東周列國志第二回 褒人、罪を償うため美女を献じる/幽王、烽火で諸侯を戯れに弄ぶ (褒人贖罪獻美女 幽王烽火戲諸侯)

宣王の崩御と幽王の即位

  • 宣王は東郊で狩りをした際に杜伯と左儒の亡魂に命を求められ、病を得て宮に戻った。目を閉じればすぐに杜伯と左儒の姿が見えるようになった。宣王は自らもう起き上がれないと悟り、薬を服することも拒んだ。三日後、病はいよいよ重くなった。
  • そのころ周公はすでに久しく引退しており、仲山甫もすでに没していた。そこで老臣の尹吉甫と召虎を召し、後事を託した。二臣が榻の前まで来て頭を下げ安否を尋ねると、宣王は内侍に体を支えさせ繍の褥にもたれて二臣に言った。「朕は諸卿の力によって在位四十六年、南を征し北を伐って四海を安んじてきた。思いがけず病に倒れて起き上がれなくなった。太子宮涅は年こそすでに長じているが、性格がかなり道理に暗い。卿らは力を尽くして輔佐し、代々の事業を絶やさぬように。」二臣は頭を下げて命を受けた。
  • 宮門を出たところで太史伯陽父に出会った。召虎はひそかに伯陽父に言った。「以前の童謡の言葉を、私はかつて弓矢の変事があるかもしれないと言ったが、今、王は自ら祟りをなす亡霊を目にし、朱色の弓と赤い矢で射られて、そのために病が篤くなった。その兆しはすでに応じており、王は必ず起き上がれまい。」伯陽父は言った。「私が夜に天体の運行を観察したところ、妖星が紫微垣に隠れ伏していた。国家にはさらに他の変事があるだろう。王の身はそれに当たるだけでは済むまい。」
  • 尹吉甫は言った。「『天定まれば人に勝ち、人定まればまた天に勝つ』という。諸君はただ天道のみを語って人事を廃するとは、三公六卿をどこに置くつもりか。」言い終えて各々散った。──もしこのような三公六卿であれば、彼らを少しばかり見くびったとて行き過ぎではあるまい。──
  • しばらくして各官はまた宮門に集まって様子をうかがったが、御体が重篤であると聞き、家に帰る気になれなかった。その夜、王は崩じた。姜后の命により、遺命を託された老臣尹吉甫と召虎が百官を率いて太子宮涅に喪礼を行わせ、柩前で即位させた。これが幽王である。翌年を元年とし、申伯の娘を王后に立て、子の宜臼を太子とし、后の父申伯を進めて申侯とした。
  • 史臣に宣王の中興の美を讃えた詩がある。
  • (詩:赫たる宣王の徳は盛んで世に及び、その威は辺境の地まで震わせ、鼎と雉の異変も消し去った。外に仲山甫、内に姜后を得て、治を大いに助け、父の業を継いで中興の旗を立てた、という趣旨の詩)

幽王の暴政と虢石父らの専横

  • 姜后は悲しみのあまり、まもなく亡くなった。幽王は人となり暴戻で恩情に薄く、行動に一定の節度がなかった。ちょうど喪に服する期間(天子の喪に服することを諒陰という。陰の字は菴と読む)にあたって、心無い者どもと馴れ合い、酒を飲み肉を食らい、まったく哀しみの心がなかった。姜后が亡くなってからはますます遠慮がなくなり、声色に耽って政を顧みなくなった。申侯はたびたび諫めたが聞き入れられず、退いて申国(今の信陽州)に帰ってしまった。これもまた西周の命運が尽きようとしていたためか、尹吉甫や召虎ら一班の老臣も相次いで世を去った。
  • 幽王は新たに虢公・祭公を用い、尹吉甫の子尹球とともに三公に列した。この三人はみな媚びへつらう人物で、地位と俸禄をむさぼる輩であった。ただ王の欲するところに従い、機嫌を取ることに余念がなかった(地位と俸禄をむさぼれば当然欲に従って機嫌を取り、欲に従って機嫌を取れば当然媚びへつらう。聖人が「貪欲な者にはその国を任せられない」と言ったのも、まさに彼らが必ずこのように欲に従い媚びへつらうに至るからである)。
  • そのころ、ただ司徒鄭伯友(鄭は姫姓の国。友は厲王の末子で、宣王が封じた。今の陝西華州城の北に古い鄭城の跡があり、そこがその地である。幽王の時、友は入朝して司徒となった)だけが正しい人物であったが、幽王は彼を信用しなかった。
  • ある日、幽王が朝廷に出ると、岐山(今の鳳翔府岐山県)を守る役人が「涇水・河水・洛水の三川が同日に地震を起こした」と奏上した。幽王は笑って言った。「山が崩れ地が震えるのはよくあることだ。何を朕に告げる必要があろうか。」そのまま退朝して宮に戻った。──私が常々思うに、天は実に情け深いが、また実に多事でもある。世の人の家や国が滅びようとするとき、本来天とは関わりのないことなのに、天はわざわざ山崩れ・川涸れ・怪物・妖人などの様々な光景を出現させる。しかも一度や二度で終わらない。このような事は、人臣が多事で報告するには及ばないというばかりではない。天公についても、私は何を好んでわざわざ報告しに来るのかと訝しく思うのである。──
  • 太史伯陽父は大夫趙叔帶の手を執って嘆じて言った。「三川は岐山に源を発している。どうして震えることがあろうか。昔、伊水・洛水が涸れて夏が滅び、河水が涸れて商が滅んだ。今三川がみな震えたということは、川の源が塞がろうとしているのだ。川がすでに塞がり涸れれば、その山は必ず崩れる。そもそも岐山は太王(太王とは古公のこと、文王の祖父にあたる)が興った地である。この山が一たび崩れれば、西周は無事でいられようか。」
  • 趙叔帶は「もし国家に変事があるとすれば、いつごろでしょうか」と尋ねた。伯陽父は指を折って「十年のうちを出ることはあるまい(十年以内に必ず起こる)」と言った。叔帶が「どうしてそれが分かるのですか」と問うと、伯陽父は「善が満ちて後に福が来る、悪が満ちて後に禍が来る。十とは数の満ちる数である」と答えた。
  • 叔帶は「天子が国政を顧みず、佞臣を任用しておられる。私は諫言の職にあるからには、必ず臣の節を尽くして諫めねばならぬ」と言った。伯陽父は言った。「ただ言っても益がないのではないかと恐れる。」──君が聞くか聞かないかを問わず必ず言うのが、諫臣の職分である。聞かれないだろうと考えて言わないのは、機微を知る士のすることである。しかし他人が機微を知るのは構わないが、もし諫臣たる者が機微を知ることを自任すれば、それは心のねじけた者の口実とされてしまう。決してそうしてはならない。──
  • 二人がしばらく密かに語り合っていると、早くも虢公石父にこれが知らされた。石父は叔帶が進諫して自分の佞をあばくことを恐れ、まっすぐ深宮に入り、伯陽父と趙叔帶が私的に議論した言葉をすべて幽王に語った。「朝廷を誹謗し、妖言で衆を惑わしています」と言った。幽王は「愚人が勝手に国政を論じるのは、野原で屁をひるようなもの、聞くに足りない」と言った。

趙叔帶の追放

  • 趙叔帶は忠義の心を懐きながら、たびたび進諫しようとしたが機会を得られなかった。数日後、岐山を守る役人からまた上表があり、「三川はすべて涸れ、岐山もまた崩れ、民家を無数に押し潰した」と申し上げた。幽王はまったく畏れなかった。ちょうど左右の者に美色を訪ね求めさせ後宮に充てようとしていた。
  • 趙叔帶は上表して諫めた。「山が崩れ川が涸れるのは、その象は脂血がともに枯れ、高い所が危うく低い所へ墜ちることであり、国家不祥の兆しです。しかも岐山は王業の基となった地であり、一旦崩れ落ちたことは小事ではありません。今こそ政に勤め民を憐れみ、賢者を求めて政を輔けさせれば、なお天変を消し去ることが望めます。それをなぜ賢才を求めず、美女を求められるのですか。」──議論は正大である。しかし命運ばかりはどうにもならない。──
  • 虢石父が奏上した。「我が国朝は豊鎬に都を定め、千秋万歳の基とするものです。あの岐山などはすでに捨てた履のようなもので、何の関わりがございましょう。叔帶はかねてより君を軽んずる心を懐いており、口実を借りて誹謗しているのです。どうか王よ、お調べください。」
  • 幽王は「石父の言葉はもっともだ」と言い──私が見るに、いにしえより人君が佞臣を信じるのは、もともとその言うことが正しいと思うからにすぎない。それがいくらも経たぬうちに、家も国もそれとともにすっかり滅んでしまうことに気づかない。さらに至って愚かな君主になると、死ぬまで悟らず悔いることもない。実に悲しむべく恨むべきことである──、叔帶を免官して田野に追い返した。
  • 叔帶は嘆じて言った。「危うい国には入らず、乱れた国には居らずという。私は西周に麦秀の歌が起こるのをじっと座視するに忍びない(昔、箕子が紂王のもとを去り、紂の亡んだ後、微子が故商の地を通りかかって穀物の生い茂るのを見て麦秀の歌を作った故事による)。」そこで一家を挙げて晋国へと移った。──これが晋国の大夫趙氏の祖であり、趙衰・趙盾らはその後裔にあたる。後に趙氏は韓氏らとともに晋を三分し、諸侯に列した。これは後の話である。
  • (詩:忠臣は乱を避けてまず北へ帰り、世の運は次第に東へと傾いていく。いにしえより老臣は大切にすべきものであり、仁賢の者が一人去れば国はたちまち空虚になる、という趣旨の詩)

褒珦の諫言と褒姒の来歴

  • 大夫褒珦(珦は人の名。褒の地に食邑を得ていたので褒城から来た者)は、趙叔帶が追放されたと聞き、急いで朝廷に入って諫めた。「我が王は天変を畏れず、賢臣を退けておられます。国家が空虚になり社稷が保てなくなることを恐れます。」幽王は激怒し、珦を獄に囚えるよう命じた。これより諫める道は絶え、賢者や豪傑は心が離れていった。
  • 話は変わって、桑の木の弓と箕草の矢筒を売っていたあの男は、妖女を懐に抱いて褒の地へと逃げ、育てようとしたが乳や食べ物に乏しかった。ちょうど姒大という者の妻が、自分の産んだ女児を育てられずにいたので、いくらかの布地などを贈り、この女児(妖女)を姒大の家へ引き取ってもらった。姒大の家で育てて成人させ、褒姒と名付けた。
  • 年齢は十四歳とはいえ、体つきはすでに十六、七歳の笄を挿す年頃(成人)の娘のように成長していた。しかも目は涼しく眉は清らかで、唇は紅く歯は白く、髪は黒雲のように豊かに結い上げられ、指は削り出した玉のようであった。花のような月のような容貌を備え、傾国傾城の美貌であった。一つには姒大の住まいが辺鄙な田舎であったこと、もう一つには褒姒がまだ幼かったことから、絶世の美女でありながら誰も嫁に望む者がなかった。

褒姒の入宮と幽王の寵愛

  • 褒珦の子洪德が、たまたま租税の取り立てで田舎に来た。ちょうど褒姒が門前で水を汲んでいるのに出くわし、田舎の粗末な身なりでありながら絶世の美しさを隠せずにいるのを見て、洪德は大いに驚いた。「このような辺鄙な田舎に、このような美貌の女がいようとは。」ひそかに考えた。「父は鎬京の獄に囚われて三年、まだ釈放されない。もしこの女を天子に献上できれば、父の罪を贖うことができるだろう。」
  • 近隣に確かな姓名を尋ね、家に帰って母に告げた。「父は直諫によって主君の意に逆らったのであり、赦されぬほどの罪を犯したわけではありません。今、天子は荒淫無道で、四方から美色を購い求め後宮を充実させようとしています。姒大の娘は非常な絶世の美女です。もし多くの金銀や絹を用いてこれを買い取り献上すれば、父の獄を寛大にしてもらえるでしょう。これは散宜生が文王を獄から救った計略と同じです。」母は「その計略が本当に成るならば、金品を惜しむことはない。お前はすぐに行きなさい」と言った。
  • 洪德は自ら姒家に赴き、姒大と交渉して布帛三百疋で褒姒を買い取り、家に連れ帰った。香湯で沐浴させ、上等な美食を食べさせ、綾錦の衣を着せ、礼儀作法を教え込んでから、鎬京に連れて行った。まず金銀を使って虢公に取り入り、取り次ぎを求めた。「私、珦は自らの罪が万死に値することを承知しております。珦の子洪德は、父が死んでしまえば二度と生き返らぬことを痛み、特に美人を訪ね求めました。褒姒と申す者を献上して父の罪を贖いたく存じます。何とぞ我が王のお許しを。」
  • 幽王はこれを聞き、すぐに褒姒を殿上に召した。拝礼が終わり、幽王が頭を上げて見ると、姿容や態度はかつて目にしたことのないほどで、流し目を送るとその輝くばかりの美しさが人を照らした。龍顔は大いに喜んだ。──四方から美女が献上されてきたとはいえ、褒姒の万分の一にも及ばなかった──。そこで申后には知らせず、褒姒を別宮に留め、詔を下して褒珦を獄から赦し出し、官爵を元通りにした。
  • その夜、幽王は褒姒と共寝し、夫婦の交わりの楽しみは言うまでもなかった。それから座れば股を重ね合い、立てば肩を並べ、飲めば杯を交わし合い、食べれば同じ器から食べた。十日連続して朝廷に出なかった。朝門で伺候する群臣は誰もその顔を拝することができず、みな嘆息して去るばかりであった。これは幽王四年のことである。
  • (詩:手折った名花を国香と呼び、粗末な荊のかんざしをつけた身がたちまち立派な寝床に上った。風流な天子には他愛もないことだが、龍の涎がすでに禍のもとになっていることには気づかない、という趣旨の詩)

申后との確執と太子の申国送り

  • 幽王は褒姒を得てからその美貌に迷い、瓊台に住まわせて三ヶ月ほど、ついに申后の宮へは足を運ばなかった。早くもこのことは申后の耳に入った。申后は憤りに耐えかね、ある日宮女たちを引き連れてまっすぐ瓊台へ赴いた。ちょうど幽王が褒姒と膝を並べて座っているところに出くわしたが、二人は立ち上がって迎えることもしなかった。申后は怒りを抑えきれず、「どこの卑しい下女が、ここで宮中を汚しに来たのか」と罵った。
  • 幽王は申后が手を出すのを恐れ、自らの体で褒姒をかばいながら答えた。「これは朕が新たに迎えた美人で、まだ位次が定まっておらぬゆえ、まだ拝謁させておらぬ。怒るには及ばぬ。」申后はひとしきり罵り、恨みを抱いたまま去った。褒姒は「先ほどの方はどなたですか」と尋ねた。幽王は「あれは王后である。明日にでも参って謁見するがよい」と言った。褒姒は黙って何も言わなかった。翌日になっても王后の宮へは参らなかった。
  • 申后は宮中で憂え悶えて過ごしていた。太子宜臼がひざまずいて尋ねた。「母上は後宮の主として尊いお立場にありながら、何を楽しまれずにおられるのですか。」申后は言った。「お前の父は褒姒を寵愛して、嫡妾の分をまったく顧みない。もしこの下女が思うがままになれば、我ら母子は身の置き所がなくなるだろう。」そして褒姒が謁見に来ないこと、立ち上がって迎えなかったことなどを詳しく太子に語り、涙をこぼした。
  • 太子は言った。「この事は難しくありません。明日は朔日で、父上は必ず朝を視られるでしょう。母上は宮人を瓊台へ遣わし花を摘ませ、あの卑しい女を誘い出して観察させてください。それを待って私があの女を殴りつけ、母上の恨みを晴らします。たとえ父上が咎められても、罪は私が負い、母上には及びません。」申后は「我が子よ、軽率にしてはならぬ。もう少しよく相談しよう」と言った。太子は憤りを抱いたまま宮を出た。
  • また一晩過ぎ、翌朝、果たして幽王は朝廷に出て、群臣は朔の賀を述べた。太子はわざと数十人の宮人を瓊台の下に遣わし、理由も問わせずに花を乱暴に摘ませた。台の中から一群の宮人が出てきて遮り、「この花は陛下がお植えになったもので、褒娘娘が常に鑑賞されているものです。損なってはなりません、大変な罪になります」と言った。こちらの宮人は「私どもは東宮の令旨を受けて花を摘み、王后さまに供えるのです。誰が妨げるものか」と言った。互いに言い争いになり、それに驚いて褒妃が自ら台を出て様子を見に来た。怒りが心から湧き上がり、まさにそれを爆発させて咎め立てようとしたところに、思いがけず太子が突然現れた。
  • 褒妃はまったく用心していなかったので、太子は仇敵同士が出会ったように目を吊り上げ、一歩進み出て黒雲のように結った髪飾りをつかみ、大声で罵った。「卑しい下女め。お前は何者だ。名も位もないくせに、みだりに娘娘と称するとは、目に人を見ぬにもほどがある。今日はお前に思い知らせてやろう」と拳を握って殴りかかった。数拳ほど打ったところで、宮女たちは幽王の咎めを恐れ、一斉にひざまずいて頭を下げ、「千歳様、お許しください。すべて王さまの面目にご配慮ください」と叫んだ。太子もまた命に関わることを恐れ、すぐに手を止めた。
  • 褒妃は恥辱と痛みを抱えたまま台に戻り、これが太子が母のために出た仕返しであることを知り、涙を流し続けた。宮女たちは「娘娘、悲しまれることはございません。おのずと王さまがお取り計らいくださいましょう」と慰めた。言い終わらないうちに、幽王が退朝してまっすぐ瓊台にやって来た。褒姒の両鬢が乱れ、涙にぬれているのを見て、「いとしい人は、どうして今日はまだ化粧をしていないのか」と尋ねた。
  • 褒姒は幽王の袍の袖を引いて声を上げて泣き、訴えた。「太子が宮人を率いて台の下で花を摘み、わたくしは何の罪も犯していないのに、太子はわたくしを見るなり打ち罵りました。もし宮女たちが必死に止めてくれなければ、命が持ちませんでした。どうか我が王、お取り計らいください。」言い終わって、むせび泣きながら痛哭してやまなかった。
  • 幽王は内心では事情がよく分かっていたので、褒姒に言った。「お前がその母(王后)のもとに挨拶に行かなかったので、このようなことになったのだ。これは王后の命によるもので、太子の本意ではあるまい。誤って人を咎めてはならぬ。」褒姒は言った。「太子は母のために恨みを晴らそうとし、その意はわたくしを殺さなければ止まぬというものです。わたくし一身は死んでも惜しくはありませんが、寵愛をいただいてから身ごもって、すでに二ヶ月になります。わたくしの命は二つの命なのです。どうか王よ、わたくしを宮の外へ出させ、母子二つの命を全うさせてください。」幽王は「いとしい人よ、しばらく養生せよ。朕には考えがある」と言った。
  • その日のうちに詔を出した。「太子宜臼は勇を好んで礼を欠く(勇を好んで礼を欠くという四字は正しく責めた言葉だ、私が今これを論じても、やはり彼が勇を好んで礼を欠いたのを怪しまざるを得ない。ただし君王のほうに礼があったかどうかは分からない)、上の意に従い順うことができぬ。しばらく申国に遣わし、申侯の教訓を受けさせよ。東宮の太傅・少傅ら輔導の官はその務めを果たさなかったので、すべて免職とする(輔導が務めを果たさなかったという四字もまた正しく責めた言葉だ、私が今これを論じても、やはり輔導の任にある者が務めを果たさなかったのを怪しまざるを得ない。ただし君王を輔導する者のほうに落ち度がなかったかどうかは分からない)。」
  • 太子は宮に入って事情を訴えようとしたが、幽王は宮門に「取り次ぎを許すな」と命じていた。やむなく車を駆って自ら申国へと去った。申后は久しく太子が宮に来ないので、宮人に問わせ、ようやく申国に貶められたことを知った。孤立無援で、終日夫を怨み子を思い、涙を流して日を過ごした。

伯服の誕生と廃立の謀

  • 褒姒は懐妊十ヶ月満ちて、一子を生んだ。幽王はこれを珍宝のように愛し、伯服と名付けた。そこで嫡子を廃して庶子を立てようという考えを抱いたが、その理由がなく、口に出しにくかった。虢石父は王の心中を察し、尹球と謀って褒姒に密かに通じ、「太子はすでに母の実家へ追われたのですから、当然伯服を後嗣とすべきです。内には娘娘の枕元での言葉があり、外には我ら二人が力を合わせて助ける以上、成功しないはずがありません」と言った。褒姒は大いに喜び、「すべて二卿の御尽力に頼ります。もし伯服が位を継げば、天下は二卿とともに享受いたします」と答えた。褒姒はこれより腹心の者を密かに遣わし、日夜申后の落ち度を伺わせた。宮門の内外にはすべて耳目を置き、風が吹き草が動くほどのことも残らず知るようになった。
  • 申后は独り宮に居て日々涙にくれていた。年配の宮人がその心中を知り、ひざまずいて申し上げた。「娘娘が殿下を思われるならば、なぜ一通の書状をしたためて密かに申国へ送り、殿下に上表して謝罪させないのですか。もし万歳を感動させ、東宮に召し戻させることができれば、母子ともに再会でき、これに勝る喜びはございません。」申后は「その言葉はもっともだが、伝える人がいないのが恨めしい」と言った。宮人は「わたくしの母、温媼は医術をよく心得ております。娘娘が病と偽って媼を宮に召し、脈を診させたうえで、この書状を媼に持ち出させれば、わたくしの兄に送らせます、万に一つも誤りはありません」と言った。申后はこれを承知し、書状を一通したためた。その大意はこうであった。「天子は無道で、妖婦を寵信し、我ら母子を離れさせてしまった。今その妖婦は子を生み、寵はますます固まった。お前は上表して、偽って自分の罪を認めたふりをし、こう言うがよい。『今すでに悔い改めましたので、父王の寛大なお許しを願います』と。もし天がお赦しになり帰朝できれば、母子は再び相まみえ、その時また別に計を立てよう。」書き終えて病と称して床に臥し、温媼を召して脈を診させた。すでにこのことは褒妃に知らされていた。褒妃は「これは必ず何か情報を伝える事があるはずだ。温媼が宮を出るのを待って身体を検めれば、実情が分かるだろう」と言った。

温媼の密書発覚と申后の廃位・褒妃の立后

  • 温媼が王后の宮に来ると、宮人は前もってこのことを知らせてあった。申后は脈を診てもらうふりをしながら、枕元から書状を取り出し、「夜を日についで急ぎ申国に送るように。決して遅れてはならぬ」と嘱した。そこで色染めの絹二反を賜った。温媼はその書状を懐に入れ、両手に色染めの絹を捧げ持ち、悠々と宮を出た。ところが門番の宮監に呼び止められ、「この繒はどこから得たものか」と問われた。媼は「わたくしは王后の脈を診て参りました。これは王后から賜ったものです」と答えた。内監は「他に持ち出す物はないか」と問うた。「ございません」と答え、まさに通してもらおうとしたところ、また一人が「調べなければどうして有る無しが分かろうか」と言い、媼の手を取って引き戻した。媼はあちこち身をかわし、慌てた様子を見せた。宮監は疑いを深め、ますます調べようとした。皆で前に進み、衣の襟を引き裂くと、書の端が現れ出た。ついに宮監に申后の書状を見つけられ、すぐさま人ともども瓊台へ連行され褒妃のもとに引き出された。
  • 褒妃は書状を開いて見ると、心中大いに怒った。温媼を空き部屋に閉じ込め、消息を漏らすことを許さなかった。そして色染めの絹二疋を自らの手で切り裂き、ずたずたに引き裂いた。幽王が宮に入り、案上に裂かれた繒があるのを見て、その来歴を尋ねた。褒姒は涙を含みながら答えた。「わたくしは不幸にも深宮に入り、思いがけず寵愛を受けたことで王后の嫉妬を招きました。またさらに不幸にも子を生んだことで、その妒みはますます深まりました。今、王后は太子に書状を送り、その書の末尾に『別に計を立てよう』とあります。必ずわたくし母子の命を狙う何事かがあるはずです。王よ、どうかわたくしのためにお計らいください。」と言って、書状を幽王に呈して見せた。幽王は申后の筆跡を見て取り、書を伝えた者を尋ねた。褒妃は「今、温媼がここにおります」と言った。幽王はすぐに引き出させるよう命じ、有無を言わさず剣を抜いて真っ二つに斬った。
  • 髯翁の詩に云う。(詩:深宮からの一通の書状もまだ届かぬうちに、まず無実の血を鋭い刃に濺いだ。後年もし太子の廃立の事を問われれば、温媼こそがまず第一の功を成した者と言われるだろう、という趣旨の詩)
  • その夜、褒妃はまた幽王の前で甘えて泣き言を言った。「わたくし母子の命は太子の手にかかっております。」幽王は「朕がついているのだ。太子に何ができようか」と言った。褒姒は「我が王が千秋万歳の後には、いずれ太子が君となるほかありません。今、王后は昼夜宮中で恨みを抱き呪詛しています。万一彼ら母子が権を握れば、わたくしと伯服は死んでも葬られる場所さえないでしょう」と言い、むせび泣きながらまた泣き出した。
  • 幽王は「朕は王后と太子を廃し、お前を正妃に、伯服を東宮に立てようと思うが、ただ群臣が従わぬのではと恐れる。どうしたものか」と言った。褒妃は「臣が君に従うのは順です。君が臣に従うのは逆です。我が王がこの意を大臣に告げ、公議がどう出るかをご覧になればよいでしょう」と言った。幽王は「その言葉はもっともだ」と言った。その夜、褒妃はあらかじめ腹心の者を虢公・尹球のもとに遣わして言い含め、翌朝の対応を準備させた。
  • 翌日、早朝の礼を終えると、幽王は公卿を殿上に召し、「王后は嫉妬し恨みを抱いて朕を呪詛している。天下の母たるにふさわしくない。捕らえて罪を問うべきではないか」と切り出した。虢石父は奏上した。「王后は後宮の主であり、罪があっても捕らえて問うことはできません。もし徳が地位にふさわしくなければ、詔を伝えて廃するのが当然であり、改めて賢徳の者を選んで天下の母とすれば、実に万世の幸いとなりましょう(まったくその通り、私も万世の幸いになると言おう)。」尹球は「私が聞きますに、褒妃は徳性貞静で、中宮を主どるにふさわしいお方です(まったくその通り、私も褒妃は徳性貞静で中宮を主どるにふさわしいと言おう)」と奏上した。
  • 幽王は「太子は申にいる。もし申后を廃せば、太子はどうなるのか」と言った。虢石父は奏上した。「私が聞きますに『母は子によって貴くなり、子は母によって貴くなる』と申します。今、太子は罪により申に避けており、朝夕のご機嫌伺いも久しく絶えております。しかも母をすでに廃するからには、どうしてその子を用いる必要がありましょう。臣らは伯服を東宮に立てることを願います。社稷のために幸いなことです(まったくその通り、私も社稷のために幸いだと言おう)。」
  • 幽王は大いに喜び、詔を発して申后を打ち捨てられた宮に退け、太子宜臼を廃して庶人とした。褒妃を立てて后とし、伯服を太子とした。もし進諫する者があれば、宜臼の党とみなして死罪に処すとした。これは幽王九年のことである。文武両列の官はみな心中不平であったが、幽王の意はすでに決していることを知り、いたずらに殺身の禍を招くだけで益がないと考え、みな口をつぐんだ。
  • 太史伯陽父は嘆じて言った。「三綱はすでに絶えた。周の滅亡は立って待つほどに近い。」その日のうちに官を辞して退いた。官職を棄て田野に帰る群臣も多かった。朝廷にはただ尹球・虢石父・祭公の一班の佞臣だけが側に残った。幽王は朝な夕な褒妃とともに宮中で楽しみに耽った。

烽火で諸侯を弄ぶ

  • 褒妃は正妃の位を篡ってからというもの、独り寵を専らにしながらも、いまだかつて一度も笑顔を見せたことがなかった。幽王はその歓心を得ようと、楽工を召して鐘を鳴らし鼓を打たせ、笛や琴の演奏をさせ、宮人に歌舞をさせて盃を進めさせた。褒妃はまったく喜ぶ様子を見せなかった。幽王は「いとしい人は音楽を聞くのが嫌いなようだが、何を好むのか」と尋ねた。褒妃は「わたくしには特に好むものはございません。ただ思い出しますに、昔わたくしが自ら色染めの絹を裂いたとき、その音がさわやかで聞くに値すると感じました」と言った。幽王は「絹を裂く音を聞くのが好きなら、なぜ早く言わなかったのか」と、司庫に日々色染めの絹百疋を進めさせ、力のある宮女に裂かせて褒妃を喜ばせようとした。それでも不思議なことに、褒妃は絹を裂くのを好みながらも、依然として笑顔を見せなかった。幽王は「卿はどうして笑わぬのか」と尋ねた。褒妃は「わたくしは生まれつき笑わぬ性分です」と答えた。幽王は「朕は必ずお前に一度笑わせてみせる」と言い、「宮の内外を問わず、褒后を一笑させることができた者には千金を賞す」との命令を出した。
  • 虢石父が策を献じて言った。「先王の昔、西戎が強盛であったため、彼らの侵入を恐れ、驪山(西の道の臨潼県の下にある)に烽火台を二十余ヶ所設けました。また大鼓を数十架設けました。賊寇があれば狼煙を上げ、まっすぐ天に沖するようにし、付近の諸侯が兵を発して救援しました。また大鼓を打ち鳴らして急を告げました。今、数年来、天下は太平で、烽火はすべて消えたままです。我が主が王后に笑みをこぼさせたいならば、王后とともに驪山に遊ばれるのがよろしいでしょう。夜、のろしを上げれば、諸侯の援兵が必ず来ます。来て見れば賊はおらず、王后は必ず笑うに違いありません。」幽王は「その計は実に妙だ」と言い──まったくその通り、私もこの計は実に妙だと言おう──、褒后とともに駕をそろえて驪山に遊びに出かけた。
  • 夕方になり驪宮に宴を設け、烽火を上げるよう命じた。そのとき鄭伯友がちょうど朝廷にあり、司徒として前導を務めていたが、命令を聞いて大いに驚き、急いで驪宮に駆けつけて奏上した。「烽火台は先王が緩急に備えて設けられたもので、それによって諸侯からの信を得るためのものです。今、理由もなく烽火を上げれば、諸侯を弄ぶことになります。もし異日万一の事があり、烽火を上げても、諸侯はもはや信じないでしょう。その時、何をもって兵を徴して急を救うのですか。」幽王は怒って言った。「今、天下は太平だ、何の用があって徴兵する必要があろうか。」──まったくその通り、私も天下太平で何の用に徴兵しようかと言おう。──「朕は今、王后とともに驪宮に出遊し、他に気晴らしがないので、諸侯とちょっとした戯れをするまでのこと。他日何かあっても、卿には関わりない。」──まったくその通り、私も卿には関わりないと言おう。──そのまま鄭伯の諫めを聞かず、大々的に烽火を上げ、さらに大鼓を打ち鳴らした。鼓の音は雷のようで、火の光は天を焦がした。
  • 畿内の諸侯は鎬京に異変があったのかと疑い、それぞれすぐに兵を集め将を任じ、夜通し駆けつけて驪山に至った。しかし聞こえてくるのは楼閣からの管弦の音だけであった。幽王と褒妃は酒を飲み楽しみにふけっており、人を遣わして諸侯に「幸いにも外寇はない、わざわざご足労には及ばぬ」と告げさせた。諸侯は互いに顔を見合わせ、旗を巻いて引き返した。褒妃は楼上で欄干に寄りかかり、諸侯が慌てて来て慌てて帰るのを眺め、何事もなかったことに思わず手を叩いて大笑いした。幽王は「いとしい人の一笑によってこの上ない魅力が生まれた。これも虢石父の力である」と言い、千金を賞した(このような大功にはこの賞でもまだ軽いくらいだ、と私は言おう。この一件は信を失ったわけではないとも言える。衰えた世の君主でも、信がまったくないわけではなく、ただ信の守り方が当を得ていなかっただけである)。──今に至るまで「千金買笑」という俗語が伝わるのは、この故事に基づく。──
  • 髯翁に「烽火戲諸侯」の一事だけを詠んだ詩がある。(詩:良い夜に驪宮では管弦の音が奏でられ、理由もなく烽火が天を焦がした。哀れなことに列国の諸侯は馳せ参じる苦労を強いられ、ただ褒妃を一度笑わせるためだけに終わった、という趣旨の詩)

申侯の上疏と幽王の伐申

  • 申侯は幽王が申后を廃し褒妃を立てたことを聞き、上疏して諫めた。「昔、桀は妹喜を寵愛して夏を滅ぼし、紂は妲己を寵愛して商を滅ぼしました。王は今、褒妃を寵信し、嫡子を廃して庶子を立てられました。夫婦の義に背き、父子の情を傷つけておられます。桀・紂の事が今再び現れ、夏・商の禍が近い将来に迫っています。どうか我が王、乱命を撤回され、亡国の禍をお免れください。」幽王はこれを読んで机を叩いて激怒し、「この賊はどうしてこのような妄言を吐くのか」と言った。
  • 虢石父は奏上した。「申侯は太子が追われたのを見て、久しく恨みを抱いております。今、王后と太子がともに廃されたと聞き、謀反の意を抱いているのでしょう。それゆえあえて王の過ちを暴いているのです。」──申侯はもともと言うべきことではなかったし、言い方もうまくなかった。そのためつまらぬ者に口実を与えてしまったのだ。──幽王は「それではどう処置すべきか」と言った。石父は奏上した。「申侯はもともと功もなく、后によって爵位を得たに過ぎません。今、后と太子がともに廃された以上、申侯もまた爵位を降し、もとの伯に戻すべきです。兵を発して罪を討てば、後患を絶つことができましょう。」幽王はこれを許し、申侯の爵位を削るよう命令を下した。石父を将とし、兵を選び戦車を整え、申を討伐する軍を起こそうとした。勝敗がどうなるかは、次回を見てのお楽しみ。
原文(底本)
== 第二回 褒人贖罪獻美女 幽王烽火戲諸侯 ==

  話說宣王自東郊遊獵,遇了杜伯左儒陰魂索命,得疾回宮,合眼便見杜伯左儒。自知不起,不肯服藥。三日之後,病勢愈甚。其時周公久已告老,仲山甫已卒。乃召老臣尹吉甫召虎託孤。二臣直至榻前,稽首問安。宣王命內侍扶起,靠於繡褥之上,謂二臣曰:「朕賴諸卿之力,在位四十六年,南征北伐,四海安甯。不料一病不起!太子宮涅,年雖已長,性頗暗昧。卿等竭力輔佐,勿替世業!」二臣稽首受命。方出宮門,遇太史伯陽父。召虎私謂伯陽父曰:「前童謠之語,吾曾說過恐有弓矢之變。今王親見厲鬼,操朱弓赤矢射之,以致病篤。其兆已應,王必不起。」伯陽父曰:「吾夜觀乾象,妖星隱伏於紫微之垣。國家更有他變,王身未足以當之。」尹吉甫曰:「『天定勝人,人定亦勝天。』諸君但言天道而廢人事,置三公六卿於何地乎若似這等三公六卿,便小覷他些兒也不為過?」言罷各散。不隔一時,各官復集宮門候問,聞御體沈重,不敢回家了。是夜王崩。姜后懿旨召顧命老臣尹吉甫召虎率領百官,扶太子宮涅行舉哀禮,即位於柩前,是為幽王。詔以明年為元年,立申伯之女為王后,子宜臼為太子,進后父申伯為申侯。史臣有詩贊宣王中興之美云:

::;於赫宣王,令德茂世。威震窮荒,變消鼎雉。
::;外仲內姜,克襄隆治。幹父之蠱,中興立幟。

  却說姜后因悲慟太過,未幾亦薨。幽王為人暴戾寡恩,動靜無常。方諒陰之時天子居喪,名曰諒陰。陰音菴,狎昵羣小,飲酒食肉,全無哀戚之心。自姜后去世,益無忌憚,耽於聲色,不理朝政。申侯屢諫不聽,退歸申國去了申國,今信陽州。也是西周氣數將盡,尹吉甫召虎一班老臣,相繼而亡。幽王另用虢公祭公,與尹吉甫之子尹球,並列三公。三人皆讒諂面諛之人,貪位慕祿之輩;惟王所欲,逢迎不暇貪位慕祿,自然順欲逢迎,順欲逢迎自然讒諂面諛。聖人謂貪夫不可與其國,亦只為其必至順欲逢迎、讒諂面諛耳。其時只有司徒鄭伯友鄭,姬姓國。友,厲王少子。宣王所封,今陝西華州城北有古鄭城,即其地。幽王時,友入為司徒,是個正人,幽王不加信用。一日幽王視朝,岐山今鳳翔府岐山縣守臣申奏:「涇、河、洛三川,同日地震。」幽王笑曰:「山崩地震,此乃常事,何必告朕我常謂天公最是多情,卻亦最是多事。如世人家國將亡,本是與他無與,他偏要弄出山崩川竭、物怪人妖,許多光景變見出來,且不只一遭兩遭而已。此等事,不特人臣多事,不須來告,即天公,我亦怪其何必來告也。

!」遂退朝還宮。太史伯陽父執大夫趙叔帶手嘆曰:「三川發原於岐山,胡可震也?昔伊洛竭而夏亡,河竭而商亡。今三川皆震,川源將塞。川既塞竭,其山必崩。夫岐山乃太王太王即古公,文王之祖發跡之地,此山一崩,西周能無恙乎?」趙叔帶曰:「若國家有變,當在何時?」伯陽父屈指曰:「不出十年之內。」叔帶曰:「何以知之?」伯陽父曰:「善盈而後福,惡盈而後禍。十者,數之盈也。」叔帶曰:「天子不恤國政,任用佞臣,我職居言路,必盡臣節以諫之。」伯陽父曰:「但恐言而無益無論君之聽與不聽而必言,諫臣之職也。料其不聽而不言,知幾之士也。然他人知幾則可,若諫臣則以知幾自居,則為奸佞之所藉口矣,斷使不得。」二人私語多時,早有人報知虢公石父。石父恐叔帶進諫,說破他奸佞,直入深宮,都將伯陽父與趙叔帶私相議論之語,述與幽王。說他「謗毀朝廷,妖言惑衆。」幽王曰:「愚人妄說國政,如野田洩氣,何足聽哉!」

  却說趙叔帶懷著一股忠義之心,屢欲進諫,未得其便。過了數日,岐山守臣又有表章申奏說:「三川俱竭,岐山復崩,壓壞民居無數。」幽王全不畏懼。方命左右訪求美色,以充後宮。趙叔帶乃上表諫曰:「山崩川竭,其象為脂血俱枯,高危下墜,乃國家不祥之兆。况岐山王業所基,一旦崩頹,事非小故。及今勤政恤民,求賢輔政,尚可望消弭天變。奈何不訪賢才,而訪美女乎議論正大,其如氣數何!」虢石父奏曰:「國朝定都豐鎬,千秋萬歲。那岐山如已棄之屣,有何關係?叔帶久有慢君之心,借端謗訕。望吾王詳察。」幽王曰:「石父之言是也吾見歷古人君之信佞臣,原只見其說的是耳。不知是不幾時,而家國已隨之而盡。更有至愚之君,至死而不悟、不悔,真是可悲可恨。」遂將叔帶免官,逐歸田野。叔帶嘆曰:「危邦不入,亂邦不居。吾不忍坐見西周有麥秀之歌昔箕子去紂,紂亡後,微子行經故商地,見禾黍,乃作麥秀之歌!」於是攜家竟往晉國。──是為晉國大夫趙氏之祖,趙衰、趙盾即其後裔也。後來趙氏與韓氏三分晉國,列為諸侯。此是後話。後人有詩嘆曰:

::;忠臣避亂先歸北,世運凌夷漸欲東。
::;自古老臣當愛惜,仁賢一去國虛空。

  却說大夫褒珦珦,大夫名,食采於褒,自褒城來,聞趙叔帶被逐,急忙入朝進諫:「吾王不畏天變,黜逐賢臣,恐國家空虛,社稷不保。」幽王大怒,命囚珦於獄中。自此諫諍路絕,賢豪解體。

  話分兩頭。却說賣桑木弓箕草袋的男子,懷抱妖女,逃奔褒地,欲行撫養,因乏乳食。恰好有個姒大的妻子,生女不育,就送些布疋之類,轉乞此女過門。撫養成人,取名褒姒。論年紀雖則一十四歲,身材長成,到像十六七歲及笄的模樣。更兼目秀眉清,脣紅齒白,髮挽烏雲,指排削玉。有如花如月之容,傾國傾城之貌。一來姒大住居鄉僻,二來褒姒年紀幼小,所以雖有絕色,無人聘定。

  却說褒珦之子洪德,偶因收斂,來到鄉間。湊巧褒姒門外汲水,雖然村妝野束,不掩國色天姿。洪德大驚:「如此窮鄉,乃有此等麗色!」因私計:「父親囚於鎬京獄中,三年尚未釋放。若得此女貢獻天子,可以贖父罪矣。」遂於鄰舍訪問姓名的實,歸家告母曰:「吾父以直諫忤主,非犯不赦之辟。今天子荒淫無道,購四方美色,以充後宮。有姒大之女,非常絕色。若多將金帛,買來獻上,求寬父獄,此散宜生救文王出獄之計也。」其母曰:「此計如果可行,何惜財帛。汝當速往。」洪德遂親至姒家,與姒大講就布帛三百疋,買得褒姒回家。香湯沐浴,食以膏粱之味,飾以文繡之衣,教以禮數,攜至鎬京。先用金銀打通虢公關節,求其轉奏。言:「臣珦自知罪當萬死。珦子洪德,痛父死者不可復生,特訪求美人,名曰褒姒,進上以贖父罪。萬望吾王赦宥!」幽王聞奏,即宣褒姒上殿。拜舞已畢,幽王擡頭觀看,姿容態度,目所未睹;流盼之際,光豔照人。龍顏大喜。──四方雖貢獻有人,不及褒姒萬分之一。──遂不通申后得知,留褒姒於別宮,降旨赦褒珦出獄,復其官爵。是夜幽王與褒姒同寢,魚水之樂,所不必言。自此坐則疊股,立則並肩,飲則交杯,食則同器。一連十日不朝。羣臣伺候朝門者,皆不得望見顏色,莫不嘆息而去。此乃幽王四年之事,有詩為證:

::;折得名花字國香,布荊一旦薦匡牀,
::;風流天子渾閑事,不道龍漦已伏殃。

  幽王自從得了褒姒,迷戀其色。居之瓊臺,約有三月,更不進申后之宮。早有人報知申后,如此如此。申后不勝其憤,忽一日引著宮娥,逕到瓊臺。正遇幽王與褒姒聯膝而坐,並不起身迎接。申后忍氣不過,便罵:「何方賤婢,到此濁亂宮闈!」幽王恐申后動手,將身蔽於褒姒之前,代答曰:「此朕新取美人,未定位次,所以未曾朝見。不必發怒。」申后罵了一場,恨恨而去。褒姒問曰:「適來者何人?」幽王曰:「此王后也。汝明日可往謁之。」褒姒嘿然無言。至明日,仍不往朝正宮。

  再說申后在宮中憂悶不已。太子宜臼跪而問曰:「吾母貴為六宮之主,有何不樂?」申后曰:「汝父寵幸褒姒,全不顧嫡妾之分。將來此婢得志,我母子無置足之處矣!」遂將褒姒不來朝見,及不起身迎接之事,備細訴與太子,不覺淚下。太子曰:「此事不難。明日乃朔日,父王必然視朝。吾母可著宮人往瓊臺採摘花朵,引那賤婢出臺觀看,待孩兒將他毒打一頓,以出吾母之氣。便父王嗔怪,罪責在我,與母無干也。」申后曰:「吾兒不可造次,還須從容再商。」太子懷忿出宮。又過了一晚。次早,幽王果然出朝,羣臣賀朔。太子故意遣數十宮人往瓊臺之下,不問情由,將花朵亂摘。臺中走出一羣宮人攔住道:「此花乃萬歲栽種,與褒娘娘不時賞玩,休得毀壞,得罪不小!」這邊宮人道:「吾等奉東宮令旨,要採花供奉正宮娘娘,誰敢攔阻!」彼此兩下爭嚷起來,驚動褒妃親自出外觀看。怒從心起,正要發作。不期太子突然而至。褒妃全不提防,那太子仇人相見,分外眼睜。趕上一步,掀住烏雲寶髻,大罵:「賤婢!你是何等之人?無名無位,也要妄稱娘娘,眼底無人!今日也教你認得我!」捻著拳便打。纔打得幾拳,衆宮娥懼幽王見罪,一齊跪下叩首,高叫:「千歲,求饒!萬事須看王爺面上!」太子亦恐傷命,即時住手。褒妃含羞忍痛,回入臺中,已知是太子替母親出氣,雙行流淚。宮娥勸解曰:「娘娘不須悲泣,自有王爺做主。」說聲未畢,幽王退朝,直入瓊臺。看見褒姒兩鬢蓬鬆,眼流珠淚。問道:「愛卿何故今日還不梳妝?」褒姒扯住幽王袍袖,放聲大哭,訴稱:「太子引著宮人在臺下摘花。賤妾又未曾得罪,太子一見賤妾,便加打罵。若非宮娥苦勸,性命難存。望乞我王做主!」說罷,嗚嗚咽咽,痛哭不已。那幽王心下倒也明白,謂褒姒曰:「汝不朝其母,以致如此。此乃王后所遣,非出太子之意。休得錯怪了人。」褒姒曰:「太子為母報怨,其意不殺妾不止。妾一身死不足惜,但自蒙愛幸,身懷六甲,已兩月矣。妾之一命,即二命也!求王放妾出宮,保全母子二命。」幽王曰:「愛卿請將息,朕自有處分。」即日傳旨道:「太子宜臼,好勇無禮好勇無禮四字責備的是,即我今日論之亦怪其好勇無禮也。但不知君王有禮否,不能將順。權發去申國,聽申侯教訓!東宮太傅少傅等官,輔導無狀,並行削職輔導無狀四字亦責備的是,即我今日論之,亦怪其輔導無狀也。但不知君王輔導之人有狀否。」太子欲入宮訴明,幽王吩咐宮門:「不許通報。」只得駕車自往申國去訖。申后久不見太子進宮,著宮人詢問,方知已貶去申國。孤掌難鳴,終日怨夫思子,含淚過日。

  却說褒姒懷孕十月滿足,生下一子。幽王愛如珍寶,名曰伯服。遂有廢嫡立庶之意。奈事無其因,難於啟齒。虢石父揣知王意,遂與尹球商議,暗通褒姒。說:「太子既逐去外家,合當伯服為嗣。內有娘娘枕邊之言,外有我二人協力相扶,何愁事不成就。」褒姒大喜。答言:「全仗二卿用心維持。若得伯服嗣位,天下當與二卿共之。」褒姒自此密遣心腹左右,日夜伺申后之短。宮門內外,俱置耳目,風吹草動,無不悉知。

  再說申后獨居無侶,終日流淚。有一年長宮人,知其心事。跪而奏曰:「娘娘既思想殿下,何不修書一封,密寄申國,使殿下上表謝罪。若得感動萬歲,召還東宮,母子相聚,豈不美哉!」申后曰:「此言固好,但恨無人傳寄。」宮人曰:「妾母溫媼,頗知醫術。娘娘詐稱有病,召媼入宮看脈,令帶出此信。使妾兄送去,萬無一失。」申后依允,遂修起書信一通,內中大略言:「天子無道,寵信妖婢,使我母子分離。今妖婢生子,其寵愈固。汝可上表佯認己罪:『今已悔悟自新,願父王寬赦。』若天賜還朝,母子重逢,別作計較。」修書已畢,假稱有病臥牀,召溫媼看脈。早有人報知褒妃。褒妃曰:「此必有傳遞消息之事,俟溫媼出宮,搜檢其身,便知端的。」

  却說溫媼來到正宮,宮人先已說知如此如此。申后佯為診脈,遂於枕邊取出書信,囑咐:「星夜送至申國,不可遲誤。」當下賜綵繒慈陵切,音鄭二端。溫媼將那書信懷揣,手捧綵繒,洋洋出宮。被守門宮監盤住,問:「此繒從何而得?」媼曰:「老妾診視后脈,此乃王后所賜也。」內監曰:「別有夾帶否?」曰:「沒有。」方欲放去,又有一人曰:「不搜檢何以知其有無乎?」遂牽媼手轉來。媼東遮西閃,似有慌張之色。宮監心疑,越要搜檢。一齊上前,扯裂衣襟,那書角便露將出來。早被宮監搜出申后這封書,即時連人押至瓊臺,來見褒妃。褒妃拆書觀看,心中大怒。命將溫媼鎖禁空房,不許走漏消息。却將綵繒二疋,手自剪扯,裂為寸寸。幽王進宮,見破繒滿案,問其來歷。褒姒含淚而對曰:「妾不幸身入深宮,謬蒙寵愛,以致正宮妒忌;又不幸生子,取忌益深。今正宮寄書太子,書尾云:『別作計較。』必有謀妾母子性命之事。願王為妾做主。」說罷,將書呈與幽王觀看。幽王認得申后筆跡,問其通書之人。褒妃曰:「現有溫媼在此。」幽王即命牽出。不由分說,拔劍揮為兩段。髯翁有詩云:

::;未寄深宮信一封,先將寃血濺霜鋒,
::;他年若問安儲事,溫媼應居第一功。

  是夜,褒妃又在幽王前撒嬌撒癡說:「賤妾母子性命,懸於太子之手。」幽王曰:「有朕做主,太子何能為也?」褒姒曰:「吾王千秋萬歲之後,少不得太子為君。今王后日夜在宮怨望咒詛,萬一他母子當權,妾與伯服死無葬身之地矣!」言罷,嗚嗚咽咽,又啼哭起來。幽王曰:「吾欲廢王后太子,立汝為正宮,伯服為東宮,只恐羣臣不從,如之奈何?」褒妃曰:「臣聽君,順也。君聽臣,逆也。吾王將此意曉諭大臣,只看公議如何?」幽王曰:「卿言是也。」是夜,褒妃先遣心腹傳言與虢、尹二人,來朝預辦登答。次日,早朝禮畢,幽王宣公卿上殿。開言問曰:「王后嫉妒怨望,咒詛朕躬,難為天下之母,可以拘來問罪!」虢石父奏曰:「王后六宮之主,雖然有罪,不可拘問。如果德不稱位,但當傳旨廢之,另擇賢德,母儀天下,實為萬世之福果然我亦說是萬世之福。」尹球奏曰:「臣聞褒妃德性貞靜,堪主中宮果然,我亦說是褒妃德性貞靜,堪主中宮。」幽王曰:「太子在申,若廢申后,如太子何?」虢石父奏曰:「臣聞『母以子貴,子以母貴。』今太子避罪居申,溫凊之禮久廢。况既廢其母,焉用其子?臣等願扶伯服為東宮,社稷有幸果然,我亦說是社稷有幸。」幽王大喜,傳旨將申后退入冷宮,廢太子宜臼為庶人。立褒妃為后,伯服為太子。如有進諫者,即係宜臼之黨,治以重辟。此乃幽王九年之事。兩班文武,心懷不平,知幽王主意已決,徒取殺身之禍,無益於事,盡皆緘口。太史伯陽父嘆曰:「三綱已絕,周亡可立而待矣!」即日告老去位。羣臣棄職歸田者甚衆。朝中惟尹球、虢石父、祭公易一班佞臣在側。幽王朝夕與褒妃在宮作樂。

  褒妃雖篡位正宮,有專席之寵,從未開顏一笑。幽王欲取其歡,召樂工鳴鐘擊鼓,品竹彈絲,宮人歌舞進觴。褒妃全無悅色。幽王問曰:「愛卿惡聞音樂,所好何事?」褒妃曰:「妾無好也。曾記昔日手裂綵繒,其聲爽然可聽。」幽王曰:「既喜聞裂繒之聲,何不早言?」即命司庫日進綵繒百疋,使宮娥有力者裂之,以悅褒妃。可怪褒妃雖好裂繒,依舊不見笑臉。幽王問曰:「卿何故不笑?」褒妃答曰:「妾生平不笑。」幽王曰:「朕必欲卿一開笑口。」遂出令:「不拘宮內宮外,有能致褒后一笑者,賞賜千金。」虢石父獻計曰:「先王昔年因西戎強盛,恐彼入寇,乃於驪山在西道臨潼縣之下,置煙墩二十餘所。又置大鼓數十架。但有賊寇,放起狼煙,直沖霄漢,附近諸侯,發兵相救。又鳴起大鼓,催趲前來。今數年以來,天下太平,烽火皆熄。吾主若要王后啟齒,必須同后遊翫驪山。夜舉烽煙,諸侯援兵必至。至而無寇,王后必笑無疑矣。」幽王曰:「此計甚善果然,我亦說此計甚善!」乃同褒后並駕往驪山遊翫。至晚設宴驪宮,傳令舉烽。時鄭伯友正在朝中,其時以司徒為前導,聞命大驚,急趨至驪宮奏曰:「煙墩者,先王所設以備緩急,所以取信於諸侯。今無故舉烽,是戲諸侯也。異日倘有不虞,即使舉烽,諸侯必不信矣。將何物徵兵以救急哉!」幽王怒曰:「今天下太平,何事徵兵果然,我亦說是天下太平,何事徵兵!朕今與王后出遊驪宮,無可消遣,聊與諸侯為戲。他日有事,與卿無與果然,我亦說是與卿無與!」遂不聽鄭伯之諫。大舉烽火,復擂起大鼓。鼓聲如雷,火光燭天。畿內諸侯疑鎬京有變,一個個即時領兵點將,連夜趕至驪山。但聞樓閣管籥之音。幽王與褒妃飲酒作樂,使人謝諸侯曰:「幸無外寇,不勞跋涉。」諸侯面面相覷,捲旂而回。褒妃在樓上,憑欄望見諸侯忙去忙回,並無一事,不覺撫掌大笑。幽王曰:「愛卿一笑,百媚俱生,此虢石父之力也!」遂以千金賞之該賞如此大功,我說還輕了。此事卻不失信,可見衰世之君,何嘗無信,只是信得不當耳。──至今俗語相傳「千金買笑」,蓋本於此。──髯翁有詩單詠「烽火戲諸侯」之事,詩曰:

::;良夜驪宮奏管簧,無端烽火燭穹蒼。
::;可憐列國奔馳苦,止博褒妃笑一場。

  却說申侯聞知幽王廢申后立褒妃,上疎諫曰:「昔桀寵妹喜以亡夏,紂寵妲己以亡商。王今寵信褒妃,廢嫡立庶。既乖夫婦之義,又傷父子之情。桀、紂之事,復見於今,夏、商之禍,不在異日。望吾王收回亂命,庶可免亡國之殃也。」幽王覽奏,拍案大怒曰:「此賊何敢亂言!」虢石父奏曰:「申侯見太子被逐,久懷怨望。今聞后與太子俱廢,意在謀叛,故敢暴王之過申侯本不當說,說得又不在行,適使小人藉口耳。」幽王曰:「如此何以處之?」石父奏曰:「申侯本無他功,因后進爵。今后與太子俱廢,申侯亦宜貶爵,仍舊為伯。發兵討罪,庶無後患。」幽王准奏,下令削去申侯之爵。命石父為將,簡兵蒐乘,欲舉伐申之師。畢竟勝負如何,且看下回分解。

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