東周列國志第八回 新君を立てて華督が賄賂を行う/戎兵を破った鄭の忽が婚を辞す (立新君華督行賂 敗戎兵鄭忽辭婚)
華督、孔父嘉の妻を見初め害意を抱く
- さて宋殤公・与夷は即位して以来、しばしば兵を用いており、鄭を伐つことだけでもすでに三度に及んでいた。ただ公子馮が鄭にいることを忌んで討伐したのである。太宰・華督はもとより公子馮と交わりがあり、殤公が鄭に兵を用いるのを見て、口では諫め止めることをしなかったが、心中では大いに不満であった。孔父嘉は主兵の官であったので、華督はどうして彼を憎まずにいられようか。常々隙を狙って殺そうと考えていたが、彼が殤公に重用され兵権を握っていたため、あえて手出しできずにいた。
- 戴の一戦から全軍が覆滅し、孔父嘉は一人で逃げ帰ったが、国人には少なからず怨みの声があり、みな「宋君は民を憐れまず、軽々しく兵を動かして戦を好み、そのために国中で妻は寡婦となり子は孤児となり、戸口が減ってしまった」と言っていた。華督はさらに腹心の者を街中に遣わし、「たびたびの用兵は、みな孔司馬の考えから出たものだ」という流言を広めさせた。国人はこれを本当のことと信じ、みな司馬を怨んだ。華督はまさにこれを狙っていた。
- また、孔父嘉の後妻・魏氏は美しさこの上なく、世に比べる者もないと聞き、ただ一目会えないことを恨んでいた。ある日、魏氏が里帰りし、実家の者たちに従って郊外へ墓参に出かけた。ときは春の月、柳の色は煙のようにけぶり、花の光は錦のように美しく、まさに士女が野遊びに出る頃であった。魏氏は不用意にも車の帳を持ち上げ、こっそりと外の景色を眺めた。
- 華督はちょうど郊外で遊んでいたところ、ふとすれ違い、孔司馬の家族だと知って大いに驚いた。「世にこのような珍しいものがいたとは、噂に違わぬものだ」と言い、昼夜思い続けて魂も抜けたようになった。「もしこの美人を屋敷の奥に迎えられれば、残りの半生を十分に楽しめよう。それには彼女の夫を殺すよりほかに、その妻を奪う方法はない。」これより孔父嘉を害する謀はますます固まった。
華督、兵士を煽動して孔父嘉を殺す
- 周桓王十年の春、蒐(春の狩猟)の時期に、孔父嘉は車馬を検閲し、号令はたいそう厳しかった。華督はまた腹心の者を軍中に遣わし、「司馬はまた兵を挙げて鄭を伐とうとしており、昨日太宰と協議してすでに決まった。それで今日、兵の調練をしているのだ」と言いふらさせた。兵士たちは一人残らず恐れおののき、三々五々、太宰の門前に押しかけて訴え、君に進言して兵を動かさぬようにしてほしいと求めた。
- 華督はわざと門を固く閉ざし、ただ門番に隙間から丁寧な言葉で慰めさせるだけであった。兵士たちはますます切実に面会を求め、集まる人数も増え、多くの者が武器を携えていた。日が暮れる頃になっても太宰に会えず、ついに喊声を上げ始めた。昔から「人を集めるのは容易いが、人を散らすのは難しい」という。華督は軍心がすでに変わったのを知り、鎧を身に着け剣を佩いて出て来て、門を開けるよう命じ、兵士たちに列を正させ、騒がぬよう伝えた。
- 自ら門の前に立ち、まず一通りの猫かぶりの言葉で人心を落ち着かせた。それから「孔司馬は用兵を主張し、民を害し人々を苦しめている。主君は彼を偏って信任し、私の諫言を聞き入れない。三日のうちに、また大挙して鄭を伐とうとしている。宋国の民に何の罪があって、このような苦労を受けねばならぬのか」と言った。これに兵士たちは歯を食いしばって怒りを募らせ、口々に「殺せ」と叫んだ。
- 華督はわざと諫めるふりをして「そなたたちは早まってはいけない。もし司馬がこれを聞いて主君に奏上すれば、命が危うくなるぞ」と言った。兵士たちは口々に「我々の父子・親戚は、この数年の戦いで死んだ者が半数を超えた。今また大挙して出征させられれば、あの鄭国は将は勇猛で兵は強い、どうして敵し得ようか。どうせ死ぬなら、いっそこの賊を殺して民のために害を除いたほうが、死んでも恨みが残らない」と言った。
- 華督はさらに「『鼠に物を投げつけて打とうとする者は、その傍らの器を傷つけまいと憚るものだ』という。司馬は憎らしい者とはいえ、実は主君の寵幸する臣だ。この事は決して行ってはならぬ」と言った。兵士たちは「太宰さえ主導してくださるなら、あの無道な暗君であろうと、我らは恐れません」と言い、口々に言いながら華督の袍の袖を引っ張って離さず、そろって「太宰に従って、民を害する賊を殺したい」と叫んだ。
- そこで兵士たちは車を御する者を手伝って、車を仕立てた。華督は兵士たちに取り囲まれて車に乗せられ、車中には自分の腹心の者を従わせた。一行はにぎやかに、まっすぐ孔司馬の私邸へ向かい、屋敷をぐるりと取り囲んだ。華督は「まだ騒ぎ立ててはならない。私が門を叩いて、その隙に事を成そう」と言いつけた。
- そのとき黄昏時も終わりに近く、孔父は内室で酒を飲んでいたが、外で激しく門を叩く音を聞き、人を遣わして尋ねさせた。「華太宰が自ら門前に来られ、機密の事でご相談があるとのことです」との返事であった。孔父嘉は急いで衣冠を整え、堂を出て出迎えた。ちょうど大門を開いたところ、外から一斉に喊声が上がり、兵士たちがどっと乱入してきた。孔父嘉は心が慌て、踵を返して奥へ引き返そうとしたが、華督はすでに堂に上がり、大声で「民を害する賊はここにいるぞ、どうして手を下さぬのか」と叫んだ。嘉が言葉を発する間もなく、首はすでに落ちていた。
- 華督は自ら腹心を率いて内室に直入し、魏氏を奪って車に乗せ去った。魏氏は車の中で機転を利かせ、そっと帯を解いて自ら喉に巻きつけた。華氏の門に着く頃には、すでに息が絶えていた。華督はしきりに嘆息した。郊外へ運ばせて簡素に葬らせ、同行の者たちには固く口止めして事を漏らさぬようにさせた。ああ、一夕の歓びも得られぬまま、いたずらに万劫の怨みを作ってしまった、悔いても悔やみきれないことである。
- 兵士たちはこの機に乗じて孔氏の家財をすっかり奪い尽くした。孔父嘉にはただ一人の子があり、名を木金父といったが、まだ幼く、その家臣が抱いて魯へ逃げた。後にその字(あざな)をもって氏とし、孔氏と称した。孔子(孔聖・仲尼)は、その六代の孫にあたる。
華督、宋殤公を弑して公子馮の迎立を唱える
- さて宋殤公は司馬が殺されたと聞き、手足の置き所もないほど動転した。さらに華督が事に加担していたと聞き、大いに怒って人を遣わして召し寄せ、罪を正そうとした。華督は病と称して赴かなかった。殤公は車の用意を命じ、自ら孔父の喪に臨もうとした。
- 華督はこれを聞いて急いで軍正を呼び寄せ、「主君が司馬を寵信していたことは、そなたも知っているとおりだ。そなたたちが勝手に司馬を殺したのだから、罪を免れられるはずがない。先君・穆公はご自分の子を退けて主君を立てられたのに、主君はその恩を仇で返し、司馬を用いて鄭討伐をやめようとしなかった。今、司馬が殺されたのは、天の道理が明らかになったものだ。いっそこの大事を最後までやり遂げ、先君の子を迎え立てて、禍いを転じて福となすほうが、どれほど良いことか」と言った。
- 軍正は「太宰のお言葉は、まさに人々の思いと合致します」と答えた。そこで兵士たちに呼びかけ、みな孔氏の門前に伏せさせ、宋公が到着次第、鼓を打ち鳴らして事を起こす手はずとした。近侍の者たちは驚いて逃げ散り、殤公は乱軍の手にかかって死んだ。
- 華督はその報せを聞き、喪服をまとって駆けつけ、二度にわたって哀悼の意を表した。そして鼓を鳴らして群臣を集め、いいかげんに軍中の一、二人に罪を着せて処刑し、人々の目をごまかした。そして「先君の子・馮は今、鄭国におります。人心はいまだ先君を忘れておりません。当然その子を迎え立てるべきです」と言いふらした。百官はただ「はい」と言って退いた。
- 華督はそこで使者を鄭に遣わして訃報を伝えるとともに、公子馮を迎えに行かせた。一方で、宋国の宝庫にある重器を各国へ賄賂として贈り、馮を立てた事情を告げ知らせた。
公子馮の帰国と即位、華督の行賂と稷の会
- さて鄭莊公は宋の使者に会い、国書を受け取ると、すでにその来意を悟った。すぐに正式の車馬を整え、公子馮を送って宋の君とさせた。公子馮は出立にあたり、地に伏して泣きながら「私の余生は、すべて主君のおかげで保たれたものです。幸いにも帰国し、先祖の祀りを続けることができます。この身は代々陪臣として仕え、二心を抱くことはございません」と言った。莊公もまた嗚咽した。
- 公子馮は宋に帰ると、華督に奉じられて君となり、これを莊公という。華督は依然として太宰の任にあり、各国に賄賂を分け贈り、受け取らぬ国はなかった。斉侯・魯侯・鄭伯はそろって稷の地で会し、宋公の位を確定させ、華督を相とした。
- (詩:史官が「春秋の世に簒奪と弑逆が相次いだのは嘆かわしく、宋と魯の奇聞はわずか一年隔てただけであった。もし列国が賄賂を辞退できたなら、乱臣賊子がどうして安眠できようか」と嘆く趣旨)
- (詩:宋殤公が穆公の恩義に背いて公子馮を忌み恨んだ末に弑されたのは天意であったと詠う趣旨。「穆公が国を譲ったのはまことの公心からであったが、殤公が馮を忌んだのは恨むべきことだ。今日殤公が亡くなり馮が位に即いたが、九泉の下で父と兄に会わせる顔があろうか」という趣旨)
北戎の侵攻と斉の危機
- さて斉僖公は稷での会合から帰る途中、急報を受け取った。「北方の戎の主が、大良・小良の二人の元帥に戎兵一万を率いさせて斉の国境を侵し、すでに祝阿を破り、まっすぐ歴下を攻めている。守備の臣は防ぎきれず、しきりに急を告げている。どうか主君は速やかにお戻りください。」
- 僖公は「北戎はしばしば侵略してくるが、これまでは鼠や犬のような小さな盗みに過ぎなかった。今回は大挙して侵入してきたのだから、もし利を得て去ることを許せば、これからの北の国境には安らかな年がなくなるだろう」と言い、魯・衞・鄭の三国に人を遣わして援軍を求めた。一方で公子元・公孫戴仲らを率いて歴城へ向かい、敵を防ごうとした。
世子忽の援軍と戎兵撃破
- 一方、鄭莊公は斉に戎の患いがあると聞くと、世子忽を召して「斉と鄭は同盟の間柄であり、鄭が兵を用いるときには斉は必ず従ってくれる。今、援軍を求められたのだから、速やかに救援に赴くべきだ」と言い、車三百台を選び、世子忽を大将、高渠彌を副将、祝聃を先鋒として、夜を徹して斉国へ進発させた。
- 斉僖公が歴下にいると聞いて、まっすぐ会いに行った。このとき魯・衞二国の軍はまだ到着していなかった。僖公はこの上なく感謝し、自ら城を出て軍をねぎらい、世子忽と戎を退ける策を協議した。
- 世子忽は言った。「戎は歩兵を用いており、進むのは容易いが敗れるのも容易い。我らは戦車を用いており、敗れにくいが進みにくい。とはいえ、戎の性質は軽率で規律がなく、貪欲で互いに助け合うこともなく、勝てば譲らず、敗れれば互いに救わない。これは誘い込んで討ち取ることができる。しかも彼らは勝利を頼みにしており、必ず軽々しく進んでくるだろう。もし小勢の兵で当たり、偽って敗走すれば、戎は必ず追ってくる。私は前もって伏兵を配置して待ち構える。追ってきた兵が伏兵に遭遇すれば、必ず驚いて逃げ出すはずで、そこを逐えば必ず完勝できるだろう。」
- 僖公は「この計はまことに妙だ。斉の兵は東に伏せて彼らの前を遮り、鄭の兵は北に伏せて彼らの後を追う。前後から挟み撃ちにすれば、万に一つの失敗もない」と言った。世子忽は命を受けて自ら北路に赴き、二手に分かれて伏兵を配置した。
- 僖公は公子元を召して策を授けた。「そなたは兵を率いて東門に伏せ、戎の軍が追ってくるのを待って、すぐさま殺して出よ。」公孫戴仲には一軍を率いて敵を誘い出させ、「ただ負けるだけでよく、勝ってはならない。誘い込んで東門の伏兵の所まで持っていけば、それで功があったことになる」と命じた。手はずが整うと、公孫戴仲は関を開いて戦いを挑んだ。
- 戎の将・小良は刀を持って馬を躍らせ、戎兵三千を率いて陣を出て迎え撃った。両軍が交戦して二十合ほど、戴仲は力が及ばず、車を返して逃げ出した。しかし北の関には向かわず、城をめぐって東の道へと向かった。小良は追う手を緩めず、力の限り追撃した。大良は戎兵が勝っているのを見て、全軍を挙げて後を追わせた。東門に近づいたところで、突然砲声が轟き、鉦や太鼓が天を鳴らし、茨や葦の中はすべて伏兵で、蜂が群がり蠅が集まるようであった。
- 小良は急いで「計にかかった」と叫び、馬首を返して逃げようとしたが、かえって大良の後続の隊を突き崩し、足場を保てなくなって全員が逃げ出した。公孫戴仲と公子元は兵を合わせて追撃した。大良は小良に前を開かせ、自ら殿を務め、戦いながら退いた。後れを取った者はことごとく斉兵に捕らえられ斬られた。
- 戎兵は鵲山まで逃げ、追撃の軍がだいぶ遠ざかったのを見て、ようやく息をついた。まさに鍋を据えて飯を炊こうとしたところ、山あいから喊声が大きく上がり、一隊の軍馬が駆け出し、「鄭国の上将・高渠彌がここにいるぞ」と叫んだ。大良・小良は慌てて馬に乗り、戦う気力もなく道を奪って逃げた。高渠彌はその後を追って攻めた。数里ほど進むと、前方でまた喊声が上がった。世子忽が兵を率いて攻め寄せたのであり、後方には公子元の率いる斉兵も到着していた。戎兵はばらばらに討たれ、四方に逃げ散った。
- 小良は祝聃の一矢を頭に受け、馬から落ちて死んだ。大良は単騎で囲みを破って出たが、ちょうど世子忽の兵車に出くわし、逃げる暇もなく世子忽に斬られた。甲を着けた兵三百を生け捕りにし、死者は数え切れなかった。世子忽は大良・小良の首級と、生け捕りにした甲士たちとを、みな斉侯の陣前に届けて功を献じた。
斉僖公の婚姻の申し出と世子忽の辞退
- 僖公は大いに喜び、「世子のこのような英雄的な働きがなければ、戎兵がどうして退いただろうか。今日、社稷が安泰なのは、すべて世子の賜物である」と言った。世子忽は「たまたま微力を尽くしただけです。どうして過分なお褒めをいただきましょう」と答えた。
- そこで僖公は使者を遣わして魯・衞の兵を留め置かせ、遠路を来させる労をかけないようにした。そして盛大な宴を設け、もっぱら世子忽をもてなした。宴の席で、また「愚娘に家事の役を務めさせたい」という話が出た。世子忽は繰り返し謙譲した。
- 宴が終わったのち、僖公は夷仲年に高渠彌へ密かに言わせた。「わが君は世子の英雄ぶりを慕われ、姻戚の誼を結びたいと望んでおられる。以前使者を遣わしたが、ご承諾いただけなかった。今日わが君は自ら世子にお話ししたが、世子はどうしても応じてくださらない。何のご意向であろうか。大夫がこの縁組みをまとめてくださるなら、白璧二対、黄金百鎰を差し上げよう。」
- 高渠彌は命を受け、世子のもとを訪れ、斉侯が慕っている旨を詳しく伝え、「もし縁組みが整えば、後日この大国の助けを得られる。これもまた良いことではないか」と言った。世子忽は言った。「かつて何事もなかった時に、斉侯が私との縁組みを望んでくださったが、それでも私はとても及ばぬこととして辞退した。今回は命を受けて斉を救援し、幸いに成功したうえで、妻を娶って帰るとなれば、外の人々は必ず私が功績を頼みに縁組みを求めたと言うだろう。どうやってそれを弁明できようか。」
- 高渠彌はしきりに勧めたが、世子忽はどうしても承諾しなかった。翌日、斉僖公はまた夷仲年を遣わして婚姻の話を持ち出したが、世子忽は「まだ父の命を稟けておりません。私事として婚姻を結ぶのは礼に外れます」と辞退し、その日のうちに本国へ帰った。斉僖公は怒って「私にこれほどの娘がいるのだから、夫に困ることなどあるまい」と言った。
高渠彌と公子亹の結託
- さて鄭の世子忽は帰国すると、婚姻を辞退した経緯を莊公に報告した。莊公は「わが子が自ら功業を立てられるのだから、良縁に困ることはあるまい」と言った。
- 祭足は密かに高渠彌に言った。「主君には寵愛する妃妾が多く、公子突・公子儀・公子亹の三人は、いずれも位を狙う志を持っている。世子がもし大国と婚姻を結んでいれば、なおその助けを頼りにできたであろう。斉の側から縁談を持ち出してこなかったとしても、なおこちらから請うべきところであった。どうして自ら羽翼を切り落とすようなことをするのか。あなたは同行していたのに、どうして諫めなかったのか。」高渠彌は「私も申し上げたのだが、聞き入れてもらえなかったのだから、どうしようもない」と答えた。祭足は嘆息して立ち去った。
- (詩:髯翁が、子忽の婚姻辞退の一件のみを論じて詠う。「男たる者、事を行うには剛と柔とがあるものだが、婚姻を辞退したことが必ずしも失策とは言えまい。『載驅』や『敞笱』の詩を試みに詠じてみれば、魯桓公は果たして得策であったといえるだろうか」という趣旨)
- 高渠彌はもとより公子亹と親しく、祭足の言葉を聞いて、ますます交わりを深めた。世子忽は莊公に「渠彌は子亹とひそかに通じ、往来が非常に密です。その心は測りがたいものがあります」と言った。莊公は世子忽の言葉によって渠彌を面と向かって責めた。渠彌はそのようなことはないと否定したが、背を向けるとすぐに子亹にこのことを告げた。
- 子亹は「わが父は汝を正卿にしようとしていたのに、世子に阻まれてやめてしまった。今また我ら二人の往来を断とうとしている。父が生きている間ですらこうだ。もし父が亡くなったら、なおさら我らを容れるはずがあろうか」と言った。高渠彌は「世子は優柔不断で、人を害する力はない。公子は心配なさることはない」と言った。子亹と高渠彌は、これより世子忽との間に隙を生じた。後に高渠彌が忽を弑して亹を立てたのは、まさにこれが発端であった。
世子忽の婚姻と魯桓公の求婚
- さて祭足は世子忽のために策を練り、陳国と婚姻を結び、衞国とも誼を修めさせようとした。「陳と衞は今、親しい間柄にある。もし鄭がこの二国と鼎足の勢いを結べば、それだけでも十分に固まるだろう。」世子忽はもっともだと思った。
- 祭足はこれを莊公に申し上げ、使者を陳に遣わして婚姻を求めさせた。陳侯はこれに従った。世子忽は陳に赴き、自ら媯氏を迎えて帰った。
- 魯桓公もまた使者を遣わして斉に婚姻を求めた。こうして斉侯が娘の文姜を魯侯に許したことから、さらに多くの事が起こることとなる。その後の事は、次回で語られる。
原文(底本)
話說宋殤公與夷,自即位以來,屢屢用兵,單說伐鄭,已是三次了。只為公子馮在鄭,故忌而伐之。太宰華督素與公子馮有交,見殤公用兵於鄭,口中雖不敢諫阻,心上好生不樂。孔父嘉是主兵之官,華督如何不怪他?每思尋端殺害,只為他是殤公重用之人,掌握兵權,不敢動手。自伐戴一出,全軍覆沒,孔父嘉隻身逃歸,國人頗有怨言,盡說:「宋君不恤百姓,輕師好戰,害得國中妻寡子孤,戶口耗減。」華督又使心腹人於里巷布散流言,說:「屢次用兵,皆出孔司馬主意。」國人信以為然,皆怨司馬。華督正中其懷。又聞說孔父嘉繼室魏氏,美艷非常,世無其比,只恨不能一見。忽一日魏氏歸寧,隨外家出郊省墓。時值春月,柳色如煙,花光似錦,正士女踏青之候。魏氏不合揭起車幰,偷覷外邊光景。華督正在郊外游玩,驀然相遇,詢知是孔司馬家眷,大驚曰:「世間有此尤物,名不虛傳矣!」日夜思想,魂魄俱銷。「若後房得此一位美人,足夠下半世受用!除是殺其夫,方可以奪其妻。」繇此害嘉之謀益決。 時周桓王十年春蒐之期,孔父嘉簡閱車馬,號令頗嚴。華督又使心腹人在軍中揚言:「司馬又將起兵伐鄭,昨日與太宰會議已定,所以今日治兵。」軍士人人恐懼,三三兩兩,俱往太宰門上訴苦,求其進言於君,休動干戈。華督故意將門閉緊,但遣閽人於門隙中,以好言撫慰。軍士求見愈切,人越聚得多了,多有帶器械者。看看天晚,不得見太宰,吶喊起來。自古道:「聚人易,散人難。」華督知軍心已變,衷甲佩劍而出,傳命開門,教軍士立定,不許喧嘩。自己當門而立,先將一番假慈悲的話,穩住眾心。然後說:「孔司馬主張用兵,殃民毒眾。主君偏於信任,不從吾諫。三日之內,又要大舉伐鄭。宋國百姓何罪,受此勞苦!」激得眾軍士咬牙切齒,聲聲叫:「殺!」華督假意解勸:「你們不可造次,若司馬聞知,奏知主公,性命難保!」眾軍士紛紛都道:「我們父子親戚,連歲爭戰,死亡過半。今又大舉出征,那鄭國將勇兵強,如何敵得他過?左右是死,不如殺卻此賊,與民除害,死而無怨!」華督又曰:「『投鼠者當忌其器』。司馬雖惡,實主公寵幸之臣,此事決不可行!」眾軍士曰:「若得太宰做主,便是那無道昏君,吾等也不怕他!」一頭說,一頭扯住華督袍袖不放。齊曰:「願隨太宰殺害民賊!」當下眾軍士幫助輿人,駕起車來。華督被眾軍士簇擁登車,車中自有心腹緊隨。一路呼哨,直至孔司馬私宅,將宅子團團圍住。華督吩咐:「且不要聲張,待我叩門,於中取事。」其時黃昏將盡,孔父在內室飲酒,聞外面叩門聲急,使人傳問。說是:「華太宰親自到門,有機密事相商。」孔父嘉忙整衣冠,出堂迎接。纔啟大門,外邊一片聲吶喊,軍士蜂擁而入。孔父嘉心慌,卻待轉步。華督早已登堂,大叫:「害民賊在此,何不動手?」嘉未及開言,頭已落地。華督自引心腹,直入內室,搶了魏氏,登車而去。魏氏在車中計施,暗解束帶,自繫其喉,比及到華氏之門,氣已絕矣。華督歎息不已。吩咐載去郊外藳葬,嚴戒同行人從,不許宣揚其事。嗟乎!不得一夕之歡,徒造萬劫之怨,豈不悔哉!眾軍士乘機將孔氏家私,擄掠罄盡。孔父嘉止一子,名木金父,年尚幼,其家臣抱之奔魯。後來以字為氏,曰孔氏。孔聖仲尼,即其六世之孫也。 且說宋殤公聞司馬被殺,手足無措。又聞華督同往,大怒,即遣人召之,欲正其罪。華督稱疾不赴。殤公傳令駕車,欲親臨孔父之喪。華督聞之,急召軍正謂曰:「主公寵信司馬,汝所知也。汝曹擅殺司馬,烏得無罪?先君穆公舍其子而立主公,主公以德為怨,任用司馬,伐鄭不休。今司馬受戮,天理昭彰。不若並行大事,迎立先君之子,轉禍為福,豈不美哉?」軍正曰:「太宰之言,正合眾意。」於是號召軍士,齊伏孔氏之門,只等宋公一到,鼓譟而起。侍衛驚散,殤公遂死於亂軍之手。華督聞報,衰服而至,舉哀者再。乃鳴鼓以聚群臣,胡亂將軍中一二人坐罪行誅,以掩眾目。倡言:「先君之子馮,見在鄭國,人心不忘先君,合當迎立其子。」百官唯唯而退。華督遂遣使往鄭報喪,且迎公子馮。一面將宋國寶庫中重器行賂各國,告明立馮之故。 且說鄭莊公見了宋使,接了國書,已知來意。便整備法駕,送公子馮歸宋為君。公子馮臨行,泣拜於地曰:「馮之殘喘,皆君所留。幸而返國,得延先祀。當世為陪臣,不敢貳心。」莊公亦為嗚咽。公子馮回宋,華督奉之為君,是為莊公。華督仍為太宰,分賂各國,無不受納。齊侯、魯侯、鄭伯同會於稷,以定宋公之位,使華督為相。史官有詩嘆曰: 春秋篡弒嘆紛然,宋魯奇聞只隔年。列國若能辭賄賂,亂臣賊子豈安眠! 又有詩單說宋殤公背義忌馮,今日見弒,乃天也。詩曰: 穆公讓國乃公心,可恨殤公反忌馮。今日殤亡馮即位,九泉羞見父和兄。 單表齊僖公自會稷回來,中途接得警報:「今有北戎主,遣元帥大良小良,帥戎兵一萬,來犯齊界,已破祝阿,直攻歷下。守臣不能抵當,連連告急。乞主公速回。」僖公曰:「北戎屢次侵擾,不過鼠竊狗偷而已。今番大舉入犯,若使得利而去,將來北鄙必無寧歲。」乃分遣人於魯、衛、鄭三處借兵。一面同公子元,公孫戴仲等,前去歷城拒敵。 卻說鄭莊公聞齊有戎患,乃召世子忽謂曰:「齊與鄭同盟,且鄭每用兵,齊必相從,今來乞師,宜速往救。」乃選車三百乘,使世子忽為大將,高渠彌副之,祝聃為先鋒,星夜望齊國進發。聞齊僖公在歷下,逕來相見。時魯衛二國之師,尚未曾到。僖公感激無已,親自出城犒軍,與世子忽商議退戎之策。世子忽曰:「戎用徒,易進亦易敗;我用車,難敗亦難進。然雖如此,戎性輕而不整,貪而無親,勝不相讓,敗不相救,是可誘而取也。況彼恃勝,必然輕進。若以偏師當敵,詐為敗走,戎必來追。吾預伏兵以待之。追兵遇伏,必駭而奔,奔而逐之,必獲全勝。」僖公曰:「此計甚妙!齊兵伏於東,以遏其前;鄭兵伏於北,以逐其後。首尾功擊,萬無一失。」世子忽領命自去北路,分作兩處埋伏去了。僖公召公子元授計:「汝可領兵伏於東門,只等戎軍來追,即忙殺出。」使公孫戴仲引一軍誘敵:「只要輸不要贏,誘至東門伏兵之處,便算有功。」分撥已定,公孫戴仲開關搦戰。戎帥小良持刀躍馬,領著戎兵三千,出寨迎敵。兩下交鋒,約二十合。戴仲氣力不加,回車便走,卻不進北關,繞城向東路而去。小良不捨,儘力來追。大良見戎兵得勝,盡起大軍隨後,將近東門,忽然炮聲大震,金鼓喧天,茨葦中都是伏兵,如蜂攢蠅集。小良急叫:「中計!」撥回馬頭便走,反將大良後隊衝動,立腳不牢,一齊都奔。公孫戴仲與公子元合兵追趕。大良吩咐小良上前開路,自己斷後,且戰且走。落後者俱被齊兵擒斬。戎兵行至鵲山,回顧追軍漸遠,喘息方定。正欲埋鍋造飯,山坳裏喊聲大舉,一枝軍馬衝出,口稱:「鄭國上將高渠彌在此」。大良小良慌忙上馬,無心戀戰,奪路奔逃。高渠彌隨後掩殺。約行數里之程,前面喊聲又起,卻是世子忽引兵殺到,後面公子元率領齊兵亦至。殺得戎兵七零八落,四散逃命。小良被祝聃一箭,正中腦袋,墜馬而死。大良匹馬潰圍而出,正遇著世子忽戎車,措手不及,亦被世子忽斬之。生擒甲首三百,死者無算。世子忽將大良小良首級並甲首,都解到齊侯軍前獻功。 僖公大喜曰:「若非世子如此英雄,戎兵安得便退?今日社稷安靖,皆世子之所賜也!」世子忽曰:「偶效微勞,何煩過譽?」於是僖公遣使止住魯衛之兵,免勞跋涉。命大排筵席,專待世子忽。席間又說起:「小女願備箕箒」。世子忽再三謙讓。席散之後,僖公使夷仲年私謂高渠彌曰:「寡君慕世子英雄,願結姻好。前番遣使,未蒙見允。今日寡君親與世子言之,世子執意不從,不知何意。大夫能玉成其事,請以白璧二雙,黃金百鎰為獻。」高渠彌領命,來見世子,備道齊侯相慕之意:「若諧婚好,異日得此大國相助,亦是美事。」世子忽曰:「昔年無事之日,蒙齊侯欲婚我,我尚然不敢仰攀。今奉命救齊,幸而成功,乃受室而歸,外人必謂我挾功求娶,何以自明?」高渠彌再三攛掇,只是不允。次日,齊僖公又使夷仲年來議婚,世子忽辭曰:「未稟父命,私婚有罪。」即日辭回本國。齊僖公怒曰:「吾有女如此,何患無夫?」 再說鄭世子忽回國,將辭婚之事,稟知莊公。莊公曰:「吾兒能自立功業,不患無良姻也。」祭足私謂高渠彌曰:「君多內寵,公子突、公子儀、公子亹三人,皆有凱覦之志。世子若結婚大國,猶可籍其助援。齊不議婚,猶當請之。奈何自翦羽翼耶?吾子從行,何不諫之?」高渠彌曰:「吾亦言之,奈不聽何?」祭足嘆息而去。髯翁有詩,單論子忽辭婚之事。詩曰: 丈夫作事有剛柔,未必辭婚便失謀。試詠《載驅》並《敞笱》,魯桓可是得長籌? 高渠彌素與公子亹相厚,聞祭足之語,益相交結。世子忽言於莊公曰:「渠彌與子亹私通,往來甚密,其心不可測也。」莊公以世子忽之言,面責渠彌。渠彌諱言無有,轉背即與子亹言之。子亹曰:「吾父欲用汝為正卿,為世子所阻而止,今又欲斷吾兩人之往來。父在日猶然;若父百年之後,豈復能相容乎?」高渠彌曰:「世子優柔不斷,不能害人,公子勿憂也。」子亹與高渠彌自此與世子忽有隙。後來高渠彌弒忽立亹,蓋本於此。 再說祭足為世子忽畫策,使之結婚於陳,修好於衛:「陳衛二國方睦,若與鄭成鼎足之勢,亦足自固。」世子忽以為然。祭足乃言於莊公,遣使如陳求婚。陳侯從之。世子忽至陳,親迎媯氏以歸。魯桓公亦遣使求婚於齊。只因齊侯將女文姜許婚魯侯,又生出許多事來。要知後事,且看下回分解。
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