東周列國志第六十回 智武子、軍を分けて敵に当たる/偪陽城で三将が力を競う (智武子分軍肆敵 偪陽城三將鬪力)
楚の彭城攻略
- さて周の簡王十三年夏四月、楚の共王は右尹壬夫の計を用い、自ら大軍を率いて、鄭の成公とともに宋を討った。
- 魚石ら五大夫を道案内とし、彭城を攻め落とした。
- 魚石らにこれを守らせ、三百乗を残して駐屯させた。
- 共王は五大夫に言った。「晋は今まさに呉と通じ、楚に対抗しようとしており、彭城は呉と晋が往来する道である。今、大軍を残してそなたらを助ける。進んで戦えば宋国の封地を割き取ることができ、退いて守れば呉と晋の使者の往来を絶つこともできる。そなたらは心して事に当たり、寡人の託した思いに背かぬように。」
- 共王は楚に帰った。
宋・晋の反撃と彭城陥落
- この冬、宋の成公は大夫の老佐に軍を率いさせ、彭城を包囲させた。
- 魚石は駐屯兵を率いて迎え撃ったが、老佐に敗れた。
- 楚の令尹嬰斉は彭城が包囲されたと聞き、兵を率いて救援に来た。
- 老佐は勇に恃んで敵を軽んじ、深く楚軍に入り込み、矢に当たって死んだ。
- 嬰斉はそのまま進軍して宋を侵した。
- 宋の成公は大いに恐れ、右師の華元を晋に遣わして急を告げさせた。
- 韓厥は悼公に言った。「かつて文公の覇業は、宋を救うことから始まりました。興亡の機は、この一挙にあります。怠るわけにはまいりません。」
- そこで大いに使者を発し、諸侯に兵を徴発した。
- 悼公は自ら大将の韓厥・荀偃・欒黶らを率い、まず台谷に屯兵した。
- 嬰斉は晋兵が大挙して来ると聞き、兵を引き上げて楚に帰った。
- 周の簡王十四年、悼公は宋・魯・衛・曹・莒・邾・滕・薛の八国の兵を率い、進んで彭城を包囲した。
- 宋の大夫向戍は兵卒に轈車に登らせ、城上に向かって四方から呼びかけさせた。「魚石らは主君に背いた賊であり、天理はこれを容さぬ。今、晋は二十万の軍を統率し、孤城を踏み潰し、寸草も残さぬであろう。お前たちがもし順逆をわきまえるならば、どうして逆賊を捕らえて降伏しないのか。無辜の者が殺されずに済むように。」
- このように何度も呼びかけると、彭城の住民はこれを聞き、みな魚石に理がないことを知り、門を開いて晋軍を迎え入れた。
- 楚の駐屯兵は数は多かったものの、魚石らは兵をねぎらうこともなく、誰も力を尽くそうとしなかった。
- 晋の悼公が城に入ると、駐屯兵はみな逃げ散った。
- 韓厥は魚石を捕らえ、欒黶と荀偃は魚府を捕らえ、宋の向戍は向為人と向帶を捕らえ、魯の仲孫蔑は鱗朱を捕らえ、それぞれ晋の悼公のもとに引き渡して功を献じた。
- 悼公は五大夫を斬首するよう命じ、その一族を河東の壺邱の地に移した。
- そこで軍を移して鄭の罪を問うた。
- 楚の右尹壬夫は宋を侵して鄭を救い、諸侯の軍は引き返して宋を救い、そのためそれぞれ解散して帰国した。
周簡王崩御と鄭成公の遺言
- この年、周の簡王が崩じ、世子の泄心が即位した。これが霊王である。
- 霊王は生まれたときから口髭があったため、周の人々は彼を髭王と呼んだ。
- 髭王元年の夏、鄭の成公は病が篤くなり、上卿の公子偪に言った。「楚君はわが鄭を救ってくださったがために、矢を目に受けられた。寡人はこの恩を忘れることができない。寡人が死んだ後も、卿らは決して楚に背いてはならぬ。」
- 言い終わると薨じた。
- 公子騑らは世子の髡頑を奉じて即位させた。これが僖公である。
虎牢築城と鄭の服属、祁奚の推挙
- 晋の悼公は鄭人がまだ服属していないことから、戚に諸侯を大いに集めてこれを謀った。
- 魯の大夫仲孫蔑は計を献じて言った。「鄭の地の険は虎牢に及ぶものはなく、しかも楚と鄭が通じる要道です。まことに城を築いて関所を設け、大軍を留めて圧すれば、鄭は必ず従うでしょう。」
- 楚の降将巫臣は計を献じて言った。「呉と楚とは一水で通じております。臣は先年呉に使いした際、共に楚を攻める約束をし、呉人はたびたび楚の属国を侵し荒らし、楚人はこれに苦しんでおります。今、さらに一人の使者を遣わして呉に楚を討たせるよう導けば、楚は東方で呉兵に苦しみ、どうして北で我らと鄭を争う余裕がありましょうか。」
- 晋の悼公は両方とも採用した。
- ちょうどこの時、斉の霊公も世子の光と上卿の崔杼を遣わして集会に参加させ、晋の命に従わせようとした。
- 悼公はそこで九か国にわたる諸侯の兵力を集結させ、虎牢の城を大いに築き、砦を増設した。
- 大国は兵千人を拠出し、小国は五百人あるいは三百人を拠出し、共にその地を守らせた。
- 鄭の僖公は果たして恐れをなし、初めて晋との講和を行った。
- 晋の悼公はそこで軍を返した。
- 時に中軍尉の祁奚は齢七十余りとなり、老いを理由に政を退いた。
- 悼公は「誰が卿の代わりとなれるか」と尋ねた。
- 奚は答えた。「解狐に及ぶ者はおりません。」
- 悼公は言った。「解狐は卿の仇と聞くが、どうして彼を挙げるのか。」
- 奚は答えた。「主君は誰が適任かをお尋ねになったのであり、臣の仇について尋ねられたのではありません。」
- 悼公はそこで解狐を召したが、拝官の前に狐はすでに病死していた。
- 悼公は再び尋ねた。「解狐のほかに、さらに誰かいるか。」
- 奚は答えた。「その次には午に及ぶ者はおりません。」
- 悼公は「午は卿の子ではないか」と言った。
- 奚は答えた。「主君は誰が適任かをお尋ねになったのであり、臣の子について尋ねられたのではありません。」
- 悼公は言った。「今、中軍尉副の羊舌職も死んだ。卿は私のために、あわせてその後任も選んでくれ。」
- 奚は答えた。「職には二人の子がおり、赤と肹と申します。二人とも賢明です。主君の思し召しのままにお使いください。」
- 悼公はその言に従い、祁午を中軍尉、羊舌赤をその副とした。
- 諸大夫でこれを喜び心服しない者はなかった。
巫臣の子狐庸、呉を導く/楚呉の水戦
- 話は分かれる。さて巫臣の子巫狐庸は、晋侯の命を奉じて呉に赴き、呉王寿夢に会い、楚を討つ兵を求めた。
- 寿夢はこれを許し、世子の諸樊を将として、江口で兵を治めさせた。
- 早くも間者がこれを楚国に報告した。
- 楚の令尹嬰斉は奏した。「呉の軍はこれまで楚に至ったことがありません。もし一度でも国境に入れば、後には再び来るでしょう。先に討つにこしたことはありません。」
- 共王はもっともだと思った。
- 嬰斉はそこで水軍を大いに閲兵し、精鋭二万人を選び、大江から鳩茲を襲って破り、そのまま流れに乗って下ろうとした。
- 驍将の鄧廖が進んで言った。「長江の水流は、進むのはたやすいが退くのは難しゅうございます。小将が一軍を率いて先行し、有利ならば進み、不利であっても大敗には至りません。元帥は郝山磯に屯兵して機を見て変に応じられれば、万全でございましょう。」
- 嬰斉はその策を良しとし、組紐で綴じた鎧の兵三百人、練り絹の甲を着た兵三千人を選んだ。いずれも気力強く、一人で十人に当たる者たちであった。大小の船あわせて百艘、砲声一発で、船首を東へ向けて進発した。
- 早くも物見の船が鳩茲陥落を探り知り、世子諸樊に報告した。
- 諸樊は言った。「鳩茲がすでに落ちたからには、楚兵は必ず勝ちに乗じて東へ下ってくるだろう。あらかじめ備えておくべきだ。」
- そこで公子夷昧に、水軍数十艘を率いて東西の梁山で敵を誘わせ、公子餘祭には采石港に伏兵させた。
- 鄧廖の軍は郝山磯を過ぎ、梁山に船があるのを見て、勇んで前進した。
- 夷昧は軽く戦って偽って敗れ、東へ逃げた。
- 鄧廖は追撃して采石磯を通り過ぎたところ、諸樊の大軍に遭遇し、まさに交戦し始めて十数合も経たぬうちに、采石港の中で砲声が大いに轟き、餘祭の伏兵が後方から挟撃し、前後から矢が雨のように降り注いだ。
- 鄧廖は顔に三本の矢を受けたが、なお矢を抜きながら力戦した。
- 夷昧は大船を率いて到着した。船上にはみな精選された勇士がおり、大槍で敵の船を乱打したので、多くの船が転覆した。
- 鄧廖は力尽きて捕らえられ、屈することなく死んだ。
- 残った兵で逃げられた者は、組紐で綴じた鎧の兵八十人と、練り絹の甲を着た兵三百人だけであった。
- 嬰斉は罪を恐れ、敗北を功に見せかけようとしたが、思いがけず呉の世子諸樊は勢いに乗じ、逆に楚を襲い、嬰斉は大敗して帰った。鳩茲はまた呉のものに戻った。
- 嬰斉は恥辱と憤りで病を得て、郢都に着かぬうちに卒した。
- 史臣に詩がある(詩:戦車に乗る術と弓射と馬車を御する術とを呉人に教えたことにより、これより東方に戦塵が立ち始めた。組紐で綴じた鎧の兵が生け捕られ名将が死んだのは、あの年、誤って巫臣一族を族滅したことのつけであると詠う)。
楚令尹壬夫の誅殺と陳の帰服、魏絳の「和戎五利」
- 共王はそこで右尹壬夫を令尹に進めた。
- 壬夫はもって生まれて貪欲で卑しい性であり、属国から賄賂を取り立てた。
- 陳の成公はこれに堪えられず、轅僑如を遣わして晋に服属を求めた。
- 晋の悼公は雞澤に諸侯を大いに集め、再び戚で諸侯を集めた。
- 呉子の寿夢もまた会に参じ、中原の勢いは大いに振るった。
- 楚の共王は陳国を失ったことに怒り、その罪を壬夫に帰して彼を殺した。
- 共王は自分の弟である公子貞、字を子囊という者を用いて令尹の代わりとした。
- 軍勢を大いに閲兵し、車五百乗を出して陳を討った。
- 時に陳の成公午はすでに薨じ、世子の弱が跡を継いでいた。これが哀公である。
- 楚の兵威を恐れ、再び楚に帰服した。
- 晋の悼公はこれを聞いて大いに怒り、兵を起こして楚と陳を争おうとした。
- 突然、無終国の君主嘉父が大夫の孟樂を遣わして晋に来させ、虎や豹の皮百枚を献上したとの報せがあった。
- 孟樂は奏した。「山戎の諸国は、斉の桓公に征服されて以来、長らく平静を保っておりました。近頃、燕と秦の国力が弱まったため、山戎は中原に覇者がいないことに乗じて、再び侵略を働くようになりました。わが君は晋君が明察であられ、桓公・文公の業を継がれようとしていると聞き、それゆえ晋の威徳を諸戎に宣揚し、諸戎はみな盟約を受けたいと望んでおります。それゆえわが君は微臣を遣わして奏上させました。ご裁断を賜りたく存じます。」
- 悼公は諸将を集めて相談した。みな「戎狄には親愛の情はない。討伐するにこしたことはない。昔、斉の桓公が覇者となったとき、まず山戎を平定し、その後に荊楚を征伐した。まさに豺狼のような性質は、兵威によらなければ制することができないのだ」と言った。
- 司馬の魏絳だけが言った。「そうではありません。今、諸侯はようやく結集したばかりで、大業はまだ定まっておりません。もし兵を興して戎を討てば、楚は必ずその虚に乗じて事を起こし、諸侯は必ず晋に背いて楚に朝するでしょう。そもそも夷狄は禽獣です。諸侯は兄弟です。今、禽獣を得て兄弟を失うのは、良策ではありません。」
- 悼公は「戎と和すことはできるか」と尋ねた。
- 魏絳は答えた。「戎と和する利は五つあります。戎は晋と隣接し、その地は広大で人はまばら、土地は安く物資は貴い。我らが物資をもって土地と交換すれば、領地を広げることができます。これが一つ目の利です。侵略が止まれば、辺境の民は安んじて耕作に励むことができます。これが二つ目の利です。徳をもって遠方の者を懐柔すれば、兵車を煩わせずに済みます。これが三つ目の利です。戎狄が晋に事えれば、四方の隣国は震動し、諸侯は畏服いたします。これが四つ目の利です。我らに北方への憂いがなくなれば、南方に専心することができます。これが五つ目の利です。この五つの利がある以上、主君はどうして従われないのですか。」
- 悼公は大いに喜び、ただちに魏絳を戎と和を結ぶ使者に任じた。
- 孟樂とともにまず無終国に至り、国王嘉父と相談してまとめた。
- 嘉父はそこで山戎の諸国を招集し、みな無終に集い、血をすすって盟を定めた。「今や晋侯は覇を嗣ぎ、中華の盟主となっている。諸戎は約束を奉じて、北方を守り、侵さず叛かず、それぞれの安寧を保とう。もし盟に背けば、天地はこれを佑けぬであろう。」
- 諸戎は盟を受け、それぞれ喜んで、地元の産物を魏絳に献じたが、絳は少しも受け取らなかった。
- 諸戎は互いに顔を見合わせて「中原の大国の使臣がこれほど廉潔であるとは」と言い、ますます敬重した。
- 魏絳は盟約をもって悼公に復命し、悼公は大いに喜んだ。
鄭の内訌と僖公弑逆
- 時に楚の令尹公子貞はすでに陳国を得て、さらに軍を移して鄭を討った。
- 虎牢に大軍が駐屯して守っていることから、汜水の道は通らず、許国を経て潁水を望んで来た。
- 鄭の僖公髡頑は大いに恐れ、六卿を集めて議った。
- あの六卿とは、公子騑、字は子駟、公子発、字は子国、公子嘉、字は子孔、三人はいずれも穆公の子で、僖公にとっては叔祖にあたる。公孫輒、字は子耳、公子去疾の子。公孫蠆、字は子蟜、公子偃の子。公孫舍之、字は子展、公子喜の子。この三人はいずれも穆公の孫であり、父の爵位を継いで卿となった者たちで、僖公にとっては叔父にあたる。(この六卿はみな僖公より輩行(世代)が上の年長者であり、平素より鄭の政を執っていた。)
- 僖公髡頑は心が高く気位が高く、あまり礼を尽くさなかったため、これにより君臣の間は積年うまくいかなかった。
- 上卿の公子騑はことに扱いにくい存在であった。
- この日の会議において、僖公の意見は堅く守って晋の救援を待とうというものであった。
- 公子騑は口を開いて言った。「諺に『遠い水は近くの火を救えない』と申します。楚に従うにこしたことはありません。」
- 僖公は言った。「楚に従えば、また晋の軍が来る。どう当たればよいのか。」
- 公子騑は答えた。「晋と楚のどちらが我らを憐れんでくれるでしょうか。我らもどちらを選ぶ必要がありましょうか。ただ強い方に事えるのみです。今後は、盟の供物となる牲と玉や絹を用意して国境の外で待ち、楚が来れば楚と盟い、晋が来れば晋と盟えばよいのです。二つの強国が争えば、必ずどちらかが屈します。強弱が定まってから、我らはそれによって強い方を選んで民を庇護すればよいのです。これでよいのではありませんか。」
- 僖公はこの計に従わず、「そなたの言う通りにすれば、鄭は朝な夕なに盟を待つばかりで、安寧の年がなくなってしまう」と言った。
- 晋に援助を求める使者を遣わそうとしたが、諸大夫は公子騑の意向に逆らうことを恐れて、あえて行こうとする者はなかった。
- 僖公は発憤して自ら赴くこととし、その夜は駅舎に泊まった。
- 公子騑は食客を遣わして忍び込ませ、僖公を刺殺させ、急病であったと言いふらした。
- その弟の嘉を君に立てた。これが簡公である。
- 楚に人を遣わして報告させた。「晋に従うことはすべて髡頑の意向によるものでした。今、髡頑はすでに死にました。願わくば盟に従い兵を罷めていただきたい。」
- 楚の公子貞は盟を受けて退いた。
荀罃(智罃)の「三分四軍」策と号令
- 晋の悼公は鄭が再び楚に従ったことを聞き、諸大夫に問うた。「今、陳と鄭がともに背いた。どちらを先に討つべきか。」
- 荀罃は答えた。「陳国は小さく地も偏っており、勝敗の大局には益がありません。鄭は中原の要衝であり、これまでも覇業を図る者は必ず先に鄭を服させてきました。十の陳を失っても、一つの鄭を失ってはなりません。」
- 韓厥は言った。「子羽(荀罃)の見識は明確で決断力があり、鄭を定められるのは必ずこの人物です。臣は力も衰え智慧も鈍りました。中軍の斧鉞をこの者に譲りたいと存じます。」
- 悼公は許さなかったが、厥がしきりに願うので、ついにこれに従った。
- 韓厥は老いを理由に政を退き、荀罃がその代わりに中軍元帥となり、大軍を統率して鄭を討った。
- 兵が虎牢に至ると、鄭人は盟を請い、荀罃はこれを許した。
- 晋軍が引き返すか返さぬかのうちに、楚の共王は自ら鄭を討ち、再び和議を結んで帰った。
- 悼公は大いに怒り、諸大夫に問うた。「鄭人は反覆常なく、兵が至れば従い、兵が撤すればまた叛く。今、彼らを堅く帰服させるには、どのような策を用いるべきか。」
- 荀罃は計を献じて言った。「晋が鄭を収められないのは、楚人がこれを争うことに大変力を入れているからです。今、鄭を収めようとするならば、まず楚を疲弊させねばなりません。楚を疲弊させるには、必ず『逸をもって労を待つ』策を用いなければなりません。」
- 悼公は「『逸をもって労を待つ』策とは何か」と尋ねた。
- 荀罃は答えた。「兵はしばしば動かすべきではありません。しばしば動かせば疲れます。諸侯もしばしば労するべきではありません。しばしば労すれば怨みます。内が疲れ外が怨めば、これで楚を防いでも、臣にはその勝算が見えません。臣は、四軍の兵をお願いし、これを三つに分け、各国の兵も分けて配属し、毎回一軍だけを用い、順番に出入りさせることをお願いいたします。楚が進めば我らは退き、楚が退けば我らはまた進み、我が一軍をもって楚の全軍を牽制するのです。彼らは戦を求めても得られず、休息を求めても得られません。我らには骨をさらす凶事がなく、彼らには道中の苦しみがあります。我らは速やかに往来できますが、彼らは速やかに来ることができません。このようにすれば楚を疲弊させることができ、鄭を固めることができます。」
- 悼公は「その計は非常によい」と言った。
- ただちに荀罃に曲梁で軍を整えさせ、四軍を三つに分け、交代の制度を定めさせた。
- 荀罃は壇に登って号令を出した。壇上には杏黄色の大旗を立て、「中軍元帥智」と記した。(彼はもともと荀氏であるのに、なぜ「智」の字を書いたのか。それは荀罃と荀偃の叔父甥が同時に大将であり、軍中で同じ姓では紛らわしいためである。罃の父荀首は智の地を采邑として食んでいたため、また偃の父荀庚は晋が三行を編成したとき、中行将軍を務めていたため、それぞれ智氏、中行氏と呼び分けたのである。これより荀罃は智罃と号し、荀偃は中行偃と号するようになり、軍中の耳目は乱れなくなった。これはみな荀罃の取り決めである。)
- 壇の下には三軍が分かれて立った。第一軍、上軍元帥は荀偃、副将は韓起、魯・曹・邾三国の兵が従い、中軍副将の范匄が後詰めとして呼応する。第二軍、下軍元帥は欒黶、副将は士魴、斉・滕・薛三国の兵が従い、中軍上大夫の魏頡が後詰めとして呼応する。第三軍、新軍元帥は趙武、副将は魏相、宋・衛・郳三国の兵が従い、中軍下大夫の荀会が後詰めとして呼応する。
楊干の軍法違反と魏絳の処断
- 荀罃は令を伝えた。第一回は上軍が出征し、第二回は下軍が出征し、第三回は新軍が出征する。中軍の兵将は後詰めとして各軍に振り分け、これを繰り返す。ただ盟約を取り付けて帰還を報告すればよく、それをもって功とし、楚兵と交戦することは許されない。
- 公子楊干は、悼公の同母弟であり、年はまだ十九歳で、新たに中軍戎御(中軍の兵車を御する)の職を拝命したばかりで、血気盛んで戦陣を経験していなかった。
- 鄭を討つ軍を治めると聞き、拳を握って手ぐすねを引き、独りで一隊を任され、すぐにでも先陣を切って戦いたいと望んでいた。
- 智罃に選ばれずにいるのを見て、心中に一股の鋭気が抑えきれなくなり、そこで自ら先鋒に任じてほしいと願い出て、死力を尽くすと申し出た。
- 智罃は言った。「私の今日の分軍の計は、ただ速やかに進み速やかに退くことだけを目的としており、戦勝を功としてはいない。小将軍がいかに勇敢であろうと、用いる場所がない。」
- 楊干はなおも強く自ら効くことを願った。
- 荀罃は言った。「小将軍がそこまで強く願うなら、荀大夫(中軍下大夫の荀会)の部下について新軍の後詰めに加わってはどうか。」
- 楊干はまた言った。「新軍は第三回目の出征に配されている。待てないので、第一軍の部下に配していただきたい。」
- 智罃はこれを聞き入れなかった。
- 楊干は自らが晋侯の実弟であることを頼みとして、そのまま自分の部隊の戦車兵を一隊にまとめ、中軍副将范匄の後ろに列した。
- 司馬の魏絳は将令を奉じて隊伍を整えており、楊干が順序を越えて列に加わっているのを見て、太鼓を鳴らして人々に告げた。「楊干は故意に将令に背き、隊伍の順序を乱した。軍法によれば本来斬首すべきである。晋侯の実弟であることを考慮し、しばらくその御者を身代わりとして処罰し、軍政を粛正する。」
- ただちに軍校に命じてその御車の者を捕らえて斬らせ、その首を壇下に懸けた。軍中は粛然となった。
- 楊干は生来驕り高ぶってわがまま放題であり、軍法など知らなかった。御者が殺されたのを見て、魂も飛ぶほど怖れ、十分な恐怖の中に、三分の羞恥と三分の悔しさが混じった。
- そのまま車を駆って陣営を馳せ出て、まっすぐ晋の悼公のもとに向かい、地に伏して哭き、魏絳がこのように人を侮辱し辱めたのだと訴え、諸将に顔向けできないと嘆いた。
- 悼公は弟を愛する情から、詳しく考える暇もなく、たちまち色をなして怒った。「魏絳は寡人の弟を辱めた。これは寡人を辱めたのと同じだ。必ず魏絳を殺さねばならぬ。許してはならぬ。」
- そこで中軍尉副の羊舌職を召し、魏絳を捕らえてくるよう命じた。
- 羊舌職は宮中に入り悼公に会って言った。「絳は志節ある士であり、事があれば難を避けず、罪があれば刑を避けません。軍事がすでに終わった今、必ず自ら来て罪を謝しに来るでしょう。臣が行くには及びません。」
- ほどなく、魏絳は果たしてやって来た。右手に剣を持ち、左手に書を持って、朝廷に入り罪を待とうとした。
- 午門に至り、悼公が人を遣わして自分を捕らえに来ると聞き、そこで書を従僕に渡し、上奏させて、そのまま剣に伏して死のうとした。
- ちょうど二人の官員が息せき切って駆けつけた。下軍副将の士魴と、主侯大夫の張老であった。
- 絳が自刎しようとしているのを見て、慌てて剣を奪い、「我らは司馬が入朝したと聞き、必ず楊公子の事によるものだと思い、それゆえ急いで駆けつけました。共に主公に稟申したいと存じます。司馬はどうしてこのように軽々しく命を捨てようとされるのですか」と言った。
- 魏絳は晋侯が羊舌大夫を召した意向を詳しく話した。
- 二人は言った。「これは国家の公事であり、司馬は法を奉じて私心がなかった。どうして自ら命を絶つ必要があろうか。従僕に上書させるまでもない。我らが代わって奏上いたそう。」
- 三人は共に宮門に至り、士魴と張老がまず入って悼公に拝謁を求め、魏絳の書を差し出した。
- 悼公は開いてこれを読んだ。おおよそ次のようであった。
悼公の魏絳への謝罪
- 「君は臣を不肖と思し召さず、中軍司馬の職を承らせてくださいました。臣が聞くところでは『三軍の命は元帥に懸かっており、元帥の権は命令にある』と申します。命令があっても従わず、命があっても用いなければ、これは河曲の戦いで功がなく、邲城の戦いで敗れた原因であります。臣は命に従わぬ者を処罰し、司馬の職を尽くしました。臣は自ら君の弟に触れる罪を犯したことを知っております。罪は万死に値します。どうか君の御側で剣に伏し、君侯の親愛の情の道理を明らかにいたしたく存じます。」
- 悼公は書を読み終え、急いで士魴と張老に「魏絳はどこにいるのか」と尋ねた。
- 魴らは答えた。「絳は罪を恐れ自害しようとしましたが、臣らがそれを力ずくで止めました。ただいま宮門にて罪を待っております。」
- 悼公はぎょっとして席を立ち、履を穿く暇もなく、裸足で宮門まで歩み出て、魏絳の手を取り、言った。「寡人の言葉は、兄弟の情から出たものだ。そなたの行いは、軍旅の事によるものだ。寡人が弟をよく教育できず、軍法に触れさせてしまった。過ちは寡人にある。卿には関わりない。卿は速やかに職に就くがよい。」
- 羊舌職は傍らで大声で言った。「主君はすでに絳の無罪を認められました。絳は退くべきです。」
- 魏絳はそこで殺されなかった恩に叩頭して謝した。
- 羊舌職と士魴、張老は、共に頭を地につけて礼をし、祝賀して言った。「主君にこのように法を奉ずる臣がおられれば、どうして覇業が成らぬことを憂えましょうか。」
- 四人は悼公に暇を告げ、一斉に朝廷を出た。
- 悼公は宮に戻ると楊干を大いに罵った。「礼法を知らず、危うく寡人に過ちを犯させ、私の愛する将を殺すところであったぞ。」
- 内侍に命じて公族大夫韓無忌のもとへ送らせ、礼を三ヶ月学ばせて、ようやく再び会うことを許した。
- 楊干は恥じ入り鬱々として去って行った。
- 髯翁に詩がある(詩:軍法には親疎の差なく敢えて乱れを許さず、中軍司馬の顔は霜のように冷たかった。悼公が覇業を志し磨き励んでいるとき、どうして忠臣を剣の下で亡くさせられようかと詠う)。
偪陽攻めの発端
- 智罃が分軍の令を定め、まさに鄭を討とうとしていたところ、廷臣が「宋国から文書が届いた」と伝えた。
- 悼公が取り寄せて見ると、楚と鄭の二国が互いに結んで、たびたび兵を興し宋の国境を侵略し、偪陽を東の道としているとの急報であった。
- 上軍元帥荀偃は請うて言った。「楚は陳・鄭を得てから再び宋を侵しています。その意図は晋と覇を争うことにあります。偪陽は楚が宋を討つ道であり、もし軍を興してまず偪陽に向かえば、一気に落とせましょう。さきの彭城の包囲の折には宋の向戍に功がありました。偪陽を落としたうえでこれを向戍に封じて従属国とし、楚の道を断たせるというのも、一つの策かと存じます。」
- 智罃は言った。「偪陽は小さいとはいえ、その城は非常に堅固だ。もし包囲しても落とせなければ、必ず諸侯の笑い者になろう。」
- 中軍副将士匄は言った。「鼓城の役では、我らが鄭を討っている間に、楚は宋を侵して鄭を救いました。虎牢の役では、我らが鄭と講和を結ぶと、楚はまた宋を侵してこれに報復しました。今、鄭を得ようとするならば、まず宋を固める謀りをせずにはいられません。偃の言う通りです。」
- 荀罃は言った。「二人は偪陽を必ず滅ぼせると見込んでいるか。」
- 荀偃と士匄は口をそろえて答えた。「すべて小将二人にお任せください。もし成功しなければ、甘んじて軍令を受けます。」
- 悼公は「伯游(荀偃)が唱え、伯瑕(士匄)がこれを助けるならば、どうして事の成らざるを憂えようか」と言った。
- そこで第一軍を発して偪陽を攻めさせ、魯・曹・邾の三国もみな兵を従わせた。
- 偪陽の大夫妘斑は計を献じて言った。「魯の軍は北門に陣を張っております。我らが偽って門を開いて出戦すれば、その軍は必ず攻め入ってくるでしょう。その半分が入るのを待って、落とし戸を下ろしてこれを断ち切りましょう。魯が敗れれば、曹と邾は必ず恐れをなし、晋の鋭気も挫けましょう。」
- 偪陽子はその計を用いた。
叔梁紇・秦堇父・狄虒彌の勇戦
- さて魯の将孟孫蔑は、部将の叔梁紇、秦堇父、狄虒彌らを率いて北門を攻めた。
- 落とし戸が閉じられていないのを見て、堇父と虒彌は勇に恃んでまず進み、叔梁紇がこれに続いた。
- 突然、城上でガラガラという音がして、落とし戸がまさに叔梁紇の頭上めがけて放たれ落ちてきた。
- 紇はすぐさま戈を地に投げ捨て、両手で落とし戸を軽々と持ち上げた。
- 後軍はそこで鉦を鳴らして退却させた。
- 堇父と虒彌の二将は、後隊に異変が起きたのではないかと危ぶみ、急いで身を返した。
- 城内では鼓角が大いに鳴り響き、妘斑は大隊の歩兵と兵車を率いて追撃してきた。
- 一人の大男が手で落とし戸を支え、軍の出るのを助けているのを望み見て、妘斑は大いに驚き、考えた。「この落とし戸は城上から放ち下ろしたものだ。千斤の力でもなければ、どうして支えていられよう。もし飛び出せば、逆にこの男に門を落とされてはたまらぬ。」
- そのまま車を止めて様子を見ていた。
- 叔梁紇は晋軍がすべて退くのを見計らって、大声で叫んだ。「魯国の名だたる上将叔梁紇がここにいるぞ。城を出たい者があるなら、私がまだ手を放さぬうちに、さっさと出るがよい。」
- 城中には誰一人応じる者がいなかった。
- 妘斑は弓を引き矢をつがえ、まさにこれを射ようとした。
- 叔梁紇は両手をぱっと払い、勢いのままに手を放すと、落とし戸はそのまま門の落ち溝に落ちた。
- 紇は本営に戻り、堇父と虒彌に言った。「お二方の命は、私の両腕に懸かっていたのですぞ。」
- 堇父は言った。「もし鉦が鳴らされなければ、我らはすでに偪陽城に切り込み、大功を成していただろう。」
- 虒彌は言った。「明日を見ておられよ。私は単独で偪陽を攻め、魯人の腕前を見せつけてやりたい。」
- 翌日、孟孫蔑は隊を整えて城上に挑みかかり、百人ずつを一隊とした。
- 狄虒彌は言った。「私は人の助けを借りずとも、単身で一隊に十分に匹敵する。」
- そこで大きな車輪一つを取り、堅い甲でこれを覆い、しっかりと束ね縛って、左手にこれを盾として持ち、右手に大きな戟を握って、跳び跳ねながら飛ぶように駆けた。
- 偪陽城上ではこの魯の将が力を振るう様子を望み見て、城下に布を垂らし、「私がお前を城に登らせてやろう。誰があえて登れるか、それでこそ真の勇者と分かる」と叫んだ。
- 言い終わらぬうちに、魯の隊中から一人の将が応じて出た。「何をあえてできないことがあろうか。」
- この将こそ秦堇父であった。
- そのまま手で布を引き、左右に手を換えながら、たちまち城壁まで登った。
- 偪陽の人は刀でその布を切断し、堇父は中空からどしんと地に落ちた。
- 偪陽の城の高さは数仞あり、もし他の者ならば、この転落だけでも死なぬまでも、重傷を負っただろう。堇父はまったく気にも留めなかった。
- 城上からまた布が垂らされ、「もう一度登る勇気があるか」と問われた。
- 堇父はまた答えた。「何をあえてできないことがあろうか。」
- 布の力を借りて再び身を躍らせて登った。
- また偪陽の人に布を切られて地に叩きつけられ、また大きく転んだ。
- ようやく起き上がると、城上からまた布が垂らされ、「まだ懲りぬか」と問われた。
- 堇父は声をさらに励まして答えた。「懲りぬのが好漢というものだ。」
- 前のように布を手繰り寄せた。
- 偪陽の人は堇父が何度落とされても少しも恐れる様子がないのを見て、かえって慌てだした。
- 急いで布を切ろうとしたが、その前に堇父は偪陽の兵の一人を掴み取り、城下へと投げ落としたので、その者は半死半生の目に遭った。
- 堇父も布とともに落ちてきたが、逆に城上に向かって叫んだ。「まだ布を垂らす気があるか。」
- 城上は「もう将軍の神勇はよく分かった。もう懸けたりはいたしません」と答えた。
- 堇父は切り落とされた布の切れ端三本を拾い取り、諸隊にあまねく見せて回ると、人々は舌を巻かぬ者はなかった。
- 孟孫蔑は嘆じて言った。「詩に『力は虎の如し』とあるが、この三将こそまさにこれに値する。」
- 妘斑は魯の将の勇猛さを見て、一人が一人にも劣らぬのを見るに及び、ついに戦を挑む勇気を失い、軍民に力を尽くして固守するよう命じた。
- 各軍は夏四月丙寅の日から包囲を始め、五月庚寅に至るまで、およそ二十四日、攻める側はすでに疲れ、守る側にはなお余力があった。
- 突然、天より大雨が降り、平地の水深は三尺に達し、軍中は驚き恐れて落ち着かなかった。
- 荀偃と士匄は水害による変事を憂え、共に中軍に至って智罃に稟申し、兵を引き上げることを求めようとした。
- 智罃がこれを聞き入れるかどうかは分からない。続きは次回で語られる。
原文(底本)
話說周簡王十三年夏四月,楚共王用右尹壬夫之計,親統大軍,同鄭成公伐宋。以魚石等五大夫為嚮導,攻下彭城。使魚石等據之,留下三百乘,屯戍其地。共王謂五大夫曰:「晉方通吳,與楚為難,而彭城乃吳晉往來之徑。今留重兵助汝,進戰則可以割宋國之封,退守亦可以絕吳晉之使。汝宜用心任事,勿負寡人之託!」共王歸楚。 是冬,宋成公使大夫老佐帥師圍彭城。魚石統戍卒迎戰,為老佐所敗。楚令尹嬰齊聞彭城被圍,引兵來救。老佐恃勇輕敵,深入楚軍,中箭而亡。嬰齊遂進兵侵宋。宋成公大懼,使右師華元至晉告急。韓厥言於悼公曰:「昔文公之伯,自救宋始。興衰之機,在此一舉,不可以不勤也。」乃大發使,徵兵於諸侯。悼公親統大將韓厥、荀偃、欒黶等,先屯兵於台谷。嬰齊聞晉兵大至,乃班師歸楚。 周簡王十四年,悼公帥宋、魯、衛、曹、莒、邾、滕、薛八國之兵,進圍彭城。宋大夫向戍使士卒登轈車,向城上四面呼曰:「魚石等背君之賊,天理不容!今晉統二十萬之眾,蹂破孤城,寸草不留。汝等若知順逆,何不擒逆賊來降?免使無辜被戮。」如此傳呼數遍,彭城百姓聞之,皆知魚石理虧,開門以納晉師。時楚戍雖眾,魚石等不加優恤,莫肯效力。晉悼公入城,戍卒俱奔散。韓厥擒魚石,欒黶荀偃擒魚府,宋向戍擒向為人向帶,魯仲孫蔑擒鱗朱,各解到晉悼公處獻功。悼公命將五大夫斬首,安置其族於河東壺邱之地。遂移師問罪於鄭。楚右尹壬夫侵宋以救鄭,諸侯之師還救宋,因各散歸。 是年,周簡王崩,世子泄心即位,是為靈王。靈王自始生時,口上便有髭鬚,故周人謂之髭王。髭王元年夏,鄭成公疾篤,謂上卿公子偪曰:「楚君以救鄭之故,矢及於目,寡人未之敢忘。寡人死後,諸卿切勿背楚!」囑罷遂薨。公子騑等奉世子髡頑即位,是為僖公。 晉悼公以鄭人未服,大合諸侯於戚以謀之。魯大夫仲孫蔑獻計曰:「鄭地之險,莫如虎牢,且楚鄭相通之要道也。誠築城設關,留重兵以偪之,鄭必從矣。」楚降將巫臣獻計曰:「吳與楚一水相通,自臣往歲聘吳,約與攻楚,吳人屢次侵擾楚屬,楚人苦之。今莫若更遣一介,導吳伐楚,楚東苦吳兵,安能北與我爭鄭乎?」晉悼公兩從之。時齊靈公亦遣世子光,同上卿崔杼來會所,聽晉之命。悼公乃合九路諸侯兵力,大城虎牢,增置墩臺。大國抽兵千人,小國五百三百,共守其地。鄭僖公果然恐懼,始行成於晉。晉悼公乃還。時中軍尉祁奚年七十餘矣,告老致政。悼公問曰:「孰可以代卿者?」奚對曰:「莫如解狐。」悼公曰:「聞解狐卿之仇也,何以舉之?」奚對曰:「君問可,非問臣之仇也。」悼公乃召解狐,未及拜官,狐已病死。悼公復問曰:「解狐之外,更有何人?」奚對曰:「其次莫如午。」悼公曰:「午非卿之子耶?」奚對曰:「君問可,非問臣之子也。」悼公曰:「今中軍尉副羊舌職亦死,卿為我并擇其代。」奚對曰:「職有二子,曰赤,曰肹,二人皆賢,惟君所用。」悼公從其言,以祁午為中軍尉,羊舌赤副之。諸大夫無不悅服。 話分兩頭。再說巫臣之子巫狐庸,奉晉侯命,如吳見吳王壽夢,請兵伐楚。壽夢許之,使世子諸樊為將,治兵於江口。早有諜人報入楚國。楚令尹嬰齊奏曰:「吳師從未至楚,若一次入境,後將復來。不如先期伐之。」共王以為然。嬰齊乃大閱舟師,簡精卒二萬人,由大江襲破鳩茲,遂欲順流而下。驍將鄧廖進曰:「長江水溜,進易退難。小將願率一軍前行,得利則進,失利亦不至於大敗。元帥屯兵於郝山磯,相機觀變,可以萬全。」嬰齊然其策,乃選組甲三百人,被練袍者三千人,皆氣強力大,一可當十者,大小舟共百艘,一聲砲響,船頭望東進發。早有哨船探知鳩茲失事,來報世子諸樊。諸樊曰:「鳩茲既失,楚兵必乘勝東下,宜預備之。」乃使公子夷昧,帥舟師數十艘,於東西梁山誘敵﹔公子餘祭,伏兵於采石港。鄧廖兵過郝山磯,望梁山有兵船,奮勇前進。夷昧略戰,即佯敗東走。鄧廖追過采石磯,遇諸樊大軍,方接戰,未十餘合,采石港中砲聲大振,餘祭伏兵從後夾攻,前後矢發如雨點,鄧廖面中三矢,猶拔箭力戰。夷昧乘艨艟大艦至,艦上俱精選勇士,以大槍亂擣敵船,船多覆溺。鄧廖力盡被執,不屈而死。餘軍得逃者,惟組甲八十,被練甲者三百人而已。嬰齊懼罪,方欲掩敗為功。誰知吳世子諸樊乘勝,反進兵襲楚,嬰齊大敗而回,鳩茲仍復歸吳。嬰齊羞憤成疾,未至郢都,遂卒。史臣有詩云: 乘車射御教吳人,從此東方起戰塵。組甲成擒名將死,當年錯著族巫臣。 共王乃進右尹壬夫為令尹。壬夫賦性貪鄙,索賂於屬國。陳成公不能堪,乃使轅僑如請服於晉。晉悼公大合諸侯於雞澤,再會諸侯於戚。吳子壽夢亦來會好,中國之勢大振。楚共王怒失陳國,歸罪於壬夫,殺之。用其弟公子貞,字子囊者代為令尹。大閱師徒,出車五百乘伐陳。時陳成公午已薨,世子弱嗣位,是為哀公。懼楚兵威,復歸附於楚。晉悼公聞之大怒,欲起兵與楚爭陳。忽報無終國君嘉父,遣大夫孟樂至晉,獻虎豹之皮百個。奏言:「山戎諸國,自齊桓公征服,一向平靖。近因燕秦微弱,山戎窺中國無伯,復肆侵掠。寡君聞晉君精明,將紹桓文之業,因此宣晉威德,諸戎情願受盟。因此寡君遣微臣奉聞,惟賜定奪。」悼公集諸將商議,皆曰:「戎狄無親,不如伐之。昔者,齊桓公之伯,先定山戎,後征荊楚,正以豺狼之性,非兵威不能制也。」司馬魏絳獨曰:「不可,今諸侯初合,大業未定,若興兵伐戎,楚兵必乘虛而生事,諸侯必叛晉而朝楚。夫夷狄,禽獸也。諸侯,兄弟也。今得禽獸而失兄弟,非策也。」悼公曰:「戎可和乎?」魏絳對曰:「和戎之利有五:戎與晉鄰,其地多曠,賤土貴貨,我以貨易土,可以廣地,其利一也﹔侵掠既息,邊民得安意耕種,其利二也﹔以德懷遠,兵車不勞,其利三也﹔戎狄事晉,四鄰震動,諸侯畏服,其利四也﹔我無北顧之憂,得以專意於南方,其利五也。有此五利,君何不從?」悼公大悅,即命魏絳為和戎之使。同孟樂先至無終國,與國王嘉父商議停當。嘉父乃號召山戎諸國,並至無終,歃血定盟:「方今晉侯嗣伯,主盟中華,諸戎願奉約束,捍衛北方,不侵不叛,各保寧宇。如有背盟,天地不佑!」諸戎受盟,各各歡喜,以土宜獻魏絳,絳分毫不受。諸戎相顧曰:「上國使臣,廉潔如此!」倍加敬重。魏絳以盟約回報悼公,悼公大悅。 時楚令尹公子貞已得陳國,又移兵伐鄭。因虎牢有重兵戍守,不走汜水一路,卻由許國望潁水而來。鄭僖公髡頑大懼,集六卿共議。那六卿:公子騑字子駟,公子發字子國,公子嘉字子孔,三位俱穆公之子,於僖公為叔祖輩﹔公孫輒字子耳,乃公子去疾之子,公孫蠆字子蟜,乃公子偃之子,公孫舍之字子展,乃公子喜之子,三位俱穆公之孫,襲父爵為卿,於僖公為叔輩。(這六卿都是尊行,素執鄭政。)僖公髡頑心高氣傲,不甚加禮,以此君臣積不相能。上卿公子騑尤為鑿柄。今日會議之際,僖公主意,欲堅守以待晉救。公子騑開言曰:「諺云『遠水豈能救近火?』不如從楚。」僖公曰:「從楚則晉師又至,何以當之?」公子騑對曰:「晉與楚誰憐我者?我亦何擇於二國?惟強者則事之。今後請以犧牲玉帛待於境外,楚來則盟楚,晉來則盟晉。兩雄並爭,必有大屈。強弱既分,吾因擇強者而庇民焉,不亦可乎?」僖公不從其計,曰:「如駟言,鄭朝夕待盟,無寧歲矣!」欲遣使求援於晉。諸大夫懼違公子騑之意,莫肯往者。僖公發憤自行,是夜宿於驛舍。公子騑使門客伏而刺之,託言暴疾。立其弟嘉為君,是為簡公。使人報楚曰:「從晉皆髡頑之意,今髡頑已死,願聽盟罷兵!」楚公子貞受盟而退。 晉悼公聞鄭復從楚,乃問於諸大夫曰:「今陳鄭俱叛,伐之何先?」荀罃對曰:「陳國小地偏,無益於成敗之數。鄭為中國之樞,自來圖伯,必先服鄭。寧失十陳,不可失一鄭也。」韓厥曰:「子羽識見明決,能定鄭者必此人,臣力衰智耄,願以中軍斧鉞讓之。」悼公不許,厥堅請不已,乃從之。韓厥告老致政,荀罃遂代為中軍元帥,統大軍伐鄭。兵至虎牢,鄭人請盟,荀罃許之。比及晉師返旆,楚共王親自伐鄭,復取成而歸。悼公大怒,問於諸大夫曰:「鄭人反覆,兵至則從,兵撤復叛,今欲得其堅附,當用何策?」荀罃獻計曰:「晉所以不能收鄭者,以楚人爭之甚力也。今欲收鄭,必先敝楚,欲敝楚,必用『以逸待勞』之策。」悼公曰:「何謂『以逸待勞』之策?」荀罃對曰:「兵不可以數動,數動則疲,諸侯不可以屢勤,屢勤則怨。內疲而外怨,以此禦楚,臣未見其勝也。臣請舉四軍之眾,分而為三,將各國亦分派配搭。每次只用一軍,更番出入,楚進則我退,楚退則我復進,以我之一軍,牽楚之全軍。彼求戰不得,求息又不得,我無暴骨之凶,彼有道塗之苦。我能亟往,彼不能亟來,如是而楚可疲,鄭可固也。」悼公曰:「此計甚善!」即命荀罃治兵於曲梁,三分四軍,定更番之制。荀罃登壇出令,壇上豎起一面杏黃色大旆,上寫「中軍元帥智」(他本荀氏,為何卻寫「智」字?因荀罃荀偃叔姪同為大將,軍中一姓,嫌無分別。罃父荀首食采於智,偃父荀庚自晉作三行時,曾為中行將軍,故又以智氏,中行氏別之。自此荀罃號為智罃,荀偃號為中行偃,軍中耳目,就不亂了。這都是荀罃的法度。)壇下分立三軍:第一軍,上軍元帥荀偃,副將韓起,魯、曹、邾三國以兵從,中軍副將范匄接應﹔第二軍,下軍元帥欒黶,副將士魴,齊、滕、薛三國以兵從,中軍上大夫魏頡接應﹔第三軍,新軍元帥趙武,副將魏相,宋、衛、郳三國以兵從,中軍下大夫荀會接應。 荀罃傳令:第一次上軍出征,第二次下軍出征,第三次新軍出征。中軍兵將,分配接應,周而復始。但取盟約歸報,便算有功,更不許與楚兵交戰。公子楊干,乃悼公之同母弟,年方一十九歲,新拜中軍戎御之職,血氣方剛,未經戰陣。聞得治兵伐鄭,磨拳擦掌,巴不得獨當一隊,立刻上前廝殺。不見智罃點用,心中一股銳氣,按納不住,遂自請為先鋒,願效死力。智罃曰:「吾今日分軍之計,只要速進速退,不以戰勝為功。分派已定,小將軍雖勇,無所用之。」楊干固請自效。荀罃曰:「既小將軍堅請,權於荀大夫部下接應新軍。」楊干又道:「新軍派在第三次出征,等待不及,求撥在第一軍部下。」智罃不從。楊干恃自家是晉侯親弟,逕將本部車卒,自成一隊,列於中軍副將范匄之後。司馬魏絳奉將令整肅行伍,見楊干越次成列,即鳴鼓告於眾曰:「楊干故違將令,亂了行伍之序,論軍法本該斬首。念是晉侯親弟,姑將僕御代戮,以肅軍政。」即命軍校擒其御車之人斬之,懸首壇下,軍中肅然。楊干素驕貴自恣,不知軍法﹔見御人被戮,嚇得魂不附體,十分懼怕中,又帶了三分羞,三分惱。當下駕車馳出軍營,逕奔晉悼公之前,哭拜於地,訴說魏絳如此欺負人,無顏見諸將之面。悼公愛弟之心,不暇致詳,遂拂然大怒曰:「魏絳辱寡人之弟,如辱寡人。必殺魏絳,不可縱也!」乃召中軍尉副羊舌職往取魏絳。羊舌職入宮見悼公曰:「絳志節之士,有事不避難,有罪不避刑,軍事已畢,必當自來謝罪,不須臣往。」頃刻間,魏絳果至,右手仗劍,左手執書,將入朝待罪。至午門,聞悼公欲使人取己,遂以書付僕人,令其申奏,便欲伏劍而死。只見兩位官員,喘吁吁的奔至,乃是下軍副將士魴,主侯大夫張老。見絳欲自刎,忙奪其劍曰:「某等聞司馬入朝,必為楊公子之事,所以急趨而至,欲合詞稟聞主公。不識司馬為何輕生如此?」魏絳具說晉侯召羊舌大夫之意。二人曰:「此乃國家公事,司馬奉法無私,何必自喪其身?不須令僕上書,某等願代為啟奏。」三人同至宮門,士魴張老先入,請見悼公,呈上魏絳之書。悼公啟而覽之,略云: 君不以臣為不肖,使承中軍司馬之乏。臣聞:「三軍之命,繫於元帥﹔元帥之權,在乎命令。」有令不遵,有命不用,此河曲之所以無功,邲城之所以致敗也。臣戮不用命者,以盡司馬之職。臣自知上觸介弟,罪當萬死!請伏劍於君側,以明君侯親親之誼。 悼公讀罷其書,急問士魴張老曰:「魏絳安在?」魴等答曰:「絳懼罪欲自殺,臣等力止之,見在宮門待罪!」悼公悚然起席,不暇穿履,遂跣足步出宮門,執魏絳之手,曰:「寡人之言,兄弟之情也﹔子之所行,軍旅之事也。寡人不能教訓其弟,以犯軍刑,過在寡人,於卿無與,卿速就職。」羊舌職在旁大聲曰:「君已恕絳無罪,絳宜退!」魏絳乃叩謝不殺之恩。羊舌職與土魴張老,同時稽首稱賀曰:「君有奉法之臣如此,何患伯業不就?」四人辭悼公一齊出朝。悼公回宮,大罵楊干:「不知禮法,幾陷寡人於過,殺吾愛將!」使內侍押往公族大夫韓無忌處,學禮三月,方許相見。楊干含羞鬱鬱而去。髯翁有詩云: 軍法無親敢亂行,中軍司馬面如霜﹔悼公伯志方磨勵,肯使忠臣劍下亡? 智罃定分軍之令,方欲伐鄭。廷臣傳報:「宋國有文書到來。」悼公取覽,乃是楚鄭二國相比,屢屢興兵,侵掠宋境,以偪陽為東道,以此告急。上軍元帥荀偃請曰:「楚得陳鄭而復侵宋,意在與晉爭伯也。偪陽為楚伐宋之道,若興師先向偪陽,可一鼓而下。前彭城之圍,宋向戍有功,因封之以為附庸,使斷楚道,亦一策也。」智罃曰:「偪陽雖小,其城甚固,若圍而不下,必為諸侯所笑。」中軍副將士匄曰:「鼓城之役,我方伐鄭,楚則侵宋以救之。虎牢之役,我方平鄭,楚又侵宋以報之。今欲得鄭,非先為固宋之謀不可。偃言是也。」荀罃曰:「二子能料偪陽必可滅乎?」荀偃士匄同聲應曰:「都在小將二人身上。如若不能成功,甘當軍令!」悼公曰:「伯游倡之,伯瑕助之,何憂事不濟乎?」乃發第一軍往攻偪陽,魯、曹、邾三國皆以兵從。偪陽大夫妘斑獻計曰:「魯師營於北門,我偽啟門出戰,其師必入攻﹔俟其半入,下懸門以截之。魯敗,則曹邾必懼,而晉之銳氣亦挫矣。」偪陽子用其計。 卻說魯將孟孫蔑率其部將叔梁紇、秦堇父、狄虒彌等攻北門,只見懸門不閉,堇父同虒彌恃勇先進,叔梁紇繼之。忽聞城上豁喇一聲,將懸門當著叔梁紇頭頂上放將下來。紇即投戈於地,舉雙手把懸門輕輕托起。後軍就鳴金起來。堇父虒彌二將,恐後隊有變,急忙回身。城內鼓角大振,妘斑引著大隊人車,尾後追逐。望見一大漢,手托懸門,以出軍將。妘斑大駭,想道:「這懸門自上放下,不是千斤力氣,怎抬得住?若闖出去,反被他將門放下,可不利害!」且自停車觀望。叔梁紇待晉軍退盡,大叫道:「魯國有名上將叔梁紇在此!有人要出城的,趁我不曾放手,快些出去!」城中無人敢應。妘斑彎弓搭箭,方欲射之。叔梁紇把雙手一掀,就勢撒開,那懸門便落了閘口。紇回至本營,謂堇父虒彌曰:「二位將軍之命,懸於我之兩腕也。」堇父曰:「若非鳴金,吾等已殺入偪陽城,成其大功矣。」虒彌曰:「只看明日,我要獨攻偪陽,顯得魯人本事。」 至次日,孟孫蔑整隊向城上搦戰,每百人為一隊。狄虒彌曰:「我不要人幫助,只單身自當一隊足矣。」乃取大車輪一個,以堅甲蒙之,緊緊束縛,左手執以為櫓﹔右握大戟,跳躍如飛。偪陽城上,望見魯將施逞勇力,乃懸布於城下,叫曰:「我引汝登城,誰人敢登,方見真勇。」言猶未已,魯軍隊中一將出應曰:「有何不敢!」此將乃秦堇父也。即以手牽布,左右更換,須臾盤至城堞。偪陽人以刀割斷其布,堇父從半空中蹋將下來。偪陽城高數仞,若是別人,這一跌,蹤然不死,也是重傷。堇父全然不覺。城上布又垂下,問道:「再敢登麼?」堇父又應曰:「有何不敢!」手借布力,騰身復上。又被偪陽人斷布撲地,又一大跌。纔爬起來,城上布又垂下,問道:「還敢不敢?」堇父聲愈厲,答曰:「不敢不算好漢!」挽布如前。偪陽人看見堇父再墜再登,全無畏懼,倒著了忙。急割布時,已被堇父撈著一人,望城下一摔,跌個半熟。堇父亦隨布墜下,反向城上叫道:「你還敢懸布否?」城上應曰:「已知將軍神勇,不敢復懸矣。」堇父遂取斷布三截,遍示諸隊,眾人無不吐舌。孟孫蔑嘆曰:「詩云:『有力如虎。』此三將足當之矣!」妘斑見魯將兇猛,一個賽一個,遂不敢出戰,吩咐軍民竭力固守。各軍自夏四月丙寅日圍起,至五月庚寅,凡二十四日,攻者已倦,應者有餘。忽然天降大雨,平地水深三尺,軍中驚恐不安。荀偃士匄慮水患生變,同至中軍來稟智罃,欲求班師。不知智罃肯聽從否,再看下回分解。
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