東周列國志第六回 衛の石碏、大義のために親を滅ぼす/鄭の荘公、王命を偽って宋を伐つ (衞石碏大義滅親 鄭莊公假命伐宋)

州吁、兵を引き上げ石碏の献策で陳へ向かう

  • 石厚は鄭の兵に一戦で勝ったのち、すぐに兵を引き上げるよう命令を出そうとした。諸将はみなその意図が分からず、そろって州吁に申し上げた。「我が軍は今、士気が非常に高い。ちょうど勝ちに乗じて進軍すべきときなのに、どうして急に退くのか。」
  • 州吁もまた疑わしく思い、石厚を呼んで問いただした。石厚は「私に一言申し上げたいことがあります。左右の者を下がらせてください」と言った。州吁は左右の者に退がるよう命じた。
  • 石厚は言った。「鄭の兵は元来強く、しかもその君主は周王朝の卿士でもあります。今回わが軍に勝たれたことで、これで十分に威を立てたと言えます。主君は即位したばかりで国事もまだ定まっていません。もし長く国外に出ていれば、国内で変事が起こる恐れがあります。」
  • 州吁は「そなたの言葉がなければ、私はここまで考えが及ばなかった」と言った。
  • しばらくして、魯・陳・蔡の三国がそろって勝利を祝いに来て、それぞれ兵を引き上げることを求めた。そこで囲みを解いて引き揚げた。合囲から解囲までわずか五日であった。石厚は自分の功を誇り、三軍にそろって凱歌を歌わせ、州吁を守り立てて意気揚々と帰国した。ただ、道々の農民たちがこう歌うのが聞こえた。
  • (詩:一人の英雄が斃れ、また一人の英雄が興る。歌舞は変じて刀兵となった、いつ太平の世を見られるのか。訴える先もない嘆きを都・洛京に向けて恨む、という趣旨の民謡)
  • 州吁は「国人がまだ心服していないのはどうしたことか」と言った。石厚は「私の父・碏は、かつて上卿の位にあり、もとより国人の信望が厚うございます。主君がもし彼を朝廷に召し、共に国政を執らせれば、地位は必ず定まりましょう」と言った。
  • 州吁は白璧一対と白粟五百鍾を用意させ、石碏の様子を尋ねさせ、朝議に加わるよう召した。石碏は病が重いと言い訳をして、頑なに辞退して受けなかった。
  • 州吁はまた石厚に問うた。「そなたの父は入朝を承知しない。私が自ら出向いて計を尋ねようと思うが、どうか。」石厚は「主君が行かれても、必ずしもお会いできるとは限りません。私が主君の命によって父に迫りましょう」と言った。そして家に帰り父に会い、新君が父を敬い慕う意を伝えた。
  • 石碏は「新君が私を召すのは何のためか」と尋ねた。石厚は「ただ人心がまだ和していないため、君位が定まらないことを恐れ、父上に良策をお願いしたいのです」と言った。
  • 石碏は言った。「諸侯が即位するには、周王朝に命を稟けるのが正しい道である。新君がもし周に朝見し、周王から祭服の冠と衣、車と礼服を賜って正式に君となる命を受ければ、国人にこれ以上何の不満があろうか。」
  • 石厚は「そのお言葉はまことにもっともですが、理由もなく入朝すれば、周王は必ず疑いを起こすでしょう。まず誰かに事情を伝えてもらってからでなければなりません」と言った。
  • 石碏は言った。「今、陳侯は周王に忠順で、朝見と使者の派遣を欠かしたことがなく、王はたいそう嘉して寵愛しておられる。わが国と陳とはもとより親しく睦まじく、近ごろはまた兵を借りる誼もある。もし新君が自ら陳に朝見に赴き、陳侯に頼んで周王へ取り成してもらってから入朝すれば、何の難しいことがあろうか。」
  • 石厚はすぐに父の言葉を州吁に伝えた。州吁は大いに喜び、玉と絹の贈り物を整え、上大夫石厚に自らの車駕を護衛させて、陳国へと進発した。

石碏の密書と陳での州吁・石厚の捕縛

  • 石碏は陳国の大夫・子鍼と、もとより親しい間柄であった。そこで指を切って血を垂らし、一通の書を書き、密かに腹心の者を遣わして子鍼のもとへ届けさせ、陳桓公へ取り次いでもらうよう頼んだ。その書にはこうあった。
  • (書の要旨:石碏が拝礼して陳の賢侯殿下に申し上げる。衛国は小国であるのに天が重い災いを下し、不幸にも君を弑する禍いが起きた。これは主君に背いた弟・州吁の仕業とはいえ、実は臣の道に背いた子・厚が高位を貪り桀のような悪事を助けたものである。この二人の逆賊を誅さなければ、乱臣賊子が天下に相次いで現れるであろう。老いた自分には力及ばず、先君に対し罪深い。今、二人の逆賊は車を連ねて貴国に入朝しようとしているが、これは実は自分の謀計から出たものである。どうか貴国において彼らを捕らえて正しく罪に処してほしい。これは天下のためであり、独りわが国のためだけではない、という内容)
  • 陳桓公は書を読み終えると、子鍼に「この事、どうしたものか」と尋ねた。子鍼は「衛の悪は陳の悪と同じでございます。今ここ陳に来るのは、自ら死地に赴くようなもの。逃してはなりません」と答えた。桓公は「よかろう」と言い、州吁を捕らえる計略を定めた。
  • さて州吁は石厚とともに陳に到着したが、まだ石碏の謀を知らなかった。君臣そろって意気揚々と陳都に入った。陳侯は公子佗を郊外に出迎えに行かせ、賓館に留め置いた。そして陳侯の命として、翌日太廟で会見すると伝えた。州吁は陳侯の礼が丁重なのを見て大いに喜んだ。
  • 翌日、太廟にかがり火を設け、陳桓公は主位に立ち、左に儐(客を取り次ぐ儀礼役)、右に相(儀式の進行役)を並べて、たいそう整然と儀式が整えられた。石厚が先に到着し、太廟の門前に白い立て札が立てられているのを見た。そこには「臣として不忠、子として不孝の者は、廟に入ることを許さず」と書かれていた。石厚は大いに驚き、大夫の子鍼に「この立て札を立てたのはどういう意味か」と尋ねた。子鍼は「これはわが先君の教えであり、わが君は忘れることができないのです」と答えた。石厚はそれで疑いを解いた。
  • しばらくして州吁の車が到着した。石厚が導いて州吁を車から降ろし、州吁は賓客の位置に立った。取次役が入廟を請うた。州吁は玉を佩び圭を執って、まさに身をかがめて礼をしようとしたそのとき、子鍼が陳侯の側に立ち、大声で叫んだ。「周天子の御命令である。『ただ君を弑した賊、州吁と石厚の二人だけを捕らえよ。他の者はすべて赦す』と。」言い終わらぬうちに、まず州吁が捕らえられた。石厚は急いで佩剣を抜こうとしたが、慌てて鞘から抜けなかった。素手のまま格闘して、相手二人を打ち倒した。廟の左右の壁には甲士が伏せてあり、一斉に群がり寄って石厚を縛り上げた。従っていた車馬・兵士たちは、まだ廟の外で様子をうかがっていた。子鍼が石碏の書を読み上げると、人々はようやく州吁と石厚が捕らえられたのはすべて石碏の主謀であり、陳の手を借りたものだと知り、天の道理として当然のことと納得して、それぞれ散っていった。
  • (詩:史官が「州吁が昔桓公を送ったのに、今日陳に朝見して同じ禍いを受けた。指折り数えれば君であった日はいくらもなく、天理のほどを天に問うがよい」と嘆く趣旨)

石碏、大義のため我が子の誅殺を定める

  • 陳侯はすぐに州吁と石厚を処刑して罪を正そうとしたが、群臣は口をそろえて言った。「石厚は石碏の実の子です。石碏の意向がどうかまだ分かりません。衛国に自ら来て議罪させたほうが、後で問題が残らないでしょう。」陳侯は「諸卿の言うとおりだ」と言い、君臣二人を別々に監禁し、州吁は濮邑に、石厚は本国(陳)に閉じ込め、互いに音信を絶たせた。そして人を遣わして夜を徹して衛国に急報を届けさせ、まっすぐ石碏のもとへ向かわせた。
  • さて石碏は隠居を告げて以来、家から出たことがなかった。陳侯からの使者が到着したのを見ると、すぐに輿の用意をさせ、一方で諸大夫を朝廷に招集した。人々はみな驚いた。石碏は自ら朝廷に出向き、百官を集めて、陳侯の書状を初めて開いて読んだ。州吁と石厚がすでに陳に捕らえられており、専ら衛の大夫が来るのを待って共に議罪しようとしていることを知った。百官はそろって「これは社稷の一大事です。すべて国の長老(石碏)の主導にお任せします」と言った。
  • 石碏は言った。「二人の逆賊の罪はいずれも赦されない。刑を明らかに正し、先君の霊に報いねばならぬ。誰がその任に当たってくれるか。」右宰醜が「乱臣賊子は、人がこれを誅してよいものです。醜は不才ながら、心中に公憤を抱いております。逆賊州吁の処刑は、私が執り行いましょう」と言った。
  • 諸大夫はみな「右宰はこの事を成し遂げられましょう。ただ首謀の州吁はすでに正法に処されるので、石厚は従犯として軽く議してよいでしょう」と言った。石碏は大いに怒って言った。「州吁の悪事は、みなあの道に背いた子が作り上げたものだ。諸君が軽い処分を求めるのは、私に子への私情があると疑っているのではないか。老夫は自ら出向いて、この手であの賊を誅すつもりだ。そうでなければ、先祖の廟にどの面目あって会えようか。」
  • 家臣の獳羊肩が「ご長老は怒らずともよろしい。私が代わりに参りましょう」と言った。石碏はそこで右宰醜を濮に遣わして州吁を処刑させ、獳羊肩を陳に遣わして石厚を処刑させた。一方で正式の車駕を整え、公子晋を邪(=邢)から迎えさせた。左丘明は伝を編むにあたり、この件について石碏を「大義のために親を滅す、まことの純臣である」と評した。
  • (詩:史臣が「公の義と私の情は両立しない、甘んじて子を殺して君の恨みに報いた。世人は溺愛して情に流されがちだが、どうして芳しい名を永遠に残せようか」と詠う趣旨)
  • (詩:隴西居士が、石碏が先に石厚を殺さなかったのは、まさに今日州吁と併せて誅するための布石であったとして「謀反の根がどこにあるかを明らかに知りながら、なぜ先にあの道に背いた子を除かなかったのか。それは老臣が遠い先まで慮りを巡らせていたからで、わざと子の厚を残しておいて州吁を誤らせたのだ」と詠う趣旨)

州吁・石厚の処刑と衛宣公の即位

  • さて右宰醜と獳羊肩はともに陳の都に到着し、まず陳桓公に謁見して、乱を除いてくれた恩に謝意を述べ、それぞれ手分けして事に当たった。右宰醜は濮に至り、州吁を市場に引き出した。州吁は醜を見て大声で「お前は私の臣下ではないか。どうしてこのような無礼を働くのか」と叫んだ。右宰醜は「衛にはすでに君を弑した臣がいる。私はそれに倣うだけだ」と答えた。州吁は俯いて刑を受けた。
  • 獳羊肩は陳の都に赴き、石厚を処刑した。石厚は「死は私の本分です。願わくは囚車に乗せられ、父の顔を一目見てから死にたい」と言った。獳羊肩は「私は汝の父の命を奉じて、道に背いた子を誅しに来たのだ。汝が父を思うなら、汝の首を持って会うがよかろう」と言い、剣を抜いて斬った。
  • 公子晋は刑(=邢)から衛に帰り、州吁を誅したことを武官(宗廟)に告げ、あらためて桓公の喪を発し、侯位に即いた。これが宣公である。石碏を国の長老として尊び、代々卿とした。これより陳と衛はますます親しく睦まじくなった。

鄭莊公、宋討伐を謀り陳と和好する

  • さて鄭莊公は五国の兵が解散したのを見て、ちょうど人を遣わして長葛の様子を探らせようとしていた。そこへ公子馮が長葛から逃げ帰り、朝門の外で謁見を待っているとの報せがあった。莊公は召して尋ねた。公子馮は「長葛はすでに宋の兵に打ち破られ、城を占拠されました。命からがら逃げてまいりました。どうかお助けください」と訴え、言い終わるとしきりに泣いた。莊公はねんごろに慰め、そのまま馮を館舎に住まわせ、手厚く食糧を与えた。
  • ほどなく、州吁が濮で殺され、衛にはすでに新君が立ったとの報せがあった。莊公は「州吁の事は新君には関わりがない。しかし兵を主導して鄭を伐ったのは宋である。私はまず宋を伐つべきだ」と言い、群臣を集めて宋討伐の策を問うた。
  • 祭足が進み出て言った。「先だって五国が連合して鄭を伐ちました。今もし我らが宋を伐てば、他の四国は必ず恐れて、兵を合わせて宋を救うでしょう。これは勝算のある策ではありません。今の策としては、まず人を遣わして陳に和議を求め、さらに利益をもって魯を結ぶのがよいでしょう。もし魯・陳と結べば、宋は孤立します。」莊公はこれに従い、使者を陳に遣わして和を求めた。
  • 陳侯はこれを許さなかった。公子佗が諫めて言った。「仁を親しみ隣国と善くするのは、国の宝です。鄭が講和を求めてきたのを、拒んではなりません。」陳侯は言った。「鄭伯は狡猾で計り知れない。どうして軽々しく信じられようか。それに宋・衛はいずれも大国であるのに、講和を求めたとは聞かない。どうしてまずわが国に求めてきたのか。これは離間の計であろう。しかもわが国はかつて宋に従って鄭を伐った。今鄭と講和すれば、宋は必ず怒るだろう。鄭を得て宋を失うのでは、何の利があろうか。」そして鄭の使者を退けて会わなかった。
  • 莊公は陳が和を許さなかったのを見て怒り、「陳が頼みとするのは宋と衛だけだ。衛は乱がようやく治まったばかりで自分のことで手一杯、他国のために何ができようか。魯と結んでから、斉と魯の軍勢を合わせ、まず宋への恨みを晴らし、次に陳に及ぼそう。これは破竹の勢いだ」と言った。
  • 祭足が申し上げた。「そうではありません。鄭は強く陳は弱いのに、講和を我から求めたので、陳は必ず離間の計かと疑い、それで応じなかったのです。もし国境の役人に、陳の油断につけ込ませて国境に侵入させれば、必ず大きな成果を得るでしょう。そのうえで弁の立つ者を遣わして、捕らえた者を返還し、欺くつもりがなかったことを明らかにすれば、陳は必ず従うでしょう。陳との和を成し遂げてから、改めて宋討伐を議するのがよろしいでしょう。」莊公は「よかろう」と言った。
  • そこで両方の国境の長官に歩兵五千を率いさせ、狩猟を装って陳の領内に潜入させ、男女や輜重を大いに略奪させ、およそ百余台の車に及んだ。陳の国境の役人がこれを桓公に報告した。桓公は大いに驚き、ちょうど群臣を集めて協議していたところ、「鄭の使者・潁考叔が朝門の外で、本国の書状を持って謁見を求め、捕虜と略奪品を返還したいと申しております」との報せがあった。
  • 陳桓公は公子佗に「鄭の使者がこう来たのはどういうことか」と尋ねた。公子佗は「使者としての誠意である以上、再び拒むわけにはいきません」と言った。桓公はそこで潁考叔を召し入れた。考叔は再拝し、国書を差し出した。桓公が開いて見ると、おおよそこう書かれていた。
  • (書の要旨:寤生(鄭莊公)が再拝して陳の賢侯殿下に申し上げる。貴君はまさに王の寵を受け、寡人もまた恐れ多くも王の臣である。理としては互いに親しみ、共に王室の藩屏たるべきである。先ごろ講和を求めたが受け入れられず、国境の役人がみだりに両国の間に隙があると疑い、勝手に侵略を行った。寡人はこれを聞いて心穏やかでいられなかった。今、捕らえた人々と輜重をすべて返還し、臣・潁考叔を遣わして謝罪する。寡人は貴君と兄弟の誼を結びたく思う。どうかお許しいただきたい、という内容)
  • 陳侯は読み終えて、鄭が講和を求めているのは誠意から出たものだと初めて理解した。そこで潁考叔を手厚くもてなし、公子佗を遣わして返礼させた。これより陳と鄭は和好の間柄となった。

周王への朝見と祭足の策

  • 鄭莊公は祭足に「陳とはすでに和が成った。宋を討つにはどうすればよいか」と尋ねた。祭足は申し上げた。「宋は爵位が高く国も大きく、王朝でさえ賓客の礼で待遇しています。軽々しく伐ってはなりません。主君は以前から朝見なさろうとしていましたが、斉侯との石門での会合の約束や、州吁の兵の来襲があって、今まで延び延びになっていました。今日はまず周に入り、周王に朝見なさるのがよいでしょう。その後、王命と称して斉・魯を召集し、兵を合わせて宋を攻めれば、名分の立つ出兵となり、負けることは決してありません。」鄭莊公は大いに喜び、「そなたの謀りごとはまことに万全と言えよう」と言った。
  • そのとき周桓王が即位してすでに三年が経っていた。莊公は世子忽に国を守らせ、自ら祭足とともに周に赴き、周王に朝見した。
  • ちょうど冬十一月の朔日で、新年を賀す時期であった。周公黒肩は王に鄭を厚く礼遇するよう勧め、列国への手本とするようにと言った。しかし桓王はもとより鄭を好まず、また麦や粟を奪われた一件を思い出して怒りが込み上げてきた。莊公に「そなたの国は今年の収穫はどうであったか」と尋ねた。莊公は「わが王の天のごとき御恩によって、水害も旱害もございませんでした」と答えた。桓王は「幸い豊作のようであれば、温の麦や成周の粟は、朕が自ら食べておこう」と言った。莊公は桓王の言葉が当てこすりであるのを見て、口をつぐんで何も言わず、そのまま退出した。
  • 桓王は宴も設けず、贈り物もせず、人を遣わして黍米十台を贈り、「聊か凶作に備える資としてやろう」と言わせた。莊公はこの朝見をひどく後悔し、祭足に「大夫は私に入朝を勧めたが、今、周王はこのように怠慢な扱いをし、恨み言を口にし、黍や粟でからかった。私は断って受け取りたくないが、どういう言い訳をすればよいか」と尋ねた。
  • 祭足は答えた。「諸侯が鄭を重んじるのは、代々卿士として王の側近くにいるからです。王の賜り物は、多い少ないにかかわらず、すべて『天寵』と申します。主君がもし断って受け取らなければ、明らかに周と隙を作ることになります。鄭が周を失えば、どうして諸侯に重んじられましょうか。」
  • ちょうど議論をしているところへ、周公黒肩が訪ねて来たとの報せがあり、密かに色染めの絹二台分を贈り物として持参し、話しぶりも極めて丁重であった。しばらくして辞去した。莊公は祭足に「周公が今回来たのはどういう意図か」と尋ねた。祭足は答えた。「周王には二人の子がおります。長男を沱、次男を克と申します。周王は次男を寵愛し、周公にこれを補佐させようとしております。将来必ず嫡子の位を奪おうとする謀があるでしょう。それゆえ周公は今日、まずわが国と誼を結び、外部の後ろ盾にしようとしているのです。主君がその色染めの絹をお受け取りになれば、まさに使い道があります。」
  • 莊公は「どう使うのか」と尋ねた。祭足は言った。「鄭が王に朝見したことは、隣国はみな知っています。今、周公が贈った色染めの絹を十台の車に分けて積み、外側を錦の袱で覆い、都を出る日に『王の賜り物』と言いふらすのです。さらに朱塗りの弓と矢を加え、『宋公は久しく朝貢を怠っており、主君が王命を直接承って兵を率いて討伐する』と偽って言うのです。これで列国に呼びかけ、従軍を求めれば、応じない者は命に背いたことになります。事を大げさに扱えば、諸侯は必ず信じて従うでしょう。宋は大国とはいえ、王命を奉じた軍にどうして抵抗できましょうか。」莊公は祭足の肩を叩いて「そなたはまことに智者だ。私はそなたの言うとおりにしよう」と言った。
  • (詩:隴西居士が「絹織物と穀物とは釣り合わないのに、命令もないのにどうして王を騙るのか。結局のところ虚名だけで人を動かせるもので、睢陽はやがて戦場と化すだろう」と詠う趣旨)

瓦屋の盟と鄭伯の左卿士降格、斉・魯との連合

  • 莊公は周の国境を出ると、道々王命を宣揚し、宋公の不臣の罪を言いふらした。聞く者は誰もこれを真実だと思わない者はなかった。この話はまっすぐ宋国にまで伝わった。宋の殤公は心中驚き恐れ、密かに衛宣公に告げ知らせた。宣公は斉僖公を誘って、宋・鄭両国を講和させようとし、日を約束して瓦屋の地で会合し、血をすすって盟を結び、それぞれの旧怨を解こうとした。
  • 宋殤公は重い贈り物を持たせて人を衛に遣わし、まず犬邱で一度会って鄭の件を協議し、その後そろって瓦屋に赴くことを約束した。斉僖公も期日どおりに到着した。しかし鄭莊公だけは来なかった。斉侯は「鄭伯が来ないのでは、和議は失敗だ」と言い、車を戻そうとした。宋公は強いて引き留めて盟に加わらせた。斉侯は表向きは承知したが、内心では様子見の気持ちを抱いていた。ただ宋と衛との交誼はもとより深く、深く結び合って散会した。
  • このとき周桓王は鄭伯の政を罷免しようとし、虢公忌父にこれを代えようとした。周公黒肩が強く諫めたので、忌父を右卿士とし、国政を任せることとした。鄭伯は左卿士とされたが、名ばかりのものであった。莊公はこれを聞いて笑い、「周王は私の爵位を奪うことはできまい」と言った。
  • のちに斉と宋が党を結んだと聞き、祭足に相談した。祭足は答えた。「斉と宋はもともと深い交わりではなく、みな衛侯が間に立って糾合したためであり、盟を結んだとはいえ実は本心からではありません。主君は今、王命を斉・魯にも広め、魯侯に頼んで斉侯を誘い、力を合わせて宋を討つのがよいでしょう。魯と斉は隣接し、代々婚姻関係にあります。魯侯がこの事に加われば、斉は必ず違えないでしょう。蔡・衛・郕・許の諸国にも檄文を伝えて召集すべきです。応じない国があれば、軍を移してこれを伐てばよいのです。」
  • 莊公はこの計に従い、使者を魯に遣わし、出兵の日には宋の地を奪って、すべて魯国に帰すことを約束させた。公子翬は貪欲で横暴な人物であったので、喜んでこれを承諾した。魯君に奏上し、斉侯にも取り次いで、鄭とともに中邱で会合することを約束した。斉侯は弟の夷仲年を将として出車三百台を出させた。魯侯は公子翬を将として出車二百台を出させ、鄭を助けにやって来た。

鄭軍の出陣と老挑の戦い

  • 鄭莊公は自ら公子呂・高渠彌・潁考叔・公孫閼ら一団の将士を率いて中軍とした。「蝥弧」と名づけた大旗を一本立て、「奉天討罪」の四大字を書き、輅車に載せた。朱塗りの弓と矢を車上に懸け、卿士として罪を討つという名目とした。夷仲年が左軍を、公子翬が右軍を率い、威を揚げ武を耀かせて宋国へと攻め込んだ。
  • 公子翬はまず老挑の地に至り、守将が兵を率いて出迎えたが、公子翬が奮い勇んで先頭に立ち、一戦で宋兵を甲を捨て武器を引きずって逃げ惑わせ、二百五十余人を捕虜にした。公子翬は勝利の報告書を鄭伯に急送し、老挑に出迎えて陣を張った。会見の際に捕虜を献上した。莊公は大いに喜んでしきりに称賛し、本営に第一の功として記録させた。牛を殺して兵士をもてなし、三日間休息させた。
  • その後、兵を分けて進撃し、潁考叔と公子翬に郜城を攻めさせ、公子呂を後詰めとして呼応させ、公孫閼と夷仲年に防城を攻めさせ、高渠彌を後詰めとして呼応させた。本営は老挑に置いて、専ら勝報を待つこととした。

孔父嘉の献策と滎陽襲撃・戴城攻囲

  • さて宋殤公は三国の兵がすでに国境に入ったと聞き、驚いて顔色を失い、急いで司馬・孔父嘉を召して策を問うた。孔父嘉は申し上げた。「私はかつて人を王城に遣わして探らせましたが、宋討伐の命など全くございません。鄭が命を奉じたと称しているのは偽りであり、斉と魯はまさにその計略に嵌められたのです。しかしすでに三国が連合した以上、その勢いには真っ向から争えません。今の策としては、鄭を戦わずして退かせる一策があるのみです。」
  • 殤公は「鄭はすでに利を得ている。すぐに退くだろうか」と言った。孔父嘉は言った。「鄭は王命を偽って列国に呼びかけましたが、今従っているのは斉・魯の二国だけです。東門の役では、宋・蔡・陳・魯が共に事に当たりました。魯は鄭の賄賂を貪り、陳は鄭と講和しており、いずれも鄭の側に付いています。まだ従わないのは蔡と衛だけです。鄭君は自ら将として軍を率いてここにおり、その国内は必ず空虚です。主君はどうか重い賄賂をもって衛に急を告げる使者を送り、蔡と糾合させ、軽装の兵で鄭を襲わせるのがよろしいでしょう。鄭君は自国が攻められたと聞けば、必ず旗を返して自ら救援に向かうはずです。鄭の軍がすでに退けば、斉・魯だけで留まっていられましょうか。」
  • 殤公は「そなたの策はよいが、そなた自身が行かなければ、衛の兵は必ずしも動くまい」と言った。孔父嘉は「私が一軍を率いて、蔡の道案内をいたしましょう」と言った。
  • 殤公はすぐに車兵二百台を選び、孔父嘉を将とし、黄金・白璧・色染めの絹織物などの品を持たせて、夜を徹して衛国へ赴かせ、衛君に出兵して鄭を襲うよう求めさせた。衛宣公はその贈り物を受け取り、右宰醜に兵を率いさせて孔父嘉とともに間道から不意を突かせ、まっすぐ滎陽に迫った。世子忽と祭足は急いで城の守りを命じたが、すでに宋・衛の兵は郭外で大いに略奪を行い、人畜・輜重を数え切れないほど奪い去っていた。
  • 右宰醜はそのまま城を攻めようとしたが、孔父嘉は言った。「およそ人を襲う兵は、備えのない隙に乗じて利を得たら、それで止めるべきものだ。もし堅固な城の下に長く陣を張れば、鄭伯が兵を返して救援に来て、我らは腹背に敵を受け、座して困窮するばかりだ。むしろ戴の地を借りて道を通り、全軍を無事に帰したほうがよい。我らの軍が鄭から去る頃には、鄭君もまた宋から兵を退いているはずだ。」
  • 右宰醜はこの言葉に従い、人を遣わして戴に道を借りようとした。戴の人々は自分たちの国を襲おうとしているのかと疑い、城門を閉じて兵を配し城壁に登らせた。孔父嘉は大いに怒り、戴城から十里離れたところで、右宰醜とともに前後二つの陣を分けて城攻めの準備をした。戴の人々は固く守り、しばしば城を出て交戦し、互いに死傷者を出した。孔父嘉は使者を蔡国に遣わして援軍を乞うた。
  • この件はここまでにしておく。このとき潁考叔らはすでに郜城を打ち破り、公孫閼らもまた防城を打ち破って、それぞれ鄭伯の本営に勝報を届けていた。ちょうどそこへ世子忽からの急報の文書が届いた。鄭伯がどう処置するか、続きは次回で語られる。
原文(底本)
話說石厚才勝鄭兵一陣,便欲傳令班師。諸將皆不解其意,齊來稟復州吁曰:「我兵銳氣方盛,正好乘勝進兵,如何遽退?」州吁亦以為疑,召厚問之。厚對曰:「臣有一言,請屏左右。」州吁麾左右使退。厚乃曰:「鄭兵素強,且其君乃王朝卿士也。今為我所勝,足以立威。主公初立,國事未定,若久在外方,恐有內變。」州吁曰:「微卿言,寡人慮不及此。」少頃,魯、陳、蔡三國,俱來賀勝,各請班師。遂解圍而去。計合圍至解圍,才五日耳。石厚自矜有功,令三軍齊唱凱歌,擁衛州吁揚揚歸國。但聞野人歌曰:

    一雄斃,一雄興。歌舞變刀兵,何時見太平?恨無人兮訴洛京!

州吁曰:「國人尚不和也,奈何?」石厚曰:「臣父碏,昔位上卿,素為國人所信服。主公若徵之入朝,與共國政,位必定矣。」州吁命取白璧一雙,白粟五百鍾,候問石碏,即徵碏入朝議事。石碏託言病篤,堅辭不受。州吁又問石厚曰:「卿父不肯入朝,寡人欲就而問計,何如?」石厚曰:「主公雖往,未必相見,臣當以君命叩之。」乃回家見父,致新君敬慕之意。石碏曰:「新主相召,欲何為也?」石厚曰:「只為人心未和,恐君位不定,欲求父親決一良策。」石碏曰:「諸侯即位,以稟命於王朝為正。新主若能覲周,得周王錫以黻冕車服,奉命為君,國人更有何說?」石厚曰:「此言甚當,但無故入朝,周王必然起疑,必先得人通情於王方可。」石碏曰:「今陳侯忠順於周王,朝聘不缺,王甚嘉寵之。吾國與陳素相親睦,近又有借兵之好。若新主親往朝陳,央陳侯通情周王,然後入覲,有何難哉?」石厚即將父碏之言,述於州吁。州吁大喜。當備玉帛禮儀,命上大夫石厚護駕,往陳國進發。

  石碏與陳國大夫子鍼,素相厚善。乃割指瀝血,寫下一書,密遣心腹人,竟到子鍼處,托彼呈達陳桓公。書曰:

    外臣石碏百拜致書陳賢侯殿下:衛國褊小,天降重殃,不幸有弒君之禍。此雖逆弟州吁所為,實臣之逆子厚貪位助桀。二逆不誅,亂臣賊子,行將接踵於天下矣!老夫年耄,力不能制,負罪先公。今二逆聯車入朝上國,實出老夫之謀。幸上國拘執正罪,以正臣子之綱。實天下之幸,不獨臣國之幸也!

陳桓公看畢,問子鍼曰:「此事如何?」子鍼對曰:「衛之惡,猶陳之惡。今之來陳,乃自送死,不能縱之。」桓公曰:「善。」遂定下擒州吁之計。

  卻說州吁同石厚到陳,尚未知石碏之謀。一君一臣,昂然而入。陳侯使公子佗出郭迎接,留於客館安置。遂致陳侯之命,請來日太廟中相見。州吁見陳侯禮意殷勤,不勝之喜。次日,設庭燎於太廟,陳桓公立於主位,左儐右相,擺列得甚是整齊。石厚先到,見太廟門首,立著白牌一面,上寫「為臣不忠,為子不孝者,不許入廟!」石厚大驚,問大夫子鍼曰:「立此牌者何意?」子鍼曰:「此吾先君之訓,吾君不敢忘也。」石厚遂不疑。須臾,州吁駕到。石厚導引下車,立於賓位。儐相啟請入廟。州吁佩玉秉圭,方欲鞠躬行禮。只見子鍼立於陳侯之側,大聲喝曰:「周天子有命:『只拏弒君賊州吁石厚二人,餘人俱免。』」說聲未畢,先將州吁擒下。石厚急拔佩劍,一時著忙,不能出鞘。只用手格鬥鬥,打倒二人。廟中左右壁廂,俱伏有甲士,一齊攏來,將石厚綁縛。從車兵眾,尚然在廟外觀望。子鍼將石碏來書宣揚一遍,眾人方知吁厚被擒,皆石碏主謀,假手於陳,天理當然,遂紛然而散。史官有詩嘆曰:

    州吁昔日餞桓公,今日朝陳受禍同。屈指為君能幾日,好將天理質蒼穹。

陳侯即欲將吁厚行戮正罪。群臣皆曰:「石厚乃石碏親子,未知碏意如何。不若請衛自來議罪,庶無後言。」陳侯曰:「諸卿之言是也。」乃將君臣二人,分作兩處監禁,州吁囚於濮邑,石厚囚於本國,使其音信隔絕。遣人星夜馳報衛國,竟投石碏。

  卻說石碏自告老之後,未曾出戶。見陳侯有使命至,即命輿人駕車伺候,一面請諸大夫朝中相見。眾各駭然。石碏親到朝中,會集百官,方將陳侯書信啟看。知吁厚已拘執在陳,專等衛大夫到,公同議罪。百官齊聲曰:「此社稷大計,全憑國老主持。」石碏曰:「二逆罪俱不赦,明正典刑,以謝先靈,誰肯往任其事?」右宰醜曰:「亂臣賊子,人得而誅之!醜雖不才,竊有公憤。逆吁之戮,醜當蒞之。」諸大夫皆曰:「右宰足辦此事矣。但首惡州吁既已正法,石厚從逆,可從輕議。」石碏大怒曰:「州吁之惡,皆逆子所釀成。諸君請從輕典,得無疑我有舐犢之私乎?老夫當親自一行,手誅此賊。不然,無面目見先人之廟也!」家臣獳羊肩曰:「國老不必發怒,某當代往。」石碏乃使右宰醜往濮蒞殺州吁,獳羊肩往陳蒞殺石厚。一面整備法駕,迎公子晉於邪。左丘明修傳至此,稱石碏:「為大義而滅親,真純臣也!」史臣詩曰:

    公義私情不兩全,甘心殺子報君冤。世人溺愛偏多味,安得芳名壽萬年!

隴西居士又有詩,言石碏不先殺石厚,正為今日並殺州吁之地。詩曰:

    明知造逆有根株,何不先將逆子除!自是老臣懷遠慮,故留子厚誤州吁。

  再說右宰醜同獳羊肩同造陳都,先謁見陳桓公,謝其除亂之恩,然後分頭幹事。右宰醜至濮,將州吁押赴市曹。州吁見醜大呼曰:「汝吾臣也,何敢犯吾?」右宰醜曰:「衛先有臣弒君者,吾效之耳!」州吁俛首受刑。獳羊肩往陳都,蒞殺石厚。石厚曰:「死吾分內。願上囚車,一見父親之面,然後就死。」獳羊肩曰:「吾奉汝父之命,來誅逆子。汝如念父,當攜汝頭相見也!」遂拔劍斬之。公子晉自刑歸衛,以誅吁告於武官,重為桓公發喪,即侯位,是為宣公。尊石碏為國老,世世為卿。從此陳衛益相親睦。

  卻說鄭莊公見五國兵解,正欲遣人打探長葛消息。忽報公子馮自長葛逃回,在朝門外候見。莊公召而問之。公子馮訴言:「長葛已被宋兵打破,佔據了城池。逃命到此,乞求覆護!」言罷痛哭不已。莊公撫慰一番,仍令馮住居館舍,厚其廩餼。不一日,聞州吁被殺於濮,衛已立新君。莊公乃曰:「州吁之事,與新君無干。但主兵伐鄭者,宋也。寡人當先伐之。」乃大集群臣,問以伐宋之策。祭足進曰:「前者五國連兵伐鄭,今我若伐宋,四國必懼,合兵救宋,非勝算也。為今之計,先使人請成於陳,再以利結魯。若魯陳結好,則宋勢孤矣。」莊公從之,遂遣使如陳請成。陳侯不許,公子佗諫曰:「親仁善鄰,國之寶也。鄭來講好,不可違之。」陳侯曰:「鄭伯狡詐不測,豈可輕信?不然,宋衛皆大國,不聞講和,何乃先及我國?此乃離間之計也。況我曾從宋伐鄭,今與鄭成,宋國必怒。得鄭失宋,有何利焉?」遂卻鄭使不見。莊公見陳不許成,怒曰:「陳所恃者,宋衛耳。衛亂初定,自顧不暇,豈能為人?俟我結好魯國,當合齊魯之眾,先報宋仇,次及於陳。此破竹之勢也。」祭足奏曰:「不然,鄭強陳弱,請成自我,陳必疑離間之計,所以不從。若命邊人乘其不備,侵入其境,必當大獲。因使舌辨之士,還其俘獲,以明不欺,彼必聽從。平陳之後,徐議伐宋為當。」莊公曰:「善。」乃使兩鄙宰率徒兵五千,假裝出獵,潛入陳界,大掠男女輜重,約百餘車。陳疆吏申報桓公。桓公大驚,正集群臣商議,忽報:「有鄭使潁考叔在朝門外,齎本國書求見,納還俘獲。」陳桓公問公子佗曰:「鄭使此來如何?」公子佗曰:「通使美意,不可再卻。」桓公乃召潁考叔進見。考叔再拜,將國書呈上。桓公啟而觀之,略曰:

    寤生再拜奉書陳賢侯殿下:君方膺王寵,寡人亦忝為王臣,理宜相好,共效屏藩。近者請成不獲,邊吏遂妄疑吾二國有隙,擅行侵掠。寡人聞之,臥不安枕。今將所俘人口輜重,盡數納還,遣下臣潁考叔謝罪。寡人願與君結兄弟之好。惟君許焉。

陳侯看畢,方知鄭之修好,出於至誠。遂優禮潁考叔,遣公子佗報聘。自是陳鄭和好。

  鄭莊公謂祭足曰:「陳已平矣,伐宋奈何?」祭足奏曰:「宋爵尊國大,王朝且待以賓禮,不可輕伐。主公向欲朝覲,只因齊侯約會石門,又遇州吁兵至,耽擱至今。今日宜先入周,朝見周王。然後假稱王命,號召齊魯,合兵加宋。兵至有名,萬無不勝矣。」鄭莊公大喜曰:「卿之謀事,可謂萬全。」時周桓王即位已三年矣。莊公命世子忽監國,自與祭足如周,朝見周王。

  正值冬十一月朔,乃賀正之期。周公黑肩勸王加禮於鄭,以勸列國。桓王素不喜鄭,又想起侵奪麥禾之事,怒氣勃勃。謂莊公曰:「卿國今歲收成何如?」莊公對曰:「託賴吾王如天之福,水旱不侵。」桓王曰:「幸而有年,溫之麥,成周之禾,朕可留以自食矣。」莊公見桓王言語相侵,閉口無言,當下辭退。桓王也不設宴,也不贈賄,使人以黍米十車遺之曰:「聊以為備荒之資。」莊公甚悔此來,謂祭足曰:「大夫勸寡人入朝,今周王如此怠慢,口出怨言,以黍禾見訕。寡人欲卻而不受,當用何辭?」祭足對曰:「諸侯所以重鄭者,以世為卿士,在王左右也。王者所賜,不論厚薄,總曰天寵。主公若辭而不受,分明與周為隙。鄭既失周,何以取重於諸侯乎?」正議論間,忽報周公黑肩相訪,私以綵繒二車為贈,言語之際,備極款曲。良久辭去。莊公問祭足曰:「周公此來何意?」祭足對曰:「周王有二子,長曰沱,次曰克。周王寵愛次子,屬周公使輔翼之,將來必有奪嫡之謀。故周公今日先結好我國,以為外援。主公受其綵繒,正有用處。」莊公曰:「何用?」祭足曰:「鄭之朝王,鄰國莫不知之。今將周公所贈綵帛,分布於十車之上,外用錦袱覆蓋,出都之日,宣言『王賜』。再加彤弓弧矢,假說:『宋公久缺朝貢,主公親承王命,率兵討之。』以此號召列國,責以從兵,有不應者,即係抗命。重大其事,諸侯必然信從。宋雖大國,其能當奉命之師乎!」莊公拍祭足肩曰:「卿真智士也!寡人一一聽卿而行。」隴西居士詠史詩曰:

    綵繒禾黍不相當,無命如何假託王?畢竟虛名能動眾,睢陽行作戰爭場。

  莊公出了周境,一路宣揚王命,聲播宋公不臣之罪,聞者無不以為真。這話直傳至宋國。殤公心中驚懼,遣使密告於衛宣公。宣公乃糾合齊僖公,欲與宋鄭兩國講和,約定月日,在瓦屋之地相會,歃血訂盟,各釋舊憾。宋殤公使人以重幣遺衛,約先期在犬邱一面,商議鄭事,然後並駕至於瓦屋。齊僖公亦如期而至。惟鄭莊公不到。齊侯曰:「鄭伯不來,和議敗矣!」便欲駕車回國。宋公強留與盟。齊侯外雖應承,中懷觀望之意。惟宋衛交情已久,深相結納而散。是時周桓王欲罷鄭伯之政。以虢公忌父代之。周公黑肩力諫,乃用忌父為右卿士,任以國政。鄭伯為左卿士,虛名而已。莊公聞之,笑曰:「料周王不能奪吾爵也!」後聞齊宋合黨,謀於祭足。祭足對曰:「齊宋原非深交,皆因衛侯居間糾合,雖然同盟,實非本心。主公今以王命並布於齊魯,即託魯侯糾合齊侯,協力討宋。魯與齊連壤,世為婚姻,魯侯同事,齊必不違。蔡、衛、郕、許諸國,亦當傳檄召之,方見公討。有不赴者,移師伐之。」莊公依計,遣使至魯,許以用兵之日,侵奪宋地,盡歸魯國。公子翬乃貪橫之徒,欣然諾之。奏過魯君,轉約齊侯,與鄭在中邱取齊。齊侯使其弟夷仲年為將,出車三百乘。魯侯使公子翬為將,出車二百乘,前來助鄭。

  鄭莊公親統著公子呂、高渠彌、潁考叔,公孫閼等一班將士,自為中軍。建大纛一面,名曰「蝥弧」,上書「奉天討罪」四大字,以輅車載之。將彤弓弧矢,懸於車上,號為卿士討罪。夷仲年將左軍,公子翬將右軍,揚威耀武,殺奔宋國。公子翬先到老挑地方,守將引兵出迎。被公子翬奮勇當先,只一陣,殺得宋兵棄甲曳兵,逃命不迭,被俘者二百五十餘人。公子翬將捷書飛報鄭伯,就迎至老挑下寨。相見之際,獻上俘獲。莊公大喜,稱贊不絕口,命幕府填上第一功。殺牛饗士,安歇三日。然後分兵進取,命潁考叔同公子翬領兵功打郜城,公子呂接應;命公孫閼同夷仲年領兵攻打防城,高渠彌接應。將老營安扎老挑,專聽報捷。

  卻說宋殤公聞三國兵已入境,驚得面如土色,急召司馬孔父嘉問計。孔父嘉奏曰:「臣曾遣人到王城打聽,並無伐宋之命。鄭託言奉命,非真命也,齊魯特墮其術中耳。然三國既合,其勢誠不可爭鋒。為今之計,惟有一策,可令鄭不戰而退。」殤公曰:「鄭已得利,肯遽退乎?」孔父嘉曰:「鄭假託王命,遍召列國。今相從者,惟齊魯兩國耳。東門之役,宋、蔡、陳、魯同事。魯貪鄭賂,陳與鄭平,皆入鄭黨,所不致者,蔡衛也。鄭君親將在此,車徒必盛,其國空虛。主公誠以重賂,遣使告急於衛,使糾合蔡國,輕兵襲鄭。鄭君聞己國受兵,必返旆自救。鄭師既退,齊魯能獨留乎?」殤公曰:「卿策雖善,然非卿親往,衛兵未必即動。」孔父嘉曰:「臣當引一枝兵,為蔡鄉導。」

  殤公即簡車徒二百乘,命孔父嘉為將,攜帶黃金白璧綵緞等物,星夜來到衛國,求衛君出師襲鄭。衛宣公受了禮物,遣右宰醜率兵同孔父嘉從間道出其不意,直逼滎陽。世子忽同祭足急忙傳令守城,已被宋衛之兵,在郭外大掠一番,擄去人畜輜重無算。右宰醜便欲攻城,孔父嘉曰:「凡襲人之兵,不過乘其無備,得利即止。若頓師堅城之下,鄭伯還兵來救,我腹背受敵,是坐困耳。不若借徑於戴,全軍而返。度我兵去鄭之時,鄭君亦當去宋矣。」右宰醜從其言,使人假道於戴。戴人疑其來襲己國,閉上城門,授兵登陴。孔父嘉大怒,離戴城十里,同右宰醜分作前後兩寨,準備攻城。戴人固守,屢次出城交戰,互有斬獲。孔父嘉遣使往蔡國乞兵相助。不在話下。此時潁考叔等已打破郜城,公孫閼等亦打破防城,各遣人於鄭伯老營報捷。恰好世子忽告急文書到來。不知鄭伯如何處置,再看下回分解。

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