清史紀事本末鉄道国有政策(鉄路国有政策)
要約
宣統三年夏四月、鉄路政策を宣示した。幹線は国有、支線は商民に任せ、従前批准の各案は一律取り消し、抵抗は違制の罪とする。発議は御史石長信、主導は郵伝大臣盛宣懐で、先に宣懐が載沢をそそのかし英米独仏四か国千万ポンドの借款契約を成立させ、なお日本の借款千ポンドで調停を図ろうとした。人民は成案を楯に代表を北京へ送ろうとした。
端方を粤漢・川漢鉄路督弁大臣、鄭孝胥を湖南布政使とした。湘粤川鄂の士民は、粤漢路はもと宣懐が米商合興公司に売り光緒二十八年に民が血と汗の資で贖い回したものだとして連合抗争し、諮議局常会に応ぜず工商も罷業した。四川・湖南の田租付加の株金、米塩捐・房捐を停めた。
五月、湖南巡撫楊文鼎が湘路は自弁でき借債に甘んじぬと代奏して叱責された。文鼎は密電で匪徒の煽惑には雷霆万鈞の勢いを要すと述べ、格殺勿論の諭が出た。四川総督署理王人文の接収見合わせの代奏も叱責された。川路公司・四川京官・日本の留学界は国有に反対し、四川人は納税拒否を議した。宣懐は騎虎の勢いで載沢から監国に説かせ成命不撤回の旨を得、川路公司の欠損を口実とした。
川・粤漢鉄路回収国有の方法を宣布した。趙熙・欧家廉の売路二十余款の弾劾、広東・湖北京官の連署弾劾、湖北諮議局の数千人集会にも政府は動かなかった。郵伝部は四か国と議した借款契約を奏上し宣懐に署名させ、宣懐は載沢・端方と南北東西の四大幹線を議定し、載沢は各省へ路事の集会を厳禁する通電を出した。
粤路公司は郵伝部に成命取り消しを電請し、十日に株主を集め、議長朱伯乾らが力争し湘鄂川と連合して堅持する等の五条を議定した。在米の広東人も国有を名とする各国所有だと憤激した。
四川の蕭湘、湖北の湯化龍、湖南の譚延闓らが連合して路を争った。甘大璋が川路株金を国有鉄道の附株にせよと呈請したので十万人が集まり懲戒を求め、蕭湘らは全蜀学堂で鉄路連合会を組織し、延闓らは都察院に代奏を請うて宣懐を弾劾した。化龍らは株券発給と三省商民の査帳検査権を求めたが許されず、張鳴岐は費景棠の起草した議案を告示で取り消し、広東人は憤って紙幣を銀に換えた。
宣懐と端方が権限を議定した。端方は湖南・四川の士紳と両湖在官の門生故吏を引き入れ、奕劻の許しを得て約法三章を立て、鉄路交渉は督弁大臣、借款交渉は郵伝部が担い、督弁大臣に事務員調用の特権を認めた。端方は疆吏に株券買収を電商したが、四省の士紳で商民を圧制するためである。
湖南教育会長黄忠浩らが諮議局に宣懐の売路誤国の討議を陳請した。忠浩の書は、湖南省境の粤漢路は塩斤口捐から贖路の款七百余万両を払って贖い戻した全湖南固有の権利である、幹線回収は資政院、商弁公司の取り消しは諮議局が議決すべきものなのにいずれも通さず、宣懐は新内閣制頒布の隙に三省公司の成案を取り消した、随時の命令で成法が改まるなら立憲ではない、と論じた。瑞澂は軍警の厳備を命じ、兵輪を遡らせて湖南の民に圧力を加えようとした。
宜昌の宜万鉄路分公司が工事停止で民変を起こし、瑞澂は総兵潘瀛・道呉筠孫に剿めさせた。分公司は工夫を解散し、資金を求める株主に公家が返済すべきだと答えたので、株主は公司の建物器物を壊し、防営が弾圧に向かうと数千人が抗拒して兵士二十余人を殺し、紳商の撫慰で引いて内閣に力争した。
六月、王人文が借款契約の失敗各点を弾劾したが返答はなかった。宣懐と端方は宜万・夔州の路工を米国技師に請け負わせ借款は四川財政を抵当とすると告げ、四川人は承認せず保路同志会を組織し、人文は会に臨んで四川と終始を共にすると誓い宣懐を弾劾したが疏は留められた。閏月、瑞澂の路線確定の奏請は聞き置かれた。端方は李穆勲に惑わされて川漢の路線を宜昌起漢陽から宜昌起広水に改め、穆勲を川路総弁とした。湖北の商会が運輸不便を抗争し瑞澂も掣肘のため奏上し、端方が収買方法の改定を言うと宣懐も疎んじ、端方は孤立した。
王人文が争路の風潮が全国に広がったと報じ処置を請うた。各府県が分会を設け、重慶では江西会館に一万五千余人が集まった。人文の奏を宣懐は故意の反対と疑って叱責させ、人文は紳民に暴動を戒めた。瑞澂・張鳴岐・趙爾豊・余誠格に各省の鉄路事宜を会弁させた。
秋七月、四川保路同志会は先帝の位牌を供えて朝夕哭臨し、学校は罷課、商賈は罷市し、各国領事は外務部に保護を求めた。玉崑・趙爾豊らの商弁復帰の奏請は許されなかった。代表劉声元は宣懐の罪を治めよと上書し、地安門外で輿を遮って逮捕され、烏珍に郷里へ送り帰された。端方は爾豊を庸懦無能と弾劾したが朝旨は端方に査弁を命じ、端方は恐れて進まず、宣懐の請いで湖北から兵を率いて入蜀するよう命じられた。鄭孝胥は路政参賛に調用され、趙炳麟は広東鉄路総弁を辞退した。広東人は香港で一万余人の保路会を開き劉少雲・梁楚三を代表に公推したが、宣懐は鳴岐に解散を電令した。再び上書した声元は四川へ送還管束され、送る千人に、路が亡べば四川が亡ぶと言った。
趙爾豊に争路の人民を剿めるよう命じた。四川人は端方の入蜀を聞いて憤り、十五日に代表が督署で阻止を求めたが、爾豊は怒って鄧孝可・顔楷・張瀾・蒲殿俊・羅綸ら九人を拘禁した。釈放を哀求する人民に田徴葵が発砲を命じ四十余人を射殺し、爾豊は四川人が争路に名を借りて独立を図ったと飛電した。省に近い各県の民団は多く官兵に焼き殺された。岑春煊は会同剿撫を命じられたが瑞澂と議が合わず病と称し、上海帰還を許された。瑞澂は蕭湘を漢口で捕らえた。
八月、鉄路接収を迅速に処理したとして瑞澂らを嘉奨した。武昌で民軍が起こり瑞澂は逃げ、武昌・漢陽・漢口は占領され重慶も危急を告げ、袁世凱を湖広総督、岑春煊を四川総督とした。王人文の川滇辺務大臣を撤去して趙爾豊を代え、端方を四川総督署理とした。李準は宣懐の病国殃民を、端方は人文の姑息醸乱を弾劾したが留められた。春煊は、治本は株を付けぬ者への一律返還、治標は李穆勲の撤去だと条陳した。九月、違法に私を行い大局を誤ったとして盛宣懐を免職した。資政院が変乱を激成したと弾劾したからで、奕劻・那桐・徐世昌および王人文・趙爾豊も処分を議させ、爾豊には士紳の釈放を命じ、田徴葵らを免職・遣戍に処した。
年表
宣統三年(1911年)夏四月、清朝は幹線鉄道を国有に帰し従前の商弁各案を取り消す政策を宣示した。発議は御史石長信、推進は郵伝大臣盛宣懐で、英米独仏四か国からの借款が背景にあった。湖南・広東・四川・湖北の士民は、自ら贖い戻し株を集めた路権を奪われるとして保路運動を起こし、楊文鼎・王人文ら督撫が代奏して叱責され、端方・鄭孝胥の起用、格殺勿論の諭、宜昌の民変、四川の罷市・罷課と趙爾豊による代表拘禁・発砲へと事態は激化した。武昌に民軍が起こると、政府は袁世凱・岑春煊を起用し、九月に盛宣懐を免職して資政院の弾劾に応じ、逮捕された士紳を釈放し、王人文・趙爾豊らを処分に付した。
年表(1件)
- 西暦1911年 末帝宣統三年鉄路国有を宣示し保路の抗争が四川・湖南に広がり盛宣懐が免職される
現代語訳全文
西暦1911年 末帝宣統三年
- 夏四月、鉄路政策を宣示した。幹線はいずれも国有に帰し、支線は商民が力量をはかって適宜に行うことを許す。従前に批准した鉄咱(「鉄路」の誤りか)の各案は一律に取り消し、もし抵抗する者があれば、ただちに違制の罪として論ずる、というものである。
- 鉄路国有は、これを言い出した者は御史の石長信、これを主導した者は郵伝大臣の盛宣懐であって、これが新内閣成立後の第一の政策であった。これより先、宣懐および載沢らは、英・米・独・仏の四か国から千万ポンドを借りようと企て、載沢はなお猶予していたが、宣懐が力を尽くしてこれをそそのかし、借款の契約がついに成立した。ここに至って、借款で鉄道を築くことを天下に宣示したのである。日本人もまた自国政府に要求して債権を得たいと願い、宣懐はさらに日本の借款千ポンドを借りてこれを調停しようと主張した。命令がすでに下ると、各直省の人民は、鉄道の商弁はすでに裁可された成案があるとして、それぞれ代表を挙げて北京に赴き抗議しようとした。
- 侍郎の官銜をもって端方を粤漢・川漢鉄路督弁大臣に充て、三品京卿の鄭孝胥を湖南布政使とした。当時、湖南・広東・四川・湖北の各省の士民は、みな「粤漢鉄路はもともと盛宣懐が私かに米商の合興公司に売り渡したものだ」と言った。光緒二十八年、各省の人民がこれを争い、血と汗の資を尽くすことを惜しまず、辛苦して経営し、ようやく回収して株を集め商弁とすることができた。それを今、政府は国有政策をもって民と利を争う。これは我らの生命財産を奪って外国人に引き渡すのに等しい、というので、連合して抗争した。
- その言と願いを上へ達しようとしたが、政府はすでに宣懐の言を容れ、兵威をもって人民を圧制することを主張していた。会員たちは群議して暴動を厳に戒め、ただ諮議局が年次の常会を開くのを待って、一律にその召集に応じないことにした。各省の工商もまた同時に罷業して抵抗を示した。政府はこれを憂え、端方がかつて湖南・湖北を巡撫したことがあるので、彼に頼って両省の人士を籠絡させようとし、端方を起用し直して粤漢鉄路督弁大臣とした。一方、孝胥は盛んに国有政策を唱え、論を著して憲報に載せていた。ここに至って、孝胥を湖南布政使とする命が出たのである。
- 四川・湖南両省で鉄道のために田租に付加して徴収していた株金を停止するよう命じ、ついで湖南出身の京官の奏請を許して、鉄道のために徴収していた米塩捐および房捐を停止した。
- 五月、湖南巡撫の楊文鼎が諮議局に代わって、湘路は自力で自弁でき、借債には甘んじないと奏したところ、旨を奉じて厳しく叱責された(「中飭」は「申飭」の誤りか)。当時、湖南省では保路の風潮が激烈で、万衆が一心であった。文鼎は他の変事が起こることを慮り、甘言をもって撫慰し、局の議を上申すると約束しながら、密かに政府へ電報して開会の情状を描き出し、匪徒が中にあって煽惑しているので、雷霆万鈞の力勢を挟むのでなければ威を示すに足りない、と述べた。宣懐もまたその説を力をこめて賛成し、そこで、抵抗する者はその場で殺しても罪を問わないという格殺勿論の諭が出た。
- 四川総督署理の王人文が諮議局に代わって、鉄路を国有に改める件について、しばらく接収を見合わせるよう命じられたい、と奏したところ、旨を奉じて厳しく叱責された(「中飭」は「申飭」の誤りか)。これより先、川路公司は湖南・湖北の争路の書簡や電報を受け取って全体が賛成し、四川出身の京官もまた再三集まって議し、国有および株本回収の説に堅く反対した。日本の留学界もまた「路存すれば与に存し、路亡べば与に亡ぶ」の議を力説し、四川人は租税を納めないことをもって抵抗の手段としようと議し、人文もまた政府があらわに輿情に背いているとして、慨然と代表を引き受けた。当時、宣懐は四か国借款によって騎虎の勢いとなっており、載沢を運動して監国に力説させ、ついに「鉄路を国有に改めるのは、勢いとしてすでに出した命を取り消すわけにいかない」との旨を奉じ、さらに前年に川路公司の人員が巨額の款を欠損し、また民の脂膏を剝ぎ取ってただ中飽に帰し、民を殃し国を誤ったことは人の皆知るところである、などの語を口実とした。四川の輿情は日ごとにますます激憤した。
- 川・粤漢鉄路を回収して国有とする詳細な方法を宣布した。
- 御史の趙熙・欧家廉が、宣懐が借債にかこつけて路を売ったことなど二十余款を弾劾して奏したが、返答はなかった。当時、広東同郷の京官が連署して、宣懐が朝廷の聴を蒙蔽し、権を侵し法に違ったことを弾劾した。湖北の京官の胡漢章らは連名で抗争して宣懐の罪状を一々数えあげ、湖北諮議局もまたビラを刊行して会議を召集し、集まる者は数千人、競って対応策を協議した。趙熙らはそこで上疏して申し上げたが、政府はやはり動かず、ただ原摺を宣懐に回して閲覧させただけであった。
- 郵伝部が、英・米・仏・独四か国の代表と議した川漢・粤漢鉄路借款の契約を奏上し、盛宣懐に署名を命じた。当時、宣懐は密かに載沢・端方と鉄路の方法を議定し、すでに完成した鉄道を根拠として、おおよそ四大綱に分けた。京漢線から南へ粤漢線に達するものを南幹とし、京張線から北へ恰克図に接するものを北幹とし、京漢線から東へ斉斉哈爾に接して琿春に達するものを東幹とし、正太線から西へ同蒲線に接して伊犁に至るものを西幹とする。載沢はそこで密かに監国に告げ、借款の契約について期日を促して署名承諾するよう請い、さらに各省へ通電して、集会して路事を妄りに議論することを厳禁した。
- 粤路公司が郵伝部に電報し、鉄路国有の成命を取り消すよう請うた。これより先、広東人は各省の争路が効を奏さないので、この月の十日に株主を公司に大いに集め、対応策を協議した。議長の朱伯乾および各地の代表は輿論を採り集めて、五条を議定した。「一、万衆一心となって商界の局面を保持する。郵伝部に電報して力争し、あわせて両広総督に代奏して挽回することを請う。湖南・湖北・四川三省の同志と連合し、最後まで堅持する。二、もし政府が先朝の成命に背くに甘んじ、官を遣わして粤路を強占するならば、広東人は協力同心して、妥当な対応を協議する。三、まず公司に機関部を設置する。四、およそ十五日に第二回会議を開く。五、商弁の宗旨がすでに定まった以上、董事の擬した五策は無効とし、投票による公決を要しない。」議が定まり、ここに至って部に電報して力争したのである。在米の広東人もまた会を開いて対応の法を謀り、その言葉は極めて憤激していた。ある者は「政府が債を借りて路を築くのは、名は国有というが、まさしく各国の所有であり、自らその人民を棄てて各国に与えるものだ。乱命には断じて盲従しがたい」と言い、またある者は「粤路の株銀はみなこの民の汗と血である。まさに先朝の成案を固く守るべきで、商路を刦奪する者があれば格殺勿論とすべきだ」と言い、またある者は「路が亡べば国が亡ぶ。政府が国を売ろうとしても、我ら広東人は断じて路を売ることはできない」と言った。あわせて「国は必ず自ら滅んで後に人が滅ぼすのだ」と唱え、この後の結末はまだ分からない、万一決裂すれば、在外の僑民はさまざまな対応を謀るべきである、と述べた。
- 四川の議員蕭湘・李文熙、湖北の議員湯化龍・張国鎔、湖南の議員譚延闓・黎尚雯・羅傑らが連合して路を争った。これより先、四川の紳士甘大璋が政府に迎合し、あろうことか私かに川路の株金を国有鉄道への附株とするよう呈請したので、人々は大いに憤り、期せずして集まった者は十万人、同郷の京官に電報して、大璋の名籍を削り、あわせて懲戒を加えて人心を平らげるよう請うた。蕭湘らは、路事は全局に関わり、群策群力でなければ功を成さないとして、北京の全蜀学堂で湖北・湖南両省の京官を招き、鉄路連合会を組織して一致して進めた。延闓らもまた都察院に電報して代奏を請い、盛宣懐の罪状を厳しく弾劾した。化龍らは、中書の鄭万膽が差し出した争路の公呈が効力を持たなかったので、たちまち方針を変訃(「変計」の誤りか)し、ひそかに民有の実効を収めることとして、商民の株金は政府に返還を求めず、これを鉄道株とし、株券を発給するよう要求し、あわせて郵伝部に対し、三省の商民が査帳会を設立して会計を検査する権利を持つことを許すよう要求した。その立論はきわめて穏和であったが、宣懐は許さなかった。思うにその意図は事業を把持するところにあり、商民に帳簿検査の権利を持たせまいとしたのである。
- 両広総督の張鳴岐が厳しく告示して粤路の株主会を解散させた。鳴岐は、粤路公司が会を開いて路事を協議した後、さらに在籍の編修江孔殷を使って董事らに意を授け、金融業者を運動して株券を抵当に入れさせ、三十万を得て、投票の多数を占めて株主を圧制しようとした。ちょうど潮汕鉄路総理の費景棠が会に臨み、局董の議案を見て、憤って堪えられず、衆はそこで景棠を議長に推し、あらためて日を定めて会議した。景棠が議案を起草した翌日、鳴岐は告示を出して開会を禁じ、議案を取り消した。広東人は大いに憤り、争って紙幣を持って官営銀行に赴き銀に換えた。華僑はこれを伝え聞き、私かに株券を外国人に属させて対抗手段にしようと議した。事は行われなかったが、これ以来ふたたび政府を信用しなくなった。
- 郵伝大臣の盛宣懐と督弁鉄路大臣の端方が鉄路の権限を議定した。端方は、湖南・四川の有力な士紳である金肇康・喬銜抩、および門生故吏で長く両湖に官として在り、かねて声望のある高凌霨・趙彦濱・馮啓君らを引き入れ、無形のうちに効果を収めようとし(「箕」は「冀」の誤りか)、私かに奕劻に謁見して、事務に就いた後は本省の路を弁ずる員紳を適宜に用い、とくに意見の対立を消し去りたい、と言った。奕劻は深くもっともだとして、便宜に人員を調遣することを許し、宣懐に端方と約法三章を立てさせて権限を明らかにさせた(「與文」は「與之」の誤りか)。「一、およそ曰省(「各省」の誤りか)の鉄路交渉はすべて督弁大臣が責任を負い、郵伝部は関与しない。二、以前の借款交渉は郵伝部が担当し、督弁大臣とは関わらない。三、督弁大臣は事務員を奏請して調用する特権を持ち、郵伝部は干与できない。」議が定まると、端方ははじめて身支度して都を出、各省の疆吏に電報して株券買収の方法を商議して定めた。応じたくない者には強制せず、国家の株券に換え与える、その性質は商弁とほぼ同じである、というもので、思うに四省の士紳を利用して商民を圧制しようとしたのである。
- 湖南教育会会長の黄忠浩らが、諮議局に対し、盛宣懐が路を売り国を誤った罪状を公に討議するよう陳請した。湖南省では鉄路の事が起こって以来、学堂が相次いで罷課し、人情は日に日に激昂し、巡撫の楊文鼎は格殺勿論の諭を持ち出して、いよいよ圧力を用い、学生が路事に干与することを厳禁した。忠浩はこれを聞いて大いに憤り、路事は宣懐によって破壊された、宣懐が一日去らなければ路事は一日定まらない、として、諮議局に上書し、政府に対して力争するよう請うた。その大略にいう。
- 「諮議局章程の職員権限第五款には、本省が担任する義務の増加を議決すること、第六款には、本省の章程規則の増補・削除・修正を議決すること、第七款には、本省の権利の存廃を議決することとある。調べてみるに、粤漢鉄路の湖南省境内の部分は米国の合興公司から贖い戻したもので、湖南が出した贖路の款は七百余万両、奏請して塩斤口捐の項から支払った。これは実に全湖南が負担した最大の義務である。五年を経て、二百八十余万両を徴収することを許され、奏上して商弁に帰してからは、さらに民間の株二百余万円を集め、その後、四川省に倣って租股百二十八万円、房捐株四万余円を徴収することを奏請して裁可された。この株券は優先・普通の二種と定め、年ごとに六厘の利息を保証し、将来公司が利益を得れば割合に応じて分配し、優先株にはさらに別に花紅の賞与を出して奨励する。これは全湖南が当然持つべき権利であり、すなわち湖南省固有の単独の事件である。
- 今、幹線を回収して国有とするのは、積極の面から言えば、もとより国家の行政であって、資政院が議すべき範囲に属する。しかし、この政策を行うことによって従前の商弁公司を取り消すのは、消極の面から言えば、実に諮議局章程に列せられた職員権限の第五・六・七款に当たり、諮議局が議決すべきものである。今回、幹線を国有に収めるにあたっては、ただ政策と定めたと言うだけで、国家の行政に属するものは資政院を通過させず、地方の権利義務に属するものもまた諮議局の議決に付さない。新内閣制が頒布されたばかりで、総理・協理が辞職したところに、盛宣懐はただちに幹線国有を運動し、これを政策と定め、三省の公司の動かぬ成案を取り消した。上を欺いて私を行い、憲政を破壊するもの、百の口があってもどう言い逃れできようか。
- 各国の議会を考えてみるに、既成の法を変更する案については(「問於」は「關於」の誤りか)、あらゆる議案の中でもとくに重く扱う。まことに法律は人民の生命財産の保障だからである。もし既成の法が随時の命令によって改められるなら、人民の生命財産は必ず莫大な危険を受ける。これは野蛮専制の国にあることで、『立憲』と称しながら、どうしてこのようなことをしてよかろうか。忠浩らの考えでは、諮議局章程はすでに先朝の欽定であるからには、内外の臣民が共に守るべきものである。今回、盛宣懐は聖聴を惑わし、ほしいままに外債を借り、商民が現に営む実業を横取りし、でたらめに政策と定めたと称している。国を病ませ民を殃するもので、もとより信じてはならない。たとえ政策と定めようとするにしても、まず内閣が提議し、先朝欽定の章程を吏改(「更改」の誤りか)し、資政院を通過させて、はじめて実行しうるのである。今は章程は章程、政策は政策で、成法は破壊され、民には従うところがない。この事が解決されなければ、将来、諮議局章程はすべて消滅しうる。路事について言っても、民有の幹線がすでに随時取り消せるのなら、民有の支線もまたどうして随時取り消せないことがあろうか。
- 現在、国勢は危うく、まさに民力に頼って共に実業を営むべき時である。今回、三省の商弁の成局を取り消すのは、名は政策の確定というが、人民の実業の生機を断ち絶やすに等しい。諮議局は人民の代表であり、限りない脂膏を尽くし、尽きせぬ手続きを費やしてきた。もし章程が無効であるなら、人民はどこに訖命(「託命」の誤りか)すればよいのか。諸公は路事についてすでに書簡・電報を盛んにやりとりされたが、もし争って効がなければ、右の理由を、一方では府院に呈して代奏を請い、一方では速やかに資政院に呈していただきたい。中外に宣示し、今後、諮議局章程はどの条が有効でどの条が無効となるのかを明らかにすることを乞い、あわせて盛宣懐が法律を破壊し国を誤り民を殃した罪を厳しく治めることを請う。」
- 書が上ると、文鼎が探り知って、急ぎ湖広総督の瑞澂に電報し、対応策を尋ねた。瑞澂の返電は、路事については一言も触れず、ただ軍・警各界に対して速やかに厳重に備え、革命党が機に乗じて煽惑するのを免れるべきだと言い、速やかに楚有の兵輪を派遣して遡らせ、圧力を湖南の民に加えようとした。
- 宜昌の宜万鉄路分公司が工事停止によって民変を引き起こし、湖広総督の瑞澂が宜昌鎮総兵の潘瀛、荊宜施鶴道の呉筠孫に檄して会同して剿めさせた。川漢鉄路の宜万の一段は、前年の冬に着工し、三十余里を築き上げ、工人は数千、その大半は土着の者であった。幹線国有の説が起こって以来、各省の路局は死力を尽くして争ったが、亦万分公司(「宜万分公司」の誤りか)は政府の意を迎え、工夫を解散し、建築を停止した。株主は群がり起こって詰問したが答えず、株主が競って公司に赴いて資金を求めると、路は国有に帰したのだから公家が返済を工面すべきで、公司に質問してはならない、と答えた。株主たちはますます憤り、素手で執事の者と打ち合うに至り、工人もこれに和した。公司の建物や器物はたちまち壊された。警察局が警兵を遣わして仲裁したが従わず、急ぎ宜昌の守に報告し、ただちに宜昌駐屯の防営に檄して隊を整えて弾圧に向かわせた。衆は威をもって民を脅すことに怒り、にわかに数千人が集まり、争って抗拒し、兵士二十余人を殺した。紳商は急報を聞いて急ぎ撫慰し、ようやく少し引き下がった。急ぎ会を開いて議決し、内閣に電報して力争した。守道の呉筠孫は急ぎ瑞澂に電報で報告し、そこで陸軍統制の張彪に諮って機を見て剿撫させた。彪は潘瀛に兵を率いて行かせた。
- 六月、王人文が盛宣懐の借款契約の失敗した各点を弾劾して奏したが、返答はなかった。これより先、盛宣懐と端方は人文に電報で、宜昌・夔州の路工は米国の技師に請け負わせることを認め、必要な借款は四川の財政を抵当とする、と告げていた。四川人は大いに騒ぎ、死を誓って承認せず、保路同志会を組織した。成立すると人文は会に臨み、四川人の誠実さに感じて、慨然として「諸君は熱心に国を愛しておられる。私がどうして一つの官位を惜しもうか。誓って四川の人々と終始を共にする」と言い、そこで疏を具えて盛宣懐が国を誤り民を殃した罪状を弾劾した。疏が上がると、宮中に留め置かれた。
- 閏月、瑞徴(「瑞澂」の誤りか)が路線を明確に定めて人心を安んじるよう奏請した。聞き置くとされた。端方は湖北に着き、四川人で郵伝部参議の李穆勲の言に惑わされて、川漢の路線を改めようとした。湖北省内では当初、宜昌に起こり漢陽に至るものと擬していたのを、宜昌に起こり広水に至るものに改め(「矩改」は「旋改」の誤りか)、穆勲を川路総弁とし、あわせて江西の道員呉清銘に三省の路線の調査を委ねた。湖北の輿論は大いに騒ぎ、商会は文書で抗争した。その大略にいう、湖北省境の路線が、いったい(「兒竟」は「究竟」の誤りか)宜昌に起こって広水に至るのか、それとも宜昌に起こって漢陽に至るのかは、全省の命脈に関わるから、必ず公論によって決めなければならない。もし宜昌・広水に改めれば、運輸はきわめて不便となり、経済も交通も支障が多い、と。民情の疑懼はいよいよ甚だしいと述べ、あわせて宜昌・漢陽路線の簡明な図説を添えて、瑞澂が代奏し、部に明白に宣示させて人心を安んじるよう要求した。瑞澂はもともと端方と折り合いが悪く、この書を得て大いに喜び、これを借りて端方を掣肘しようと考え、そのまま奏上した。事は郵伝部に下されたが、盛宣懐はもとより端方に肩入れした。ちょうど端方の電報が到着し、湖北に着いてからの種々の情形を述べ、あわせて、部が以前定めた路の収買方法は不都合な点が多く、詳しく協議して改める必要がある、と言い、また、外国商人が工事を請け負う以上、督弁も必ず参与しなければならない、と言った。宣懐は権を争われることを忌み、そこで彼を疎んじた。これより端方は孤立し、いよいよ鬱々として腕をふるう場がなくなった。
- 王人文が、四川人の争路の風潮がほとんど全国に広がっていることを報告し、処置の指示を請うた。厳しい旨で叱責された。四川で保路同志会が成立してから一か月たたぬうちに、各府県が分会を創設してこれに呼応した。重慶の人は、重慶は外郡とはいえ実は川路の中心点であり、商賈が集まり交通の要をきわめ(「杻」は「樞」の誤りか)、省会よりもなお重いと言った。郡の人々が江西会館に集会し、参加者は一万五千余人であった。人文は黙って民の志を窺い、抑えれば抑えるほど激しくなるので、衆情が順わないことをありのままに奏上した。宣懐は、人文が意図的に反対して、四川人がほしいままに脅しをかけるに至ったのだと疑い、旨を請うて厳しく叱責させた。人文は電報を受け取って憤慨きわまり、進退を賭けて争い、一方で紳民には暴動を起こさぬよう戒めた。
- 湖広総督の瑞澂、両広総督の張鳴岐、四川総督の趙爾豊、湖南巡撫の余誠格に、各省の鉄路の事宜を会弁するよう命じた。盛宣懐が、鉄路がすでに国有に帰した以上、各疆吏は成り行きを座視すべきではないとしたので、この命があった。
- 秋七月、四川の保路同志会が集まり、先帝の位牌を供えて朝夕に哭臨し、城中の学校は罷課し(「聞城」は「闔城」の誤りか)、商賈は罷市し、四川駐在の各国領事は外務部に保護の方法を講じるよう要求した。この月の一日、川路公司の株主が保路大会を開いて罷市を決議し、学堂もまた課業を停め、商民は徳宗の位牌を供えて哀を挙げた。南は邛州・雅州に至り、西は綿州に至り、北は順慶に及び、東は栄県・隆昌に達し、号泣の声は遠近に届いた(「逮邇」は「遐邇」の誤りか)。重慶は通商の口岸で、外国人の商業が集まる所であったから、各国領事は政府に照会して保護の方法を講じるよう請うた。将軍の玉崑、総督の趙爾豊らが連名で川路を商弁に帰すよう奏請したが、政府は許さなかった。
- 四川保路会代表の劉声元が上書し、盛宣懐の罪を厳しく治めて天下に謝するよう請い、逮捕されたが、まもなく釈放された。当時、四川の事態は日ごとに切迫し、四川同郷の京官が内閣に公呈して川路の現状を一々陳べ、あわせて往来の電文をまとめて呈し、速やかに方法を定めて人心を安んじるよう請うた。そのころ保路会代表の劉声元が北京に着き、政府の大臣は多く盛宣懐と親しいから、必ず宣懐のために庇い隠すであろう、直接監国に呈した(「逮呈」は「徑呈」の誤りか)ほうが民情が上達するかもしれない、と考えた。そこで二度監国に謁見しようとしたが、いずれも門番に拒まれた。声元は地安門の外に跪き、王が来るのを待って輿を遮って差し出したところ、逮捕して歩軍衙門に引き渡し訊問させることとなった。統領の烏珍はその誠を汲み取り(「監」は「鑒」の誤りか)、礼をもって声元を郷里に送り帰した。
- 端方が趙爾豊は庸懦無能であると弾劾して奏し、端方に兵を率いて四川に入り査弁するよう命じた。端方は電報で爾豊が路事を台無しにしたと弾劾し、瑞澂・袁世凱を代わりに推薦した。ところが朝旨はそのまま端方に四川へ赴いて査弁せよと命じた。端方は恐れて進まず、密かに盛宣懐に電報で相談し、宣懐は端方に湖北から兵を率いて四川に入らせるよう命じることを請うた。鄭孝胥は湖南に着いたばかりのころ、民気がまさに高まっていて圧力では勝てないと知り、官制の会議にかこつけて北京に帰っていた。ここに至って、端方が奏請して路政の参賛に調用し、裁可された。
- 度支大臣の載沢、郵伝大臣の盛宣懐が、御史の趙炳麟を広東鉄路の総弁とするよう請うたが、辞退して赴かなかった。この月の十一日、広東人は香港で保路会の成立大会を開き、参加者は一万余人、劉少雲・梁楚三を公推して争路の代表とした。代表が出発するとき、哀送会を開き、会員は白い衣冠でこれを送った。宣懐は張鳴岐に電令して保路会を解散させ、端方は広東の紳士顧世清を遣わして粤路を調査させた。四川の紳士羅崇齢は広州から三水に至る鉄道を専弁していたが、炳麟が人望の帰するところであるとして、載沢・宣懐に電報で相談し、炳麟を鉄路総弁とするよう請うた。炳麟は屈せず、辞退はきわめて堅く、政府がどのように勧めようと、どのように迫り促そうと、決して路事を引き受けないと言明した。当時、広州の士紳もまた炳麟を公挙して鉄路を督弁させようとしたが、炳麟はこれも厳しく退けた。
- 四川保路会代表の劉声元が再び上書し、慶親王奕劻に代奏を請うた。歩軍統領に交して四川の原籍へ送り返し、地方官に引き渡して厳しく管束させるよう諭した。声元は書を携えて慶親王の邸に至り、四川の危迫の情形を痛切に陳べ、盛宣懐をただちに罷免して罪を治めるよう請うた。奕劻は内心では宣懐の所為をよしとしなかったが、結局は声元を余計なことをする者と見た。まもなく四川へ押送する旨が出て、北京在住の四川人で別れに臨んで泣いて見送る者は千人であった。声元は慨然として「路が亡べば四川が亡ぶ。四川人は四川のために哭すべきで、声元のために哭すべきではない」と言った。聞く者はいよいよ慟哭し、護送の役人もまた涙を流してやまなかった。
- 趙爾豊に争路の人民を剿めるよう命じた。四川人は端方が兵を率いて入蜀すると聞いていよいよ憤り、この月の十五日、代表を公挙して総督の役所(「都署」は「督署」の誤りか)に赴かせ、端方の入蜀を阻むよう求めた。爾豊は代奏することを承知したが、これまでの代表が効を奏さず、端方らがかえってそれを口実にしたので、意地になってもう関わろうとしなかった。代表が泣いて再三懇願し、諮議局副局長の羅綸の言葉がやや激しく、衆がこれに和したので、爾豊は怒り、保路会会長で度支部主事の鄧孝可、株主会会長で編修の顔楷、貢生の張瀾、および諮議局局長で法部主事の蒲殿俊、挙人の羅綸、民政部主事の胡嶸、挙人の江三乗・葉秉誠・王銘薪らを、役所の中で拘禁した。人民は相次いで役所に至って釈放を哀求したが、統領の田徴葵が衙兵に発砲を命じ、四十余人を射殺した。爾豊は、四川人は争路に名を借りて独立を図り、あわせて自保商権書を発布して羅綸を首領に擁立したもので、その意図は変乱にあって路事とは関わりがない、と飛電して報告したので、この命があったのである。当時、省に近い各県の民団は多く官兵に焼き殺され、死者はきわめて多かった。
- 岑春煊に四川へ赴き、趙爾豊と会同して剿撫の事宜を処理するよう命じた。春煊は武昌に至ったが、瑞澂と譏(「議」の誤りか)が合わず、そこで病と称した。ちょうど爾豊が剿弁が首尾よく運んだと奏し、朝旨は春煊が上海に還ることを許した。
- 瑞徴(「瑞澂」の誤りか)が四川の紳士蕭湘を漢口で逮捕し、幽閉した。四川諮議局副議長で法部主事の蕭湘が、北京から漢口に来て路款を清算しようとした。瑞澂は彼が来たと聞き、湖北人を煽動することを恐れて、急ぎ兵と警察を遣わして江を渡らせ、漢口の鳳台旅館で逮捕して武昌府に引き渡し監視させた。
- 八月、湖北省内の粤漢・川漢鉄路の接収を迅速に処理したとして、瑞澂らに旨を伝えて嘉奨した。
- 袁世凱を湖広総督とし、岑春煊を四川総督とした。当時、武昌で民軍が起こり、瑞徴(「瑞澂」の誤りか)は逃げ、武昌・漢陽および漢口はいずれも民軍に占領され、重慶もまた危急を告げた。そこで世凱を起用し直して湖北を督させ、春煊には即日休暇を取り消して四川を督するよう促し、いずれも剿撫の事宜を督弁させた。
- 王人文の川滇辺務大臣を撤去して趙爾豊をこれに代え、また端方を四川総督署理とした。
- 広東提督の李準が、盛宣懐は国を病ませ民を殃していると弾劾して奏し、端方が、王人文は姑息にして乱を醸したと弾劾して奏したが、いずれも返答はなかった。人文は争路の事に当たったとき、力を尽くして人民を庇ったので、端方に深く忌まれた。準は四川人の立場で宣懐を攻撃したので、政府は彼が肩入れしていると疑った。摺が上がったが、いずれも宮中に留め置かれた。
- 岑春煊が四川の事について治本・治標の二策を条陳し、郵伝大臣に下して議させた。春煊は上海にあって政府に電報し、四川の事は本と標の二策に分けるべきだと論じた。治本とは、鉄路国有はもともと民を利するためのもので、民が株を付けることを許し、四川の民に少しでも損をさせるには忍びないのだが、ただ方法がやや性急に過ぎ、しかも湖南・広東などの省とあからさまに厚薄を分けた(「厚簿」は「厚薄」の誤りか)ために憤争を激成した、ということを明らかにし、四川の民のために朝廷の徳意を宣布し、株を付けたくない者には一律に返還することである。治標とは、まず李穆勲を撤去して四川人の心を慰めるべきだ、ということである。旨を下して盛宣懐に議奏させた。
- 九月、違法に私を行って大局を誤ったとして、郵伝大臣の盛宣懐を免職した。
- 資政院が、彼が法に違い権を侵して変乱を激成したことを弾劾して奏したからである。あわせて内閣総理大臣の奕劻、協理大臣の那桐・徐世昌を、その衙門に交して処分を議させた。
- 趙爾豊に、争路のために逮捕した士紳を釈放するよう命じ、あわせて王人文・趙爾豊を内閣に交して処分を議させ、道員の田徴葵らを免職・遣戍など、それぞれ差をつけて処分した。
原文(底本)
末帝宣統三年,夏四月,宣示鐵路政策。幹路均歸國有,枝路準商民量力酌行。從前批准鐵咱各案一律取銷,如有抵抗,即照違制論。鐵路國有,發之者,御史石長信。主之者,郵傳大臣盛宣懷,此爲新內閣成立第一政策。先是,宣懷及載澤等,擬借英、美、德、法四國千萬鎊,載澤尚猶豫,宣懷力慫恿之,借約遂成立。至是,以貸款築路宣示天下。而日本人亦要求其政府,願得有債權,宣懷復主張借日欵千鎊以調停之。命既下,直省人民以鐵路商辦,已奉有成案,擬各舉代表,赴京抗議。 以侍郎銜端方充督辦粵漢、川漢鐵路大臣,三品京卿鄭孝胥爲湖南布政使。時湘、粵、川、漢各省士民,皆謂粵漢鐵路始由盛宣懷私售美商合興公司。光緒二十八年,各省人民爭之,不惜竭血汗之資,慘淡經營,僅得收回集股商辦。今政府乃以國有政策與民爭利,是不啻奪我生命財產付諸外人,於是聯會抗爭。語願上達,而政府已入宣懷言,主張用兵威以壓制人民,會員羣議戒嚴暴動,但俟諮議局開常年會,一律不赴召集。各省工商亦同時罷業以示抵抗。政府患之,以端方嘗撫湘鄂,欲倚以籠絡兩省人士,乃起復端方爲督辦粵漢鐵路大臣,而孝胥盛倡國有政策,著論載憲報。至是,遂有孝胥爲湖南布政使之命。 命停止四川、湖南兩省鐵路租股,旋又允湖南京官奏請,停止因路抽收之米鹽捐及房捐。 五月,湖南巡撫楊文鼎代諮議局奏稱湘路力能自辦,不甘借債,奉旨嚴行中飭。時湘省保路風潮激烈,萬衆一心,文鼎慮有他變,因甘言撫慰,許以局議上復,密電政府,描繪開會情狀,謂有匪徒從中煽惑,非挾雷霆萬鈞之力勢,不足示威。宣懷亦力贊其說,乃有格殺勿論之諭。 署四川總督王人文代諮議局奏稱鐵路改爲國有,請飭暫緩接收,奉旨嚴行中飭。先是,川路公司得湘鄂爭路函電,全體贊成,川省京官復再三集議,堅持反對國有及收回股本之說。日本留學界又力主『路存與存,路亡與亡』之議,川人議以不輸租稅爲抗制,人文亦以政府顯拂輿情,慨充代表。時宣懷以四國借欵,勢成騎虎,因運動載澤力言於監國,遂奉旨以鐵路改歸國有,勢無反汗,且籍口上年川路公司人員虧耗鉅欵,並有剝削脂膏,徒歸中飽,殃民誤國,人所共知等語。川中輿情,日益激憤。 宣布川粵漢鐵路收回國有詳細辦法。 御史趙熙、歐家廉奏劾宣懷藉債賣路等二十餘欵,不報。時廣東同鄉京官聯署劾宣懷矇蔽朝聽,侵權違法。湖北京官胡漢章等聯名抗爭,歷數宣懷罪狀,鄂諮議局亦刊布傳單,召集會議,至者數千人,競籌對付之策。趙熙等因疏以入告,政府仍不爲動,僅將原摺發交宣懷閱看而已。 郵傳部奏上英、美、法、德四國代表所議川漢、粵漢鐵路借欵合同,命盛宣懷署押。時宣懷密與載澤、端方議定鐵路辦法,以已成鐵路爲根據,約分四大綱:自京漢南達粵漢爲南幹,京張北接恰克圖爲北幹,京漢東接齊齊哈爾達琿春爲東幹,正太西接同蒲至伊犁爲西幹。載澤乃密告監國,請於借欵合同,趣期署諾,復通電各省,嚴禁開會妄議路事。 粵路公司致電郵傳部,請收回鐵路國有成命。先是,粵人以各省爭路無效,於是月初十日大集股東於公司,籌策對付。主席朱伯乾及各地代表采摭輿論,定議五條:『一、萬衆一心,保持商界之局。致電郵傳部力爭,並請粵督代奏挽回。聯合湘、鄂、川三省同志,堅持至竟;二、倘政府甘悖先朝成命,遣官強佔粵路,粵人宜協力同心,妥籌對付;三、擬先就公司置機關部;四、約十五日開第二次會議;五、商辦宗旨既定,董事所擬五策作爲無效,毋庸投票公決。』議既定,至是電部力爭。旅美粵人亦開會謀對付之法,語極憤激,有云政府借債築路,名爲國有,直爲各國所有,自棄其人民以與各國,亂命斷難盲從;又曰粵路股銀皆斯民汗血,當執定先朝成案,有刦奪商路者格殺勿論;又曰:路亡國亡。政府雖欲賣國,我粵人斷不能賣路,並倡言國必自滅而後人滅,此後結局尚未可知,萬一決裂,僑民當謀種種對待云。 四川議員蕭湘、李文熙,湖北議員湯化龍、張國鎔,湖南議員譚延闓、黎尚雯、羅傑等聯合爭路。先是,川紳甘大璋迎合政府,竟私將川路股欵呈請作爲附股,衆大憤,不期而會者十萬人,電請同鄉京官削大璋名籍,並予懲戒,以平人心。蕭湘等以路事聯繫全局,非羣策羣力不爲功,乃於京師全蜀學堂延鄂、湘兩省京官組織鐵路聯合會,一致進行。延闓等亦電請都察院代奏,嚴劾盛宣懷罪狀。化龍等以中書鄭萬膽所上爭路公呈無效力,遂幡然變訃,隱收民有實效,擬定商民股欵,不向政府索回。作爲路股,要求發給股票,並要求郵部許三省商民立查賬會,有稽核度支之權。立論至爲和平,而宣懷不許,蓋意在把持,不容商民有查帳權利也。 兩廣總督張鳴歧嚴示解散粵路股東會。歧於粵路公司開會籌議路事後,復使在籍編修江孔殷授意董事等,運動金融業抵押股票,得三十萬,欲獲投票多數以壓制股東,會潮汕鐵路總理費景棠蒞會,見局董議案,憤不能平,衆遂推景棠爲主席,復訂期會議。景棠草定議案,翌日,鳴歧出示禁止開會,取銷議案。粵人大憤,爭持紙幣赴官辦銀行易銀。華僑聞風,私議將股票屬之外人以爲抵制,事雖未行,自是不復信任政府。 郵傳大臣盛宣懷與督辦鐵路大臣端方議訂鐵路權限。端方羅致湘、蜀有力士紳金肇康、喬銜抩及門生故吏之久官兩湖、夙有聲望者,高凌霨、趙彥濱、馮啟君等,箕收效於無形,私謁奕劻,言視事後,酌用本省辦路員紳,特在泯除意見。奕劻深然之,許其便宜調遣,令宣懷與文約法三章,籍清權限:『一、凡曰省鐵路交涉,統歸督辦大臣負責,郵部不必過問;二、以前借欵交涉,歸郵部擔任,與督辦大臣無涉;三、督辦大臣有奏調辦事人員特權,郵部不得干預。』既定議,端方始摒擋出都,電各省疆吏,商定收買股票辦法,不願意者,不予強迫,換給國家股票,性質與商辦略同,蓋思利用四省士紳,壓制商民也。 湖南教育會會長黃忠浩等陳請諮議局公討盛宣懷賣路誤國罪狀。「湘省自鐵路事起,學堂相繼罷課,人情日益激昂,巡撫楊文鼎舉格殺勿論之諭,益用壓力,嚴禁學生干預路事。忠浩聞之大憤,以路事破壞於宣懷,宣懷一日不去,路事一日不定,乃上書諮議局,請向政府力爭,略謂諮議局章程、職員權限第五欵:議決本省擔任義務之增加;第六欵:議決本省章程規則之增刪修改;第七欵:議決本省權利之存廢。查粵漢湘境鐵路向美國合興公司贖回,湖南派出贖路欵七百餘萬兩,奏由鹽斤口捐項下解付,此實全湘負擔最大之義務。歷經五年,許收二百八十餘萬兩,自奏歸商辦後又收集民股二百餘萬圓,嗣後奏準照川省抽收租股一百二十八萬圓,房捐股四萬餘圓。此項股票,定爲優先、普通二種,按年保息六釐,將來公司獲利,按成分攤,優先股則另提花紅獎勵,此爲全湘應有權利,亦即湘省單行事件。今幹路收歸國有,自積極言之,固係國家行政,屬於資政院應議之範圍,然因行此政策而取銷從前之商辦公司,是就消極而言,實係諮議局章程所列職員權限第五、六、七欵,應由諮議局議決者也。此次幹路收歸國有,但云定爲政策,其屬於國家行政者,既不由資政院通過,其屬於地方權利義務者,又不交諮議局議決。新內閣制甫頒,總協理方辭職,而盛宣懷即運動幹路國有,定為政策,取銷三省公司之鐵案,罔上行私,破壞憲政,百喙奚辭?攷各國議會,問於變更成法之案,視一切議案為特重,良以法律為人民生命財產之保障。若已成之法可依隨時命令更改, 人民生命財產必受莫大之危險,此為野蠻專制之國有之,號稱『立憲』,豈宜出此?忠浩等以為諮議局章程,既為先朝欽定,即為內外臣民所共守。此次盛宣懷熒惑聖聽,擅借外債,橫取商民現營實業,謬稱定為政策,病國殃民,固不得信。即欲定為政策,亦須先由內閣提議,吏改先朝欽定章程,交資政院通過,始得實行。今章程自章程,政策自政策,成法破壞,民無適從,此事不得解決,將來諮議局章程,皆可消滅。即就路事而言,民有幹路,既可隨時取消;民有枝路,亦何不可隨時取消?現在國勢阽危,正賴民力共營實業,此次取消三省商辦成局,名為確定政策,不啻遏絕人民實業生機。諮議局人民代表,竭無限脂膏,費無窮手續,倘章程無效,人民安所訖命?諸公對於路事,既已函電交馳,倘所爭無效,即請將上項理由一面呈請府院代奏,一面速呈資政院。乞宣示中外,此後諮議局章程,何條作為有效,何條作為無效,並請嚴治盛宣懷破壞法律、誤國殃民之罪!書上,為文鼎偵悉,急電鄂督瑞澂,詢對待之策,瑞澂覆電,於路事不置一詞,但謂對於軍警各界,亟宜嚴備,免致革黨乘機煽惑,速派楚有兵輪上駛,冀以壓力施諸湘民。 宜昌宜萬鐵路分公司以停工激成民變,湖廣總督瑞澂檄宜昌鎮總兵潘瀛、荊宜施鶴道吳筠孫會剿。川漢鐵路,宜萬一段,於上年冬間開工,築成三十餘里,工人數千,大半土著。自幹路國有之說起,各省路局以死力爭,而亦萬分公司希政府意,遣散工徒,停建築,股東羣起詰問,不答,股東競赴公司索資,答以路歸國有,應由公家籌還,不得向公司質問,眾股東益憤,至徒手與執事人相搏,工人和之。公司宇舍器皿立毀,警局遣警兵排解不服,亟白宜昌守,即檄駐宜防營整隊往彈壓。眾怒其以威刦民,陡集數千人,爭起抗拒,斃兵士二十餘。紳商聞警,亟事撫慰,始稍引去。亟開會議決,電內閣力爭,守道吳筠孫亟電白瑞澂,遂咨陸軍統制張彪相機剿撫。彪以潘瀛帶兵往。 六月,王人文奏劾盛宣懷貸款合同失敗各節,不報。先是,盛宣懷與端方電告人文,宜昌、夔州路工,準用美國工程司承辦,所需借款,以四川財政作抵。川人大譁,誓死不承認,乃組織保路同志會。既成立,人文蒞會,感川人誠摯,慨然曰:「諸君熱心愛國,吾何惜一官?誓與川人相終始!」遂具疏劾盛宣懷誤國殃民罪狀。疏入,留中。 閏月,瑞徴奏請明定路線以安人心。報聞,端方抵鄂,惑於川人郵傳部參議李穆勳之言,擬改川漢路線。鄂境初擬起宜昌訖漢陽,矩改起宜昌訖廣水,使穆勳為川路總辦,並委江西道員吳清銘調查三省路線。鄂中輿論大譁,商會因其書抗爭,略謂鄂境路線,兒竟起宜昌訖廣水,抑起宜昌訖漢陽,關係全省命脈,必須取決公論。設改為宜廣,運輸極為不便,經濟交通,亦多窒礙。民情疑懼滋甚,並附呈宜漢路線簡明圖說,要求瑞澂代奏,飭部明白宣示,以安人心。瑞澂本與端方不相能,得書大喜,思借以撓端方,遂據入以告。事下郵部,盛宣懷故左袒端方,適端方電至,述抵鄂種種情形,並謂部中前定收路辦法,多所不協,須詳加商改。又言洋商承工,督辦必須參預。宣懷忌其爭權,遂疏之,自是端方孤立,益鬱鬱無所展布。 王人文以川人爭路風潮幾遍全國入告,請示辦法。嚴旨申飭。川中保路同志會既成立,不一月,各府縣剙成立分會以應之,重慶人謂重慶雖外郡,實川路中心點,薈萃商賈,極杻交通,視省會尤重。郡人集會江西會館,與會者萬五千餘人,人文默覘民志,激而愈甚,因以眾情不順,據實入奏。宣懷疑人文有意反對,至川人肆意要挾,請旨嚴飭之。人文得電憤極,是以去就爭,而戒紳民勿得暴動。 命湖廣總督瑞澂、兩廣總督張鳴歧、四川總督趙爾豐、湖南巡撫余誠格,會辦各省鐵路事宜。盛宣懷以鐵路既歸國有,各疆吏不當坐觀成敗,故有是命。 秋七月,四川保路同志會聚,供先帝位,朝夕哭臨,聞城學校罷課,商賈罷市,各國駐川領事,要求外務部設法保護。是月初一日,川路公司股東開保路大會,決議罷市,學堂亦停課,商民供德宗牌位舉哀。南至邛雅,西訖綿州,北及順慶,東抵榮隆,號泣之聲,達於逮邇。重慶為通商口岸,外人商業所萃,各國領事因照會政府,請設法保護。將軍玉崑、總督趙爾豐等聯名奏請川路歸商辦,政府不允。 四川保路會代表劉聲元上書,請嚴治盛宣懷罪以謝天下,被逮,尋釋之。時川事日亟,川中同鄉京官公呈內閣,歷陳川路現辦情形,並將往來電文彙呈,請迅定辦法,以安人心。時保路會代表劉聲元抵京,以政府大臣,多與盛宣懷比暱,必為宣懷廻護掩飾,不如逮呈監國,民情或可上達。乃兩謁監國,皆為門者所拒。聲元跪地安門外,俟王至,即攔輿呈遞,令逮交步軍衙門訊問。統領烏珍監其誠,禮送聲元歸鄉。 端方奏劾趙爾豐庸懦無能,命端方帶兵入川查辦。端方電劾爾豐敗壞路事,保瑞澂、袁世凱以代之。而朝旨即命端方赴川查辦,端方懼不進,密電商之盛宣懷,宣懷請飭端方自湖北帶兵入川。鄭孝胥初抵湘,知民氣方張,未可以壓力勝,因假會議官制,返京師。至是,端方奏調參贊路政,報可。 度支大臣載澤、郵傳大臣盛宣懷,請以御史趙炳麟總辦廣東鐵路,辭不赴。是月十一日,粵人在香港開保路會成立大會,與會者萬餘人,公推劉少雲、梁楚三代表爭路。代表起啟程時,開哀送會,會員白衣冠送之。宣懷電令張鳴歧解散保路會,端方遣粵紳顧世清調查粵路。川紳羅崇齡專辦廣州至三水鐵路,復以炳麟為人望所歸,電商載澤、宣懷,請以炳麟總辦鐵路。炳麟不為屈,辭甚堅,宣言政府無論如何勸勉,如何迫趣,決不擔任路事。時廣州士紳亦擬公舉炳麟督辦鐵路,炳麟亦峻卻之。 四川保路會代表劉聲元再上書,請慶親王奕劻代奏。諭交步軍統領遞回四川原籍,交地方官嚴加管束。聲元齎書至慶邸,痛陳川中危迫情形,請將盛宣懷立予罷斥治罪。奕劻心雖不善宣懷所為,究目聲元為多事,未幾即有押解四川之旨,旅京川人臨歧哭送者千人。聲元慨然曰:「路亡川亡,川人宜哭川,不宜哭聲元。」聞者益慟,解役亦泣涕不已。 命趙爾豐剿辦爭路人民。川人聞端方督兵入川,益憤,是月十五日,公舉代表詣都署,求阻端方入蜀,爾豐允為代奏,繼以前此代表無效,端方等反資為口實,遂負氣不欲再為過問。代表泣懇再四,諮議局副局長羅綸語稍激,眾和之,爾豐怒,遂拘保路會會長度支部主事鄧孝可,股東會會長編修顏楷,貢生張瀾及諮議局局長法部主事蒲殿俊,舉人羅綸,民政部主事胡嶸,舉人江三乘、葉秉誠、王銘薪等。於署中,人民相率至署哀求釋放,統領田徴葵命衙兵開鎗,擊斃四十餘人。爾豐以川人藉爭路為名,希圖獨立,並發布自保商權書,擁戴羅綸為首領,意在變亂,與路事無涉,飛電入告,故有是命。時近省各縣民團多為官兵焚殺,死者甚眾。 命岑春煊前往四川,會同趙爾豐辦理剿撫事宜。春煊至武昌,與瑞澂譏不合,遂稱疾,會爾豐奏剿辦得手,朝旨許春煊還上海。 瑞徴逮川紳蕭湘於漢口,幽之。川諮議局副議長法部主事蕭湘,自京至漢,清理路款,瑞澂聞其來,懼其鼓動鄂人,亟遣兵警渡江,就漢口鳳臺旅館逮交武昌府看管。 八月,以接收湖北境內粵漢、川漢鐵路辦理迅速,瑞澂等傳旨嘉獎。 以袁世凱為湖廣總督,岑春煊為四川總督。時武昌民軍起,瑞徴遁,武昌、漢陽及漢口,俱為民軍所佔領,重慶亦告急,乃起復世凱督鄂,促春煊即日銷假督川,均著督辦剿撫事宜。 撤去王人文川滇邊務大臣,以趙爾豐代之,又以端方署川督。 廣東提督李準奏劾盛宣懷病國殃民,端方奏劾王人文姑息釀亂,皆不報。人文當爭路掌事,力庇人民,為端方所深忌,凖以川人攻宣懷,政府疑其左袒。摺上,皆留中。 岑春煊條陳川事治本治標二策,下郵傳大臣議。春煊在滬,電致政府,論川事當分本標二策。治本者,當申明鐵路國有,本以利民,許民附股,未忍使川民稍受虧損,特以辦法稍涉操切,且與湘、粵等省顯分厚簿,因而激成忿爭。為川民宣布德意,有不願附股者,一律發還;治標者,則宜先撤李穆勳,以慰川人之心。諭交盛宣懷議奏。 九月,以違法私行,貽誤大局,革郵傳大臣盛宣懷職。 資政院疏參其違法侵權,激生變亂也,並將內閣總理大臣奕劻,協理大臣那桐、徐世昌,交該衙門議處。 命趙爾豐釋放因爭路被捕士紳,並將王人文、趙爾豐交內閣議處,道員田徴葵等革職、遣戍有差。
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