が定まると、両宮(皇帝と皇太后)はともに北京に還り、各国はみな約定どおりに撤兵した。ところが遼東を占拠していたロシア兵だけは撤退せず、かえって兵を増やして奉天などの地を重ねて占領した。政府は一言もこれを責め問う言葉を出せず、外省の総督・巡撫や軍師(「軍師」は「軍帥」の誤りか)に開戦を請う動きがあり、在野の士論には義勇隊や対露同志会を起こす動きがあっても、みな厳しい詔旨でこれを謝絶し、ひたすら日本とロシアの協商に頼っていた。
- ロシアの方は、地方がまだ安定せず馬賊がなお多いので、奉天の増兵は鉄道の線路を保衛するためだと言い訳し、それで言い逃れた。そこで交渉は決裂し、両国の公使はともに旗を降ろして帰国し、期日を切って決戦することとなった。
- その戦線は中国および朝鮮の境域の内にあった。朝鮮は二大国の間に挟まれ、両国の戦いに口を挟むこともできなかった。中国も新たに大きな傷を受けており、やはり自国領内の主権について問うこともできなかった。門内の庭で人が争うのを聞くままにして、局外の例(「倒」は「例」の誤りか)を守り、中立を宣告したのである。
西暦1904年 三十年
- 春正月、日本兵が鴨緑江でロシア兵を破り、九連城・鳳凰城を占領した。
- 日露がまだ開戦しない前に、ロシア皇帝ニコライ二世はその臣アレクセーエフを極東総督・海軍提督に任じ、詔して「今より以後、極東の責任はすべてアレクセーエフに帰する。外務省は口を出すには及ばない」と言った。アレクセーエフは新任の地に赴くと、もっぱら遼東・韓国を占拠する計画を主張し、ロシア皇帝に告げて「日本など与しやすい相手です。外向きには憤り勢いこんで見せていますが、必ず戦にはなりません」と言った。それゆえこの役の以前には、ロシアの首都には日本が戦に出ると見込む者は一人もいなかった。決裂の数日前になっても、ロシア皇帝はなお人に告げて、すべては幸いに平穏無事であり、日本の怒気も結局は消え失せる、朕の治世はもとより太平の治世である、と言っていた。諸親藩の大公もまた必ず戦にはならないと言い、預かっている国庫の金は、名目は軍を整えるためであったが、実際はおおむね自分の懐を肥やすものであった。それゆえ満州にあるロシア軍は軍備が整わず、糧食も欠乏していた。日本が出戦しようとしていることを知るに及んで、そこで(底本は「何乃」に作る。「何」は衍字か)北京駐在のレッサル公使に命じて当局者を遊説させ、イギリス・アメリカ・フランス各国の公使が調停の任に当たるように仕向けようと望んだ(「翼」は「冀」の誤りか)。イギリス・アメリカ両国の公使はいずれもこれを拒絶し、ついに開戦に至った。
- このときシベリア・東清の両鉄道は構造があまり完全でなかったため、その輸送能力は乏しく(「甚之」は「甚少」の誤りか)、加えて馬賊が至る所でロシアを苦しめたので、運輸はことに力を発揮しがたかった。しかしアレクセーエフは狼狽して耐えがたい有様でありながら(底本は「阿難狼狽不堪」に作る。「難」は衍字か「雖」の誤りか)、外見は落ち着き払い、まるで日本など意に介さないかのようであった。仁川で一敗し、旅順が再び攻められるに及び、日本人は魚雷艇をもって旅順に入り、その艦隊に迫った(「具」は「其」の誤りか)。アレクセーエフと諸将はちょうど音楽を鳴らして盛大な宴会を開いており、ロシア皇帝もその夕べ、某の名園(「枼」は「某」の誤りか)で音楽をお聴きになっていた。帰ってからアレクセーエフの電報を受け取り、破壊されたのがみな新鋭艦だと知って、はじめて夢から覚めたようであった。ロシア皇后はキリール親王が負傷したと聞いて、激しく慟哭して気を失った。
- この役では、ロシアの戦艦(「臺艦」は「戰艦」の誤りか)は次々に沈み(「履沒」は「屢沒」の誤りか)、統帥は命を落とし、撃沈された駆逐艦の将兵には一人の生き残りもなかった。その第一等戦艦ペトロパヴロフスクの乗員は、戦死がとりわけ悲惨であった。太平洋艦隊司令長官マカロフ提督のほか、参謀長ミラシ、副提督一名、士官二十三名、教士一名、副航海長一名、兵卒ら六百余名を数えた。また陸軍大佐一名。同じころ陸軍もまた定州で挫折し、その後(「具後」は「其後」の誤りか)、鴨緑江は渡られ、安東は陥ち、九連城は抜かれ、鳳凰城は破られ、日本軍の旗の指し示すところ、ロシア兵はみな風を望んでひそかに逃げ去ったのである。
- 夏四月、日本兵が奉天の大孤山に上陸し、金州を占領して旅順を困らせた。
- ロシアは出兵して以来、将兵はみな命令に従わず、事のないときには酒色と博打にふけって乱暴をはたらき、戦いに遭えば争って乱れ、互いに救い合わなかった。マカロフの戦役以後、ロシア皇帝はアレクセーエフの督師に功がないとして、特に陸軍大将クロパトキンを選んでアレクセーエフに代えて海軍提督とし、あわせて黒海艦隊司令長官クオリロフ(廓理羅甫)をマカロフの後任の太平洋艦隊司令長官とした。両名がともに軍中に至って職務についたとき、日本の連合艦隊司令長官伊東平八郎(東郷平八郎の誤りか)はその備えのまだ整わないのに乗じ、軍を督して一歩一歩前進した。第一軍は岫岩の大孤山を攻め取り、全軍が上陸してもっぱら北に向かい、名のある城や要害の隘路を順次占領して守り、旅順への援軍を絶った。いわゆる敵の背を撃つというものである。また軍艦を分けて港口を守り、ロシア兵が出るのを防いでその喉首を扼したという。
- 六月、日本兵が大石橋・営口・牛荘および析木城・海城などの地を占領した。
- 前月、日本の第二軍は熊岳城を攻め取り、進んで蓋平(底本は「藍平」に作る。「蓋平」の誤りか)を陥れた。この月、日本軍は進んで大石橋を攻めた。ロシア人は第一・第二・第九・第三十五の各師団、およびシベリア予備兵一個師団(「師圍」は「師團」の誤りか)をもって来たり防いだ。クロパトキンが自ら臨んで戦を督したが、重傷を負い、兵士の死者は二千余、残りは逃げ去った。日本軍に追撃されてはなはだ狼狽し、日本軍はついに大石橋および付近一帯を占領した。この日、営口のロシアの官は大石橋が急に攻められていると聞き、ただちに軍を率いて救援に向かったが、効果はなく、道を分けて逃げ、営口も同じく日本軍に占拠された。進んで牛荘・析木城・海城に迫り(「簿」は「薄」の誤りか)、みなこれを抜き、ロシア軍の戦死者はまた五千余を数えた。
- ロシア軍は出発して以来、兵士はみな政府を憎み、闘志がなかった。瓦房店の戦いでは、ロシア軍はたいそう勢いを得ており、指揮官シュタッケルベルク大将は乗ずべき有利があるとして、退くなと命じ、必ず勝つと励ました。兵たちは「必ず勝とうとなさるのなら、ご自分でおやりなさい」と言って、退くことは元のままであった。シュタッケルベルクはピストルで先頭の隊列を撃ち、そして最後の弾丸で自分の頭を撃ち抜いて死んだ(「末凡」は「末丸」の誤りか)。敗報が伝わると、ロシア皇帝は憂え憤って寝食を廃するほどであった。その国内では革命党の勢いがいよいよ猖獗をきわめ、ポーランドもまた独立を図った。そして新造の二隻の巡洋艦にさえ、爆破しようと謀る者があった。
- 秋八月、日本兵が遼陽城外でロシア兵を破り、そのまま遼陽を占領し、また沙河でロシア兵を破った。
- 日本の第一軍は細河沿を占領すると、三隊に分かれて進攻し、湯河・紅沙嶺・大西溝・孫家砦・弓張嶺・双廟子・石嘴子・大西蛮嶺・香山子・益友渓・孟家坊で続けてロシア軍を破った。第二軍は雷家堡・黒牛屯・余家台・曹方屯・壊尾溝・新立屯・徐上堡でロシア軍を破った。ロシア軍はついに支えきれず、遼陽に向かって退いた。日本兵はしきりにこれを追い、遼陽の停車場を破壊し、ロシア軍を太子河の右岸まで圧迫した。ロシア軍は押し合って河中に落ち、死者はきわめて多く、日本軍はここに至って遼陽の全域を占領した。この役は前後十日もの長きにわたって戦い、両軍の死傷は数万を数え、開戦以来の一大戦であった。
- 冬十一月、ロシアのバルチック艦隊が東方に来るというので、沿海各省に戒厳を命じた。
- 日露の戦いはすでに一年を経ていた。ロシア軍が遼陽から掃われて出てからは、中国は日々日露の講和を望み、それによって東三省を我が手に返してもらおうとした。各国の世論もまた、日露が和に出るのを望んでいた。しかしロシア人は遼陽の敗戦の後、軍を失い地を失った恥辱をさして気にかけていない様子で、ただ朝晩バルチック艦隊の東航の準備を謀り、大いに日本に対して志を遂げて恥をそそごうと考えていた。そこで各国は顔を見合わせて色を失い、中国政府もまた東南各省の官吏に戒厳を命じた。
- 十二月、ロシアの旅順守将が日本に降伏を乞うた。
- 日本の海陸軍は旅順を包囲攻撃し、年を越して苦戦したが陥とせなかった。はじめは仰ぎ攻め、次いで港口を塞ぎ、最後には決戦を挑み、大小数十の戦いはみな効がなかった。日本軍はこの年の九月十八日に大挙して総攻撃を起こし、二十六日にこれを陥落させて日本の天皇の誕辰の祝いの贈り物にしようと予定したが、結局望みを満たすことはできなかった。前月二十六日に至り、ロシアは力尽き、自ら砲台および軍艦などをことごとく爆破し、夕方九時に使者に書状を持たせて日本の陣営に赴かせ、降伏を申し入れた。翌日、日本軍の乃木希典大将は書を返してこれを許し、二十九日を期日と定めて捕虜を受け取ることにした。この月の二日に至って受け取りがようやく終わり、合わせて武官八百七十八名、兵士二万三千四百九十一名であった。五、六月のころ、日本軍が旅順を猛撃したとき、守将ステッセル将軍はすでに降ろうとしたのだが、配下の士官二百二十九人に迫られて、なお努めて半年守った。ここに至り、ステッセルはこの月の七日に青泥窪から帰国することに定めた。
西暦1905年 三十一年
- 春二月、日本兵がロシア兵を破り、奉天の省城を占領した。
- この役は正月十六日から激戦が始まり、この月の五日に終わるまで、およそ二十一日であった。日本軍が奉天を占領すると、ロシア軍はみな北に退き、鉄嶺に拠って守り防禦の地とした。この役に加わったロシア軍を数えると、合わせて歩兵三十万零八百、騎兵二万六千七百、大砲千五百六十八門、日本の捕虜となった者はおよそ四万数千、死傷した者は十一万六千五百であった。日本人の死傷もまた四万二千二百余であった。
- 日本兵は続けてロシア兵を破り、鉄嶺および開原を占領した。鉄嶺はハルビンと遼陽の間に位置する。このときロシアの将帥クロパトキンはすでに満州軍司令長官の職を剥奪され、降ろされて満州第一軍司令官となっており、これに代わったのが陸軍大将リネウィッチであった。たいそう戦上手であったが、新たに敗れた軍は、結局は勝ち続けている兵には敵わなかった。日本軍が奉天から北上したとき、沿道の敗残のロシア兵は次々に降伏を乞い、日本軍はそのまま長駆して進んだ。この月の十二日、鉄嶺を占領した。ロシア軍は北の開原へ退き、日本人は兵を分けて進攻したが、途中で抵抗は一つもなかった。十四日の夜、まっすぐ開原に入った。翌朝、ロシア軍が開原を襲ったが、また日本軍に撃退された。
- 夏四月、ロシアのバルチック艦隊が、日本海の対馬島海峡で日本海軍に殲滅された。
- これより先、ロシア人はバルト海から三個艦隊とあらゆる輸送船とを合わせ、合計百艘を下らない船を、前年七月に汽罐を焚いて東へ向かわせ、日本と海上の角逐を演じようと望んだ(「異」は「冀」の誤りか)。日本の東郷大将はこれを聞き、そのときすでに迎え撃つ準備をしていたが、「第一期の海戦の事は終わったので、十一月下旬に帰国する」と公言しておいて、ひそかに麾下の連合艦隊を率いて西に向かい、バルチック艦隊を迎えに行った。ただしその考えでは、迎撃があまりに急であれば、ロシアは戦い敗れても中立の地に入って庇護を求めるのは難しくなく、全滅させることができない。そうでなく迎撃があまりに緩ければ、ロシアの艦はたちまち北進して、そのウラジオストクの根拠地に近づいてしまい、これを撃っても功を挙げるのは容易でない。必ず相手が進退に窮する地、主客の立場が入れ替わる時を待って、不意に起って撃ってこそ、一挙に殲滅できる、というのであった。
- それゆえロシア艦隊はヨーロッパを出発して以来、マダガスカルに半年とどまり、安南の沖を二か月遊弋し、その後まっすぐ北上して台湾海峡を過ぎ、中国の洋面を経て、対馬島海峡に至った。日本艦隊は終始潜んでいて、ロシア艦隊が南洋に来るのも放っておき、台湾海峡を過ぎるのも放っておき(「共」は「其」の誤りか)、中国の洋面を過ぎるのもまた放っておいた。対馬海峡付近の沖ノ島に至って、日本艦隊ははじめてまっすぐ出て攻撃した。
- ロシア艦の奥斯頓盤亜(底本はここに割注の丸括弧だけがあって中の字が無い)がまず一発の砲弾に当たり、その司令塔を壊され、ロシアの将福格がそこで死んだ。続けてまた数発の砲弾に当たり、傷が重くて沈んだ。残りの艦の雪蘇完利甘(底本はここに割注の丸括弧だけがあって中の字が無い)・捺気麻夫(底本はここに割注の丸括弧だけがあって中の字が無い)・喇塁麻捺克(底本はここに割注の丸括弧だけがあって中の字が無い)も、また重傷を受けた。夜に入って、さらに日本の駆逐艦隊および水雷艇隊に追撃され、機関が全部損なわれた。翌朝、朝鮮の海面まで漂い、日本艦の信濃丸などに見つけられたが、捕らえるより先に沈んだ。その那槐林(底本はここに割注の丸括弧だけがあって中の字が無い)という一艦も、また戦闘中に四度重ねて魚雷に当たり、たちまち沈没した。
- ほどなく日本の新高・音羽の両艦は、ロシア艦の蘇維忒勒那(底本はここに割注の丸括弧だけがあって中の字が無い)を喜哥根海湾(底本はここに割注の丸括弧だけがあって中の字が無い)に捜し出して撃ち、これを沈めた。磐手・八雲の両艦は、ロシア艦の烏式攷(底本はここに割注の丸括弧だけがあって中の字が無い)の第四艦隊および第二駆逐艦隊を撃沈し、ロシア艦の兌米脱蕩斯科(底本はここに割注の丸括弧だけがあって中の字が無い)を迫って欧林島東南の海面(底本はここに割注の丸括弧だけがあって中の字が無い)まで走らせ、暗礁に触れて沈ませた。
- その他、沈没したロシア艦は、坎内士蘇槐羅敷・亜力山大第三・薄羅提諾(底本はここに割注の丸括弧だけがあって中の字が無い)、根娒芝加・伊魯琴斯克の五艘、および駆逐艦三艘であった。日本に捕らえられたものは、奥黎爾・尼古拉士第一(底本はここに割注の丸括弧だけがあって中の字が無い)、阿潑利尋・新加文(底本はここに割注の丸括弧だけがあって中の字が無い)、渤濤完(底本はここに割注の丸括弧だけがあって中の字が無い)の五艘。行方の知れないものは、受爾墨池(底本はここに割注の丸括弧だけがあって中の字が無い)の一艘であった。
- 坎内士蘇槐羅敷が撃沈されようとしたとき、ロシアの総司令官羅司諦司温司開はその部下の将兵とともに、奥黎爾艦に乗り換えて逃げたが、浜田の海岸に至って日本艦に捕獲された。また第三艦隊司令長官の海軍少将尼布格爾土夫は、日本艦が囲んで攻めたとき、脱出できないと見て、そこで軍士を率いて降伏した。このほか日本に捕らえられた者は、海軍大佐納綺麻夫および兵士二千二百二十三名、残りはみな水に没した(「遏」は「溺」などの誤りか)。この役を数えると、ロシアは二十六艘の主力艦隊のうち、二十二艘を失った。日本艦の沈没は、水雷艇三艘のみ。兵士の死傷はおよそ千四百人。論者はこの度の戦いを、まことに古来まれな大海戦であるという。
- 六月、日本兵が続けてロシア兵を破り、樺太を占領した。
- この月の五日、日本艦隊は樺太の海面に到着し、掃海を行い終わると、海軍の枝隊を合わせて、ただちに上陸し、沿海の地方を攻め取った。翌朝、日本艦隊は陸軍を助けに行って可殺克夫城を攻めた。着いたときには、ロシア軍はすでに城を焼いて逃げており、その地は陸軍に占領された。ロシア軍を達里宜異の西北の陣地まで追いつめ、一日攻撃し、十日に至ってロシア兵は支えきれず、摩喀に向かって退いた。そこで樺太の南部はすべて日本軍の手に入った。さらにロシア軍を追跡し、第一愛爾科夫・第二愛爾科夫・第三愛爾科夫・尼羅科夫・波戞台・亜力山大夫斯甘城・枯衣城・魯衣科夫・維徳尼哥斯克・怕利烏大・陀崙南境などの地で続けてこれを破り、ロシア軍はいよいよ疲れて支えきれなくなった。二十八日、その司令長官利波諾夫は、ついに将校七十名、兵士三千二百名を率いて、そろって日本軍に降った。かくて日本軍の軍政は、樺太全島に施行されるようになった。
- 秋八月、日本とロシアが朴子茅斯城で講和を協議した。
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日露は対馬海峡の大戦の後、アメリカ大統領ルーズベルトが出て調停し、日露ともにこれを承諾した。日本の外務大臣小村寿太郎、駐米公使高平小五郎、ロシアの国務卿ウィッテ、駐米公使ローゼンが、そろって講和の専使となり、アメリカのポーツマスで会議した。協議はほぼ一か月に及び、この月の六日に至って、ようやく和約が成った。合わせて十条である。
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一、日本は朝鮮において最大の権利を有する。
- 二、双方とも満州の兵を撤退する。
- 三、満州を中国に返還する。
- 四、満州の門戸を開放する。
- 五、樺太島はそれぞれ半分ずつを得る。
- 六、遼東の地の租借の契約を引き渡す。
- 七、ハルビン以南の鉄道を割譲する。
- 八、ロシアが通行できる満州の鉄道は、商業用の路線に改める。
- 九、ロシアはロシア人捕虜を養った費用として、日本の金で百五十兆元を日本に給付し、軍費賠償の代わりとする。
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十、日本は海浜で漁業を行う権利を得る。
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この役を数えると、二十九年十二月からこの月まで、戦争は二十九か月(「二十九月」は「二十月」の誤りか)を経てようやく定まったのである。
史論(編者曰)
編者はいう。ヨーロッパのロシア、アジアの中国は、いずれも自ら大国と号する国である。列強もまたその国土の巨大な体躯に驚いて、これを「北方の熊」「東方の獅子」と呼んだ。ところが十年も経たぬ間に、いずれも小さな島国の日本に大敗した。その失敗の原因は、いったいどこにあるのか。私は事の定まった後に、陸士衡の『弁亡論』の例にならって中露両国の敗因を尋ねてみるに、両者の間には同じ点がはなはだ多い。民族の複雑なことが同じ、政体の専制なことが同じ、官吏の貪汚なことが同じ、軍紀の腐敗が同じ、公文書の虚飾が同じ、財政の紊乱が同じである。そのはなはだしいものに至っては、君主が母后に牛耳られていること、官邸で軍職を売りさばくことまで、同じでないものはない。しかも開戦の前、日本人はただ軽々しく戦を口にせず、それでいて戦備はすっかり整えていたのに対し、ロシアと中国は、宣戦の詔がすでに敵の朝廷に届いてから、はじめて戦に必要な準備に着手した。これも同じである。開戦の後は、将領が任に堪えないこと、兵士が命令に従わないこと、軍中で公然と淫楽と博打にふけること、味方が戦い敗れても救わないばかりかかえってこれを陥れること、一軍が少し挫けただけで万人が肝をつぶし、噂を聞いて逃げ隠れ、猪のように突き進み狼のように走り散ること、これもまた一つとして同じでないものはない。してみれば、この数々の点を総合して見るならば、大東溝と対馬島の二度の戦争の結果を待つまでもなく、日清の戦い、日露の戦いの勝敗の理由はすでに明らかであったのだ。ただ世の人がそれを察しなかっただけである。
この篇には、機械と人手の突き合わせを繰り返しても判断がつかなかった箇所が残っています。原文と読み比べてください。
- 「光緒二十九年 冬十二月」「徳宗光緒二十九年(1903年)」の下にある「冬十二月」の記事は、西暦では1904年の初めにあたります。光緒二十九年十二月が西暦1904年1月下旬〜2月にかかるためで、見出しの括弧内の西暦は年号の始まりの年を示しています。この書は年号ごとに見出しを立てる方式のため、年末の記事では見出しの西暦と実際の西暦が1年ずれることがあります。
原文(底本)
德宗光緒二十九年冬十二月,因日本與俄羅斯開戰,宣告局外中立。甲午之役,俄復遼東於日人之手,名為還我中國,實則擴張勢力,視滿州為屬地。李鴻章赴俄賀加冕,俄皇𩚩之以恩,於是中俄密約成,斷送滿人祖宗發祥之地,且以啟各國覬覦紛爭之漸。拳匪既起,俄人一面與各國聯軍攻京津,一面進兵佔據黑龍江,遂自鐵道南下,分據三省城寨,部署官屬,建築城堡,政府莫能問也。和議開,俄人藉口中俄有有特別關係,堅持東三省事歸兩國另議,與都中事別為一談。列國和約既定,俄乃脅中國駐俄公使楊儒議另訂交還東三省條約,要索甚苛,鴻章將許之,於是關東各地全置俄國勢力範圍之下,而東南疆吏劉坤一、張之洞及各省士紳力爭,日本亦以前隙怨俄,乃會英美兩國力阻。另約遂不成,與立公約。其東三省撤兵期限,約定畫押六個月後,先撤盛京西南段至遼河兵,再六個月撤盛京其餘各段並吉林省兵,再六個月,撤黑龍江省兵。約既定,兩宮均回京,各國皆按約撤兵。而俄兵之據遼東者,獨不撤,反增兵重佔奉天等處。政府不敢出一言以相責問,雖外省督撫軍師有請戰之事,在下士論有義勇隊對俄同志會之舉,皆嚴旨謝絕之,而維倚賴日本與俄之協商。俄則借地方未靖,馬賊猶多,奉天增兵乃保衛鐵軌為辭,以相支吾。乃交涉決裂,兩國公使遂俱下旗歸國,刻期決戰。其戰線在中國及朝鮮界內,朝鮮介於兩大之間,於兩國戰事既不敢過問。中國新受大創,亦不敢問境內主權。門庭之內,聽人鬨爭,遂守局外之倒,宣告中立。 三十年,春正月,日本兵敗俄兵於鴨綠江,佔九連城、鳳凰城。當日俄未開戰之先,俄皇尼古拉士第二命其臣阿力喀塞克夫為遠東總督、海軍提督,詔曰:『繼自今,遠東責任悉歸阿,外部不必問也。』阿既履新,則一主佔據遼、韓之謀,告俄皇曰:『日本易與耳,雖外示憤張,必無戰事。』故是役以前,俄京無人策日本出於戰者。至決裂之前數日,俄皇猶告人曰:一切幸平善,日本怒氣終歸消滅,朕之朝代固太平之朝代也。諸親藩大公,(凡俄皇父行、大父行皆列爵大公)亦謂必無戰事,所領庫帑,名整軍,實大抵自肥,故在滿洲之俄軍,兵備不整,糧食缺乏,及知日本將出戰,何乃令駐京雷薩公使遊說當軸,翼令英、美、法各國公使當調停之任。英、美兩使皆拒絕之,遂至開戰。是西伯利亞東清兩鐵道因構造不甚完全,其輸送能力甚之,加之馬賊隨在與俄為難,運輸尤難其得力。然阿難狼狽不堪,外表鎮靜,一若不以日本為意者。迨至仁川一敗,旅順再攻,日人以魚雷入旅,薄具舟師。阿與諸將方張樂高會,而俄皇於其夕亦御樂部,於枼名園。及歸,得阿電,知所破壞皆新艦,始如夢境。俄后聞幾利親王受傷,慟甚而暈。是役也,俄之臺艦履沒,統帥淪亡,擊沉之驅逐艦將士無一生者,其第一等戰艦彼得阿怕羅司克中人,陣亡尤慘。除太平洋艦隊司令長官馬克羅甫提督外,計參謀長米拉司,副提督一,兵官二十三,教士一,副管駕一,兵丁等六百餘。又陸軍大佐一,同時陸軍亦挫於定州,具後鴨綠渡、安東下、九連克。鳳凰破,日麾所指,俄兵皆望風潛逃矣。 夏四月,日本兵於奉天之大孤山上陸,佔金州以困旅順。俄自出兵以來,將士皆不用命,無事時飲博滛凶,遇戰則督亂而不相救。自馬克羅甫戰役,俄皇以阿力喀塞克夫督師無功,特簡陸軍大將苦魯巴金代阿為海軍提督,並以黑海艦隊司令長官廓理羅甫繼馬克羅甫為太平洋艦隊司令長官。時皆至軍中視事,日本聯合艦隊司令長官伊東平八郎乃乘其防備未至,督軍節節前進。第一軍攻佔岫岩之大孤山,全師上陸,專向北進,名城要隘以次佔守,以絕旅順之援,所謂拊其背也。又分軍艦守港口,以杜俄兵之出而扼其吭云。 六月,日本兵佔大石橋、營口、牛莊及析木城、海城等處。上月,日本第二軍攻佔熊岳城,進陷藍平。是月,日軍進攻大石橋,俄人以第一、第二、第九、第三十五各師圍,及西伯利亞預備兵一師圍來拒。苦魯巴金親臨督戰,受重傷,軍士死者二千餘,餘遁去,為日軍追擊,極形狼狽,日軍遂佔領大石橋及附近一帶。是日,營口俄官聞大石橋受攻甚急,立率師往援,無效分道遁,營口同為日軍所佔據,進簿牛莊、析木城、海城,皆克之,俄軍死又五千餘。俄軍自出發以來,軍士皆嫉視政府,無鬬志,瓦房店之戰,俄軍甚為得勢,領將司他克堡大將以有利之可乘,令勿退,且以必勝勗之。眾曰:『必求勝者,若自取之,其退如故。』司他以手銃擊其顏行,而以末凡自轟其首以死。敗聞,俄皇憂憤,至廢寢食,其國內革命黨勢益猖獗,波蘭亦謀獨立。而新造兩巡洋艦竟有人欲謀炸毀。 秋八月,日本兵敗俄兵於遼陽城外,遂佔遼陽,又敗俄兵於沙河。日本第一軍既佔細河沿,分三隊進攻,連敗俄軍於湯河、紅沙嶺、大西溝、孫家砦、弓張嶺、雙廟子、石嘴子、大西蠻嶺、香山子、益友溪、孟家坊。第二軍敗俄軍於雷家堡、黑牛屯、余家臺、曹方屯、壞尾溝、新立屯、徐上堡,俄軍遂不支,向遼陽退。日兵亟追之,毀遼陽車站,迫壓俄軍至太子河右岸。俄軍擠入河內,死者甚眾,至是佔領遼陽全部。是役也,前後戰至十日之久,兩軍死傷以數萬計,為開戰以來之一大戰。 冬十一月,以俄國波羅的海艦隊東來,飭沿海各省戒嚴,日俄之戰已歷一年。自俄師清出遼陽,中國日望日俄之議和,俾歸我東三省。即各國公論,亦望日俄之將出於和,而俄人於遼陽戰敗之後,其於喪師失地之辱,若不甚措意,惟日夕籌備波艦東行之事,思大逞志於日本以雪恥。於是各國相顧失色,中國政府亦飭東南各省官吏戒嚴。 十二月,俄國旅順守將乞降於日本。日本海陸軍圍攻旅順,苦戰經年未下,始而仰攻,繼而堵塞,終而決鬬,大小數十戰皆無效。日軍於是年九月十八日大起總攻,預備在二十六日將其陷落,以作日皇誕辰之酧禮,然總不能滿望。至上月二十六日,俄力不支,自將礮臺及兵艦等悉數炸毀,於傍晚九時遣使齎書,詣日營投降。翌日,日軍乃木希典大將答書許之,訂期二十九日受俘。至是月初二日,收受始畢,共計武弁八百七十八,兵士二萬三千四百九十一。方五六月間,日軍之猛擊旅順也,守將司多塞爾將軍已欲降,為其下士官二百二十九人所逼,又勉守半年。至是,司多塞爾定於是月初七日,由青泥窪歸國。 三十一年,春二月,日本兵敗俄兵,佔領奉天省城。是役,自正月十六日開始鏖戰,迄是月初五日終,凡二十一日。日軍佔領奉天,於是俄軍咸向北退,據守鐵嶺為防禦地。計俄軍之與於是役者,共步兵三十萬零八百,騎兵二萬六千七百,大礮千五百六十八,為日俘虜約四萬數千,死傷者十一萬六千五百。日人死傷亦四萬二千二百餘。 日本兵連敗俄兵,佔鐵嶺及開原。鐵嶺位哈爾濱、遼陽間,時俄帥苦魯巴金已褫去滿洲軍司令長官之職,降為滿洲第一軍司令官。而代之以陸軍大將尼維趨。頗善戰,然新敗之師終不敵累勝之卒。方日軍之自奉天而北也,沿途敗殘俄兵,紛紛乞降,於是日軍長驅而進。是月十二日,佔鐵嶺,俄軍北退開原,日人分兵進攻,中途無一抵抗。十四夜,直入開原。翌晨,俄軍來襲開原,復為日軍擊退。 夏四月,俄國波羅的海艦隊,為日本海軍殲滅於日本海對馬島海峽。先是,俄人自波羅的海合三艦隊與一切運船,共計不下百艘,自上年七月鼓輪而東,異與日本為海上之角逐。日本東鄉大將聞之,時已為迎戰之準備,揚言:「第一期海戰事畢,於十一月下旬回國,而陰率所部聯合艦隊向西往接波羅的海艦隊。惟若邀擊太驟,則俄雖戰敗,不難入中立之地以求庇,不能使之全歸覆滅。或不然而邀擊太緩,則俄艡瞬已北進,將與其海參崴根據地相近,擊之亦未易有功。必俟其進退失據之地,主客互異之交,猝起擊之,然後可以一鼓而殲也。」故俄艦隊自歐洲出發以來,留於馬達加斯加者半年,游弋於安南者兩月,然後直北,過臺灣海峽,經中國洋面,而至對馬島海峽。而日艦則始終潛伏,其來南洋也聽之,共過臺灣海峽也聽之,其過中國洋面也亦聽之。迨至對馬海峽附近之沖之島,日艦隊始直出攻擊。俄艦奧斯頓盤亞()先為一礮所中,毀其司令臺,俄將福格斃焉。嗣復連中數礮,傷重而沉。餘艦雪蘇完利甘()、捺氣麻夫()、喇壘麻捺克(),亦受重傷。入夜,復被日驅逐艦隊及魚雷艇隊追擊,機關全損。翌晨,飄至朝鮮海面,為日艦信濃丸等所見,未及拘捕而沉。其那槐林()一艦,亦於戰時疊中魚雷四次,登時沉沒。旋日本新高、音羽兩艦搜擊俄艦蘇維忒勒那()於喜哥根海灣(),沉之。磐手、八雲兩艦,擊沉俄艦烏式攷()第四艦隊及第二驅逐艦隊,迫脅俄艦兌米脫蕩斯科()駛至歐林島東南海面(),觸礁而沉,其餘俄艦沉沒者,坎內士蘇槐羅敷、亞力山大第三、薄羅提諾(),根娒芝加、伊魯琴斯克(皆特別差遣船)五艘,及驅逐艦三艘。為日所捕者,奧黎爾、尼古拉士第一(),阿潑利尋、新加文(),渤濤完()五艘。不知下落者,受爾墨池()一艘。當坎內士蘇槐羅敷之將擊沉也,俄總司令官羅司諦司溫司開與其部下將士,改乘奧黎爾艦逃逸,至濱田海岸,為日艦俘獲。又第三艦隊司令長官海軍少將尼布格爾土夫,當日艦圍攻時,度不能脫,遂率軍士降。此外為日所俘者,海軍大佐納綺麻夫及士兵二千二百二十三,餘皆遏焉。計是役,俄有二十六艘之主力艦隊,至去其二十二。日艦沉沒,共魚雷艇三艘。兵士死傷,約一千四百人。說者謂此次之戰,誠為自古罕有之大海戰。 六月,日本兵連敗俄兵,佔庫頁島。是月初五日,日本艦隊抵庫頁海面,行掃海事畢,聯合海軍枝隊,即時登陸,攻佔沿海地方。翌晨,日艦隊往助陸軍進攻可殺克夫城,至時,俄軍已焚城遁,其地為陸軍所佔,窮迫俄軍至達里宜異西北之陣地,攻擊一日,至初十日,俄兵不支,向摩喀而退,於是庫頁南部全為日軍所得。復追蹤俄軍,連敗之於第一愛爾科夫、第二愛爾科夫、第三愛爾科夫、尼羅科夫、波戞台、亞力山大夫斯甘城、枯衣城、魯衣科夫、維德尼哥斯克、怕利烏大、陀崙南境等地,俄軍益憊不能支。二十八日,其司令長官利波諾夫,遂率其將校七十,兵士三千二百,同降於日軍,而日軍軍政,遂得施行於庫頁全島矣。 秋八月,日本與俄羅斯議和於朴子茅斯城。日俄自對馬海峽大戰後,美總統羅斯福出為調停,日俄皆允之。日外務大臣小村壽太郎、駐美使臣高平小五郎、俄國務卿式爾劉威第、駐美使臣羅善,同為議和專使,會議於美國之朴子茅斯,磋商將及一月,至是月初六日,和約始成,計共十條: 一、日本在朝鮮得有最大之權。 二、彼此撤退滿洲之兵。 三、將滿洲交還中國。 四、開放滿洲門戶。 五、庫頁島各得一半。 六、交出遼地租契。 七、割讓哈爾濱以南鐵路。 八、俄國可以經過滿洲之鐵路,改為商路。 九、俄國將供養俄俘之費,計日金百五十兆元,給與日本。以代賠償軍費。 十、日本得有在海濱捕魚之權。 計是役,自二十九年十二月至是月,戰爭厯二十九月乃定。 編者曰:歐之俄,亞之中,皆自號為大國者也。列強亦震於其國土具體之龎然,擬之曰「北方之熊」「東方之獅」。乃不十年間,而皆大敗於區區島國之日本,此其失敗之原因,究何在乎?吾人試於事定後準陸士衡辨亡之例,而原中俄兩國之敗,則其間同點甚多,民族之複雜同,政體之專制同,官吏之貪墨同,軍紀之腐敗同,文牘之虛飾同,財政之紊亂同。至其甚者,國主之受制母后,官邸之鬻賣軍職,亦無不同。且開釁以前,日人惟不輕於言戰,而戰備畢具;俄與中,則宣戰之詔,已達敵廷,始著手於戰事必要之準備,亦同。開戰以後,將領之不足任,軍士之不用命,軍中公犯淫博,戰敗固不救,反陷之,一軍小挫,萬夫膽裂,聞風走避,豕突狼奔,又無一不同。然則綜是數者觀之,又不待大東溝與對馬島兩次戰爭之結果,而中日之戰,日俄之戰,其所以勝負者已見,特世之人不之察耳。
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