清史紀事本末民軍の起事と退位の詔(民軍起事及下詔辞位)
要約
宣統三年秋八月、武昌で民軍が起こり、第二十一混成協統の蔡元洪を推して都督とし、総督の瑞澂は逃げ、武昌・漢陽・漢口鎮はみな占領された。三月の広州の革命軍の影響が湖北に及んで戒厳が下り、八月初旬、革命党挙事の密電を受けた瑞澂は張彪・鉄忠らに捜索させ、爆弾・拳銃を発見して五十余人を捕らえた。十八日夜、劉汝夔・楊宏勝・彭楚藩を斬り、朝旨は嘉奨した。十九日夜、工程第八営左隊が排長・隊官を射殺し、工程隊と歩兵隊が呼応して城外の砲隊・馬隊を入城させ、楚望台の軍械局を奪って督署を攻め、瑞澂ら大官は楚豫の兵輪に走り、張彪らも営を棄てた。
翌朝、漢陽・漢口と兵工廠を下し、元洪を都督、湯化竜を総参議とし、諮議局を軍政府として民を安んじた。漢口の各国領事には、独立の国体と承認して干渉しなければ外国人の生命財産と租界の治安を保護し、独立宣告以前の外債・賠償金は履行するが以後の借款は承認しないと照会した。領事らは交戦国として承認し、ロシア領事は瑞澂を匿ったとの謡伝を否み、米国がまず中立を宣告し、英仏・露日が続いた。
二十一日、蔭昌に二鎮を率いさせ、薩鎮冰・程允和を続かせ、瑞澂・張彪を免じつつ瑞澂には総督署理を命じ、秋の演習と巡防隊の裁減を止めた。二十三日、袁世凱を湖広総督、岑春煊を四川総督として剿撫を督弁させ、二十四日、北京は戒厳となった。
九月一日、長沙では焦大竑と陳作新が新軍を率いて小呉門・湘春門から入り、黄忠浩ら四人が殺され、余誠格は逃げ、翌日、大竑を都督、作新を副都督に公推し、四十九標を発して湖北を援けた。二日、九江では徐世法が新軍を運動して呼応の準備をさせ、馬毓宝が衆を率いて起こし、道府の官は逃げ、毓宝を都督とした。同日、西安でも新軍と防営が藩庫・軍装局を占め、銭能訓は逃げ、張鳳翙を都督としたが、旗兵が大砲で学生四百余人を殺したため旗人殺戮が起こった。広州将軍署理の孚琦は三月十日に温生材に撃ち殺され、代わって四日に着いた鳳山も周之貞に撃たれて爆死した。袁世凱に欽差大臣を授け、馮国璋を第一軍総統、段祺瑞を第二軍総統とし、蔭昌を召還した。八日、太原では姚維藩が襲い入り、巡撫の陸鍾琦とその子の陸光熙ら四人が殺され、駐防城も破られ、閻錫山を都督とした。
瑞澂は上海へ逃げたので張人駿に捕らえさせた。詔を下して自らを責め、親貴を要地に用いて憲章にそむき、路事を誤り、民の財を取るのみで民を利さず、下の怒りも迫る禍も知らなかったと言い、党禁を解いて政党への改組を許した。九日夜、雲南省城の新軍が起こって電報局・軍械局などを占拠し、翌日昼ごろ全城が定まって蔡鍔を都督とし、李経義は先に避け、鍾麟同ら三人は殺された。十日夜、南昌が独立して呉介璋を都督とし、馮汝騤は印を渡した後に自殺した。袁世凱を内閣総理大臣、魏光燾を湖広総督とした。長沙では大竑を忌む者が軍費私消の噂で軍隊を煽り、十日、偽りの騒擾に誘い出した作新を東嶽宮廟前で殺し、大竑も殺され、譚廷闓を都督とした。
灤州の張紹曾が藍天蔚らと立憲実行と議院の憲法制定を電奏したので、資政院に起草を命じ、十三日、重大信条十九条を宣示し、張紹曾を宣撫大臣とした。十四日、貴陽が独立して楊藎誠を都督とした。十三日夜、杭州では新軍が撫署を焼き占め、増韞は境外へ送られ、将軍の福済は降り、貴林ら四人は殺され、旗人は民籍に入り、湯寿潜を都督とした。十五日、蘇州は程徳全を都督として光復し、上海はすでに陳其美を都督としていた。十七日夜、蔭昌を弾劾して憎まれた呉禄貞が、良弼・周符麟のはかりごとで石家荘で刺殺された。汪兆銘ら三人は党禁解除で釈放された。同日、桂林は沈秉堃が自ら独立して都督となり、安徽は諮議局が五条を議して十八日に独立し朱家宝を臨時都督とし、広東は張鳴岐が香港へ去ったので胡漢民を臨時都督とした。十八日夜、福州では旗兵の放火に新軍が許索智を総司令として旗営に宣戦し、松寿は自尽、樸寿は殺され、孫道仁を都督とした。二十一日夜、決死隊に各艦が呼応し、「鏡清」以下十四隻が鎮江の林述慶に帰属した。山東は諮議局の八条を政府に許され、二十一日、孫宝琦を臨時都督とした。
江浙滬の民軍は徐紹禎を聯軍総司令として南京に迫ったが、張勲は城を閉ざして千人を下らぬ者を殺し、十九日の雨花台攻撃は利あらず鎮江へ退いた。桂林の兵変で沈秉堃は去り、陸栄廷を都督とした。奉天は軍界が賛成せず保安会を設けて趙爾巽を会長とし、吉林・黒竜江も倣った。江西は呉介璋が職を解いて彭程万を臨時都督としたが、のち馬毓宝が南昌で任を継いだ。張謇・湯寿潜ら十二人を各省に分遣して政治改革の趣旨を宣布させ、代表を北京へ送らせた。二十四日、安慶では潯軍が軍費要求から都督府を焼いて庫金を掠め、朱家宝は城壁を伝って逃げ、防営も紳富や商会を掠奪した。二十六日、袁世凱が入閣して梁敦彦ら各大臣を推し、九江の海容・海籌・海琛も民軍政府に帰順した。
冬十月、二日に重慶、七日に成都が独立して蒲殿俊を都督とし、馮国璋は漢陽克復の功で二等男爵を賞された。端方は陝西へ走ろうとして資州で湖北の軍士に斬られた。各省民軍政府は伍廷芳を外交総長とし、湖北軍政府を中央軍政府に公推した。山東は宝琦が奕劻と袁世凱に責められて独立を取り消し、張広建が巡撫に代わった。庫倫は独立して三多を逐った。程徳全は海陸聯軍総司令長となり、孝陵街で王有宏を斃し、北極閣を砲で破って防軍三千余を死傷させ、十二日、防軍が降って聯軍は入城し、張勲は徐州、張人駿・鉄良は青島へ逃げ、翌日、程徳全が江蘇都督として南京に移った。河南は宝棻を解いて斉耀琳を代えた。武漢で南北は停戦を重ね、載沣は醇親王として藩邸に退き、世続・徐世昌を太保とし、断髪は自由となり、袁世凱は唐紹怡を全権代表として伍廷芳と上海で和議させた。張錫鑾が娘子関に攻め入り、閻錫山は逃げて太原を棄てた。十八日、成都では先鋒隊三千余が軍費を求めて官を殺し庫を掠め、損失は一千万以上に上り、蒲殿俊らは去り、尹昌衡が誓師して乱兵を掃除し、推されて都督となった。馮国璋を禁衛軍総統官、良弼を軍諮使とした。
十一月三日、成都の民軍は総督署に拠る趙爾豊を捕らえ明遠楼の傍らで殺した。安徽は李烈鈞が乱兵を除いた後、孫毓筠を都督とし、広東は胡漢民が孫文に従い上海へ赴いたので陳炯明が都督を摂した。臨時国会で政体を公決させる諭が下ったが、十日、十七省代表が江寧で孫文を臨時大総統に選び、十三日、孫文は南京で就任し、太陽暦に改めこの日を民国元年の元旦とした。江蘇は程徳全の病により荘蘊寛が代理し、袁世凱は国民会議召集の方法を認めず唐紹怡の代表を取り消した。黎元洪が副総統に選ばれ、伊犁では広福を都督とし、志鋭が死んだ。三十日、袁世凱は王府井大街で爆弾に遭ったが負傷せず、袁金標ら六人が死に、張先培ら三人は絞首された。十二月、袁世凱は一等侯爵を固辞した。八日、彭家珍の爆弾に倒れた良弼は蘇って、私を殺した者は立派な英雄で私を知る者だと言い、党人釈放も国会開設も禁軍を率いる願いも容れられなかった、私が死ねば清朝もまた滅びようと語り、十日に死んだ。段祺瑞ら四十六人が共和を電請すると、隆裕太后は、一姓の尊栄のために万民に実際の禍を貽すに忍びようか、ただ宗廟陵寝・皇室の優礼・皇族の安全・八旗の生計・蒙古回部チベットの待遇は予め計るべきだと諭し、袁世凱に全権を授けて協議させた。条件は、尊号を廃さず外国君主の礼で遇し、毎年四百万両を支出し、宮禁に居らせ、宗廟陵寝と私産を保護し、禁衛軍を陸軍部に帰す皇室八条、世爵存続・公私権の国民同等・兵役免除の皇族四条、漢人との平等・王公の生計・八旗の俸給支給・制限撤廃・信仰の自由などの満蒙回蔵七条である。太后は皇室会議を重ね、十九日、詔を下して辞位を決し、二十五日、帝は退位した。満洲が中国に入って主となってから二百六十八年、ここについに亡んだ。
年表
宣統三年(1911年)秋八月、武昌に民軍が起こり黎元洪を都督に推して瑞澂が逃れ、武漢三鎮が占領されたことに始まり、清朝滅亡までを記す。湖南・江西・陝西・山西・雲南・貴州・浙江・江蘇・広西・安徽・広東・福建・四川などが相次いで独立し、海軍各艦も帰順した。朝廷は蔭昌を派し、ついで袁世凱を欽差大臣・内閣総理大臣に起用し、罪己の詔を下し党禁を解き憲法十九信条を頒布したが挽回できず、呉禄貞・良弼らが刺殺され、端方・趙爾豊も殺された。民軍は南京を陥れ、代表が孫文を臨時大総統に、黎元洪を副総統に選挙し、袁世凱は唐紹怡・伍廷芳を通じて和を議した。十二月、隆裕太后は袁世凱に全権を授け、皇室優待八条などを議定のうえ詔を下し、二十五日に帝が退位して、入関以来二百六十八年の清は亡んだ。
年表(1件)
- 西暦1911年 末帝宣統三年武昌の挙兵から各省独立を経て隆裕太后が詔を下し帝が退位する
現代語訳全文
西暦1911年 末帝宣統三年
- 秋八月、武昌で民軍が起こり、第二十一混成協統の蔡元洪(「黎元洪」の誤りか)を推して都督とし、総督の瑞澂は逃げた。武昌・漢陽および漢口鎮はいずれも民軍に占領された。この年の三月ごろ、革命軍が広州で事を起こし、影響が湖北に波及し、瑞澂はただちに戒厳令を下したが、久しくして静まっていた。この月の初旬に至り、瑞澂は政府の密電を受け取った。革命党が武漢で事を起こそうとしているから、いっそう注意して防範せよ、というのである。瑞澂は第八鎮統剚(「統制」の誤りか)の張彪、巡防統領の陳得竜、巡警道の王履康、軍事参謀の鉄忠らに命じて厳しく捜索逮捕させ、英・露両租界、小朝街、黄土坡、千家街、総督署のいたる所で、随時に党人の行動の跡や爆弾・拳銃などの物品を発見し、前後して五十余人を捕らえた。
- 十八日の夜、劉汝夔・楊宏勝・彭楚藩ら三人を都督の前で斬り、電奏が北京に届くと、朝旨は嘉奨した。十九日の夜、工程第八営の左隊が突然騒ぎ立ち、排長・隊官数人を射殺した。そこで工程隊の全隊および歩兵隊が同時に呼応し、さらに城外に駐屯する砲隊八標・馬隊八標を迎え入れて入城させ、まず楚望台の軍械局・輜重営を奪い、火を放って都督(「督署」の誤りか)を攻めた。瑞澈(「瑞澂」の誤りか)・鉄忠履・康輿藩・司連甲(「鉄忠」「王履康」「藩司連甲」の誤りか)は、あわてて楚豫の兵輪に乗った。張彪・得竜もまたそれぞれ営を棄てて逃げ、民軍はついに武昌を占領した。
- 翌朝、兵を分けて漢陽・漢口および兵工廠を下し、元洪を推して都督とし、諮議局議長の湯化竜を総参議、議員の張園溶・夏寿康を副参議とした。そのまま諮議局を軍政府とし、告示を出して民を安んじ、秩序は整然としていた。さらに漢口駐在の各国領事に照会して、その大略にいう、貴領事がもし軍政府を独立の国体と承認し、干渉を加えないのであれば、外国人の生命財産および租界の治安は、軍政府が保護を引き受ける。独立を宣告する以前に満洲政府が借りた外債および賠償金は、いずれも約に従って履行するが、以後に借款があれば、これは承認できない、と。
- 各国領事は会商して、ただちに交戦国として承認した。ついで漢口駐在の領袖領事であるロシア領事の照会を受け取った。いわく、「このごろ謡伝によれば、湖北都督の瑞澈が租界に隠れ、本署に保護を求めたという。これを聞いてまことに怪しむべきである。ひそかに思うに、本総領事は命を奉じて漢口に駐在し、ただ交渉の事宜を取り扱うだけで、その他はいっさい干与しない。ましてこのたびの民国軍が義挙を興したことについては、本領袖はすでに集まって議し、みな中立を守り、双方いずれも助けないことを決定している。鞏獲(「倘或」の誤りか)、群疑が解けないならば、本駐団に来て密かに調べられてよい。ここにこの声明をもって疑いの塊を解き、あわせてそれぞれ本国政府に電報しておく。」各国政府はみな賛成し、米国がまず中立を宣告し、英・仏がこれに続き、露・日もまた続いた。
- 二十一日、朝廷は陸軍大臣の蔭昌に二鎮の兵を率いて湖北に赴かせ、海軍提督の薩鎮冰に兵を率いて続かせ、長江提督の程允和に水師を率いて救援に赴かせた。瑞澈・張彪を免職したが、なお瑞澈に総督署理を命じ、罪を帯びたまま功を立てさせることとし、あわせて秋の演習を中止させた。また各省に緑営・巡防隊の裁減を見合わせるよう命じた。三十三日(「二十三日」の誤りか)、前の軍機大臣袁世凱を起用し直して湖広総督とし、岑春煊を四川総督とし、いずれも剿撫の事宜を督弁させた。二十四日、北京は戒厳となった。
- 九月、湖南の長沙で民軍が起こり、焦大竑を推して都督、陳作新を副都督とした。防営統領で総兵の黄忠浩が死んだ。これより先、湖南巡撫の余誡格(「余誠格」の誤りか)は湖北の急報を聞いて(底本は「間」に作る。「聞」の誤りか)から、すでに新軍を城外に移して駐屯させ、防範はかなり厳重であった。当時、湖北省は孤軍で支えており、各省は互いに様子をうかがっていて、その情勢はきわめて危うかった。忠浩はさらに省外の巡防各隊を呼び寄せて湖北の軍を撃とうとした。大竑はそのとき長沙の城内におり、これを聞いて憤然として言った。「中国の存亡はこの一挙にかかっている。死生をこれに賭けるのだ、ためらって何とする。」そこでこの月の一日、新軍と連絡し、道を分けて省城を攻めた。一つは陸軍砲営で、大竑が自らこれを率い、東の小呉門から入った。一つは陸軍標営で、作新がこれを率い、北の湘春門から入った。小呉門を守る巡防営はなお力を尽くして抵抗したが、大竑が彼らに諭して「我らは同じ漢族の同袍ではないか。何も苦しめ合うには及ぶまい」と言うと、防軍はそのまま門を開けて入れた。城外の新軍はまっすぐ軍械局に赴き、銃器・弾薬を捜し出し、合流して巡撫の役所に向かった。忠浩はそのとき役所の中におり、変事を聞いて出て阻もうとしたが、すでに新軍に殺されていた。勧業道の曾綬若、営務処の王毓江、長沙県の沈瀛もみな殺された。城格(「誠格」の誤りか)は界(「署」の誤りか)の後ろから逃れ出て水師の営に駆け込んだが、水師もまた白旗を掲げていたので、湘帆の小輪に乗って逃げた。翌日、軍・学各界が諮議局で大会を開き、大竑を公推して都督、作新を副都督とした。大竑は事を引き受けた後、湖北の事態が急であると知って、急ぎ四十九標を発してこれを援けた。
- 江西の九江で民軍が起こり、第五十三標標統の馬毓宝を推して都督とした。はじめ、武漢の営の報せが九江に届くと、砲台営官の徐世法が新軍を運動して呼応の準備をさせ、毓(「毓寶」の脱字か)はそこでこの月の二日、衆を率いて事を起こした。まず金鶏坡の砲台が砲を三発鳴らし、次に各営が銃を三発撃ってこれに応じた。そこで九匯道(「九江道」の誤りか)の保桓、知府の璞良、防営統領の張検はみな逃げ去り、民軍はただちに道署の中に駐海軍政府(底本は「設駐海軍政府」に作る。「駐海」は衍字か)を設け、毓宝を挙げて都督とし、軍務を主宰させた。九江の砲台はことごとく世法の統轄に帰した。
- 陝西の西安で民軍が起こり、張鳳翙を推して都督とした。陝西の民党は、武漢が独立し、天子の車駕が陝西に避難しようとしていると聞き、先手を打とうとはかり、そこでこの月の二日、白旗を掲げて事を起こした。新軍がまず起こることを謀り、防営がこれに応じ、省の役所に駆け込んで、まず藩庫を占め、進んで軍装局を占拠した。巡撫の銭能訓は急報を聞いて逃げ、その他の官吏は逃げる者もあり降る者もあったが、商民は従来どおり安んじていた。軍政府から満・漢・回の民を一視同仁にする意を宣告し、学生隊の代表を将軍の役所に遣わして一切を協議させた。ところが旗兵が反抗し、大砲で学生四百余人を撃ち殺したので、人々は大いに憤り、そこで旗人を殺戮する事が起こった。
- 広州将軍の鳳山が刺殺された。この年の三月十日、広州将軍署理の孚琦が広州の東門外に出て、フランス人が飛行船を飛ばすのを見物し、帰って諮議局の前、麒麟閣の門のあたりで、嘉慶州の人温生材に銃で撃ち殺された。朝廷は鳳山に赴いてこれに代わるよう命じた。鳳山はこの月の四日に広東に着き、上陸したばかりで南倉関前の首約という地に至ったところ、順徳県の人周之貞が倉前街の一商店の中に潜み、窓の隙間から二発続けて撃ち、鳳山はついに爆死した。
- 袁世凱に欽差大臣を授けて諸軍を節制させ、馮国璋を第一軍の総統、段祺瑞を第二軍の総統とした。蔭昌を召して北京に帰らせた。
- 山西の太原で民軍が起こり、混成協協統の閻西山(「閻錫山」の誤りか)を推して都督とした。巡撫の陸鍾琦が死んだ。これより先、鍾琦は陝西の急報を聞き、急ぎ新軍の第一・第二の両営を派して潼関の防備に出したが、途中で引き返すことを恐れて、続いて第三営をその後につけた。三営の中の排長王建安という者が、ひそかに第二営に赴き、管帯の姚維藩に中(「向」の誤りか)密告して、途中で不意を襲って撃ち、首尾が互いに顧みられないようにするつもりだと告げた。維藩は大いに憤り、そこでこの月の八日の明け方、第一営と連合して太原城に襲い入った。銃声が大いに起こり、兵卒たちが巡撫の役所に至った。鍾琦は自ら出て弾圧したが殺され、その子で翰林院侍読の陸光熙および協統の譚振徳、管帯の熊国斌もみな殺された。幾時もたたぬうちに、満洲の駐防城もまた撃ち破られた。
- 瑞澈がひそかに逃げて上海に至り、両江総督の張人駿に人を派して捕らえ、北京に護送して罪を治めるよう命じた。
- 詔を下して自らを責めた。詔にいう。「朕は人を用いるに方なく、治を施すに術が少なかった。政府の要地に親貴を多く用いて、あらわに憲章にそむいた。路事は小人どもに誤られ(底本は『𤘁』に作る)、動もすれば輿論に違った。新政を促し行えば、官紳はあるいはそれにかこつけて利を貪る企てとした。旧制を改めれば、権勢ある者はあるいはただ自分の便宜のための計とした。民の財を取ることはすでに多いのに、民を利する事は一つも行っていない。司法の詔はたびたび下ったが、実は法を守る人が一人もいない。ついには下に怒りが積もっているのに朕は知らず、禍が目前に迫っているのに朕は気づかなかった、云々。」
- 党禁を解くよう諭し、この種の党人はみな、法律に従って政党に改組することを許し、それによって人材を養成し、国家の用に収めることとした。
- 雲南の省城で軍民が起こり、第三十七協協統の蔡鍔を推して都督とした。第十九鎮統制の鍾麟同らが死んだ。湖北軍政府の檄が雲南に届き、この月の九日の夜九時、新軍がただちに騒ぎ起こり、まず北校場に駐屯する七十三標が北門から攻め入り、次々に電報局・軍械局および督学営の各役所を占拠した。翌日の明け方、七十標が省城に到着し、砲営・馬隊・機関銃の諸営が同時に南城・大東城などの部分を占領した。昼ごろ、全城は大いに定まった。総督の李経義および司道はみな先に避けて出ており、麟同および兵備処総弁で道員の王振畿、管帯の范鍾岳はみな殺された。
- 江西の南昌で民軍が起こり、十七協協統の呉介璋を推して都督とした。巡撫の馮汝騤が死んだ。南昌は九江の事が起こって以来、やはりこの月の十日の夜に独立を宣告した。汝騤は巡撫の印信を引き渡した後、介璋が軍隊を遣わして城外まで護送したが、まもなく自殺した。
- 袁世凱を内閣総理大臣とし、ただちに北京に帰って内閣を組織するよう命じ、前の両江総督魏光燾を起用し直して湖広総督とした。
- 長沙で兵変が起こり、焦大竑・陳作新がともに殺され、あらためて諮議局議長の譚廷闓を挙げて都督とした。大竑は湖南都督となってから、志を鋭くして湖北を援けようと考え、軍を率いて北上しようとして、かつて大会で辞職を申し出たが、衆は認めなかった。この月の七日、さらに告示を出して退くことを宣言したが、各界はまた代表を派して固く引き留めた。当時、彼を忌む者が密かに議して殺そうとし、軍隊を煽惑して、大竑は湖北の軍費数十万を受け取って私に自分のものとした、と言い、また、焦大竑はとうに人に殺されており、今いるのは本人ではない、と言った。十日の午後、ある軍人が軍政府に来て、和豊公司で兵の騒擾があると偽り、作薪(「作新」の誤りか)をだまして城外に弾圧に出させ、北門外の東嶽宮廟の前でこれを殺した。
- 憲法の信条を頒布し、日を選んで太廟に宣示することとした。これより先、第二十鎮が奉天から前線に向かうよう命じられ、灤州に至ったとき、統制の張紹曾が混成協協統の藍天蔚らと電奏して、立憲を実行すること、および憲法は議院が制定することを要求した。疏が入ると、政府は大いに驚き、ただちに資政院に憲法の起草を命じた。この月の十三日、まず憲法中の重大信条十九条を擬定して奏上し、ただちに刊刻・謄黄して天下に宣示するよう命じた。兵を統べる大官には、懇切に布告して朝廷の徳意を宣示し、妥当かつ速やかに安撫して、みなに朝廷が実心をもって民とともに一新しようとしており、これ以上兵力で事を行うに忍びないことをはっきりと分からせるよう命じた。また各省の統兵の大官に紀律を申し明かすよう命じた。張紹曾に侍郎の官銜を賞し、宣撫大臣に任じて、長江一帯に赴いて朝廷の徳意を宣布させた。
- 貴州の貴陽で民軍が起こり、新軍教練官の楊藎誠を推して都督とした。貴陽はこの月の十四日に独立を宣告した。この日、新軍が隊列を組んで入城し、藩庫および火薬局を守護し、諮議局を改めて軍政府とした。会を開き、藎誠を公挙して都督、隊官の趙徳全を副都督とした。官界は巡撫の沈瑜慶を除いては一律に従来どおりとし、住民は従来どおり安んじていた。
- 浙江の杭州で民軍が起こり、免職された前の江西提学使で浙路総理の湯寿潜を推して都督とした。はじめ、湖北の事が起こると、浙江巡撫の増韞は新軍が用をなさないことを疑い、とくに各地の巡防営を抽き出して省城に集め、これ(「資」の誤りか)をもって警戒の備えとした。当時、新軍と防営はすでに互いに連絡しあっていたが、増韞は知らなかった。この月の十三日の夜、諮議局副議長の沈鈞儒が増韞に謁見して独立に賛成するよう求めたが、やはり許さなかった。紳商が立ち去ろうとするとき、増韞に警告する者があったが、これも省みなかった。夜半二時に至り、城の南と北の新軍が同時に起こり、爆弾で巡撫の役所の第一・第二の門を焼き壊し、ついにこれを占領し、次いで軍械局、砲・馬・輜重の各営を占拠し、手分けして銀行・教会堂を守り、あわせて街市を巡邏し、秩序は整粛であった。増韞は民軍に拘えられ、まもなく兵に護送されて境外に出された。司道・織造の各官はみな逃げ去り、将軍の福済はそのまま民軍に降り、銃器を引き渡した。民軍はさらにその協佐領の貴林・存炳・哈楚章・量海の四人を殺して、反抗する者への戒めとした。旗人はことごとく民籍に編入された。
- 江蘇の蘇州で民軍が起こり、巡撫の程徳全を推して都督とした。当時、江蘇の上海はすでに二日前に民軍に占領され、陳其美を推して都督としていた。その急報が蘇州に届くと、蘇州の政・学・軍・警各界の領袖および地方人民の代表がそろって巡撫の役所に至り、独立の宣布を要求し、徳全はこれを承知して、この月の十五日に光復を宣告した。
- 山西巡撫署理の呉禄貞が石家荘で刺殺された。禄貞は第六鎮統制であったが、蔭昌の兵が漢口で姦淫・掠奪・焼殺を働いたので、蔭昌の督師ぶりがだらしなく、それは参謀の易廼が迎合したためだと奏言し、旨を請うて厳しく懲罰しようとした。蔭昌は彼を憎み、禁衛軍第一協協統の良弼はいっそう強く彼をねたんだ。そこで山西巡撫に転じさせてその兵権を解き、さらにその部下の第十二協協統周符麟に重い賄賂を贈り、旗兵を引き入れさせて、この月の十七日の夜、石家荘の陣営で禄貞を刺殺させた。当時、陸軍部馬兵科科長の張世膺が用事で営中に来ていて、同じく殺された。
- 汪兆銘・黄復生・羅世勲を獄から釈放した。兆銘らは前年の二月に摂政王の暗殺を謀って成らず、永遠監禁の罪に処されていたが、ここに至って党禁を解いたことによって釈放し、両広総督の張鳴岐に引き渡して差遣・任用させた。
- 広西の桂林で民軍が起こり、巡撫の沈秉堃を推して都督とした。広西は隣省が相次いで独立したと聞き、巡撫の沈秉堃はそこで士民の要求を待たずに独立を宣告した。士紳は喜び、この月の十七日、秉堃を公推して都督とした。
- 安徽の安慶で民軍が起こり、巡撫の朱家宝を推して都督とした。これより先、湖北軍政府の檄が安徽に届き、各新軍はみな機に乗じて起とうとしたが、家宝は第十一・第十二の両標の弾薬を回収するよう命じ、あわせて全体を解散するよう命じた。諮議局はこれを聞いて大いに騒ぎ、この月の十五日に三大問題を提議して家宝に回答を求めた。翌日の回答にいう、「軍心もこのとおり、民心もこのとおりである。各省が相次いで事を行い、まったく手の施しようがない。諸公が計画し、採択して実行されたい。」局ではやはり十七日に会を開き、議したのは五条であった。一、解散した兵を呼び戻して民軍とする。二、巡道はすでに退いたのだから、諮議局が処理すべきである。三、江防営を撤収して治安を保つよう請う。四、督練公所を取り消す。五、財政は藩司から諮議局に移管するよう請い、各衙門の支出は即日停止する。十八日、独立を宣布し、家宝を挙げて臨時都督とした。
- 広東の広州で軍民が起こり、胡漢民を推して都督とした。この月の十八日、広東省の紳商が総督の張鳴岐に請うて独立を宣布し、やはり張鳴岐を推して都督、提督の竜済光を副都督とし、十九日に挙行することに定めた。鳴岐はうわべではこれを承知したが、その日になって士民が都督の印信を総督の役所に持参したところ、鳴岐はすでに前の晩に香港へ去っていた。そこで漢民を推して臨時都督とし、陸軍統領の陳炯明をその副とした。
- 福建の福州で民軍が起こり、第十鎮統制の孫道仁を推して都督とした。総督の松寿、将軍の樸寿が死んだ。樸寿は湖北の急報を聞いてから、新軍への防範がきわめて厳しく、火薬庫の弾薬をことごとく旗人の区域内に運び入れ、さらに区域内に大砲を据え、地雷を埋伏させた。また旗人の役人の文楷らが殺漢党を組織したので、住民はこれを聞いて恐れ、多くが城外に移り住んだ。この月の十八日の夜、突然数百の旗兵が漢人の区域に押し入って火を放ち、消火用の水竜に石油を入れて屋根に激しく注ぎかけたので、火勢はきわめて烈しかった。新軍はただちに第二十協協統の許索智を推挙して総司令官とし、軍を率いて旗営に宣戦した。旗兵は総崩れとなり、白旗を掲げて降を乞い、軍械を引き渡した。松寿はこれを聞いて自尽した。翌朝、樸寿を捕らえて殺した。都統の勝恩と藩司の尚其亨には、いずれも兵を付けて境外へ護送させた。これによって人心がはじめて安んじ、そこで道仁を公挙して都督とした。
- 海軍の各艦が民軍に帰順した。これより先、鏡清の幇帯である陳復および学生の劉樾・劉勲名・楊砥中・常光球ら三十余人が決死隊を組織し、この月の二十一日の夜に事を起こすと、各艦が同時に呼応し、民団のために力を尽くしたいと願い出た。そこで一律に鎮江に向かい、鎮軍都督の林述慶に帰属した。数えるに「鏡清」「保民」「楚観」「江元」「江亨」「建成」「通済」「楚同」「楚泰」「飛鷹」「楚濂」「虎威」「江平」および「張」の字号の水雷艇、合わせて十四隻で、みな武装を取り外した。
- 山東省の紳士が独立を奏請し、巡撫の孫宝琦を推して都督とした。はじめ、済南の士民は、朝議が軍費の巨額なことから、ドイツに三百万を借り、山東全省の土地を抵当にしようとしていると聞き、そこで諮議局で八条を議決し、宝琦が政府に電報で告げるよう要求した。一、政府は外債を借りて軍費に充て、同胞を殺戮してはならない。二、政府はただちに速やかに休戦の書を出し、南軍がどのような件を要求しても、許さないわけにはいかない。三、現に山東省内に駐屯する新軍を、境外に調遣してはならない。四、現在納めるべき協款・軍費および節減分の項目は、しばらく解送を停止し、すべて本省の練兵と荒年の救済の用に留める。五、憲法には中国が連邦政体であることを明記しなければならない。六、外官の制度と地方税は、みな本省が自ら定め、政府は干渉してはならない。七、諮議局章程をそのまま本省の憲法とし、自由に改定できるものとする。八、本省は練兵して自らを守る自由を有する。まもなく政府から返電があり、要求の各件をみな許した。当時、省城ではすでに江蘇・浙江などの省が相次いで独立したと聞いており、あらためてこの月の二十一日に大会を開いた。宝琦以下の各官および新軍の将校がみな出席し、こぞって宝琦に独立への賛成を請い、宝琦はこれを許した。そこで宝琦を挙げて臨時都督とし、第五鎮統制の賈徳懋を副都督とした。
- 江蘇・浙江・上海の民軍が会同して南京を攻め、第九鎮統制の徐紹禎を推して聯軍総司令とした。当時、上海・蘇州・常州・鎮江・清江・揚州・松江がみな相前後して独立した。南京の士紳はかつて両江総督の張人駿に独立への賛成を請うたが許されず、さらに紹禎の駐屯する新軍を秣陵関に移駐させ、弾薬を与えず、江防会弁の張勲の巡防営を調えて城を守らせた。この月の十七日、紹禎は全軍を率い、上海から南京に至った民軍とともに、雨花台に迫った(「興」は「與」の誤りか)。張勲は内応があると聞いて、城を閉ざして捜索し殺した。およそ巡査や総督の役所の衛隊で殺された者が多かった。その他、良民でも、弁髪がない者、身に白布・白帯をつけた者はやはり殺され、数えておよそ千人を下らなかった。十九日、民軍は雨花台を攻めて利あらず、鎮江まで退き、江蘇・浙江・上海がそれぞれ兵を派してこれに合流した。
- 桂林で兵変が起こり、あらためて提督の陸栄廷を挙げて都督とした。桂林の軍界に都督の瀋秉堃(「沈秉堃」の誤りか)と仲の悪い者があり、二十日の夜、巡防営の第十四・第十五の両隊をそそのかして騒乱を起こさせ、藩庫を襲って奪おうと謀った。入ることができず、転じて諮議局および電報局を攻め、いずれも壊した。事が鎮まると、秉堃はそこで退く意を生じ、まもなく北伐の名に託して辞職して去った。
- 奉天の省城に保安会を設けた。奉天の紳民が独立を謀ったが、軍界が賛成しなかったので、改めて保安会を設け、総督の趙爾巽を推して正会長とした。まもなく吉林・黒竜江の両省もまた保安会を設け、それぞれ巡撫を推して会長とした。
- 江西があらためて彭程万を挙げて都督とした。これより先、江西の軍界に都督の呉介璋と睦まじくない者があり、介璋に書を贈って、都督の任に堪えないと責め、「鉄血をもって事を行うつもりだ……」と言った。まもなく書を贈った者を探り当て、各界はこれを誅そうとした。介璋は地方を保全することを旨とし、軽々しく争いの端を開いて人民を塗炭に陥れてはならないと力をこめて戒めた。そしてこの月の二十二日、会を開いて職を解いた。各界は引き留めたが叶わず、そこであらためて程万を挙げて臨時都督とした。
- 江蘇には張謇、浙江には湯寿潜、福建には江春霖、湖南には譚延闓、広東には梁鼎芬、広西には趙炳麟、四川には喬樹柟、江西には謝遠涵、山東には柯劭忞、山西には渠本翹、雲南には王人文、陝西には高増爵を派して、それぞれの所属地に分かれて赴かせ、撫慰し勧め諭して、朝廷が政治改革を実行する趣旨を宣布させた。
- 各省に代表三人ないし五人を選んで北京に派遣させ、共に会議して国是を定めるよう命じた。
- 安徽で兵変が起こり、朱家宝が逃げ出した。家宝がはじめ安徽都督となったとき、王天培という者があり、湖北軍政府の命を奉じて安徽都督となったと自称したが、士民はこれを追い払った。この月の二十四日、潯軍が来て、総司令の黄煥章に軍費を求めたが得られず、そのまま総督の役所に押しかけた。家宝は急報を聞いて、城壁を縄で伝い降りて逃げ、潯軍はそこで都督府を焼き、軍械局を奪い、新しい諮議局を攻め、庫金を掠奪した。この夜、防営もまた紳士・富豪の家および商会・質屋を掠奪し、秩序は大いに乱れた。
- 袁世凱の内閣組織が成った。世凱は任命を受けてから、たびたび辞退したが許されず、この月の二十六日に入閣して事務を執り、梁敦彦を外務大臣、趙秉鈞を民政大臣、厳修を度支大臣、唐景棠を学務大臣、王士珍を陸軍大臣、薩鎮冰を海軍大臣、沈家本を司法大臣、張騫(「張謇」の誤りか)を農工商大臣、楊士琦を郵伝大臣、達寿を理藩大臣として推薦し、あわせて胡維徳らを各部の次官とした。
- 九江に停泊していた海容・海籌・海琛の三兵艦、および水雷艇数隻が、九江の民軍政府に帰順した。
- 冬十月、四川の成都で民軍が起こり、蒲殿俊を推して都督とした。この月の二日、四川の重慶府はすでに独立を宣告しており、成都の士紳は将軍の玉崑に請うて旗人に武器を引き渡すよう勧諭させ、民軍の保護に帰させ、そこで七日に独立を宣布した。
- 漢陽を克復した功により、馮国璋に二等男爵を賞した。
- 四川総督署理の端方が資州に至って軍士に殺された。端方は四川に入ったが、湖北で民軍が起こったと聞き、北のかた陝西へ走ろうと謀り、資州に至った。連れていた湖北の軍士が、その首を斬って湖北に帰った。
- 各省の民軍政府が、伍廷芳を挙げて外交総長とした。
- 各省の民軍政府が、湖北軍政府を公推して中央軍政府とした。
- 山東が独立を取り消した。山東が独立を宣告したとき、孫宝琦はかつて紳民に向かって三条を宣誓していた。「一、山東全省の人民は、今より北京に対して一切の関係を断絶する。二、山東全省をもって中華民国政府に加入する。三、本省内部の組織については、議決・行政・軍政の各部に分け、心を和して共に助け合い、大局が定まり、共和政体が完全に成立するのを待って、あらためて変更する。」政府はこれを聞いて大いに驚き、慶親王奕劻、内閣総理大臣袁世凱は書簡と電報をしきりに送り、みなその軽率さを責めた。宝琦はそのために大いに怒り、そこで電奏して罪を請い、独立の名義を取り消し、廷旨もまた厳しくこれを責めた。ここに至って、世凱は張広建・呉炳湘を済南に遣わし、それぞれ布政使署理・巡警道に任じ、第五鎮統制の呉鼎元らと連合して独立を取り消させ、まもなく広建を宝琦に代えて巡撫とした。
- 外蒙古の庫倫が独立を宣告し、弁事大臣の三多を追い出した。
- 民軍が南京を攻め取り、張人駿らが逃げた。江蘇都督の程徳全が自ら民軍を督して南京を攻め、この月の三日、舟陽で軍を閲した。江蘇・浙江の聯軍は徳全を推して海陸聯軍総司令長とし、高資に駐屯させた。前鋒は棲霞山の上に至った。四日の倰晨(「凌晨」の誤りか)、孝陵街で防軍と遭遇し、民軍が勝ち、副将の王有宏は弾に当たって死に、そのまま烏竜山の砲台を占領した。四日の正午、幕府山の砲台を占領した。午後、馬群・孝陵衛一帯を占めた。六日、砲で太平門の北極閣を破壊し、防軍の死傷者は三千余人、孝陵衛・獅子山・雨花台はみな聯軍の手に帰した。七日の夜、神策門を攻め、総督の張人駿、将軍の鉄良は北極閣から日本領事の役所に逃げ込んで隠れた。八日、聯軍は太平・朝陽の両門を攻め破ったが、地雷が伏せてあるのを恐れて進まなかった。十日、聯軍は浦口で勝った。十二日の朝八時、防軍の中に太平門を開いて聯軍を迎える者があった。九時、防軍の将の曹栄華は千人を率い、胡令宣は三百人を率いて、みな聯軍に降った。午後二時に至り、聯軍は進んで雨花台・獅子山の砲台および清涼山の火薬軍械局を占め、そのまま砲で南門・儀鳳門・太平門を壊した。四時、大部隊が入城し、地雷を捜し出して壊した。張勲は徐州へ走り、人駿・鉄良は日本の砲艦に乗って山東の青島へ逃げた。翌日、民軍は程徳全を推して江蘇都督に改任し、南京に移駐させた。
- 河南巡撫の宝棻を解任し、斉耀琳をこれに代え、倪嗣沖を河南布政使とした。
- 武漢で南北両軍が和を議し、三日間停戦し、その後さらに三日間延期した。
- 監国摂政王の載沣が、醇親王として藩邸に退き帰った。
- 世続・徐世昌を太保とした。
- 臣民が自由に髪を切ることを命じた。
- 袁世豈(「袁世凱」の誤りか)が唐紹怡を全権代表に委任し、民軍と和を議させた。
- 江西があらためて馬毓宝を挙げて都督とした。彭程万が推挙されて都督となったとき、程万は死を誓って固く辞退し、衆がこれを強いてようやく承知し、しばらく五日間だけ都督を代行することとし、五日以内に速やかに第三の都督を組織すると言明した。あわせて各界の議決により、あらためて九江に駐在する都督の馬毓宝を江西都督に挙げ、人を遣わして九江に赴き迎えさせた。しかし毓宝は「武漢の戦事はまさに急であり、九江の防務は厳重にすべきだ」として遅れ、この月の十九日になってようやく南昌に着き、都督の任を引き継いだ。
- 四川の成都で兵変が起こり、あらためて尹昌衡を挙げて都督とした。これより先、この月の十八日、四川省の先鋒隊三千余人が軍費を求めて騒ぎ、官を殺し庫を掠め、市中の店舗を焼き掠奪し、数えて官民の損失は一千万以上に上った。都督の蒲殿俊、副都督の朱慶瀾はみな避けて去り、城中に主宰する者がなく、擾乱は一昼夜の長きに及んだ。昌衡はそのとき陸軍小学の総弁であったが、急ぎ鳳凰山の営に入り、将士を激励してこれを率いて入城した。翌日、さらに涙を流して誓師し、乱兵を掃除することを自らの任とした。そこで軍心は感動し、昌衡を推して都督、羅綸を副都督とした。昌衡は事を引き受けた後、極力秩序を維持し、大局は安定した。
- 馮国璋を禁衛軍総統官に充てた。
- 良弼を軍諮使とした。
- 前の郵伝大臣唐紹怡に全権代表として民軍と和を議するよう命じ、代表の伍廷芳らと上海の英租界の市政庁で会議させた。このとき、また停戦の期限を十五日延ばし、その後さらに七日延ばした。
- 山西巡撫の張錫鑾が兵を率いて太原に至った。当時、民軍の山西都督閻錫山は兵が少ないために平陽府に退いて駐屯していた。錫鑾は軍を率いて娘子関に攻め入り、錫山は逃げ去り、軍心はそのために固まらず、潰散するに至って、ついに太原を棄てた。
- 十一月、四川の成都で民軍が前の四川総督趙爾豊を殺した。成都が独立を宣告した後も、爾豊はなお兵を擁して総督の役所に居り、十八日の変事のときも、爾豊はなお旧総督の名議(「名義」の誤りか)を用いて、告示を出して乱兵を招安した。この月の三日、民軍はそこで総督の役所を囲んで攻め、爾豊を捕らえ、明遠楼の傍らでこれを殺した。
- 安徽が孫毓筠を挙げて都督とした。九月二十四日、潯軍が安慶で騒乱を起こし、都督の朱家宝は逃げ去った。潯軍政府参謀長の李烈鈞が軍を率いて到着し、乱兵を剿め除くと、士民はそこで烈鈞にしばらく都督の事を代行するよう請い、一方で大通軍政分府の黎宗嶽を都督に公請した。宗嶽が到着しないうちに、この月の三日に至り、安徽ではあらためて毓筠を挙げて都督とした。
- 広東が副都督の陳炯明を挙げて都督代理とした。当時、孫文が帰国して香港で胡漢民と出会い、漢民はこれに従って上海に至り、炯明が代わって都督の事を摂した。
- 臨時国会を開いて政体を公決するよう命じた。当時、南北和議の代表が、主張する政体が同じでない情形を電報で内閣に伝えたので、諭を下して臨時国会を召集し、これに公決を付することとし、内閣には選挙法を妥当に議して施行するよう命じた。
- 各省の民軍代表が孫文を臨時大総統に選挙した。この月の十日、十七省の軍政府代表が江寧の旧諮議局で大会を開き、正式に総統を選挙し、孫文が当選して臨時大総統となった。
- 中華民国臨時大総統の孫文が南京で就任した。民軍は江寧を臨時政府の地とし、この月の十三日、孫文が任に就き、太陽暦に改め、この日を民国元年の元旦とした。
- 江蘇が荘蘊寛を挙げて都督代理とした。当時、程徳全は病のために事務を執ることができなかったので、蘊寛を挙げて代理させ、蘇州に移駐させた。
- 袁世凱が唐紹怡の議和代表を取り消した。紹怡は伍廷芳らと上海で国民会議召集の方法を議定し、電報で北京に伝えたが、世凱は承認を許さず、紹怡は辞職し、これを許した。世凱は廷芳に電報を送り、今後、協議すべき事件は直接電報で商議すると言った。
- 民国の各省代表が黎元洪を副総統に選挙した。
- 伊犁で民軍が起こり、前任の将軍広福を推して都督とした。将軍の志鋭が死んだ。
- 袁世凱が途中で爆弾に遭ったが負傷せず、護衛の衛隊隊長袁金標および二人の排長、隊兵三名がみな死んだ。この月の三十日、世凱が参内し、王府井大街まで来たところで爆弾に遭った。刺客の張先培・黄之萌・楊品三はみな捕らえられ、東菜市口で絞首された。
- 十二月、袁世凱に一等侯爵を封じたが、世凱は固く辞退して受けなかった。
- 軍諮使の良弼が刺殺された。この月の八日、民党の彭家珍が奉天講武堂監督の崇泰と名を偽り、西城の紅羅廠にある良弼の住宅に至って拝謁を求めた。ちょうど良弼が粛親王の邸から帰り、車を降りたばかりで家珍と出会い、爆弾が炸裂して良弼を傷つけ、左脚はたちまち切断された。家珍は頭部を傷つけて先に死んだ。良弼は死んで二時間してようやく蘇り、母に「私を殺した者は、立派な英雄だ。まことに私を知る者だ」と言った。ついで西席の康譔瞿に語って言った。「私が死ぬのは惜しむに足りない。ただ清朝の宗社がこれより滅亡するのが、慟哭すべきことだ。前年、私は党人を釈放するよう奏請し、国会を開くよう請うたが、いずれも聞き入れられなかった。今秋、変事が起こると、禁軍を率いて前線に赴くことを請うたが、また私を用いず蔭昌に委ねた。内廷は紛争し、外患は四方に起こる。我が宗社の滅亡は、幾日もあるまい。私は政府がどうにもならないのを見て、はじめて宗社党を組織し、ようやく手がかりがつき、力を尽くして進めようとしたところで、私はこの痛ましい目に遭ったのだ。私が死ねば、清朝もまた滅びよう。私を刺した者はすでに死んだ。私にはそれが分かっている。」十日の昼まで持ちこたえて、ついに死んだ。
- 袁世凱に全権を授け、民軍と退位の条件を協議させた。当時、第一軍総統官の段祺瑞ら四十六人が電報して速やかに共和政体を定めるよう請い、隆裕太后は諭して言った。「朝廷がどうして一姓の尊栄のために万民に実際の禍を貽すに忍びようか。ただし宗廟・陵寝、および皇室の優礼、皇族の安全、八旗の生計、蒙古・回部・チベットの待遇は、いずれもあらかじめ計画しておくべきである。それゆえ袁世凱に全権を授け、民軍と一切の方法を研究させる。」
- 隆裕太后が詔を下し、帝を率いて統治権を全国に公けにし、清は亡んだ。袁世凱は民国の議和代表と皇室優待の八条を議定した。
- 一、帝はただ政体を御するのみで(「但御政體」は「但辭政權」等の誤りか)、尊号は廃さない。中華民国は各外国の君主を待遇する礼をもって相待する。
- 二、皇室の経費は、毎年、中華民国から四百万両を支出する。
- 三、帝はしばらく宮禁に居る。
- 四、宗廟・陵寝は中華民国が保護する。
- 五、徳宗の陵の制は、旧のとおり妥当に修造する。
- 六、宮内の各項の執事人員は、平常どおり留めて用いるが、ただし再び鬮人(「閹人」の誤りか)を採用してはならない。
- 七、皇室の私産は、中華民国が特別に保護する。
- 八、もとからの禁衛軍は、中華民国陸軍部の編制に帰し、定員・俸給は旧のとおりとする。
- 皇族を待遇する四条。
- 一、王公の世爵は旧のとおりとする。
- 二、皇族の中華民国国家に対する公権および私権は、国民と同等とする。
- 三、皇族の私産は、一体に保護する。
- 四、皇族は兵役の義務を免ずる。
- 満・蒙・回・蔵を待遇する七条。
- 一、漢人と平等とする。
- 二、そのもとからの私産を保護する。
- 三、王公の世爵は旧のとおりとする。
- 四、王公の中で生計が困難な者には、方法を講じて代わりに生計を計ってやる。
- 五、まず八旗の生計を計り、それが定まらないうちは、八旗の兵や役人の俸給は旧のとおり支給する。
- 六、従前の営業・居住などの制限を取り除き、各州県で自由に入籍することを聴す。
- 七、満・蒙・回・蔵のもとからの宗教は、自由に信仰することを聴す。
- 以上の条件が、袁世凱によって奏上され、太后はたびたび皇室会議を召集し、この月の十九日に至って、詔を下して位を辞することを決定した。二十五日、帝は退位した。満洲が中国に入って主となってから二百六十八年、ここに至ってついに亡んだ。
原文(底本)
末帝宣統三年秋八月,武昌民軍起,推第二十一混成協統蔡元洪爲都督,總督瑞澂遁。武昌、漢陽及漢口鎮俱爲民軍所佔領。是年三月間,革命軍起事於廣州,影響波及湖北,瑞澂即下戒嚴令,久之寂然。及是月初旬,瑞澂接政府密電,謂革黨將於武漢起事,宜加意防範。瑞澂飭第八鎮統剚張彪,巡防統領陳得龍、巡警道王履康、軍事參謀鐵忠等,嚴行搜捕,凡英、俄兩租界、小朝街、黃土坡、千家街、總督署,隨時發現黨人行蹤及炸彈手槍等物,先後捕獲五十餘人。於十八夜斬劉汝夔、楊宏勝、彭楚藩等三人於都督前,電奏到京,朝旨嘉獎。十九夜,工程第八營左隊忽譁起,槍斃排長、隊官數人。於是工程全隊及步隊同時響應,更迎合駐紮城外之礮隊八標,馬隊八標入城,先奪楚望臺軍械局、輜重營,縱火攻都督,瑞澈、鐵忠履、康輿藩、司連甲倉皇登楚豫兵輪。張彪得龍亦各棄營遁,民軍遂佔武昌。翌晨,分兵下漢陽、漢口,及兵工廠,推元洪為都督,諮議局議長湯化龍為總參議,議員張園溶、夏壽康為副參議。即以諮議局為軍政府,出示安民,秩序井然。復照會駐漢各國領事,略謂貴領事如能承認軍政府為獨立國體,不加干涉,則外人生命財產及租界治安,軍政府擔任保護。自宣告獨立以前,滿洲政府所借外債及賠款,俱照約履行,以後如有借款,則不能承認。各領事會商,當即承認為交戰國,旋又接據駐漢領袖領事、俄領事照會云:『頃據謠傳,鄂都督瑞澈藏匿租界,求本駐署保護。聞此殊堪詫異,竊本總領事奉命駐漢,祇理交涉事宜,其餘毫不干預。矧此次民國軍剏興義舉,本領袖業經聚議,均守中立,決定兩不相助。鞏獲群疑莫釋,即至本駐團密查可也。持此聲明,以釋疑團,隨各電告本政府。』各政府俱贊成,美國首先宣告中立,英、法繼之,俄、日又繼之。二十一日,朝命陸軍大臣蔭昌督兵兩鎮,前往湖北;海軍提督薩鎮冰督兵繼,長江提督程允和督水師赴援。革瑞澈、張彪職,仍令瑞澈署總督,帶罪圖功,並停止秋操。又命各省緩裁綠營巡防隊。三十三日,起復前軍機大臣袁世凱為湖廣總督,岑春煊為四川總督,均督辦剿撫事宜。二十四日,京師戒嚴。 九月,湖南、長沙民軍起,推焦大竑為都督,陳作新為副都督。防營統領總兵黃忠浩死之。先是,湘撫余誡格間鄂警後,已將新軍調駐城外,防範頗嚴,時鄂省以孤軍支持,各省互存觀望,其勢危甚。忠浩又擬調省外巡防各隊,擊鄂軍,大竑時在湘垣,聞之憤然曰:『中國存亡,在此一舉,死生以之,猶豫奚為者!』乃於是月初一日聯絡新軍,分道進攻省城。一為陸軍礮營,大竑自領之,東自小吳門入。一為陸軍標營,作新領之,北自湘春門入。小吳門守城之巡防營尚力抵,大竑因曉之曰:『吾輩同為漢族同袍,何必相苦?』防軍遂開門放入。城外新軍直赴軍械局,搜得槍械、子彈,乃合趨撫署。忠浩時在署中,聞變方謀出阻,已為新軍所戕矣。勸業道曾綬若、營務處王毓江、長沙縣沈瀛均被殺,城格由界後逸出,趨入水師營,而水師亦懸白旗,乃乘湘帆小輪以遁。翌日,軍學各界大會於諮議局,公推大竑為都督,作新為副都督。大竑受事後,知鄂事急,亟發四十九標援之。 江西九江民軍起,推第五十三標標統馬毓寶為都督。初,武漢營報至九江,礮臺營官徐世法運動新軍為響應之預備,毓遂於是月初二日率眾起事。先由金雞坡礮臺舉礮三聲,次由各營發槍三聲以應之,於是九匯道保桓、知府璞良、防營統領張檢均逸去,民軍即於道署內設駐海軍政府,舉毓寶為都督,主持軍務。九江礮臺悉歸世法統轄。 陝西西安民軍起,推張鳳翙為都督。陝西民黨聞武漢獨立,車駕將避陝,欲為先發制人之計,遂於是月初二日懸白旗舉事。新軍先謀起,防營應之,趨入省府,先據藩庫,進據軍裝局,巡撫錢能訓聞警逃,其他官吏或走或降,商民安堵如故。由軍政府宣告滿、漢、回民一視同仁之意,派學生隊代表赴將軍署協商一切。旗兵反,以巨礮轟斃學生四百餘,人情大憤,遂有殘殺旗人之事。 廣州將軍鳳山被刺。是年三月初十日,署廣州將軍孚琦至廣州東門外,觀法人演放飛艇,返至諮議局前,麒麟閣門次,為嘉慶州人溫生材所槍斃。朝命鳳山往代之。鳳山於是月初四日抵粵,甫登岸至南倉關前首約(地名分有首、二、三、四等約)地方,順德縣人周之貞,伏於倉前街一商店內,由窗隙聯發雙彈,鳳山遂被炸死。 授袁世凱欽差大臣,節制各軍,以馮國璋總統第一軍,段祺瑞總統第二軍。召蔭昌回京。 山西太原民軍起,推混成協協統阎西山为都督。巡撫陸鐘琦死之。先是,鍾琦聞陝西警訊,急派新軍之第一、第二兩營出防潼關,恐其中途折回,續派第三營躡其後。三營中排長王建安者潛赴二營,管帶姚維藩中告密,謂將於途中出不意擊之,俾首尾不相顧。維藩大憤,遂於是月初八日黎明,聯合一營,襲入太原城。槍聲大作,衆勇至巡署,鍾琦親出彈壓,被戕,其子翰林院侍讀陸光熙及協統譚振德、管帶熊國斌皆被殺。不數時,滿駐防城亦擊破。 瑞澈潛逃至上海,命兩江總督張人駿派員擊解來京治罪。 下詔罪己,詔若曰:『朕用人無方,施治寡術。政地多用親貴,則顯戾憲章。路事𤘁於僉壬,則動違輿論。促行新政,則官紳或籍爲罔利之圖。更改舊制,則權豪或祇爲自便之計。民財之取已多,而未辦一利民之事。司法之詔屢下,而實無一守法之人。馴至怒積於下,而朕不知。禍迫於前,而朕不覺云云。』 諭開黨禁,所有此項黨人,均著準其按照法律改組政黨,籍以養成人才,收作國家之用。 雲南省城軍民起,推第三十七協協統蔡鍔爲都督,第十九鎮統制鍾麟同等死之。鄂軍政府檄至滇,是月初九夜九時,新軍即譁起,先由駐紮北校場之七十三標攻入北門,節次進據電報局、軍械局及督學營各署。翌日黎明,七十標抵省,礮營、馬隊、機關槍諸營同時佔領南城、大東城等部。午間,全城大定,總督李經義及司道均先避出,麟同及兵備處總辦、道員王振畿、管帶范鍾岳均被殺。 江西、南昌民軍起,推十七協協統吳介璋爲都督,巡撫馮汝騤死之。南昌自九江事起,亦於是月初十夜宣告獨立。汝騤交出巡撫印信後,由介璋派遣軍隊護送出城,尋自殺。 以袁世凱爲內閣總理大臣,命即回京組織內閣,起復前兩江總督魏光燾爲湖廣總督。 長沙兵變,焦大竑、陳作新均被戕,改舉諮議局議長譚廷闓爲都督。大竑既任湘都督,擬銳志援鄂,領軍北上,曾大會辭職,衆不可。是月初七日,更出示宣言告退,各界又派代表堅留。時忌者密議欲殺之,煽惑軍隊,謂大竑領鄂餉數十萬,私爲己有,並謂焦大竑早爲人所殺,今非本人。初十日午後,有軍人至軍政府詭稱和豐公司有兵騷擾事,紿作薪出城彈壓,而殺之於北門外東嶽宮廟前。 頒布憲法信條,擇期宣示太廟。先是,第二十鎮由奉天調赴前敵,至灤州,統制張紹曾與混成協協統藍天蔚等電奏,要求實行立憲,並憲法由議院制定。疏入,政府大驚,即命資政院起草憲法。是月十三日,先行擬定憲法內重大信條十九條入奏,即命刊刻謄黃,宣示天下。命統兵大員剴切布告,宣示朝廷德意,妥速安撫,俾皆曉然於朝廷,實心與民更始,不忍再以兵力從事。又命各省統兵大員申明紀律。賞張紹曾侍郎銜,授爲宣撫大臣,赴長江一帶宣布朝廷德意。 貴州、貴陽民軍起,推新軍教練官楊藎誠爲都督。貴陽於是月十四日宣告獨立,是日由新軍排隊入城,守護藩庫及火葯局,改諮議局爲軍政府。開會,公舉藎誠爲都督,隊官趙德全爲副都督。官界除巡撫沈瑜慶外,一律仍舊,居民安堵如故。 浙江杭州民軍起,推革職江西提學使浙路總理湯壽潛爲都督。初,鄂事起,浙撫增韞疑新軍不爲用,特抽調各路巡防營集省城,以這戒備。時新軍防營已互相聯絡,而增韞不知也。及是月十三夜,諮議局副議長沈鈞儒謁增韞贊成獨立,仍不允。紳商瀕行時,有警告增韞者,亦不省。至夜半二時,城南北之新軍同時起,以炸彈焚燬撫署頭二門,遂佔領之,次據軍械局、礮馬輜各營,分守銀行、教堂,並巡邏街市,秩序整肅。增韞爲民軍所拘,尋以兵護送出境。司道、織造各官均逸去,將軍福濟遂降於民軍,繳鎗械,且戮其協佐領貴林、存炳、哈楚章、量海四人,以爲反抗者戒。旗人悉編入民籍。 江蘇蘇州民軍起,推巡撫程德全爲都督。時江蘇之上海已先二日爲民軍佔領,推陳其美爲都督,警信至蘇,蘇之政、學、軍、警各界領袖及地方人民代表齊至撫署,要求宣布獨立,德全允之,遂於是月十五日宣告光復。 署山西巡撫吳祿貞在石家莊被刺。祿貞任第六鎮統制,以蔭昌兵在漢姦虜燒殺,因奏言蔭昌督師無狀,乃參謀易廼逄迎所致,請旨嚴懲。蔭昌惡之,禁衛軍第一協協統良弼嫉之尤甚,故改命爲晉撫以釋其兵柄,又重賂其部下第十二協協統周符麟,使引旗兵,於是月十七夜刺殺祿貞於石家莊營次。時陸軍部馬兵科科長張世膺以事來營中,亦遇害。 釋汪兆銘、黃復生、羅世勛於獄。兆銘等以上年二月謀刺攝政王未成,處以永遠監禁之罪,至是因開黨禁釋之,發交兩廣總督張鳴岐差委。 廣西桂林民軍起,推巡撫沈秉堃爲都督。廣西聞鄰省相繼獨立,巡撫沈秉堃遂不待士民要求,宣告獨立,士紳欣然,於是月十七日公推秉堃爲都督。 安徽安慶民軍起,推巡撫朱家寶爲都督。先是,鄂軍政府檄至皖中,各新軍咸欲乘機而起,家寶命將第十一、第十二兩標子彈收回,並飭令全體解散。諮議局聞之大譁,於是月十五日提議三大問題,請家寶答復。翌日,答復云:『軍心如此,民心亦如此。各省相繼而行,令人束手無策,請諸公籌畫採擇遵行。』局中仍於十七日開會,所議五條:一、將散兵招回爲民軍;二、巡道已告退,當由諮議局辦理;三、請將江防營撤回以保治安;四、取銷督練公所;五、財政請藩司移交諮議局,各衙門支欵即日停止。十八日,宣布獨立,舉家寶爲臨時都督。 廣東廣州軍民起,推胡漢民爲都督。是月十八日,粵省紳商請於總督張鳴岐,宣布獨立,仍推張鳴岐爲都督,提督龍濟光爲副都督,定於十九日舉行。鳴岐陽許之,屆期,士民賚送都督印信於督署,而鳴岐已於前一夕走香港,乃推漢民爲臨時都督,以陸軍統領陳炯明副之。 福建福州民軍起,推第十鎮統制孫道仁爲都督,總督松壽,將軍樸壽死之。樸壽自聞鄂警,防範新軍甚至,葯庫子彈悉運入旗界,復於界內設大礮,埋伏地雷,又有旗弁文楷等組織殺漢黨,居民聞之惶懼,多遷徙城外。是月十八夜,忽有旗兵數百,擁入漢界縱火,其用水龍灌以石油,激射屋頂,火勢甚烈。新軍即時推舉第二十協協統許索智爲總司令官,督師與旗營宣戰。旗兵披靡,懸白旗乞降,繳軍械,松壽聞而自盡。翌晨,擒樸壽,殺之;都統勝恩、藩司尚其亨,均派兵護送出境。由是人心始安,遂公舉道仁爲都督。 海軍各艦歸附民軍。先是有鏡清幫帶陳復及學生劉樾、劉勲名、楊砥中、常光球等三十餘人,組織敢死隊,於是月二十一夜起事,各輪同時響應,願為民團效力。遂一律開往鎮江,歸於鎮軍都督林述慶,計「鏡清」、「保民」、「楚觀」、「江元」、「江亨」、「建成」、「通濟」、「楚同」、「楚泰」、「飛鷹」、「楚濂」、「虎威」、「江平」及「張」字號魚雷艇共十四艘,皆卸去武裝。 山東省紳士奏請獨立,推巡撫孫寶𤦺為都督。初,濟南士民聞廷議以軍餉浩繁,將向德國借欵三百萬,以山東全省土地作抵,遂於諮議局議決八條,要求寶𤦺電告政府:一、政府不得借外債充軍餉,以殺戮同胞;二、政府須即速布罷戰書,無論南軍要求何件,不得不允許;三、現駐山東境內之新軍,不得調遣出境;四、現在應解協款餉及節省項下,暫停協解,概留本省練兵報荒之用;五、憲法須注明中國為聯邦政體;六、外官制地方稅,皆由本省自定,政府不得干涉;七、諮議局章程即為本省憲法,得自由改定之;八、本省有練兵保衛之自由。旋政府覆電,於要求各件,皆允許。時省垣已聞江浙等省相繼獨立,復於是月二十一日大會,寶琦以次各官及新軍官弁咸至,羣請寶琦贊成獨立,寶琦許之,遂舉寶琦為臨時都督。第五鎮統制賈德懋為副都督。 蘇浙滬民軍會攻南京,推第九鎮統制徐紹禎為聯軍總司令。時上海、蘇州、常州、鎮江、清江、揚州、松江,皆先後獨立,南京士紳曾請江督張人駿贊成獨立,不允,並令紹禎所駐之新軍移紮秣陵關,不給子彈,而調江防會辦張勲之巡防營守城。是月十七日,紹禎率全軍,興由滬、至寧之民軍,進逼雨花臺。張勲聞有內應,閉城搜殺,凡巡士及督署衛隊,多有被殺者。餘如良民,或無辮髮,或身有白布、白帶者,亦被戮,約計不下千人。十九日,民軍攻雨花臺不利,退至鎮江,蘇浙滬各派兵會之。 桂林兵變,改舉提督陸榮廷為都督。桂林軍界有與都督瀋秉堃有隙者,於二十日夜,嗾使巡防營十四、十五兩隊譁變,謀刦藩庫。不得入,轉攻諮議局及電報局,皆毀。事平,秉堃遂萌退志,尋託北伐之名,辭職去。 奉天省城設保安會。奉天紳民謀獨立,因軍界不贊成,乃改設保安會,推總督趙爾巽為正會長。旋吉林、黑龍江兩省亦設保安會,各推巡撫為會長。 江西改舉彭程萬為都督。先是,江西軍界有與都督吳介璋不睦者,貽書介璋,責其不勝都督之任,云:「將以鐵血從事……」旋即偵悉貽書人,各界欲誅之。介璋以保全地方為宗旨,力戒不可輕啟釁端,至陷人民於塗炭。即於是月二十二日,開會解職,各界拘留不獲,乃改舉程萬為臨時都督。 江蘇派張謇,浙江湯壽潛,福建江春霖,湖南譚延闓,廣東梁鼎芬,廣西趙炳麟,四川喬樹柟,江西謝遠涵,山東柯劭忞,山西渠本翹,雲南王人文,陝西高增爵,分赴各屬,撫慰勸導,宣布朝廷實行改革政治宗旨。 命各省選派代表三五人來京,公同會議,以定國是。 安徽兵變,朱家寶出走。當家寶初為皖督也,有王天培者,自稱奉湖北軍政府命,為安徽都督,士民逐之。是月二十四日,有潯軍至,向總司令黃煥章索餉不得,即擁至督署。家寶聞警,縋城逸,潯軍遂焚都督府,奪軍械局,攻新諮議局,刦庫款。是夜,防營復搶掠紳富之家及商會公典,秩序大紊。 袁世凱組織內閣成。世凱既奉任命,屢辭不許,是月二十六日,入閣辦事,薦舉梁敦彥為外務大臣,趙秉鈞為民政大臣,嚴修為度支大臣,唐景棠為學務大臣,王士珍為陸軍大臣,薩鎮冰為海軍大臣,沈家本為司法大臣,張騫為農工商大臣,楊士琦為郵傳大臣,達壽為理藩大臣,並以胡維德等為各部次官。 停泊九江之海容、海籌、海琛三兵艦,又魚雷數艘,歸附於九江民軍政府。 冬十月,四川成都民軍起,推蒲殿俊為都督。是月初二日,四川之重慶府已宣告獨立,成都士紳請將軍玉崑勸諭旗人繳械,歸民軍保護,遂於初七日宣佈獨立。 以克復漢陽功,賞馮國璋二等男爵。 署四川總督端方至資州,為軍士所殺。端方入川,聞湖北民軍起,謀北走陝西,至資州。所帶湖北軍士,斬其首還鄂。 各省民軍政府,舉伍廷芳為外交總長。 各省民軍政府,公推鄂軍政府為中央軍政府。 山東取銷獨立。山東宣告獨立時,孫寶琦曾向紳民宣誓三條:「一、山東全省人民自今對於北京,斷絕一切關係。二、以山東全省加入中華民國政府。三、關於本省內部之組織,分為議決、行政、軍政各部,和衷共濟,俟大局定後,共和政體完全成立,再行變更。」政府聞而大驚,慶王奕劻、內閣總理大臣袁世凱函電交馳,皆責其滷莽。寶琦因而大恚,遂電奏請罪,取銷獨立名義,廷旨且嚴責之。至是,世凱遣張廣建、吳炳湘至濟南,命署布政使及巡警道,聯合第五鎮統制吳鼎元等,取銷獨立,旋以廣建代寶琦為巡撫。 外蒙古庫倫宣告獨立,逐辦事大臣三多。 民軍攻取南京,張人駿等遁。江蘇都督程德全親督民軍攻南京,是月初三日視師舟陽,江浙聯軍推德全為海陸聯軍總司令長,駐高資。前鋒至棲霞山上,初四日倰晨,與防軍遇於孝陵街,民軍戰勝,副將王有宏死於彈,遂佔領烏龍山礮臺。初四日正午,佔領幕府礮臺。午後,佔馬羣孝陵衛一帶。初六日,遂以礮燬太平門北極閣,防軍死傷者三千餘人,而孝陵衛、獅子山、雨花臺皆為聯軍所有。初七夜,攻神策門,總督張人駿、將軍鐵良由北極閣走匿日領事署。初八日,聯軍攻破太平、朝陽兩門,恐伏有地雷,不敢進。初十日,聯軍戰勝於浦口。十二日晨八時,防軍有開太平門以迎聯軍者。九時,防軍將曹榮華率千人,胡令宣率三百人,皆降於聯軍。至午後二時,聯軍進佔雨花臺、獅子山礮臺及清涼山火藥軍械局,即以礮毀南門、儀鳳門、太平門。四時,大隊入城,搜地雷毀之。張勛走徐州,人駿、鐵良乘日本礮艦逃往山東之青島。翌日,民軍推程德全改任江蘇都督,移駐南京。 河南巡撫寶棻開缺,以齊耀琳代之,以倪嗣沖為河南布政使。 武漢南北兩軍議和,停戰三日,嗣又展期三日。 監國攝政王載沣以醇親王退歸藩邸。 以世续、徐世昌為太保。 命臣民自由剪髮。 袁世豈委任唐紹怡為全權代表,與民軍議和。 江西改舉馬毓寶為都督。當彭程萬之被推舉為都督也,程萬誓死力辭,眾強之乃允,暫攝都督五日,宣言於五日內迅即組織第三都督,並由各界議決,改舉駐潯都督馬毓寶為江西都督,遣人赴潯迎之,而毓寶以「武漢戰事方亟,九江防務宜嚴」遲至是月十九日始抵南昌,接都督任。 四川成都兵變,改舉尹昌衡為都督。先是,是月十八日,川省先鋒隊三千餘人譁餉,戕官刦庫,焚掠市肆,計官民損失數逾千萬以上。都督蒲殿俊、副都督朱慶瀾皆避去,城中主持無人,擾亂至一畫夜之久。昌衡時為陸軍小學總辦,急入鳳凰山營,激勵將士,率之入城。次日,復涕泣誓師,以掃除亂兵為己任,於是軍心感動,推昌衡為都督,羅綸為副都督。昌衡受事後,極力維持秩序,大局安定。 以馮國璋充禁衛軍總統官。 以良弼為軍諮使。 命前郵傳大臣唐紹怡為全權代表,與民軍議和,代表伍廷芳等會議於上海英租界之市政廳,時又展停戰期十五日,嗣又展期七日。 山西巡撫張錫鑾帶兵至太原。時民軍山西都督閻錫山因兵單退駐平陽府,錫鑾督師攻入娘子關,錫山遁走,軍心因以不固,致潰散,遂棄太原。 十一月,四川成都民軍殺前川督趙爾豐。成都宣告獨立後,爾豐猶擁兵居總督署,十八日之變,爾豐猶用舊總督名議,出示招安亂兵。是月初三日,民軍乃圍攻總督署,擒爾豐,殺之於明遠樓側。 安徽舉孫毓筠為都督。九月二十四日,潯軍譁變於安慶,都督朱家寶遁去。及潯軍政府參謀長李烈鈞率軍至,剿除亂兵,士民乃請烈鈞暫攝都督事,一面公請大通軍政分府黎宗嶽為都督。宗嶽未致,至是月初三日,皖中乃改舉毓筠為都督。 廣東舉副都督陳烱明代理都督。時孫文歸國,遇香港,胡漢民從之至上海,由烱明代攝都督事。 命開臨時國會,公決政體。時南北議和代表,因所主張政體不同情形,電達內閣,故降諭召集臨時國會,付之公決,而命內閣將選舉法妥議施行。 各省民軍代表選舉孫文為臨時大總統。是月初十日,十七省軍政府代表大會於江甯舊諮議局,正式選舉總統孫文當選為臨時大總統。 中華民國臨時大總統孫文在南京就任。民軍以江甯為臨時政府,是月十三日,孫文履任,改用陽曆,以是日為民國元年元旦。 江蘇舉莊蘊寬代理都督。時程德全因病不能視事,故舉蘊寬代理,移駐蘇州。 袁世凱撤銷唐紹怡議和代表。紹怡與伍廷芳等在上海議定國民會議召集方法,電達北京,世凱不允承認,紹怡辭職,允之。世凱致廷芳電,謂嗣後應商事件直接電商。 民國各省代表選舉黎元洪為副總統。 伊犁民軍起,推前任將軍廣福為都督。將軍志銳,死之。 袁世凱途遇炸彈,未傷,護從衛隊隊長袁金標及兩排長隊兵三名皆死之。是月三十日,世凱赴朝,行至王府井大街,遇炸,刺客張先培、黃之萌、楊品三皆被執,絞斃於東菜市口。 十二月,錫封袁世凱一等侯爵,世凱固辭不受。 軍諮使良弼被刺。是月初八日,民黨彭家珍冒名奉天講武堂監督崇泰,至西城紅羅廠,良弼寓宅拜謁。適良弼自肅王府歸,甫下車,與家珍遇,彈發炸良弼,左腿立斷。家珍已傷頭部先斃,良弼死二時始蘇,謂母曰:「殺我者,好英雄也,真知我也。」旋語西席康譔瞿曰:「我死不足惜,惟清廷宗社從此滅亡,為可慟耳!上年,我奏請放釋黨人,請開國會,皆不我聽。今秋變起,請以禁軍赴前敵,又不我用而委之蔭昌。內廷紛爭,外患四起,我宗社之亡,將無日也!我見政府不可為,始組織宗社黨,甫有頭緒,欲實力進行,而我就受此懮慟!我死,清廷亦將之亡也!刺我者已死,我知之也。」延至初十日午間,遂卒。 授袁世凱全權,與民軍商酌退位條件。時第一軍總統官段祺瑞等四十六人電請速定共和政體,隆裕太后諭:「朝廷何忍以一姓之尊榮,貽萬民以實禍?惟是宗廟陵寢以及皇室之優禮、皇族之安全、八旗之生計、蒙古、回藏之待遇均應預為籌畫,故授袁世凱全權,與民軍研究一切辦法。」 隆裕太后下詔,率帝將統治權公諸全國,清亡。袁世凱與民國議和代表議定優待皇室八條: 一、帝但御政體,不廢尊號。中華民國以待各外國君主之禮相待。 二、皇室經費,歲由中華民國撥用四百萬兩。 三、帝暫居宮禁。 四、宗廟、陵寢由中華民國保護。 五、德宗陵制,如舊妥修。 六、宮內各項執事人員,照常留用,惟不得再招鬮人。 七、皇室私產,由中華民國特別保護。 八、原有之禁衛軍,歸中華民國陸軍部編制,額數、俸餉如舊。 待遇皇族四條: 一、王公世爵仍舊。 二、皇族對於中華民國國家之公權及私權,與國民同等。 三、皇族私產,一體保護。 四、皇族免當兵之義務。 待遇滿、蒙、回、藏七條: 一、與漢人平等。 二、保護其原有之私產。 三、王公世爵仍舊。 四、王公中有生計遇艱難者,設法代籌生計。 五、先籌八旗生計,於未籌定之前,八旗兵弁俸餉仍舊支放。 六、蠲除從前營業、居住等限制,各州縣聽其自由入籍。 七、滿、蒙、回、藏原有之宗教,聽其自由信仰。 以上條件,經袁世凱奏入,太后屢召皇室會議,至是月十九日,決定下詔辭位。二十五日,帝退位。滿洲入主中國二百六十八年,至是乃亡。
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