東周列國志第三十四回 宋の襄公、仁を仮って衆を失う/斉の姜氏、酔いに乗じて夫を送り出す (宋襄公假仁失衆 齊姜氏乘醉遣夫)

楚成王、襄公の罪を数える

  • さて楚の成王は、兵車ではなく武装しない乗用の車で会に赴くという体裁を装っていたが、従っていた者たちはみな屈強の壮丁で、内には隠し鎧を、身には隠し武器を帯びており、みな成得臣・鬥勃が選び鍛えた者たちで、実に勇猛であった。
  • また蒍呂臣・鬥般の二将を遣わして大軍を統率させ、後方から進ませ、大掛かりな戦闘に備えさせていた。
  • 宋の襄公はまったく気づかず、その罠に陥った。まさに「無心の人が有心の人に遭うと、身を脱しようとしても脱しがたい」というものであった。
  • 楚王は襄公を捕らえ、武装兵たちは公館に用意されていた饗応・贈答や軍をねぎらうための品々、および倉中の蓄積の穀物をことごとく掠奪した。随行の車馬もすべて楚のものとなった。
  • 陳・蔡・鄭・許・曹の五人の諸侯は人々みな恐れおののき、誰一人進み出て取りなす者はなかった。
  • 楚の成王は諸侯を館に招き、面と向かって宋の襄公の六つの罪を数え上げた。「そなたは喪中の斉を攻め討ち、勝手に廃立を行った、これが一つ目の罪だ。滕子が会に来るのがやや遅れただけなのに、これを縛り上げて辱めた、これが二つ目の罪だ。人を犠牲の代わりに用い、祀典にもない邪神を祭った、これが三つ目の罪だ。曹が地主の礼を欠いたのは些細なことなのに、そなたは強きを恃んでこれを包囲した、これが四つ目の罪だ。滅びた国(殷)の遺裔の身でありながら、徳と力の程を弁えず、天象が戒めを示しているのに、なお覇を図ろうとしている、これが五つ目の罪だ。寡人に諸侯を求めておきながら、自ら大いに尊大に振る舞い、まったく謙譲の礼がない、これが六つ目の罪だ。天がその魂を奪ったのか、車一台だけで会に赴いてきた。寡人は今日、兵車千乗、戦将千員を統率し、睢陽の城を踏み砕き、斉と鄫の各国のために仇を討とう。諸君はしばし車駕をとどめて、寡人が宋を取って戻るのを見届けられよ、さらに諸君と痛飲十日して散じよう。」
  • 諸侯はみな「はい」と唯々諾々とするばかりであった。
  • 襄公は口をつぐんで一言も発せず、木彫りの人形のようであった。ただ二筋の涙をこぼすばかりであった。
  • しばらくして楚国の大軍がみな集結した。号して千乗と称したが、実際は五百乗であった。
  • 楚の成王は兵士をねぎらい、陣を払って出発し、宋の襄公を伴い、睢陽城に向かって攻め寄せた。
  • 列国の諸侯は楚王の命を奉じ、みな盂の地に屯し、あえて自国に帰る者はなかった。
  • 史官が詩を作って宋の襄公の失敗を風刺した。(詩:わけもなく楚に媚びてかえって禍を招き、睢陽を戦場と化させることになった、昔、斉の桓公は九度も諸侯を会したが、いつ楚をこれほど国境近くまで許したことがあろうか、という趣旨。)

目夷、公孫固と国を守る

  • さて公子目夷は盂の地の盟壇から逃げ帰ると、司馬の公孫固に襄公が捕らえられた事を告げ、「楚の兵は今にも到着しよう、速やかに兵を調え、城壁に登って守りを固めよ」と言った。
  • 公孫固は「国に一日たりとも君主がいなくてはならぬ、公子はしばらく君位を代行すべきだ、そうしてこそ号令と賞罰も人心を引き締められる」と言った。
  • 目夷は公孫固の耳元で「楚人が我が君を捕らえて我が国を討つのは、何か求めるものがあってのことだ。必ずこのようにこうすれば、楚人は必ず我が君を国に帰すだろう」と言った。
  • 固は「この言葉はまことにもっともだ」と言った。
  • そこで群臣に「我が君はおそらく帰れまい、我らは公子目夷を推戴して国事を主宰させるべきだ」と告げると、群臣は目夷の賢を知っていたので、喜んで従わない者はなかった。
  • 公子目夷は太廟に告げ、君主の座に就いて政を執った。三軍は命に従い、鈴と拍子木の合図は厳しく整えられ、睢陽の各城門は鉄桶のように固く守られた。
  • ちょうど準備が整った頃、楚王の大軍がすでに到着し、陣を敷いた。
  • 楚は将軍の鬥勃を遣わして城前で話をさせた。「そなたらの君はすでに我らに拘束されている、生殺は我らの手にある。早く土地を献じて降伏し、そなたらの君の命を保て。」
  • 城楼の上で公孫固は答えた。「社稷の神霊のおかげで、国人はすでに新君を立てた。生殺はそちら次第、降伏など望んでもできぬ。」
  • 鬥勃は「そなたらの君は健在だ、どうしてまた新君を立てられようか」と言った。
  • 公孫固は「君を立てるのは社稷を主宰するためだ、社稷に主がなければ、新君を立てないわけにいかぬ」と言った。
  • 鬥勃は「我らはそなたらの君を国に送り届けてもよいが、何をもって報いるのか」と言った。
  • 公孫固は「旧君はすでに捕らえられ、社稷を辱めた、たとえ帰っても君とはなれまい。帰るも帰らぬも、楚の命じるままにせよ。決戦を求めるなら、城中の兵車はまだ損なわれていない、喜んで一戦交えよう」と言った。
  • 鬥勃は公孫固の言葉が強硬なのを見て楚王に報告した。楚王は大いに怒り、攻城を命じた。
  • 城上からは矢石が雨のように降り注ぎ、楚兵は多くの損傷を出した。三日攻め続けたが、無駄に損なわれるばかりで勝てなかった。
  • 楚王は「あの国はすでに宋君を用いようとしないなら、殺してしまってはどうか」と言った。
  • 成得臣は答えた。「王は鄫子を殺したことを宋の罪とされました、今、宋公を殺せば、同じ過ちを繰り返すことになります。宋公を殺すのは匹夫を殺すに等しく、宋を得ることもできず、いたずらに怨みを買うだけです、いっそ釈放するのがよろしいでしょう。」
  • 楚王は「宋を攻めても落とせず、その君を釈放すれば、何を名分とするのか」と言った。
  • 得臣は答えた。「臣に計がございます。今、盂の会に参加しなかったのは、ただ斉と魯の二国だけです。斉とはすでに二度誼を通じており、あえて論じるまでもありません。魯は礼儀の国で、一貫して斉を輔けて覇を定め、楚のことなど眼中にありません。もし宋の捕虜を魯に献じ、魯君に亳都で会うことを求めれば、魯は宋の捕虜を見て、必ず恐れて来るでしょう。魯と宋は葵邱の同盟の仲であり、しかも魯侯は賢明でおられますから、必ず宋のために取りなしを求めるでしょう、我らはこれによって魯君に恩を売れます。これは一挙にして宋と魯の両方を得ることになります。」
  • 楚王は手を打って大笑いし、「子玉はまことに見識がある」と言った。
  • そこで軍を退いて亳都に屯し、宜申を使者として、鹵獲した数台の車を、曲阜に献捷させた。その書にはこうあった。
  • 「宋公は傲慢無礼であったため、寡人はすでにこれを亳に幽閉した。あえて功を独り占めすることなく、謹んで大国たる貴国に捷を献ずる、どうか君のご光臨を仰ぎ、ともにその処断を決したく存ずる。」

魯僖公の取りなしと亳郊の盟

  • 魯の僖公は書を見て大いに驚いた。まさに「兎死して狐悲しむ、物その類を傷む」であった。楚の使者の献捷が言葉を誇張したもので、脅迫の意であることは明白であった。しかし魯は弱く楚は強い、もし赴かなければ、軍を移して伐たれることを恐れ、悔いても間に合わない。
  • そこで宜申を厚くもてなし、まず返書を発して楚王に急報し、「魯侯は仰せの通り、即日、会に赴きます」と伝えた。
  • 魯の僖公はそのあと車駕を発し、大夫の仲遂が随行した。
  • 亳都に至ると、仲遂は宜申の紹介により、私的な礼をもってまず成得臣に会い、楚王の前で何かと便宜を図ってもらうよう頼んだ。
  • 得臣は魯の僖公を楚の成王に引き合わせ、互いに敬慕の意を尽くした。
  • その時、陳・蔡・鄭・許・曹の五人の諸侯は、みな盂の地から会に赴いており、魯の僖公と合わせて六人が一堂に集まって相談した。
  • 鄭の文公が口を開き、楚王を盟主として尊ぶことを提案したが、諸侯は口ごもって応じなかった。
  • 魯の僖公は奮然として言った。「盟主たる者は、仁義が世に聞こえ、人心が悦服してこそのものだ。今、楚王は兵車の多さを恃んで上公を襲い捕らえた、威はあっても徳がなく、人心は疑い恐れている。我らは宋と同盟の誼がある、もし座視して救わず、ただ楚を奉じることばかり知るなら、天下の豪傑に嘲笑されよう。楚がもし宋公の囚われを解き、この盟好を全うするなら、寡人はどうして命に従わずにいられようか。」
  • 諸侯はみな「魯侯の言は実にもっともだ」と言った。
  • 仲遂はこの話を密かに成得臣に伝え、得臣はこれを楚王に取り次いだ。
  • 楚王は「諸侯が盟主の義をもって寡人を責めるなら、寡人はどうして背けようか」と言い、亳の郊外にさらに盟壇を築き、十二月癸丑の日を期して血をすすって盟い神に誓い、宋の罪をともに赦すことにした。

宋襄公の釈放

  • 約束が定まった。前日、宋公は釈放され、諸侯と対面した。
  • 宋の襄公は恥じかつ憤り、まったく楽しめなかったが、それでも諸侯に謝辞を述べないわけにはいかなかった。
  • 当日、鄭の文公は諸侯を促し、楚の成王を敬い盟壇に登って盟主となるよう願った。
  • 成王は牛耳を執り、宋・魯以下が順次血をすすって盟いに加わった。襄公は怒りを隠せなかったが口には出せなかった。
  • 事が終わると、諸侯はそれぞれ散った。
  • 宋の襄公は公子目夷がすでに君位に即いたと誤って聞き、衛に亡命しようとした。
  • 公子目夷の使者がすでに到着しており、こう告げた。「臣が位を代行しましたのは、君のために守っていたのです。国はもとより君の国です、なぜお入りにならないのですか。」
  • ほどなく正式の車駕が整い、襄公を迎え帰した。目夷は退いて臣の列に戻った。
  • 胡曾先生は、襄公が釈放されたのはひとえに公子目夷の計略のおかげであり、落ち着き払って旧君のことを気にかけなかった、もし慌てふためいて襄公の帰還を求めていたら、楚はますますこれを奇貨として、軽々しく釈放しなかっただろうと論じた。詩に賛えて言う。(詩:金の賭けは瓦の賭けにどうして及ぼう、新君は旧君の囲みを解いてやることができた、君のために位を守りながらまた位を推し譲る、千古の賢名は目夷に誦せられる、という趣旨。)
  • また詩に言う、六人の諸侯が公然と楚に媚びて寛恕を求め、明らかに中原を操る権力を楚に授けてしまった、楚の目に中原など映っていようか、という趣旨。(詩:昔から兎が死ねば自ら狐が悲しむものだが、捕らえられたのは誰でこれを捕らえたのは誰か、中華の諸侯でありながら夷狄の楚に媚びて恥じることを知らず、そのうえ宋が釈放されたのを自分たちの取りなしの手柄だと誇っているとは、という趣旨。)

宋襄公、鄭を伐ち泓水に楚を迎える

  • 宋の襄公は覇を求める志を抱いていたが、楚人にもてあそばれて大いに恥辱を受け、怨恨の情は骨髄に達したが、力が及ばず報復できないのを恨んだ。
  • また鄭伯が発議して楚王を盟主に尊んだことを咎め恨み、憤懣やるかたなく、鄭国と事を構えようとしていた。
  • 周の襄王の十四年春三月、鄭の文公が楚に朝礼を行うと、宋の襄公はこれを聞いて大いに怒り、国を挙げて兵を興し、自ら鄭の罪を討とうとし、上卿の公子目夷に世子王臣を輔けて留守を命じた。
  • 目夷は諫めて言った。「楚と鄭は今、睦まじい仲です、宋がもし鄭を討てば、楚は必ず救援に来ます。この行いはおそらく勝てません、徳を修めて時を待つのが上策です。」
  • 大司馬の公孫固もまた諫めた。
  • 襄公は怒って「司馬が行きたくないなら、寡人は一人で行こう」と言った。
  • 固はそれ以上言えなくなり、そのまま出兵して鄭を討った。
  • 襄公は自ら中軍を率い、公孫固を副将とし、大夫の楽僕伊・華秀老・公子蕩・向訾守らがみな従軍した。
  • 間者が鄭の文公に報告した。文公は大いに驚き、急いで人を遣わして楚に急を告げた。
  • 楚の成王は「鄭は我に父のように仕えている、速やかに救わねばならぬ」と言った。
  • 成得臣が進み出て「鄭を救うよりも宋を討つ方がよろしい」と言った。楚王が「なぜか」と問うと、得臣は答えた。「宋公は捕らえられたことで、国人はすでに肝を潰しております。今また分をわきまえず大軍で鄭を討とうとしています、その国は必ず空虚になりましょう、虚に乗じてこれを衝けば、その国は必ず恐れましょう、これは戦わずして勝敗を知る道理です。もし宋が引き返して自国を救おうとすれば、それもまた労することになります。逸をもって労を制すれば、どこへ行っても志を得られないことがありましょうか。」
  • 楚王はこれを是とし、すぐに得臣を大将に、鬥勃を副将に命じ、兵を興して宋を討たせた。
  • 宋の襄公はちょうど鄭と対峙していたが、楚兵の知らせを得て、道を急いで引き返し、泓水の南に陣を敷いて楚を防いだ。
  • 成得臣は人を遣わして戦書を送った。
  • 公孫固は襄公に「楚の軍が来たのは鄭を救うためです。我らが鄭を解いて楚に謝すれば、楚は必ず帰りましょう。戦ってはなりません」と言った。
  • 襄公は「昔、斉の桓公は兵を興して楚を討った、今、楚が来て討とうとしているのに戦わなければ、どうして桓公の業を継げようか」と言った。
  • 公孫固はさらに言った。「臣は聞いております、『一つの姓は二度と興らない』と。天が商を見捨てて久しい、君はこれを興そうとされても、できましょうか。それに我らの鎧は楚のものほど堅くなく、武器は楚のものほど鋭くなく、兵士は楚の者ほど強くありません。宋人は楚を畏れること蛇蝎のようです、君は何を頼りに楚に勝とうとされるのですか。」
  • 襄公は「楚の武器と鎧は有り余っているが、仁義が足りない。寡人の武器と鎧は足りないが、仁義は有り余っている。昔、武王は虎賁三千で殷の億万の衆に勝った、これはひとえに仁義によるものだ。有道の君でありながら無道の臣を避けるようでは、寡人は生きているより死んだ方がましだ」と言った。
  • そこで戦書の末尾に返書を書き、十一月朔日に泓陽で交戦することを約した。
  • 輅車に大旗一面を立て、旗には「仁義」の二字を書かせた。
  • 公孫固は密かに苦り切り、こっそり楽僕伊に「戦とは殺し合いを主とするのに仁義を言う、私には君の仁義がどこにあるのか分からない。天が君の魂を奪ってしまわれたのだ、私は密かにこの先を危ぶんでいる。我らは万事慎重にし、国を失わないよう努めるしかない」と言った。
  • 期日に至り、公孫固は鶏鳴前に起き、襄公に願い出て陣を厳しく整えて待った。

泓水の戦い、宋の大敗

  • さて楚の将成得臣は泓水の北に陣を敷いていた。鬥勃は「五更に川を渡り、宋人が先に布陣して我らを阻むことのないようにすべきです」と言った。
  • 得臣は笑って「宋公は迂闊なことばかり務め、まったく兵法を知らぬ。我らが早く渡れば早く戦い、遅く渡れば遅く戦うだけだ、何を恐れることがあろうか」と言った。
  • 夜が明けると、楚の甲士が続々と川を渡り始めた。
  • 公孫固は襄公に願い出た。「楚兵は夜明けにやっと渡り始めました、その様子はまったく我らを軽く見ている証拠です。今、川を半ば渡りかけたところに乗じて突然攻撃すれば、我らの全軍で楚の半分を制することになります。もし全軍を渡らせてしまえば、楚は多く我らは少なく、恐らく敵しがたくなりましょう、いかがなさいますか。」
  • 襄公は大旗を指して「そなたは『仁義』の二字が見えぬか。寡人は堂々の陣を張っている、どうして渡りかけた敵を撃つような道理があろうか」と言った。
  • 公孫固はまたひそかに苦り切った。
  • しばらくして、楚兵はすべて渡り終えた。成得臣は瓊の冠をつけ、玉の纓を結び、繍袍軟甲を身にまとい、腰に飾り彫りの弓を掛け、手に長い鞭を執り、兵士を指揮して東西に陣を布き、意気軒昂として傍らに人なきがごとくであった。
  • 公孫固はまた襄公に願い出た。「楚はまさに布陣中で、まだ隊列が整っておりません、急いで太鼓を鳴らして攻めれば必ず乱れます。」
  • 襄公はその顔に唾を吐きかけて「なんと、そなたは一時の攻撃の利を貪って、万世の仁義を顧みぬのか。寡人は堂々の陣を張っている、どうして隊列が整わぬうちに太鼓を鳴らす道理があろうか」と言った。
  • 公孫固はまたひそかに苦り切った。
  • 楚の陣勢はすでに整い、人強く馬壮んで、山野に満ち満ちた。宋の兵はみな恐れの色を浮かべた。
  • 襄公が軍中に太鼓を鳴らさせると、楚の軍中にも太鼓が鳴った。
  • 襄公は自ら長戈を提げ、公子蕩・向訾守の二将と門官の一団を率い、車を進めてまっすぐ楚の陣に突入させた。
  • 得臣はその勢いの凶猛なのを見て、密かに号令を伝え、陣門を開いて、襄公の一隊の車騎だけを進み入らせた。
  • 公孫固は後から追いついて護衛しようとしたが、襄公はすでに陣内深く突入していた。
  • 陣門を一人の上将が塞ぎ、繰り返し声を張り上げて「腕に覚えのある者は来て決戦せよ」と叫んでいた。その将は鬥勃であった。
  • 公孫固は大いに怒り、戟を挺して鬥勃を刺したが、勃は刀を挙げてこれを迎え撃った。
  • 両者は交戦し、二十合に及ばぬうちに、宋の将楽僕伊が兵を率いて到着すると、鬥勃はやや慌てる様子を見せた。
  • ちょうどそこへ陣中から蒍呂臣という上将が突出し、楽僕伊を迎え撃って戦った。
  • 公孫固はこの隙をついて、刀先をかわして楚軍に馳せ入った。鬥勃は刀を提げて追ってきたが、宋の将華秀老がまた到着し、鬥勃と対戦した。両組は陣前で戦った。
  • 公孫固は楚陣の中で左右に突き進み、しばらくして東北の角に甲士が林のごとく群がり、厳しく包囲しているのを見て、急いでそこへ駆けつけた。
  • ちょうど宋の将向訾守が血にまみれた顔をして「司馬よ、速やかに主君をお救いください」と叫んでいるのに出くわした。
  • 公孫固は訾守とともに包囲の中に突入すると、門官の一団が一人一人重傷を負いながら、なお楚軍と死戦して退かなかった。もとより襄公は下の者に非常に恩を厚くしていたため、門官たちはみな死力を尽くしていたのである。
  • 楚軍は公孫固の勇猛さを見て、次第に退いた。
  • 公孫固が近づいて見ると、公子蕩は要害を傷つけられ車の下に倒れており、「仁義」の大旗はすでに楚軍に奪われていた。
  • 襄公は数か所の傷を負い、右の股(もも)に矢を受け、膝の筋を断たれて立ち上がれなくなっていた。
  • 公子蕩は公孫固が来たのを見て、目を見開いて「司馬よ、どうか主公をお助けしてくれ、私はここで死ぬ」と言い、言い終わると息絶えた。
  • 公孫固は悲しみに堪えなかった。襄公を自分の車に乗せ、身をもってこれを覆い、力を奮って敵陣を突破した。
  • 向訾守が後方の殿を務め、門官らが道中を守り、戦いながら退いた。楚の陣を脱するに至るまでに、門官の者たちは一人も生き残らなかった。
  • 宋の甲車は十のうち八、九を失った。楽僕伊・華秀老は宋公がすでに虎穴を脱したのを見て、それぞれ逃げ帰った。
  • 成得臣は勝ちに乗じてこれを追い、宋の軍は大敗した。輜重や武具はほとんど棄て去られた。
  • 公孫固は襄公とともに夜を徹して逃げ帰った。
  • 宋の兵で戦死した者は非常に多く、その父母妻子はみな朝門の外で嘆き悲しみ、襄公が司馬の言に従わず敗北を招いたことを怨んだ。
  • 襄公はこれを聞いて「君子は傷ついた者を再び傷つけず、白髪頭の敵は捕らえないものだ。寡人は仁義をもって軍を用いようとした、どうして敵の危うきに付け込み要害を押さえて封じるような、あのような真似を見習えようか」と嘆いた。
  • 国中の者はみな嘲笑した。
  • 後世の人が語り伝えて、宋の襄公が仁義を行おうとして人心を失い滅んだと言うのは、まさにこの泓水の戦いのことを指している。
  • 髯翁が詩を作って嘆いた。(詩:滕・鄫を憐れまずに楚兵を憐れみ、股を射抜かれることさえ甘んじて受け、虚名を博した、宋の襄公がもし仁義を称せられるなら、盗跖と文王の区別すらつかぬことになる、という趣旨。)

楚成王、鄭で歓待され姪たちを連れ帰る

  • 楚の兵は大勝を得て、再び泓水を渡り、凱旋しようとしていた。
  • 宋の境をわずかに出たところで、斥候の馬が「楚王が自ら大軍を率いて呼応して救援に来ており、柯沢に屯している」と報告してきた。
  • 得臣はすぐに柯沢に赴いて楚王に謁見し、勝利を献じた。
  • 楚の成王は「明日、鄭君がその夫人を率いてここに軍をねぎらいに来る、大いに捕虜と戦利品を並べて誇示するべきだ」と言った。
  • もとより鄭の文公の夫人羋氏は、楚の成王の妹であり、文羋と呼ばれていた。兄妹の親しみをもって、幌つきの車を駆り、鄭の文公とともに柯沢に至り、楚王と会見した。
  • 楚王は捕虜と戦利品の盛んな様子を示した。鄭の文公夫婦は祝賀し、大いに金や絹を出して三軍をねぎらった。
  • 鄭の文公は楚王を翌日の宴に招いた。
  • 翌朝、鄭の文公は自ら城外に出て楚王を城に迎え入れた。太廟で宴を設け、九献の礼を行い、天子に匹敵するほどであった。食品は数百に及び、外に籩豆六器を加え、宴の贅は列国に前例のないものであった。
  • 文羋が生んだ二人の娘、伯羋と叔羋は、まだ嫁いでおらず室にいた。文羋はまた二人の娘を連れて、姪としての礼をもって母方のおじにあたる楚王に見えさせ、楚王は大いに喜んだ。
  • 鄭の文公は妻子とともに代わる代わる杯を進め、正午から戌の刻まで続き、楚王を泥酔させた。
  • 楚王は文羋に「寡人は厚いもてなしを受け、すでに度を過ぎてしまった、妹と二人の姪が、しばらくの道のり、寡人を送ってくれぬか」と言った。
  • 文羋は「仰せの通りに」と言った。
  • 鄭の文公は楚王を城の外まで見送り、そこで先に別れた。
  • 文羋と二人の娘は、楚王と車を並べて進み、そのまま軍営に至った。もとより楚王は二人の姪の美貌に目をつけており、その夜、寝室に引き入れ、ついに枕を交わす歓びを成した。
  • 文羋は帳の中でうろたえ、一晩中眠れなかったが、楚王の威を畏れ、声を出すことができなかった。(母方のおじの身で姪を我がものにするとは、まことに禽獣の所業である。)
  • 翌日、楚王は分捕った戦利品の半分を文羋に贈り、二人の娘を車に乗せて連れ帰り、後宮に納れた。
  • 鄭の大夫叔詹は嘆いて「楚王はよい終わりを得られないのではないか。享応するのに礼を成すべきなのに、礼を行いながら男女・親族の別をわきまえていない、これは終わりを全うできない兆しだ」と言った。

重耳、斉での安逸を脱する謀議

  • 楚と宋の事はしばらく置く。改めて晋の公子重耳を語る。周の襄王八年に斉に至って以来、襄王十四年まで、前後合わせて斉に七年留まっていた。
  • 桓公の変事に遭遇し、諸子が位を争って国内は大いに乱れた。孝公が即位すると、また先人(桓公)のなしたことに反し、楚に附いて宋に仇し、事は紛糾を極め、諸侯の多くは斉と睦まじくなかった。
  • 趙衰らは密かに議して言った。「我らが斉に赴いたのは、覇主の力を借りて復国を図れると考えたからだ。今、後継の君は業を失い、諸侯もみな叛いている、これでは公子のために謀ることなどとうていできぬ。いっそ他国に移り、別に良策を図ろう。」
  • そこで公子に会ってこのことを申し上げようとした。
  • 公子重耳は斉姜を溺愛し、朝夕歓宴して、外の事には関心を持たなかった。
  • 豪傑たちは十日間伺候したが、それでも会うことができなかった。
  • 魏犨は怒って「我らは公子に事を成す志があると思えばこそ、労苦をいとわず鞭を執って随行してきた。今、斉に留まって七年、安逸を貪り志を怠り、月日は流水のように過ぎている、我らが十日も一度会えないようでは、どうして大事を成せようか」と言った。
  • 狐偃は「ここは相談する場所ではない、諸君みな私に従ってくれ」と言い、みなで東門の外一里余りの、桑陰と呼ばれる地に出た。
  • そこは一面老いた桑の木ばかりで、緑陰が重なり合い、日の光も届かなかった。
  • 趙衰ら九人の豪傑は輪になって地に座った。
  • 趙衰は「子犯(狐偃)の計はどう出るのか」と言った。
  • 狐偃は言った。「公子の出立は、我らにかかっている。我らが相談してしっかり決め、旅支度を整えておき、公子が出てこられたら、郊外で狩りに誘うと言って、斉の城を出た後、みなで力ずくで公子を連れ去り、旅路に就かせてしまえばよい。ただ、この行き先はどの国が頼りになるか分からぬ。」
  • 趙衰は「宋はまさに覇業を図っており、その君は名を好む人物だ、いっそそこに身を投じてはどうか。もし志を得られなければ、さらに秦・楚に赴けば、必ず出会いがあるだろう」と言った。
  • 狐偃は「私は司馬公孫固と旧交がある、まずどうなるか見てみよう」と言った。
  • 一同は長らく相談してから散った。ただ人目につかない場所で誰にも気づかれていないと思っていたが、「聞かれたくなければ言わぬこと、知られたくなければせぬこと」というものである。
  • その時、姜氏の侍女や妾十余人が、ちょうど木の上で桑を摘み蚕に与えていて、人々が輪になって座って議論しているのを見て、手を止めて聞き耳を立て、すべての言葉を聞き取ってしまった。
  • 宮に戻ると、あれこれ話を述べ、みな姜氏に告げた。
  • 姜氏は「そんな話があるものか、勝手なことを言うでない」と叱った。
  • そこで蚕の世話をしていた妾十余人を一室に幽閉し、真夜中にすべて殺し、口を封じた。
  • 公子重耳を蹴って起こし、告げた。「従者たちは公子を他国に移そうとしております。蚕妾がその謀を聞いてしまい、それが漏れることを恐れ、あるいは邪魔をされることを恐れ、今すでに始末いたしました。公子は早く行く計を定められますよう。」
  • 重耳は「人生の安楽こそ肝要、他のことなど知ったことか。私はここで老いてゆく、決して他へは行かぬ」と言った。
  • 姜氏は「公子が出奔されて以来、晋国は一日たりとも平穏な年がございません。夷吾(恵公)は無道で、兵に敗れ身を辱められ、国人は喜ばず、隣国も親しみません、これは天が公子をお待ちになっているのです。公子はこの機会を必ず得て晋国を手にされましょう、決して遅れをとってはなりません」と言った。
  • 重耳は姜氏に心奪われ、なお同意しようとしなかった。
  • 翌朝、趙衰・狐偃・臼季・魏犨の四人が宮門の外に立ち、「公子を郊外の狩りにお誘い申し上げます」と伝えた。
  • 重耳はまだ高く枕して起きようとせず、宮人に「公子はたまたま軽い病を得られ、まだ髪も梳っておらず、行けません」と伝えさせた。
  • 斉姜はこれを聞き、急いで人を遣わして狐偃だけを宮に召した。姜氏は左右の者を退け、来意を尋ねた。
  • 狐偃は「公子は以前、翟国にいた時、日々車を馳せ馬を駆り、狐を追い兎を撃っておられました。今、斉ではもう長らく狩りをなさっておられません、四肢が怠惰になることを恐れ、それでお誘いに参ったのです、他意はございません」と言った。
  • 姜氏は微笑んで「今度の狩りは、宋でなければ秦か楚ではないか」と言った。
  • 狐偃は大いに驚いて「一度の狩りでどうしてそれほど遠くまで行きましょうか」と言った。
  • 姜氏は「そなたたちが公子を無理やり連れて逃げ帰ろうとしていることは、私はすでにすべて知っている、隠さずともよい。私も昨夜、公子に苦言を呈したが、彼は意を決して従おうとしなかった。今晩、私が宴を設け、公子を酔わせるから、そなたらは車で夜のうちに城外に運び出すがよい、事はきっとうまくいくだろう」と言った。
  • 狐偃は頭を叩いて「夫人が閨房の愛を割いてまで公子の名を成そうとされる、その賢徳は千古にも稀なものです」と言った。
  • 狐偃は辞去し、趙衰らにこの事を伝えた。車馬や人員、鞭、乾糧の類はすべて整えられ、趙衰・狐毛らが先に郊外に運んで待機した。
  • 狐偃・魏犨・顛頡の三人だけが残り、小車二台を宮門の左右に伏せて待機し、ひたすら姜氏の合図を待って事を行うことにした。まさに「天下の奇男子たらんとするなら、世の中を万里も踏み歩かねばならない」というものであった。

重耳、酔わされて連れ去られる

  • その晩、姜氏は宮中に酒宴を設け、公子と杯を交わした。
  • 重耳が「この酒は何のためだ」と問うと、姜氏は「公子に四方の志がおありと知り、特に一杯の餞別を用意したのです」と答えた。
  • 重耳は「人生とは白駒が隙間を過ぎるようなもの、志にかなうことができるなら、なぜ他を求める必要があろうか」と言った。
  • 姜氏は「安逸を懐に抱くのは、一人前の男のなすことではありません。従者たちの進言は忠義から出た計です、あなたは必ずこれに従うべきです」と言った。
  • 重耳は顔色を変え、杯を置いて飲まなかった。
  • 姜氏は「あなたは本当に行きたくないのですか、それとも私を欺いているのですか」と言った。
  • 重耳は「私は行かぬ、誰がそなたを欺くものか」と言った。
  • 姜氏は笑みを浮かべて「行くことこそ公子の志、行かぬことは公子の情。この酒は公子の餞別のために用意したものですが、今はこれを公子を留めるための酒といたしましょう。公子とともに存分に楽しみたく存じます」と言った。
  • 重耳は大いに喜び、夫婦は杯を交わし、さらに侍女たちに歌舞を奏させて盃を進めさせた。
  • 重耳は酒に耐えられなくなり、なお何度も強いられて、知らず知らず酪酊し、席上に倒れ伏した。
  • 姜氏は衾でこれを覆い、人を遣わして狐偃を召した。
  • 狐偃は公子がすでに酔っていることを知ると、急いで魏犨・顛頡の二人を宮に引き入れ、衾と敷物ごと担ぎ出し、宮を出た。
  • まず厚い敷物を敷き、車の上に安置し落ち着かせた。
  • 狐偃は姜氏に拝辞し、姜氏は思わず涙を流した。(詞:公子は歓楽を貪り、佳人は遠行を慕う、鴻鵠の志を成そうとして、生々しく鳳鸞の情を断ち切る、という趣旨。)

重耳、狐偃を責める

  • 狐偃らは小車二台を急がせ、黄昏に斉の城を離れ、趙衰らと合流し、夜を徹して馬を駆けさせた。
  • およそ五、六十里ほど行くと、鶏の声が四方に起こり、東の空がほのかに明るくなり始めた。
  • 重耳はようやく車の上で寝返りを打ち、宮人を呼んで水を取って渇きを癒そうとした。
  • その時、狐偃が手綱を執って傍らにいて、「水は夜明けまでお待ちください」と答えた。
  • 重耳は身の揺れが落ち着かないのを自覚し、「私を牀から下ろしてくれ」と言った。狐偃は「牀ではございません、車です」と答えた。
  • 重耳は目を見開いて「そなたは誰だ」と言った。「狐偃です」との答えに、重耳は心中はっと悟り、偃らの計略にはめられたことを知った。
  • 衾を押しのけて起き上がり、子犯(狐偃)を大いに罵った。「そなたらはなぜ私に知らせもせず、私を城外に連れ出したのだ、何のつもりだ。」
  • 狐偃は「晋国を公子に奉じようとしてのことです」と言った。
  • 重耳は「晋を得ぬうちに、まず斉を失った、私は行きたくない」と言った。
  • 狐偃は偽って「斉を離れてすでに百里、斉侯は公子が逃げたことを知れば、必ず兵を発して追ってきます、もう戻れません」と言った。
  • 重耳は勃然として怒り、魏犨が戈を執って護衛しているのを見ると、その戈を奪って狐偃を刺そうとした。
  • 生死のほどは分からない、次回を見られよ。
原文(底本)
話說楚成王假飾乘車赴會,跟隨人眾,俱是壯丁,內穿暗甲,身帶暗器,都是成得臣鬥勃選練來的,好不勇猛!又遣蒍呂臣鬥般二將統領大軍,隨後而進,准備大大廝殺。宋襄公全然不知,墮其圈套。正是:「沒心人遇有心人,要脫身時難脫身」了!楚王拿住了襄公,眾甲士將公館中所備獻享犒勞之儀,及倉中積粟,擄掠一空。隨行車乘,皆為楚有。陳、蔡、鄭、許、曹五位諸侯,人人悚懼,誰敢上前說個方便!楚成王邀眾諸侯至於館寓,面數宋襄公六罪,曰:「汝伐齊之喪,擅行廢置,一罪也;滕子赴會稍遲,輒加縶辱,二罪也;用人代牲,以祭淫鬼,三罪也;曹缺地主之儀,其事甚小,汝乃恃強圍之,四罪也;以亡國之餘,不能度德量力,天象示戒,猶思圖伯,五罪也;求諸侯於寡人,而妄自尊大,全無遜讓之禮,六罪也。天奪其魄,單車赴會,寡人今日統甲車千乘,戰將千員,踏碎睢陽城,為齊鄫各國報仇!諸君但少駐車駕,看寡人取宋而回,更與諸君痛飲十日方散。」眾諸侯莫不唯唯。襄公頓口無言,似木雕泥塑一般,只多著兩行珠淚。須臾,楚國大兵俱集,號曰千乘,實五百乘。楚成王賞勞了軍士,拔寨都起,帶了宋襄公,殺向睢陽城來。列國諸侯,奉楚王之命,俱屯盂地,無敢歸者。史官有詩譏宋襄之失。詩云:

    無端媚楚反遭殃,引得睢陽做戰場。昔日齊桓曾九合,何嘗容楚近封疆?

  卻說公子目夷自盂地盟壇逃回本國,向司馬公孫固說知宋公被劫一事:「楚兵旦暮且到,速速調兵,登陴把守。」公孫固曰:「國不可一日無君,公子須暫攝君位,然後號令賞罰,人心始肅。」目夷附公孫固之耳曰:「楚人執我君以伐我,有挾而求也。必須如此如此,楚人必放吾君歸國。」固曰:「此言甚當。」乃向群臣言:「吾君未必能歸矣!我等宜推戴公子目夷,以主國事。」群臣知目夷之賢,無不欣然。公子目夷告於太廟,南面攝政。三軍用命,鈴柝嚴明,睢陽各路城門,把守得鐵桶相似。方纔安排停當,楚王大軍已到,立住營寨。使將軍鬥勃向前打話,言:「爾君已被我拘執在此,生殺在我手。早早獻土納降,保全汝君性命!」公孫固在城樓答曰:「賴社稷神靈,國人已立新君矣。生殺任你,欲降不可得也!」鬥勃曰:「汝君見在,安得復立一君乎?」公孫固曰:「立君以主社稷也,社稷無主,安得不立新君?」鬥勃曰:「某等願送汝君歸國,何以相酬?」公孫固曰:「故君被執,已辱社稷,雖歸亦不得為君矣。歸與不歸,惟楚所命。若要決戰,我城中甲車未曾損折,情願決一死敵!」鬥勃見公孫固答語硬掙,回報楚王。楚王大怒,喝教攻城。城上矢石如雨,楚兵多有損傷。連攻三日,乾折便宜,不能取勝。楚王曰:「彼國既不用宋君,殺之何如?」成得臣對曰:「王以殺鄫子為宋罪,今殺宋公,是效尤也。殺宋公猶殺匹夫耳,不能得宋,而徒取怨,不如釋之。」楚王曰:「攻宋不下,又釋其君,何以為名?」得臣對曰:「臣有計矣。今不與盂之會者,惟齊魯二國。齊與我已兩次通好,且不必較。魯禮義之邦,一向輔齊定伯,目中無楚。若以宋之俘獲獻魯,請魯君於亳都相會,魯見宋俘,必恐懼而來。魯宋是葵邱同盟之人,況魯侯甚賢,必然為宋求情,我因以為魯君之德。是我一舉而兼得宋魯也。」楚王鼓掌大笑曰:「子玉真有見識!」乃退兵屯於亳都,用宜申為使,將鹵獲數車,如曲阜獻捷。其書云:

    宋公傲慢無禮,寡人已幽之於亳。不敢擅功,謹獻捷於上國,望君辱臨,同決其獄!

魯僖公覽書大驚,正是「兔死狐悲,物傷其類。」明知楚使獻捷,詞意誇張,是恐嚇之意。但魯弱楚強,若不往會,恐其移師來伐,悔無及矣!乃厚待宜申,先發回書,馳報楚王,言:「魯侯如命,即日赴會。」魯僖公隨後發駕,大夫仲遂從行。來至亳都,仲遂因宜申先容,用私禮先見了成得臣,囑其於楚王前,每事方便。得臣引魯僖公與楚成王相見,各致敬慕之意。其時,陳、蔡、鄭、許、曹五位諸侯,俱自盂地來會,和魯僖公共是六位,聚於一處商議。鄭文公開言,欲尊楚王為盟主,諸侯囁嚅未應。魯僖公奮然曰:「盟主須仁義布聞,人心悅服。今楚王恃兵車之眾,襲執上公,有威無德,人心疑懼。吾等與宋,俱有同盟之誼,若坐視不救,惟知奉楚,恐被天下豪傑恥笑。楚若能釋宋公之囚,終此盟好,寡人敢不惟命是聽!」眾諸侯皆曰:「魯侯之言甚善!」仲遂將這話私告於成得臣,得臣轉聞於楚王。楚王曰:「諸侯以盟主之義責寡人,寡人其可違乎?」乃於亳郊,更築盟壇,期以十二月癸丑日,歃血要神,同赦宋罪。

  約會已定。先一日,將宋公釋放,與眾諸侯相見。宋襄公且羞且憤,滿肚不樂,卻又不得不向諸侯稱謝。至日,鄭文公拉眾諸侯,敦請楚成王登壇主盟。成王執牛耳,宋魯以下,次第受歃。襄公敢怒而不敢言。事畢,諸侯各散。宋襄公訛聞公子目夷已即君位,將奔衛以避之。公子目夷遣使已到,致詞曰:「臣所以攝位者,為君守也。國固君之國,何為不入?」須臾,法駕齊備,迎襄公以歸,目夷退就臣列。胡曾先生論襄公之釋,全虧公子目夷定計,神閒氣定,全不以舊君為意;若手忙腳亂,求歸襄公,楚益視為奇貨,豈肯輕放。有詩贊云:

    金注何如瓦注奇?新君能解舊君圍。為君守位仍推位,千古賢名誦目夷。

又有詩說六位諸侯,公然媚楚求寬,明明把中國操縱之權,授之於楚,楚目中尚有中國乎?詩云:

    從來兔死自狐悲,被劫何人劫是誰?用夏媚夷全不恥,還誇釋宋得便宜。

  宋襄公志欲求伯,被楚人捉弄一場,反受大辱,怨恨之情,痛入骨髓,但恨力不能報。又怪鄭伯倡議,尊楚王為盟主,不勝其憤,正要與鄭國作對。時周襄王之十四年春三月,鄭文公如楚行朝禮,宋襄公聞之大怒,遂起傾國之兵,親討鄭罪,使上卿公子目夷輔世子王臣居守。目夷諫曰:「楚鄭方睦,宋若伐鄭,楚必救之。此行恐不能取勝,不如修德待時為上。」大司馬公孫固亦諫。襄公怒曰:「司馬不願行,寡人將獨往!」固不敢復言,遂出師伐鄭。襄公自將中軍,公孫固為副,大夫樂僕伊、華秀老、公子蕩、向訾守等皆從行。諜人報知鄭文公。文公大驚,急遣人告急於楚。楚成王曰:「鄭事我如父,宜亟救之。」成得臣進曰:「救鄭不如伐宋。」楚成王曰:「何故?」得臣對曰:「宋公被執,國人已破膽矣。今復不自量,以大兵伐鄭,其國必虛,乘虛而擣之,其國必懼,此不待戰而知勝負者也。若宋還而自救,彼亦勞矣。以逸制勞,安往而不得志耶?」楚王以為然。即命得臣為大將,鬥勃副之,興兵伐宋。宋襄公正與鄭相持,得了楚兵之信,兼程而歸,列營於泓水之南以拒楚。成得臣使人下戰書。公孫固謂襄公曰:「楚師之來,為救鄭也。吾以釋鄭謝楚,楚必歸。不可與戰。」襄公曰:「昔齊桓公興兵伐楚,今楚來伐而不與戰,何以繼桓公之業乎?」公孫固又曰:「臣聞『一姓不再興』。天之棄商久矣,君欲興之,得乎?且吾之甲不如楚堅,兵不如楚利,人不如楚強。宋人畏楚如畏蛇蝎,君何恃以勝楚?」襄公曰:「楚兵甲有餘,仁義不足。寡人兵甲不足,仁義有餘。昔武王虎賁三千,而勝殷億萬之眾,惟仁義也。以有道之君,而避無道之臣,寡人雖生不如死矣。」乃批戰書之尾,約以十一月朔日,交戰於泓陽。命建大旗一面於輅車,旗上寫「仁義」二字。公孫固暗暗叫苦,私謂樂僕伊曰:「戰主殺而言仁義,吾不知君之仁義何在也?天奪君魄矣,竊為危之!吾等必戒慎其事,毋致喪國足矣。」至期,公孫固未雞鳴而起,請於襄公,嚴陣以待。

  且說楚將成得臣屯兵於泓水之北,鬥勃請:「五鼓濟師,防宋人先布陣以扼我。」得臣笑曰:「宋公專務迂闊,全不知兵。吾早濟早戰,晚濟晚戰,何所懼哉?」天明,甲乘始陸續渡水。公孫固請於襄公曰:「楚兵天明始渡,其意甚輕。我今乘其半渡,突前擊之,是吾以全軍而制楚之半也。若令皆濟,楚眾我寡,恐不敵,奈何?」襄公指大旗曰:「汝見『仁義』二字否?寡人堂堂之陣,豈有半濟而擊之理?」公孫固又暗暗叫苦。須臾,楚兵盡濟。成得臣服瓊弁,結玉纓,繡袍軟甲,腰掛彫弓,手執長鞭,指揮軍士,東西布陣,氣宇昂昂,旁若無人。公孫固又請於襄公曰:「楚方布陣,尚未成列,急鼓之必亂。」襄公唾其面曰:「咄!汝貪一擊之利,不顧萬世之仁義耶?寡人堂堂之陣,豈有未成列而鼓之之理?」公孫固又暗暗叫苦。楚兵陣勢已成,人強馬壯,漫山遍野,宋兵皆有懼色。襄公使軍中發鼓,楚軍中亦發鼓。襄公自挺長戈,帶著公子蕩向訾守二將,及門官之眾,催車直沖楚陣。得臣見來勢凶猛,暗傳號令,開了陣門,只放襄公一隊車騎進來。公孫固隨後趕上護駕,襄公已殺入陣內去了。只見一員上將擋住陣門,口口聲聲叫道:「有本事的快來決戰!」那員將乃鬥勃也。公孫固大怒,挺戟直刺鬥勃,勃即舉刀相迎。兩下交戰,未及二十合,宋將樂僕伊引軍來到,鬥勃微有著忙之意。恰好陣中又沖出一員上將蔿氏呂臣,接住樂僕伊廝殺。公孫固乘忙,覷個方便,撥開刀頭,馳入楚軍。鬥勃提刀來趕,宋將華秀老又到,牽住鬥勃,兩對兒在陣前廝殺。公孫固在楚陣中,左沖右突,良久,望見東北角上甲士如林,圍裹甚緊,疾驅赴之。正遇宋將向訾守,流血被面,急呼曰:「司馬可速來救主!」公孫固隨著訾守,殺入重圍,只見門官之眾,一個個身帶重傷,兀自與楚軍死戰不退。原來襄公待下人極有恩,所以門官皆盡死力。楚軍見公孫固英勇,稍稍退卻。公孫固上前看時,公子蕩要害被傷,臥於車下,「仁義」大旗,已被楚軍奪去了。襄公身被數創,右股中箭,射斷膝筋,不能起立。公子蕩見公孫固到來,張目曰:「司馬好扶主公,吾死於此矣!」言訖而絕。公孫固感傷不已。扶襄公於自己車上,以身蔽之,奮勇殺出。向訾守為後殿,門官等一路擁衛,且戰且走。比及脫離楚陣,門官之眾,無一存者。宋之甲車,十喪八九。樂僕伊華秀老見宋公已離虎穴,各自逃回。成得臣乘勝追之,宋軍大敗。輜重器械,委棄殆盡。公孫固同襄公連夜奔回。宋兵死者甚眾,其父母妻子,皆相訕於朝外,怨襄公不聽司馬之言,以致於敗。襄公聞之,嘆曰:「君子不重傷,不擒二毛。寡人將以仁義行師,豈效此乘危扼險之舉哉?」舉國無不譏笑。後人相傳,以為宋襄公行仁義,失眾而亡,正指戰泓之事。髯翁有詩嘆云:

    不恤滕鄫恤楚兵,寧甘傷股博虛名。宋襄若可稱仁義,盜跖文王兩不明。

  楚兵大獲全勝,復渡泓水,奏凱而還。方出宋界,哨馬報「楚王親率大軍接應,見屯柯澤。」得臣即於柯澤謁見楚王獻捷。楚成王曰:「明日鄭君將率其夫人,至此勞軍,當大陳俘馘以誇示之。」原來鄭文公的夫人羋氏,正是楚成王之妹,是為文羋,以兄妹之親,駕了輜軿,隨鄭文公至於柯澤,相會楚王。楚王示以俘獲之盛。鄭文公夫婦稱賀,大出金帛,犒賞三軍。鄭文公敦請楚王來日赴宴。次早,鄭文公親自出郭,邀楚王進城。設享於太廟之中,行九獻禮,比於天子。食品數百,外加籩豆六器,宴享之侈,列國所未有也。文羋所生二女,曰伯羋叔羋,未嫁在室。文羋又率之以甥禮見舅,楚王大喜。鄭文公同妻女更番進壽,自午至戌,吃得楚王酩酊大醉。楚王謂文羋曰:「寡人領情過厚,已踰量矣!妹與二甥,送我一程何如?」文羋曰:「如命。」鄭文公送楚王出城,先別。文羋及二女,與楚王並駕而行,直至軍營。原來楚王看上了二甥美貌,是夜拉入寢室,遂成枕席之歡。文羋徬徨於帳中,一夜不寐,然畏楚王之威,不敢出聲。(以舅納甥,真禽獸也!)次日,楚王將軍獲之半,贈於文羋,載其二女以歸,納之後宮。鄭大夫叔詹嘆曰:「楚王其不得令終乎?享以成禮,禮而無別,是不終也。」

  且不說楚宋之事。再表晉公子重耳,自周襄王八年適齊,至襄王十四年,前後留齊共七年了。遭桓公之變,諸子爭立,國內大亂,及至孝公嗣位,又反先人之所為,附楚仇宋,紛紛多事,諸侯多與齊不睦,趙衰等私議曰:「吾等適齊,謂伯主之力,可借以圖復也。今嗣君失業,諸侯皆叛,此其不能為公子謀,亦明矣。不如更適他國,別作良圖。」乃相與見公子,欲言其事。公子重耳溺愛齊姜,朝夕歡宴,不問外事。眾豪傑伺候十日,尚不能見。魏犨怒曰:「吾等以公子有為,故不憚勞苦,執鞭從遊。今留齊七載,偷安惰志,日月如流,吾等十日不能一見,安能成其大事哉?」狐偃曰:「此非聚談之處,諸君都隨我來。」乃共出東門外里許,其地名曰桑陰。一望都是老桑,綠蔭重重,日色不至。趙衰等九位豪傑,打一圈兒席地而坐。趙衰曰:「子犯計將安出?」狐偃曰:「公子之行,在我而已。我等商議停妥,預備行裝,一等公子出來,只說邀他郊外打獵,出了齊城,大家齊必劫他上路便了。但不知此行,得力在於何國?」趙衰曰:「宋方圖伯,且其君好名之人,盍往投之。如不得志,更適秦楚,必有遇焉。」狐偃曰:「吾與公孫司馬有舊,且看如何?」眾人商議許久方散。只道幽僻之處,無人知覺,卻不道「若要不聞,除非莫說,若要不知,除非莫作。」其時姜氏的婢妾十餘人,正在樹上採桑喂蠶,見眾人環坐議事,停手而聽之,盡得其語,回宮時,如此恁般,都述於姜氏知道。姜氏喝道:「那有此話,不得亂道!」乃命蠶妾十餘人,幽之一室,至夜半盡殺之,以滅其口。蹴公子重耳起,告之曰:「從者將以公子更適他國,有蠶妾聞其謀,吾恐洩漏其機,或有阻當,今已除卻矣。公子宜早定行計。」重耳曰:「人生安樂,誰知其他。吾將老此,誓不他往。」姜氏曰:「自公子出亡以來,晉國未有寧歲。夷吾無道,兵敗身辱,國人不悅,鄰國不親,此天所以待公子也。公子此行,必得晉國,萬勿遲疑!」重耳迷戀姜氏,猶弗肯。次早,趙衰、狐偃、臼季、魏犨四人,立宮門之外,傳語:「請公子郊外射獵!」重耳尚高臥未起,使宮人報曰:「公子偶有微恙,尚未梳櫛,不能往也。」齊姜聞言,急使人單召狐偃入宮。姜氏屏去左右,問其來意。狐偃曰:「公子向在翟國,無日不馳車驟馬,伐狐擊兔。今在齊,久不出獵,恐其四肢懶惰,故來相請,別無他意。」姜氏微笑曰:「此番出獵,非宋即秦楚耶?」狐偃大驚曰:「一獵安得如此之遠?」姜氏曰:「汝等欲劫公子逃歸,吾已盡知,不得諱也。吾夜來亦曾苦勸公子,奈彼執意不從。今晚吾當設宴,灌醉公子,汝等以車夜載出城,事必諧矣。」狐偃頓首曰:「夫人割房闈之愛,以成公子之名,賢德千古罕有!」狐偃辭出,與趙衰等說知其事。凡車馬人眾鞭刀糗糒之類,收拾一一完備,趙衰狐毛等先押往郊外停泊。只留狐偃、魏犨、顛頡三人,將小車二乘,伏於宮門左右,專等姜氏送信,即便行事。正是:「要為天下奇男子,須歷人間萬里程。」

  是晚,姜氏置酒宮中,與公子把盞。重耳曰:「此酒為何而設?」姜氏曰:「知公子有四方之志,特具一杯餞行耳。」重耳曰:「人生如白駒過隙,苟可適志,何必他求?」姜氏曰:「縱欲懷安,非丈夫之事也。從者乃忠謀,子必從之!」重耳勃然變色,擱杯不飲。姜氏曰:「子真不欲行乎?抑誑妾也?」重耳曰:「吾不行。誰誑汝!」姜氏帶笑言曰:「行者,公子之志,不行者,公子之情。此酒為餞公子,今且以留公子矣。願與公子盡歡可乎?」重耳大喜,夫婦交酢,更使侍女歌舞進觴。重耳已不勝飲,再四強之,不覺酪酊大醉,倒於席上。姜氏覆之以衾,使人召狐偃。狐偃知公子已醉,急引魏犨顛頡二人入宮,和衾連席,抬出宮中。先用重褥襯貼,安頓車上停當。狐偃拜辭姜氏,姜氏不覺淚流。有詞為證:

    公子貪歡樂,佳人慕遠行;要成鴻鵠志,生割鳳鸞情。

  狐偃等催趲小車二乘,趕黃昏離了齊城,與趙衰等合做一處,連夜驅馳。約行五六十里,但聞得雞聲四起,東方微白。重耳方纔在車兒上翻身,喚宮人取水解渴。時狐偃執轡在傍,對曰:「要水須待天明。」重耳自覺搖動不安,曰:「可扶我下牀。」狐偃曰:「非牀也,車也。」重耳張目曰:「汝為誰?」對曰:「狐偃。」重耳心下恍然,知為偃等所算。推衾而起,大罵子犯:「汝等如何不通知我,將我出城,意欲何為?」狐偃曰:「將以晉國奉公子也。」重耳曰:「未得晉,先失齊,吾不願行!」狐偃誑曰:「離齊已百里矣。齊侯知公子之逃,必發兵來追,不可復也。」重耳勃然發怒,見魏犨執戈侍衛,乃奪其戈以刺狐偃。不知生死如何,且看下回分解。

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