東周列國志第五十三回 楚の荘王、諫めを納れて陳を復す/晋の景公、師を出して鄭を救う (楚莊王納諫復陳 晉景公出師救鄭)

泄冶の諫言と死

  • さて、陳の霊公が孔寧・儀行父の二大夫とともに、夏姫から贈られた下着を身に着けたまま朝堂で戯れ語り合っていた。大夫の泄冶はこれを聞き、襟を正し笏を掲げ、身を翻して朝門に駆けつけた。
  • 孔・儀二人は日ごろから泄冶の正直さを憚っており、今日は招かれもせぬのにやってきたからには、必ず諫言があるだろうと察し、先に霊公に暇を告げて退出した。
  • 霊公は身を起こして御座を立とうとしたところ、泄冶は歩みを進めてその衣を掴み、跪いて奏上した。「臣が聞くところでは『君臣は敬を主とし、男女は別を主とする』と申します。今、主公には『周南』の教化がなく、そのために国中に節操を失った婦人を生じさせ、そのうえ君臣そろって公然と淫らな行いにふけり、互いに褒め立て合い、朝堂の上で穢らわしい言葉が聞くに堪えぬほどであり、廉恥はすっかり失われ、体統もことごとく崩れております。君臣の敬い、男女の別が、これほどまでに滅び果てているとは。敬わなければ怠り、別がなければ乱れます。怠り乱れることは、国を滅ぼす道でございます。主公よ、必ずこれをお改めください。」
  • 霊公は自ら赤面し、袖で顔を覆って言った。「卿よ、もう言うな。寡人はまさに悔いようとしていたところだ。」
  • 泄冶は朝門を辞して出た。孔・儀二人はなお門外で様子を窺っていたが、泄冶が怒り心頭に発した様子で出てくるのを見て、人混みに紛れて避けようとした。
  • 泄冶はすでに二人を見つけており、呼び出して責めて言った。「君に善事あれば、臣はこれを広めるべきであり、君に不善事あれば、臣はこれを覆い隠すべきである。今、あなたがたは自ら不善を行い、それで君を誘い込み、さらにその事を広め、士民に公然と見聞させるとは、これで何を教えるつもりか。恥ずかしくないのか。」
  • 二人は答える言葉もなく、ただ「はい、はい」と教えを受け入れた。
  • 泄冶が去った後、孔・儀二人は霊公に拝謁を求め、泄冶が君を責めた言葉を述べて言った。「主公は今後もう株林への遊行をなさいませんように。」
  • 霊公は言った。「卿ら二人はまだ行くのか。」
  • 孔・儀二人は答えた。「あれは臣として君を諫めているのであって、臣らには関係ございません。臣らは行けますが、主公は行かれてはなりません。」
  • 霊公は奮然として言った。「寡人はむしろ泄冶に罪を得ることになろうとも、この楽しみの地を捨てるつもりはない。」
  • 孔・儀二人はさらに奏上した。「主公がまた行かれるならば、泄冶の口うるさい小言に耐えかねましょう。いかがなさいますか。」
  • 霊公は言った。「卿ら二人にどのような策があって、泄冶に物を言わせぬようにできるのか。」
  • 孔寧は言った。「泄冶に物を言わせぬようにするには、口を開けなくするしかございません。」
  • 霊公は笑って言った。「あれには自分の口があるのだ。寡人がどうして開かせぬようにできようか。」
  • 儀行父は言った。「寧の言葉の意味は、臣にも分かります。人は死ねば口を閉じます。主公はどうして令を発して泄冶を殺されぬのでしょうか。そうすれば終生の楽しみは尽きることがございません。」
  • 霊公は言った。「寡人にはできぬ。」
  • 孔寧は言った。「臣が人を使ってこれを刺し殺させましょうか。」
  • 霊公はうなずいて言った。「卿の思うようにせよ。」
  • 二人は朝門を辞して出て、一つになって相談した。重い賄賂で刺客を雇い、要路に潜ませ、泄冶が朝に入るのを待って、突然襲って殺させた。国中の人々はみな陳侯の指図と思い込み、孔・儀二人の企みとは知らなかった。
  • 史臣の賛がある。(賛:陳は明徳を喪い、君臣が公然と淫らな行いをした。冠の紐をつけたまま肌着をまとい、朝堂でも株林でも恥をさらした。壮なるかな泄冶よ、ひとり正しい声を守り通した。身は死んでも名は高く、その心は諫死した關龍逢・比干にも比すべきものであった、という趣旨)

株林の淫楽と徴舒の恨み

  • 泄冶が死んで以後、君臣はますます忌憚がなくなり、三人は絶えず株林に赴くようになった。最初は忍んでの逢瀬であったが、その後は当たり前のこととなり、公然と憚らなくなった。国人は『株林』の詩を作ってこれを風刺した。詩に言う。(詩:どうして株林に行くのか。夏南のために行くのだ。株林に行くのではない。夏南のために行くのだ、という趣旨)
  • 徴舒は字を子南といい、詩人は誠実で情に厚かったため、夏姫とは言わずに夏南と言った。(夏姫にではなく)子南に従って来たのだ、という言い方にしたのである。
  • 陳侯はもとより恥知らずの人であり、孔・儀二人がひたすら阿諛追従して恥も外聞もなく、さらに夏姫も巧みに事を取り持ち、丸く収めて、一婦三夫の同歓同楽の間柄を、怪しむこともなく続けていた。
  • 徴舒は次第に成長して物事が分かるようになり、母の所業を見て心を刀で刺されるように痛めていたが、陳侯の手前どうしようもなかった。陳侯が株林に来ようとするたびに、たいてい口実を設けて外へ避け、目の届かぬところに逃れていた。あの淫楽にふける男女たちも、徴舒がいないほうが都合がよいと思っていた。
  • 月日は矢のように過ぎ、徴舒は十八歳になり、体つきは大きくがっしりとして、力に優れ弓の名手であった。霊公は夏姫の機嫌を取るため、彼に父の職を嗣がせ司馬とし、兵権を執らせた。
  • 徴舒は謝恩を終えると、株林に戻り母の夏姫に拝謁した。夏姫は言った。「これは陳侯の恩典です。お前はよろしく職を全うし、国のために憂いを分かち合いなさい。家のことに気を取られる必要はありません。」
  • 徴舒は母に別れを告げ、朝廷に入って政務を執った。

徴舒の弑逆

  • ある日、陳の霊公は孔・儀二人とともに再び株林に遊び、夏氏の家に泊まった。徴舒は父の爵位を嗣いだ恩に感じ、特に家に戻って宴を設け、霊公をもてなした。夏姫はその子が座にいるため、あえて陪席しなかった。
  • 酒がたけなわになると、君臣はまた互いに嘲り戯れ、手足を振るって浮かれた。徴舒はその様子を厭い、屏風の後ろに退いて、密かにその言葉を聞いた。
  • 霊公は儀行父に言った。「徴舒は体格が立派で、そなたに似ているところがある。もしやそなたの子ではないか。」
  • 儀行父は笑って言った。「徴舒の両目は炯々として、まことに主公に似ておられます。むしろ主公が生んだ子でしょう。」
  • 孔寧が傍らから口を挟んだ。「主公と儀大夫は年が若く、この子は生めますまい。あの子の父親は大勢おりますから、雑種というものです。夏夫人ご自身でさえ、もう覚えておられぬのですよ。」
  • 三人は手を打って大笑いした。
  • 徴舒は聞かねば知らずにいられたものを、聞いてしまった今、恥辱の心が抑えがたいほど激しく湧き上がった。まさに「怒りは心の内から起こり、悪は胆の底から生ずる」というものであった。
  • 密かに夏姫を内室に閉じ込め、勝手口からこっそり抜け出し、随行の軍勢に命じた。「屋敷をぐるりと取り囲め。陳侯と孔・儀二人を逃してはならぬ。」
  • 軍勢は命を受け、一斉に喊声を上げ、夏の屋敷を包囲した。徴舒は武装を整え、鋭利な刃を手にし、手練れの家来数人を連れて、正門から斬り込んだ。徴舒は大声で叫んだ。「早く淫賊を捕らえよ。」
  • 陳の霊公はまだあられもなくその場で酒を弄び戯れていた。孔寧がこれを聞きつけて言った。「主公、大変です。徴舒がこの宴を催したのは、良い企みではございません。今、兵を率いて攻め込み、淫賊を捕らえようとしております。急いでお逃げください。」
  • 儀行父は言った。「表門は塞がれております。裏門から逃げるしかありません。」
  • 三人は常々夏家の部屋を出入りしていたので、道筋には慣れていた。陳侯はなお内室に逃げ込み夏姫に助けを求めようとしたが、中門が鎖で閉じられているのを見て、慌てふためきながら後園へと奔った。徴舒はその後を追いかけた。
  • 陳侯は東側の馬小屋に低い塀があって越えられることを思い出し、馬小屋を目指して奔った。徴舒は叫んだ。「愚かな君主よ、逃げるな。」
  • 弓を引き絞り、ひゅっと一矢を放ったが、当たらなかった。陳侯は馬小屋に飛び込み、身を隠そうとしたが、群馬が驚き嘶いたため、慌てて身をひるがえして出た。徴舒はまさにこれに追いつき、さらに一矢を放ち、まともに心臓に命中した。
  • あわれなことに、あの陳侯平国は、十五年にわたり諸侯として在位しながら、今日、馬小屋の下で命を落としたのであった。
  • 孔寧と儀行父は先に陳侯が東へ逃げるのを見て、徴舒が必ず追いかけるだろうと察し、西の弓の練習場へと逃げ込んだ。果たして徴舒は陳侯だけを追いかけたので、孔・儀二人は犬の潜り穴からこっそり抜け出し、家にも寄らず、裸のまま楚国へと逃げ込んだ。

陳の内乱とその後

  • 徴舒は陳侯を射殺した後、兵を擁して城内に入り、陳侯は酒後の急病で亡くなり、遺命によって世子の午を君に立てるのだ、と言いふらした。これが成公である。
  • 成公は内心徴舒を憎んでいたが、力でこれを制することができず、耐え忍んで口をつぐんだ。徴舒もまた諸侯からの討伐を恐れ、そこで陳侯に無理強いして晋に朝させ、その好誼を結ばせた。

楚の荘王、陳討伐を決める

  • 一方、楚国の使者は辰陵での盟に陳侯を招くよう命じられて赴いたが、陳に着かぬうちに乱を聞き引き返した。ちょうど孔寧・儀行父の二人が逃げてきており、荘王に会って君臣の淫乱の情を隠し通し、ただ「夏徴舒が謀反を起こし、陳侯平国を弑した」とだけ言った。これは使者の言葉と符合した。
  • 荘王は群臣を集めて協議した。
  • そのとき楚国の一人の公族大夫、屈氏名は巫、字は子霊がいた。屈蕩の子である。この人物は容貌秀麗で文武両道であったが、一つだけ悪癖があった。それは淫乱を好み、専ら彭祖の房中の術を語ることであった。
  • 数年前、陳国に使いした際、外遊する夏姫に出会い、その容姿を垣間見た。しかも彼女が煉丹の術に長け、老いを退け若さを取り戻すと聞き、心中大いに慕っていた。
  • 徴舒が弑逆に及んだと聞き、この機に乗じて夏姫を奪い取ろうと考え、力を尽くして荘王に陳を討つよう勧めた。
  • 令尹の孫叔敖もまた「陳の罪は討つべきである」と言った。荘王の意はこうして固まった。
  • 時に周の定王九年、陳の成公午の元年であった。楚の荘王は先に一通の檄文を陳国に伝えた。檄には次のように記されていた。
  • 「楚王が汝らに示す。少西氏がその君を弑し、神も人もともに憤っている。汝らの国で討つことができぬのなら、寡人が汝らのためにこれを討とう。罪はもっぱら一人に帰するものである。その他の臣民は静かに命を聴き、騒ぎ立ててはならぬ。」
  • 陳国はこの檄文を見て、人々はみな徴舒を咎め、なんとか楚の手を借りて事を片付けたいと願うばかりで、防戦の策を講じなかった。

陳の平定と株林の戦後処理

  • 楚の荘王は自ら三軍を率い、公子嬰齊、公子側、屈巫ら一群の大将を伴い、雲のごとく風のごとく駆けて、まっすぐ陳の都へ進み、まるで無人の地に入るがごとくであった。至る所で住民を安んじ、少しも掠奪をしなかった。
  • 夏徴舒は人心が自分に怨みを抱いていることを知り、密かに株林へ逃げた。時に陳の成公はまだ晋にいて帰っていなかった。
  • 大夫の轅頗は諸臣と相談した。「楚王は我らのために罪を討ち、ただ徴舒を誅そうとしているだけだ。むしろ徴舒を捕えて楚軍に献上し、使者を遣わして和を求め、社稷を保つのが上策であろう。」群臣もみなこれに賛成した。
  • 轅頗はその子の僑如に命じ、兵を率いて株林に赴き徴舒を捕らえさせようとした。僑如が出発しないうちに、楚兵はすでに城下に至っていた。陳国は久しく政令が行き届いておらず、しかも陳侯が国にいなかったため、民衆が主となって門を開き楚を迎え入れた。
  • 楚の荘王は隊を整えて入城した。諸将は轅頗らを荘王の前に連れて来た。荘王は「徴舒はどこにいるか」と問うた。
  • 轅頗は答えた。「株林におります。」
  • 荘王は問うた。「臣として君に仕える者ならば、どうしてこの逆賊を許して誅討しなかったのか。」
  • 轅頗は答えた。「討とうとしなかったのではございません。力が及ばなかったのです。」
  • 荘王はそこで轅頗を道案内とし、自ら大軍を率いて株林へ進発した。公子嬰齊の一軍だけを城中に留め駐屯させた。
  • 一方、徴舒はちょうど家財を整理し、母の夏姫を伴って鄭国に逃げようとしていたが、あとほんの一刻というところで、楚兵が株林を包囲し、徴舒を捕らえた。荘王は命じて後車に囚え、問うた。「なぜ夏姫の姿が見えぬのか。」
  • 将士に命じてその家を捜させると、園中でこれを見つけた。荷華は逃げ、行方は分からなかった。
  • 夏姫は荘王に再拝して言った。「不幸にも国が乱れ家が滅び、賎妾は一婦人にすぎませんが、命は大王の手にございます。もしお憐れみを賜れば、婢として仕えとうございます。」
  • 夏姫の容色は美しく、言葉も詳らかで雅であった。荘王は一目見て心を惑わされ、諸将に言った。「楚国の後宮は数多いが、夏姫ほどの者はほとんどおらぬ。寡人はこれを納れて妃嬪に備えたいと思うが、諸卿はどう思うか。」
  • 屈巫が諫めて言った。「いけません、いけません。わが君が陳で兵を用いたのは、その罪を討つためです。もし夏姫を納れれば、それはその色を貪ることになります。罪を討つのは義であり、色を貪るのは淫です。義をもって始め淫をもって終わるとは、覇者の振る舞いとしてふさわしくございません。」
  • 荘王は言った。「子霊の言葉はまことに正しい。寡人はあえて納れまい。ただ、この女は世にまたとない絶品だ。もう一度寡人の目に触れれば、必ず自制できなくなろう。」
  • そこで兵士に命じ、後方の垣を鑿り開けさせ、夏姫の行きたいところへ行かせた。
  • そのとき将軍の公子側が傍らにいて、彼もまた夏姫の美貌を貪っており、荘王がすでに用いぬと見て、跪いて願い出た。「臣は中年になっても妻がおりません。どうか私に妻として賜りますよう。」
  • 屈巫はまた奏した。「わが王よ、お許しになってはなりません。」
  • 公子側は怒って言った。「子霊が私に夏姫を娶らせないのは、どういうわけか。」
  • 屈巫は言った。「この女は天地の間の不祥の物です。私の知るところを申し上げますと、子蛮を夭折させ、御叔を殺し、陳侯を弑逆に追いやり、夏南を戮し、孔・儀二人を国外に追いやり、陳国を滅ぼすもとになりました。これほどの不祥はございません。天下には美しい女性は数多くございます。なぜこのような淫らな者を娶り、後の悔いを残すのですか。」
  • 荘王は言った。「子霊の言うとおりならば、寡人もこれを畏れる。」
  • 公子側は言った。「そういうことなら、私も娶らぬことにしよう。ただ一つ言っておくが、そなたは主公にも娶らせず、私にも娶らせぬというが、まさかそなたが娶るのではあるまいな。」
  • 屈巫は繰り返し言った。「とんでもない、とんでもございません。」
  • 荘王は言った。「物には主がなければ、人は必ずこれを争う。連尹の襄老が近ごろ妻を亡くしたと聞く。継室として賜るがよかろう。」
  • そのとき襄老は兵を率いて従軍しており、後隊にいた。荘王はこれを呼び寄せ、夏姫を賜った。夫婦は謝恩して退出した。
  • 公子側はそれで納まった。ただ屈巫が荘王を諫めて公子側の望みを断ち切ったのは、実は自分のために取っておこうとしたからであった。荘王がこれを襄老に賜ったと知り、密かに叫んだ。「惜しい、惜しい。」さらに密かに思った。「この老人がどうしてあの女を相手にできようか。一年半年もすればまた寡婦になろう。その頃また別に手を打とう。」これは屈巫の心中のことであって、口には出さなかった。
  • 荘王は株林で一夜を過ごし、そのまま陳国に至った。公子嬰齊が出迎えて城に入れた。荘王は徴舒を栗門に引き出し、車裂き(車で四肢を引き裂く刑)にして衆にさらすよう命じた。斉の襄公が高渠彌を処罰した刑と同じであった。
  • 史臣の詩がある。(詩:陳主の荒淫は自ら招いたものであるが、徴舒の弑逆もまた道理に反する。荘王が民を慰め罪ある者を討ったさまはまさに時に降る雨のようで、泗水のほとりの諸侯は旗を望み仰いだ、という趣旨)

陳の復興と申叔時の諫言

  • 荘王は徴舒を刑に処して衆にさらすことを終えると、陳国の版図を明らかにし、陳を滅ぼして楚の県とした。公子嬰齊を陳公に任じ、その地を守らせた。陳の大夫轅頗らは、みな郢都に連れ帰られた。
  • 南方の属国は楚王が陳を滅ぼして帰ったと聞き、みな朝賀に来た。各地の県公についてはいうまでもない。
  • ただ大夫の申叔時だけは、斉に使いしてまだ帰っていなかった。そのころ斉の恵公が薨じ、世子の無野が即位した。これが頃公である。斉と楚はかねて交誼があったため、荘王は申叔時を遣わして旧を弔い新を賀う礼を行わせていた。(この使いの派遣は、陳討伐より前のことである。荘王が楚に帰って三日後に、申叔時はようやく戻り、復命して退出したが、慶賀の言葉は少しもなかった。)
  • 荘王は内侍に語らせ彼を責めさせた。「夏徴舒が無道にも君を弑した。寡人はその罪を討ってこれを戮し、版図を国中に収めた。その義声は天下に聞こえ、諸侯や県公はみな祝賀に来ないものはない。そなただけが一言もない。それは寡人が陳を討った振る舞いを非としているのか。」
  • 申叔時は使者に従って楚王に拝謁を求め、じかにその考えを述べさせてほしいと願った。荘王はこれを許した。
  • 申叔時は言った。「王は『田を踏み荒らした牛を奪う』という話をお聞きになったことがございますか。」
  • 荘王は言った。「聞いたことがない。」
  • 申叔時は言った。「今、ある人が牛を牽いて他人の田を近道に横切り、その苗を踏み荒らしたとします。田の持ち主が怒ってその牛を奪ったとしましょう。この訴えがもし王の御前にあったら、どうお裁きになりますか。」
  • 荘王は言った。「牛を牽いて田を踏んだのだから、損害はさほど大きくない。牛を奪ったのは、あまりに度が過ぎている。寡人がこの訴えを裁くならば、牛を牽いた者は軽く責めるにとどめ、その牛は返させよう。そなたはこれで正しいと思うか。」
  • 申叔時は言った。「王はこのような訴えの裁きにはあれほど明察であられるのに、陳の一件の裁きには暗いのはなぜでしょうか。徴舒に罪があるのは、君を弑した一事にとどまり、国を滅ぼすほどのことではございません。王がその罪を討たれたのは十分でございます。しかもさらにその国まで奪ったのでは、これは牛を奪ったのと何が違いましょうか。何を祝うことがございましょうか。」
  • 荘王は足を踏み鳴らして言った。「善いかな、この言葉。寡人はいまだこれを聞いたことがなかった。」
  • 申叔時は言った。「王がすでに臣の言葉を善しとされるならば、なぜ牛を返すようなことをなさらないのですか。」
  • 荘王はただちに陳の大夫轅頗を召し、問うた。「陳の君はどこにいるか。」
  • 轅頗は答えた。「先ごろ晋国に行っており、今はどこにいるか分かりません。」言い終えると、思わず涙をこぼした。
  • 荘王は痛ましく思い言った。「私は必ずそなたの国を再び封じよう。そなたは陳君を迎えて立てるがよい。代々楚に付き従い、南北の間で日和見をすることなく、寡人の徳に背かぬようにせよ。」
  • さらに孔寧と儀行父を召し寄せて言い渡した。「お前たちを国に帰す。ともに陳君を補佐せよ。」
  • 轅頗は孔・儀二人が禍の種であると明らかに知っていたが、楚王の前でそれを言うことができず、ただ曖昧なままともに拝謝して出発した。
  • 楚の境を出ようとするところで、ちょうど陳侯の午が晋から帰ってくるのに遭遇した。すでに国が滅んでいると聞き、彼もまた楚に赴き楚王に会おうとしていた。
  • 轅頗は楚王の好意を述べ、君臣ともに車を連ねて陳へと向かった。守将の公子嬰齊はすでに楚王の命を受けており、召還されて版図を陳に返還し、自らは楚国に帰った。
  • これは楚の荘王の第一の善行である。
  • 髯翁の詩がある。(詩:陳を県にしたにもかかわらず、誰が再び陳を封じることになろうと予想しただろうか。跖のような悪も舜のような善へと、一念によって新たになりうる。南楚の義声は四海に馳せ、賢主が賢臣に頼っていることを知るべきである、という趣旨)

孔寧・儀行父の末路

  • 孔寧は帰国して一月も経たぬうちに、白昼、夏徴舒が命を取りに来る幻を見て、それがもとで精神の病を発し、自ら池に身を投げて死んだ。
  • 死後、儀行父は、陳の霊公、孔寧、徴舒の三人が来て、彼を天帝の廷に連れて行き裁きにかけようとする夢を見た。夢の中で大いに驚き、これがもとで急病を発して死んだ。(これは淫らな者への報いというべきであろう。)

嬰齊と屈巫の確執、楚の鄭討伐と鄭の降伏

  • 一方、公子嬰齊は楚国に戻ると、荘王に拝謁し、依然として陳公嬰齊と自称した。
  • 荘王は言った。「寡人はすでに陳国を復興させた。改めてそなたに報いる術を考えねばならぬ。」
  • 嬰齊は申・呂の田を求め、荘王はこれを許そうとした。屈巫が奏上した。「これは北方の賦税の地であり、国家が晋の侵攻に備える拠り所としているものです。褒賞に充ててはなりません。」
  • 荘王はそこで思いとどまった。申叔時が引退を願い出るに及んで、荘王は屈巫を申公に封じた。屈巫は少しも辞退しなかった。嬰齊はこの一件から屈巫に対して確執を抱くようになった。
  • 周の定王十年、楚の荘王の十七年のことである。
  • 荘王は陳がすでに南の楚に服属したものの、鄭はなお晋に従い、まだ楚に服していないとして、諸大夫と協議した。令尹の孫叔敖は言った。「鄭を討てば、晋の救援が必ず来ます。大軍でなければなりません。」
  • 荘王は言った。「寡人の意もまさにそのとおりだ。」
  • そこで三軍と両広の全軍を挙げ、浩々蕩々と滎陽へ攻め寄せた。連尹の襄老が前部を務めた。
  • 出発に際し、勇猛な将軍、唐狡が願い出て言った。「鄭は小国であり、大軍を煩わすまでもございません。狡は自ら部下百人を率い、一日先行して三軍のために道を開きたく存じます。」
  • 襄老はその志を壮とし、これを許した。唐狡の行く先々では力戦し、当たる者はことごとく敗れ、兵の行軍が滞ることはなく、毎晩には陣地を整備して大軍を待った。
  • 荘王は諸将を率いてまっすぐ鄭の郊外に至り、一兵の阻みも一日の遅延もなかった。荘王はその速さを不思議に思い、襄老に言った。「思いがけないことだ、そなたは老いてなお盛んで、これほど勇ましく前進しているとは。」
  • 襄老は答えた。「臣の力ではございません。副将の唐狡の力戦によるものです。」
  • 荘王はさっそく唐狡を召し、厚く賞しようとした。唐狡は答えた。「臣はすでに君王から厚い恩を賜っております。今日はただそれに報いんとしたにすぎません。あえてまた賞を求めましょうか。」
  • 荘王は訝しんで言った。「寡人はそなたに見覚えがない。どこで寡人の恩を受けたのか。」
  • 唐狡は答えた。「絶纓の会で、美人の袖を引いた者が、この臣にございます。君王がこの臣を殺さずにおいてくださった恩を蒙り、それゆえ命をかけてお報いしたのでございます。」
  • 荘王は嘆息して言った。「ああ、もし寡人があのとき灯りを点して罪を追及していたなら、どうしてこの者の死力を得られたであろうか。」
  • 軍正に命じ功績の第一と記させ、鄭の平定の後に重用しようとした。
  • 唐狡は人に語った。「私は君に対して死罪を犯したが、君はそれを隠して誅せられなかった。それゆえ報いたのだ。しかしすでに明言してしまった以上、罪人でありながら後日の賞をあてにするわけにはいかぬ。」
  • そのまま夜のうちに姿を消し、行方は分からなくなった。荘王はこれを聞き、嘆じて言った。「まことに烈士である。」
  • 大軍は郊関を攻め破り、まっすぐ城下に至った。荘王は令を発し、四方から長い包囲陣を築いて攻めさせた。十七日間、昼夜休みなく続いた。鄭の襄公は晋の救援を頼みにして、すぐには和議に応じなかった。兵士の死傷は甚だ多かった。
  • 城の東北の一角が数十丈にわたって崩れ落ち、楚兵が登ろうとしたが、荘王は城内から地を震わすような泣き声が聞こえてきたので、心中忍びなく思い、軍を十里退かせた。
  • 公子嬰齊は進み出て言った。「城が陥落しかけているのに、まさにこの機に乗じるべきときに、なぜ軍を退かれるのですか。」
  • 荘王は言った。「鄭はわが威を知っているが、まだわが徳を知らぬ。しばらく退いて徳を示そう。その向背を見て、進むか退くかを決めればよい。」
  • 鄭の襄公は楚軍が退いたと聞き、晋の救援がすでに来たのかと疑い、民衆を駆り立てて城壁を修築させ、男女を問わず城に上って守らせた。
  • 荘王は鄭に降伏する意がないと知り、再び兵を進めて包囲した。鄭は三か月堅く守ったが、力が続かなくなった。楚将の楽伯が兵を率いて皇門の城壁を真っ先に攀じ登り、内から城門を打ち破った。
  • 荘王は掠奪を禁じる令を出し、三軍は粛然としていた。大通りに至ると、鄭の襄公は肩肌を脱ぎ羊を牽いて楚軍を出迎え、言った。「孤は徳がなく、大国にお仕えすることができず、君王の御怒りを招き、軍をわが国に降されるに至りました。孤は罪を知っております。存亡死生は、ひとえに君王の御命に任せます。もし先人の好誼を顧みてくださり、たちまち滅ぼされることなく、祖先の祭りを存続させ、従属する小国のように扱っていただけるならば、それは君王の御恵みでございます。」
  • 公子嬰齊は進み出て言った。「鄭は力尽きて降伏したのですから、これを赦せばまた叛くでしょう。滅ぼすに越したことはございません。」
  • 荘王は言った。「申公がここにいたなら、また『田を踏み荒らした牛を奪う』という話で私を諫めたであろうな。」
  • そのまま軍を三十里退かせた。鄭の襄公は自ら楚の陣営に赴き、罪を謝して盟約を求め、その弟の公子去疾を人質として留めた。

晋軍来援の報と掌に書かせた戦・退

  • 荘王は兵を引き上げて北へ向かい、郔に陣を張った。すると密偵の報告が入った。「晋国は荀林父を大将、先穀を副将に任じ、車六百乗を出して鄭を救援に来ており、すでに黄河を渡った。」
  • 荘王は諸将に問うた。「晋の軍が到着しようとしている。帰るべきか、それとも戦うべきか。」
  • 令尹の孫叔敖は答えた。「鄭がまだ服従していなかったなら、晋と戦うのもよいでしょう。しかしすでに鄭を得た今、さらに晋に仇を求めるとは、何のためでございましょうか。むしろ全軍を保って帰るべきです。万に一つの過ちもございません。」
  • 寵臣の伍参が奏上した。「令尹の言葉は誤りでございます。鄭は我らの力が及ばないと考えたからこそ晋に従ったのです。もし晋が来て我らがこれを避ければ、実際に我らの力が及ばないことになります。しかも晋は鄭が楚に従ったと知れば、必ず兵を鄭に向けるでしょう。晋が救援に来るなら、我らもまた救援に赴けばよろしいのではありませんか。」
  • 孫叔敖は言った。「昨年は陳に入り、今年は鄭に入り、楚の兵はすでに疲弊しております。もし戦って勝たなければ、たとえ参の肉を食らったとて、どうして罪を贖えましょうか。」
  • 伍参は言った。「もし戦って勝てば、令尹には謀がなかったということになります。もし勝てなければ、参の肉は晋軍に食われることになりましょう。どうして楚人の口に入りましょうか。」
  • 荘王はあまねく諸将に問い、それぞれに筆を授け、掌に書かせた。戦うことを主張する者は「戦」の字を、退くことを主張する者は「退」の字を書いた。諸将が書き終えると、荘王は掌を開かせて確かめた。
  • 中軍元帥の虞邱、連尹の襄老、裨将の蔡鳩居、彭名の四人だけが掌に「退」の字を書いていた。その他、公子嬰齊、公子側、公子穀臣、屈蕩、潘党、楽伯、養繇基、許伯、熊負羈、許偃など二十余人は、みな「戦」の字であった。
  • 荘王は言った。「虞邱は老臣の見識であり、令尹の言葉と合致している。『退』と言う者が正しい。」
  • そこで南へ轅を返して旗を翻す令を発し、翌日には河で馬に水を飲ませてから帰るよう伝えた。

伍参の説得と開戦の決断

  • 伍参は夜、荘王に拝謁を求めて言った。「君王はなぜ晋を畏れ、鄭を捨ててこれに与えるのですか。」
  • 荘王は言った。「寡人は鄭を捨ててなどいない。」
  • 伍参は言った。「楚の兵は鄭城の下に九十日も駐屯し、ようやく鄭を服従させました。今、晋が来て楚が去れば、晋に鄭救援の功を立てさせ、鄭を収めさせることになります。楚はこれより二度と鄭を得ることはできますまい。これを鄭を捨てると言わずして何と申しましょうか。」
  • 荘王は言った。「令尹は晋と戦っても必ずしも勝てぬと言うので、それゆえ去ることにしたのだ。」
  • 伍参は言った。「臣はすでに詳しく調べております。荀林父は新たに中軍を将いたばかりで、その威信はまだ軍中に行き渡っておりません。その佐である先穀は、先軫の孫、先且居の子であり、先祖代々の勲功を頼みにして、頑迷不仁の性であり、命令に従う将ではございません。欒・趙の輩は、みな代々の名将でありながら、それぞれ我意を通し、号令が一つにまとまっておりません。晋の軍勢は多くとも、これを破ることは容易でございます。しかも王が一国の主でありながら、晋の諸臣を避けるようでは、天下の笑いものになりましょう。まして鄭を保つことなど、なおさら望めましょうか。」
  • 荘王は愕然として言った。「寡人は用兵に長けているわけではないが、どうして晋の諸臣に劣ることがあろうか。寡人はそなたに従って戦おう。」
  • ただちに夜のうちに人を遣わし、令尹の孫叔敖に、車の轅をすべて北向きに改めさせ、管城まで進んで晋軍を待つよう告げさせた。勝敗がどうなったかは、次回の解き明かしをご覧あれ。
原文(底本)
卻說陳靈公與孔寧儀行父二大夫,俱穿了夏姬所贈褻衣,在朝堂上戲謔。大夫泄冶聞之,乃整襟端笏,復身趨入朝門。孔儀二人,素憚泄冶正直,今日不宣自至,必有規諫,遂先辭靈公而出。靈公抽身欲起御座,泄冶騰步上前,牽住其衣,跪而奏曰:「臣聞『君臣主敬,男女主別。』今主公無《周南》之化,使國中有失節之婦;而又君臣宣淫,互相標榜,朝堂之上,穢語難聞,廉恥盡喪,體統俱失。君臣之敬,男女之別,淪滅已極!夫不敬則慢,不別則亂,慢而且亂,亡國之道也。君必改之!」靈公自覺汗顏,以袖掩面曰:「卿勿多言,寡人行且悔之矣!」泄冶辭出朝門,孔儀二人尚在門外打探,見泄冶怒氣沖沖出來,閃入人叢中避之。泄冶早已看見,將二人喚出,責之曰:「君有善,臣宜宣之,君有不善,臣宜掩之。今子自為不善,以誘其君,而復宣揚其事,使士民公然見聞,何以為訓?寧不羞耶?」二人不能措對,唯唯謝教。泄冶去了,孔儀二人,求見靈公,述泄冶責備其君之語:「主公自今更勿為株林之遊矣!」靈公曰:「卿二人還往否?」孔儀二人對曰:「彼以臣諫君,與臣等無與。臣等可往,君不可往。」靈公奮然曰:「寡人寧得罪於泄冶,安肯捨此樂地乎?」孔儀二人復奏曰:「主公若再往,恐難當泄冶絮聒,如何?」靈公曰:「二卿有何策,能止泄冶勿言?」孔寧曰:「若要泄冶勿言,除非使他開口不得。」靈公笑曰:「彼自有口,寡人安能禁之使不開乎?」儀行父曰:「寧之言,臣能知之。夫人死則口閉,主公何不傳旨,殺了泄冶,則終身之樂無窮矣!」靈公曰:「寡人不能也。」孔寧曰:「臣使人刺之何如?」靈公點首曰:「由卿自為。」二人辭出朝門,做一處商議。將重賄買出刺客,伏於要路,候泄冶入朝,突起殺之。國人皆認為陳侯所使,不知為孔儀二人之謀也。史臣有讚云:

    陳喪明德,君臣宣淫;纓紳衵服,大廷株林。壯哉泄冶,獨矢直音!身死名高,龍血比心。

自泄冶死後,君臣益無忌憚,三人不時同往株林,一二次還是私偷,以後習以為常,公然不避。國人作《株林》之詩以譏之。詩曰:

    胡為乎株林?從夏南!匪適株林;從夏南!

徵舒字子南,詩人忠厚,故不曰夏姬,而曰夏南,言從南而來也。

  陳侯本是個沒傝的人,孔儀二人,一味奉承幫襯,不顧廉恥,更兼夏姬善於調停,打成和局,弄做了一婦三夫,同歡同樂,不以為怪。徵舒漸漸長大知事,見其母之所為,心如刀刺,只是干礙陳侯,無可奈何。每聞陳侯欲到株林,往往託故避出,落得眼中清淨。那一班淫樂的男女,亦以徵舒不在為方便。光陰似箭,徵舒年一十八歲,生得長軀偉幹,多力善射。靈公欲悅夏姬之意,使嗣父職為司馬,執掌兵權。徵舒謝恩畢,回株林拜見其母夏姬。夏姬曰:「此陳侯恩典,汝當恪供乃職,為國分憂,不必以家事分念。」徵舒辭了母親,入朝理事。

  忽一日,陳靈公與孔儀二人,復遊株林,宿於夏氏。徵舒因感嗣爵之恩,特地回家設享,款待靈公。夏姬因其子在坐,不敢出陪。酒酣之後,君臣復相嘲謔,手舞足蹈。徵舒厭惡其狀,退入屏後,潛聽其言。靈公謂儀行父曰:「徵舒軀幹魁偉,有些像你,莫不是你生的?」儀行父笑曰:「徵舒兩目炯炯,極像主公,還是主公所生。」孔寧從旁插嘴曰:「主公與儀大夫年紀小,生他不出,他的爹極多,是個雜種,便是夏夫人自家也記不起了!」三人拍掌大笑。徵舒不聽猶可,聽見之時,不覺羞惡之心,勃然難遏。正是:「怒從心上起,惡向膽邊生。」暗將夏姬鎖於內室,卻從便門溜出,吩咐隨行軍眾:「把府第團團圍住,不許走了陳侯及孔儀二人。」軍眾得令,發一聲喊,圍了夏府。徵舒戎妝披掛,手執利刃,引著得力家丁數人,從大門殺進。口中大叫:「快拿淫賊!」陳靈公口中還在那里不三不四,耍笑弄酒。卻是孔寧聽見了,說道:「主公不好了!徵舒此席,不是好意。如今引兵殺來,要拿淫賊。快跑罷!」儀行父曰:「前門圍斷,須走後門。」三人常在夏家穿房入戶,路道都是識熟的。陳侯還指望跑入內室,求救於夏姬,見中門鎖斷,慌上加慌,急向後園奔走。徵舒隨後趕來。陳侯記得東邊馬廄,有短牆可越,遂望馬廄而奔。徵舒叫道:「昏君休走!」攀起弓來,颼的一箭,卻射不中。陳侯奔入馬廄,意欲藏躲,卻被群馬驚嘶起來,即忙退身而出。徵舒剛剛趕近,又復一箭,正中當心。可憐陳侯平國,做了一十五年諸侯,今日死於馬廄之下!孔寧儀行父先見陳侯向東走,知徵舒必然追趕,遂望西邊奔入射圃。徵舒果然只趕陳侯。孔儀二人遂從狗竇中鑽出,不到家中,赤身奔入楚國去了。

  徵舒既射殺了陳侯,擁兵入城,只說陳侯酒後暴疾身亡,遺命立世子午為君,是為成公。成公心恨徵舒,力不能制,隱忍不言。徵舒亦懼諸侯之討,乃強逼陳侯往朝於晉,以結其好。

  再說楚國使臣,奉命約陳侯赴盟辰陵,未到陳國,聞亂而返。恰好孔寧儀行父二人逃到,見了莊王,瞞過君臣淫亂之情,只說:「夏徵舒造反,弒了陳侯平國。」與使臣之言相合。莊王遂集群臣商議。卻說楚國一位公族大夫,屈氏名巫,字子靈,乃屈蕩之子。此人儀容秀美,文武全材,只有一件毛病,貪淫好色,專講彭祖房中之術。數年前,曾出使陳國,遇夏姬出遊,窺見其貌,且聞其善於採煉,卻老還少,心甚慕之。乃聞徵舒弒逆,欲借此端,擄取夏姬,力勸莊王興師伐陳。令尹孫叔敖亦言:「陳罪宜討。」莊王之意遂決。時周定王九年,陳成公午之元年也。楚莊王先傳一檄,至於陳國,檄上寫道:

    楚王示爾:少西氏弒其君,神人共憤。爾國不能討,寡人將為爾討之。罪有專歸,其餘臣民,靜聽無擾!

陳國見了檄文,人人歸咎徵舒,巴不能勾假手於楚,遂不為禦敵之計。

  楚莊王親引三軍,帶領公子嬰齊、公子側、屈巫一班大將,雲卷風馳,直造陳都,如入無人之境,所至安慰居民,秋毫無犯。夏徵舒知人心怨己,潛奔株林。時陳成公尚在晉國未歸。大夫轅頗,與諸臣商議:「楚王為我討罪,誅止徵舒。不如執徵舒獻於楚軍,遣使求和,保全社稷,此為上策。」群臣皆以為然。轅頗乃命其子僑如,統兵往株林,擒拿徵舒。僑如未行,楚兵已至城下。陳國久無政令,況陳侯不在國,百姓做主,開門迎楚。楚莊王整隊而入。諸將將轅頗等擁至莊王而前,莊王問:「徵舒何在?」轅頗對曰:「在株林。」莊王問曰:「誰非臣子,如何容此逆賊,不加誅討?」轅頗對曰:「非不欲討,力不加也。」莊王即命轅頗為嚮導,自引大軍,往株林進發,卻留公子嬰齊一軍,屯紮城中。再說徵舒正欲收拾家財,奉了母親夏姬,逃奔鄭國。只爭一刻,楚兵圍住株林,將徵舒拿住。莊王命囚於後車,問:「何以不見夏姬?」使將士搜其家,於園中得之。荷華逃去,不知所適。夏姬向莊王再拜言曰:「不幸國亂家亡,賤妾婦人,命懸大王之手。倘賜矜宥,願充婢役!」夏姬顏色妍麗,語復詳雅,莊王一見,心志迷惑,謂諸將曰:「楚國後宮雖多,如夏姬者絕少,寡人意欲納之,以備妃嬪,諸卿以為何如?」屈巫諫曰:「不可,不可!吾主用兵於陳,討其罪也。若納夏姬,是貪其色也。討罪為義,貪色為淫。以義始而以淫終,伯主舉動,不當如此。」莊王曰:「子靈之言甚正,寡人不敢納矣。只是此婦世間尤物,若再經寡人之眼,必然不能自制。」叫軍士鑿開後垣,縱其所之。時將軍公子側在旁,亦貪夏姬美貌,見莊王已不收用,跪而請曰:「臣中年無妻,乞我王賜臣為室。」屈巫又奏曰:「吾王不可許也。」公子側怒曰:「子靈不容我娶夏姬,是何緣故?」屈巫曰:「此婦乃天地間不祥之物,據吾所知者言之:殀子蠻,殺御叔,弒陳侯,戳夏南,出孔儀,喪陳國,不祥莫大焉!天下多美婦人,何必取此淫物,以貽後悔?」莊王曰:「如子靈所言,寡人亦畏之矣!」公子側曰:「既如此,我亦不娶了。只是一件,你說主公娶不得,我亦娶不得,難道你娶了不成?」屈巫連聲曰:「不敢,不敢!」莊王曰:「物無所主,人必爭之。聞連尹襄老,近日喪偶,賜為繼室可也。」時襄老引兵從征,在於後隊。莊王召至,以夏姬賜之,夫婦謝恩而出。公子側倒也罷了。只是屈巫諫止莊王,打斷公子側,本欲留與自家;見莊王賜與襄老,暗暗叫道:「可惜,可惜!」又暗想道:「這個老兒,如何當得起那婦人?少不得一年半載,仍做寡婦,到其間再作區處。」這是屈巫意中之事,口裏卻不曾說出.莊王居株林一宿,仍至陳國;公子嬰齊迎接入城。莊王傳令將徵舒囚出栗門,車裂以殉,如齊襄公處高渠彌之刑。史臣有詩云:

    陳主荒淫雖自取,徵舒弒逆亦違條;莊王弔伐如時雨,泗上諸侯望羽旄。

  莊王號令徵舒已畢,將陳國版圖查明,滅陳以為楚縣。拜公子嬰齊為陳公,使守其地。陳大夫轅頗等,悉帶回郢都。南方屬國,聞楚王滅陳而歸,俱來朝賀,各處縣公,自不必說。獨有大夫申叔時,使齊未歸。其時齊惠公薨,世子無野即位,是為頃公。齊楚一向交好,故莊王遣申叔時,往行弔舊賀新之禮。(這一差還在未伐陳以前。及莊王歸楚三日之後,申叔方纔回轉,復命而退,並無慶賀之言。)莊王使內侍傳語責之曰:「夏徵舒無道,弒其君,寡人討其罪而戮之,版圖收於國中,義聲聞於天下。諸侯縣公,無不稱賀,汝獨無一言,豈以寡人討陳之舉為非耶?」申叔時隨使者求見楚王,請面畢其辭;莊王許之。申叔時曰:「王聞『蹊田奪牛』之說乎?」莊王曰:「未聞也。」申叔時曰:「今有人牽牛取徑於他人之田者,踐其禾稼,田主怒奪其牛。此獄若在王前,何以斷之?」莊王曰:「牽牛踐田,所傷未多也。奪其牛,太甚矣!寡人若斷此獄,薄責牽牛者,而還其牛。子以為當否?」申叔時曰:「王何明於斷獄,而昧於斷陳也?夫徵舒有罪,止於弒君,未至亡國也;王討其罪足矣。又取其國,此與牽牛何異?又何賀乎?」莊王頓足曰:「善哉此言!寡人未之聞也!」申叔時曰:「王既以臣言為善,何不效反牛之事?」莊王立召陳大夫轅頗,問:「陳君何在?」頗答曰:「向往晉國,今不知何在。」言訖,不覺淚下。莊王慘然曰:「吾當復封汝國,汝可迎陳君而立之。世世附楚,勿依違南北,有負寡人之德。」又召孔寧儀行父吩咐:「放汝歸國,共輔陳君!」轅頗明知孔儀二人是個禍根,不敢在楚王面前說明,只是含糊一同拜謝而行。將出楚境,正遇陳侯午自晉而歸,聞其國已滅,亦欲如楚,面見楚王。轅頗乃述楚王之美意,君臣並駕至陳。守將公子嬰齊,已接得楚王之命,召還本國,遂將版圖交割還陳,自歸楚國去了。此乃楚莊王第一件好處。髯翁有詩云:

    縣陳誰料復封陳?跖舜還從一念新;南楚義聲馳四海,須知賢主賴賢臣。

  孔寧歸國,未一月,白日見夏徵舒來索命,因得狂疾,自赴池中而死。死之後,儀行父夢見陳靈公孔寧與徵舒三人,來拘他到帝廷對獄,夢中大驚,自此亦得暴疾卒。(此乃淫人之報也!)

  再說公子嬰齊既返楚國,入見莊王,猶自稱陳公嬰齊。莊王曰:「寡人已復陳國矣,當別圖所以償卿也。」嬰齊遂請申呂之田,莊王將許之。屈巫奏曰:「此北方之賦,國家所恃以禦晉寇者,不可以充賞。」莊王乃止。及申叔時告老,莊王封屈巫為申公,屈巫並不推辭。嬰齊由是與屈巫有隙,周定王十年,楚莊王之十七年也。

  莊王以陳雖南附,鄭猶從晉,未肯服楚,乃與諸大夫計議。令尹孫叔敖曰:「我伐鄭,晉救必至,非大軍不可。」莊王曰:「寡人意正如此。」乃悉起三軍兩廣之眾,浩浩蕩蕩,殺奔滎陽而來,連尹襄老為前部。臨發時,健將唐狡請曰:「鄭小國,不足煩大軍,狡願自率部下百人,前行一日,為三軍開路。」襄老壯其志,許之。唐狡所至力戰,當者輒敗,兵不留行,每夕掃除營地,以待大軍。莊王率諸將直抵鄭郊,未曾有一兵之阻,一日之稽。莊王怪其神速,謂襄老曰:「不意卿老而益壯,勇於前進如此!」襄老對曰:「非臣之力,乃副將唐狡力戰所致也。」莊王即召唐狡,欲厚賞之。唐狡對曰:「臣受君王之賜已厚,今日聊以報效,敢復叨賞乎?」莊王訝曰:「寡人未嘗識卿,何處受寡人之賜?」唐狡對曰:「絕纓會上,牽美人之袂者,即臣也。蒙君王不殺之恩,故舍命相報。」莊王嘆息曰:「嗟乎!使寡人當時明燭治罪,安得此人之死力哉?」命軍正紀其首功,俟平鄭之後,將重用之。唐狡謂人曰:「吾得死罪於君,君隱而不誅,是以報之。然既已明言,不敢以罪人徼後日之賞。」即夜遁去,不知所往。莊王聞之,嘆曰:「真烈士矣!」大軍攻破郊關,直抵城下。莊王傳令,四面築長圍攻之,凡十有七日,晝夜不息。鄭襄公恃晉之救,不即行成。軍士死傷者甚眾。城東北角崩陷數十丈,楚兵將登,莊王聞城內哭聲震地,心中不忍,麾軍退十里。公子嬰齊進曰:「城陷正可乘勢,何以退師?」莊王曰:「鄭知吾威,未知吾德,姑退以示德。視其從違,以為進退可也。」鄭襄公聞楚師退,疑晉救已至,乃驅百姓修築城垣,男女皆上城巡守。莊王知鄭無乞降之意,復進兵圍之。鄭堅守三月,力不能支。楚將樂伯率眾自皇門先登,劈開城門。莊王下令,不許虜掠,三軍肅然。行至逵路,鄭襄公肉袒牽羊,以迎楚師,辭曰:「孤不德,不能服事大國,使君王懷怒,以降師於敝邑,孤知罪矣!存亡死生,一惟君王命。若惠顧先人之好,不遽剪滅,延其宗祀,使得比於附庸,君王之惠也!」公子嬰齊進曰:「鄭力窮而降,赦之復叛,不如滅之。」莊王曰:「申公若在,又將以蹊田奪牛見誚矣!」即麾軍退三十里。鄭襄公親至楚軍,謝罪請盟,留其弟公子去疾為質。

  莊王班師北行,次於郔,諜報:「晉國拜荀林父為大將,先穀為副,出車六百乘,前來救鄭,已過黃河。」莊王問於諸將曰:「晉師將至,歸乎?抑戰乎?」令尹孫叔敖對曰:「鄭之未成,戰晉宜也;已得鄭矣,又尋仇於晉,焉用之?不如全師而歸,萬無一失。」嬖人伍參奏曰:「令尹之言非也。鄭謂我力不及,是以從晉;若晉來而避之,真我不及矣。且晉知鄭之從楚,必以兵臨鄭,晉以救來,我亦以救往,不亦可乎?」孫叔敖曰:「昔歲入陳,今歲入鄭,楚兵已勞敝矣。若戰而不捷,雖食參之肉,豈足贖罪?」伍參曰:「若戰而捷,令尹為無謀矣;如其不捷,參之肉將為晉軍所食,何能及楚人之口?」莊王乃遍問諸將,各授以筆,使書其掌,主戰者寫「戰」字,主退者寫「退」字,諸將寫訖,莊王使開掌驗之。惟中軍元帥虞邱,及連尹襄老、裨將蔡鳩居彭名四人,掌中寫「退」字,其他公子嬰齊、公子側、公子穀臣、屈蕩、潘黨、樂伯、養繇基、許伯、熊負羈、許偃……等二十餘人,俱「戰」字。莊王曰:「虞邱老臣之見,與令尹合,言『退』者是矣。」乃傳令南轅反旆,來日飲馬於河而歸。

  伍參夜求見莊王曰:「君王何畏於晉,而棄鄭以畀之也?」莊王曰:「寡人未嘗棄鄭也。」伍參曰:「楚兵頓鄭城下九十日,而僅得鄭成。今晉來而楚去,使晉得以救鄭為功而收鄭,楚自此不復有鄭矣,非棄鄭而何?」莊王曰:「令尹言戰晉未必捷,是以去之。」伍參曰:「臣已料之審矣。荀林父新將中軍,威信未孚於眾。其佐先穀,先軫之孫,先且居之子,恃其世勳,且剛愎不仁,非用命之將也。欒趙之輩,皆累世名將,各行其意,號令不一。晉師雖多,敗之易耳。且王以一國之主,而避晉之諸臣,將遺笑於天下,況能有鄭乎?」莊王愕然曰:「寡人雖不能軍,何至出晉諸臣之下?寡人從子戰矣!」即夜使人告令尹孫叔敖,將乘轅一齊改為北嚮,進至管城,以待晉師。不知勝負如何,且看下回分解。

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