東周列國志第四十回 先軫、詭謀をもって子玉を激する/晋と楚、城濮で大いに兵を交える (先軫詭謀激子玉 晉楚城濮大交兵)

魏犨の忍耐と顛頡の処刑

  • さて、趙衰は晋侯の密かな指図を受け、車に乗って魏犨を見舞いに行った。この時、魏犨は胸の傷が重く、床に臥せっていたが、「来たのは何人か」と尋ねた。左右の者は「趙司馬お一人だけです」と答えた。
  • 魏犨は言った。「これは私の生死を探り、それによって私に法を行おうというのだろう。」そこで左右に絹布を取らせ、「私のために胸を巻け。使者に会わねばならぬ」と命じた。左右の者は「将軍は重病です、軽々しく動いてはなりません」と言ったが、魏犨は大喝した。「病で死にそうというほどでもない、あれこれ言うな。」そして普段通りに身支度を整えて出た。
  • 趙衰は尋ねた。「将軍がご病気と聞いたが、それでも起きられるか。主公が衰に将軍のお加減をお尋ねするよう命じられた。」
  • 魏犨は言った。「君命がここに至った以上、あえて敬わないわけにはいかない。それゆえ無理に胸を巻いてあなたにお会いした。犨は自分に罪があり死に値することを承知している。もし万一赦されるなら、余生をもって君父の恩に報いたく思う、あえて安逸を貪ることなどできようか。」そう言って三度飛び跳ね、三度屈んで跳んで見せた。
  • 趙衰は言った。「将軍、お大事に。衰は主公にこのことを申し上げよう。」そこで文公に復命し、言った。「魏犨は傷を負っているとはいえ、なお飛び跳ねることができ、しかも臣としての礼を失わず、恩に報いて力を尽くすことを忘れておりません。君がもし彼を赦されれば、後に必ずその死力を得られましょう。」
  • 文公は言った。「法を貫き衆を戒めるに足りるなら、寡人もどうして多く殺すことを楽しもうか。」
  • ほどなく荀林父が顛頡を捕らえて連れて来た。文公は罵って言った。「お前は僖大夫の家を焼いたが、どういうつもりだ。」
  • 顛頡は言った。「介子推は股肉を割いて君に食べさせても、焼死の目に遭いました。まして飯のもてなし程度のことでどうだというのですか。私はただ僖負羈を介山の廟に合祀してやろうとしただけです。」
  • 文公は大いに怒って言った。「介子推は禄を逃れて仕えなかった。寡人と何の関わりがあろうか。」そこで趙衰に問うた。「顛頡が主謀して放火し、命令に背いて勝手に刑を行った。どのような罪に当たるか。」趙衰は答えた。「令によれば斬首に当たります。」
  • 文公は軍正に刑を執行するよう命じた。刀斧の役人は顛頡を陣営の門の外に引き出して斬った。その首をもって僖氏の家で負羈を祭らせ、その首を北門に懸けて号令した。「今後、寡人の令に背く者があれば、これを見よ。」
  • 文公はまた趙衰に問うた。「魏犨は顛頡と行動を共にしながら諫止できなかった。どのような罪に当たるか。」趙衰は答えた。「職を革め、功をもって罪を贖わせるべきです。」
  • 文公はそこで魏犨の右戎の職を革め、舟之僑にこれを代えさせた。
  • 将士は皆互いに顔を見合わせて言った。「顛・魏の二将は十九年の亡命随行の大功がありながら、一度君命に背いただけで、あるいは誅され、あるいは職を革められた。まして他の者はなおさらだ。国法に私はない、それぞれ慎むべきである。」これより三軍は粛然として畏れを知った。史官に詩がある。
  • (詩:乱れた国は法を厳しく用いることにかかっているが、私的な労と公の議論の両立は難しい。命令に背いたからには、功をもってしても罪は贖い難い、どうしてわずかな飯一夕のためであろうか、という趣旨)

楚成王の宋包囲・衛救援と講和の判断

  • 話は二つに分かれる。さて楚の成王は宋を討ち、緡邑を陥落させ、まっすぐ睢陽に至り、四方に城を取り巻く長い包囲の塁を築き、宋が困窮するのを待って降伏を迫ろうとしていた。突然、「衛国の使者孫炎が急を告げに来ました」との報告が入った。
  • 楚王が召して事情を尋ねると、孫炎は晋が五鹿を取り、衛君が襄牛に出て居ることを、詳しく述べた。「救援がもし少しでも遅れれば、楚丘は守り切れません。」
  • 楚王は言った。「我が舅(衛侯)が困窮している以上、救わないわけにはいかない。」そこで申・息の二邑の兵を分け、元帥の成得臣と鬥越椒・鬥勃・宛春ら一団の将佐を留めて、諸侯の軍とともに宋を包囲させ続けさせた。自らは蒍呂臣・鬥宜申らを率い、中軍と両広(親衛軍)を統率して、自ら衛の救援に赴いた。
  • 四路の諸侯もまた自国の事情を懸念し、それぞれ辞して帰り、ただその将だけを留めて兵を統率させた。陳の将轅選、蔡の将公子印、鄭の将石癸、許の将百疇は、皆得臣の指図に従った。
  • さて楚王は半途まで行った時、晋軍がすでに曹国に向かっていると聞き、まさに曹の救援を議していたところ、「晋兵はすでに曹を破り、その君を捕らえました」との報告が入った。
  • 楚王は大いに驚いて言った。「晋の用兵は、何とこれほど迅速なのか。」そこで軍を申城に駐屯させ、人を穀に遣わして公子雍・易牙らを呼び戻させ、穀の地はそのまま斉に返し、申公叔侯に斉と講和させ、戍兵を撤収して帰らせた。
  • また人を宋に遣わし、成得臣の軍を呼び戻すこととし、戒めて諭して言った。「晋侯は国外に十九年もいて、年は六十を超えたが、果たして晋国を得た。あらゆる艱難を嘗め尽くし、民の情に通じている。これはおそらく天が彼に寿命を貸し与え、晋国の業を大いに盛んにさせようとしているのだ。楚が敵う相手ではない。譲るに越したことはない。」
  • 使命は穀に届き、申公叔侯は穀を斉に返して好誼を修め、兵を引き上げて楚に帰った。
  • ただ成得臣だけは自らの才を恃み、憤懣やるかたなく、諸侯に向かって言った。「宋の城は今にも落ちようとしているのに、なぜ去るのか。」鬥越椒もこれに同調した。得臣は使者を送り返し、楚王に伝えさせた。「しばらく宋を破るのをお待ちください、勝利を奏して帰ります。もし晋軍に遭遇すれば、一戦を決したく存じます。勝てなければ、甘んじて軍法に服します。」
  • 楚王は子文を召して問うた。「私は子玉を呼び戻そうとしたが、子玉は戦いを請うている。卿はどう考えるか。」
  • 子文は言った。「晋の宋救援は、覇を図る志にあります。しかし晋が覇を成すことは、楚の利にはなりません。晋に抗し得るのはただ楚のみです。楚がもし晋を避ければ、晋はそのまま覇を成すでしょう。それに曹・衛は我が国の同盟国です。楚が晋を避けると見れば、必ず懼れて晋に付くでしょう。しばらく持久させ、それによって曹・衛の心を固めるのも、また良いではありませんか。王はただ子玉に軽々しく晋と戦わないよう戒め、もし講和して退けるなら、なお南北の均衡を失わずに済みましょう。」
  • 楚王はその言葉に従い、越椒に得臣が軽々しく戦わぬよう、和すべきなら和すよう戒めさせた。
  • 成得臣は越椒の復命を聞きながらも、なお喜んですぐには兵を引き上げず、宋への攻撃をますます激しくし、昼夜休むことなく続けた。

宋の急使と晋の先軫の献策

  • 宋の成公は当初、公孫固から晋侯が曹・衛を討って宋の囲みを解くとの報告を得ていたので、力を尽くして固守していた。しかし楚成王が兵の半分を分けて衛を救援に向かわせると、得臣の包囲はますます激しくなり、心はますます動揺した。
  • 大夫の門尹般が進み出て言った。「晋は衛救援の軍がすでに出発したことは知っていても、宋を囲む軍がまだ退いていないことは知らないかもしれません。私は死を冒して城を出て、再び晋君に会い、救援を乞いたく存じます。」
  • 宋の成公は言った。「人に助けを求めるのがこれで二度目となる。どうして空手で行けようか。」そこで庫蔵の中の宝玉重器の数を記した帳簿を作り、晋侯に献じて出兵を求め、楚兵が引くのを待って、その帳簿通りに納めることとした。
  • 門尹般はさらにもう一人の助手を求め、宋公は華秀老を同行させた。二人は宋公に辞して、機を見て縄で城壁を伝い降り、敵の陣営をこっそり通り抜け、晋軍がどこにいるかを尋ねながら道を進み、まっすぐ軍前に赴いて急を告げた。
  • 門尹般・華秀老の二人は晋侯に会い、涙ながらに言った。「わが国は滅亡が今にも迫っております。わが君はこの粗末な祖廟の祭器をもって左右に納めることを願っております。どうかお憐れみください。」
  • 文公は先軫に言った。「宋のことは急を告げている。もし救援しなければ、宋を失うことになる。もし救援すれば、必ず楚と戦わねばならない。郤縠はかつて寡人のためにこれを策し、斉・秦の助けを合わせなければ不可能だと言った。今、楚は穀の地を斉に返し、斉と好誼を通じている。秦もまた楚との間に仲違いがない。両国とも協力を求めることを承知しないだろう、どうしたものか。」
  • 先軫は答えて言った。「私に一計がございます。斉・秦をして自ら楚と戦わせることができます。」文公は喜んで「卿にはどのような妙計があって、斉・秦をして自ら楚と戦わせることができるのか」と尋ねた。
  • 先軫は答えて言った。「宋が我らに賄賂を贈ったのは、実に手厚いものです。賄賂を受けて救援すれば、君はどのような義を通すことになりましょうか。むしろこれを辞退しましょう。宋にその晋への賄賂の品を、斉・秦に分けて贈らせ、この二国から楚に取り成しを頼み、囲みを解くよう乞わせるのです。二国は自らその力で楚から解いてもらえると思い、必ず使者を楚に遣わすでしょう。楚がもし従わなければ、斉・秦との間に隙ができます。」
  • 文公は言った。「もし請うたことが聞き入れられれば、斉・秦は宋を楚に委ねることになり、我らに何の利があろうか。」
  • 先軫は答えて言った。「私にはさらに一計がございます。楚が必ず斉・秦の請いに従わないようにできます。」文公は「卿にはさらにどのような計があって、楚が必ず斉・秦の請いに従わぬようにできるのか」と尋ねた。
  • 先軫は言った。「曹・衛は楚が愛する国であり、宋は楚が嫌う国です。私たちはすでに衛侯を追い、曹伯を捕らえております。この二国の土地は、我らの掌中にあり、宋と境を接しております。もしその田土を割いて宋の境に加えれば、楚の宋への恨みはますます深まりましょう。斉・秦がどんなに頼んでも、聞き入れるでしょうか。斉・秦は宋を憐れみ楚に怒り、たとえ晋と結ぶことを望まなくとも、そうせざるを得なくなりましょう。」
  • 文公は手を打って賛意を示した。そこで門尹般に、宝玉重器の数を二つの帳簿に分けさせ、斉・秦の二国にそれぞれ転献させ、門尹般は秦へ、華秀老は斉へ赴かせ、同じような話をするよう約束させ、会見の際にはとりわけ哀切に懇願するよう申し含めた。

斉・秦の使者派遣と成得臣の拒絶

  • 秀老は斉に至り、昭公に謁見して言った。「晋と楚がまさに互いに憎み合っております。この難は貴国(斉)でなければ解けません。もし貴国のおかげで社稷を保てるなら、先朝の重器も惜しまず差し上げるばかりか、年々好誼を修め、子孫の代までも間を置かぬことを願っております。」
  • 斉の昭公は「今、楚君はどこにいるのか」と尋ねた。華秀老は言った。「楚王もまた囲みを解こうと思っており、すでに申に軍を退いております。ただ楚の令尹成得臣は新たに楚の政を得たばかりで、わが国は近く落ちると称し、功を貪って退こうとしません。それゆえ貴国に憐れみを乞うているのです。」
  • 昭公は言った。「楚王は先日我が穀邑を取ったが、近ごろまたそれを我が国に返し、好誼を結んで退いた。これは功を貪る心ではない。ただ令尹成得臣が囲みを解こうとしないというなら、寡人は宋のために心を尽くして頼んでみよう。」そこで崔夭を使者として、まっすぐ宋の地に赴かせ、得臣に会って宋のために解放を求めさせた。
  • 門尹般は秦にも到着し、華秀老と同じように述べた。秦穆公もまた公子縶を使者として遣わし、楚の陣営で得臣に取り成しを求めさせた。斉と秦は互いに相談することなく、それぞれ独自に使者を遣わしたのであった。
  • 門尹般と華秀老はいずれも晋軍に戻って復命した。文公は彼らに言った。「寡人はすでに曹・衛を滅ぼしたが、宋に近いその田土は、自分だけのものとするつもりはない。」そこで狐偃に門尹般を伴わせて衛の田を接収させ、胥臣に華秀老を伴わせて曹の田を接収させ、両国の守りの役人を皆追い立てた。
  • 崔夭と公子縶は、ちょうど成得臣の陣中で宋のために講和を交渉していたが、そこへ追い立てられた守りの役人たちが次々と訴えに来て言った。「宋の大夫、門尹般・華秀老は晋の威を借りて、本国の田土をすべて奪い取っております。」
  • 得臣は大いに怒り、斉・秦の使者に言った。「宋人はこのように曹・衛をいじめている。どうして講和を望む者と言えようか。命を承ることはできない、どうか悪しからず。」崔夭と公子縶は一同にばつの悪い思いをし、すぐさま辞して帰った。
  • 晋侯は得臣が斉・秦二国の請いを聞き入れなかったと聞き、あらかじめ人を遣わして途中で二国の使者を出迎えさせ、陣営に招き入れ、盛大な宴でもてなし、「楚将は驕り高ぶって無礼であり、まもなく晋と交戦することになる。二国からの援軍を願いたい」と告げさせた。崔夭と公子縶は命を受けて帰って行った。

宛春の講和策と晋の反間の計

  • さて得臣は皆に誓って言った。「曹・衛を復さないなら、死んでも決して軍を返さない。」楚の将、宛春が計を献じて言った。「私に一計があり、兵を煩わせることなく曹・衛の封を復せます。」得臣は「お前にはどんな計があるのか」と尋ねた。
  • 宛春は言った。「晋が衛君を追い曹伯を捕らえたのは、皆宋のためです。元帥は誠意をもって使者を晋軍に遣わし、良い言葉で説得し、晋に曹・衛の君を復させ、その田土を返させましょう。こちらは宋の囲みを解き、皆で戦をやめれば、良いことではありませんか。」
  • 得臣は「もし晋がこれを聞き入れなければどうするのか」と尋ねた。宛春は言った。「元帥はまず囲みを解くという話を宋に明らかに告げ、しばらく攻撃を緩めます。宋人は楚の禍から脱したいと、逆さ吊りにされた者が助けを望むように焦がれるでしょう。もし晋侯が承知しなければ、曹・衛の二国だけでなく、宋もまた晋を怒るでしょう。三方の恨みを集めて一晋に敵すれば、我らの勝算はいよいよ多くなります。」
  • 得臣は「誰が晋軍への使いを引き受けるか」と尋ねた。宛春は言った。「元帥がもし私にお任せくださるなら、春はあえて辞退いたしません。」得臣はそこで宋への攻撃を緩め、宛春を使者として車一台でまっすぐ晋軍に赴かせた。
  • 宛春は文公に言った。「君の外臣得臣は、再拝して君侯の麾下に申し上げます。楚が曹・衛を持つのは、晋が宋を持つのと同じでございます。君がもし衛を復し曹を封じ直されるなら、得臣もまた宋の囲みを解いて去ることを願います。互いに好誼を修め、それぞれ民衆が塗炭の苦しみを味わうのを免れましょう。」
  • 言い終わらないうちに、狐偃が傍らで歯を食いしばり目を怒らせて罵った。「子玉(得臣)は道理をわきまえないにも程がある。滅んでいない一つの宋を解放するだけで、こちらにはすでに滅んだ二国を復させようとは、随分虫のいい話ではないか。」
  • 先軫は急いで狐偃の足を踏み、宛春に言った。「曹・衛の罪は滅亡に値するものではありません、わが君もまたこれを復すつもりです。しばらく後営にお留まりください、我が君臣で相談して施行させていただきます。」欒枝は宛春を後営に案内した。
  • 狐偃は先軫に尋ねた。「子載(先軫)は本当に宛春の要求を聞き入れるつもりか。」先軫は言った。「宛春の要求は、聞き入れてはならず、聞き入れないわけにもいかない。」
  • 偃は「どういうことか」と尋ねた。軫は言った。「宛春がここに来たのは、子玉の奸計であり、徳を自分の手柄とし、恨みを晋に帰そうとするものです。聞き入れなければ、曹・衛・宋の三国を棄てたことになり、恨みは晋に帰しましょう。聞き入れれば、三国を復すことになり、徳は楚に帰しましょう。今の策としては、ひそかに曹・衛には国への復帰を許してその楚との結びつきを離間させ、さらに宛春を拘束してその怒りを煽るのが良いのです。得臣は性が剛にして躁急、必ず兵を移して我らに戦を求めてくるでしょう。これで宋の囲みは、解くことを求めずして自ずと解けます。もし子玉が自ら宋と和を通じてしまえば、我らは宋を失うことになります。」
  • 文公は言った。「子載の計は実に良い。しかし寡人は先に楚君の恩を受けている。今その使者を拘束すれば、恩に報いる道理に差し支えがあるのではないか。」
  • 欒枝は答えて言った。「楚が小国を呑み込み、大国を凌辱するのは、これはすべて中原の大恥です。君が覇を図らないならそれまでですが、覇を図ろうとされるなら、恥は君にございます。それを、わずかな小さな恩義にこだわられるおつもりですか。」
  • 文公は言った。「卿の言葉がなければ、寡人には分からなかった。」そこで欒枝に宛春を五鹿に護送させ、守将の郤歩揚に油断なく厳重に監視するよう命じた。もともとの車馬と従者は、すべて追い返し、彼らに令尹に「宛春は無礼につき、すでに監禁した。令尹を捕らえたら、一緒に誅殺する」と伝えさせた。従者たちは頭を抱えて逃げ去った。

曹・衛の絶楚と成得臣の激怒

  • 文公は宛春の一件を片付けると、人を遣わして曹の共公に告げさせた。「寡人はどうして出奔中の小さな遺恨のために、君に何かを求めようか。寡人が君に釈然としないのは、君が楚に附いているためだ。君がもし一人を遣わして楚との絶交を告げ、君が晋に与することを明らかにされるなら、君を曹に送り返すこととする。」
  • 曹の共公は釈放を急ぎ求めており、これを真実と信じ、得臣に書を送った。
  • 「孤は社稷の滅びることを恐れ、死をも免れがたく、やむを得ず晋に身を寄せて安んじることとなり、もはや貴国にお仕えすることができない。貴国がもし晋を追い払って孤に安らかな住まいを与えてくださるなら、孤にどうして二心があろうか。」
  • 文公はまた人を遣わして襄牛にいる衛の成公に会わせ、同じく国への復帰を約束した。成公は大いに喜んだ。寧俞は諫めて言った。「これは晋国の反間の計です、信じてはなりません。」成公は聞き入れず、曹伯のものと同様の書を得臣に送った。
  • 時に得臣はちょうど宛春が拘束されたとの報を聞いたばかりで、咆哮して跳び上がり、大罵した。「晋の重耳め、走っても傷つかず飢えても死なぬ老いぼれめ。かつて我が国にいた時は、私のまな板の上の肉のようなものだった。今ようやく国に帰って君となったばかりだというのに、こうまで人を欺くとは。昔から『両国が相争っても、使者には罪を及ぼさない』というものだ。どうして我が使者を捕らえたのだ。私が自ら赴いて理を説かねばならぬ。」
  • ちょうど怒りに満ちていた時、幕外から小卒が「曹・衛の二国からそれぞれ書札が元帥に届いております」と報告した。得臣は考えた。「衛侯・曹伯は流浪の中にありながら、何の書をもって私に通じてくるのか。必ず晋国の何らかの弱点を探り当てて、密かに私に知らせようとしているのだろう。これは天が私の成功を助けているのだ。」
  • 書を開いて見ると、かくかくしかじかとあって、何のことはない、晋に従って楚と絶交するという話であった。怒りの炎が胸の中に一片湧き上がり、まっすぐ三千丈も突き上がるほどで、大声で叫んだ。「この二通の書は、また老いぼれに強要されて書かされたものだ。老いぼれめ、老いぼれめ。今日はお前でなければ私が死ぬ、必ず生死を決してやる。」
  • そこで大小の三軍に命じて宋の囲みを解かせ、まず晋の重耳と対決することとした。「私が晋軍を破ってから、残った宋がどこへ逃げようか。」
  • 鬥越椒は言った。「我が王はかつて『軽々しく戦うな』と念を押しておられました。もし元帥が戦おうとされるなら、なお命を仰いで行うべきです。それに斉・秦の二国は、かつて宋のために取り成しを求めながら、元帥が従わなかったことを恨んでおり、必ず兵を遣わして晋を助けるでしょう。我が国は陳・蔡・鄭・許の助けがあるとはいえ、斉・秦の敵ではないかもしれません。必ず入朝して兵と将の増援を請い、その上で敵に当たるべきです。」
  • 得臣は言った。「では大夫に一行をお願いしよう、速やかにするのが肝要だ。」越椒は元帥の令を奉じて、まっすぐ申邑に赴き、楚王に会い、援兵を請い交戦する意向を奏上した。
  • 楚王は怒って言った。「寡人は戦うなと戒めたのに、子玉は強いて出師しようとしている。必ず勝てるという保証があるのか。」越椒は答えた。「得臣は前もって申しております。『もし勝てなければ、甘んじて軍令に服す』と。」
  • 楚王はなおも快く思わなかったが、鬥宜申に西広の兵を率いさせて赴かせた。(楚の兵は二広あり、東広は左、西広は右で、精兵はすべて東広に配されていた。ただ西広の兵、わずか千人に過ぎず、しかも精鋭ではない兵だけを分けたのは、楚王がその敗北を予期していたため、多くを発したくなかったからである。)
  • 成得臣の子、成大心は一族の兵約六百人を集め、自ら助戦を願い出た。楚王はこれを許した。鬥宜申は越椒とともに兵を率いて宋に至り、得臣は兵が少ないのを見て、ますます怒りを募らせ、大言した。「たとえ兵を増やさなくとも、私が晋に勝てないことがあろうか。」その日のうちに四路の諸侯の兵を招集し、全軍を挙げて出発した。この動きこそ、まさに先軫の謀りごとにはまったものであった。髯翁に詩がある。
  • (詩:久しく睢陽を攻めながら功を得られず、勃然と怒って諸侯の軍と戦を交えた。得臣がいくら天を衝く志を抱いていても、今朝、先軫の謀略から逃れることなどできようか、という趣旨)

三軍の配置と晋軍の後退

  • 得臣は西広の兵車、および成氏一族の兵をもって、自ら中軍を率いた。鬥宜申に申邑の軍を率いさせ、鄭・許の二路の兵と合わせて左軍とし、鬥勃に息邑の兵を率いさせ、陳・蔡の二路の兵と合わせて右軍とした。雨のように激しく風のように速く、まっすぐ晋侯の本営に迫り、三か所に分かれて陣を張った。
  • 晋文公は諸将を集めて計を問うた。先軫は言った。「もともと楚を招き寄せる謀りごとは、これを挫くことにありました。楚は斉を伐ち宋を囲んでからここまで、その軍は疲れ果てております。必ず楚と戦い、敵を逃してはなりません。」
  • 狐偃は言った。「主公はかつて楚君の前で『いつの日か中原に兵を治めることがあれば、あなたを避けて三舎(九十里)退きましょう』と言われたことがございます。今、楚と戦うのは、これは信を失うことになります。主公はもとより原の人々には信を失われなかったのに、楚君に対して信を失われるのですか。必ず楚を避けるべきです。」
  • 諸将は皆むっとして言った。「君が臣を避けるというのは、あまりに屈辱ではないか。それはならぬ、それはならぬ。」
  • 狐偃は言った。「子玉は強情で荒々しいとはいえ、楚君の恩は忘れてはならない。我らが楚を避けるのは、子玉を避けるのではない。」
  • 諸将はまた言った。「もし楚兵が追いかけて来たらどうするのか。」狐偃は言った。「我らが退けば、楚もまた退き、宋を再び囲むことはできなくなる。もし我らが退いて楚が進めば、これは臣が君に逼る形となり、非は彼にある。こちらが避けてもなお戦を免れられなければ、我が将兵に怒りの心が生まれよう。彼が驕り我らが怒れば、勝てないことがあろうか。」
  • 文公は言った。「子犯(狐偃)の言葉が正しい。」三軍にことごとく退くよう令を伝えた。晋軍は三十里退いた。軍吏が来て告げた。「すでに一舎の地を退きました。」文公は「まだだ」と言った。さらに三十里退いた。文公はなお駐軍を許さなかった。まっすぐ九十里の道のりを退き、地名は城濮というところで、ちょうど三舎の距離に当たり、ようやく陣を張って馬を休ませた。
  • この時、斉の孝公は上卿国懿仲の子、国帰父を大将に任命し、崔夭を副とし、秦穆公はその次子小子憖を大将に任命し、白乙丙を副として、それぞれ大軍を率いて協同で楚と戦うため、皆城濮に陣を張った。宋の囲みはすでに解かれており、宋の成公もまた司馬公孫固を晋軍に遣わして拝謝し、軍中に留まって助戦した。

楚軍の追撃と対峙、文公の夢占と戦書の往復

  • さて楚軍は晋軍が陣を移して退避したのを見て、皆喜色を浮かべた。鬥勃は言った。「晋侯が君の身で臣を避けたということは、我らにとってもまた名誉なことだ。むしろこれに乗じて軍を返そう。功がなくとも、罪は免れよう。」
  • 得臣は怒って言った。「私はすでに援兵と将を請うた。もし一戦もしなければ、どうして復命できようか。晋軍がすでに退いたということは、その気はすでに怯んでいるのだ。速やかに追撃すべきである。」進軍の令を伝えた。
  • 楚軍は九十里を進み、ちょうど晋軍と行き会った。得臣は地勢を測り、山を頼み沢を阻んで、険を拠り所として陣を構えた。
  • 晋の諸将は先軫に言った。「楚がもし険に拠るなら、攻めても抜くのは困難です。出兵してこれを争うべきです。」先軫は言った。「険に拠るのは固守するためだ。子玉は遠くから来ており、志は戦にあって守るにはない。たとえ険に拠っていても、どう使えようか。」
  • 時に文公もまた楚と戦うことに疑いを抱いていた。狐偃は奏して言った。「今日の対陣は、必ず戦わねばならぬ情勢です。戦って勝てば、諸侯の覇者となることができます。たとえ勝てなくとも、我が国は外に河、内に山があり、自ら固めるに十分です。楚が我らをどうできましょうか。」文公の意はなお決しなかった。
  • その夜、寝所に就くと、ふと夢を見た。夢の中で先年出奔した時のように、身は楚国にあり、楚王と手ずから格闘を演じたが、力が及ばず仰向けに倒れた。楚王が身の上に伏し、頭を打ち破って、口でこれを吸った。目が覚めて、大いに懼れた。
  • この時、狐偃は同じ陣幕の中で寝ていたので、文公は呼びかけて告げた。「夢の中で楚と格闘して勝てず、脳を吸われてしまった。吉兆ではないのではないか。」
  • 狐偃は祝賀して言った。「これは大吉の兆しです。君は必ず勝たれましょう。」文公は「吉はどこにあるのか」と尋ねた。
  • 狐偃は答えて言った。「君が仰向けに倒れられたのは、天のご加護を受けたということ。楚王が身の上に伏したのは、地に伏して罪を請うたということです。脳は物を柔らかくするものであり、君が脳を楚に与えられたのは、楚を和らげ従わせたということです。勝利でなくて何でしょうか。」
  • 文公の意はようやく晴れた。夜が明けたばかりの頃、軍吏が「楚国から使者が来て戦書を渡しに来ました」と報告した。文公はこれを開いて見た。その書には次のようにあった。
  • 「どうか君の兵士たちと戯(たわむれの手合わせ)をさせていただきたい。君は車の軾に寄りかかってこれをご覧あれ。得臣もまたともに目を留めさせていただく。」
  • 狐偃は言った。「戦とは危険な事なのに、これを『戯(遊び)』と言うとは、彼はその事を敬っていない。敗れないことがあろうか。」文公は欒枝に返書を作らせた。その書には次のようにある。
  • 「寡人は楚君の恩をいまだ忘れておらず、それゆえ恭しく三舎を退き、あえて大夫と対陣しないでいた。大夫がどうしても兵をご覧になりたいというなら、あえて命に従わぬことがあろうか。明朝お会いいたそう。」

開戦前夜の布陣

  • 楚の使者が去った後、文公は先軫に改めて兵車を閲兵させた。合わせて七百乗、精兵五万余人であった(斉・秦の軍勢はこの中に含まれない)。文公は有莘の旧跡の丘に登り、その軍を望み見て、若い者も年長の者も順序を守り、進退に節があるのを見て、嘆いて言った。「これは郤縠が私に遺した教えだ。これをもって敵に応じられよう。」人を遣わしてその山の木を伐らせ、戦具を備えさせた。
  • 先軫は兵将を配し、狐毛・狐偃に上軍を率いさせ、秦国の副将白乙丙とともに楚の左師を攻めさせ、鬥宜申と交戦させた。欒枝・胥臣に下軍を率いさせ、斉国の副将崔夭とともに楚の右師を攻めさせ、鬥勃と交戦させた。それぞれに計略を授けて実行させた。
  • 自らは郤溱・祁瞞とともに中軍を布陣し、成得臣と相対した。荀林父・士会にそれぞれ五千人を率いて左右の翼とし、呼応して救援する備えをさせた。
  • さらに国帰父(斉)・小子憖(秦)には、それぞれ自国の兵を率いて間道から楚軍の背後に回って伏せさせ、楚軍が敗走するのを待って、そのまま斬り込んで楚の本営を奪うよう命じた。
  • さらに魏犨の胸の傷はすでに癒えており、自ら先鋒を志願した。先軫は言った。「老将軍にはお使いいただきたい役目がございます。有莘から南へ行くと、空桑という地があり、楚の連谷の地と隣接しております。老将軍はそこに一隊の兵を率いて伏せ、楚の敗兵の帰路を断ち、楚将を捕らえていただきたいのです。」魏犨は喜んで行った。
  • 趙衰・孫伯糾・羊舌突・茅茷ら一団の文武の臣は、晋文公を有莘山上で護衛しつつ観戦した。さらに舟之僑に南河で船を整えさせ、楚軍の輜重を積み込む準備をし、時が来れば手違いのないよう命じた。
  • 翌日の夜明け、晋軍は有莘の北に陣を布き、楚軍は南に陣を布いた。両軍の三軍は、それぞれ隊列を整えた。得臣は令を伝え、「左右の二軍がまず進み、中軍がこれに続け」と命じた。

楚の左右両師の敗北(虎皮の計)

  • さて晋の下軍大夫欒枝は、楚の右師が陳・蔡を前隊に用いていることを探り知り、喜んで言った。「元帥(先軫)が密かに私に『陳・蔡は戦を怯れ、たやすく動揺して崩れる』と言っていた。まず陳・蔡を挫けば、右師は攻めずして自ずと崩れよう。」そこで白乙丙に出戦させた。
  • 陳の轅選、蔡の公子印は、鬥勃より先に功を立てようと、先を争って車を出した。まだ交戦しないうちに、晋兵は突然後退した。二将がまさに追撃しようとしたところ、対陣の門旗が開き、砲声が一発響き、胥臣が一群の車を率いて突き出て来た。その車を引く馬は、皆虎の皮を背に蒙っていた。
  • 敵の馬はこれを見て本物の虎と思い、驚愕して跳ね躍り、手綱を取る者は制御できず、車を引いて逃げ帰り、かえって鬥勃の後隊を突き崩してしまった。胥臣と白乙丙は混乱に乗じて襲いかかり、胥臣は斧をもって公子印を車の下に斬り、白乙丙は矢をもって鬥勃の頬を射た。
  • 鬥勃は矢を負って逃げ、楚の右師は大敗し、死者が枕を並べるほどで、その数は計り知れなかった。
  • 欒枝は軍卒を遣わして陳・蔡の軍人に扮させ、彼らの旗号を掲げさせ、楚軍に「右師はすでに勝利しました、速やかに進軍して共に大功を成しましょう」と伝えさせた。
  • 得臣は軾に寄りかかってこれを望み見た。晋軍が北へ逃げ、砂塵が天を蔽っているのを見て、喜んで言った。「晋の下軍は果たして敗れたぞ。」急いで左師に力を尽くして前進するよう催促した。
  • 鬥宜申は対陣に高々と掲げられた大旗を見て、これを主将と判断し、精神を奮い立たせて突き進んで来た。狐偃はこれを迎え撃ち、しばらく数合戦うと、突然陣の後ろで大混乱が起こり、狐偃は轅(車)を返してすぐさま逃げ、大旗もまた後方へ退いていった。
  • 鬥宜申はただ晋軍がすでに潰走したものと思い込み、鄭・許の二将を引き連れて力の限り追撃した。突然、太鼓の音が大きく轟き、先軫・郤溱が精兵の一隊を率いて、中腹から横に突き出し、楚軍を二つに断ち切った。狐毛・狐偃は身を翻して再び戦い、両側から挟み撃ちにした。
  • 鄭・許の兵はまず自ら驚き潰走し、宜申は支えきれず、決死の覚悟で斬り開いて脱出したが、斉の将崔夭に出会い、また一戦交え、ついに車馬・武器をすべて棄て、歩卒に紛れ込み、山を這い上って逃げた。
  • そもそも晋の下軍が偽って北へ逃げ、砂塵が天を蔽っていたのは、実は欒枝が有莘山の木を切り倒し、車の後ろに引きずらせたものであった。車が走れば木も走り、自然に砂塵が舞い上がる。これで左軍を功を貪って戦を求めるよう誘い込んだのである。
  • 狐毛はまた大旗を偽って設け、人にこれを曳かせて走らせ、あたかも潰走したかのように装った。狐偃は偽って敗れ、その追撃を誘い込んだ。先軫はすでに計算しており、祁瞞に大将の旗を虚しく立てさせ、中軍を守らせて、敵がどんなに戦いを挑んでも決して応じてはならないと申し付け、自らは兵を率いて陣の後方から抜け出し、横に突撃し、まさに狐毛・狐偃の二人と挟撃し、こうして完全な勝利を得たのであった。これらはすべて先軫があらかじめ定めておいた計略であった。詩がある。
  • (詩:機を臨んでどうして堂々たる陣立てが必要だろうか、先軫の奇謀は敵しがたい。ただ虎皮を馬に蒙らせる計を用いただけで、楚軍の左右はことごとく敗走した、という趣旨)

楚中軍の動向と祁瞞の失態

  • さて楚の元帥成得臣は勇を恃んで戦を求めていたとはいえ、楚王が二度にわたって戒めた言葉を思い、実のところ慎重であった。左右の二軍がすでに戦って利を得、晋兵を追撃していると伝え聞き、そこで中軍に太鼓を打たせ、その子の小将軍成大心を出陣させた。
  • 祁瞞は先に先軫の戒めを守り、陣門を堅く守って、まったく相手にしなかった。楚の中軍がさらに二度目の太鼓を鳴らすと、成大心は画戟を手に、陣前で武を誇示して見せた。
  • 祁瞞は堪えきれず、人を遣わして様子を探らせた。「十五歳ほどの子供です」との報告であった。祁瞞は言った。「思うに童子に何ほどの腕前があろうか。手を出せばたやすく捕らえられよう、これも我が中軍の功の一つとしよう。」そして「太鼓を打て」と命じた。
  • 戦鼓が一度鳴ると、陣門が開き、祁瞞は刀を舞わせて出て行き、小将軍がこれを迎え撃った。約二十余合戦ったが、勝敗はつかなかった。
  • 鬥越椒は門旗の下にいて、小将軍が勝てないでいるのを見て、急いで車を駆って出、弓を引き矢をつがえ、狙いを定めて、一矢で正確に祁瞞の兜の房飾りに命中させた。
  • 祁瞞は驚き、本陣に退こうとしたが、大軍を動揺させることを恐れ、やむを得ず陣の外を回って走った。鬥越椒は大声で叫んだ。「この敗将は追う必要はない、中軍に殺り込んで先軫を捕らえよ。」勝敗はどうなるか、次回を見よ。
原文(底本)
話說趙衰奉了晉侯密旨,乘車來看魏犨。時魏犨胸脯傷重,病臥於牀,問:「來者是幾人?」左右曰:「止趙司馬單車至此。」魏犨曰:「此探吾死生,欲以我行法耳!」乃命左右取疋帛:「為我束胸,我當出見使者。」左右曰:「將軍病甚,不宜輕動。」魏犨大喝曰:「病不至死,決勿多言!」如常裝束而出。趙衰問曰:「聞將軍病,猶能起乎?主公使衰問子所苦。」魏犨曰:「君命至此,不敢不敬,故勉強束胸以見吾子。犨自知有罪當死;萬一獲赦,尚將以餘息報君父之恩,其敢自逸!」於是距躍者三,曲踊者三。趙衰曰:「將軍保重,衰當為主公言之。」乃復命於文公,言:「魏犨雖傷,尚能躍踊,且不失臣禮,不忘報效。君若赦之,後必得其死力。」文公曰:「苟足以申法而警眾,寡人亦何樂乎多殺?」須臾,荀林父拘顛頡至,文公罵曰:「汝焚僖大夫之家何意?」顛頡曰:「介子推割股啖君,亦遭焚死,況盤飱乎?臣欲使僖負羈附於介山之廟也!」文公大怒曰:「介子推逃祿不仕,何與寡人?」乃問趙衰曰:「顛頡主謀放火,違命擅刑,合當何罪?」趙衰應曰:「如令當斬首!」文公喝命軍正用刑。刀斧手將顛頡擁出轅門斬之。命以其首祭負羈於僖氏之家,懸其首於北門,號令曰:「今後有違寡人之令者,視此!」文公又問趙衰曰:「魏犨與顛頡同行,不能諫阻,合當何罪?」趙衰應曰:「當革職,使立功贖罪。」文公乃革魏犨右戎之職,以舟之僑代之。將士皆相顧曰:「顛魏二將,有十九年從亡大功,一違君命,或誅或革,況他人乎?國法無私,各宜謹慎!」自此三軍肅然知畏。史官有詩云:

    亂國全憑用法嚴,私勞公議兩難兼。祇因違命功難贖,豈為盤飱一夕淹?

  話分兩頭。卻說楚成王伐宋,克了緡邑,直至睢陽,四面築起長圍,欲俟其困,迫而降之。忽報:「衛國遣使臣孫炎告急。」楚王召問其事,孫炎將晉取五鹿,及衛君出居襄牛之事,備細訴說:「如救兵稍遲,楚丘不守。」楚王曰:「吾舅受困,不得不救。」乃分申息二邑之兵,留元帥成得臣及鬥越椒、鬥勃、宛春一班將佐,同各路諸侯圍宋。自統蒍呂臣鬥宜申等,率中軍兩廣,親往救衛。四路諸侯,亦慮本國有事,各各辭回,止留其將統兵。陳將轅選,蔡將公子印,鄭將石癸,許將百疇,俱聽得臣調度。單說楚王行至半途,聞晉兵已移向曹國,正議救曹。未幾,報至:「晉兵已破曹,執其君。」楚王大驚曰:「晉之用兵,何神速乃爾?」遂駐軍於申城,遣人往穀,取回公子雍及易牙等,以穀地仍復歸齊,使申公叔侯與齊講和,撤戍而還。又遣人往宋,取回成得臣之師,且戒諭之曰:「晉侯在外十九年矣,年踰六旬,而果得晉國,備嘗險阻,通達民情,殆天假之年,以昌大晉國之業。非楚所能敵也,不如讓之。」使命至穀,申公叔侯致穀修好於齊,班師回楚。惟成得臣自恃其才,憤憤不平,謂眾諸侯曰:「宋城旦暮且破,奈何去之?」鬥越椒亦以為然。得臣使回見楚王:「願少待破宋,奏凱而回。如遇晉師,請決一死戰;若不能取勝,甘伏軍法。」楚王召子文問曰:「孤欲召子玉還,而子玉請戰,於卿何如?」子文曰:「晉之救宋,志在圖伯;然晉之伯,非楚利也。能與晉抗者惟楚,楚若避晉,則晉遂伯矣。且曹衛我之與國。見楚避晉,必懼而附晉。姑令相持,以堅曹衛之心,不亦可乎?王但戒子玉勿輕與晉戰,若講和而退,猶不失南北之局也。」楚王如其言,吩咐越椒,戒得臣勿輕戰,可和則和。成得臣聞越椒回復之話,且喜不即班師,攻宋愈急,晝夜不息。

  宋成公初時,得公孫固報言,晉侯將伐曹衛以解宋圍,乃悉力固守。及楚成王分兵一半,救衛去了,得臣之圍愈急,心下轉慌。大夫門尹般進曰:「晉知救衛之師已行,未知圍宋之師未退也。臣請冒死出城,再見晉君,乞其救援。」宋成公曰:「求人至再,豈可以空言往乎?」乃籍庫藏中寶玉重器之數,造成冊籍,獻於晉侯,以求進兵,只等楚兵寧靜,便照冊輸納。門尹般再要一人幫行,宋公使華秀老同之。二人辭了宋公,覷個方便,縋城而出。偷過敵寨,一路挨訪晉軍,到於何處,逕奔軍前告急。門尹般華秀老二人見了晉侯,涕泣而言:「敞邑亡在旦夕,寡君惟是不腆宗器,願納左右,乞賜哀憐!」文公謂先軫曰:「宋事急矣!若不往救,是無宋也。若往救,必須戰楚。郤縠曾為寡人策之,非合齊秦為助不可。今楚歸穀地於齊,與之通好,秦楚又無隙,未肯合謀,將若之何?」先軫對曰:「臣有一策,能使齊秦自來戰楚。」文公欣然,問:「卿有何妙計,使齊秦自來戰楚?」先軫對曰:「宋之賂我,可謂厚矣!受賂而救,君何義焉?不如辭之。使宋以賂晉之物,分賂齊秦,求二國向楚宛轉,乞其解圍。二國自謂力能得之於楚,必遣使至楚。楚若不從,則齊秦之隙成矣。」文公曰:「倘請之而從,齊秦將以宋奉楚,與我何利焉?」先軫對曰:「臣又有一策,能使楚必不從齊秦之請。」文公曰:「卿又有何計,使楚必不從齊秦之請?」先軫曰:「曹衛,楚所愛也;宋,楚所嫉也。我已逐衛侯,執曹伯矣。二國土地,在我掌握,與宋連界。誠割取二國田土,以界宋人,則楚之恨宋愈甚。齊秦雖請,其肯從乎?齊秦憐宋而怒楚,雖欲不與晉合,不可得也。」文公撫掌稱善。乃使門尹般以寶玉重器之數,分作二籍,轉獻齊秦二國,門尹般如秦,華秀老如齊,約定一般說話,相見之間,須要極其哀懇。

  秀老至齊,參見了昭公,言:「晉楚方惡,此難非上國不解。若因上國得保社稷,不惟先朝重器不敢愛,願年年聘好,子孫無間。」齊昭公問曰:「今楚君何在?」華秀老曰:「楚王亦肯解圍,已退師於申矣。惟楚令尹成得臣新得楚政,謂敝邑旦暮可下,貪功不退。是以乞憐於上國耳!」昭公曰:「楚王前日取我穀邑,近日復歸於我,結好而退,此無貪功之心。既令尹成得臣不肯解圍,寡人為宋曲意請之。」乃命崔夭為使,逕至宋地,往見得臣,為宋求釋。門尹般到秦,亦如華秀老之言。秦穆公亦遣公子縶為使,如楚軍與得臣討情。齊秦兩不相照,各自遣使。門尹般和華秀老俱轉到晉軍回話。文公謂之曰:「寡人已滅曹衛,其田近宋者,不敢自私。」乃命狐偃同門尹般收取衛田,命胥臣同華秀老收取曹田,把兩國守臣,盡行趕逐。崔夭公子縶,正在成得臣幕下替宋講和,恰好那些被逐的守臣,紛紛來訴,說:「宋大夫門尹般華秀老倚晉之威,將本國田土,都割據去了。」得臣大怒,謂齊秦使者曰:「宋人如此欺負曹衛,豈像個講和的?不敢奉命,休怪,休怪!」崔夭和公子縶一場沒趣,即時辭回。晉侯聞得臣不准齊秦二國之請,預遣人於中途邀迎二國使臣,到於營中,盛席款待,訴以:「楚將驕悍無禮,即日與晉交戰,望二國出兵相助。」崔夭公子縶領命去了。

  且說得臣誓於眾曰:「不復曹衛,寧死必不回軍!」楚將宛春獻策曰:「小將有一計,可以不勞兵刃,而復曹衛之封。」得臣問曰:「子有何計?」宛春曰:「晉之逐衛君,執曹伯,皆為宋也。元帥誠遣一使至晉軍,好言講解,要晉復了曹衛之君,還其田土,我這裏亦解宋圍,大家罷戰休兵,豈不為美?」得臣曰:「倘晉不見聽如何?」宛春曰:「元帥先以解圍之說,明告宋人,姑緩其攻。宋人思脫楚禍,如倒懸之望解,若晉侯不允,不惟曹衛二國怨晉,宋亦怒之。聚三怨以敵一晉,我之勝數多矣。」得臣曰:「誰人敢使晉軍?」宛春曰:「元帥若以見委,春不敢辭。」得臣乃緩宋國之攻,命宛春為使,乘單車直造晉軍,謂文公曰:「君之外臣得臣,再拜君侯麾下,楚之有曹衛,猶晉之有宋也。君若復衛封曹,得臣亦願解圍去宋,彼此修睦,各免生靈塗炭之苦。」言猶未畢,只見狐偃在旁,咬牙怒目罵道:「子玉好沒道理!你釋了一個未亡之宋,卻要我這裏復兩個已亡之國,你直恁便宜!」先軫急躡狐偃之足,謂宛春曰:「曹衛罪不至滅亡,寡君亦欲復之。且請暫住後營,容我君臣計議施行。」欒枝引宛春歸於後營。狐偃問於先軫曰:「子載真欲聽宛春之請乎?」軫曰:「宛春之請,不可聽,不可不聽。」偃曰:「何謂也?」軫曰:「宛春此來,蓋子玉奸計,欲居德於己,而歸怨於晉也。不聽,則棄三國,怨在晉矣;聽之,則復三國,德又在楚矣。為今之計,不如私許曹衛,以離其黨,再拘執宛春以激其怒,得臣性剛而躁,必移兵索戰於我,是宋圍不求解而自解也。倘子玉自與宋通和,則我遂失宋矣。」文公曰:「子載之計甚善!但寡人前受楚君之惠,今拘執其使,恐於報施之理有礙。」欒枝對曰:「楚吞噬小國,凌辱大邦,此皆中原之大恥;君不圖伯則已,如欲圖伯,恥在於君。乃懷區區之小惠乎?」文公曰:「微卿言,寡人不知也!」遂命欒枝押送宛春於五鹿,交付守將郤步揚小心看管。其原來車騎從人,盡行驅回,教他傳話令尹曰:「宛春無禮,已行囚禁,待拿得令尹,一同誅戮。」從人抱頭鼠竄而去。文公打發宛春事畢,使人告曹共公曰:「寡人豈為出亡小忿,求過於君?所以不釋然於君者,以君之附楚故也。君若遣一介告絕於楚,以明君之與晉,即當送君還曹耳。」曹共公急於求釋,信以為然,遂為書遺得臣云:

    孤懼社稷之隕,死亡不免,不得已即安於晉,不得復事上國。上國若能驅晉以為孤寧宇,孤敢有二心耶?

  文公又使人往襄牛見衛成公,亦以復國許之。成公大喜。寧俞諫曰:「此晉國反間之計,不可信之。」成公不聽,亦致書得臣,大約如曹伯之語。時得臣方聞宛春被拘之報,咆哮叫跳,大罵:「晉重耳,你是跑不傷餓不死的老賊!當初在我國中,是我刀砧上一塊肉,今纔得返國為君,輒如此欺負人!自古『兩國相爭,不罪來使。』如何將我使臣拿住?吾當親往與他講理。」正在發怒,帳外小卒報道:「曹衛二國,各有書札上達元帥。」得臣想道:「衛侯曹伯流離之際,有甚書來通我?必是打探得晉國什麼破綻,私來報我,此乃天助我成功也!」啟書看時,如此恁般,卻是從晉絕楚的話頭,氣得心頭一片無明火,直透上三千丈不止,大叫道:「這兩封書,又是老賊逼他寫的!老賊,老賊!今日不是你就是我,定要拼個死活!」吩咐大小三軍,撤了宋圍,且去尋晉重耳做對。「待我敗了晉軍,怕殘宋走往那裏去!」鬥越椒曰:「吾王曾叮嚀『不可輕戰』。若元帥要戰之時,還須稟命而行。況齊秦二國,曾為宋求情,恨元帥不從,必然遣兵助晉。我國雖有陳、蔡、鄭、許相幫,恐非齊秦之敵。必須入朝請添兵益將,方可赴敵。」得臣曰:「就煩大夫一行,以速為貴。」越椒奉元帥將令,逕到申邑,來見楚王,奏知請兵交戰之意。楚王怒曰:「寡人戒勿與戰,子玉強要出師,能保必勝乎?」越椒對曰:「得臣有言在前:『如若不勝,甘當軍令。』」楚王終不快意,乃使鬥宜申將西廣之兵而往。(楚兵二廣,東廣在左,西廣在右,凡精兵俱在東廣。止分西廣之兵,不過千人,又非精卒,乃是楚王疑其兵敗,不肯多發之意。)成得臣之子成大心,聚集宗人之兵,約六百人,自請助戰。楚王許之。鬥宜申同越椒領兵至宋,得臣看兵少,心中愈怒,大言曰:「便不添兵,難道我勝不得晉?」即日約會四路諸侯之兵,拔寨都起。這一去,正中了先軫的機謀了。髯翁有詩云:

    久困睢陽功未收,勃然一怒戰群侯;得臣縱有沖天志,怎脫今朝先軫謀!

得臣以西廣戎車,兼成氏本宗之兵,自將中軍。使鬥宜申率申邑之師,同鄭許二路兵將為左軍。使鬥勃率息邑之兵,同陳蔡二路兵將為右軍。雨驟風馳,直逼晉侯大寨,做三處屯聚。

  晉文公集諸將問計。先軫曰:「本謀致楚,欲以挫之。且楚自伐齊圍宋,以至於今,其師老矣。必戰楚,毋失敵!」狐偃曰:「主公昔日在楚君面前,曾有一言:『他日治兵中原,請避君三舍。』今遂與楚戰,是無信也。主公向不失信於原人,乃失信於楚君乎?必避楚。」諸將皆艴然曰:「以君避臣,辱甚矣!不可,不可!」狐偃曰:「子玉雖剛狠,然楚君之惠,不可忘也。吾避楚,非避子玉。」諸將又曰:「倘楚兵追至,奈何?」狐偃曰:「若我退,楚亦退,必不能復圍宋矣。如我退而楚進,則以臣逼君,其曲在彼。避而不得,人有怒心;彼驕我怒,不勝何為?」文公曰:「子犯之言是也。」傳令「三軍俱退!」晉軍退三十里,軍吏來稟曰:「已退一舍之地矣。」文公曰:「未也。」又退三十里,文公仍不許駐軍。直退到九十里之程,地名城濮,恰是三舍之遠,方教安營息馬。時齊孝公命上卿國懿仲之子國歸父為大將,崔夭副之;秦穆公使其次子小子憖為大將,白乙丙副之;各率大兵,協同晉師戰楚,俱於城濮下寨。宋圍已解,宋成公亦遣司馬公孫固如晉軍拜謝,就留軍中助戰。

  卻說楚軍見晉軍移營退避,各有喜色。鬥勃曰:「晉侯以君避臣,於我亦有榮名矣。不如借此旋師,雖無功,亦免於罪。」得臣怒曰:「吾已請添兵將,若不一戰,何以復命?晉軍既退,其氣已怯,宜疾追之!」傳令「速進!」楚軍行九十里,恰與晉軍相遇,得臣相度地勢,憑山阻澤,據險為營。晉諸將言於先軫曰:「楚若據險,攻之難拔,宜出兵爭之。」先軫曰:「夫據險以固守也。子玉遠來,志在戰而不在守。雖據險,安所用之?」時文公亦以戰楚為疑。狐偃奏曰:「今日對壘,勢在必戰。戰而勝,可以伯諸侯;即使不勝,我國外河內山,足以自固。楚其奈我何?」文公意猶未決。是夜就寢,忽得一夢,夢見如先年出亡之時,身在楚國,與楚王手搏為戲,氣力不加,仰面倒地,楚王伏於身上,擊破其腦,以口啑之。既覺,大懼。時狐偃同宿帳中,文公呼而告之,如此恁般:「夢中鬥楚不勝,被飲吾腦,恐非吉兆乎?」狐偃稱賀曰:「此大吉之兆也!君必勝矣!」文公曰:「吉在何處?」狐偃對曰:「君仰面倒地,得天相照;楚王伏於身上,乃伏地請罪也。腦所以柔物,君以腦予楚,柔服之矣,非勝而何?」文公意乃釋然;天色乍明,軍吏報:「楚國使人來下戰書。」文公啟而觀之,書云:

    請與君之士戲,君憑軾而觀之,得臣與寓目焉。

狐偃曰:「戰,危事也,而曰戲,彼不敬其事矣,能無敗乎?」文公使欒枝答其書云:

    寡人未忘楚君之惠,是以敬退三舍,不敢與大夫對壘。大夫必欲觀兵,敢不惟命!詰朝相見。

  楚使者去後,文公使先軫再閱兵車,共七百乘,精兵五萬餘人。(齊秦之眾,不在其內。)文公登有莘之墟,以望其師,見其少長有序,進退有節,嘆曰:「此郤縠我之遺教也。以此應敵可矣。」使人伐其山木,以備戰具。先軫分撥兵將,使狐毛狐偃引上軍,同秦國副將白乙丙攻楚左師,與鬥宜申交戰。使欒枝胥臣引下軍,同齊國副將崔夭,攻楚右師,與鬥勃交戰。各授計策行事。自與郤溱祁瞞中軍結陣,與成得臣相持。卻教荀林父士會,各率五千人為左右翼,准備接應。再教國歸父小子憖,各引本國之兵,從間道抄出楚軍背後埋伏,只等楚軍敗北,便殺入據其大寨。時魏犨胸疾已愈,自請為先鋒。先軫曰:「留老將軍有用處。從有莘南去,地名空桑,與楚連谷地面接壤,老將軍可引一枝兵,伏於彼處,截楚敗兵歸路,擒拿楚將。」魏犨欣然去了。趙衰、孫伯糾、羊舌突、茅茷等一班文武,保護晉文公於有莘山上觀戰。再教舟之僑於南河整頓船隻,伺候裝載楚軍輜重,臨期無誤。次日黎明,晉軍列陣於有莘之北,楚軍列陣於南,彼此三軍,各自成列。得臣傳令,教「左右二軍先進,中軍繼之。」

  且說晉下軍大夫欒枝,打探楚右師用陳蔡為前隊,喜曰:「元帥密謂我曰:『陳蔡怯戰而易動。』先挫陳蔡,則右師不攻而自潰矣。」乃使白乙丙出戰。陳轅選蔡公子印,欲在鬥勃前建功,爭先出車。未及交鋒,晉兵忽然退後。二將方欲追趕,只見對陣門旗開處,一聲砲響,胥臣領著一陣大車,沖將出來。駕車之馬,都用虎皮蒙背。敵馬見之,認為真虎,驚惶跳躑,執轡者拿把不住,牽車回走,反沖動鬥勃後隊。胥臣和白乙丙乘亂掩殺,胥臣斧劈公子印於車下,白乙丙箭射鬥勃中頰。鬥勃帶箭而逃,楚右師大敗,死者枕藉,不計其數。欒枝遣軍卒,假扮作陳蔡軍人,執著彼處旗號,往報楚軍,說:「右師已得勝,速速進兵,共成大功。」得臣憑軾望之,但見晉軍北奔,煙塵蔽天,喜曰:「晉下軍果敗矣!」急催左師並力前進。鬥宜申見對陣大旆高懸,料是主將,抖擻精神,沖殺過來。這裏狐偃迎住,略戰數合,只見陣後大亂,狐偃回轅便走,大旆亦往後退行。鬥宜申只道晉軍已潰,指引鄭許二將,儘力追逐。忽然鼓聲大震,先軫郤溱引精兵一枝,從半腰裏橫沖過來,將楚軍截做二段。狐毛狐偃翻身復戰,兩下夾攻。鄭許之兵先自驚潰,宜申支架不住,拼死命殺出,遇著齊將崔夭,又殺一陣,盡棄其車馬器械,雜於步卒之中,爬山而遁。原來晉下軍偽作北奔,煙塵蔽天,卻是欒枝砍下有莘山之木,曳於車後,車馳木走,自然刮地塵飛,哄得左軍貪功索戰。狐毛又詐設大旆,教人曳之而走,裝作奔潰之形。狐偃佯敗,誘其驅逐。先軫早已算定,咐咐祁瞞虛建大將旗,守定中軍,任他敵軍搦戰,切不可出應,自引兵從陣後抄出,橫沖過來,恰與二狐夾攻,遂獲全勝。這都是先軫預定下的計策。有詩為證:

    臨機何用陣堂堂?先軫奇謀不可當。只用虎皮蒙馬計,楚軍左右盡奔亡。

  話說楚元帥成得臣雖則恃勇求戰,想著楚王兩番教誡之語,卻也十分持重。傳聞左右二軍,俱已進戰得利,追逐晉兵;遂令中軍擊鼓,使其子小將軍成大心出陣。祁瞞先時,也守著先軫之戒,堅守陣門,全不招架。楚中軍又發第二通鼓,成大心手提畫戟,在陣前耀武揚威。祁瞞忍耐不住,使人察之,回報:「是十五歲的孩子。」祁瞞曰:「諒童子有何本事!手到拿來,也算我中軍一功。」喝教「擂鼓!」戰鼓一鳴,陣門開處,祁瞞舞刀而出,小將軍便迎住交鋒。約鬥二十餘合,不分勝敗。鬥越椒在門旗之下,見小將軍未能取勝,即忙駕車而出,拈弓搭箭,覷得較親,一箭正射中祁瞞的盔纓。祁瞞吃了一驚,欲待退回本陣,恐沖動了大軍,只得繞陣而走。鬥越椒大叫:「此敗將不須追之,可殺入中軍,擒拿先軫!」不知勝負如何,且看下回分解。

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