東周列國志第十回 楚の熊通、僭号して王と称す/鄭の祭足、脅されて庶子を立てる (楚熊通僭號稱王 鄭祭足被脅立庶)
蔡季、陳の簒奪者を誅す
- さて陳桓公の庶子で名を躍という者は、蔡姫の産んだ子であり、蔡侯・封人の甥にあたる。陳と蔡の兵が共に鄭を伐ったとき、陳国では大夫・伯爰諸が将となり、蔡国では蔡侯の弟・蔡季が将となっていた。蔡季は伯爰諸に密かに陳国の事情を尋ねた。伯爰諸は言った。「新君・佗は簒奪して即位しましたが、人心は服しておりません。しかも狩猟を好み、しばしば身をやつして郊外に出かけ、国政を顧みません。やがて国中に必ず変事が起こるでしょう。」蔡季は「どうしてその罪を討って誅さないのか」と言った。伯爰諸は「心では欲しないわけではないが、力が及ばないのを恨むばかりです」と答えた。
- 周王の兵が敗れると、三国の軍はそれぞれ本国へ帰った。蔡季は伯爰諸の言葉を蔡侯に奏上した。蔡侯は「太子・免がすでに死んだ以上、次はわが甥(躍)が即位すべきである。佗は簒奪の賊であるのに、どうして長く富貴を窃むことを許されようか」と言った。蔡季は「佗は狩猟を好みます。彼が出た隙を狙って襲い、誅せばよいでしょう」と申し上げた。蔡侯はもっともだと思った。
- そこで密かに蔡季に兵車百台を率いさせ、国境で待機させ、逆賊・佗が狩猟に出るのを待って襲わせることとした。蔡季は間諜を放って探らせたところ、「陳君は三日前に狩猟に出て、国境近くに屯している」との報告を受けた。蔡季は「私の計はうまくいく」と言い、車馬を十隊に分け、みな狩人の姿に扮装させ、それらしく獲物を追いながら進ませた。
- ちょうど陳君の一団が一頭の鹿を射止めたところに、蔡季は車を馳せてこれを奪った。陳君は怒り、自ら身軽に蔡季を捕らえに来た。蔡季は車を返して逃げ、陳君は車兵を引き連れて追いかけてきた。そのとき鉦の音が一度高らかに響き、十隊の「狩人」たちが一斉に前に出て、陳君を捕らえた。
- 蔡季は大声で叫んだ。「私は他でもない、蔡侯の実弟・蔡季である。そなたの国の逆賊・佗が君を弑したので、わが兄の命を奉じて、賊を討ちに来たのだ。誅するのはこの一人だけで、他の者は問わない。」人々はそろって地に伏し拝んだ。蔡季は一人ひとりに言葉をかけて慰め、「先君の子・躍は、わが蔡侯の外甥である。今、彼を扶けて君に立てようと思うが、どうか」と告げた。人々はそろって「それはまことに願うところです。私どもが先導いたしましょう」と答えた。
- 蔡季はすぐに逆賊・佗の首をはね、その首を車に懸けて、まっすぐ陳へと進軍した。もともと陳君の狩猟に従っていた者たちが道を切り開き、蔡の人々が賊を討って君を立てようとしていることを人々に示した。こうして市中は騒がず、民衆は歓呼して道に満ちた。
- 蔡季は陳に至り、逆賊・佗の首を陳桓公の廟に供えて祭り、公子躍を擁立して君とした。これが陳の厲公である。これは周桓王十四年のことであった。公子佗が位を簒ったのは、わずか一年六か月にすぎず、この束の間の富貴を貪って、万代にわたる悪名を甘んじて受けたのだから、なんと愚かなことであろうか。
- (詩:「君を弑して千年の富貴を望んだが、狩りにふけったばかりに一朝にして誅されるとは、誰が思っただろうか。もし凶悪な者が公然と処刑されなければ、乱臣賊子は限りなく現れることであろう」という趣旨)
- 陳は公子躍が即位してより、蔡ととても睦まじく、数年間何事もなかった。この件はここまでにしておく。
楚の由来と熊通の僭称の決意
- さて南方の国に楚というものがある。羋姓、子爵である。顓頊帝の孫・重黎に出自し、高辛氏の火正(火を司る官)となり、よく天下を光り輝かせたことから祝融と名づけられた。重黎が死ぬと、その弟・呉回が跡を継いで祝融となった。子の陸終は鬼方国の君主の娘を娶り、身ごもること十一年、左脇を開いて三子を、また右脇を開いてさらに三子を生んだ。
- 長男は樊といい、己姓、衞の墟に封じられて夏の伯となったが、湯王が桀を伐ったときに滅ぼされた。次男は参胡といい、董姓、韓の墟に封じられ、周のときには胡国となったが、後に楚に滅ぼされた。三男は彭祖といい、彭姓、韓の墟に封じられて商の伯となったが、商末に至って初めて滅んだ。四男は会人といい、妐姓、鄭の墟に封じられた。五男は安といい、曹姓、邾の墟に封じられた。六男は季連といい、羋姓である。楚はこの季連の後裔にあたる。
- 鬻熊という者があり、博学で道を体得しており、周の文王・武王ともにこの人を師とした。後世、その子孫は熊を氏とした。成王の時代、文王・武王に勤労した者の子孫を取り立てることとなり、鬻熊の曾孫・熊繹を荊蛮の地に封じ、子男の田を授け、丹陽を都とさせた。五代を経て熊渠に至り、江漢の間の民の心を大いに得て、王号を僭称した。周の厲王が暴虐であったため、熊渠はその侵伐を恐れて王号を取り下げ、あえて称さなかった。
- さらに八代を経て熊儀に至る。これが若敖である。さらに二代を経て熊眴に至る。これが蚡冒である。蚡冒が卒すると、その弟・熊通が蚡冒の子を弑して自ら立った。熊通は強暴で戦を好み、王号を僭称する志を持っていたが、諸侯が周を戴き参朝や使者の派遣を欠かさないのを見て、なお様子見の姿勢を取っていた。
- 周桓王の兵が鄭に敗れると、熊通はますます恐れを知らなくなり、僭称の謀をついに決した。令尹(宰相)・鬥伯比が進み出て「楚が王号を離れて久しく、今それを復そうとすれば、諸国の耳目を驚かせる恐れがあります。まず武威をもって諸侯を制圧しなければなりません」と申し上げた。熊通は「その方策はどのようなものか」と尋ねた。伯比は答えた。「漢水の東の国々の中では、随がもっとも大きい。君はまず兵を随に臨ませ、使者を遣わして講和を求めるのがよいでしょう。随が服従すれば、漢水・淮水の諸国もみな従うでしょう。」
- 熊通はこれに従い、自ら大軍を率いて瑕の地に屯した。大夫・薳章を遣わして随に講和を求めさせた。随には季梁という賢臣がおり、また少師というへつらいの臣もいた。随侯は諂う者を喜び賢者を疎んじたので、少師が寵愛を受けていた。楚の使者が随に至ると、随侯は二人の臣を召して協議した。
- 季梁は申し上げた。「楚は強く随は弱いのに、今講和を求めてきたのは、その心底が読めません。表向きは承諾しつつ、内では備えを固めるのがよいでしょう。」少師は「私が講和の約束を奉じて、楚の陣を探ってまいりましょう」と言った。随侯はそこで少師を瑕に遣わし、楚と盟を結ばせた。
- 鬥伯比は少師が来ると聞き、熊通に「私が聞くところ、少師とは浅はかな人物で、へつらいによって寵愛を得た者です。今、使命を奉じてここに来て我らの実情を探ろうとしているのですから、精鋭を隠し、老弱の兵を見せるのがよいでしょう。彼は必ずわれらを侮り、その気持ちは驕るはずです。驕れば必ず怠慢になり、その後に我らは志を得られましょう」と申し上げた。
- 大夫・熊率比が「季梁がかの国にいる以上、何の益がありましょうか」と尋ねた。伯比は「今日のためではない。私はこれをもって後日の計略とするのだ」と答えた。熊通はその計に従った。
- 少師は楚の陣営に入り、左右を見回して、武具は朽ち破れ、兵たちは老いた者や弱い者ばかりで、戦いに堪えないと見て取り、傲慢な様子を見せた。熊通に「わが両国はそれぞれ自国の領土を守っているのに、貴国(楚)が講和を求められるとは、いかなる存念か分かりかねます」と言った。熊通は偽りの返答をした。「わが国は数年来凶作続きで、民は疲弊しております。小国が党を結んで妨げとなることを誠に恐れております。それゆえ貴国と兄弟の約を結び、唇歯(相互扶助)の助けとしたいだけです。」少師は「漢水の東の小国は、みなわが国の号令に従っております。君は心配なさる必要はございません」と答えた。熊通はそこで少師と盟を結んだ。
- 少師が去った後、熊通は兵を引き上げる令を伝えた。少師は随侯のもとへ戻り、楚軍の疲弊した様子を語った。「幸いにも盟を結ぶことができ、即座に兵を引き上げたのは、我らを甚だ恐れているからです。願わくは私に一支隊をお貸しください。追撃いたしましょう。すべて捕らえて帰ることはできずとも、半分ほどは奪えるでしょう。これで楚は今後、随を正面から見ることさえできなくなりましょう。」随侯はもっともだと思った。
- まさに出師しようとしたところ、季梁がこれを聞き、急いで入って諫めた。「なりません、なりません。楚は若敖・蚡冒以来、代々よく政を修め、江漢の地を制圧してすでに久しく年月を積んでおります。熊通は甥を弑して自ら立ったのですから、その凶暴さはなおさら甚だしいものです。理由もなく講和を求めてきたのは、腹に禍いを包み隠しているのです。今、老弱の兵を見せているのは、我らを誘い込むためです。もし追撃すれば、必ずその計にはまってしまいます。」随侯はこれを占ったところ、不吉と出たので、楚軍を追わなかった。
- 熊通は季梁が追撃を止めさせたと聞き、また鬥伯比を召して計を尋ねた。伯比は策を献じて「沈鹿の地に諸侯を集めましょう。もし随人が会に来れば、服従することは間違いありません。もし来なければ、盟に叛いたとして討伐すればよいのです」と言った。熊通はそこで使者を遣わして漢水東の諸国にあまねく告げ、孟夏の朔日に沈鹿で会盟することとした。
楚の随討伐と熊通の称王
- 期日になると、巴・庸・濮・鄧・鄾・絞・羅・鄖・貳・軫・申・江の諸国はみな集まったが、黄と随の二国だけが来なかった。楚は薳章を遣わして黄を責めた。黄子は使者を送って非を認め謝罪した。また屈瑕を遣わして随を責めたが、随侯は服さなかった。
- 熊通はそこで師を率いて随を伐ち、漢水と淮水の間に軍を駐屯させた。随侯は群臣を集めて楚に対抗する策を問うた。季梁は進み出て「楚は初めて諸侯を集め、兵をもって我らに臨んでおり、その鋭鋒は今まさに盛んで、軽々しく敵対してはなりません。むしろへりくだった言葉で講和を請うのがよいでしょう。楚がもし我らの求めに応じれば、旧好を修めるだけで十分です。もし応じなければ、非は楚にあることになります。楚が我らのへりくだった言葉を侮れば、士に怠りの心が生じるでしょう。我らが楚の拒絶を見れば、士に怒りの気持ちが生まれるでしょう。我らが怒り彼らが怠れば、あるいは一戦して僥倖を図れるかもしれません」と申し上げた。
- 少師は傍らから腕をまくり上げて言った。「そなたはなんと臆病なことか。楚人ははるばる遠くから来たのだから、自ら死地に赴くようなものだ。もし速やかに戦わなければ、また以前のように逃げられてしまう恐れがある。それではなんとも惜しいことではないか。」随侯はこの言葉に惑わされ、少師を戎右(車右の武官)とし、季梁を御者として、自ら楚に出師し、青林山の麓に陣を布いた。
- 季梁は車に乗って楚軍を望み見て、随侯に言った。「楚の兵は左右二軍に分かれております。楚の習俗では左を上位とするので、その君は必ず左軍にいるはずです。君のいる所には精鋭が集まっているものです。どうか右軍を専ら攻めるべきです。右軍が敗れれば、左軍もまた気力を失うでしょう。」少師は「楚君を避けて攻めないのでは、楚人に笑われるのではありませんか」と言った。随侯はこの言葉に従い、まず楚の左軍を攻めた。
- 楚は陣を開いて随の軍を招き入れた。随侯は陣中に斬り込んだが、楚の四方の伏兵が一斉に起こり、人はみな勇猛で、兵はみな精強であった。少師は楚の将・鬥丹と切り結んだが、十度も打ち合わぬうちに、鬥丹に車の下で斬られた。季梁は随侯を守って死戦したが、楚の兵は退かなかった。随侯は兵車を捨て、身をやつして雑兵の中に紛れ込んだ。季梁は血路を切り開き、ようやく重囲を脱した。兵を点検すると、十分の三、四しか残っていなかった。
- 随侯は季梁に「私がそなたの言葉を聞き入れなかったばかりに、ここに至ってしまった」と言い、「少師はどこにいるか」と尋ねた。ある兵が少師が殺されるのを見たと申し上げると、随侯はしきりに嘆息した。季梁は「これは国を誤らせた人物です。君はどうして惜しまれるのですか。今のところは、速やかに講和を求めるのが上策です」と言った。随侯は「私は今、国の命運をそなたに委ねよう」と言った。
- 季梁はそこで楚軍に入り講和を求めた。熊通は大いに怒って「そなたの主君は盟に叛いて会に来ず、兵をもって抗った。今、兵に敗れて講和を求めるとは、誠意のあることではあるまい」と言った。季梁は顔色一つ変えず、落ち着いて申し上げた。「先ごろの奸臣・少師は、寵愛を頼みに功を貪り、我が主君を無理に戦陣に引き込みました。実に我が主君の本意ではございませんでした。今、少師はすでに死に、我が主君は自らの罪を悟り、下臣を遣わして麾下に頭を地につけて拝礼させております。君がもしお赦しくだされば、漢水東の君長たちを率いて、朝夕貴国の庭に伺候し、永く南の藩屏となりましょう。何とぞご裁断ください。」
- 鬥伯比は「天意は随を滅ぼそうとはしていない。それゆえ、へつらう佞臣を除いたのだ。随はまだ滅ぼせぬ相手である。むしろ講和を許し、漢水東の君長たちを率いて周に楚の功績を頌えさせ、それによって位号を借り受け、蛮夷を鎮圧させるのが、楚にとって不利になることはございません」と言った。熊通は「よかろう」と言い、薳章を遣わして季梁に密かに告げさせた。「わが君は江漢の地をあまねく領有するに至った。位号を借り受け、蛮夷を鎮圧したいと望んでいる。もし貴国のお力添えを得て、諸蛮の長を率いて周室に願い出て、幸いにこれが叶えば、わが君の栄誉は、まことに貴国の賜物である。わが君は兵を収めて命を待つ。」
- 季梁は随侯にこの旨を報告し、随侯はやむなく従った。そこで漢水東の諸侯の総意ということにして、楚の功績を頌え、王室に王号を楚に貸し与え、蛮夷を鎮圧させるよう願い出た。桓王はこれを許さなかった。
- 熊通はこれを聞いて怒り、「わが先祖・熊鬻は、二代の王を輔佐した功があったのに、わずかに小国に封じられ、遠く荊山の地に留め置かれた。今、土地は開かれ民は増え、蛮夷はみな臣服しないものはないのに、王は爵位を加えてくれない。これは賞のないことだ。鄭の人が王の肩を射ても、王はこれを討伐できなかった。これは罰のないことだ。賞もなく罰もないのでは、どうして王たりえようか。しかも王号は、わが先君・熊渠が自ら称したものだ。私もまた旧号を復するだけのこと、周に頼る必要があろうか」と言った。
- そこで中軍で自ら楚武王を名乗り、随人と盟を結んで去った。漢水東の諸国はそれぞれ使者を遣わして祝賀した。桓王は楚に怒りながらも、どうすることもできなかった。これより周室はますます弱まり、楚はますますその貪欲を極めた。熊通が卒すると、子の熊貲に位が伝わり、郢に遷都した。諸蛮を服属させ、しだいに中原を侵犯する勢いを見せた。後に召陵の師(召陵への出兵)、城濮の戦いがなければ、その勢いは食い止められなかったであろう。
祝聃の不遇、鄭莊公の薨去と昭公の即位
- 話はまた変わって、鄭莊公は自ら周王の軍に勝ってより、公子元の功を深く嘉し、櫟邑に大城を築かせて彼に守らせ、従属する小国に准じる扱いとした。諸大夫にはそれぞれ封賞があったが、ただ祝聃の功だけは記録されなかった。祝聃は自ら莊公に訴えた。莊公は「王を射たことをその功として記録すれば、人々は私を批判するだろう」と言った。祝聃は恨み憤り、背中に腫れ物ができてそのまま死んだ。莊公はひそかにその家に手当てをし、厚く葬るよう命じた。
- 周桓王十九年の夏、莊公は病にかかり、祭足を寝台のもとに呼んで言った。「寡人には子が十一人ある。世子・忽のほかに、子突、子亹、子儀は、いずれも貴い相を備えている。子突の才智と福運は、他の三人よりもさらに優れているように思う。三人は皆、善き終わりを迎える相ではない。寡人は位を突に伝えようと思うが、どうであろうか。」
- 祭足は言った。「鄧曼は元妃でございます。子忽は嫡長子として久しく世子の位にあり、しかも度々大功を立て、国人はみな信服しております。嫡子を廃して庶子を立てることは、臣としては御命令をお受けいたしかねます。」
- 莊公は「突は下位に甘んじる志の者ではない。もし忽を立てるなら、ただ突を母の実家へ出すしかあるまい」と言った。祭足は「子を知るのは父にまさる者はございません。ただ君のご命令に従いましょう」と言った。莊公は嘆息して「鄭国はこれより多事となろう」と言った。
- そこで公子突を宋にある母の実家へ出させた。五月、莊公は薨じた。世子忽が即位し、これが昭公である。諸大夫をそれぞれ各国へ聘問に遣わした。祭足は宋に赴くことになったが、これを機に子突の動静を探ることとした。
祭足、宋に拘束される
- さて公子突の母は、宋の雍氏の娘で、名を雍姞といった。雍氏の一族は多くが宋に仕えており、宋莊公はこれをたいそう寵任していた。公子突は宋に出されていたが、母の雍姞を思い、雍氏と共に鄭に帰る策を協議した。雍氏はこれを宋公に告げ、宋公はこの計を助けることを承諾した。
- ちょうど祭足が聘問のため宋を訪れたので、宋公は喜んで「子突が国に帰れるかどうかは、ひとえに祭仲(祭足)にかかっている」と言った。そこで南宮長萬に甲士を朝廷に伏せさせ、祭足が朝廷に入るのを待った。祭足が聘問の礼を終えると、甲士たちが躍り出て祭足を拘束した。祭足は大声で「他国の臣たる私に何の罪がありましょうか」と叫んだ。宋公は「まずは軍府に行って話そう」と言った。
- この日、祭足は軍府に幽閉され、甲士たちが周囲を取り囲み、水も漏らさぬほどであった。祭足は疑い恐れ、座って心穏やかではいられなかった。夜になると、太宰・華督が酒を携えて自ら軍府に来て、祭足を慰めた。
- 祭足は言った。「わが君は私を遣わして貴国との誼を修めさせました。何の落ち度もなかったはずですが、どうしてお怒りを買ったのでしょうか。わが君の礼に何か欠けるところがございましたか、あるいは私の務めに至らぬ点がございましたか。」華督は言った。「どちらも違う。公子突が雍氏の出であることは、誰もが知るところだ。今、子突は宋にじっと身を潜めており、わが君はこれを憐れんでおられる。しかも子忽は柔弱で、君たるに堪えない。あなたがもし廃立の事を行ってくださるなら、わが君はあなたと代々婚姻の誼を結びたいと望んでおられる。どうかお考えいただきたい。」
- 祭足は「わが君の擁立は、先君のご命令によるものです。臣として君を廃するのでは、諸侯は私の罪を討つでしょう」と言った。華督は「雍姞は鄭の先君の寵愛を受けていた。母が寵愛されればその子も貴くなる、それもまた道理ではないか。しかも弑逆のような事は、どの国にもないわけではない。ただ力のある者が勝つだけのこと、誰がその罪を責めようか」と言った。そして祭足の耳元に「わが君の即位もまた、前君を廃したうえで立ったものだ。あなたが必ずこれを行うなら、わが君はその咎めがないようお引き受けになる」と付け加えた。祭足は眉をひそめたまま答えなかった。
- 華督はさらに「あなたがどうしても従わないのであれば、わが君は南宮長萬を将として、車六百台を発し、公子突を鄭に送り込むことになろう。出兵の日には、あなたを斬ってその首を軍中にさらし、見せしめとすることになる。私があなたに会えるのも、今日限りだろう」と言った。祭足は大いに恐れ、やむなく承諾した。華督はさらに誓いを立てさせようとした。祭足は「公子突を立てないというなら、神明が私を誅殺されるように」と誓った。
- (詩:史官が祭足を譏る趣旨。「男子たる者は寵辱に驚かぬはずなのに、国相ともあろう者がどうして脅迫に屈するのか。もし忠臣が一命を懸けて拒んでいたなら、宋の人々もあえて軽んじることはなかったであろう」という趣旨)
- 華督は夜を徹して宋公のもとに戻り、「祭足はすでに命に従いました」と報告した。
公子突の帰国と昭公の出奔
- 翌日、宋公は人を遣わして公子突を密室に召し、「寡人は雍氏と約束を交わし、そなたを帰国させることを許した。今、鄭国から新君擁立を告げる書状が届き、密書には『必ず彼を殺せ、そうすれば三城を割いて謝礼としよう』とあった。寡人は忍びず、それでひそかにそなたに告げるのだ」と言った。
- 公子突は拝して「突は不幸にも、貴国に身を寄せております。突の生死は、すでに君のお心次第です。もし君の御威光によって再び先祖の宗廟に見えることができれば、ただ君のご命令に従うのみ、どうして三城だけで済ませられましょうか」と言った。
- 宋公は「寡人が祭仲を軍府に幽閉したのは、まさに公子のためだ。この大事は祭仲でなければ成し遂げられぬ。寡人はこれから盟を結ばせよう」と言った。そこであわせて祭足を召して子突と対面させ、雍氏も呼び寄せ、忽を廃して突を立てる事を明らかに告げた。三人は血をすすって盟を定め、宋公が自ら盟の主となり、太宰・華督がこれを取り仕切った。
- 宋公は公子突に誓約を立てさせ、三城のほかに、白璧百対、黄金一万鎰、毎年穀物三万鍾を輸送することを謝礼として要求した。祭足も署名して証とした。公子突は帰国を急ぐあまり、何もかも承諾した。宋公はさらに公子突に、国政をすべて祭足に委ねさせることを求め、突もこれを認めた。また祭足に娘がいると聞き、雍氏の子・雍糾に嫁がせるよう命じ、雍糾を連れ帰って成婚させ、大夫の職に就けさせた。祭足もあえて従わないわけにいかなかった。
- 公子突と雍糾はいずれも身をやつし、商人を装って祭足の車に付き従い、九月朔日に鄭に到着し、祭足の家に匿われた。祭足は病を装い、朝廷に出仕しなかった。諸大夫はみな祭府に見舞いに訪れた。祭足は決死の兵百人を壁掛けの布の裏に伏せておき、諸大夫を内室に招き入れた。諸大夫は祭足の顔色がよく、衣冠も整っているのを見て、大いに驚き「相君(祭足)はご壮健なのに、どうして参朝なさらないのですか」と言った。
- 祭足は言った。「私自身の病ではない。国の病である。先君は子突を寵愛し、宋公に子突のことを託しておられた。今、宋は南宮長萬を将として、車六百台を率いて突を助けて鄭に代えようとしている。鄭国はまだ落ち着いていないのに、どうしてこれに当たれようか。」諸大夫は互いに顔を見合わせ、あえて何も言わなかった。
- 祭足は言った。「今日、宋の兵を解くには、廃立を行うほかない。公子突は今ここにいる。諸君が従うかどうか、ひと言で決めていただきたい。」高渠彌は、世子忽が上卿の位を阻んだことから、もとより世子忽と隙があったので、身を乗り出し剣を撫でながら言った。「相君のこのお言葉、社稷の福でございます。私どもは新君にお目にかかりたく存じます。」
- 人々は高渠彌の言葉を聞き、祭足とあらかじめ約束があったのではと疑い、また壁の布の裏に人がいることをうっすらと見て取り、それぞれ恐れをなして、そろって「はい」と答えた。祭足はそこで公子突を呼び出し、上座に迎え入れた。祭足と高渠彌がまず拝礼し、諸大夫もやむなく共に地に伏して拝礼した。
- 祭足はあらかじめ連名の上表文を書いておき、人を遣わして提出させ、「宋人が重い兵をもって突を送り込んだため、臣どもは君にお仕えすることができなくなりました」と告げた。また自ら密書を作り、その中で「主君の擁立は、実は先君のご意向ではなく、私・足が主導したものでございます。今、宋は私を幽閉して突を送り込み、盟を結ぶよう強要しました。私は身が死んでも君の益とならないことを恐れ、すでに口頭で承諾いたしました。今、兵はまさに都に迫っており、群臣は宋の強さを恐れて、はかりごとを合わせて突を迎え入れようとしております。主君は権に従って、しばらく位をお避けください。私は隙を伺って再び君をお迎えする方策を図ります」と書いた。末尾には「この言葉に背けば、太陽が証しとなろう」という誓いを記した。
- 鄭昭公(世子忽)はこの上表文と密書を受け取り、自らが孤立無援であることを悟り、媯妃と涙ながらに別れを告げ、衞国へと逃げ落ちた。
厲公の即位と後日の禍根
- 九月己亥の日、祭足は公子突を奉じて即位させた。これが厲公である。大小の政事は、すべて祭足の判断によって決められた。娘を雍糾に嫁がせ、これを雍姫と呼んだ。厲公に申し上げて、雍糾に大夫の職を授けさせた。雍氏はもともと厲公の母の実家であり、厲公が宋にいたころ、雍氏と親しく往来していたので、厲公は雍糾を寵信し、その扱いは祭足に次ぐものであった。
- 厲公が即位してより、国人はみな落ち着いた。ただ公子亹・公子儀の二人だけは、心中穏やかでなかった。また厲公から害を加えられるのを恐れ、この月、公子亹は蔡に、公子儀は陳に、それぞれ逃げ出した。
- 宋公は子突の即位が定まったと聞き、人を遣わして書を届け祝賀した。この使いを機に、両国の間に新たな争いの火種が起こることとなる。続きは次回で語られる。
原文(底本)
話說陳桓公之庶子名躍,係蔡姬所出,蔡侯封人之甥也。因陳蔡之兵,一同伐鄭,陳國是大夫伯爰諸為將,蔡國是蔡侯之弟蔡季為將。蔡季向伯爰諸私問陳事。伯爰諸曰:「新君佗雖然篡立,然人心不服,又性好田獵,每每微服從禽於郊外,不恤國政。將來國中必然有變。」蔡季曰:「何不討其罪而戮之?」伯爰諸曰:「心非不欲,恨力不逮耳!」及周王兵敗,三國之師各回本國。蔡季將伯爰諸所言,奏聞蔡侯。蔡侯曰:「太子免既死,次當吾甥即位。佗乃篡弒之賊,豈容久竊富貴耶?」蔡季奏曰:「佗好獵,俟其出,可襲而弒也。」蔡侯以為然。乃密遣蔡季率兵車百乘,待於界口,只等逆佗出獵,便往襲之。蔡季遣諜打探,回報:「陳君三日前出獵,見屯界口。」蔡季曰:「吾計成矣。」乃將車馬分為十隊,都扮作獵人模樣,一路打圍前去。正遇陳君隊中射倒一鹿,蔡季馳車奪之。陳君怒,輕身來擒蔡季。季回車便走,陳君招引車徒趕來。只聽得金鑼一聲響喨,十隊獵人,一齊上前,將陳君拿住。蔡季大叫道:「吾非別人,乃蔡侯親弟蔡季是也。因汝國逆佗弒君,奉吾兄之命,來此討賊。止誅一人,餘俱不問。」眾人俱拜伏於地,蔡季一一撫慰。言:「故君之子躍,是我蔡侯外甥,今扶立為君,何如?」眾人齊聲答曰:「如此甚合公心,某等情願前導。」蔡季將逆佗即時梟首,懸頭於車上,長驅入陳。在先跟隨陳君出獵的一班人眾,為之開路,表明蔡人討賊立君之意。於是市井不驚,百姓歡呼載道。蔡季至陳,命以逆佗之首,祭於陳桓公之廟,擁立公子躍為君,是為厲公。此周桓王十四年之事也。公子佗篡位,纔一年零六個月,為此須臾富貴,甘受萬載惡名,豈不愚哉!有詩為證: 弒君指望千年貴,淫獵誰知一旦誅!若是凶人無顯戮,亂臣賊子定紛如。 陳自公子躍即位,與蔡甚睦,數年無事。這段話繳過不提。 且說南方之國曰楚,羋姓,子爵。出自顓頊帝孫重黎,為高辛氏火正之官,能光融天下,命曰祝融。重黎死,其弟吳回嗣為祝融。生子陸終,娶鬼方國君之女,得孕懷十一年。開左脅,生下三子,又開右脅,復生下三子。長曰樊,己姓,封於衛墟,為夏伯,湯伐桀滅之。次曰參胡,董姓,封於韓墟,周時為胡國,後滅於楚。三曰彭祖,彭姓,封於韓墟,為商伯,商末始亡。四曰會人,妐姓,封於鄭墟。五曰安,曹姓,封於邾墟。六曰季連。羋姓,乃季連之苗裔。有名鬻熊者,博學有道,周文王武王俱師之。後世以熊為氏。成王時,舉文武勤勞之後,得鬻熊之曾孫熊繹,封於荊蠻,胙以子男之田,都於丹陽。五傳至熊渠,甚得江漢間民和,僭號稱王。周厲王暴虐,熊渠畏其侵伐,去王號不敢稱。又八傳至於熊儀,是為若敖。又再傳至熊眴,是為蚡冒。蚡冒卒,其弟熊通,弒蚡冒之子而自立。熊通強暴好戰,有僭號稱王之志;見諸侯戴周,朝聘不絕,以此猶懷觀望。及周桓王兵敗於鄭,熊通益無忌憚,僭謀遂決。令尹鬥伯比進曰:「楚去王號已久,今欲復稱,恐駭觀聽。必先以威力制服諸侯方可。」熊通曰:「其道如何?」伯比對曰:「漢東之國,惟隨為大。君姑以兵臨隨,而遣使求成焉。隨服,則漢淮諸國,無不順矣。」熊通從之,乃親率大軍,屯於瑕。遣大夫薳章,求成於隨。隨有一賢臣,名曰季梁,又有一諛臣,名曰少師。隨侯喜諛而疏賢,所以少師有寵。及楚使至隨,隨侯召二臣問之。季梁奏曰:「楚強隨弱,今來求成,其心不可測也。姑外為應承,而內修備禦,方保無虞。」少師曰:「臣請奉成約,往探楚軍。」隨侯乃使少師至瑕,與楚結盟。鬥伯比聞少師將至,奏熊通曰:「臣聞少師乃淺近之徒,以諛得寵。今奉使來此探吾虛實,宜藏其壯銳,以老弱示之。彼將輕我,其氣必驕。驕必怠,然後我可以得志。」大夫熊率比曰:「季梁在彼,何益於事?」伯比曰:「非為今日,吾以圖其後也。」熊通從其計。少師入楚營,左右瞻視,見戈甲朽敝,人或老或弱,不堪戰鬥,遂有矜高之色。謂熊通曰:「吾兩國各守疆宇,不識上國之求成何意?」熊通謬應曰:「敝邑連年荒歉,百姓疲羸。誠恐小國合黨為梗,故欲與上國約為兄弟,為唇齒之援耳。」少師對曰:「漢東小國,皆敝邑號令所及,君不必慮也。」熊通遂與少師結盟。少師行後,熊通傳令班師。少師還見隨侯,述楚軍羸弱之狀:「幸而得盟,即刻班師,其懼我甚矣!願假臣偏師追襲之,縱不能悉俘以歸,亦可掠取其半,使楚今後不敢正眼視隨。」隨侯以為然。方欲起師,季梁聞之,趨入諫曰:「不可!不可!楚自若敖蚡冒以來,世修其政,馮陵江漢,積有歲年。熊通弒姪而自立,兇暴更甚。無故請成,包藏禍心。今以老弱示我,蓋誘我耳。若追之,必墮其計。」隨侯卜之,不吉,遂不追楚師。熊通聞季梁諫止追兵,復召鬥伯比問計。伯比獻策曰:「請合諸侯於沈鹿。若隨人來會,服從必矣。如其不至,則以叛盟伐之。」熊通遂遣使遍告漢東諸國,以孟夏之朔,於沈鹿取齊。 至期,巴、庸、濮、鄧、鄾、絞、羅、鄖、貳、軫、申、江諸國畢集,惟黃,隨二國不至。楚仔,使薳章責黃。黃子遣使告罪。又使屈瑕責隨,隨侯不服。熊通乃率師伐隨,軍於漢淮二水之間。隨侯集群臣問拒楚之策。季梁進曰:「楚初合諸侯,以兵臨我,其鋒方銳,未可輕敵。不如卑辭以請成。楚苟聽我,復修舊好足矣。其或不聽,曲在於楚。楚欺我之辭卑,士有怠心。我見楚之拒請,士有怒氣。我怒彼怠,庶可一戰,以圖僥幸乎?」少師從旁攘臂言曰:「爾何怯之甚也!楚人遠來,乃自送死耳!若不速戰,恐楚人復如前番遁逃,豈不可惜。」隨侯惑其言,乃以少師為戎右,以季梁為御,親自出師楚,布陣於青林山之下。季梁升車以望楚師,謂隨侯曰:「楚兵分左右二軍。楚俗以左為上,其君必在左,君之所在,精兵聚焉。請專攻其右軍,若右敗,則左亦喪氣矣。」少師曰:「避楚君而不攻,寧不貽笑於楚人乎?」隨侯從其言,先攻楚左軍。楚開陣以納隨師。隨侯殺入陣中,楚四面伏兵皆起,人人勇猛,個個精強。少師與楚將鬥丹交鋒,不十合,被鬥丹斬於車下。季梁保著隨侯死戰,楚兵不退。隨侯棄了戎車,微服混於小軍之中;季梁殺條血路,方脫重圍。點視軍卒,十分不存三四。隨侯謂季梁曰:「孤不聽汝言,以至於此!」問:「少師何在?」有軍人見其被殺,奏知隨侯,隨侯嘆息不已。季梁曰:「此誤國之人,君何惜焉?為今之計,作速請成為上。」隨侯曰:「孤今以國聽子。」季梁乃入楚軍求成。熊通大怒曰:「汝主叛盟拒會,以兵相抗。今兵敗求成,非誠心也。」季梁面不改色,從容進曰:「昔者奸臣少師,恃寵貪功,強寡君於行陣,實非出寡君之意。今少師已死,寡君自知其罪,遣下臣稽首於麾下。君若赦宥,當倡率漢東君長,朝夕在庭,永為南服。惟君裁之!」鬥伯比曰:「天意不欲亡隨,故去其諛佞。隨未可滅也。不若許成,使倡率漢東君長,頌楚功績於周,因假位號,以鎮服蠻夷,於楚無不利焉。」熊通曰:「善。」乃使薳章私謂季梁曰:「寡君奄有江漢,欲假位號,以鎮服蠻夷。若徼惠上國,率群蠻以請於周室,幸而得請,寡君之榮,實惟上國之賜。寡君戢兵以待命。」季梁歸言於隨侯,隨侯不敢不從。乃自以漢東諸侯之意,頌楚功績,請王室以王號假楚,彈壓蠻夷。桓王不許。熊通聞之,怒曰:「吾先人熊鬻,有輔導二王之勞,僅封微國,遠在荊山。今地闢民眾,蠻夷莫不臣服,而王不加位,是無賞也,鄭人射王肩,而王不能討,是無罰也。無賞無罰,何以為王!且王號,我先君熊渠之所自稱也。孤亦光復舊號,安用周為?」遂即中軍自立為楚武王,與隨人結盟而去。漢東諸國,各遣使稱賀。桓王雖怒楚,無如之何。自此周室愈弱,而楚益無厭。熊通卒,傳子熊貲,遷都於郢。役屬群蠻,駸駸乎有侵犯中國之勢。後來若非召陵之師,城濮之戰,則其勢不可遏矣。 話分兩頭。再說鄭莊公自勝王師,深嘉公子元之功,大城櫟邑,使之居守,比於附庸。諸大夫各有封賞;惟祝聃之功不錄。祝聃自言於莊公。公曰:「射王而錄其功,人將議我。」祝聃忿恨,疽發於背而死。莊公私給其家,命厚葬之。 周桓王十九年夏,莊公有疾,召祭足至牀頭,謂曰:「寡人有子十一人。自世子忽之外,子突、子亹、子儀,皆有貴徵。子突才智福祿,似又出三子之上。三子皆非令終之相也。寡人意欲傳位於突,何如?」祭足曰:「鄧曼,元妃也。子忽嫡長,久居儲位,且屢建大功,國人信從。廢嫡立庶,臣不敢奉命!」莊公曰:「突志非安於下位者,若立忽,惟有出突於外家耳。」祭足曰:「知子莫如父,惟君命之。」莊公歎曰:「鄭國自此多事矣!」乃使公子突出居於宋。五月,莊公薨。世子忽即位,是為昭公。使諸大夫分聘各國,祭足聘宋,因便察子突之變。 卻說公子突之母,乃宋雍氏之女,名曰雍姞。雍氏宗族,多仕於宋,宋莊公甚寵任之。公子突被出在宋,思念其母雍姞,與雍氏商議歸鄭之策。雍氏告於宋公,宋公許為之計。適祭足行聘至宋,宋公喜曰:「子突之歸,只在祭仲身上也。」乃使南宮長萬伏甲士於朝,以待祭足入朝。致聘行禮畢,甲士趨出,將祭足拘執。祭足大呼:「外臣何罪?」宋公曰:「姑至軍府言之。」是日,祭足被囚於軍府,甲士周圍把守,水洩不通。祭足疑懼,坐不安席。至晚,太宰華督攜酒親至軍府,與祭足壓驚。祭足曰:「寡君使足修好上國,未有開罪,不知何以觸怒?將寡君之禮,或有所缺,抑使臣之不職乎?」華督曰:「皆非也。公子突之出於雍,誰不知之。今子突竄伏在宋,寡君憫焉!且子忽柔懦,不堪為君。吾子若能行廢立之事,寡君願與吾子世修姻好。惟吾子圖之!」祭足曰:「寡君之立,先君所命也。以臣廢君,諸侯將討吾罪矣。」華督曰:「雍姞有寵於鄭先君,母寵子貴,不亦可乎?且弒逆之事,何國蔑有?惟力是視,誰加罪焉!」因附祭足之耳曰:「吾寡君之立,亦有廢而後興。子必行之,寡君當任其無咎。」祭足皺眉不答。華督又曰:「子必不從,寡君將命南宮長萬為將,發車六百乘,納公子突於鄭。出軍之日,斬吾子以殉於軍,吾見子止於今日矣!」祭足大懼,只得應諾。華督復要之立誓。祭足曰:「所不立公子突者,神明殛之!」史官有詩譏祭足云: 丈夫寵辱不能驚,國相如何受脅陵!若是忠臣拼一死,宋人未必敢相輕。 華督連夜還報宋公,說:「祭足已聽命了。」 次日,宋公使人召公子突至於密室,謂曰:「寡人與雍氏有言,許歸吾子。今鄭國告立新君,有密書及寡人曰:『必殺之,願割三城為謝。』寡人不忍,故私告子。」公子突拜曰:「突不幸,越在上國。突之死生,已屬於君。若以君之靈,使得重見先人之宗廟,惟君所命,豈惟三城!」宋公曰:「寡人囚祭仲於軍府,正惟公子之故。此大事非仲不成,寡人將盟之。」乃並召祭足使與子突相見,亦召雍氏,將廢忽立突之事說明。三人歃血定盟,宋公自為司盟,太宰華督蒞事。宋公使子突立下誓約,三城之外,定要白璧百雙,黃金萬鎰,每歲輸穀三萬鍾,以為酬謝之禮。祭足書名為證。公子突急於得國,無不應承。宋公又要公子突將國政盡委祭足,突亦允之。又聞祭足有女,使許配雍氏之子雍糾,就教帶雍糾歸國成親,仕以大夫之職。祭足亦不敢不從。 公子突與雍糾皆微服,詐為商賈,駕車跟隨祭足,以九月朔日至鄭,藏於祭足之家。祭足偽稱有疾,不能趨朝。諸大夫俱至祭府問安。祭足伏死士百人於壁衣之中,請諸大夫至內室相見。諸大夫見祭足面色充盈,衣冠齊整,大驚曰:「相君無恙,何不入朝?」祭足曰:「足非身病,乃國病也。先君寵愛子突,囑諸宋公,今宋將遣南宮長萬為將,率車六百乘,輔突代鄭。鄭國未寧,何以當之?」諸大夫面面相覷,不敢置對。祭足曰:「今日欲解宋兵,惟有廢立可免耳。公子突見在,諸君從否,願一言而決!」高渠彌因世子忽諫止上卿之位,素與子忽有隙,挺身撫劍而言曰:「相君此言,社稷之福。吾等願見新君!」眾人聞高渠彌之言,疑與祭足有約,又窺見壁衣有人,各懷悚懼,齊聲唯唯。祭足乃呼公子突至,納之上坐。祭足與高渠彌先下拜。諸大夫沒奈何,只得同拜伏於地。祭足預先寫就連名表章,使人上之,言:「宋人以重兵納突,臣等不能事君矣。」又自作密啟,啟中言:「主君之立,實非先君之意,乃臣足主之。今宋囚臣而納突,要臣以盟,臣恐身死無益於君,已口許之。今兵將及郊,群臣畏宋之強,協謀往迎。主公不若從權,暫時避位,容臣乘間再圖迎復。」末寫一誓云:「違此言者,有如日!」鄭昭公接了表文及密啟,自知孤立無助,與媯妃泣別,出奔衛國去了。 九月己亥日,祭足奉公子突即位,是為厲公。大小政事,皆決於祭足。以女妻雍糾,謂之雍姬。言於厲公,官雍糾以大夫之職。雍氏原是厲公外家,厲公在宋時,與雍氏親密往來,所以厲公寵信雍糾,亞於祭足。自厲公即位,國人俱已安服。惟公子亹、公子儀二人,心懷不平。又恐厲公加害,是月,公子亹奔蔡,公子儀奔陳。宋公聞子突定位,遣人致書來賀。因此一番使命,挑起兩國干戈。且聽下回分解。
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