東周列國志第四回 秦の文公、郊天の夢に応ずる/鄭の荘公、地を掘って母に会う (秦文公郊天應夢 鄭莊公掘地見母)
平王東遷後の諸侯
- 平王は東遷し、車駕が洛陽に至ると、市井が稠密で宮殿が壮麗であることは鎬京と変わらず、心中大いに喜んだ。都がすでに定まると、四方の諸侯は皆表を進めて祝賀し、その土地の産物を貢いだ。ただ荊国だけが来なかったので、平王は討伐を議した。
- 群臣が諫めて言った。「蛮荊は久しく化外の地にあり、宣王が初めて討伐して服属させたものです。毎年ただ菁茅一車を貢いで祭祀の縮酒の用に供するだけで、他の物は求めておらず、それによってつなぎとめる意を示しているのです。今、遷都したばかりで人心はまだ定まっておりません。もし朝廷の軍が遠く討伐すれば、首尾よく運ぶかどうか測りがたいところです。しばらくは寛容にして、彼が徳を慕って来朝するのを待つのがよいでしょう。もし最後まで改めないならば、兵力が十分になってから討っても遅くはありません。」これより南征の議は収まった。
秦の岐豊平定と秦の由来
- 秦の襄公は暇乞いをして帰国した。平王は「今、岐豊の地は半ば犬戎に侵し占められている。卿がもし犬戎を駆逐できれば、この地はすべて卿に賜おう。扈従の労にわずかでも報いたい。永く西の藩屏となってくれれば、これに勝る美事はない」と言った。秦襄公は頭を下げて命を受けて帰った。
- すぐに戎馬を整え、戎を滅ぼす計を立てた。三年も経たぬうちに、犬戎を散々に打ち破り、その大将孛丁・満也速らはみな戦陣で死んだ。戎主は遠く西の荒地へ逃れた。岐豊の地はすべて秦の有となり、千里の地を切り開いて大国となった。
- (詩:文王・武王ゆかりのこの地を、あの当時どうしてやすやすと秦の国に与えてしまったのか。岐豊の地の形勝が昔のままであったならば、どうして秦が強大となり始皇帝を号することができただろうか、という趣旨の詩、髯翁の作)
- さて秦はもともと帝顓頊の子孫である。その後裔に皐陶という者がいて、唐堯の時代から士師の官についていた。皐陶の子伯翳は大禹の治水を助け、山を焼き沢を焚いて猛獣を追い払った功により嬴の姓を賜り、舜の畜牧を司った。伯翳には二子があり、若木と大廉といった。若木は徐に封じられ、夏・殷の代を通じて世々諸侯であった。
- 紂王の時代、大廉の後裔に蜚廉という者があり、走ることに長け、一日に五百里を行った。その子悪来は絶大な力を持ち、素手で虎豹の皮を裂くことができた。父子ともに才能と腕力をもって紂の寵臣となり、暴虐に手を貸した。武王が商に勝つと、蜚廉と悪来はあわせて誅せられた。蜚廉の末子である季勝、その曾孫の造父は御術に優れて周の穆王に寵愛され、趙に封じられた。これが晋の趙氏の祖である。
- その後裔に非子という者があり、犬邱に住み馬の飼育に長けていた。周の孝王がこれを用い、汧水・渭水の二川の間で馬を飼わせたところ、馬は大いに繁殖した。孝王は大いに喜び、秦の地を非子に封じて従属する君とし、嬴の祭祀を継がせ、嬴秦と号した。六世を経て襄公に至り、勤王の功によって秦伯に封じられ、さらに岐豊の地を得て、勢いはますます強大となり、雍に都を定め、初めて諸侯と使節を交わすようになった。襄公が薨じ、子の文公が立った。ちょうど平王十五年のことである。
秦文公の郊天と怪異
- ある日、文公は酈邑の野で、黄色い蛇が天から降りて山の坂に止まる夢を見た。頭は車輪ほどの大きさで、下は地に届き、尾は天に連なっていた。しばらくすると小さな子供に化け、文公に「我は上帝の子である。帝は汝を白帝とし、西方の祀りを主どらせよと命じられた」と告げ、言い終わると姿を消した。
- 翌日、太史敦を召してこれを占わせた。敦は奏上した。「白は西方の色です。君は西方を治めておられます。上帝の命じられたことですから、これを祀れば必ず福を得るでしょう。」そこで鄜邑に高台を築き、白帝廟を建てて鄜畤と号し、白い牛でこれを祭った。
- また陳倉の人が、豚に似て刺の多い獣を捕らえた。打っても死なず、名も分からなかったので、これを文公に献じようと連れて行った。道すがら二人の童子に出会った。童子は「この獣は蝟という。常に地中に潜み、死人の脳を食う。その頭を打てば死ぬ」と教えた。すると蝟が人の言葉で「二人の童子は雉の精で、名を陳寶という。雄を得れば王となり、雌を得れば覇となる」と言った。二人の童子は正体を見破られると、たちまち野雉に化けて飛び去った。その雌の方は陳倉山の北の坂に留まり、石の雞に化けた。蝟を見ると、これもまた姿を消していた。猟人は驚き怪しみ、急いで文公に告げた。文公はそこでまた、陳倉山に陳寶の祠を建てた。
- また終南山に大きな梓の木があり、文公はこれを切って殿の材木にしようとしたが、鋸で切っても断たれず、斧で砍っても入らなかった。突然大風雨が起こり、作業は中止となった。ある人が夜、山の下で宿ったとき、多くの鬼が木に向かって祝いを述べ、樹神もこれに応えるのを聞いた。ある鬼が「秦がもし人に髪を振り乱させ、朱色の糸を樹に巻きつけさせたらどうする」と言うと、樹神は黙り込んで答えなかった。翌日、この人が鬼の言葉を文公に告げた。文公はその言葉通りにさせ、再び人に切らせると、木は鋸に従って断たれた。すると木の中から青い牛が走り出て、まっすぐ雍水に入った。その後、水辺近くに住む民が、しばしば青い牛が水から現れるのを目にした。
- 文公はこれを聞き、騎馬の兵に見張らせて撃たせた。牛は力が強く、騎馬の兵を突き倒した。騎馬の兵の髪は乱れて顔を覆い、牛はこれを恐れてもう二度と出て来なくなった。文公はそこで、兵に髪を振り乱させる髦頭の制を軍中に定め、またあわせて怒特祠を建て、大梓の神を祭った。
魯の僭祀と王室の衰弱
- そのころ魯の惠公は秦国が身分を越えて上帝を祭っていると聞き、太宰讓を周に遣わして郊禘の礼を用いることを請うた。平王はこれを許さなかった。惠公は「わが祖周公は王室に大きな勲労がある。礼楽は我が祖が制作されたものであり、子孫がこれを用いて何の差し障りがあろうか。しかも天子が秦を禁じることができないのに、どうして魯を禁じられようか」と言った。そのまま郊禘の礼を身分を越えて用い、王室に比した。平王はこれを知りながらも、あえて問い咎めなかった。
- これより王室の権威は日に日に衰え、諸侯はそれぞれ自ら権を振るい、互いに侵伐し合うようになり、天下は紛々として多事となった。
- (詩:いにしえより王侯の礼数には厳然たる隔たりがあった。諸侯国が天を郊祀できるなどとは、いまだ聞いたことがなかった。ひとたび秦と魯が僭越の端を開いてから、列国はこぞって大権を盗むようになった、という趣旨の詩、史官の作)
鄭莊公の即位と共叔段
- 話を鄭の世子掘突に戻すと、位を継いで武公となった。武公は周の乱に乗じて東虢及び鄶の地をあわせ、鄶に都を遷し、これを新鄭と呼んだ。滎陽を京城とし、制邑に関所を設けた。鄭はこれより強大となり、衛の武公とともに周朝の卿士を務めた。平王十三年、衛武公が薨じ、鄭武公が独り周の政を執った。ただ鄭の都は滎陽にあり、洛邑と近いため、朝廷にいたり自国にいたりと往来が一定しなかった。これはさておく。
- さて鄭武公の夫人は、申侯の娘の姜氏であった。生んだ二子は、長子を寤生、次子を段といった。なぜ寤生という名をつけたのかというと、姜氏夫人が出産する際、体勢を整えぬまま夢の中で子を産み落とし、目覚めてから初めてそれを知った。姜氏は驚いてそのため寤生と名付けたが、心中これを快く思わなかった。
- 次子の段を生むと、成人して立派な人物となり、顔は白粉を塗ったように白く、唇は朱を塗ったように紅く、しかも力が強く弓を得意とし、武芸に優れていた。姜氏はこの子を心中偏って愛し、「もしこの子が位を継げば、寤生よりも十倍優れているだろうに」と考え、たびたび夫の武公に次子の賢さを説き、これを世継ぎに立てるよう勧めた。
- 武公は「長幼の序は乱してはならぬ。しかも寤生に過ちはないのに、どうして長子を廃して幼子を立てられよう」と言い、寤生を世子に立てた。ただ小さな共城を段の食邑とし、共叔と号させた。姜氏の心中はますます不快であった。
- 武公が薨じると、寤生が即位して鄭荘公となり、依然として父に代わって周の卿士を務めた。姜氏夫人は共叔に権がないのを見て、心中不満であった。荘公に「お前は父の位を継ぎ、数百里の地を享受しているのに、同胞の弟をこんな小さな地に押し込めておくとは、心にどうして忍びるのか」と言った。荘公は「母上の望まれる通りにいたしましょう」と言った。姜氏は「なぜ制邑を与えないのか」と言った。荘公は「制邑は険阻な要害として名高く、先王の遺命により分封は許されておりません。それ以外であれば、命に従わぬことはございません」と言った。姜氏は「それならば次に京城でもよい」と言った。荘公は黙って何も言わなかった。姜氏は色をなして「もしまた許さぬなら、あの子を他国に追いやり、別に仕官の道を求めさせて糊口をしのがせるまでだ」と言った。荘公はしきりに「いえ、そのようなことは決して」と言い、はいはいと退いた。
京城太叔の謀
- 翌日、殿に上がり、共叔段を召して京城を封じようとした。大夫祭足が諫めて言った。「なりません。天に二つの太陽はなく、民に二人の君主はありません。京城は百雉の堅固さを誇り、地は広く民も多く、滎陽に匹敵します。しかも共叔は夫人の愛子です。もし大邑を封じられれば、これは二人の君主を立てるようなもの。内なる寵を頼めば、後患を招きましょう。」荘公は「我が母の命令、どうして拒めようか」と言い、共叔を京城に封じた。
- 共叔は謝恩を終え、宮に入って姜氏に別れを告げに来た。姜氏は左右を退け、密かに段に言った。「お前の兄は同胞の情を思わず、お前への待遇はまことに薄い。今回の分封も、私が再三懇願してようやく渋々従わせたもので、その心の内は必ずしも喜んではいまい。お前は京城に行ったら、兵を集め戦車を整え、密かに準備をしておくがよい。もし機会があれば、私が知らせよう。お前が鄭を襲う兵を起こせば、私が内応する。そうすれば国はお前のものになるだろう。お前がもし寤生に代わって位に就けば、私は死んでも思い残すことはない。」共叔は命を受け、京城へ移り住んだ。これより国人は呼び方を改め、皆彼を京城太叔と呼ぶようになった。
- 開府の日、西の辺境と北の辺境を治める役人が挨拶に来た。太叔段はこの二人の役人に言った。「お前たち二人が治める土地は、今や私の封土に属する。今後の貢税はすべて私のもとに納めよ。兵車もすべて私の徴発に従うように。違えることは許さぬ。」二人の役人はかねてより太叔が国母の愛子であり、位を継ぐ望みがあることを知っていたので、今日その堂々たる様子と人並外れた才を見て、逆らわずそのまま承知した。
- 太叔は狩猟にことよせて、日々城を出ては兵士を訓練し、あわせて二つの辺境の民を集めて残らず軍籍に加えた。また狩猟を口実に、鄢と廩延を襲って奪い取った。両地の邑宰は鄭国に逃げ込み、太叔が兵を率いて邑を奪った事の顛末を詳しく荘公に奏上した。荘公は微笑んで何も言わなかった。
- 列の中から一人の官員が大声で「段は誅すべきです」と叫んだ。荘公が見ると、上卿公子呂であった。荘公は「子封には何か高論があるか」と言った。公子呂は奏上した。「私が聞きますに『臣下たる者は逆心を抱いてはならぬ、抱けば必ず誅される』と申します。今、太叔は内には母后の寵を頼み、外には京城の堅固さを恃み、日夜兵を訓練し武を講じております。その志は篡奪をおいて他にありません。主公、私に別働の軍をお貸しください、まっすぐ京城に進み、段を縛って連れ帰り、後患を絶ちましょう。」荘公は「段の悪はまだ表れておらぬ、どうして誅することができようか」と言った。
- 子封は「今、二つの辺境が奪われ、廩延にまで及んでいます。先君の土地を、どうして日ごとに割かせておくのですか」と言った。荘公は笑って「段は姜氏の愛子であり、寡人の愛弟である。寡人はむしろ地を失っても、どうして兄弟の情を傷つけ、国母の意に逆らうことができようか」と言った。
- 公子呂はさらに奏上した。「臣が心配しているのは地を失うことではなく、国を失うことです。今、人心は不安に揺らぎ、太叔の勢力が強大であるのを見て、皆観望の構えです。ほどなく都の民までもが二心を抱くようになるでしょう。主公が今日太叔を容認されるならば、恐らく後日、太叔が主公を容認しなくなることを恐れます。悔いても及びません。」荘公は「卿、みだりに言うな。寡人はよく考えよう」と言った。
- 公子呂は宮を出て、正卿祭足に「主公は宮中の私情によって社稷の大計をおろそかにしておられる。私はこれをとても憂えている」と言った。祭足は「主公は才智人に優れておられる。この事を必ず座視することはあるまい。ただ人の耳目の多い公の場では洩らすことができないだけだ。子は君主の縁者たる卿である。もし個人的に尋ねれば、必ず定見をお持ちのはずだ」と言った。
- 公子呂はこの言葉に従い、まっすぐ宮門を叩いて再び荘公に謁見を求めた。荘公は「卿、この度は何用か」と言った。公子呂は「主公が位を継がれたのは、国母の意によるものではありません。もし内外が共謀すれば、変事がすぐ身近に生じ、鄭国は主公のものではなくなってしまいましょう。臣は寝食も安まらず、それでまた願い出た次第です」と言った。荘公は「この事は国母に関わることだ」と言った。公子呂は「主公は周公が管叔・蔡叔を誅した故事をお聞きになったことはございませんか。『断ずべきときに断じなければ、かえって乱を受ける』と申します。どうか早く決断なさってください」と言った。
- 荘公は「寡人はすでに熟慮している。段が不道とはいえ、まだ明白に叛逆したわけではない。私がもし誅すれば、姜氏が必ず間で妨げようとし、無用に他人の議論を招くだけだ。しかもそれは私が兄弟に友愛でないと言われるだけでなく、母に孝でないとも言われよう。私は今これを度外に置き、彼のなすがままにさせよう。彼が寵を頼んで得意になれば、ますます遠慮なくなるだろう。そして謀反を起こすのを待って、その罪を明らかにすれば、国人は必ず助けようとせず、姜氏にも何の申し開きもできまい」と言った。
- 公子呂は「主公の遠謀は臣の及ぶところではございません。ただ日を追うごとに勢力が大きくなり、蔓草のように取り除けなくなるのではと恐れます。いかがなさいますか。主公がどうしても先に相手が動くのを待たれるおつもりなら、早く来るよう仕向けるべきです」と言った。荘公は「どのような計があるか」と言った。公子呂は「主公は久しく朝廷に赴いておられませんが、それは太叔のためであることは明白です。今、周に赴くと表明されれば、太叔は必ず国内が空虚だと考え、兵を挙げて鄭を争おうとするでしょう。臣があらかじめ京城の近くに兵を伏せておき、彼が城を出るのに乗じて城を占領します。主公が廩延の一路から攻め寄せられれば、太叔は腹背に敵を受けることになり、たとえ天を衝く翼があろうと、逃げおおせましょうか」と言った。荘公は「卿の計はまことに妙だ。決して他言してはならぬ」と言った。公子呂は宮門を辞し、「祭足の見通しはまさに神のごとしだ」と嘆じた。
荘公の計と共叔の敗死
- 翌日の早朝、荘公は偽って大夫祭足に国を守らせるよう命じ、自らは周に赴いて君に拝謁し輔政すると触れた。姜氏はこれを聞いて心中大いに喜び、「段は君となる福があるのだ」と言った。そこで密書一通をしたため、腹心の者に持たせて京城に送り、太叔に五月初旬をもって鄭を襲う兵を起こすよう約束した。時に四月下旬のことであった。
- 公子呂はあらかじめ要路に人を伏せさせ、書を携えた者を捕らえてその場で殺し、書を密かに荘公に送った。荘公は封を開いて読み終えると、改めて封じ直し、別の人を遣わして姜氏の使いを装わせて太叔に届けさせた。太叔からの返書によれば、五月五日を期日とし、白旗一本を城楼に立てて内応の合図とすることになっていた。荘公は書を得て「段の供述の証がここにある。姜氏とてこれを庇いきれまい」と喜んだ。
- そこで宮に入り姜氏に別れを告げ、周に行くとだけ言い、実際は廩延の一路をゆっくりと進んだ。公子呂は戦車二百乗を率いて京城の近くに伏せた。
- 話は変わり、太叔は母夫人姜氏の密書を受け取ると、その子公孫滑と相談し、滑を衛国に遣わして兵を借りることにし、重い賂を約束した。自らは京城と二つの辺境の兵を全て率い、鄭伯の命により段が監国することになったと称し、纛に犠牲を捧げて軍を励まし、意気揚々と城を出た。
- 公子呂はあらかじめ兵車十乗を商人に扮装させて密かに京城に潜入させておいた。太叔の兵が動くのを待ってから、城楼に火を放たせた。公子呂はこの火の手を望み見て、すぐに攻め入った。城中の人々は門を開いてこれを迎え入れた。労せずして京城を手に入れた。すぐに榜を出して民を安んじ、榜文には荘公の孝と友愛、太叔の背義忘恩の事を詳しく記した。城中の人々は皆、太叔を非とするようになった。
- 話は再び、太叔が出兵して二日と経たぬうちに、京城陥落の知らせを聞いた。心中慌てふためき、夜通し軍を転じて戻った。城外に陣を敷き、攻城の準備をしていたところ、手下の兵士たちがしきりに耳打ちし合っているのに気づいた。もともと軍中には城内の家からの手紙を受け取った者があり、「荘公はこれほどの厚徳を示しておられるのに、太叔は不仁不義だ」と伝えていた。一人が十人に、十人が百人に伝わり、皆「我らは正しきに背き逆賊に従った。天の道理が許すはずがない」と言い、どっと散り散りになった。
- 太叔が兵を点検すると、大半を失っており、人心がすでに離反したことを知り、急いで鄢邑へと逃れ、再び兵を集めようとした。ところが荘公の兵はすでに鄢に到着していた。太叔は「共はもと私の封地であった」と言い、共城に走り入って門を閉ざして守った。
- 荘公は兵を率いてこれを攻めた。あの小さな共城が、両方向からの大軍にどうして耐えられよう。泰山が卵を圧するようにたちまち攻め破られた。太叔は荘公が迫っていることを聞くと、「姜氏が我を誤らせた。何の面目あって兄に会えようか」と嘆き、ついに自ら首を刎ねて死んだ。
- (詩:寵愛された弟が多才で大きな封地を占め、しかも内応する者が宮中にいた。しかし公論が逆賊を容れないことを誰が知ろう、栄えたのは京城、死んだのは共城であった、という趣旨の詩、胡曾先生の作)
- (詩:子弟を育てるにはただ教育の力があるのみ、育て方を誤れば悪を稔らせ災いと凶事を招く。京邑に分封したその日から、太叔はすでに自ら掌握の中にあったのだ、という趣旨の詩、荘公が段の悪を養い成らせ姜氏の口を塞いだことを詠じ、まことに千古の奸雄であると評したもの)
- 荘公は段の遺体を撫でて大いに泣き、「愚かな者よ、なぜこんなことになったのか」と言った。荷物を検めると、姜氏が寄せた書がまだそこにあった。太叔の返書とあわせて一つに封じ、人を鄭国に馳せさせ、祭足に姜氏に見せるよう命じた。そして姜氏を潁の地に送って安置させ、誓いの言葉を残した。「黄泉に至らねば、二度と相見えぬ。」
- 姜氏はこの二通の書を見て、恥じ入って身の置き所もなく、自身も荘公に会わせる顔がないと思い、すぐに宮門を出て潁の地に移り住んだ。荘公は国都に戻り、目の中に姜氏の姿がないのを見て、良心がふと湧き起こり、「私はやむを得ず弟を殺したが、どうしてまたその母を遠ざけることに忍びようか。まことに天倫の罪人となってしまった」と嘆いた。
潁考叔と掘地見母
- さて潁谷の封人、名を潁考叔という者は、正直で私心なく、もとより孝行と友愛の誉れがあった。荘公が姜氏を潁に安置したのを見て、人に「母が母らしくなくとも、子は子らしくないわけにはいかない。主公のこの度の措置は、まことに教化を傷つけるものだ」と言った。そこで鶚を数羽捕らえ、野の獲物の肉を献上すると称して荘公に謁見した。
- 荘公は「これは何の鳥か」と尋ねた。潁考叔は答えた。「この鳥は鶚と申します。昼は泰山さえ見えぬのに、夜は秋毫を察することができ、細かいことには明るく大きなことには暗いのです。幼い頃は母鳥が餌を与えて育てますが、成長すると母鳥をついばんで食らいます。これは不孝の鳥であるゆえ、捕らえて食すのです。」荘公は黙り込んだ。
- ちょうど料理人が蒸し羊を献じたので、荘公は肩の肉を一つ割いて考叔に食べるよう賜った。考叔はただ良い肉だけを選び、紙に包んで袖の中に隠した。荘公はこれを怪しんで問うた。考叔は答えた。「私めの家には老母がおります。私めの家は貧しく、毎日野味を取っては母を喜ばせておりますが、まだこのような厚い味わいのものを口にさせたことがございません。今、殿から賜ったこの肉も、老母は一片の恵みにも与れません。老母のことを思うと、どうして飲み込めましょうか。それでこれを持ち帰り、羹を作って母に差し上げようと存じます。」荘公は「卿はまことに孝子と言えよう」と言った。言い終えると、思わず物寂しく長嘆した。
- 考叔が「主公はなぜお嘆きになるのですか」と問うと、荘公は「お前には母がいて奉養できる、人の子としての務めを尽くすことができる。寡人は諸侯の身でありながら、かえってお前にも及ばぬのだ」と言った。考叔はわざと知らないふりをして、「姜夫人はご健在のはずですが、なぜ母がないと仰るのですか」と尋ねた。荘公は姜氏と太叔が鄭を襲おうと共謀した事、及び潁邑に安置した経緯を詳しく語り、「すでに黄泉での誓いを立ててしまった。今さら悔いても及ばぬ」と言った。
- 考叔は答えた。「太叔はすでに亡くなり、姜夫人にはただ主公お一人の子しか残っておりません。それでもなお奉養なさらないのでは、鶚と何が違いましょうか。もし黄泉での再会を誓われたことを気に病んでおられるなら、臣に一計がございます。これを解くことができましょう。」荘公は「どのような計で解けるのか」と問うた。考叔は答えた。「地を掘って泉を見出し、そこに地下の室を建てるのです。まず姜夫人をお迎えしてその中にお住まいいただき、主公が思われるお気持ちをお伝えすれば、恐らく夫人も子を思う気持ちは主公が母を思う気持ちに劣らないはずです。主公はその地下の部屋の中で再会なされば、『泉に至らねば』という誓いにも背くことにはなりません。」
- 荘公は大いに喜び、考叔に命じて壮士五百人を出させ、曲洧の牛脾山の下で地を十丈余り掘らせた。泉水が湧き出し、その泉のほとりに木を組んで室を作った。室が完成すると、長い梯子を一台設け、考叔がまず武姜のもとへ赴き、荘公の悔恨の情を懇ろに伝え、今は迎えて孝養を尽くしたいと望んでいることを告げた。武姜は悲しみと喜びが入り混じった心地であった。
- 考叔はまず武姜を牛脾山の地下の部屋へ案内した。荘公の乗り物もやって来て、梯子を伝って地下へ下り、地にひれ伏して「寤生、不孝の身にて久しく朝夕のご機嫌伺いを欠いておりました。どうか国母、お許しください」と言った。武姜は「これは老身の罪であって、お前の罪ではない」と手を取って起こし、母子は抱き合って大いに泣いた。そのまま梯子を上って穴を出た。荘公自ら武姜を輦に乗せて登らせ、自身は手綱を取って付き従った。
- 国人は荘公母子が連れ立って帰るのを見て、手を額にあてて荘公の孝を讃えない者はなかった。これはみな考叔の取り持ちの力であった。
- (詩:黄泉での誓いで母との人倫を絶ったが、大きな隧道での再会は、まるで別世界の人に会うかと思われた。考叔が肉を懐に抱く計を行わなかったならば、荘公はどうして肉親の情を認めることができたであろうか、という趣旨の詩、胡曾先生の作)
- 荘公は考叔が母子の愛情を全うさせてくれたことに感謝し、大夫の爵を賜り、公孫閼とともに兵権を掌らせた。これはさておく。
衛の出兵
- さて共叔の子公孫滑は、衛の兵を借り受けて途中まで来たところ、共叔がすでに殺されたと聞き、衛へと逃れ、伯父が弟を殺し母を幽閉した事を訴えた。衛の桓公は「鄭伯は無道である。公孫のために討伐しよう」と言い、兵を興して鄭を討った。勝敗がどうなるかは、次回を見てのお楽しみ。
原文(底本)
話說平王東遷,車駕至於洛陽,見市井稠密,宮闕壯麗,與鎬京無異,心中大喜。京都既定,四方諸侯,莫不進表稱賀,貢獻方物。惟有荊國不到,平王議欲征之。群臣諫曰:「蠻荊久在化外,宣王始討而服之。每年止貢菁茅一車,以供祭祀縮酒之用,不責他物,所以示羈縻之意。今遷都方始,人心未定,倘王師遠討,未卜順逆。且宜包容,使彼懷德而來。如或始終不悛,俟兵力既足,討之未晚。」自此南征之議遂息。 秦襄公告辭回國。平王曰:「今岐豐之地,半被犬戎侵據。卿若能驅逐犬戎,此地盡以賜卿,少酬扈從之勞。永作西藩,豈不美哉?」秦襄公稽首受命而歸。即整頓戎馬,為滅戎之計。不及三年,殺得犬戎七零八落,其大將孛丁滿也速等,俱死於戰陣。戎主遠遁西荒。岐豐一片,盡為秦有,闢地千里,遂成大國。髯翁有詩云: 文武當年發跡鄉,如何輕棄畀秦邦?岐豐形勝如依舊,安得秦強號始皇! 卻說秦乃帝顓頊之裔。其後人名皐陶,自唐堯時為士師官。皐陶子伯翳,佐大禹治水,烈山焚澤,驅逐猛獸,以功賜姓曰嬴,為舜主畜牧之事。伯翳生二子:若木,大廉。若木封國於徐,夏商以來,世為諸侯。至紂王時,大廉之後,有蜚廉者,善走,日行五百里;其子惡來有絕力,能手裂虎豹之皮。父子俱以材勇,為紂幸臣,相助為虐。武王克商,誅蜚廉並及惡來。蜚廉少子曰季勝,其曾孫名造父,以善御得幸於周穆王,封於趙,為晉趙氏之祖。其後有非子者,居犬邱,善於養馬,周孝王用之,命畜馬於汧渭二水之間,馬大蕃息。孝王大喜,以秦地封非子為附庸之君,使續嬴祀,號為嬴秦。傳六世至襄公,以勤王功封秦伯,又得岐豐之地,勢益強大,定都於雍,始與諸侯通聘。襄公薨,子文公立。時平王十五年也。 一日,文公夢酈邑之野,有黃蛇自天而降,止於山坂。頭如車輪,下屬於地,其尾連天。俄頃化為小兒,謂文公曰:「我上帝之子也。帝命汝為白帝,以主西方之祀。」言訖不見。明日,召太史敦占之。敦奏曰:「白者,西方之色。君奄有西方,上帝所命,祠之必當獲福。」乃於鄜邑築高臺,立白帝廟,號曰鄜畤,用白牛祭之。又陳倉人獵得一獸,似豬而多刺,擊之不死,不知其名,欲牽以獻文公。路間,遇二童子,指曰:「此獸名曰『蝟』,常伏地中,啖死人腦,若捶其首即死。」蝟亦作人言曰:「二童子乃雉精,名曰『陳寶』,得雄者王,得雌者霸。」二童子被說破,即化為野雞飛去。其雌者,止於陳倉山之北坂,化為石雞。視蝟,亦失去矣。獵人驚異,奔告文公。文公復立陳寶祠於陳倉山。又終南山,有大梓樹,文公欲伐為殿材,鋸之不斷,砍之不入,忽大風雨,乃止。有一人夜宿山下,聞眾鬼向樹賀喜,樹神亦應之。一鬼曰:「秦若使人被其髮,以朱絲繞樹,將奈之何?」樹神默然。明日,此人以鬼語告於文公。文公依其說,復使人伐之,樹隨鋸而斷。有青牛從樹中走出,逕投雍水。其後近水居民,時見青牛出水中。文公聞之,使騎士候而擊之。牛力大,觸騎士倒地。騎士髮散被面,牛懼更不敢出。文公乃制髦頭於軍中,復立怒特祠,以祭大梓之神。 時魯惠公聞秦國僭祀上帝,亦遣太宰讓到周,請用郊禘之禮。平王不許。惠公曰:「吾祖周公有大勳勞於王室。禮樂吾祖之所制作,子孫用之何傷?況天子不能禁秦,安能禁魯?」遂僭用郊禘,比於王室。平王知之,不敢問也。自此王室日益卑弱,諸侯各自擅權,互相侵伐,天下紛紛多事矣。史官有詩歎曰: 自古王侯禮數懸,未聞侯國可郊天;一從秦魯開端僭,列國紛紛竊大權。 再說鄭世子掘突嗣位,是為武公。武公乘周亂,並有東虢及鄶地,遷都於鄶,謂之新鄭。以滎陽為京城,設關於制邑。鄭自是亦遂強大,與衛武公同為周朝卿士。平王十三年,衛武公薨,鄭武公獨秉周政。只為鄭都滎陽,與洛邑鄰近,或在朝,或在國,往來不一。這也不在話下。卻說鄭武公夫人,是申侯之女姜氏。所生二子,長曰寤生,次曰段。為何喚做寤生?原來姜氏夫人分娩之時,不曾坐蓐,在睡夢中產下,醒覺方知。姜氏吃了一驚,以此取名寤生,心中便有不快之意。及生次子段,長成得一表人才,面如傅粉,唇若塗朱,又且多力善射,武藝高強。姜氏心中偏愛此子,若襲位為君,豈不勝寤生十倍?屢次向其夫武公,稱道次子之賢,宜立為嗣。武公曰:「長幼有序,不可紊亂。況寤生無過,豈可廢長而立幼乎?」遂立寤生為世子。只以小小共城,為段之食邑,號曰共叔。姜氏心中愈加不悅。及武公薨,寤生即位,是為鄭莊公,仍代父為周卿士。姜氏夫人見共叔無權,心中怏怏。乃謂莊公曰:「汝承父位,享地數百里,使同胞之弟,容身蕞爾,於心何忍!」莊公曰:「惟母所欲。」姜氏曰:「何不以制邑封之?」莊公曰:「制邑巖險著名,先王遺命,不許分封。除此之外,無不奉命。」姜氏曰:「其次則京城亦可。」莊公默然不語。姜氏作色曰:「再若不允,惟有逐之他國,使其別圖仕進,以餬口耳。」莊公連聲曰:「不敢,不敢!」遂唯唯而退。 次日升殿,即宣共叔段欲封之。大夫祭足諫曰:「不可。天無二日,民無二君。京城有百雉之雄,地廣民眾,與滎陽相等。況共叔,夫人之愛子,若封之大邑,是二君也!恃其內寵,恐有後患。」莊公曰:「我母之命,何敢拒之?」遂封共叔於京城。共叔謝恩已畢,入宮來辭姜氏。姜氏屏去左右,私謂段曰:「汝兄不念同胞之情,待汝甚薄。今日之封,我再三懇求,雖則勉從,中心未必和順。汝到京城,宜聚兵蒐乘,陰為準備。倘有機會可乘,我當相約。汝興襲鄭之師,我為內應,國可得也。汝若代了寤生之位,我死無憾矣!」共叔領命,遂往京城居住。自此國人改口,俱稱為京城太叔。開府之日,西鄙北鄙之宰,俱來稱賀。太叔段謂二宰曰:「汝二人所掌之地,如今屬我封土,自今貢稅,俱要到我處交納,兵車俱要聽我徵調,不可違誤。」二宰久知太叔為國母愛子,有嗣位之望。今日見他丰采昂昂,人才出眾,不敢違抗,且自應承。太叔託名射獵,逐日出城訓練士卒,並收二鄙之眾,一齊造入軍冊。又假出獵為由,襲取鄢及廩延。兩處邑宰逃入鄭國,遂將太叔引兵取邑之事,備細奏聞莊公。莊公微笑不言。班中有一位官員,高聲叫曰:「段可誅也!」莊公抬頭觀看,乃是上卿公子呂。莊公曰:「子封有何高論?」公子呂奏曰:「臣聞『人臣無將,將則必誅。』今太叔內挾母后之寵,外恃京城之固,日夜訓兵講武,其志不篡奪不已。主公假臣偏師,直造京城,縛段而歸,方絕後患。」莊公曰:「段惡未著,安可加誅。」子封曰:「今兩鄙被收,直至廩延,先君土地,豈容日割?」莊公笑曰:「段乃姜氏之愛子,寡人之愛弟。寡人寧可失地,豈可傷兄弟之情,拂國母之意乎!」公子呂又奏曰:「臣非慮失地,實慮失國也,今人心皇皇,見太叔勢大力強,盡懷觀望。不久都城之民,亦將貳心。主公今日能容太叔,恐異日太叔不能容主公,悔之何及?」莊公曰:「卿勿妄言,寡人當思之。」公子呂出外,謂正卿祭足曰:「主公以宮闈之私情,而忽社稷之大計,吾甚憂之!」祭足曰:「主公才智兼人,此事必非坐視,只因大庭耳目之地,不便洩露。子貴戚之卿也,若私叩之,必有定見。」公子呂依言,直叩宮門,再請莊公求見。莊公曰:「卿此來何意?」公子呂曰:「主公嗣位,非國母之意也。萬一中外合謀,變生肘腋,鄭國非主公之有矣。臣寢食不寧,是以再請!」莊公曰:「此事干礙國母。」公子呂曰:「主公豈不聞周公誅管蔡之事乎?『當斷不斷,反受其亂。』望早早決計。」莊公曰:「寡人籌之熟矣!段雖不道,尚未顯然叛逆。我若加誅,姜氏必從中阻撓,徒惹外人議論,不惟說我不友,又說我不孝。我今置之度外,任其所為。彼恃寵得志,肆無忌憚。待其造逆,那時明正其罪,則國人必不敢助,而姜氏亦無辭矣。」公子呂曰:「主公遠見,非臣所及。但恐日復一日,養成勢大,如蔓草不可芟除,可奈何?主公若必欲俟其先發,宜挑之速來。」莊公曰:「計將安出?」公子呂曰:「主公久不入朝,無非為太叔故也。今聲言如周,太叔必謂國內空虛,興兵爭鄭。臣預先引兵伏於京城近處,乘其出城,入而據之。主公從廩延一路殺來,腹背受敵,太叔雖有沖天之翼,能飛去乎?」莊公曰:「卿計甚善,慎毋洩之他人。」公子呂辭出宮門,歎曰:「祭足料事,可謂如神矣。」 次日早朝,莊公假傳一令,使大夫祭足監國,自己往周朝面君輔政。姜氏聞知此信,心中大喜曰:「段有福為君矣!」遂寫密信一通,遣心腹送到京城,約太叔五月初旬,興兵襲鄭。時四月下旬事也。公子呂預先差人伏於要路,獲住賷書之人,登時殺了,將書密送莊公。莊公啟緘看畢,重加封固,別遣人假作姜氏所差,送達太叔。索有回書,以五月初五日為期,要立白旗一面於城樓,便知接應之處。莊公得書,喜曰:「段之供招在此,姜氏豈能庇護耶!」遂入宮辭別姜氏,只說往周,卻望廩延一路徐徐而進。公子呂率車二百乘,於京城鄰近埋伏。自不必說。 卻說太叔接了母夫人姜氏密信,與其子公孫滑商議,使滑往衛國借兵,許以重賂。自家盡率京城二鄙之眾,託言奉鄭伯之命,使段監國,祭纛犒軍,揚揚出城。公子呂預遣兵車十乘,扮作商賈模樣,潛入京城。只等太叔兵動,便於城樓放火。公子呂望見火光,即便殺來。城中之人,開門納之。不勞餘力,得了京城。即時出榜安民,榜中備說莊公孝友,太叔背義忘恩之事。滿城人都說太叔不是。 再說:太叔出兵,不上二日,就聞了京城失事之信。心下慌忙,星夜回轅。屯扎城外,打點攻城。只見手下士卒紛紛耳語。原來軍伍中有人接了城中家信,說:「莊公如此厚德,太叔不仁不義。」一人傳十,十人傳百,都道:「我等背正從逆,天理難容。」哄然而散。太叔點兵,去其大半,知人心已變,急望鄢邑奔走,再欲聚眾。不道莊公兵已在鄢。乃曰:「共吾故封也。」於是走入共城,閉門自守。莊公引兵攻之。那共城區區小邑,怎當得兩路大軍?如泰山壓卵一般,須臾攻破。太叔聞莊公將至,歎曰:「姜氏誤我矣!何面目見吾兄乎!」遂自刎而亡。胡曾先生有詩曰: 寵弟多才占大封,況兼內應在宮中,誰知公論難容逆,生在京城死在共。 又有詩說莊公養成段惡,以塞姜氏之口,真千古奸雄也。詩曰: 子弟全憑教育功,養成稔惡陷災凶。一從京邑分封日,太叔先操掌握中。 莊公撫段之屍,大哭一場,曰:「癡兒何至如此!」遂簡其行裝,姜氏所寄之書尚在。將太叔回書,總作一封,使人馳至鄭國,教祭足呈與姜氏觀看。即命將姜氏送去潁地安置,遺以誓言曰:「不及黃泉,無相見也!」姜氏見了二書,羞慚無措,自家亦無顏與莊公相見,即時離了宮門,出居潁地。莊公回至國都,目中不見姜氏,不覺良心頓萌,歎曰:「吾不得已而殺弟,何忍又離其母?誠天倫之罪人矣!」 卻說潁谷封人,名曰潁考叔,為人正直無私,素有孝友之譽。見莊公安置姜氏於潁,謂人曰:「母雖不母,子不可以不子,主公此舉,傷化極矣!」乃覓鶚鳥數頭,假以獻野味為名,來見莊公。莊公問曰:「此何鳥也?」潁考叔對曰:「此鳥名鶚,晝不見泰山,夜能察秋毫,明於細而暗於大也。小時其母哺之,既長,乃啄食其母,此乃不孝之鳥,故捕而食之。」莊公默然。適宰夫進蒸羊,莊公命割一肩,賜考叔食之。考叔只揀好肉,用紙包裹,藏之袖內。莊公怪而問之。考叔對曰:「小臣家有老母,小臣家貧,每日取野味以悅其口,未嘗享此厚味。今君賜及小臣,而老母不沾一臠之惠,小臣念及老母,何能下咽?故此攜歸,欲作羹以進母耳。」莊公曰:「卿可謂孝子矣!」言罷,不覺淒然長歎。考叔問曰:「主公何為而歎?」莊公曰:「你有母奉養,得盡人子之心。寡人貴為諸侯,反不如你!」考叔佯為不知,又問曰:「姜夫人在堂無恙,何為無母?」莊公將姜氏與太叔共謀襲鄭,及安置潁邑之事,細述一遍:「已設下黃泉之誓,悔之無及!」考叔對曰:「太叔已亡,姜夫人止存主公一子,又不奉養,與鶚鳥何異?倘以黃泉相見為歉,臣有一計,可以解之。」莊公問:「何計可解?」考叔對曰:「掘地見泉,建一地室,先迎姜夫人在內居住。告以主公想念之情,料夫人念子,不減主公之念母。主公在地室中相見,於及泉之誓,未嘗違也。」莊公大喜,遂命考叔發壯士五百人,於曲洧牛脾山下,掘地深十餘丈,泉水湧出,因於泉側架木為室。室成,設下長梯一座,考叔往見武姜,曲道莊公悔恨之意,如今欲迎歸孝養。武姜且悲且喜。考叔先奉武姜至牛脾山地室中。莊公乘輿亦至,從梯而下,拜倒在地,口稱:「寤生不孝,久缺定省,求國母恕罪!」武姜曰:「此乃老身之罪,與汝無與。」用手扶起,母子抱頭大哭。遂升梯出穴,莊公親扶武姜登輦,自己執轡隨侍。國人見莊公母子同歸,無不以手加額,稱莊公之孝。此皆考叔調停之力也。胡曾先生有詩云: 黃泉誓母絕彝倫,大隧猶疑隔世人。考叔不行懷肉計,莊公安肯認天親! 莊公感考叔全其母子之愛,賜爵大夫,與公孫閼同掌兵權。不在話下。 再說共叔之子公孫滑,請得衛師,行至半途,聞共叔見殺,遂逃奔衛,訴說伯父殺弟囚母之事。衛桓公曰:「鄭伯無道,當為公孫討之。」遂興師伐鄭。不知勝負如何,且看下回分解。
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