東周列國志第五十九回 胥童を寵して晋国が大いに乱れる/屠岸賈を誅して趙氏が復興する (寵胥童晉國大亂 誅岸賈趙氏復興)

公子側の飲酒失態と楚軍の夜間撤退

  • さて楚の中軍元帥公子側は平生から酒を好み、一度飲めば百觚も止まらず、一度酔えば丸一日目を覚まさなかった。
  • 楚の共王は彼にこの悪癖があることを知っていたので、出兵のたびに必ず飲酒を断つよう戒めていた。
  • この日、晋楚が対峙し、大事が我が身にかかっていたため、公子側は一滴も口にしていなかった。
  • この日、楚王が矢を受けて陣営に戻り、恥辱と怒りを含んでいた。
  • 公子側は進んで言った。「両軍ともすでに疲労しております。明日はひとまず一日だけ休息し、臣にじっくり計を練らせてください。必ず主公のためにこの大恥をすすぎましょう。」
  • 公子側は中軍に戻り、夜半まで座って考えたが、まだ計は定まらなかった。
  • 側近の小者で名を穀陽という者が、元帥が思い悩み苦しんでいるのを見て、旅の荷の中に隠し持っていた三度醸しの濃い美酒を、一椀温めて差し出した。
  • 公子側はその匂いを嗅ぎ、驚いて「酒か」と言った。
  • 穀陽は主人が飲みたがっているのを察したが、左右に知れることを恐れ、偽って「酒ではありません、山椒の湯でございます」と言った。
  • 公子側はその意を汲み取り、一息に飲み干すと、甘くさわやかで喉を過ぎ、その妙味は言葉にできぬほどであった。
  • 「山椒の湯はまだあるか」と尋ねた。
  • 穀陽は「まだございます」と答えた。
  • 穀陽はただ「山椒の湯です」とだけ言いながら、ひたすら盃になみなみと注いで献上した。
  • 公子側は喉の渇きが久しく、口ではただ「うまい山椒の湯だ、小僧は私を大切にしてくれる」とばかり言い、注がれるままに飲み込み続けた。
  • 果たしてどれほど飲んだか分からぬまま、ぐったりと大酔し、席の上に倒れ伏した。
  • 楚王は晋が鶏鳴に出撃せよと令を下し、しかも魯・衛の兵まで到着したと聞き、急いで内侍を遣わして公子側を召し、共に応戦の策を相談しようとした。
  • ところが公子側はすでに深く酔って眠りこけ、呼んでも応えず、揺すっても起きなかった。
  • ただ酒の臭いだけが漂うので、酒に酔い伏していると分かり、楚王に復命した。
  • 楚王は続けざまに十回ほど催促の使者を送った。
  • 公子側は催促されるほどに、ますます深く眠り込んだ。
  • 小者の穀陽は泣いて言った。「私はもともと元帥を大切に思って酒を差し上げたのに、思いがけずかえって害を及ぼしてしまった。楚王がこれを知れば、私の命も危うい。逃げるにしくはない。」
  • この時楚王は司馬(公子側)が到着しないのを見て、なすすべなく、令尹の嬰斉を召して相談した。
  • 嬰斉はもともと公子側と不仲だったので、奏した。「臣はあらかじめ晋兵の勢いが盛んで、必ずしも勝てぬと予見しておりました。それゆえ最初は鄭を救うことに反対したのですが、この出兵はすべて司馬の主張によるものです。今、司馬は酒に耽って事を誤りました。臣にも打つ手がございません。夜のうちにひそかに兵を引き上げるにこしたことはありません。そうすれば敗北の恥を免れられましょう。」
  • 楚王は言った。「そうは言っても、司馬は中軍で酔っている。必ず晋軍に捕らえられ、国の恥辱は小さくないだろう。」
  • そこで養繇基を召し、「そなたの神のごとき弓の腕を頼りに、司馬を護って帰国させてくれ」と言った。
  • そこでひそかに号令を伝え、陣営を引き払わせた。鄭の成公は自ら兵を率いて国境まで護送し、養繇基だけを殿とさせて残した。
  • 繇基は考えた。「司馬の酒が醒めるのを待っていては、いつになるか分からない。」
  • そこで左右の者に、公子側を抱き起こさせ、革帯で車に縛り付け、隊を追って前進するよう命じ、自らは弓弩手三百人を率いて、ゆっくりと退いた。

公子側の自害

  • 明け方、晋軍は陣営を開いて戦を求め、まっすぐ楚の陣営に迫ったところ、もぬけの殻の陣幕であり、これで楚軍がすでに退いたことを知った。
  • 欒書はこれを追撃しようとしたが、士燮は強く止めた。
  • 間者は「鄭国の各所は厳しく守備を固めております」と報告した。
  • 欒書は鄭を得るのは無理と判断し、そこで凱歌を歌いながら帰還した。
  • 魯・衛の兵も、それぞれ本国に散って帰った。
  • さて公子側は五十里の道を行ったところで、ようやく酒が醒めた。
  • 身体が縛られて締め付けられているのを感じ、大声で「誰が私を縛ったのか」と叫んだ。
  • 左右の者は「司馬様は酒に酔われており、養将軍は車上でお体を保てず落ちられることを恐れて、このようにしたのです」と言った。
  • 急いで革帯を解いた。
  • 公子側はまだ両目がぼんやりしたまま、「今、車馬はどこへ向かっているのか」と尋ねた。
  • 左右の者は「帰る道でございます」と答えた。
  • また「なぜ引き返しているのか」と尋ねた。
  • 左右の者は言った。「昨夜、楚王は司馬様を何度もお召しになりましたが、司馬様は酔って起き上がれませんでした。楚王は晋軍が戦を仕掛けてきても対応する者がいないことを恐れ、すでに兵を引き上げられたのです。」
  • 公子側は大声で泣いて言った。「小僧が私を殺したのだ。」
  • 急いで穀陽を呼んだが、すでに逃げてどこへ行ったか分からなかった。
  • 楚の共王は二百里ほど進んでも動きがないのを見て、ようやく安心した。
  • 公子側が罪を恐れて自死するのではと恐れ、使者を遣わして命を伝えた。「先の大夫子玉の敗北の時、我が先君は軍中にいらっしゃらなかった。しかし今日の戦いは、罪は寡人にある。司馬には関わりのないことだ。」
  • 嬰斉は公子側が死なないことを恐れ、別に使者を遣わして公子側に言わせた。「先の大夫子玉の敗北のことは、司馬もよくご存知のはず。たとえわが王が情にほだされて誅殺するに忍びないと仰せになろうとも、司馬はどんな顔で再び楚軍の上に立たれるおつもりか。」
  • 公子側は嘆じて言った。「令尹が大義をもって責められる以上、私がどうして生を貪ることができようか。」
  • そこで首を吊って死んだ。
  • 楚王は嘆息やまなかった。これは周の簡王十一年のことである。
  • 髯仙に、酒が事を誤ることを言う詩がある(詩:片目の君王は老練な謀を頼りとしたが、英雄たる者が糟の丘に困るとは誰が思っただろうか。豎子が私を大切にしたつもりが、かえって害となった。万事を忘れさせるという酒も、当てにはならぬものだと詠う)。

晋厲公の驕りと三郤誅殺の陰謀

  • 話は分かれる。さて晋の厲公は楚に勝って朝廷に戻ると、天下に敵なしと自認し、驕慢と贅沢がますます甚だしくなった。
  • 士燮は晋国が必ず乱れると見て取り、鬱々として病を得たが、治療しようとせず、太祝に神へ祈らせ、ただ早く死ぬことだけを願った。
  • ほどなく卒し、子の范匄が跡を継いだ。
  • 時に胥童は巧言と佞弁に長け、最も寵愛を受けており、厲公は彼を卿に用いようとしたが、卿の欠員がなかった。
  • 胥童は奏した。「今、三郤がそろって兵権を握り、一族が大きく勢力が重く、行動を思うままにしております。将来必ず謀反の事があるでしょう。除いてしまうにこしたことはありません。もし郤氏の一族を除けば、官職の席が多く空くことになり、主公が意のままに愛する者を選んでこれを立てられます。誰があえて従わぬ者がありましょうか。」
  • 厲公は言った。「郤氏の反逆の証はまだ明らかでない。誅殺すれば群臣が心服しないだろう。」
  • 胥童はさらに奏した。「鄢陵の戦いにおいて、郤至はすでに鄭君を包囲しながら、双方の車を並べて長い間ひそひそと語り合い、それから囲みを解いて鄭君を逃がしました。その裏には、必ずやそれ以前から楚と通じていた事情があるはずです。ただ楚の公子熊茷に問えば、その真相が分かるはずです。」
  • 厲公はただちに胥童に熊茷を召させた。
  • 胥童は熊茷に言った。「公子は楚に帰りたいか。」
  • 茷は答えた。「帰りたくてたまらない。叶わないのが残念でならない。」
  • 胥童は言った。「もしそなたが私の頼む一事に従うならば、そなたを帰してやろう。」
  • 熊茷は「仰せに従います」と言った。
  • 胥童はそこで耳打ちして言った。「もし晋侯にお会いして郤至の事を問われたら、必ずこのように、あのように答えるのだ……」
  • 熊茷はこれを了承した。
  • 胥童はそこで彼を案内して内朝に入り、晋の厲公に会わせた。
  • 晋の厲公は左右を退けて尋ねた。「郤至はかつて楚と密通していたか。そなた、実を言え。私はそなたを本国に帰してやろう。」
  • 熊茷は言った。「臣に罪がないことをお許しいただければ、臣は初めて申し上げることができます。」
  • 厲公は「まさに真実を語らせようとしている。何の罪があろうか」と言った。
  • 熊茷は言った。「郤氏とわが国の子重とは、二人とも平素より親しく交わり、たびたび書信を交わしております。曰く『君侯は大臣を信じず、淫らな遊興に度が過ぎ、民はみな怨んでいる。これはわが君主とすべき人物ではない。人心はあらためて襄公を慕っている。襄公には孫があり、名は周という。今、京師にいる。いずれ南北で交兵し、幸いに我が軍が敗れれば、私は孫周を奉じて楚に事えるつもりだ』と。この事だけは臣がかねてより知っておりますが、他のことは聞いておりません。」
  • (按ずるに、晋の襄公の庶長子で名を談という者は、趙盾が霊公を立ててより、談は難を避けて周に居り、単襄公の門下にいた。のちに談に一子が生まれたが、周で生まれた子であるため、名を周とした。当時、霊公が弑された際、人心は文公を慕っていたため、公子黒臀を迎え立てた。黒臀は驩に伝え、驩は州蒲に伝えた。ここに至って、州蒲は淫縦にして子がなく、人心は再び襄公を慕うようになっていた。それゆえ胥童は熊茷に孫周のことを引き合いに出させ、厲公の心を動揺させようとしたのである。)
  • 熊茷がまだ言い終わらぬうちに、胥童が口を挟んで言った。「道理で、先日の鄢陵の戦いで、郤犨は嬰斉と対陣しながら、一矢も放たなかったわけです。その通謀の情はこれで明らかです。郤至が鄭君を故意に逃がしたことも、もはや疑いようがありません。主公がもしお信じにならないならば、どうして郤至を周に遣わして戦捷を告げさせ、人にひそかに探らせてみられませんか。もし本当に密謀があるならば、必ず孫周とひそかに面会するはずです。」
  • 厲公は言った。「その計はまことに妥当だ。」
  • そこで郤至を遣わして楚に勝った捷報を周に献上させた。
  • 胥童はひそかに人を孫周のもとに遣わして告げさせた。「晋国の政は半ば郤氏の手にあります。今、温季(郤至)が王都に捷報を献じに来ています。会っておかれてはいかがでしょう。いずれあなたさま(孫周)が故国に戻られたときも、知り合いになっておくとよいでしょう。」
  • 孫周はもっともだと思った。
  • 郤至は周に着き、公事を終えると、孫周が公館に来て面会した。当然、本国の事情について詳しく尋ねられ、郤至は一つ一つ答え、半日ほど語り合って別れた。
  • 厲公は人を遣わしてこれを探らせ、報告させたところ、伝えられた通りであった。熊茷の言葉は、果たして真実であった。
  • そこで郤氏を除く意向を持つに至ったが、まだ決行してはいなかった。

郤至と孟張の争い、三郤誅殺の決行

  • ある日、厲公は婦人たちと酒を飲み、鹿肉を肴に求めることが急であった。
  • 寺人の孟張を市に遣わして鹿を取りに行かせたが、市にはちょうど品切れであった。
  • 郤至は郊外から鹿を一頭車に載せて、市場を通り過ぎていた。
  • 孟張は一言の断りもなく、有無を言わせずこれを奪い取って行った。
  • 郤至は大いに怒り、弓を引いて矢をつがえ、孟張を射殺し、その鹿を取り戻した。
  • 厲公はこれを聞き、怒って「季子(郤至)は私をあまりにも侮っている」と言った。
  • そこで胥童・夷羊五らの一団の寵臣を召して共に議し、郤至を殺そうとした。
  • 胥童は言った。「郤至を殺せば、郤錡・郤犨も必ず叛くでしょう。ともに除いてしまうにこしたことはありません。」
  • 夷羊五は言った。「公と私の甲士は約八百人おります。主君の命をもって夜のうちに率いて赴けば、彼らが備えのないところを衝いて、必ず勝てましょう。」
  • 長魚矯は言った。「三郤の家の甲士は主君の宮中の兵の倍もおります。戦って勝てなければ、主君にまで累が及びます。今、郤至は司寇の職を兼ね、郤犨は士師をも兼ねております。訴訟の場を装って、機を見て刺すのがよいでしょう。あなた方は兵を率いて、その合図に呼応して駆けつけ加勢してください。」
  • 厲公は「妙案だ。私が力士の清沸魋にそなたを助けさせよう」と言った。
  • 長魚矯は三郤がその日、講武堂で議事を行っていることを探り出し、清沸魋とともにそれぞれ雞の血を顔に塗り、争闘し殺し合っているかのように見せかけて、刃物を帯びたまま揉み合いながら講武堂まで来て、曲直を訴えた。
  • 郤犨はこれが計略とも知らず、席を下って事情を尋ねた。
  • 清沸魋は事情を述べる真似をし、身体を近づけて、刃を抜いて郤犨を刺した。腰に命中し、その場に倒れた。
  • 郤錡は急いで帯びていた刀を抜いて沸魋を斬ろうとしたが、長魚矯がこれを受け止め、二人は堂下で戦い始めた。
  • 郤至はその隙に脱出し、車に乗って逃げた。
  • 沸魋は郤犨をさらに一太刀浴びせ、命がないと見て、続いて郤錡を挟み撃ちにした。
  • 錡は武将であったが、沸魋には千斤の力があり、長魚矯もまた若く手が速く、一人でどうして二人の相手ができようか。ついに沸魋に刺し倒された。
  • 長魚矯は郤至を逃してしまったのを見て、「まずい、追いかけねば」と言った。
  • ちょうどそこへ、三郤がまさに同日に命を落とす運命であったのか、胥童・夷羊五が八百の甲士を率いて到着し、口々に叫んだ。「晋侯の旨により、謀反の郤氏を捕らえよ。逃してはならぬぞ。」
  • 郤至はうまくいかないと見て車を引き返したところ、まともに長魚矯に出くわし、飛び乗られてしまった。
  • 郤至はすでに心が動転しており、手向かうこともできず、長魚矯に乱れ斬りにされ、ついにその首を斬られた。
  • 清沸魋は郤錡と郤犨をともに斬首した。血の滴る三つの首級を朝門に運び込んだ。
  • これを証する詩がある(詩:無道の君主は昏く、臣は不良、多くの寵臣がこぞって朝堂を専横する。ひとたび讒言者の言葉を誤って聞き入れ、演武堂の前に戦場が起こったと詠う)。

荀偃・欒書への嫌疑

  • さて上軍副将の荀偃は、主将の郤錡が演武堂で賊に遭ったと聞いたが、それが何者かはまだ知らなかった。
  • ただちに車を駆って朝廷に入り、賊を討つよう奏上しようとした。
  • 中軍元帥欒書も、示し合わせたわけでもないのに、同じく朝門に到着し、ちょうど胥童が兵を率いてやって来るのに遭遇した。
  • 欒書と荀偃は思わず大いに怒り、叫んだ。「誰が乱を起こしたのかと思えば、貴様ら鼠輩であったか。禁地の威厳の中で、甲士が誰の許しを得て近づいているのか。さっさと退散せよ。」
  • 胥童は答えもせず、すぐに人々に呼びかけた。「欒書と荀偃は三郤と共謀して反逆した。甲士たちよ、共に取り押さえよ。重く賞するぞ。」
  • 甲士は勇み立って進み出て、欒書・荀偃の二人を取り囲み、そのまま朝堂の上まで押し出した。
  • 厲公は長魚矯らが事を終えて戻ったと聞き、すぐに殿に出た。
  • 甲士たちが多数いるのを見て驚き、胥童に「罪人はすでに誅した。兵はどうして散らないのか」と尋ねた。
  • 胥童は奏した。「捕らえたのは叛党の欒書・荀偃です。主公のご裁断を。」
  • 厲公は「この事は欒書・荀偃には関わりない」と言った。
  • 長魚矯は晋侯の膝の前に跪き、密かに奏した。「欒・郤は功を同じくする間柄の者たちであり、荀偃はまた郤錡の部将です。三郤が誅されたからには、欒・荀の二氏は必ず自らを安んじられず、遠からず郤氏のための復讐を企てるでしょう。主公が今日この二人を殺さなければ、朝廷は太平を得られません。」
  • 厲公は言った。「一朝で三卿を殺し、しかも他の一族にまで波及させることは、寡人には忍びない。」
  • そこで欒書・荀偃を無罪とし、元の職に復させた。
  • 二人は謝恩して家に帰った。
  • 長魚矯は嘆じて言った。「主君はこの二人を殺すに忍びないと仰せだが、この二人のほうは主君に手を下すのを何とも思うまい。」
  • そしてすぐさま西戎へ逃げ去った。

三郤誅殺後の処遇

  • 厲公は甲士たちを重く賞し、三郤の遺体を朝門に晒し、三日間、そのままにしてようやく葬ることを許した。
  • 郤氏の一族で朝廷に仕えていた者は、いったんは死罪を免じられたが、すべて罷免されて田畑に帰された。
  • 胥童を上軍元帥として郤錡の位に代え、夷羊五を新軍元帥として郤犨の位に代え、清沸魋を新軍副将として郤至の位に代えた。
  • 楚の公子熊茷は釈放されて本国に帰った。
  • 胥童はすでに卿の列に加わったが、欒書と荀偃は同席することを恥じ、たびたび病と称して朝廷に出なかった。
  • 胥童は晋侯の寵愛を頼みとして、これを気にも留めなかった。

欒書・荀偃、厲公を弑す

  • ある日、厲公は胥童とともに寵臣匠麗氏の家に遊びに出かけた。その家は太陰山の南にあり、絳の城から二十余里離れており、三夜帰らなかった。
  • 荀偃はひそかに欒書に言った。「主君の無道は、あなたも知る通りです。我らは病と称して朝廷に出ず、目下はしばらく安穏としていられますが、後日、胥童らに疑われ、また怨望の名でもって誣告されれば、三郤の禍いを免れられぬかもしれません。考えておかねばなりません。」
  • 欒書は「それではどうすればよいか」と言った。
  • 荀偃は言った。「大臣の道は、社稷を重んじ、君を軽んじるものです。今、百万の兵があなたの掌中にあります。もし思い切った事を行い、別に賢君を立てても、誰があえて従わぬ者がありましょうか。」
  • 欒書は「事は必ず成功するだろうか」と言った。
  • 荀偃は言った。「龍が淵にいる間は、誰も窺い見ることができません。しかし淵を離れて陸に上がれば、童子でさえこれを制することができます。主君が匠麗氏のもとに遊び、三夜も戻らないのは、まさに淵を離れた龍のようなもの。まだ疑うことがありましょうか。」
  • 欒書は嘆じて言った。「私は代々晋家に忠を尽くしてきた。今日、社稷の存亡のために、このやむを得ない計を出すが、後世の人は必ず私を弑逆と評すだろう。それも辞することはできまい。」
  • そこで相談し、にわかに病が癒えたと称して、晋侯に会って事を議したいと申し出た。
  • あらかじめ牙将の程滑に、甲士三百人を太陰山の左右に伏せさせた。
  • 二人は匠麗氏のもとに謁見して厲公に奏した。「主公が政を投げ出して遊びに出られ、三日も戻られませんので、臣民は失望しております。臣らはこうして御駕をお迎えに参りました。」
  • 厲公は無理強いされ、やむなく出発した。
  • 胥童が先導し、欒書・荀偃が後に従った。
  • 太陰山の麓に至ると、砲声一発、伏兵が一斉に立ち上がった。
  • 程滑がまず胥童を斬り殺した。
  • 厲公は大いに驚き、車から転げ落ちた。
  • 欒書と荀偃は甲士に命じて厲公を取り押さえさせた。
  • 太陰山の麓に軍を屯し、厲公を軍中に幽閉した。
  • 欒書は言った。「范・韓の二氏は将来異見を唱えるかもしれない。主君の命を偽って召し寄せるべきだ。」
  • 荀偃は「よかろう」と言った。
  • そこで飛車二乗を遣わし、それぞれ士匄と韓厥の二将を召させた。
  • 使者は士匄の家に至った。士匄は「主公は何の用で私を召されるのか」と問うたが、使者は答えられなかった。
  • 匄は「これは疑わしい」と言った。
  • すぐに腹心の左右の者を遣わして韓厥が行くかどうか探らせた。
  • 韓厥はあらかじめ病と称して断った。
  • 匄は「智者の見るところは大体一致するものだ」と言った。
  • 欒書は匄と厥がともに来ないのを見て、荀偃に「この事はどうしたものか」と尋ねた。
  • 偃は「そなたはすでに虎の背に乗っている。今さら降りたいというのか」と言った。
  • 欒書はうなずいてその意を了解した。
  • その夜、程滑に鴆の毒酒を厲公に献じさせ、公はこれを飲んで薨じた。
  • ただちに軍中で遺体を納棺して安置し、翼城の東門の外に葬った。
  • 士匄と韓厥は突然主君が薨じたと聞き、そろって城を出て喪に参じたが、その死の理由を問うこともなかった。

孫周(悼公)の擁立

  • 葬儀が終わると、欒書は諸大夫を集めて君を立てることを議った。
  • 荀偃は言った。「三郤の死に際し、胥童は孫周を立てようとしているとの誣告をしたが、これこそ言った通りになった予言というものだ。霊公が桃園で死んで襄公の系統は絶えた。天意はここにあるのだろう。迎えに行くべきである。」
  • 群臣はみな喜んだ。
  • 欒書はそこで荀罃を京師に遣わし、孫周を君として迎えさせた。
  • 周はこの時十四歳であったが、聡明さは人並外れ、志と略も抜きん出ていた。
  • 荀罃が迎えに来たのを見て、その事情を詳しく尋ね、その日のうちに単襄公に暇を告げ、荀罃とともに晋に帰った。
  • 清原という地に至ると、欒書・荀偃・士匄・韓厥ら一団の卿大夫がそろって出迎えた。
  • 孫周は口を開いて言った。「寡人は他国に身を寄せる旅の身で、故郷に帰ることさえ望んでいなかった。まして君となることを望もうか。しかしそもそも君として尊ばれるのは、命令が自分から出るからだ。もし名目だけを奉じて、その令に従わないのなら、君がいないのと同じだ。卿らが寡人の命に従う気があるかどうかは、ただ今日にかかっている。もしそうでなければ、卿らは他の人に事えるがよい。私は君位にありながら空名だけを抱え、州蒲(厲公)の二の舞になるつもりはない。」
  • 欒書らはみな戦慄して再拝し、「群臣は賢君を得て事えたいと願っております。あえて命に従わぬことがありましょうか」と言った。
  • 退出したのち、欒書は諸臣に言った。「新君は先代とは違う。心して事えねばならぬ。」

悼公の即位と粛清

  • 孫周は絳城に入り、太廟に詣でて晋侯の位を嗣いだ。これが悼公である。
  • 即位の翌日、ただちに夷羊五・清沸魋らの、主君を悪に導いた罪を面と向かって責め、左右に命じて朝門に引き出させて斬らせ、その一族もみな国外に追放した。
  • また厲公の死を程滑の罪とし、市中でこれを磔にした。
  • 欒書は一晩中眠れなかった。
  • 翌日、ただちに老いを理由に政を退き、韓厥を後任に推挙した。
  • ほどなく、憂懼のあまり病を得て卒した。
  • 悼公はかねてより韓厥の賢を聞いており、彼を中軍元帥に任じ、欒書の位に代えた。

韓厥の進言と趙武の発見

  • 韓厥は謝恩にかこつけて、悼公にひそかに奏した。「臣らはみな先代の功に頼り、君の左右にお仕えすることができました。しかし先代の功として、趙氏の功に勝るものはございません。趙衰は文公を、趙盾は襄公を輔佐し、いずれもよく忠誠と真心を尽くし、晋の威を打ち立てて覇業を定めました。不幸にも霊公は政を誤り、奸臣屠岸賈を寵信して趙盾を謀殺しようとしたため、趙盾は出奔してかろうじて難を免れました。霊公は兵変に遭い、桃園で弑されました。景公が即位すると、再び屠岸賈を寵愛しました。岸賈は趙盾がすでに死んでいるのに乗じ、趙氏が弑逆を行ったと偽って、その罪を追及し、趙の宗家を滅ぼし尽くしました。臣民の憤りと怨みは、今なお収まっておりません。天の幸いにも趙氏には遺された孤児の趙武が今なお存命でございます。主公は今日、賞罰を正して晋の政を大いに修めておられます。すでに夷羊五らの罰を正されたからには、趙氏の功をも追って記録なさらぬわけにはいきますまい。」
  • 悼公は言った。「この事は寡人も先人から聞いたことがある。今、趙氏はどこにいるのか。」
  • 韓厥は答えた。「当時、岸賈は趙氏の孤児を非常に厳しく捜索しました。趙氏の食客の公孫杵臼と程嬰は、杵臼が偽って孤児を抱いて捕らえられ、進んで誅戮に就いて、趙武を逃がしました。程嬰は武を盂山に匿い、今すでに十五年になります。」
  • 悼公は「卿は寡人のために彼を召してくれ」と言った。
  • 韓厥は奏した。「岸賈はなお朝廷におります。主公は必ずこの事を秘密になさってください。」
  • 悼公は「寡人も承知している」と言った。
  • 韓厥は宮門を辞して出ると、自ら車を駆り、盂山へ趙武を迎えに行った。
  • 程嬰が御者を務め、当初は故絳の城から出て行った身が、今日は新絳の城へと入る。城郭はすべて変わっており、感慨に堪えなかった。
  • 韓厥は趙武を連れて内宮に入り、悼公に朝見させた。
  • 悼公は宮中に趙武を匿い、病があると偽った。
  • 翌日、韓厥は百官を率いて宮中に見舞いに入り、屠岸賈もその中にいた。
  • 悼公は言った。「卿らは寡人の病を知っているか。ただ功労簿に一件明らかでないことがあり、それゆえに心中不快なだけだ。」
  • 諸大夫は叩頭して尋ねた。「功労簿のどの件が明らかでないのでしょうか。」
  • 悼公は言った。「趙衰・趙盾は二代にわたって国家に功を立てた。どうしてその家の祭祀を絶えたままにできようか。」
  • 人々は口をそろえて答えた。「趙氏の一族が滅ぼされたのは、すでに十五年前のことです。今、主公がその功をお偲びになっても、立てるべき人がおりません。」
  • 悼公はそこで趙武を呼び出し、諸将を回って拝させた。
  • 諸将は「この幼い若君は何者ですか」と尋ねた。
  • 韓厥は言った。「これがいわゆる孤児の趙武です。かつて誅殺された趙氏の孤児というのは、食客程嬰の子にすぎませんでした。」
  • 屠岸賈はこの時、魂も身から抜けたようになり、酔い痴れたようになって、地に伏し拝んだが、一言も発することができなかった。
  • 悼公は言った。「この事はすべて岸賈の仕業だ。今日、岸賈の一族を滅ぼさなければ、どうしてあの世の趙氏の無念の魂を慰めることができようか。」
  • 左右の者に「岸賈を縛って引き出し、首を斬れ」と大喝して命じた。
  • ただちに韓厥に趙武とともに兵を率いて屠岸賈の屋敷を包囲させ、老いも若きも一人残らず殺した。
  • 趙武は岸賈の首を請い、趙朔の墓に祭った。
  • 国人はみな快哉を叫んだ。
  • 潜淵居士の詠史詩がある(詩:岸賈は当時趙氏を滅ぼしたが、今は趙氏が屠家を滅ぼした。十五年の前後を争うだけのこと、怨みと仇はいささかも違わず報われるものだと詠う)。

程嬰の自死

  • 晋の悼公は岸賈を誅すると、すぐに朝堂に趙武を召し、冠礼を行わせ、司寇に任じて岸賈の職に代えさせた。
  • 以前の田禄も、ことごとく返し与えた。
  • また程嬰の義に聞き及び、彼を軍正に用いようとした。
  • 嬰は言った。「私が初め死ななかったのは、趙氏の孤児がまだ立てられていなかったからです。今すでに趙氏は官位を回復し、仇を報いました。どうして自ら富貴を貪り、公孫杵臼だけを死なせたままにしておけましょうか。私はこれからあの世へ赴き、杵臼にご報告しに参ります。」
  • そう言うと自ら首を刎ねて死んだ。
  • 趙武はその屍にすがって痛哭し、晋侯に願い出て、手厚く遺体を納棺させ、公孫杵臼とともに雲中山に合葬させて「二義」の塚と称した。
  • 趙武は齊衰の喪を三年間服し、その恩に報いた。
  • これを証する詩がある(詩:陰谷に十五年間深く隠れ、袴の中の子は祖宗の冤を晴らした。程嬰と杵臼はふたつながらの義と称えられる、同じく死に殉じたのだから、どちらが先か後かを問う必要があろうかと詠う)。

悼公の新政と楚の動き

  • さて悼公はすでに趙武を立てると、宋にいる趙勝を召し、再び邯鄲の地を与えた。
  • また群臣の位を大いに正し、賢者を尊び、能者を用いた。
  • 以前の功を記録し、小さな罪は赦し、百官はみな充実し、それぞれその職にふさわしい者となった。
  • 有名な官員を幾人か挙げると、韓厥を中軍元帥、士匄をその副とし、荀罃を上軍元帥、荀偃をその副とし、欒黶を下軍元帥、士魴をその副とし、趙武を新軍元帥、魏相をその副とし、祁奚を中軍尉、羊舌職をその副とし、魏絳を中軍司馬、張老を候奄、韓無忌を公族大夫の長とし、士渥濁を太傅、賈辛を司空、欒糾を親軍戎御、荀賓を車右将軍、程鄭を賛僕、鐸遏寇を輿尉、籍偃を輿司馬とした。
  • 百官がそろうと、大いに国政を修めた。滞った税を蠲免し、徴税を軽くし、乏しきを済い労役を省き、廃れたものを興し滞ったものを起こし、寡婦や独り者を憐れみ恵み、民は大いに喜んだ。
  • 宋・魯など諸国もこれを聞いて、朝貢して来ないものはなかった。
  • ただ鄭の成公だけは、楚王が自分(鄭の成公自身)のために戦って目を射損なわれたことを心に深く感じ、晋に事えようとしなかった。
  • 楚の共王は厲公が弑されたことを聞くと、喜色を浮かべ、まさに復讐の挙を考えていた。
  • しかし新君が即位し、善に賞し悪に罰を与え、賢者を用いて治世を図り、朝廷は清らかに整い、内外の心が帰服し、覇業がまさに復興しようとしていると聞くに及び、喜びは一転して憂いに変わった。
  • ただちに群臣を召して相談し、中原を掻き乱して晋に覇業を成させないようにしようとした。
  • 令尹の嬰斉は手立てがなかった。
  • 公子壬夫が進んで言った。「中原では宋が爵位も国も尊く大きく、しかもその国は晋と呉の間に位置しています。今、晋の覇業を乱そうとするならば、必ず宋から始めるべきです。今、宋の大夫魚石・向為人・鱗朱・向帶・魚府の五人は、右師の華元と仲が悪く、今は楚に出奔しております。もし彼らに兵力を貸し与えて宋を討たせ、宋の邑を得たならば、そのままこれを彼らに封じてやればよいのです。これは敵をもって敵を攻める計です。晋がもし救援に来なければ、諸侯の信望を失うことになりましょう。もし宋を救うならば、必ず魚石を攻めることになりましょうから、我らは座してその勝敗を見物すればよい。これも一つの策です。」
  • 共王はその計を用いた。
  • そこで壬夫を大将に任じ、魚石らを道案内として、大軍を率いて宋を討たせた。
  • 勝敗がどうなるかは分からない。続きは次回で語られる。
原文(底本)
話說楚中軍元帥公子側平日好飲,一飲百觚不止,一醉竟日不醒。楚共王知其有此毛病,每出軍,必戒使絕飲。今日晉楚相持,有大事在身,涓滴不入於口。是日,楚王中箭回寨,含羞帶怒。公子側進曰:「兩軍各已疲勞,明日且暫休息一日,容臣從容熟計,務要與主公雪此大恥。」公子側辭回中軍,坐至半夜,計未得就。有小豎名穀陽,乃公子側貼身寵用的。見主帥愁思勞苦,客中藏有三重美酒,煖一甌以進。公子側嗅之,愕然曰:「酒乎?」穀陽知主人欲飲,而畏左右傳說,乃詭言曰:「非酒,乃椒湯耳。」公子側會其意,一吸而盡,覺甘香快嗓,妙不可言!問:「椒湯還有否?」穀陽曰:「還有。」穀陽只說椒湯,只顧滿斟獻上。公子側枯腸久渴,口中只叫:「好椒湯!豎子愛我!」斟來便吞,正不知飲了多少,頹然大醉,倒於坐席之上。楚王聞晉令雞鳴出戰,且魯衛之兵又到,急遣內侍往召公子側來,共商應敵之策。誰知公子側沉沉冥冥,已入醉鄉,呼之不應,扶之不起。但聞得一陣酒臭,知是害酒,回復楚王。楚王一連遣人十來次催并。公子側越催得急,越睡得熟。小豎穀陽泣曰:「我本愛元帥而送酒,誰知反以害之!楚王知道,連我性命難保,不如逃之。」時楚王見司馬不到,沒奈何,只得召令尹嬰齊計議。嬰齊原與公子側不合,乃奏曰:「臣逆知晉兵勢盛,不可必勝,故初議不欲救鄭,此來都出司馬主張。今司馬貪杯誤事,臣亦無計可施。不如乘夜悄悄班師,可免挫敗之辱。」楚王曰:「雖然如此,司馬醉在中軍,必為晉軍所獲,辱國非小。」乃召養繇基曰:「仗汝神箭,可擁護司馬回國也。」當下暗傳號令,拔寨都起,鄭成公親帥兵護送出境,只留養繇基斷後。繇基思想道:「等待司馬酒醒,不知何時?」即命左右便將公子側扶起,用革帶縛於車上,叱令逐隊前行,自己率弓弩手三百人,緩緩而退。

  黎明,晉軍開營索戰,直逼楚營,見是空幕,方知楚軍已遁去矣。欒書欲追之,士燮力言不可。諜者報:「鄭國各處嚴兵固守。」欒書度鄭不可得,乃唱凱而還。魯衛之兵,亦散歸本國。

  卻說公子側行五十里之程,方纔酒醒。覺得身子繃急,大叫:「誰人縛我?」左右曰:「司馬酒醉,養將軍恐乘車不穩,所以如此。」乃急將革帶解去。公子側雙眼尚然朦朧,問道:「如今車馬往那裏走?」左右曰:「是回去的路。」又問:「如何便回?」左右曰:「夜來楚王連召司馬數次,司馬醉不能起。楚王恐晉軍來戰,無人抵敵,已班師矣。」公子側大哭曰:「豎子害殺我也!」急喚穀陽,已逃去不知所之矣。楚共王行二百里,不見動靜,方纔放心。恐公子側懼罪自盡,乃遣使傳命曰:「先大夫子玉之敗,我先君不在軍中﹔今日之戰,罪在寡人,無與司馬之事。」嬰齊恐公子側不死,別遣使謂公子側曰:「先大夫子玉之敗,司馬所知也。縱吾王不忍加誅,司馬何面目復臨楚軍之上乎?」公子側嘆曰:「令尹以大義見責,側其敢貪生乎?」乃自縊而死。楚王嘆息不已。此周簡王十一年事。髯仙有詩言酒之誤事。詩云:

    眇目君王資老謀,英雄誰想困糟邱?豎兒愛我翻成害,謾說能消萬事愁。

  話分兩頭。卻說晉厲公勝楚回朝,自以為天下無敵,驕侈愈甚。士燮逆料晉國必亂,鬱鬱成疾,不肯醫治,使太祝祈神,只求早死。未幾卒,子范匄嗣。時胥童巧佞便給,最得寵幸,厲公欲用為卿,奈卿無缺。胥童奏曰:「今三郤並執兵權,族大勢重,舉動自專,將來必有不軌之事,不如除之。若除郤氏之族,則位署多虛,但憑主公擇愛而立之,誰敢不從?」厲公曰:「郤氏反狀未明,誅之恐群臣不服。」胥童又奏曰:「鄢陵之戰,郤至已圍鄭君,兩下並車,私語多時,遂解圍放鄭君去了。其間必先有通楚事情。只須問楚公子熊茷,便知其實。」厲公即命胥童往召熊茷。胥童謂熊茷曰:「公子欲歸楚乎?」茷對曰:「思歸之甚,恨不能耳!」胥童曰:「汝能依我一事,當送汝歸。」熊茷曰:「惟命。」胥童遂附耳言:「若見晉侯,問起郤至之事,必須如此恁般登答。﹍﹍」熊茷應允。胥童遂引至內朝來見。晉厲公屏去左右,問:「郤至曾與楚私通否?汝當實言,我放汝回國。」熊茷曰:「恕臣無罪,臣方敢言。」厲公曰:「正要你說實話,何罪之有?」熊茷曰:「郤氏與吾國子重,二人素相交善,屢有書信相通,言:『君侯不信大臣,淫樂無度,百姓胥怨,非吾主也。人心更思襄公,襄公有孫名周,見在京師。他日南北交兵,幸而師敗,吾當奉孫周以事楚。』獨此事臣素知之,他未聞也。」(按晉襄公之庶長子名談,自趙盾立靈公,談避居於周,在單襄公門下。後談生下一子,因是在周所生,故名曰周。當時靈公被弒,人心思慕文公,故迎立公子黑臀。黑臀傳驩,驩傳州蒲。至是,州蒲淫縱無子,人心復思慕襄公。故胥童教熊茷使引孫周,以搖動厲公之意。)熊茷言之未已,胥童接口曰:「怪得前日鄢陵之戰,郤犨與嬰齊對陣,不發一矢,其交通之情可見矣。郤至明縱鄭君,又何疑焉?主公若不信,何不遣郤至往周告捷,使人窺之,若果有私謀,必與孫周私下相會。」厲公曰:「此計甚當。」遂遣郤至獻楚捷於周。胥童陰使人告孫周曰:「晉國之政,半在郤氏,今溫季來王都獻捷,何不見之?他日公孫復還故國,也有個相知。」孫周以為然。郤至至周,公事已畢,孫周遂至公館相拜。未免詳叩本國之事,郤至一一告之,談論半日而別。厲公使人探聽回來,傳說如此。熊茷所言,果然是實。遂有除郤氏之意,尚未發也。

  一日,厲公與婦人飲酒,索鹿肉為饌甚急。使寺人孟張往市取鹿,市中適當缺乏。郤至自郊外載一鹿於車上,從市中而過。孟張並不分說,奪之以去。郤至大怒,彎弓搭箭,將孟張射死,復取其鹿。厲公聞之,怒曰:「季子太欺余也!」遂召胥童夷羊五等一班嬖人共議,欲殺郤至。胥童曰:「殺郤至,則郤錡郤犨必叛,不如並除之。」夷羊五曰:「公私甲士,約可八百人,以君命夜帥以往,乘其無備,可必勝也。」長魚矯曰:「三郤家甲,倍於公宮,鬥而不勝,累及君矣。方今郤至兼司寇之職,郤犨又兼士師,不如詐為獄訟,覷便刺之,汝等引兵接應可也。」厲公曰:「妙哉!我使力士清沸魋助汝。」長魚矯打聽三郤是日在講武堂議事,乃與清沸魋各以雞血塗面,若爭鬥相殺者,各帶利刀,扭結到講武堂來,告訴曲直。郤犨不知是計,下坐問之。清沸魋假作稟話,捱到近身,抽刃刺犨,中其腰,撲地便倒。郤錡急拔佩刀來砍沸魋,卻是長魚矯接住,兩個在堂下戰將起來。郤至捉空趨出,升車而逃。沸魋把郤犨再砍一刀,眼見得不活了,便來夾攻郤錡。錡雖是武將,爭奈沸魋有千觔力氣的人,長魚矯且是年少手活,一個人怎戰得他兩個人過,亦被沸魋擉倒。長魚矯見走了郤至,道:「不好了!我追趕他去。」也是三郤合當同日并命,正走之間,遇著胥童夷羊五引著八百甲士來到,口中齊叫:「晉侯有旨,只拿謀反郤氏,不得放走了!」郤至見不是頭,回車轉來,劈面撞見長魚矯,一躍上車。郤至早已心慌,不及措手,被長魚矯亂砍,便割了頭。清沸魋把郤錡郤犨都割了頭,血淋淋的三顆首級,提入朝門。有詩為證:

    無道君昏臣不良,紛紛嬖倖擅朝堂﹔一朝過聽讒人語,演武堂前起戰場。

  卻說上軍副將荀偃,聞本帥郤錡在演武堂遇賊,還不知何人。即時駕車入朝,欲奏聞討賊。中軍元帥欒書,不約而同,亦至朝門,正遇胥童引兵到來。書偃不覺大怒,喝曰:「我只道何人為亂,原來是你鼠輩!禁地威嚴,甲士誰敢近前?還不散去!」胥童也不答話,即呼於眾曰:「欒書荀偃,與三郤同謀反叛,甲士與我一齊拿下,重重有賞!」甲士奮勇上前,圍裹了書偃二人,直擁至朝堂之上。厲公聞長魚矯等幹事回來,即時御殿。看見甲士紛紛,倒喫了一驚,問胥童曰:「罪人已誅,眾軍如何不散?」胥童奏曰:「拿得叛黨書偃,請主公裁決!」厲公曰:「此事與書偃無與。」長魚矯跪至晉侯膝前,密奏曰:「欒郤同功一體之人,荀偃又是郤錡部將。三郤被誅,欒荀二氏必不自安,不久將有為郤氏復仇之事。主公今日不殺二人,朝中不得太平。」厲公曰:「一朝而殺三卿,又波及他族,寡人不忍也!」乃恕書偃無罪,還復原職。書偃謝恩回家。長魚矯嘆曰:「君不忍二人,二人將忍於君矣!」即時逃奔西戎去了。

  厲公重賞甲士,將三郤屍首,號令朝門,三日,方聽放葬。其郤氏之族,在朝為官者,姑免死罪,盡罷歸田。以胥童為上軍元帥,代郤錡之位,以夷羊五為新軍元帥,代郤犨之位,以清沸魋為新軍副將,代郤至之位。楚公子熊茷釋放回國。胥童既在卿列,欒書荀偃羞與同事,每每稱病不出。胥童恃晉侯之寵,不以為意。

  一日,厲公同胥童出遊於嬖臣匠麗氏之家。家在太陰山之南,離絳城二十餘里,三宿不歸。荀偃私謂欒書曰:「君之無道,子所知也。吾等稱疾不朝,目下雖得苟安,他日胥童等見疑,復誣我等以怨望之名,恐三郤之禍,終不能免,不可不慮。」欒書曰:「然則何如?」荀偃曰:「大臣之道,社稷為重,君為輕。今百萬之眾,在子掌握,若行不測之事,別立賢君,誰敢不從?」欒書曰:「事可必濟乎?」荀偃曰:「龍之在淵,沒人不可窺也,及其離淵就陸,童子得而制之。君遊於匠麗氏,三宿不返,此亦離淵之龍矣,尚何疑哉?」欒書嘆曰:「吾世代忠於晉家,今日為社稷存亡,出此不得已之計,後世必議我為弒逆,我亦不能辭矣!」乃商議忽稱病愈,欲見晉侯議事。預使牙將程滑,將甲士三百人,伏於太陰山之左右。二人到匠麗氏謁見厲公,奏言:「主公棄政出遊,三日不歸,臣民失望,臣等特來迎駕還朝。」厲公被強不過,只得起駕。胥童前導,書偃後隨。行至太陰山下,一聲砲響,伏兵齊起。程滑先將胥童砍死。厲公大驚,從車上倒跌下來。書偃吩咐甲士將厲公拿住。屯兵於太陰山下,囚厲公於軍中。欒書曰:「范韓二氏,將來恐有異言,宜假君命以召之。」荀偃曰:「善。」乃使飛車二乘,分召士匄韓厥二將。使者至士匄之家,士匄問:「主公召我何事?」使者不能答。匄曰:「事可疑矣。」即遣心腹左右,打聽韓厥行否。韓厥先以病辭。匄曰:「智者所見略同也。」欒書見匄厥俱不至,問荀偃:「此事如何?」偃曰:「子已騎虎背,尚欲下耶?」欒書點頭會意。是夜,命程滑獻酖酒於厲公,公飲之而薨。即於軍中殯殮,葬於翼城東門之外。士匄韓厥驟聞君薨,一齊出城奔喪,亦不問君死之故。

  葬事既畢,欒書集諸大夫共議立君。荀偃曰:「三郤之死,胥童謗謂欲扶立孫周,此乃讖也。靈公死於桃園,而襄遂絕後,天意有在,當往迎之。」群臣皆喜。欒書乃遣荀罃如京師,迎孫周為君。周是時十四歲矣,生得聰穎絕人,志略出眾。見荀罃來迎,問其備細,即日辭了單襄公,同荀罃歸晉。行至地名清原,欒書、荀偃、士匄、韓厥一班卿大夫,齊集迎接。孫周開言曰:「寡人羈旅他邦,且不指望還鄉,豈望為君乎?但所貴為君者,以命令所自出也。若以名奉之,而不遵其令,不如無君矣。卿等肯用寡人之命,只在今日,如其不然,聽卿等更事他人。孤不能擁空名於上,為州蒲之續也。」欒書等俱戰慄再拜曰:「群臣願得賢君而事,敢不從命!」既退,欒書謂諸臣曰:「新君非舊比也,當以小心事之。」

  孫周進了絳城,朝於太廟,嗣晉侯之位,是為悼公。即位之次日,即面責夷羊五清沸魋等逢君于惡之罪,命左右推出朝門斬之,其族俱逐出境外。又將厲公之死,坐罪程滑,磔之於市。嚇得欒書終夜不寐。次日,即告老致政,薦韓厥以自代。未幾,驚憂成疾而卒。悼公素聞韓厥之賢,拜為中軍元帥,以代欒書之位。

  韓厥託言謝恩,私奏於悼公曰:「臣等皆賴先世之功,得侍君左右。然先世之功,無有大於趙氏者。衰佐文公,盾佐襄公,俱能輸忠竭悃,取威定伯。不幸靈公失政,寵信奸臣屠岸賈,謀殺趙盾,出奔僅免。靈公遭兵變,被弒於桃園。景公嗣立,復寵屠岸賈。岸賈欺趙盾已死,假稱趙氏弒逆,追治其罪,滅絕趙宗,臣民憤怨,至今不平。天幸趙氏有遺孤趙武尚在,主公今日賞功罰罪,大修晉政,既已正夷羊五等之罰,豈可不追錄趙氏之功乎?」悼公曰:「此事寡人亦聞先人言之,今趙氏何在?」韓厥對曰:「當時岸賈索趙氏孤兒甚急,趙之門客曰公孫杵臼程嬰,杵臼假抱遣孤,甘就誅戮,以脫趙武﹔程嬰將武藏匿於盂山,今十五年矣。」悼公曰:「卿可為寡人召之。」韓厥奏曰:「岸賈尚在朝中,主公必須秘密其事。」悼公曰:「寡人知之矣。」韓厥辭出宮門,親自駕車,往迎趙武於盂山。程嬰為御,當初從故絳城而出,今日從新絳城而入,城郭俱非,感傷不已。韓厥引趙武入內宮,朝見悼公。悼公匿於宮中,詐稱有疾。明日,韓厥率百官入宮問安,屠岸賈亦在。悼公曰:「卿等知寡人之疾乎?只為功勞簿上有一件事不明,以此心中不快耳!」諸大夫叩首問曰:「不知功勞簿上,那一件不明?」悼公曰:「趙衰、趙盾,兩世立功於國家,安忍絕其宗祀?」眾人齊聲應曰:「趙氏滅族,已在十五年前,今主公雖追念其功,無人可立。」悼公即呼趙武出來,遍拜諸將。諸將曰:「此位小郎君何人?」韓厥曰:「此所謂孤兒趙武也。向所誅趙孤,乃門客程嬰之子耳。」屠岸賈此時魂不附體,如癡醉一般,拜伏於地上,不能措一詞。悼公曰:「此事皆岸賈所為,今日不族岸賈,何以慰趙氏冤魂於地下?」叱左右:「將岸賈綁出斬首!」即命韓厥同趙武,領兵圍屠岸賈之宅,無少長皆殺之。趙武請岸賈之首,祭於趙朔之墓。國人無不稱快。潛淵詠史詩曰:

    岸賈當時滅趙氏,今朝趙氏滅屠家﹔只爭十五年前後,怨怨仇仇報不差!

  晉悼公既誅岸賈,即召趙武於朝堂,加冠,拜為司寇,以代岸賈之職。以前田祿,悉給還之。又聞程嬰之義,欲用為軍正。嬰曰:「始吾不死者,以趙氏孤未立也。今已復官報仇矣,豈可自貪富貴,令公孫杵臼獨死?吾將往報杵臼於地下!」遂自刎而亡。趙武撫其屍痛哭,請於晉侯,殯殮從厚,與公孫杵臼同葬於雲中山,謂之「二義」塚。趙武服齊衰三年,以報其德。有詩為證:

    陰谷深藏十五年,褲中兒報祖宗冤﹔程嬰杵臼稱雙義,一死何須問後先?

  再說悼公既立趙武,遂召趙勝於宋,復以邯鄲界之。又大正群臣之位,賢者尊之,能者使之。錄前功,赦小罪,百官濟濟,各稱其職。且說幾個有名的官員:韓厥為中軍元帥,士匄副之﹔荀罃為上軍元帥,荀偃副之﹔欒黶為下軍元帥,士魴副之﹔趙武為新軍元帥,魏相副之﹔祁奚為中軍尉,羊舌職副之﹔魏絳為中軍司馬﹔張老為候奄﹔韓無忌掌公族大夫﹔士渥濁為太傅﹔賈辛為司空﹔欒糾為親軍戎御﹔荀賓為車右將軍﹔程鄭為贊僕﹔鐸遏寇為輿尉﹔籍偃為輿司馬。百官既具,大修國政:蠲逋薄斂,濟乏省役,振廢起滯,恤鰥惠寡,百姓大悅。宋魯諸國聞之,莫不來朝。惟有鄭成公因楚王為他射損其目,感切於心,不肯事晉。

  楚共王聞厲公被弒,喜形於色,正思為復仇之舉。又聞新君嗣位,賞善罰惡,用賢圖治,朝廷清肅,內外歸心,伯業將復興,不覺喜變為愁。即召群臣商議,要去擾亂中原,使晉不能成伯。令尹嬰齊束手無策。公子壬夫進曰:「中國惟宋爵尊國大,況其國介於晉吳之間,今欲擾亂晉伯,必自宋始。今宋大夫魚石、向為人、鱗朱、向帶、魚府五人,與右師華元相惡,見今出奔在楚。若資以兵力,用之伐宋,取得宋邑,即以封之,此以敵攻敵之計。晉若不救,則失諸侯矣﹔若救宋,必攻魚石,我坐而觀其成敗,亦一策也。」共王乃用其謀。即命壬夫為大將,用魚石等為嚮導,統大軍伐宋。不知勝負如何,且看下回分解。

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