東周列國志第二十四回 召陵に盟い楚の大夫を礼で款す/葵丘に会し義もって周の天子を戴く (盟召陵禮款楚大夫 會葵邱義戴周天子)

屈完の再訪と楚王の翻意

  • 話は変わって、屈完は再び斉軍のもとへ至り、斉侯に直接会って話をしたいと申し出た。管仲は言った。「楚の使者が再び来たからには、必ず盟を請うためです。君はこれを丁重に迎えられませ」。屈完は斉の桓公に会うと再拝した。桓公は礼を返し、その来意を尋ねた。屈完は言った。「わが君は貢納を怠った咎により、君の討伐を招きました。わが君はすでにその罪を知っております。君がもし一舎(三十里)兵を退いてくださるなら、わが君はどうして命に従わずにいられましょうか」。桓公は言った。「大夫がよく君を輔け旧来の職責を修めてくださるなら、寡人は天子に申し開きができます。それ以上何を求めましょうか」。屈完は謝辞を述べて去った。
  • 楚に帰って報告し、こう言った。「斉侯はすでに臣に兵を退くことを許されました。臣もまた貢を入れることを約束いたしました。君はこの信を失ってはなりません」。しばらくして、間諜が「八路の軍馬は陣を撤収して立ち去りました」と報告した。成王はさらに探らせると、「三十里退いて召陵に駐屯しています」との返事があった。楚王は「斉軍の退いたのは、必ずわれらを恐れてのことだ」と言い、貢納の約束を反故にしようとした。子文は言った。「彼ら八国の君主でさえ、匹夫に対しても信を失いません。君は一国の君でありながら、匹夫にその国君への約束を違えさせてよいものでしょうか」。楚王は黙り込んだ。そこで屈完に金帛八車を持たせ、再び召陵へ赴かせて八路の軍をねぎらわせ、さらに菁茅一車を用意させて、斉軍の前でその見本を示させ、その上で正式に表文を備えて周へ朝貢するよう命じた。

許僖公の嗣位と屈完への閲兵誇示

  • さて許の穆公の柩が本国に届くと、世子業が位を継ぎ、喪を主宰した。これが僖公である。桓公の徳に感じ、大夫百佗に軍を率いさせ、召陵の会に参加させた。桓公は屈完が再び来たと聞き、諸侯に申し付けた。「各国の車と兵を七隊に分け、七つの方角に配置せよ。斉国の兵は南方に屯し、楚の衝突を受け止めよ。斉軍の中で太鼓が鳴ったら、七路の軍が一斉に鼓を鳴らし、武器と甲冑はすべて十分に整え、中原の威勢を強く示すように」。
  • 屈完が斉の陣営に入ると、斉侯に会い、軍をねぎらう品を差し出した。桓公はその品を八路の軍に分配するよう命じた。菁茅を検分すると、屈完に戻して自ら朝貢させることとした。桓公は言った。「大夫は我が中原の兵を見られたか」。屈完は言った。「完は僻遠の南国に住み、中原の盛んな様子をまだ見たことがございません。願わくは一度拝見したく」。桓公は屈完とともに戎輅(戦車)に登り、各国の兵を望み見た。それぞれ一つの方角を占め、数十里にわたって連綿と続いていた。斉軍の中で一声太鼓が鳴ると、七路の太鼓の音が呼応し、まるで雷鳴が轟くかのごとく、大地を驚かせるほどであった。桓公は喜色を浮かべて屈完に言った。「寡人にはこれだけの大軍がある。戦えばどうして勝てないことがあろうか。攻めればどうして克てないことがあろうか」。屈完は答えて言った。「君が中原に盟主として立たれるのは、天子のために徳を布き、民をいたわり救うためです。君がもし徳をもって諸侯を懐けられれば、誰が服さないことがありましょうか。もし人数と力に頼るならば、楚国は狭小とはいえ、方城を城壁とし、漢水を堀としております。堀は深く城は険しく、たとえ百万の大軍をもってしても、まさに何に用いるべきか分からないでしょう」。
  • 桓公は面に恥じる色を浮かべ、屈完に言った。「大夫はまことに楚の良臣である。寡人は貴国と先君の好誼を修めたいが、どうか」。屈完は答えて言った。「君がわが国の社稷に福を及ぼしてくださり、辱くもわが君を同盟に加えていただけるならば、わが君がどうして自ら外にとどまることがありましょうか。どうか君と盟を定めさせてください」。桓公は「よろしい」と言った。その晩、屈完を陣中に泊まらせ、宴を設けてもてなした。

盟約と鮑叔牙の問い

  • 翌日、召陵に壇を立て、桓公が牛耳を執って主盟となり、管仲が司盟となった。屈完は楚君の命として、共に盟書を立てた。「今より以後、代々盟好を通じる」。桓公が先に血をすすって盟い、七国と屈完が順に血をすすった。礼が終わると、屈完は再拝して謝意を表した。管仲はひそかに屈完に、聃伯を鄭へ帰すことを求め、屈完もまた蔡侯のために謝罪した。両者ともこれを承諾した。管仲は兵を引き上げるよう命じた。
  • 途中、鮑叔牙は管仲に尋ねた。「楚の罪は、僭号(王号を僭称すること)が最大のものです。あなたが供え物の茅を理由にされたのは、わたしには理解できません」。管仲は答えて言った。「楚はすでに三代にわたって僭号している。われらはこれをもって彼らを退け、蛮夷と同列に扱っている。もしその号を改めよと責めれば、楚がわれらに素直に従うだろうか。もし従わなければ、必ず交戦することになる。ひとたび兵端が開けば、互いに報復し合い、その禍は数年経っても解けまい。南北はこれより騒然となろう。わたしが供え物の茅を理由にしたのは、彼らが命に従いやすくするためだ。もし服罪の名目さえあれば、それだけでも諸侯に誇示し、天子に報告するに十分ではないか。戦乱が続き災いが絶えず、いつ終わるとも知れぬよりましではないか」。鮑叔牙は嘆息してやまなかった。胡曾先生の詩がある。

(詩:楚王は南海で周を無視していたが、仲父はその年、うまく謀を運んだ、一兵も用いずに和約を成し遂げ、千秋の後まで人はこの覇業をもって斉侯を称えると詠う)

また髯翁に、桓公と仲父が一時しのぎで事を結んだことを譏る詩がある。楚に実害を与えなかったため、斉兵が退いた後、楚兵は元通り中原を侵犯し、桓公と管仲は二度と楚を伐つ師を興すことができなかったからである。詩にはこうある。

(詩:南方を望み躊躇すること数十年、遠交近合とさまざま画策するが、大声で罪を鳴らして謀ったのはまだ盛んだったが、僭称した王号をこそ改めさせてはじめて結末は全うされたものを、昭王廟の孤魂は最後まで痛みを負ったまま、江・黄の義挙もただ禍いを残しただけ、あの一度血をすすって盟ったことがいったい何を成したというのか、依然として中原は戦の血に染まったままだと詠う)

轅濤塗の献策と申侯の讒言

  • 陳の大夫轅濤塗は兵を引き上げる命を聞き、鄭の大夫申侯と相談して言った。「師がもし陳鄭の道を通れば、糧食や衣服・履物の費用がかさみ、国が甚だ疲弊するでしょう。むしろ東へ回って海沿いの道を帰り、徐と莒に供給の労を負わせれば、われら二国は少し安泰でいられます」。申侯は「よろしい、あなたが申し出てみられよ」と言った。濤塗は桓公に言った。「君は北で戎を伐ち、南で楚を伐たれました。もし諸侯の大軍で東夷に兵を示されれば、東方の諸侯は君の威を畏れ、どうして朝見の礼を奉じないことがありましょうか」。桓公は「大夫の言葉はもっともだ」と言った。
  • しばらくして、申侯が謁見を求め、桓公が召し入れると、申侯は進み出て言った。「臣が聞くところでは『師は一季(三か月)を越えて長引かせてはならない』と申します。民を疲れさせることを恐れるからです。今、春から夏に至るまで、霜露風雨に晒され、軍の力は疲弊しております。もし陳鄭の道を通れば、糧食や衣服・履物は自国の蔵から取るのと同然です。もし東方の道に出れば、東夷が道を塞げば、戦うこともできず、いかがなさいますか。濤塗が自国のことばかり考えるのは、良策ではありません。君はどうかお察しください」。桓公は「大夫の言葉がなければ、わが事はほとんど誤るところであった」と言った。そこで濤塗を軍中に捕らえるよう命じ、鄭伯に命じて虎牢の地を申侯に与え、その功に報いさせた。それにより申侯にその城邑を拡張させ、南北の藩屏とした。鄭伯は命に従いはしたものの、これより心中には不満を抱くようになった。陳侯は使者を遣って賄賂を献じ、再三罪を謝したので、桓公は濤塗を赦した。諸侯はそれぞれ本国に帰った。桓公は管仲の功が高いことから、大夫伯氏の駢邑三百戸を奪い、その封地に加えた。

楚の朝貢と周室の動揺

  • 楚王は諸侯の兵が退いたのを見て、貢茅をやめようとした。屈完は言った。「斉に対する信を失うわけにはいきません。しかも楚がひたすら周と絶っていたからこそ、斉は周王室を独り占めにして自らの重みとすることができたのです。もしこれを機にこちらから周に通じれば、われらは斉と周を共にすることになります」。楚王は「二人の王(周と楚が同格になること)をどうするのか」と尋ねた。屈完は「表文にこちらの爵号(王号)を書き記さず、ただ遠臣某と称すればよいでしょう」と言った。楚王はこれに従った。すぐに屈完を使者とし、菁茅十車に金や絹を加えて、天子に献上させた。周の恵王は大いに喜んで言った。「楚が職責を果たさないこと久しかったが、今こうして順わんとするとは、まさに先王の霊のおかげであろう」。そこで文武の廟に告げ、それによって胙(祭肉)を楚に賜った。屈完に言った。「南方を鎮め、中原を侵すことのないように」。屈完は再拝稽首して退いた。
  • 屈完が去った後、斉の桓公は隰朋を遣って後を追わせ、楚を服させたことを告げさせた。恵王は隰朋を格別に厚遇した。隰朋はそれを機に世子に会うことを求めたが、恵王は不快な様子を見せた。そこで次子の帯と世子の鄭とを一緒に出させて会わせた。隰朋がひそかに恵王の顔色を窺うと、まるで動揺して落ち着かない様子であった。隰朋は周から帰ると、桓公に言った。「周はまさに乱れようとしています」。桓公は「なぜか」と尋ねた。隰朋は言った。「周王の長子、名は鄭、先の皇后姜氏の生んだ子で、すでに東宮(皇太子)の位に就いています。姜后が薨じた後、次の妃陳媯が寵愛を受け、後添えの正妃に立てられ、その子は帯といいます。帯は取り入るのが巧みで、周王は彼を愛し、太叔と呼んでいます。そこで世子を廃して帯を立てようとしています。臣が見るに、その神色が動揺していたのは、必ずこの事が心にあるからです。恐らくは『小弁』の詩に詠まれたような事態が、再びこの世に現れるやもしれません。君は盟主として、これを図らねばなりません」。
  • 桓公は管仲を召してこれを謀った。管仲は答えて言った。「臣に一計あり、周を安定させることができます」。桓公は「仲父の計とはどのようなものか」と尋ねた。管仲は答えて言った。「世子は危うく疑われる立場にあり、その味方は孤立しています。君は今、周王に上表し、『諸侯は世子にお会いしたく思う。世子は出て諸侯にお会いいただきたい』と申し出るのです。世子がひとたび出れば、君臣の分はすでに定まり、王がたとえ廃立を望んでも、行うことは難しくなりましょう」。桓公は「よろしい」と言った。そこで諸侯に檄を伝え、翌年の夏の月に首止で会することとした。さらに隰朋を周へ遣り、「諸侯は世子にお会いしたく、それによって王を尊ぶ思いを申し述べたい」と言わせた。周の恵王はもともと子鄭を出させて会わせたくなかったが、斉の勢力が強大で、しかも名分が正しく理にかなっていたため、辞退しがたく、やむを得ず許した。隰朋は帰って報告した。

首止の会

  • 翌年の春、桓公は陳敬仲を先に首止へ遣り、世子の来駕に備えて館を築かせた。夏五月、斉・宋・魯・陳・衛・鄭・許・曹の八国の諸侯が首止に集った。世子鄭もまた到着し、行宮に駕を停めた。桓公は諸侯を率いて挨拶に赴き、子鄭は再三謙譲して、賓主の礼で会おうとした。桓公は言った。「小白らは藩屏の臣として、世子にお会いすることは王にお会いするに等しく、どうして頭を地につけて拝礼せずにいられましょうか」。子鄭は謝して「諸君、どうかそのままで」と言った。
  • その夜、子鄭は人を遣って桓公を行宮に招き、太叔帯が位を奪おうとしている事情を訴えた。桓公は言った。「小白は諸臣とともに盟いを立て、共に世子をお守りいたしましょう。世子はご心配になりませぬよう」。子鄭は感謝してやまず、そのまま行宮に留まった。諸侯もあえて帰国せず、それぞれ館舎に留まり、順番に酒食を献上し、随従の者たちをねぎらった。子鄭は諸国を長く煩わせることを恐れ、京師へ帰ろうとした。桓公は言った。「世子とこうして留まり続けようとするのは、天王に、われらが世子を敬愛し、離れがたく思っていることを知っていただき、それによって邪な謀略を防ぐためです。今は夏の盛りで暑さも厳しい。もう少し秋の涼しさを待ってから、駕をお送りいたしましょう」。そこで盟の期日をあらかじめ選び、秋八月の吉日と定めた。

周恵王の密書

  • さて周の恵王は世子鄭が長らく帰らないのを見て、これは斉侯が推戴しているのだと知り、心中不快であった。さらに恵后と叔帯が朝夕そばに侍り、言葉巧みに恵王の心を動かしていた。太宰の周公孔が謁見に来ると、恵王は彼にこう言った。「斉侯は名目上楚を伐ったというが、実際には楚に対して何ら優位を得ていない。今、楚人は貢献に順ってきており、まさに昔とは大違いだ。楚が斉に劣るところなど見えないではないか。斉はまた諸侯を率いて世子を引き留めている。何の意図があるのか分からぬ。朕をいったいどこに置こうというのか。朕は太宰に頼み、鄭伯に密書を通じ、鄭伯に斉を捨てて楚に付かせたい。その鄭伯を介して朕のために楚君へ意を伝えさせ、楚に努めて周へ仕えさせたいのだ。朕の意に背かぬようにしてほしい」。宰孔は奏上した。「楚が従順になったのも、斉の力によるものです。王はどうして久しく親しんできた伯舅(斉桓公)を捨てて、にわかに付き従うようになった蛮夷に就こうとされるのですか」。恵王は言った。「鄭伯が離れなければ、諸侯は散らない。斉に異心がないと保証できようか。朕の心はすでに決まった。太宰は言うな」。宰孔はもはや言葉を返すことができなかった。
  • 恵王はそこで王の印を押した書状を一通したため、堅く封じて、宰孔に密かに授けた。宰孔は書の内容を知らぬまま、人を遣って夜を徹して鄭伯へ届けさせた。鄭の文公が封を開いて読むと、こうあった。「子鄭は父の命に背き、徒党を組んで私利を図っており、後継ぎにふさわしくない。朕の意は次子帯にある。叔父がもし斉を捨て楚に付き、共に弟の帯を輔けてくれるなら、朕は国を挙げてお任せしたい」。鄭伯は喜んで言った。「わが先公武公・荘公は、代々王の卿士として諸侯の頭となっていたが、思いがけず中絶し、小国並みに扱われるようになった。厲公にはまた王を戻した功があったが、いまだ召し用いられていない。今、王命が独りわれに下ったからには、国政が我に及ぶこととなろう。諸大夫、わたしを祝ってくれ」。
  • 大夫孔叔は諫めて言った。「斉はわれらのために楚に苦労して兵を用いました。今、逆に斉に背いて楚に事えるのは、道義に背くことです。まして世子を奉戴することは天下の大義、君だけが異を唱えることはできません」。鄭伯は言った。「覇者に従うのが、どうして王に従うのに及ぼうか。それに王の意は世子にはないというのに、わたしがどうして世子を惜しまねばならないのか」。孔叔は言った。「周で宗廟の祭祀を主宰する者、すなわち跡を継ぐ者は、ただ嫡子と長子に限られます。幽王の伯服への愛、桓王の子克への愛、荘王の子頹への愛、みな君のご存じのことです。人心が附かず、身は死んで何も成せませんでした。君は大義に従うことをせず、あの五大夫の轍を踏もうとされるのですか。後にきっと悔やまれましょう」。大夫申侯は言った。「天子の命令に、誰が逆らえましょうか。もし斉の盟に従えば、これは王命を捨てることになります。われらが去れば、諸侯は必ず疑い、疑えば必ず散り、盟も必ず成るとは限りません。しかも世子には外の党があり、太叔にも内の党があります。二人のどちらが成功するかはまだ分かりません。しばらく帰って様子を見るのがよろしいでしょう」。鄭の文公はそこで申侯の言葉に従い、国内に事があると口実をつけ、辞去の挨拶もせずに帰ってしまった。

首止の盟成立

  • 斉の桓公は鄭伯が逃げ去ったと聞き、大いに怒り、世子を奉じて鄭を討とうとした。管仲が進み出て言った。「鄭は周に国境を接しており、これは必ず周の誰かが誘ったのでしょう。一人が去ったからといって、大計を阻むには足りません。しかも盟の期日はすでに迫っています。盟が成るのを待ってから図りましょう」。桓公は「よろしい」と言った。そこで首止の旧壇に赴き、血をすすって盟を結んだ。斉・宋・魯・陳・衛・許・曹、あわせて七国の諸侯であった。世子鄭はこれに臨んだが血をすすることには加わらなかった。これは諸侯があえて世子と対等に並ぼうとはしないことを示すものであった。盟の詞にはこうあった。「われら同盟する者、共に王儲(世子)を助け、王室を匡し安んじる。盟に背く者あらば、神明これを誅せよ」。
  • 事が終わると、世子鄭は階段を降り、両手を組んで会釈し、謝して言った。「諸君は先王の霊により、周室を忘れず、寡人に親しみ近づいてくださった。文王・武王以下の歴代の先王も、みなこれを嘉し頼みとされることであろう。まして寡人がどうしてこれを忘れられようか」。諸侯はみな階を降りて拝し、頭を地につけて礼をした。翌日、世子鄭は帰ろうとし、各国はそれぞれ車と兵を出して護送した。斉の桓公は衛侯と共に自ら衛の国境まで見送り、世子鄭は涙を流して別れた。史官の詩がある。

(詩:君王は溺愛のあまり嫡嗣を危うくしたが、鄭伯は平然と大義に背いた、首止の一盟によって後継の位が定まり、綱常はこれによってかろうじて衰えを免れたと詠う)

  • 鄭の文公は諸侯が会盟し、鄭を討とうとしていると聞き、そのため楚に従うことはあえてしなかった。

申侯の裏切りと誅殺

  • さて楚の成王は鄭が首止の盟に与しなかったと聞き、喜んで言った。「わたしは鄭を得た」。そこで申侯に使者を遣り、鄭との修好を求めた。もともと申侯は先に楚に仕えたことがあり、弁舌の才があり、貪欲かつ人に媚びるのが巧みで、楚の文王に大いに寵信されていた。文王が臨終のとき、後世の人が申侯を容れないことを恐れ、白璧を贈り、他国に逃れて禍を避けるよう命じた。申侯は鄭に逃れ、櫟にいた厲公に仕え、厲公は楚にいた時と同じように彼を寵信した。厲公が国に帰って位に復するに及び、大夫となった。楚の臣たちはみな申侯と旧知の間柄であったので、この度はこのつてを頼って渡りをつけ、申侯に中から働きかけさせ、斉に背いて楚に事えさせようとした。申侯はひそかに鄭伯に言った。「楚でなければ斉に対抗できません。まして王命もあるのです。そうしなければ、斉と楚の二国はともに鄭を仇とし、鄭は支えきれなくなりましょう」。鄭の文公はその言葉に惑わされ、ひそかに申侯を遣って楚に帰順を申し入れさせた。
  • 周の恵王二十六年、斉の桓公は同盟の諸侯を率いて鄭を伐ち、新密を包囲した。時に申侯はまだ楚におり、楚の成王に言った。「鄭が貴国の下に帰そうとしているのは、まさに楚こそが斉に対抗できると考えているからです。王がもし鄭を救わなければ、臣は復命する言葉がございません」。楚王は群臣に謀った。令尹子文が進み出て言った。「召陵の役の折、許の穆公が軍中で死去し、斉はこれを憐れみました。許は斉にもっとも忠実に仕えております。王がもし許に兵を加えれば、諸侯は必ず救援に赴くでしょう。そうすれば鄭の包囲は自然に解けます」。楚王はこれに従い、自ら軍を率いて許を伐ち、許城を包囲した。諸侯は許が包囲されたと聞き、果たして鄭を捨てて許を救援に向かい、楚の師は退いた。
  • 申侯は鄭に帰り、自ら鄭を全うした功があると自任し、得意満面で、封賞を大いに期待していた。鄭伯は虎牢の役の折すでに申侯に過分な待遇をしたと考え、爵位や賞を与えなかった。申侯は口では怨みの言葉を漏らさずにいられなかった。
  • 翌年の春、斉の桓公は再び師を率いて鄭を伐った。陳の大夫轅濤塗は、かつて楚討伐からの帰路のことで申侯と確執があり、孔叔に書を送った。
  • 書にいう。「申侯は先に国を斉に媚びて売り、独り虎牢の賞を占めました。今また国を楚に媚びて売り、あなたの君に徳に背き義に反させ、自ら干戈を招かせ、その禍は民と社稷に及んでおります。必ず申侯を殺せば、斉兵は戦わずして退くでしょう。」

  • 孔叔はこの書を鄭の文公に呈した。鄭伯は先日孔叔の言葉を聞かず、逃げ帰って盟に与しなかったことで、斉兵が二度も鄭に至る結果となり、心中愧じ悔い、また申侯を咎めた。そこで申侯を召して責めて言った。「お前は楚だけが斉に対抗できると言った。今、斉兵はたびたび来ているのに、楚の救援はどこにあるのか」。申侯がまさに弁明しようとしたところ、鄭伯は武士に命じて引き出させ斬らせた。その首を箱に入れ、孔叔に持たせて斉の陣中に献じさせ、こう言わせた。「わが君は先に申侯の言葉を誤って聞き入れ、君との好誼を全うできませんでした。今謹んで誅を行い、下臣に君の陣営で罪をお請いさせます。どうか赦していただきたく」。斉侯はもとより孔叔の賢を知っており、そこで鄭との和議を許した。そこで諸侯を寧母に集めた。鄭の文公は結局のところ先の王命が気にかかって去就をためらい、あえて公然と会に赴かず、世子の華を代わりに行かせ、寧母で命を聞かせた。

子華の讒言と最期

  • 子華とその弟子臧は、ともに嫡夫人の生んだ子であった。嫡夫人は初め寵愛を受けていたので、文公は華を世子に立てた。その後さらに二人の夫人が立てられ、いずれにも子があった。嫡夫人の寵は次第に衰え、まもなく病死した。また南燕の姞氏の娘が、鄭宮に嫁ぐ夫人に随行して来ていたが、これまで君に召されたことはなかった。ある夜、夢に一人の立派な男が現れ、蘭草を手に持ってこの女に言った。「わたしは伯儵である。すなわちお前の祖先だ。今、国中に名高いこの蘭をお前に授け、子として、それによってお前の国を栄えさせよう」。そう言って蘭を授けた。目覚めると、部屋じゅうが香り、その夢のことを語った。同輩の女は彼女をからかって「貴い子を生むことでしょう」と言った。
  • この日、鄭の文公が宮中に入り、この女を見て気に入った。左右の者はみな互いに顔を見合わせて笑った。文公がその理由を尋ねると、夢のことを答えた。文公は「これは佳い兆しだ。寡人がお前のためにこれを成し遂げよう」と言った。そこで蘭の蕊を採らせて身につけさせ、「これを符(しるし)としよう」と言った。夜に彼女を召して寵愛すると、身ごもり、子を生んで名を蘭とした。この女もまた次第に寵愛を受けるようになり、燕姞と呼ばれた。
  • 世子華は父が多く寵愛の女を持つのを見て、いつか廃立の事があるのではと恐れた。そこでひそかに叔詹に相談した。叔詹は言った。「得失には天命がある。子もまた孝を行うのみだ」。また孔叔に相談すると、孔叔もまた孝を尽くすことを勧めた。子華は不満のまま去った。子臧は生まれつき奇を好み、鷸(しぎ)の羽を集めて冠とした。師叔は「これは礼にかなった服ではない。公子はどうか身につけられませぬよう」と言った。子臧はその率直な言葉を憎み、兄に訴えた。それゆえ子華と叔詹・孔叔・師叔の三大夫との間には、心中しこりが生じていた。
  • この時に至り、鄭伯は子華に代わりに寧母の会に行かせた。子華は斉侯に怪しまれることを恐れ、行きたがらなかった。叔詹はこれを促して急いで行かせた。子華は心中ますます恨みを深め、自らを全うする方策を考えた。斉の桓公に会うと、左右の者を退けることを求めた上で、こう言った。「鄭国の政は、みな洩氏・孔氏・子人氏の三族に握られております。盟から逃げた一件はまさにこの三族が主導したものです。もし君侯の御威光により、この三臣を除いてくださるなら、わたしは鄭を斉に附属させ、付庸国のようにいたします」。桓公は「承知した」と言った。
  • そして子華の謀を管仲に告げた。管仲はしきりに「なりません、なりません」と言った。「諸侯が斉に服するのは、礼と信のためです。子が父の命に背くのは礼と言えません。友好をもって来ながら、その国を乱そうと謀るのは信と言えません。しかも臣が聞くところでは、この三族はみな賢大夫であり、鄭人は『三良』と称えているとのこと。盟主が貴ぶべきは人心に順うことです。人心に逆らって自分の思うままにすれば、災禍は必ず及びます。臣が見るに、子華はまさに免れられぬでしょう。君はどうか許されませんように」。桓公はそこで子華に言った。「世子の言われることは、まことに国家の大事である。子の君が到着するのを待って、これを計ろう」。子華は顔を赤らめ、汗を流しながら、鄭へ帰った。管仲は子華の奸計を憎み、そのためこの話を鄭人に漏らした。
  • 先に人がこれを鄭伯に知らせていた。子華が復命する頃には、彼はこう偽って言った。「斉侯は君が自ら行かれなかったことを深く怪しみ、和を許そうとされません。楚に付くほかありません」。鄭伯は大いに怒鳴った。「親に背く不孝者めが、ほとんどわが国を売り渡すところであったのに、まだそんなでたらめを言うのか」。左右に命じて子華を幽室に閉じ込めさせた。子華は塀に穴を開けて逃げようとしたが、鄭伯はこれを殺してしまい、まさに管仲の予測した通りとなった。公子臧は宋へ出奔したが、鄭伯は人を遣って途中で追い殺させた。鄭伯は斉が子華の言葉を聞き入れなかった徳に感じ、再び孔叔を斉に遣って謝意を述べさせ、あわせて盟への加入を乞うた。胡曾先生が史を詠んだ詩がある。

(詩:鄭は「三良」を家の柱のように頼りとしていたが、一朝にしてその柱を撤去すれば屋根も支えられなくなる、子華は父の命を逆らって国を専らにしようとしたが、身は死してただ不孝の名を残しただけだと詠う)

これは周の恵王二十二年の出来事である。

恵王の崩御と襄王の即位

  • この冬、周の恵王は病が重くなった。世子鄭は恵后が変事を起こすことを恐れ、まず下士王子虎を遣って斉に難を告げさせた。まもなく恵王は崩じた。子鄭は周公孔・召伯廖と相談し、しばらく喪を発せず、夜を徹して人を遣り王子虎に密報した。王子虎は斉侯にこれを伝え、桓公は諸侯を洮に大いに集めた。鄭の文公も自ら盟に赴いた。共に血をすすって盟った者は、斉・宋・魯・衛・陳・鄭・曹・許、あわせて八国の諸侯であり、それぞれ表を修めて大夫を周へ遣った。その大夫たちは、斉の大夫隰朋、宋の大夫華秀老、魯の大夫公孫敖、衛の大夫寧速、陳の大夫轅選、鄭の大夫子人師、曹の大夫公子戊、許の大夫百佗であった。
  • 八国の大夫が轂を連ねて到着し、儀装はまことに盛んで、安否を問うことを名目に、王城の外に集まった。王子虎が先に馳せて知らせると、世子鄭は召伯廖を遣って慰労させ、それから喪を発した。諸大夫は固く新王への謁見を求め、周公・召公は子鄭を奉じて喪を主宰させ、諸大夫は便宜を仮り、君命と称して弔意を表した。そこで公然と王世子の嗣位を要請し、百官が朝賀した。これが襄王である。恵后と叔帯はひそかに苦い思いを抱いたが、もはや異心を企てることはできなかった。襄王は翌年をもって改元し、各国に布告した。

葵邱へ向かう道中の儲位の相談

  • 襄王元年、春の祭が終わると、宰の周公孔に命じて胙を斉に賜わらせ、その王室をもりたてて奉じた功を表彰させた。斉の桓公はあらかじめこの知らせを聞き、諸侯を葵邱に大いに集めた。時に斉の桓公は道中で、管仲と周の事について論じ合った。管仲は言った。「周室は正妻の子と側室の子の区別がなく、ほとんど禍乱に至りました。今、君の後継者の地位もまだ空いています。早く定めるべきで、後の患いを防ぐべきです」。桓公は言った。「寡人には六人の子があるが、みな庶出である。年長を基準にすれば無虧だが、賢さを基準にすれば昭である。長衛姫は寡人に長く仕えており、寡人はすでに無虧を立てることを約束している。易牙・豎貂の二人も、しきりにそれを言い立てている。寡人は昭の賢を愛しているが、まだ決めかねている。今日、これを仲父に決めてもらいたい」。管仲は易牙と豎貂の二人が心のねじけたへつらい者であり、しかも長衛姫の寵を得ていることを知っており、無虧がいつか君となれば、内外で党を組み、必ず国政を乱すことを恐れていた。公子昭は鄭姫の生んだ子であり、鄭がちょうど盟に加わったばかりであることから、これを機に好誼を結ぶこともできると考えた。そこで答えて言った。「覇業を継ごうとするなら、賢でなければなりません。君はすでに昭の賢を知っておられます。これを立てるのがよろしいでしょう」。桓公は「無虧が年長であることを盾に争うことを恐れるが、どうしたものか」と言った。管仲は言った。「周王の位も、君を待って定まりました。今回の会盟で、君は諸侯の中でもっとも賢い者を選び、昭をこれに託せば、何を憂うことがありましょうか」。桓公はうなずいた。

宋襄公への託孤と葵邱の会盟

  • 葵邱に至ると、諸侯がみな集まり、宰の周公孔も到着し、それぞれ館舎についた。時に宋の桓公御説は薨じており、世子の茲父は公子目夷に国を譲ろうとしたが、目夷は受け入れず、茲父が即位した。これが襄公である。襄公は盟主の命に従い、喪中とはいえあえて赴かないわけにはいかず、墨で染めた喪服のまま会に赴いた。管仲は桓公に言った。「宋子には国を譲る美徳があり、賢と言えましょう。しかも黒い喪服のまま会に赴いたことは、斉への忠実さを大いに示すものです。儲君(後継者)の事を託すことができましょう」。桓公はその言葉に従い、すぐに管仲を宋の襄公の館舎に密かに遣って、桓公の意を伝えさせた。襄公は自ら桓公に会いに来た。桓公はその手を握り、懇ろに公子昭のことを託して言った。「いつか君のお力添えを頼み、社稷の主とさせたい」。襄公は恐れ多いと恐縮して辞退したが、心中は斉侯の託しに感じ、すでに暗にこれを承諾していた。

  • 会の当日、衣冠は整然として、腰の玉飾りが音を立てて鳴り響いた。諸侯はまず周王の使者を壇上に上らせ、それから順に登った。壇上には天王の虚位(王の象徴的な座)が設けられ、諸侯は北を向いて拝礼し、頭を地につけて礼をすることは参朝の儀のようであり、それからそれぞれの位に着いた。宰の周公孔は胙を捧げ、東を向いて立ち、新王の命を伝えて言った。「天子は文武の廟にお祭りをなさり、孔に伯舅(斉桓公)に胙を賜わらせた」。斉侯は階を降りて拝受しようとした。宰孔はこれを止めて言った。「天子には後のご命令がございます。伯舅は老齢で功労が多いため、一級の礼を加え、階を降りて拝する必要はない、とのことです」。桓公は従おうとしたが、管仲が傍らから進み出て言った。「君が謙るのはよいですが、臣たる分において不敬であってはなりません」。桓公はそこで答えて言った。「天の威は顔の咫尺を違えず(天子の威光はすぐそこにある)、小白がどうして王命を貪って、臣の職を廃することができましょうか」。急いで階を降り、再拝稽首してから、堂に登って胙を受けた。諸侯はみな斉の礼を尽くす態度に感服した。桓公は諸侯がまだ散っていないのを機に、改めて盟好を申し述べ、周の『五禁』を頌して言った。「泉を塞いではならない、穀物の売買を妨げてはならない、跡継ぎを替えてはならない、妾を妻としてはならない、婦人を国事に関わらせてはならない」。誓って言った。「われら同盟する者、共に好誼に帰する」。ただ盟書を犠牲の上に置き、人に宣読させるだけで、もはや牲を殺して血をすすって盟うことはなかった。諸侯に信服しない者はなかった。髯翁の詩がある。

(詩:猜疑と離反が紛々と入り乱れる世を春秋は説いているが、楚を攘い周を尊んで勝ちの籌を握った、桓公の功業が盛んでなければ、誰が血をすすって盟うことなしに諸侯を信服させられようかと詠う)

封禅の議論

  • 盟の事が終わった後、桓公はふと宰孔に言った。「寡人は夏・殷・周の三王朝に封禅の事があったと聞いている。その典礼はどのようなものか、聞かせてもらえるか」。宰孔は言った。「古えは泰山に封じ、梁父に禅じました。泰山に封じるとは、土を築いて壇とし、金泥玉簡をもって天を祭り、天の功に報いるものです。天は高い所にあるので、土を高く盛って高さを象るのです。梁父に禅じるとは、地を掃いて祭ることで、地の卑(低いこと)を象るものです。車輪を蒲で包んだ車を用い、藁を敷物とし、祭ってからこれを覆うのは、地に報いるためです。夏・殷・周の三王朝は天命を受けて興り、天地の加護を得たので、この立派な礼をもって報いたのです」。桓公は言った。「夏は安邑に都し、殷は毫に都し、周は豊鎬に都した。泰山と梁父は都から遠く離れていたが、それでも封じ禅じた。今、この二山は寡人の領内にある。寡人は天王の恩寵を求めて、この稀有な儀式を行いたいが、諸君はどう思うか」。宰孔は桓公の足取りが高々と、意気揚々として、驕った様子があるのを見て、こう答えた。「君がよいとお思いになるなら、誰が敢えて不可と申しましょうか」。桓公は「明日、改めて諸君と議論しよう」と言った。諸侯はみな散った。

管仲の諫言

  • 宰孔はひそかに管仲を訪ねて言った。「封禅の事は、諸侯が口にすべきことではない。仲父は一言諫めて止めることができないのか」。管仲は言った。「わが君は勝つことを好む性分、それとなくその考えを取り下げさせることはできても、正面から正すことは難しい。夷吾(管仲自身)が今夜これを言おう」。そこで夜、桓公のもとに参上して尋ねた。「君は封禅をなさろうとしていますが、まことですか」。桓公は「なぜ信じられぬのか」と言った。管仲は言った。「古え、封禅を行ったのは、無懐氏から周の成王に至るまで、確認できる限り七十二家、みな天命を受けてから、初めて封ずることができました」。
  • 桓公はむっとして言った。「寡人は南に楚を伐ち、召陵に至った。北に山戎を伐ち、令支を撃ち破り、孤竹を滅ぼした。西に流沙を渡り、太行山に至った。諸侯は寡人に逆らう者がなかった。寡人は兵車の会三たび、衣裳の会六たび、九たび諸侯を合わせ、天下を一たび正した。たとえ夏・殷・周の三王朝が天命を受けたとしても、これに勝ることがあろうか。泰山に封じ梁父に禅じて、子孫に示すのは、よいことではないか」。管仲は言った。「古え天命を受けた者は、まず祥瑞の兆しが示されてから、その後に物を備えて封じました。その典礼はまことに盛大なものです。鄗(こう)の地の見事な黍、北里の見事な穀物は、これを祭器に盛る供物としたのです。江淮の間には、一茎に三つの脊のある茅があり、これを『霊茅』といい、王者が天命を受けたときに生じるといい、それを祭りの敷物としました。東海からは比目の魚が届き、西海からは比翼の鳥が届き、祥瑞の物は、召さずして至るものが十五種もありました。それらは書史に記され、子孫の誉れとなりました。今、鳳凰や麒麟は現れず、鴟鴞(ふくろう)がたびたび来ています。見事な穀物は生えず、雑草ばかりが繁茂しています。このような状況で封禅を行おうとすれば、恐らく列国の見識ある者はきっと君を笑うでしょう」。桓公は黙り込んだ。翌日、ついに封禅の事は口にしなかった。

管仲の分謗と晋献公の死

  • 桓公は帰国すると、自ら功高く比類なしと思い、ますます宮室を整え、壮麗にすることに努めた。乗輿や衣服・調度の制度はすべて王者に比すほどとなり、国人はその僭越を大いに議論した。管仲はそこで邸内に三層の台を築き、「三帰の台」と号した。民人が帰す、諸侯が帰す、四夷が帰す、の意である。また塞門(目隠しの塀)を樹て、内外を隔てた。酒器を置く台を設けて、列国の使臣をもてなした。鮑叔牙はこれを怪しんで尋ねた。「主君が奢ればあなたもまた奢り、主君が僭すればあなたもまた僭する。それではいけないのではないか」。管仲は言った。「そもそも人主が労苦を惜しまず功業を成すのも、結局は一日の心地よさを楽しむためです。もし礼で縛ってしまえば、彼は苦しんで怠る気持ちが生じるでしょう。わたしがこのようにするのも、いささかわが君のために謗りを分かち合おうとするためです」。鮑叔牙は口では「はいはい」と言ったものの、内心では納得していなかった。

  • 話は変わって、周の太宰孔は葵邱から帰る途中、晋の献公が会に赴こうとしているところに出会った。宰孔は「会はすでに終わりました」と言った。献公は足を踏み鳴らして悔しがり、「わが国は遠く、あの衣裳の盛儀を観ることができなかった。何と縁のないことか」と言った。宰孔は言った。「君は悔やまれる必要はありません。今、斉侯は自ら功高きことを恃み、人を見下して驕る気配があります。そもそも月が満ちれば欠け、水が満ちれば溢れるもの。斉の欠け溢れる時はすぐそこに来ているでしょう。会に赴かなくても何の損もありますまい」。献公はそこで車を西へ巡らせて帰った。道中で病を得、晋国に帰り着くと薨じた。晋は大いに乱れた。晋の乱の顛末を知りたければ、次の回をご覧いただきたい。

原文(底本)
話說屈完再至齊軍,請面見齊侯言事。管仲曰:「楚使復來,請盟必矣。君其禮之。」屈完見齊桓公再拜。桓公答禮,問其來意。屈完曰:「寡君以不貢之故,致干君討,寡君已知罪矣。君若肯退師一舍,寡君敢不惟命是聽!」桓公曰:「大夫能輔爾君以修舊職,俾寡人有辭於天子,又何求焉?」屈完稱謝而去。歸報楚王,言:「齊侯已許臣退師矣,臣亦許以入貢,君不可失信也。」少頃,諜報:「八路軍馬,拔寨俱起。」成王再使探實,回言:「退三十里,在召陵駐紮。」楚王曰:「齊師之退,必畏我也。」欲悔入貢之事。子文曰:「彼八國之君,尚不失信於匹夫,君可使匹夫食言於國君乎?」楚王嘿然。乃命屈完賷金帛八車,再往召陵犒八路之師,復備菁茅一車,在齊軍前呈樣過了,然後具表,如周進貢。

  卻說許穆公喪至本國,世子業嗣位,主喪,是為僖公。感桓公之德,遣大夫百佗,率師會於召陵。桓公聞屈完再到,吩咐諸侯:「將各國車徒,分為七隊,分列七方。齊國之兵,屯於南方,以當楚衝。俟齊軍中鼓起,七路一齊鳴鼓,器械盔甲,務要十分整齊,以強中國之威勢。」屈完既入,見齊侯,陳上犒軍之物。桓公命分派八軍。其菁茅驗過,仍令屈完收管,自行進貢。桓公曰:「大夫亦曾觀我中國之兵乎?」屈完曰:「完僻居南服,未及睹中國之盛,願借一觀。」桓公與屈完同登戎輅,望見各國之兵,各占一方,聯絡數十里不絕。齊軍中一聲鼓起,七路鼓聲相應,正如雷霆震擊,駭地驚天。桓公喜形於色,謂屈完曰:「寡人有此兵眾,以戰,何患不勝?以攻,何患不克?」屈完對曰:「君所以主盟中夏者,為天子宣布德意,撫恤黎元也。君若以德綏諸侯,誰敢不服?若恃眾逞力,楚國雖褊小,有方城為城,漢水為池,池深城峻,雖有百萬之眾,正未知所用耳!」桓公面有慚色,謂屈完曰:「大夫誠楚之良也!寡人願與汝國修先君之好如何?」屈完對曰:「君惠徼福於敝邑之社稷,辱收寡君於同盟,寡君其敢自外?請與君定盟可乎?」桓公曰:「可。」是晚留屈完宿於營中,設宴款待。

  次日,立壇於召陵,桓公執牛耳為主盟,管仲為司盟。屈完稱楚君之命,同立載書:「自今以後,世通盟好。」桓公先歃,七國與屈完以次受歃。禮畢,屈完再拜致謝。管仲私與屈完言,請放聃伯還鄭。屈完亦代蔡侯謝罪。兩下各許諾。管仲下令班師。途中鮑叔牙問於管仲曰:「楚之罪,僭號為大。吾子以包茅為辭,吾所未解。」管仲對曰:「楚僭號已三世矣,我是以擯之,同於蠻夷。倘責其革號,楚肯俛首而聽我乎?若其不聽,勢必交兵,兵端一開,彼此報復,其禍非數年不解,南北從此騷然矣。吾以包茅為辭,使彼易於共命。苟有服罪之名,亦足以誇耀諸侯,還報天子,不愈於兵連禍結,無已時乎?」鮑叔牙嗟嘆不已。胡曾先生有詩曰:

    楚王南海目無周,仲父當年善運籌。不用寸兵成款約,千秋伯業誦齊侯。

又髯翁有詩譏桓仲苟且結局,無害於楚,所以齊兵退後,楚兵犯侵中原如故,桓仲不能再興伐楚之師矣。詩云。

    南望躊躇數十年,遠交近合各紛然。大聲罪狀謀方壯,直革淫名局始全。昭廟孤魂終負痛,江黃義舉但貽愆。不知一歃成何事,依舊中原戰血鮮!

  陳大夫轅濤塗聞班師之令,與鄭大夫申侯商議曰:「師若取道於陳鄭,糧食衣屨,所費不貲,國必甚病。不若東循海道而歸,使徐莒承供給之勞,吾二國可以少安。」申侯曰:「善,子試言之。」濤塗言於桓公曰:「君北伐戎,南伐楚,若以諸侯之眾,觀兵於東夷,東方諸侯,畏君之威,敢不奉朝請乎?」桓公曰:「大夫之言是也。」少頃,申侯請見,桓公召入。申侯進曰:「臣聞『師不踰時』,懼勞民也。今自春徂夏,霜露風雨,師力疲疾。若取道於陳鄭,糧食衣屨,取之猶外府也。若出於東方,倘東夷梗路,恐不堪戰,將若之何?濤塗自恤其國,非善計也。君其察之!」桓公曰:「微大夫之言,幾誤吾事!」乃命執濤塗於軍,使鄭伯以虎牢之地,賞申侯之功。因使申侯大其城邑,為南北藩蔽。鄭伯雖然從命,自此心中有不樂之意。陳侯遣使納賂,再三請罪,桓公乃赦濤塗。諸侯各歸本國。桓公以管仲功高,乃奪大夫伯氏之駢邑三百戶,以益其封焉。

  楚王見諸侯兵退,不欲貢茅。屈完曰:「不可以失信於齊!且楚惟絕周,故使齊得私之以為重。若假此以自通於周,則我與齊共之矣。」楚王曰:「奈二王何?」屈完曰:「不序爵,但稱遠臣某可也。」楚王從之。即使屈完為使,賷菁茅十車,加以金帛,貢獻天子。周惠王大喜曰:「楚不共職久矣。今效順如此,殆先王之靈乎?」乃告於文武之廟,因以胙賜楚。謂屈完曰:「鎮爾南方,毋侵中國!」屈完再拜稽首而退。屈完方去後,齊桓公遣隰朋隨至,以服楚告。惠王待隰朋有加禮。隰朋因請見世子,惠王便有不樂之色。乃使次子帶與世子鄭,一同出見。隰朋微窺惠王神色,似有倉皇無主之意。隰朋自周歸,謂桓公曰:「周將亂矣!」桓公曰:「何故?」隰朋曰:「周王長子名鄭,先皇后姜氏所生,已正位東宮矣。姜后薨,次妃陳媯有寵,立為繼后,有子名帶。帶善於趨奉,周王愛之,呼為太叔。遂欲廢世子而立帶。臣觀其神色倉皇,必然此事在心故也。恐《小弁》之事,復見於今日!君為盟主,不可不圖。」桓公乃召管仲謀之。管仲對曰:「臣有一計,可以定周。」桓公曰:「仲父計將安出?」管仲對曰:「世子危疑,其黨孤也。君今具表周王,言:『諸侯願見世子,請世子出會諸侯。』世子一出,君臣之分已定,王雖欲廢立,亦難行矣。」桓公曰:「善。」乃傳檄諸侯,以明年夏月會於首止。再遣隰朋如周,言:「諸侯願見世子,以申尊王之情。」周惠王本不欲子鄭出會,因齊勢強大,且名正言順,難以辭之,只得許諾。隰朋歸報。

  至次年春,桓公遣陳敬仲先至首止,築官以待世子駕臨。夏五月,齊、宋、魯、陳、衛、鄭、許、曹八國諸侯,並集首止。世子鄭亦至,停駕於行宮。桓公率諸侯起居,子鄭再三謙讓,欲以賓主之禮相見。桓公曰:「小白等忝在藩室,見世子如見王也,敢不稽首!」子鄭謝曰:「諸君且休矣。」是夜,子鄭使人邀桓公至於行宮,訴以太叔帶謀欲奪位之事。桓公曰:「小白當與諸臣立盟,共戴世子,世子勿憂也!」子鄭感謝不已,遂留於行宮。諸侯亦不敢歸國,各就館舍,輪番進獻酒食,及犒勞輿從之屬。子鄭恐久勞諸國,便欲辭歸京師。桓公曰:「所以願與世子留連者,欲使天王知吾等愛戴世子,不忍相舍之意,所以杜其邪謀也。方今夏月大暑,稍俟秋涼,當送駕還朝耳。」遂預擇盟期,用秋八月之吉。

  卻說周惠王見世子鄭久不還轅,知是齊侯推戴,心中不悅。更兼惠后與叔帶朝夕在傍,將言語浸潤惠王。太宰周公孔來見,謂之曰:「齊侯名雖伐楚,其實不能有加於楚。今楚人貢獻效順,大非昔比,未見楚之不如齊也。齊又率諸侯擁留世子,不知何意,將置朕於何地!朕欲煩太宰通一密信於鄭伯,使鄭伯棄齊從楚,因為孤致意楚君,努力事周,無負朕意!」宰孔奏曰:「楚之效順,亦齊力也。王奈何棄久暱之伯舅,而就乍附之蠻夷乎?」惠王曰:「鄭伯不離,諸侯不散,能保齊之無異謀乎?朕志決矣,太宰無辭。」宰孔不敢復言。惠王乃為璽書一通,封函甚固,密授宰孔。宰孔不知書中何語,只得使人星夜達於鄭伯。鄭文公啟函讀之,言:「子鄭違背父命,植黨樹私,不堪為嗣。朕意在次子帶也。叔父若能舍齊從楚,共輔少子,朕願委國以聽!」鄭伯喜曰:「吾先公武莊,世為王卿士,領袖諸侯,不意中絕,夷於小國。厲公又有納王之勞,未蒙召用。今王命獨臨於我,政將及焉,諸大夫可以賀我矣。」大夫孔叔諫曰:「齊以我故,勤兵於楚。今乃反齊事楚,是悖德也。況翼戴世子,天下大義,君不可以獨異。」鄭伯曰:「從霸何如從王?且王意不在世子,孤何愛焉!」孔叔曰:「周之主祀,惟嫡與長。幽王之愛伯服,桓王之愛子克,莊王之愛子頹,皆君所知也。人心不附,身死無成。君不惟大義是從,而乃蹈五大夫之覆轍乎?後必悔之!」大夫申侯曰:「天子所命,誰敢違之?若從齊盟,是棄王命也。我去,諸侯必疑,疑則必散,盟未必成。且世子有外黨,太叔亦有內黨,二子成敗,事未可知。不如且歸,以觀其變。」鄭文公乃從申侯之言,托言國中有事,不辭而行。

  齊桓公聞鄭伯逃去,大怒,便欲奉世子以討鄭。管仲進曰:「鄭與周接壤,此必周有人誘之。一人去留,不足以阻大計。且盟期已及,俟成盟而後圖之。」桓公曰:「善。」於是即首止舊壇,歃血為盟。齊、宋、魯、陳、衛、許、曹,共是七國諸侯。世子鄭臨之,不與歃,示諸侯不敢與世子敵也。盟詞曰:「凡我同盟,共翼王儲,匡靖王室。有背盟者,神明殛之!」事畢,世子鄭降階揖謝曰:「諸君以先王之靈,不忘周室,暱就寡人,自文武以下,咸嘉賴之!況寡人其敢忘諸君之賜?」諸侯皆降拜稽首。次日,世子鄭欲歸,各國各具車徒護送。齊桓公同衛侯親自送出衛境,世子鄭垂淚而別。史官有詩讚云:

    君王溺愛冢嗣危,鄭伯甘將大義違。首止一盟儲位定,綱常賴此免凌夷。

鄭文公聞諸侯會盟,且將討鄭,遂不敢從楚。

  卻說楚成王聞鄭不與首止之盟,喜曰:「吾得鄭矣!」遂遣使通於申侯,欲與鄭修好。原來申侯先曾仕楚,有口才,貪而善媚,楚文王甚寵信之。及文王臨終之時,恐後人不能容他,贈以白璧,使投奔他國避禍。申侯奔鄭,事厲公於櫟,厲公復寵信如在楚時。及厲公復國,遂為大夫。楚臣俱與申侯有舊,所以今日打通這個關節,要申侯從中慫恿,背齊事楚。申侯密言於鄭伯,言:「非楚不能敵齊,況王命乎?不然,齊楚二國,皆將仇鄭,鄭不支矣。」鄭文公惑其言,乃陰遣申侯輸款於楚。周惠王二十六年,齊桓公率同盟諸侯伐鄭,圍新密。時申侯尚在楚,言於楚成王曰:「鄭所以願歸宇下者,正謂惟楚足以抗齊也。王不救鄭,臣無辭以復命矣。」楚王謀於群臣。令尹子文進曰:「召陵之役,許穆公卒於軍中,齊所憐也。許事齊最勤,王若加兵於許,諸侯必救,則鄭圍自解矣。」楚王從之,乃親將伐許,亦圍許城。諸侯聞許被圍,果去鄭而救許,楚師遂退。申侯歸鄭,自以為有全鄭之功,揚揚得意,滿望加封。鄭伯以虎牢之役,謂申侯已過分,不加爵賞。申侯口中不免有怨望之言。明年春,齊桓公復率師伐鄭。陳大夫轅濤塗,自伐楚歸時,與申侯有隙,乃為書致孔叔曰:

    申侯前以國媚齊,獨擅虎牢之賞。今又以國媚楚,使子之君,負德背義,自召干戈,禍及民社。必殺申侯,齊兵可不戰而罷。

  孔叔以書呈於鄭文公。鄭伯為前日不聽孔叔之言,逃歸不盟,以致齊兵兩次至鄭,心懷愧悔,亦歸咎於申侯。乃召申侯責之曰:「汝言惟楚能抗齊。今齊兵屢至,楚救安在?」申侯方欲措辯,鄭伯喝教武士推出斬之。函其首,使孔叔獻於齊軍曰:「寡君昔者誤聽申侯之言,不終君好。今謹行誅,使下臣請罪於幕下,惟君侯赦宥之!」齊侯素知孔叔之賢,乃許鄭平。遂會諸侯於寧母。鄭文公終以王命為疑,不敢公然赴會,使其世子華代行,至寧母聽命。

  子華與弟子臧,皆嫡夫人所出。夫人初有寵,故立華為世子。後復立兩夫人,皆有子。嫡夫人寵漸衰,未幾病死。又有南燕姞氏之女,為媵於鄭宮,向未進御。一夕,夢一偉丈夫,手持蘭草謂女曰:「餘為伯儵,乃爾祖也。今以國香贈爾為子,以昌爾國。」遂以蘭授之。及覺,滿室皆香,且言其夢。同伴嘲之曰:「當生貴子。」是日,鄭文公入宮,見此女而悅之。左右皆相顧而笑。文公問其故,乃以夢對。文公曰:「此佳兆也,寡人為汝成之。」遂命採蘭蕊佩之,曰:「以此為符。」夜召幸之,有娠,生子名之曰蘭。此女亦漸有寵,謂之燕姞。世子華見其父多寵,恐他日有廢立之事。乃私謀之於叔詹。叔詹曰:「得失有命,子亦行孝而已。」又謀之於孔叔,孔叔亦勸之以盡孝。子華不悅而去。子臧性好奇詭,聚鷸羽以為冠,師叔曰:「此非禮之服,願公子勿服。」子臧惡其直言,訴於其兄。故子華與叔詹、孔叔、師叔三大夫,心中俱有芥蒂。

  至是,鄭伯使子華代行赴會,子華慮齊侯見怪,不願往。叔詹促之使速行。子華心中益恨,思為自全之術。既見齊桓公,請屏去左右,然後言曰:「鄭國之政,皆聽於洩氏、孔氏、子人氏三族。逃盟之役,三族者實主之。若以君侯之靈,除此三臣,我願以鄭附齊,比於附庸。」桓公曰:「諾。」遂以子華之謀,告於管仲。管仲連聲曰:「不可,不可!諸侯所以服齊者,禮與信也。子奸父命,不可謂禮。以好來而謀亂其國,不可謂信。且臣聞此三族,皆賢大夫,鄭人稱為『三良』。所貴盟主,順人心也。違人自逞,災禍必及。以臣觀之,子華且將不免,君其勿許。」桓公乃謂子華曰:「世子所言,誠國家大事。俟子之君至,當與計之。」子華面皮發赤,汗流浹背,遂辭歸鄭。管仲惡子華之奸,故洩其語於鄭人。先有人報知鄭伯。比及子華復命,詭言:「齊侯深怪君不親行,不肯許成,不如從楚。」鄭伯大喝曰:「逆子幾賣吾國,尚敢謬說耶?」叱左右將子華囚禁於幽室之中。子華穴牆謀遁,鄭伯殺之,果如管仲所料。公子臧奔宋,鄭伯使人追殺之於途中。鄭伯感齊不聽子華之德,再遣孔叔如齊致謝,並乞受盟。胡曾先生詠史詩曰:

    鄭用「三良」似屋楹,一朝楹撤屋難撐。子華奸命思專國,身死徒留不孝名。

此周惠王二十二年事也。

  是冬,周惠王疾篤。王世子鄭恐惠后有變,先遣下士王子虎告難於齊。未幾,惠王崩。子鄭與周公孔召伯廖商議,且不發喪,星夜遣人密報於王子虎。王子虎言於齊侯,乃大合諸侯於洮。鄭文公亦親來受盟。同歃者,齊、宋、魯、衛、陳、鄭、曹、許,共八國諸侯,各各修表,遣其大夫如周。那幾位大夫:齊大夫隰朋,宋大夫華秀老,魯大夫公孫敖,衛大夫寧速,陳大夫轅選,鄭大夫子人師,曹大夫公子戊,許大夫百佗。八國大夫連轂而至,羽儀甚盛,假以問安為名,集於王城之外。王子虎先驅報信,王世子鄭使召伯廖問勞,然後發喪。諸大夫固請謁見新王,周召二公奉子鄭主喪,諸大夫假便宜,稱君命以弔。遂公請王世子嗣位,百官朝賀,是為襄王。惠后與叔帶暗暗叫苦,不敢復萌異志矣。襄王乃以明年改元,傳諭各國。

  襄王元年,春祭畢。命宰周公孔賜胙於齊,以彰翼戴之功。齊桓公先期聞信,復大合諸侯於葵邱。時齊桓公在路上,偶與管仲論及周事。管仲曰:「周室嫡庶不分,幾至禍亂。今君儲位尚虛,亦宜早建,以杜後患。」桓公曰:「寡人六子,皆庶出也,以長則無虧,以賢則昭。長衛姬事寡人最久,寡人已許之立無虧矣。易牙豎貂二人,亦屢屢言之。寡人愛昭之賢,意尚未決。今決之於仲父。」管仲知易牙豎貂二人奸佞,且素得寵於長衛姬,恐無虧異日為君,內外合黨,必亂國政。公子昭,鄭姬所出,鄭方受盟,假此又可結好。乃對曰:「欲嗣伯業,非賢不可。君既知昭之賢,立之可也。」桓公曰:「恐無虧挾長來爭,奈何!」管仲曰:「周王之位,待君而定。今番會盟,君試擇諸侯中之最賢者,以昭托之,又何患焉?」桓公點首。比至葵邱,諸侯畢集,宰周公孔亦到,各就館舍。時宋桓公御說薨,世子茲父,讓國於公子目夷,目夷不受,茲父即位,是為襄公。襄公遵盟主之命,雖在新喪,不敢不至,乃墨衰赴會。管仲謂桓公曰:「宋子有讓國之美,可謂賢矣!且墨衰赴會,其事齊甚恭。儲貳之事,可以托之。」桓公從其言,即命管仲私詣宋襄公館舍,致齊侯之意。襄公親自來見齊侯。齊侯握其手,諄諄以公子昭囑之:「異日仗君主持,使主社稷。」襄公愧謝不敢當,然心感齊侯相托之意,已心許之矣。

  至會日,衣冠濟濟,環珮鏘鏘。諸侯先讓天使升壇,然後以次而升。壇上設有天王虛位,諸侯北面拜稽,如朝覲之儀,然後各就位次。宰周公孔捧胙東向而立,傳新王之命曰:「天子有事於文武,使孔賜位舅胙。」齊侯將下階拜受。宰孔止之曰:「天子有後命:以伯舅耋老,加勞,賜一級,無下拜。」桓公欲從之,管仲從旁進曰:「君雖謙,臣不可以不敬。」桓公乃對曰:「天威不違顏咫尺,小白敢貪王命,而廢臣職乎?」疾趨下階,再拜稽首,然後登堂受胙。諸侯皆服齊之有禮。桓公因諸侯未散,復申盟好,頌周《五禁》曰:「毋壅泉,毋遏糴,毋易樹子,毋以妾為妻,毋以婦人與國事。」誓曰:「凡我同盟,言歸於好。」但以載書,加於牲上,使人宣讀,不復殺牲歃血,諸侯無不信服。髯翁有詩云:

    紛紛疑叛說春秋,攘楚尊周握勝籌。不是桓公功業盛,誰能不歃信諸侯?

  盟事已畢,桓公忽謂宰孔曰:「寡人聞三代有封禪之事,其典何如?可得聞乎?」宰孔曰:「古者封泰山,禪梁父。封泰山者,築土為壇,金泥玉簡以祭天,報天之功。天處高,故崇其土以象高也。禪梁父者,掃地而祭,以象地之卑。以蒲為車,葅稭為藉,祭而掩之,所以報地。三代受命而興,獲祐於天地,故隆此美報也。」桓公曰:「夏都於安邑,商都於毫,周都於豐鎬。泰山梁父,去都城甚遠,猶且封之禪之。今二山在寡人之封內,寡人欲徼寵天王,舉此曠典,諸君以為何如?」宰孔視桓公足高氣揚,似有矜高之色,乃應曰:「君以為可,誰敢曰不可!」桓公曰:「俟明日更與諸君議之。」諸侯皆散。

  宰孔私詣管仲曰:「夫封禪之事,非諸侯所宜言也。仲父不能發一言諫止乎?」管仲曰:「吾君好勝,可以隱奪,難以正格也。夷吾今且言之矣。」乃夜造桓公之前,問曰:「君欲封禪,信乎?」桓公曰:「何為不信?」管仲曰:「古者封禪,自無懷氏至於周成王,可考者七十二家,皆以受命,然後得封。」桓公艴然曰:「寡人南伐楚,至於召陵;北伐山戎,刜令支,斬孤竹;西涉流沙,至於太行;諸侯莫余違也。寡人兵車之會三,衣裳之會六,九合諸侯,一匡天下,雖三代受命,何以過於此?封泰山,禪梁父,以示子孫,不亦可乎?」管仲曰:「古之受命者,先有禎祥示徵,然後備物而封,其典甚隆備也。鄗上之嘉黍,北里之嘉禾,所以為盛。江淮之間,一茅三脊,謂之『靈茅』,王者受命則生焉,所以為藉。東海致比目之魚,西海致比翼之鳥,祥瑞之物,有不召而致者,十有五焉。以書史冊,為子孫榮。今鳳凰麒麟不來,而鴟鴞數至;嘉禾不生,而蓬蒿繁植;如此而欲行封禪,恐列國有識者必歸笑於君矣!」桓公嘿然。明日,遂不言封禪之事。

  桓公既歸,自謂功高無比,益治宮室,務為壯麗。凡乘輿服御之制,比於王者,國人頗議其僭。管仲乃於府中築臺三層,號為「三歸之臺」。言民人歸,諸侯歸,四夷歸也。又樹塞門,以蔽內外。設反坫,以待列國之使臣。鮑叔牙疑其事,問曰:「君奢亦奢,君僭亦僭,毋乃不可乎?」管仲曰:「夫人主不惜勤勞,以成功業,亦圖一日之快意為樂耳。若以禮繩之,彼將苦而生怠。吾之所以為此,亦聊為吾君分謗也。」鮑叔口雖唯唯,心中不以為然。

  話分兩頭。卻說周太宰孔自葵邱辭歸,於中途遇見晉獻公亦來赴會。宰孔曰:「會已撤矣。」獻公頓足恨曰:「敝邑遼遠,不及觀衣裳之盛,何無緣也?」宰孔曰:「君不必恨。今者齊侯自恃功高,有驕人之意。夫月滿則虧,水滿則溢,齊之虧且溢,可立而待,不會亦何傷乎?」獻公乃回轅西向。於路得疾,回至晉國而薨,晉乃大亂。欲知晉亂始末,且看下回分解。

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