東周列國志第五十八回 秦伯を説いて魏相が医を迎える/魏錡に報いて養叔が技を献ずる (說秦伯魏相迎醫 報魏錡養叔獻藝)

桑門の巫の長の予言

  • さて晋の景公は蓬髪の大鬼に打たれ、口から鮮血を吐いて悶絶し、地に倒れた。
  • 内侍が寝室まで抱えて運び、しばらくしてようやく目覚めた。
  • 群臣はみな楽しめず散会した。
  • 景公はそのまま病に伏して起き上がれなくなった。
  • 左右の者の中には「桑門の巫の長は白昼に鬼を見ることができます。どうか呼んではいかがでしょう」と言う者があった。
  • 桑門の巫の長は晋侯の召しを受け、寝所に入るやいなや「鬼がおります」と言った。
  • 景公は「鬼はどのような姿か」と尋ねた。
  • 巫の長は答えた。「蓬髪を振り乱して身の丈一丈余り、手で胸を叩き、その顔色は非常に怒っております。」
  • 景公は言った。「巫の言葉は寡人が見たものとぴったり合う。私が理由もなくその子孫を殺したと言っていた。この鬼は何者か分からぬが。」
  • 巫の長は言った。「先代の功臣で、その子孫が最も惨たらしい禍を被った者でございます。」
  • 景公はぎょっとして「趙氏の先祖ではないか」と言った。
  • 屠岸賈は傍らにいて、すぐに奏した。「巫は趙盾の食客です。それゆえ言葉を借りて趙氏のために冤罪を訴えているのです。わが君はお信じになってはなりません。」
  • 景公はしばらく黙り込み、また尋ねた。「鬼の祟りは払えるか。」
  • 巫の長は言った。「怒りが甚だしく、祓っても益はございません。」
  • 景公は言った。「それでは寡人の寿命はどうなるのか。」
  • 巫の長は言った。「わたくしは死を冒して率直に申し上げます。おそらく主公の御病では、新麦を口にすることは叶わぬでしょう。」
  • 屠岸賈は言った。「麦の熟する時期は今月中に過ぎません。主公は病がおありとはいえ、精神はなおお盛んです。どうしてそこまでのことがありましょう。もし主公が新麦を召し上がることができれば、お前を死罪に処すぞ。」
  • 景公の裁断を待たず、巫の長を叱りつけて退出させた。
  • 巫の長が去ったのち、景公の病はますます深まった。晋国の医師たちが診に来たが、誰もその病状を見極められず、あえて薬を処方する者もいなかった。

秦の名医を求める(魏相の弁)

  • 大夫魏錡の子魏相が人々に言った。「聞くところによれば、秦国には高和・高緩という二人の名医がおり、扁鵲から伝授を受けて、陰陽の理に通じ、内外の病をよく治め、今は秦国の太医となっているという。主公の病を治すには、この人物以外にはあるまい。どうか迎えに行こうではないか。」
  • 人々は言った。「秦はわが仇敵の国だ。どうして良医を遣わしてわが君を救ってくれようか。」
  • 魏相はさらに言った。「患難を憐れみ災いを分かち合うのは、隣国のよき務めである。某は未熟ながら、三寸の舌をふるって、必ず名医を晋に連れて来る所存だ。」
  • 人々は言った。「そうしてくれれば、朝廷こぞってそなたの賜物にあずかることになろう。」
  • 魏相はその日のうちに旅支度をし、軺車を馳せて夜通し秦へ向かった。
  • 秦の桓公はその来意を尋ねた。
  • 魏相は奏した。「わが君は不幸にも狂病にかかり、貴国には和と緩という起死回生の術を持つ良医がいると聞き、臣は特に迎えに参りました。どうかわが君をお救いください。」
  • 桓公は言った。「晋国は理不尽にも、しばしばわが軍を敗った。わが国に良医がいたとしても、どうしてお前の主君を救ってやろうか。」
  • 魏相は正色して言った。「明公の仰せは誤っておられます。そもそも秦と晋は隣国であり、わが献公と貴国の穆公とは婚姻を結んで好誼を定め、代々親しんで参りました。貴国の穆公は初め恵公を晋に入れましたが、その後こちらへ攻め寄せて韓原の戦いを起こされました。続いて文公を入れましたが、また汜南での盟約破りがありました。この好誼を全うできなかったのは、みな貴国のなさったことです。文公が世を去ると、穆公はまた孟明の言を過度に信じ、我が襄公の幼弱に付け込み、崤山に軍を出して我が属国を襲い、自ら敗北を招きました。我らは三将を捕らえましたが、赦して誅殺いたしませんでした。それなのにすぐに誓いを破り、我が王官を奪いました。霊公・康公の代には、我らがひとたび崇を侵しただけで、貴国はすぐに晋を討ちました。さらに我が景公が斉の罪を問うたときも、明公はまた杜回を遣わして斉を救う師を興されました。敗れても懲りず、勝っても止めず、好誼を捨て仇を求めることは、すべて貴国によるものです。明公はよくお考えください。晋が秦を侵したのでしょうか、秦が晋を侵したのでしょうか。今、わが君は重病の憂いがあり、良き隣人の鍼の治療を借りたいと願っております。諸臣はみな『秦はわれらを深く絶ち切っている。必ず許すまい』と言いました。臣は言いました。『そうではない。秦君はしばしば行いを誤ってきたが、その心中に悔いがないとどうして分かろうか。この度の使いは、良医の手を借りて先君の旧好を修めようとするものだ』と。明公がもしお許しにならなければ、諸臣の秦を見立てた読みが当たっていたことになりましょう。そもそも隣国には患難を憐れむ誼があるものですが、明公はこれを廃されます。また医には人を活かす心があるものですが、明公はこれに背かれます。ひそかに明公のために、これは取るべき道ではないと存じます。」
  • 秦の桓公は魏相の言葉が慷慨に満ち、道理を詳しく説き明かしているのを見て、思わず敬意を起こして言った。「大夫が正しい見識をもって寡人を責めてくれた。どうして教えに従わずにいられよう。」
  • ただちに太医高緩に晋へ赴くよう詔した。
  • 魏相は謝恩し、高緩とともに雍州を出て、夜通し新絳を目指した。
  • これを証する詩がある(詩:婚姻を結んだ間柄が今や仇敵となったが、互いの災いを喜び禍を楽しむのが良き謀だとでもいうのか。魏相のよく回る舌がなければ、どうして名医を絳州まで招くことができただろうかと詠う)。

高緩の診断

  • 時に晋の景公の病は非常に危篤で、日夜秦の医者の到着を待ちわびていた。
  • ある時、夢に二人の子どもが自分の鼻から跳び出てくるのを見た。一人の子は言った。「秦の高緩は当代随一の名医だ。彼が来て薬を用いれば、我らは必ず傷つけられてしまう。どうやって避けようか。」
  • もう一人の子は言った。「もし肓の上、膏の下に隠れれば、彼はどうして我らをどうにもできまい。」
  • ほどなく、景公は心臓と胸の間に激しい痛みを覚え、大声で叫び、坐っても臥しても安まらなかった。
  • しばらくして、魏相が高緩を連れて到着し、宮中に入って脈を診た。
  • 緩は言った。「この病はどうにもなりません。」
  • 景公は「なぜか」と尋ねた。
  • 緩は答えた。「この病は肓の上、膏の下にあり、灸で攻めることもできず、針で達することもできません。薬の力をもってしても及びません。これはおそらく天命でございましょう。」
  • 景公は嘆じて言った。「その言葉はまさに私の夢と合致する。真に良医である。」
  • 手厚い餞別の礼をもって秦国に帰した。

屠岸賈の陰謀と桑門の巫の長の死、景公の死

  • 時に小内侍の江忠は、景公の看病に苦労し、朝方うっかり寝入ってしまったことがあった。
  • 夢に景公を背負って天に飛び上がる夢を見て、目覚めてから左右の者にそれを語った。
  • ちょうど屠岸賈が病気見舞いに宮中に入り、その夢を聞いて、景公に賀した。「天は陽で明るく、病は陰で暗いものです。天に飛び上がるというのは、暗を離れて明に就くということです。主君の御病は必ず次第に治ってまいりましょう。」
  • 晋侯はその日、自らも胸のつかえがやや軽くなったように感じており、これを聞いて大いに喜んだ。
  • 突然、「甸人(籍田を管理する役人)が新麦を献上して参りました」との報告があった。
  • 景公はこれを食したいと望み、饔人に命じてその半分を取り、搗いて粥にさせた。
  • 屠岸賈は桑門の巫の長が趙氏の冤罪を言ったことを恨みに思っており、そこで奏した。「先の巫が主公は新麦を召し上がることは叶わぬと言いましたが、今やその言葉は当たりませんでした。呼び出してこれを見せつけましょう。」
  • 景公はその言に従い、桑門の巫の長を召して宮中に入らせ、岸賈に責めさせた。「新麦がここにある。それでもなお召し上がれぬなどと患うのか。」
  • 巫は言った。「まだ分かりません。」
  • 景公の顔色が変わった。
  • 岸賈は「この小臣は呪詛をしております。斬るべきです」と言った。
  • ただちに左右に命じて引き立てさせた。
  • 巫の長は嘆じて言った。「私は小さな術に明るいばかりに、自ら我が身に禍を招いてしまった。悲しいことではないか。」
  • 左右の者が巫の長の首を献上したちょうどその時、饔人が麦粥を献上した。時はすでに正午であった。
  • 景公がまさにこれを口にしようとした時、突然腹が張って便意を催した。
  • 江忠を呼んで「私を背負って便所に連れて行け」と言った。
  • ちょうど便所に下ろしたところで、一陣の心臓の痛みに襲われ、足が立たなくなり、便所の中に落ち込んだ。
  • 江忠は汚れも顧みず抱き起こしたが、すでに息が絶えていた。(結局、ついに新麦を口にすることはなく、桑門の巫の長を無実の罪で殺してしまったのは、みな屠岸賈の過ちである。)
  • 上卿の欒書は、百官を率いて世子の州蒲を奉じて哀を挙げ、即位させた。これが厲公である。
  • 人々は江忠がかつて公を背負って天に登る夢を見たことを議論し、後に公を背負って便所から抱え出したことがちょうどその夢に応じたとして、江忠を殉死させることにした。(あの時もし夢のことを言わなければ、この禍いはなかったであろう。口は禍のもと、慎まねばならぬ。)
  • 晋の景公が怨霊に打たれて死んだことにより、晋人の中には趙氏の冤罪を語る者が多くなった。ただ欒・郤の二家はみな屠岸賈と親しく通じ合っており、韓厥ひとりだけでは孤掌鳴らしがたく、それゆえ趙氏のために冤を訴えることができなかった。

宋の華元の斡旋で晋楚が講和し西門の盟が成る

  • ちょうどこの頃、宋の共公は上卿の華元を遣わして晋に弔問させ、あわせて新君の即位を祝賀させた。
  • 華元は欒書と相談し、晋と楚の講和をまとめて、南北の争いを避け、民が塗炭の苦しみを免れさせようとした。
  • 欒書は「楚はまだ信用できない」と言った。
  • 華元は「私は子重と親しい。任せてもらえるだろう」と言った。
  • 欒書はそこで幼子の欒鍼を、華元とともに楚に遣わし、まず公子嬰斉と会わせた。
  • 嬰斉は欒鍼が年若く容姿優れているのを見て、華元に問い、中軍元帥の子であると知った。その才を試そうと問うた。「貴国の用兵の法はどのようなものか。」
  • 鍼は答えた。「整然としております。」
  • また問うた。「他に何か優れた点は。」
  • 鍼は答えた。「余裕がございます。」
  • 嬰斉は言った。「人が乱れているとき我らは整然とし、人が慌てているとき我らは悠然としている。それでどうして戦に勝てないことがあろうか。二字でよくすべてを言い尽くしていると言えよう。」
  • これより一層敬重されるようになった。
  • そこで楚王に引見させ、両国が講和を結び、国境を守り民を安んじ、干戈を動かす者は鬼神がこれを誅せんことを、と定めた。
  • そのまま期日を決めて盟を結んだ。晋の士燮と楚の公子罷は、共に宋国の西門の外で血をすすって盟った。

楚の内紛と鄭の再服属

  • 楚の司馬公子側は、自分がこの議に与れなかったことに大いに怒り、「南北が互いに通じ合わなくなって久しいというのに、子重が単独で講和成立の功を独り占めしようとしている。私はこれを必ず壊してやる」と言った。
  • そして巫臣が呉子寿夢を糾合し、晋・魯・斉・宋・衛・鄭の各国の大夫と鐘離で会したことを探り出し、公子側は楚王に説いた。「晋と呉が好誼を通じたのは、必ず楚を謀る意図があります。宋も鄭もすでにそちらに従っており、楚の傘下は空っぽになってしまいました。」
  • 共王は言った。「私は鄭を討ちたいが、西門の盟をどうしたものか。」
  • 公子側は言った。「宋と鄭が楚の盟を受けたのは、一日二日のことではありません。ただ盟を顧みず、それゆえ晋に付いているのです。今日の事は、利があれば進むのみ。盟など何のためになりましょうか。」
  • 共王はそこで公子側に軍を率いさせて鄭を討たせ、鄭は再び晋に背いて楚に従った。これは周の簡王十年のことである。

晋厲公の驕りと三郤の専権、伯宗の誅殺

  • 晋の厲公は大いに怒り、諸大夫を集めて鄭を討つことを議した。
  • 時に欒書が政を執っていたが、三郤が権力を握っていた。あの三郤とは、郤錡・郤犨・郤至である。錡は上軍元帥、犨は上軍副将、至は新軍副将となり、犨の子の郤毅、至の弟の郤乞も、ともに大夫として権勢を振るっていた。
  • 伯宗は人柄が正直でよく直言し、たびたび厲公に「郤氏は一族が大きく勢力が盛んです。賢愚を分別し、いくらかその権力を抑えて、功臣の子孫を保全すべきです」と言った。
  • 厲公はこれを聞き入れなかった。
  • 三郤は伯宗を骨の髄まで恨み、朝政を誹謗したと讒言した。
  • 厲公はこれを信じ、逆に伯宗を殺した。
  • その子の伯州犁は楚に出奔し、楚は彼を太宰として用い、共に晋を謀るようになった。
  • 厲公は生来驕慢で贅沢を好み、あわせて内外に寵愛する者が非常に多かった。外の寵臣、胥童・夷羊五・長魚矯・匠麗氏らの一団の若者たちは、みな大夫に任じられた。内の寵愛する美姫や愛婢は数え切れないほどであった。
  • 日々淫楽にふけり、諂う者を好み正しい者を嫌ったため、政事は修まらず、群臣の心は離れていった。
  • 士燮は朝政が日々乱れているのを見て、鄭を討つことを望まなかった。
  • 郤至は「鄭を討たなければ、どうして諸侯に覇を求められようか」と言った。
  • 欒書は「今日、鄭を失えば、魯・宋もまた離心するだろう。温季(郤至)の言うことは正しい」と言った。
  • 楚の降将苗賁皇もまた鄭を討つことを勧め、厲公はその言に従った。
  • 荀罃だけを留守居に残し、そのまま自ら大将の欒書・士燮・郤錡・荀偃・韓厥・郤至・魏錡・欒鍼らを率い、車六百乗を出して、浩々蕩々として鄭国へと攻め入った。
  • 一方で郤犨を魯・衛など各国に遣わして、援兵を請わせた。

鄭の対応と楚の来援

  • 鄭の成公は晋の兵勢が大きいことを聞き、降伏しようと図った。
  • 大夫の姚鉤耳は言った。「鄭の地は狭小で、二つの大国に挟まれています。ただ一つの強国を選んで事えるべきであり、どうして朝に楚、暮に晋とし、年々兵を受けてよいものでしょうか。」
  • 鄭の成公は「それではどうすればよいか」と尋ねた。
  • 鉤耳は言った。「臣の見るところでは、楚に救援を求めるにこしたことはありません。楚が来れば、我らはこれと挟撃し、晋兵を大いに破れば、数年の安寧を保てましょう。」
  • 成公はそこで鉤耳を楚へ遣わして救援を求めさせた。
  • 楚の共王は、あの西門の盟を破ることになるのをなお気に病み、兵を起こそうとせず、令尹の嬰斉に問うた。
  • 嬰斉は答えた。「我らに真に信がなかったために晋の軍を招いたのであり、しかも鄭を庇ってこれと争えば、民を疲弊させて事を成し遂げようとすることになります。勝つとは限りません。待つにこしたことはありません。」
  • 公子側が進んで言った。「鄭人が楚に背くに忍びず、それゆえ急を告げてきたのです。以前は斉を救わず、今また鄭を救わなければ、これは帰順しようとする者の望みを絶つことになります。臣は未熟ながら、一軍を率いて主君の御車を守り、参りたく存じます。ぜひとも再び、敵の指を掬うほどの大勝の功を奏したいと存じます。」
  • 共王は大いに喜び、司馬の公子側を中軍元帥、令尹の公子嬰斉を左軍、右尹の公子壬夫を右軍の将に任じた。
  • 自ら親軍の両広の兵を統率し、北へ向けて進発し、鄭を救いに向かった。
  • 一日百里を行く速さは、まるで風のようであった。早くも物見の馬が晋軍に報告した。
  • 士燮はひそかに欒書に言った。「主君は幼く国事を知らない。私は偽って楚を畏れてこれを避けるふりをし、主君の心を戒めて、覚悟をお知りいただこう。それでいくらか安泰でいられよう。」
  • 欒書は「畏れて避けるという名は、書は受け入れられぬ」と言った。
  • 士燮は退いて嘆じて言った。「この戦、敗れれば幸いだ。万一勝てば、外が安寧になれば必ず内に憂いが生じるものだ。私はそれをひどく恐れている。」

鄢陵の戦い 開戦前夜

  • 時に楚軍はすでに鄢陵を過ぎ、晋軍は前進できず、彭祖岡に屯していた。両軍はそれぞれ陣営を構えた。
  • 翌日は六月甲午の大尽の日であり、晦日と呼ばれる日であった。晦の日には軍を動かさぬのが慣例で、晋軍は準備をしていなかった。
  • 五更の漏刻が尽きて、まだ夜が明けきらぬうちに、突然陣営の外に喊声が大いに響いた。
  • 陣営を守る兵士が急いで報告した。「楚軍が本営に直接迫り、陣を敷いております。」
  • 欒書は大いに驚いて言った。「彼らはすでに我が軍を圧して陣を敷いた。我が軍は隊列を整えられない。交戦すればおそらく不利になろう。しばらく陣営を堅守し、じっくり計を練って破ることを待とう。」
  • 諸将は口々に議論し、精鋭を選んで陣を突かせよと言う者もあれば、兵を移して後退させよと言う者もいた。
  • 時に士燮の子(底本は名の一字を欠く)で、年わずか十六歳の者が、衆議の決まらぬのを聞き、中軍に飛び込んで欒書に言った。「元帥は戦う場所がないことをご心配なさっているのですか。これはたやすいことです。」
  • 欒書は「そなたにどのような計があるのか」と尋ねた。
  • その子は言った。「令を伝えて陣営の門をしっかり守らせ、兵士に陣営内でひそかに竈の土をすべて削り平らげさせ、井戸は板で覆わせれば、半時ほどで陣を組む余地は十分できましょう。すでに軍中で隊列を組み終えたら、陣営を切り開いて戦いの道とすれば、楚が我らをどうできましょうか。」
  • 欒書は言った。「井戸と竈は軍中の急務だ。竈を平らげ井戸を塞げば、どうやって食事をするのか。」
  • その子は言った。「先に各軍に干し飯と清水を準備させ、一二日分は十分に足りるようにし、陣が定まるのを待ってから、老弱の兵を分けて陣営の後ろに別に井戸と竈を作らせればよいのです。」
  • 士燮はもともと戦うことを望んでおらず、我が子が計を進めるのを見て、大いに怒り、罵った。「兵の勝敗は天命に関わるものだ。お前のような子どもに何が分かるというのか。よくもここで舌先三寸を弄するものだ。」
  • そして戈を抜いて息子を追い立てようとした。
  • 諸将が士燮を抱きとめ、その子はようやく逃げることができた。
  • 欒書は笑って言った。「この子どもの知恵は、范孟(士燮)にも勝るものだ。」
  • そこでその子の計に従い、各陣営に干し飯を多く作らせたのち、竈を平らげ井戸を掩わせ、陣を敷かせて、翌日の交戦の備えをさせた。
  • 胡曾が史をうたう詩がある(詩:軍中に陣を敷いたのは奇謀であり、士燮は戈を抜いて仇のように我が子を追い立てた。心機が童子に劣っているわけではなく、老成した憂国の思いに深い計略があったのだと詠う)。

楚共王、轈車に登って晋陣を望み見る

  • さて楚の共王はまっすぐ晋の陣営に迫って布陣し、思いがけない不意打ちで、必ず軍中が動揺するだろうと考えていた。
  • しかし静まりかえって動きが見えず、太宰の伯州犁に問うた。「晋兵は陣営を堅く守って動かない。そなたは晋人だ。必ずその事情を知っているだろう。」
  • 州犁は言った。「王よ、轈車にお登りになってご覧ください。」
  • 楚王は轈車に登り、州犁をその傍らに立たせた。
  • 王は問うた。「晋兵が馳せ回り、あるいは左へあるいは右へ行くのは何のためか。」
  • 州犁は答えた。「軍吏を召集しているのです。」
  • 王は言った。「今また中軍に群れ集まったな。」
  • 州犁は「合議しているのです」と言った。
  • また眺めて言った。「突然幕を張ったのはなぜか。」
  • 州犁は言った。「つつしんで出陣のことを先君に奉告しているのです。」
  • また眺めて言った。「今また幕を撤去したぞ。」
  • 答えた。「軍令を発しようとしているのです。」
  • また眺めて言った。「軍中がなぜ喧しく、砂塵が絶えないのか。」
  • 答えた。「彼らは隊列を組む場所が得られないので、井戸を塞ぎ竈を平らげて、戦地を作ろうとしているのです。」
  • また眺めて言った。「車にはみな馬がつながれ、将兵たちが車に乗り込んだぞ。」
  • 答えた。「陣を組もうとしているのです。」
  • また眺めて言った。「車に乗った者がまた降りたのはなぜか。」
  • 答えた。「これから戦うにあたって神に祈っているのです。」
  • また眺めて言った。「中軍の勢いは非常に盛んに見える。その君はそこにいるのか。」
  • 答えた。「欒・范の一族が主君を守って陣を組んでおります。軽々しく敵を侮ってはなりません。」
  • 楚王は晋国の事情をすっかり知り尽くし、そこで軍中に戒めを発し、翌日の交戦の支度を整えさせた。
  • 楚の降将苗賁皇もまた晋侯の傍らに侍っており、策を献じた。「令尹孫叔敖が死んで以来、軍政は常なきものとなっております。両広の精兵も久しく入れ替えず、老いて戦えぬ者が多くなっております。しかも左右の二帥は仲が良くありません。この一戦、楚は破れましょう。」
  • 髯翁に詩がある(詩:楚が州犁を用いたのはもともと晋の良臣であり、晋が苗賁皇を用いたのはもともと楚の人材である。人材は得難く大切にすべきものであるのに、謀臣を外国に貸し与えてはならぬと詠う)。

潘党と養繇基の腕比べ

  • この日、両軍はそれぞれ陣営を固めてにらみ合い、まだ戦わなかった。
  • 楚の将潘党は陣営の後ろで的の中心を試し射ちし、三本連続で命中させ、諸将はどよめいて称賛した。
  • ちょうど養繇基が到着すると、諸将は「神業の弓の名手が来たぞ」と言った。
  • 潘党は怒って言った。「私の弓が養叔に劣るというのか。」
  • 養繇基は言った。「そなたはただ的の中心を射当てられるだけで、大したことはない。私の矢は百歩離れた柳の葉を射抜くことができる。」
  • 諸将は「どういうことか百歩穿楊とは」と尋ねた。
  • 繇基は言った。「かつてある人が柳の一葉に色を付けて印を付け、私が百歩の外からこれを射たところ、まさにその葉の中心を射抜いたことがある。それで百歩穿楊というのだ。」
  • 諸将は「ここにも柳の木がある。試しに射ってもらえないか」と言った。
  • 繇基は「もちろんできる」と言った。
  • 諸将は大いに喜んで言った。「今日こそ養叔の神業の弓を拝見できるぞ。」
  • そこで柳の枝の一葉に墨で印をつけさせ、繇基に百歩の外からこれを射させると、矢は落ちてこなかった。
  • 諸将が見に行くと、矢は柳の枝に引っかかっており、鏃はまさに葉の中心を貫いていた。
  • 潘党は言った。「一本の矢がたまたま当たっただけかもしれぬ。私の言う通りに、三枚の葉を順に印をつけ、順番に射当ててこそ、本当の腕前と言えよう。」
  • 繇基は「できるかどうか分からぬが、試してみよう」と言った。
  • 潘党は柳の木の高い所と低い所に三枚の葉を印し、「一」「二」「三」の字を書いた。
  • 養繇基もこれを確認し、百歩の外へ退いて、自らの三本の矢にも「一」「二」「三」の番号を記し、順番に放つと、順序通りに命中し、寸分の狂いもなかった。
  • 諸将はみな両手を拱いて「養叔は真に神人である」と言った。
  • 潘党は内心密かに驚嘆したが、なお自分の得意を示したく、繇基に言った。「養叔の射は巧みと言えよう。しかし人を殺すのはやはり力の強さで勝る。私の射は幾重もの堅い甲を貫くことができる。それも諸君のために試して見せよう。」
  • 諸将はみな「拝見したい」と言った。
  • 潘党は従軍の、組糸で綴じた鎧を着た兵士に甲を脱がせ、五層に重ねさせた。
  • 諸将は「これで十分だろう」と言った。
  • 潘党はさらに二層を加え、合わせて七層とさせた。
  • 諸将は「七層の甲はほぼ一尺の厚さになる。どうして射通すことができようか」と思った。
  • 潘党はその七層の堅い甲を的の的皮に張らせた。
  • 彼もまた百歩の外に立ち、黒彫りの弓を張り、狼牙の矢をつがえ、左手は泰山を支えるように、右手は嬰児を抱くように、狙いをしっかり定めて、力の限り放った。
  • ばしりと音がして、「当たった」と叫んだ。
  • 矢が刺さったのが見え、落ちてこなかったので、人々が近づいて見ると、口をそろえて「見事だ、見事だ」と喝采した。
  • なんとその弓の力が強く深かったため、この矢はまっすぐ七層の堅い甲を貫き通し、釘が物に打ち込まれたように、しっかりと突き刺さって揺すってもびくともしなかった。
  • 潘党は得意気な顔をして、兵士に層をなす甲を矢ごと取り外させ、それを陣営中に見せびらかそうとした。
  • 養繇基はさらに「動かすな。私も一矢試してみよう。どうなるか分からぬが」と言った。
  • 諸将は「養叔の神力も拝見したい」と言った。
  • 繇基は弓を手に取ったが、射ようとしてまた止めた。
  • 諸将は「養叔はどうして射たれないのか」と尋ねた。
  • 繇基は言った。「ただ型通りに札を射抜くだけでは珍しくもない。私には矢を送る方法がある。」
  • 言い終わると、矢をつがえ、ひゅうっと放って、「よし」と叫んだ。
  • この矢は上でも下でもなく、左でも右でもなく、ちょうど潘党のあの矢を根元から突き飛ばし、的皮の向こう側まで送り出してしまった。
  • 繇基のこの矢は、依然として重なった甲の穴の中に刺さっていた。
  • 諸将はこれを見て、みな舌を巻いた。
  • 潘党はようやく心服し、嘆じて言った。「養叔の妙技には、私は及ばぬ。」
  • 史書には、楚王が荊山で狩りをしたとき、山中に通臂猿という猿がいて、飛んでくる矢をよく受け止めたと記されている。楚兵が幾重にも取り囲み、王が左右に矢を放たせても、みなその猿に受け止められてしまった。
  • そこで養繇基を召した。猿は繇基の名を聞くと、たちまち泣き叫んだ。繇基が到着すると、一発でその猿の心臓を射抜いた。
  • 春秋第一の射手であることは、名に偽りがなかった。
  • 潜淵に詩がある(詩:落ちる烏を貫き虱を貫くほどの技は並ぶ者なく、百歩穿楊はさらに稀有なことである。堅い札を穿つ将軍もまだ珍しいというには足りない、強者の中にはさらに強者がいるものだと詠う)。
  • 諸将は言った。「晋楚が対峙する中、我が王はまさに人材登用の時にある。両将軍にこれほどの神業の弓の腕がある以上、王に奏上すべきである。美玉は箱に隠しておいてはならぬものだ。」
  • そこで兵士に矢が突き刺さった重なる甲を持たせて楚の共王の前まで運ばせ、養繇基と潘党もともに赴いた。
  • 諸将は両人の先後の賭け射ちの事を、詳しく王に奏上した。「わが国にはこのような神業の弓の名手がおります。晋兵百万を何を恐れましょうか。」
  • 楚王は大いに怒って言った。「戦は謀をもって勝つべきものだ。どうして一本の矢の僥倖に頼るのか。お前がこのように自ら恃みとするならば、いずれ必ず技のために死ぬだろう。」
  • 繇基のすべての矢を取り上げ、これ以上射ることを許さなかった。
  • 養繇基は恥じ入って退出した。

鄢陵の戦い 開戦

  • 翌日五更、両軍はそれぞれ太鼓を鳴らして進軍した。
  • 晋の上軍元帥郤錡は楚の左軍を攻め、公子嬰斉と対戦した。下軍元帥韓厥は楚の右軍を攻め、公子壬夫と対戦した。
  • 欒書と士燮はそれぞれ自分の部隊の車馬を率い、中軍で主君を護衛し、楚の共王と公子側に対した。
  • こちら晋の厲公は郤毅が御者、欒鍼が車右将軍となり、郤至らは新軍を率いて後隊として呼応・救援にあたった。
  • 一方楚の共王は出陣した。午前は本来ならば右広に乗る番であったが、右広はあの養繇基が将であり、共王は繇基が射を恃んで大言を吐いたことを怒って右広を用いず、左広に乗った。彭名が御者、屈蕩が車右将車であった。
  • 鄭の成公は自国の車馬を率いて後隊として呼応・救援にあたった。

楚共王負傷、魏錡の死

  • さて厲公は沖天鳳翅の兜をかぶり、蟠龍紅錦の戦装束を身にまとい、腰に宝剣を帯び、手に方天の大戟を提げ、金葉に包まれた戎輅に乗っていた。右に欒書、左に士燮を従え、軍門を開いて楚の陣に殺到した。
  • 意外にも陣の前には泥沼があり、明け方でまだ十分に見極められておらず、郤毅が勇猛に車を御していたため、ちょうど晋侯の車の輪が泥沼にはまり、馬が動けなくなった。
  • 楚の共王の子熊茷は、年若く勇を好み、前隊を率いていたが、晋侯の車が陥っているのを望み見て、車を駆って追いかけてきた。
  • そこで欒鍼が急いで車を跳び降り、泥沼の中に立って、生涯の力を尽くして両輪を持ち上げると、車が浮き馬が動き、一歩一歩泥沼から抜け出した。
  • そこへ熊茷が今にも追いつこうとしていた。こちらでは欒書の軍馬も到着し、大声で「小将、無礼をするな」と叫んだ。
  • 熊茷は旗に「中軍元帥」の字があるのを見て、大軍と知り、驚いて車を返して逃げようとしたが、欒書に追いつかれて生け捕りにされた。
  • 楚軍は熊茷が捕らえられたのを見て、一斉に助けに来た。しかし士燮が兵を率いて突出し、後隊の郤至らもみな到着したので、楚兵は伏兵に落ちることを恐れて、兵を収めて陣営に戻った。
  • 晋兵も追撃せず、それぞれ陣営に戻った。
  • 物見の馬の報告では、楚の左軍は慎重で、晋の上軍は交戦せず、下軍は二十余合戦って互いに死傷者が出た。勝敗は決まらず、翌日再び戦うことを約した。
  • 欒書は熊茷を捕らえた功を献じ、晋侯は彼を斬ろうとした。
  • 苗賁皇が進んで言った。「楚王はわが子が捕らえられたと聞けば、明日は必ず自ら出陣してくるでしょう。熊茷を陣前に幽閉し、往来させて誘い出すのがよいでしょう。」
  • 晋侯は「よかろう」と言った。
  • その夜は特に何事もなく休息した。
  • 夜明け、欒書は陣営を開いて戦を求めた。
  • 大将魏錡が欒書に告げた。「私は昨夜、天上に一輪の明月が浮かんでいる夢を見て、弓を引いてこれを射たところ、まさに月の中心に命中し、月の中から金色の光が一筋放たれ、まっすぐ下に流れ落ちてきました。慌てて後ずさりしたところ、思わず足を滑らせ、陣営の前の泥沼に陥り、はっと目が覚めました。これはどんな兆しでしょうか。」
  • 欒書はこれを解いて言った。「周王室と同姓の者は日にたとえ、異姓の者は月にたとえる。月を射て命中したのならば、必ず楚君であろう。しかし泥沼に落ちたというのは、それは黄泉の中であり、退いて泥に入るというのも吉兆ではない。将軍よ、必ず慎重にせよ。」
  • 魏錡は「もし楚を破ることができるならば、たとえ死んでも何の恨みもございません」と言った。
  • 欒書はそこで魏錡に陣を突かせることを許した。
  • 楚の将工尹襄が出て来た。何度も打ち合わぬうちに、晋兵は陣上に囚車を引き出し、往来させた。
  • 楚の共王は自分の子熊茷が陣中に囚われているのを見て、心臓に火がついたように焦り、慌てて彭名に馬に鞭打たせ、前に進んで囚車を奪いに行かせた。
  • 魏錡はこれを望み見て、工尹襄を捨て、まっすぐ楚王を追い、一本の矢を架けてひゅうっと放つと、まさに楚王の左目に命中した。
  • 潘党が力戦して楚王の車を回し逃れさせた。
  • 楚王は痛みに耐えて矢を抜くと、その瞳が鏃とともに抜け出たので、これを地面に投げ捨てた。
  • 小卒がこれを拾い上げて献上し、「これは龍の瞳です。粗末に扱うべきではございません」と言った。
  • 楚王はこれを矢筒の中に納めた。
  • 晋兵は魏錡が有利になったのを見て、一斉に攻め上がった。
  • 公子側は兵を率いて死力を尽くして防戦し、楚の共王を救い出した。
  • 郤至は鄭の成公を包囲したが、御者が大旗を弓袋の中に隠したため、成公も逃げ延びた。
  • この時楚王は怒りが甚だしく、急いで神箭将軍養繇基を呼んで駕護させようとした。
  • 養繇基は呼ばれてすぐに慌てて馳せ参じたが、身の回りに矢が一本もなかった。
  • 楚王は二本の矢を取って彼に授け、言った。「寡人を射たのは緑の袍を着て虬髯の男だ。将軍よ、寡人のために仇を討ってくれ。将軍の絶技をもってすれば、多くの矢を費やすまでもあるまい。」
  • 繇基は矢を受け、車を飛ばして晋の陣に駆け入ると、ちょうど緑の袍で虬髯の男に出くわし、それが魏錡であると知った。
  • 大声で罵った。「匹夫よ、何の腕前あってわが主君を射傷したのか。」
  • 魏錡がまさに答えようとしたところ、繇基の矢がすでに到達し、まさに魏錡の首筋に命中し、弓袋にもたれかかって死んだ。
  • 欒書は軍を率いてその屍を奪い返した。
  • 繇基は残った一本の矢を楚王に返して奏した。「大王の威霊のおかげで、すでに緑の袍で虬髯の将を射殺いたしました。」
  • 共王は大いに喜び、自ら錦の袍を脱いで彼に賜り、あわせて狼牙の矢百本を与えた。
  • 軍中では彼を「養一箭」と称した。つまり第二の矢を要しないという意味である。
  • これを証する詩がある(詩:馬に鞭打ち車を飛ばす様は虎が山を下るがごとく、晋兵はこれを一目見ただけで肝を冷やした。万人の中で名将を誅殺し、一本の矢で功を成して凱旋したと詠う)。

晋楚両軍の対峙終盤

  • さて晋兵は楚兵を非常に激しく追撃していたが、養繇基は矢をつがえ弓を引いたまま陣前に立ちはだかり、追う者があれば射殺したので、晋兵はそれ以上迫ることができなかった。
  • 楚の将嬰斉と壬夫は楚王が矢に当たったと聞き、それぞれ駆けつけて応戦し、乱戦のすえ、晋兵はようやく退いた。
  • 欒鍼は令尹の旗印を望み見て、公子嬰斉の軍だと知り、晋侯に請うて言った。「臣は以前楚に使いした際、楚の令尹子重が晋国の用兵の法を問われたので、臣は『整然』『余裕』の二語で答えました。今、乱戦を見ましたが整然としているようには見えず、それぞれ退くのも余裕あるようには見えません。臣は使者に酒を持たせて彼に献じ、以前の言葉を実践させたく存じます。」
  • 晋侯は「よかろう」と言った。
  • 欒鍼はそこで使者に酒樽を持たせ、嬰斉の軍に赴かせて言わせた。「わが君は人材に乏しく、鍼に矛を執って車右を務めるよう命じておりますので、自ら従者の方々をねぎらうことができません。そこで鍼に代わり、某が一杯を進めさせていただきます。」
  • 嬰斉は以前の「整然」「余裕」の言葉を思い出し、嘆じて言った。「小将軍はよく物事を覚えているものだ。」
  • その樽を受け取り、使者に対して飲みながら言った。「明日、陣の前でお目にかかった際に、直接お礼を申し上げよう。」
  • 使者は帰ってこの言葉を報告した。
  • 欒鍼は言った。「楚君は矢を受けたが、その軍はまだ退く気配がない。どうしたものか。」
  • 苗賁皇は言った。「車と兵を検閲し、兵卒を補い、馬を秣らせ武器を研ぎ、陣を整え隊列を固め、鶏鳴とともに食事を済ませ、決死の戦いをすれば、どうして楚を恐れることがありましょうか。」
  • 時に郤犨と欒黶が魯・衛への援兵要請から戻り、両国とも兵を起こして援軍に来ており、すでに二十里ほどの近くにいると報告した。
  • 楚の間者がこれを探り知り、楚王に報告した。
  • 楚王は大いに驚いて言った。「晋兵はすでに多いのに、魯・衛までも来るとは。どうしたものか。」
  • ただちに左右に命じて中軍元帥公子側を召し、これと対策を協議した。
  • 後の事がどうなるかは分からない。続きは次回で語られる。
原文(底本)
話說晉景公被蓬頭大鬼所擊,口吐鮮血,悶倒在地。內侍扶入內寢,良久方醒。群臣皆不樂而散。景公遂病不能起。左右或言:「桑門大巫,能白日見鬼,盍往召之?」桑門大巫奉晉侯之召,甫入寢門,便言:「有鬼!」景公問:「鬼狀何如?」大巫對曰:「蓬頭披髮,身長丈餘,以手拍胸,其色甚怒。」景公曰:「巫言與寡人所見正合,言寡人枉殺其子孫,不知此何鬼也?」大巫曰:「先世有功之臣,其子孫被禍最慘者是也。」景公愕然曰:「得非趙氏之祖乎?」屠岸賈在旁,即奏曰:「巫者乃趙盾門客,故借端為趙氏訟冤,吾君不可聽信。」景公嘿然良久,又問曰:「鬼可禳否?」大巫曰:「怒甚,禳之無益。」景公曰:「然則寡人大限何如?」大巫曰:「小人冒死直言,恐君之病,不能嘗新麥也。」屠岸賈曰:「麥熟只在月內,君雖病,精神猶旺,何至如此?若主公得嘗新麥,汝當死罪!」不繇景公發落,叱之使出。大巫去後,景公病愈深,晉國醫生入視,不識其症,不敢下藥。

  大夫魏錡之子魏相言於眾曰:「吾聞秦有名醫二人,高和高緩,得傳授於扁鵲,能達陰陽之理,善攻內外之症,見為秦國太醫。欲治主公之病,非此人不可。盍往請之?」眾曰:「秦乃吾之仇國,豈肯遣良醫以救吾君哉?」魏相又曰:「恤患分災,鄰國之美事。某雖不才,願掉三寸之舌,必得名醫來晉。」眾曰:「如此,則舉朝皆拜子之賜矣!」

  魏相即日束裝,馳軺車星夜往秦。秦桓公問其來意。魏相奏曰:「寡君不幸而沾狂病,聞上國有良醫和緩,有起死回生之術,臣特來敦請,以救寡君。」桓公曰:「晉國無理,屢敗我兵,吾國雖有良醫,豈救汝君哉?」魏相正色曰:「明公之言差矣!夫秦晉比鄰之國,故我獻公與爾穆公,結婚定好,世世相親。爾穆公始納惠公,復有韓原之來戰﹔繼納文公,又有汜南之背盟。不終其好,皆爾為之。文公即世,穆公又過聽孟明,欺我襄公之幼弱,師出崤山,襲我屬國,自取敗衂。我獲三帥,赦而不誅,旋違誓言,奪我王官。靈康之世,我一侵崇,爾即伐晉。及我景公問罪於齊,明公又遣杜回興救齊之師。敗不知懲,勝不知止,棄好尋仇,莫不由秦。明公試思:晉犯秦乎?秦犯晉乎?今寡君有負茲之憂,欲借針砭於高鄰,諸臣皆曰:『秦絕我甚,必不許。』臣曰:『不然。秦君屢舉不當,安知不悔於厥心?此行也,將假國手以修先君之舊好。』明公若不許,則諸臣之料秦者中矣!夫鄰有恤患之誼,而明公廢之﹔醫有活人之心,而明公背之。竊為明公不取也。」秦桓公見魏相言辭慷慨,分剖詳明,不覺起敬曰:「大夫以正見責寡人,敢不聽教!」即詔太醫高緩往晉。魏相謝恩,遂與高緩同出雍州,星夜望新絳而來。有詩為證:

    婚媾於今作寇仇,幸災樂禍是良謀。若非魏相瀾翻舌,安得名醫到絳州?

  時晉景公病甚危篤,日夜望秦醫不至。忽夢有二豎子,從己鼻中跳出,一豎曰:「秦高緩乃當世之名醫,彼若至,用藥,我等必然被傷,何以避之?」又一豎子曰:「若躲在肓之上,膏之下,彼能奈我何哉?」須臾,景公大叫心膈間疼痛,坐臥不安。少頃,魏相引高緩至,入宮診脈畢,緩曰:「此病不可為矣!」景公曰:「何故?」緩對曰:「此病居肓之上,膏之下,既不可以灸攻,又不可以針達﹔即使用藥之力,亦不能及。此殆天命也。」景公嘆曰:「所言正合吾夢,真良醫矣!」厚其餞送之禮,遣歸秦國。

  時有小內侍江忠,伏侍景公辛苦,早間不覺失睡。夢見背負景公,飛騰於天上,醒來與左右言之。值屠岸賈入宮問疾,聞其夢,賀景公曰:「天者陽明,病者陰暗﹔飛騰天上,離暗就明,君之疾必漸平矣。」晉侯是日,亦自覺胸膈稍寬,聞言甚喜。忽報:「甸人來獻新麥。」景公欲嘗之,命饔人取其半,舂而屑之為粥。屠岸賈恨桑門大巫言趙氏之冤,乃奏曰:「前巫者言主公不能嘗新麥,今其言不驗矣,可召而示之。」景公從其言,召桑門大巫入宮,使岸賈責之曰:「新麥在此,猶患不能嘗乎?」巫者曰:「尚未可知。」景公色變。岸賈曰:「小臣咒詛,當斬!」即命左右牽去。大巫嘆曰:「吾因明於小術,以自禍其身,豈不悲哉!」左右獻大巫之首,恰好饔人將麥粥來獻,時日已中矣。景公方欲取嘗,忽然腹脹欲泄,喚江忠:「負我登廁。」纔放下廁,一陣心疼,立腳不住,墜入廁中。江忠顧不得污穢,抱他起來,氣已絕矣。(到底不曾嘗新麥,屈殺了桑門大巫,皆屠岸賈之過也!)上卿欒書,率百官奉世子州蒲舉哀即位,是為厲公。眾議江忠曾夢負公登天,後負公以出於廁,正應其夢,遂用江忠為殉葬焉。(當時若不言其夢,無此禍矣。口舌害身,不可不慎也!)因晉景公為厲鬼擊死,晉人多有言趙門冤枉之事者,只為欒郤二家,都與屠岸賈交通相善,只有一個韓厥,孤掌難鳴,是以不敢為趙氏伸冤。

  時宋共公遣上卿華元,行弔於晉,兼賀新君。因與欒書商議,欲合晉楚之成,免得南北交爭,生民塗炭。欒書曰:「楚未可信也。」華元曰:「元善於子重,可以任之。」欒書乃使其幼子欒鍼,同華元至楚,先與公子嬰齊相見。嬰齊見欒鍼年青貌偉,問於華元,知是中軍元帥之子,欲試其才,問曰:「上國用兵之法何如?」鍼對曰:「整。」又問:「更有何長?」鍼答曰:「暇。」嬰齊曰:「人亂我整,人忙我暇,何戰不勝?二字可謂簡而盡矣!」由此倍加敬重。遂引見楚王,定議兩國通和,守境安民,動干戈者,鬼神殛之!遂訂期為盟。晉士燮,楚公子罷,共歃血於宋國西門之外。

  楚司馬公子側,自以不曾與議,大怒曰:「南北之不相通久矣!子重欲擅合成之功,吾必敗之。」探知巫臣糾合吳子壽夢,與晉、魯、齊、宋、衛、鄭各國大夫會於鐘離,公子側遂說楚王曰:「晉吳通好,必有謀楚之情。宋鄭俱從,楚之宇下一空矣。」共王曰:「孤欲伐鄭,奈西門之盟何?」公子側曰:「宋鄭受盟於楚,非一日矣,惟不顧盟,是以附晉。今日之事,惟利則進,何以盟為?」共王乃命公子側帥師伐鄭,鄭復背晉從楚。此周簡王十年事也。

  晉厲公大怒,集諸大夫計議伐鄭。時欒書雖則為政,而三郤擅權。那三郤:乃郤錡、郤犨、郤至。錡為上軍元帥,犨為上軍副將,至為新軍副將,犨子郤毅,至弟郤乞,並為大夫用事。伯宗為人,正直敢言,屢向厲公言:「郤氏族大勢盛,宜分別賢愚,稍抑其權,以保全功臣之後。」厲公不聽。三郤恨伯宗入骨,遂譖伯宗謗毀朝政。厲公信之,反殺伯宗。其子伯州犁奔楚,楚用為太宰,與之謀晉。厲公素性驕侈,兼好內外嬖幸甚多。外嬖胥童、夷羊五、長魚矯、匠麗氏等一班少年,皆拜為大夫。內嬖美姬愛婢,不計其數。日事淫樂,好諛惡直,政事不修,群臣解體。士燮見朝政日非,不欲伐鄭。郤至曰:「不伐鄭,何以求諸侯?」欒書曰:「今日失鄭,魯宋亦將離心,溫季之言是也。」楚降將苗賁皇亦勸伐鄭,厲公從其言,獨留荀罃居守,遂親率大將欒書、士燮、郤錡、荀偃、韓厥、郤至、魏錡、欒鍼等,出車六百乘,浩浩蕩蕩,殺奔鄭國。一面使郤犨往魯衛各國,請兵助戰。

  鄭成公聞晉兵勢大,欲謀出降。大夫姚鉤耳曰:「鄭地褊小,間於兩大,只宜擇一強者而事之,豈可朝楚暮晉,而歲歲受兵乎?」鄭成公曰:「然則何如?」鉤耳曰:「依臣之見,莫如求救於楚。楚至,吾與之夾攻,大破晉兵,可保數年之安也。」成公遂遣鉤耳往楚求救。楚共王終以西門之盟為嫌,不欲起兵,問於令尹嬰齊。嬰齊對曰:「我實無信,以致晉師,又庇鄭而與之爭,勤民以逞,勝不可必,不如待之。」公子側進曰:「鄭人不忍背楚,是以告急。前不救齊,今又不救鄭,是絕歸附者之望也。臣雖不才,願提一旅,保駕前往,務要再奏『掬指』之功。」共王大悅,乃拜司馬公子側為中軍元帥,令尹公子嬰齊為左軍,右尹公子壬夫將右軍。自統親軍兩廣之眾,望北進發,來救鄭國。日行百里,其疾如風,早有哨馬報入晉軍。士燮私謂欒書曰:「君幼不知國事,吾偽為畏楚而避之,以儆君心,使知戒懼,猶可少安。」欒書曰:「畏避之名,書不敢居也。」士燮退而嘆曰:「此行得敗為幸,萬一戰勝,外寧必有內憂,吾甚懼之!」

  時楚兵已過鄢陵,晉兵不能前進,留屯彭祖岡,兩下各安營下寨。來日,是六月甲午大盡之日,名為晦日。晦不行兵,晉軍不做准備。五鼓漏盡,天色猶未大明,忽然寨外喊聲大振。守營軍士忙忙來報:「楚軍直逼本營,排下陣勢。」欒書大驚曰:「彼既壓我軍而陣,我軍不能成列,交兵恐致不利。且堅守營壘,待從容設計以破之。」諸將紛紛議論,有言選銳突陣者,有言移兵退後者。時士燮之子名,年纔一十六歲,聞眾議不決,乃突入中軍,稟於欒書曰:「元帥患無戰地乎?此易事也。」欒書曰:「子有何計?」士曰:「傳令牢把營門,軍士於寨內暗暗將灶土盡皆削平,井用木板掩蓋,不過半個時辰,結陣有餘地矣。既成列於軍中,決開營壘,以為戰道,楚其奈我何哉?」欒書曰:「井灶乃軍中急務,平灶塞井,何以為食?」曰:「先命各軍預備乾糧淨水,足支一二日,俟布陣已定,分撥老弱於營後另作井灶就之。」士燮本不欲戰,見其子進計,大怒,罵曰:「兵之勝負,關係天命。汝童子有何知識,敢在此搖脣鼓舌?」遂拔戈逐之。眾將把士燮抱住,士方能走脫。欒書笑曰:「此童子之智,勝於范孟也。」乃從士之計,令各寨多造乾糧,然後平灶掩井,擺列陣勢,准備來日交兵。胡曾詠史詩云:

    軍中列陣本奇謀,士燮抽戈若寇仇﹔豈是心機遜童子,老成憂國有深籌。

  卻說楚共王直逼晉營而陣,自謂出其不意,軍中必然擾亂。卻寂然不見動靜,乃問於太宰伯州犁曰:「晉兵堅壘不動,子晉人也,必知其情。」州犁曰:「請王登轈車而望之。」楚王登轈車,使州犁立於其側。王問曰:「晉兵馳騁,或左或右者何也?」州犁對曰:「召軍吏也。」王曰:「今又群聚於中軍矣。」州犁曰:「合而為謀也。」又望曰:「忽然張幕何故?」州犁曰:「虔告於先君也。」又望曰:「今又撤幕矣。」對曰:「將發軍令也。」又望曰:「軍中為何暄嘩,飛塵不止?」對曰:「彼因不得成列,將塞井平灶,為戰地耳。」又望曰:「車皆駕馬矣,將士升車矣。」對曰:「將結陣也。」又望曰:「升車者何以復下?」對曰:「將戰而禱神也。」又望曰:「中軍勢似甚盛,其君在乎?」對曰:「欒范之族,挾公而陣,不可輕敵也。」楚王盡知晉國之情,乃戒諭軍中,打點來日交鋒之事。楚之降將苗賁皇亦侍於晉侯之側,獻策曰:「自令尹孫叔之死,軍政無常。兩廣精兵,久不選換,老不堪戰者多矣。且左右二帥,不相和睦。此一戰楚可敗也。」髯翁有詩云:

    楚用州犁本晉良,晉人用楚是賁皇﹔人才難得須珍重,莫把謀臣借外邦。

  是日,兩軍各堅壘相持,未戰。楚將潘黨於營後試射紅心,連中三矢,眾將鬨然讚美。適值養繇基至,眾將曰:「神箭手來矣!」潘黨怒曰:「我的箭何為不如養叔?」養繇基曰:「汝但能射中紅心,未足為奇﹔我之箭能百步穿楊!」眾將問曰:「何為百步穿楊?」繇基曰:「曾有人將顏色認記楊樹一葉,我於百步外射之,正穿此葉中心,故曰百步穿楊。」眾將曰:「此間亦有楊樹,可試射否?」繇基曰:「何為不可。」眾將大喜曰:「今日乃得觀養叔神箭也!」乃取墨塗記楊枝一葉,使繇基於百步外射之,其箭不見落下。眾將往察之,箭為楊枝掛住,其鏃正貫於葉心。潘黨曰:「一箭偶中耳!若依我說,將三葉次第記認,你次第射中,方見高手。」繇基曰:「恐未必能,且試為之。」潘黨於楊樹上高低不等,塗記了三葉,寫個「一」「二」「三」字。養繇基也認過了,退於百步之外,將三矢也記個「一」「二」「三」的號數,以次發之,依次而中,不差毫釐。眾將皆拱手曰:「養叔真神人也!」潘黨雖然暗暗稱奇,終不免自家要顯所長,乃謂繇基曰:「養叔之射,可謂巧矣!然殺人還以力勝,吾之射能貫數層堅甲,亦當為諸君試之。」眾將皆曰:「願觀。」潘黨教隨行組甲之士,脫下甲來,疊至五層。眾將曰:「足矣。」潘黨命更迭二層,共是七層。眾將想道:「七層甲,差不多有一尺厚,如何射得過?」潘黨教把那七層堅甲,繃於射鵠之上。也立在百步之外,挽起黑彫弓,拈著狼牙箭,左手如托泰山,右手如抱嬰兒,覷得端端正正,盡力發去。撲的一聲,叫道:「著了!」只見箭上,不見箭落,眾人上前看時,齊聲喝采起來道:「好箭,好箭!」原來弓勁力深,這枝箭直透過七層堅甲,如釘釘物,穿的堅牢,搖也搖不動。潘黨面有德色,叫軍士將層甲連箭取下,欲以遍誇營中。養繇基且教「莫動!吾亦試射一箭,未知何如?」眾將曰:「也要看養叔神力。」繇基拈弓在手,欲射復止。眾將曰:「養叔如何不射?」繇基曰:「只依樣穿札,未為希罕,我有個送箭之法。」說罷,搭上箭,颼的射去,叫聲:「正好!」這枝箭不上不下,不左不右,恰恰的將潘黨那一枝箭,兜底送出布鵠那邊去了。繇基這枝箭,依舊穿於層甲孔內。眾將看時,無不吐舌。潘黨方纔心服,嘆曰:「養叔妙手,吾不及也!」史傳上載楚王獵於荊山,山上有通臂猿,善能接矢。楚兵圍之數重,王命左右發矢,俱為猿所接。乃召養繇基。猿聞繇基之名,即便啼號。及繇基到,一發而中猿心。其為春秋第一射手,名不虛傳矣。潛淵有詩云:

    落烏貫蝨名無偶,百步穿楊更罕有﹔穿札將軍未足奇,強中更有強中手。

眾將曰:「晉楚相持,吾王正在用人之際,兩位將軍,有此神箭,當奏聞吾王,美玉不可韞櫝而藏。」乃命軍士將箭穿層甲,抬到楚共王面前,養繇基和潘黨一同過去。眾將將兩人先後賭射之事,細細稟知楚王:「我國有神箭如此,何愁晉兵百萬?」楚王大怒曰:「將以謀勝,奈何以一箭僥倖耶?爾自恃如此,異日必以藝死!」盡收繇基之箭,不許復射。養繇基羞慙而退。

  次日五鼓,兩軍中各鳴鼓進兵。晉上軍元帥郤錡攻楚左軍,與公子嬰齊對敵。下軍元帥韓厥攻楚右軍,與公子壬夫對敵。欒書士燮各帥本部車馬,中軍護駕,與楚共王和公子側對敵。這邊晉厲公是郤毅為御,欒鍼為車右將軍,郤至等引新軍,為後隊接應。那邊楚共王出陣。上午本該乘右廣,那右廣卻是養繇基為將,共王怪繇基恃射誇嘴,不用右廣,反乘了左廣。卻是彭名為御,屈蕩為車右將車。鄭成公引本國車馬為後隊接應。

  卻說厲公頭帶沖天鳳翅盔,身披蟠龍紅錦戰袍,腰懸寶劍,手提方天大戟,乘著金葉包裹的戎輅。右有欒書,左有士燮,展開軍門,殺奔楚陣來。誰知陣前卻有一窩泥淖,黎明時候,未曾看得仔細,郤毅御車勇猛,剛剛把晉侯車輪陷於淖中,馬不能走。楚共王之子熊茷,他少年好勇,領著前隊,望見晉侯車陷,驅車飛趕過來。那邊欒鍼忙跳下車,立於泥淖之中,盡平生氣力,雙手將兩輪扶起,車浮馬動,一步步掙出泥淖來。那邊熊茷將次趕到。這里欒書的軍馬亦到,大喝:「小將不得無禮!」熊茷見旗上有「中軍元帥」字,知是大軍,吃了一驚,回車便走,被欒書追上,活捉過來。楚軍見熊茷有失,一齊來救。卻得士燮引兵殺出,後隊郤至等俱到,楚兵恐墮埋伏,收兵回營。晉兵亦不追趕,各自歸寨。哨馬探聽楚左軍持重,晉上軍不曾交戰,下軍戰二十餘合,互有殺傷。勝負未分,約定來日再戰。欒書將熊茷獻功,晉侯欲斬之。苗賁皇進曰:「楚王聞其子被擒,明日必來親自出戰,可囚熊茷於軍前,往來誘之。」晉侯曰:「善。」一夜安息無話。

  黎明,欒書命開營索戰,大將魏錡告書曰:「吾夜來夢見天上一輪明月,遂彎弓射之,正中月心,射出月中一股金光,直瀉下來。慌忙退步,不覺失腳,陷於營前泥淖之內,猛然驚覺。此何兆也?」欒書詳之曰:「周之同姓為日,異姓為月。射月而中,必楚君矣。然泥淖乃泉壤之中,退入於泥,亦非吉兆。將軍必慎之!」魏錡曰:「苟能破楚,雖死何恨!」欒書遂許魏錡打陣。楚將工尹襄出頭。戰不數合,晉兵推出囚車,在陣上往來。楚共王見其子熊茷被囚於陣,急得心生煙火,忙叫彭名鞭馬上前,來搶囚車。魏錡望見,撇了尹襄,逕追楚王,架起一枝箭,颼的射去,正中楚王的左眼。潘黨力戰,保得楚王迴車。楚王負痛拔箭,其瞳子隨鏃而出,擲於地下。有小卒拾而獻曰:「此龍睛,不可輕棄。」楚王乃納於箭袋之中。晉兵見魏錡得利,一齊殺上。公子側引兵抵死拒敵,救脫了楚共王。郤至圍住了鄭成公,賴御者將大旌藏於弓衣之內,成公亦走脫。時楚王怒甚,急喚神箭將軍養繇基速來救駕。養繇基聞喚,慌忙馳到,身邊並無一箭。楚王乃抽二矢付之曰:「射寡人乃綠袍虯髯者,將軍為寡人報仇。將軍絕藝,想不費多矢也。」繇基領箭,飛車趕入晉陣,正撞見綠袍虯髯者,知是魏錡。大罵:「匹夫有何本事,輒敢射傷吾主?」魏錡方欲答話,繇基發箭已到,正射中魏錡項下,伏於弓衣而死。欒書引軍奪回其屍。繇基餘下一矢,繳還楚王,奏曰:「仗大王威靈,已射殺綠袍虯髯將矣!」共王大喜,自解錦袍賜之,并賜狼牙箭百枝。軍中稱為「養一箭」,言不消第二箭也。有詩為證:

    鞭馬飛車虎下山,晉兵一見膽生寒﹔萬人叢里誅名將,一矢成功奏凱還。

  卻說晉兵追逐楚兵至緊,養繇基抽矢控弦,立於陣前,追者輒射殺之,晉兵乃不敢逼。楚將嬰齊壬夫聞楚王中箭,各來接應,混戰一場,晉兵方退。欒鍼望見令尹旗號,知是公子嬰齊之軍,請於晉侯曰:「臣前奉使於楚,楚令尹子重問晉國用兵之法,臣以『整暇』二字對。今混戰未見其整,各退未見其暇。臣願使行人持飲獻之,以踐昔日之言。」晉侯曰:「善。」欒鍼乃使行人執酒榼,造於嬰齊之軍,曰:「寡君乏人,命鍼持矛車右,故不得親犒從者,使某代進一觴。」嬰齊悟昔日「整暇」之言,乃嘆曰:「小將軍可謂記事矣!」受其榼,對使飲之,謂使者曰:「來日陣前,當面謝也。」行人歸述其語。欒鍼曰:「楚君中矢,其師尚未肯退,奈何?」苗賁皇曰:「蒐閱車乘,補益士卒,秣馬厲兵,修陣固列,雞鳴飽食,決一死戰,何畏乎楚?」時郤犨欒黶從魯衛請兵回轉,言二國各起兵來助,已在二十里遠近。楚諜探知,報聞楚王。楚王大驚曰:「晉兵已眾,魯衛又來,如之奈何?」即使左右召中軍元帥公子側商議。不知後事如何,且看下回分解。

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