東周列國志第六十二回 諸侯、心を同じくして斉国を囲む/晋の臣、計を合わせて欒盈を逐う (諸侯同心圍齊國 晉臣合計逐欒盈)

尹公佗の戦死と獻公の齊亡命

  • さて尹公佗は庚公(前回の庾公差。原文はこの回から「庚公」と記す)の言葉を信じず、身を返して獻公を追い、二十余里馳せて、ようやく追いついた。
  • 公孫丁がその来意を問うと、尹公佗は言った。「わが師庚公とお前には師弟の恩がある。だが私は庚公の弟子であって、お前から直に業を受けたことはない。お前とは路傍の人と変わらぬ間柄だ。どうして路傍の人への私情のために君父への公義を廃してよかろうか。」
  • 公孫丁は言った。「お前は庚公に技を学んだろう。庚公の技がどこから来たか考えてみよ。人たる者、恩を忘れてよいものか。早く引き返せ、和を損ねぬように。」
  • 尹公佗は聞き入れず、弓を満月に引き絞り、公孫丁を目がけて射た。
  • 公孫丁は慌てず騒がず、手綱を獻公に渡すと、矢が届く時を待って手で軽く受け止めた。そしてその矢を弓につがえ、返して尹公佗を射た。
  • 尹公佗は急いで避けようとしたが、ぱしっと音がして、矢はその左腕を貫いた。尹公佗は痛みに耐えかね、弓を捨てて逃げた。公孫丁はさらに一矢を放ち、尹公佗の命を絶った。
  • 随行の兵士は驚き恐れ、車を捨てて逃げ散った。
  • 獻公は言った。「もしそなたの神業の弓がなければ、寡人の命はもう終わっていたであろう。」
  • 公孫丁はなお手綱を執って車を走らせた。また十余里行くと、後方で車の音が震動し、飛ぶように追ってくる者があった。
  • 獻公は言った。「また追手か、どうやって逃れよう。」
  • まさに慌てふためいているとき、後ろの車が次第に近づいてきた。見れば、同母の弟の公子鱄が命をかけて追いつき従ってきたのであった。
  • 獻公はようやく安心し、そのまま一路齊国へ逃れた。齊靈公は萊城に館を用意して迎えた。
  • 宋の儒者は獻公が大臣を敬わず、自ら逃亡を招いたことを詩に詠んでいる。
  • (詩:君主が天地のように尊く神のように威あるはずなのに、なぜ臣下に逐われたのか、それは君の綱紀がまず欠けていたからだ、上が正しくなければ下も乱れると詠う)

殤公の擁立と晉の不介入

  • 孫林父は獻公を逐うと、寧殖と共謀して公子剽を君に迎え立てた。これが殤公である。人を遣わして晉にこの事変を告げた。
  • 晉悼公は中行偃に問うた。「衛人は一人の君を追い出し別の君を立てた、これは正しいやり方ではない。どう対処すべきか。」
  • 偃は答えた。「衛の衎(獻公)の無道は、諸侯の誰もが知るところです。今、臣民が自ら望んで剽を立てたのです、我らは関わらぬのがよろしいでしょう。」
  • 悼公はこれに従った。
  • 齊靈公は晉侯が孫・寧の逐君の罪を討たないと聞き、嘆いて言った。「晉侯の志は緩んだものだ。この機に乗じて覇を図らねば、いつを待とうか。」
  • そこで軍を率いて魯の北の辺境を伐ち、郕を包囲し、大いに略奪して帰った。時に周霊王の十四年であった。

齊靈公の太子廃立

  • もともと齊靈公は最初、魯の女、顏姬を夫人に娶ったが子がなく、その媵(夫人に付き添って嫁いだ側室)の鬷姬が子を産み、名を光といい、靈公は先にこれを太子に立てていた。
  • また寵妾の戎子がいたが、これも子がなく、その妹の仲子が子を産み、名を牙といった。戎子は牙を抱いて自分の子とした。
  • 他の姫妾が公子杵臼を産んだが寵愛はなかった。戎子は愛を頼んで牙を太子に立てようとし、靈公はこれを許した。
  • 仲子は諫めて言った。「光が立ってからすでに久しく、また幾度も諸侯の会に出ています。今、理由もなく廃せば、国人は服さず、後に必ず後悔しましょう。」
  • 靈公は言った。「廃立は我にある、誰があえて服さぬというのか。」
  • そして太子光に兵を率いて即墨を守らせた。光が去った後、すぐに命を伝えてこれを廃した。
  • 改めて牙を太子とし、上卿高厚を太傅に、宦官の夙沙衛は強く知略があるので少傅とした。
  • 魯襄公は齊の太子光が廃されたと聞き、使者を遣わしてその罪を問わせた。靈公はこれに答えられなかった。
  • かえって魯国が将来光の国争いを助けるのではと恐れ、そのため魯と仇となり、まず先に兵を加え、兵威で魯を脅し、その後に光を殺そうとした。これは靈公の無道の極みである。
  • 魯は晉に急を告げたが、悼公は病に伏せっていたため、魯を救うことができなかった。

晉悼公薨去と平公即位

  • その冬、晉悼公が薨じ、群臣は世子彪を奉じて即位させた。これが平公である。
  • 魯はまた叔孫豹を遣わして弔い祝賀し、あわせて齊の患いを告げた。
  • 荀偃は言った。「来春を待って諸侯を会し、もし齊が会に赴かねば、討伐しても遅くはない。」
  • 周霊王十五年、晉平公元年、諸侯を溴梁に大いに合わせた。齊靈公は行かず、大夫高厚を代わりに遣わした。
  • 荀偃は大いに怒り、高厚を捕らえようとしたが、高厚は逃げ帰った。
  • 齊はまた兵を興して魯の北の辺境を伐ち、魯の邑である防を包囲し、守備の臣、臧堅を殺した。
  • 叔孫豹は再び晉に至り救援を求めた。平公は大将中行偃に諸侯の兵を合わせ、大いに齊を伐たせることを命じた。

中行偃の夢と梗陽の巫者の予言

  • 中行偃は軍点呼を終えて戻った夜、一つの夢を見た。夢に黄衣の使者が一巻の文書を持って現れ、偃を拘引して対証させようとした。
  • 偃はこれに従って行くと、ある大きな宮殿に至った。上には冠冕を垂らした王者が端座していた。使者は偃に朱塗りの階の下で跪くよう命じた。
  • ともに跪いている者を見ると、それは晉厲公・欒書・程滑・胥童・長魚矯、そして三郤の一群であった。偃は心の中でひそかに驚き怪しんだ。
  • 胥童らと三郤が長らく言い争っていたが、あまり明らかには分からなかった。
  • しばらくすると獄卒が引き立てて去り、厲公・欒書・中行偃・程滑の四人だけが残った。
  • 厲公は弑逆に遭った顛末を訴えた。欒書は弁明して言った。「手を下したのは程滑である。」
  • 程滑は言った。「主謀はみな書と偃から出た。滑はただ命を奉じたに過ぎない、どうして独り私だけに罪を帰せられようか。」
  • 殿上の王者が命を下した。「この時、政を執っていたのは欒書である。首謀者として罪を負うのが当然だ。五年のうちにその子孫を絶滅させよ。」
  • 厲公は憤然として言った。「この事はまた逆賊の偃の助力によるものだ、どうして罪がないと言えようか。」
  • そのまま立ち上がり戈を抜いて偃の首を撃った。夢の中で首が前に落ちるのを覚え、偃は手でその首を捧げ、跪いてこれを頭に戴き、殿門から走り出た。梗陽の巫者靈皋に出会い、皋は言った。「そなたの首はなぜ歪んでいるのか。」代わりにこれを正してくれた。
  • 覚めると痛みが激しく、深く異様に感じた。
  • 翌日入朝すると、果たして途中で靈皋に出会い、車に乗せて、昨夜見た夢を細かく述べた。
  • 靈皋は言った。「怨みを晴らしに来た相手がすでに至っております、死なずにいられましょうか。」
  • 偃は問うた。「今、東方で事を起こそうとしているが、なお間に合うだろうか。」
  • 皋は答えた。「東方の悪気は甚だ重い、これを伐てば必ず勝てましょう。あなたは死んでも、なお功は及びましょう。」
  • 偃は言った。「齊に勝てるなら、死んでも本望だ。」
  • そこで軍を率いて河を渡り、諸侯を魯の済水のほとりに会した。晉・宋・魯・衛・鄭・曹・莒・邾・滕・薛・杞・小邾、あわせて十二路の車馬が、一同に齊国へ進発した。

平陰の攻防

  • 齊靈公は上卿高厚に太子牙を輔けて国を守らせ、自らは崔杼・慶封・析歸父・殖綽・郭最・宦官夙沙衛らを率いて大軍を引き連れ、平陰の城に屯した。
  • 城の南には堤防(防塁)があり、その堤防には門があった。析歸父に防門の外に深い壕を掘らせ、その広さは一里に及び、精兵を選んで守らせ、敵軍を防ごうとした。
  • 宦官夙沙衛は進言した。「十二国は人心が一つでありません。彼らが到着したばかりの時に乗じて、奇襲をかけるべきです。一軍を敗れば、残りの軍もみな気を落とすでしょう。もし戦いたくないなら、険要の地を選んで守るのがよろしく、この防門のちっぽけな壕塹など頼りになりません。」
  • 齊靈公は言った。「これほど深い壕がある、彼らの軍はどうして飛んで渡れようか。」
  • さて中行偃は齊の軍が壕を掘って守っていると聞き、笑って言った。「齊は我らを恐れている。必ず戦えまい、計をもってこれを破ろう。」
  • そこで令を伝え、魯・衛の兵は須句から道を取り、邾・莒の兵は城陽から道を取り、いずれも瑯琊を経て入らせ、我らの大軍は平陰から攻め進み、臨淄の城下で落ち合う約束をした。四国は計を承けて去った。
  • 司馬張君臣に、山沢の険要な場所すべてに旗幟を虚しく張らせ山谷いっぱいに満たし、また藁を束ねて人形を作り、それに甲冑を着せて空の車の上に立たせ、断ち切った木を車の轅に縛りつけ、車が動くと木も動いて土煙が空を覆うようにし、力士に大旗を引かせて車を山谷の間を往来させ、疑兵とした。
  • 荀偃と士匄(范匄)は宋・鄭の兵を率いて中軍とし、趙武と韓起は上軍を率い滕・薛の兵とともに右翼、魏絳と欒盈は下軍を率い曹・杞・小邾の兵とともに左翼となり、三手に分かれ、車の中にはそれぞれ木と石を積み、歩卒は各自土嚢一つを携えさせた。
  • 防門に至ると、三手の軍の砲声が呼応し、それぞれ車中の木石を壕の中に投げ込み、さらに土嚢を数万積み重ねて、たちまち壕を埋め尽くし、大刀を振るって攻め込んだ。
  • 齊兵は防ぎきれず、その過半が殺傷された。析歸父はあやうく晉兵に捕らえられそうになったが、辛うじて逃れた。平陰城に入って靈公に報告し、「晉兵は三方から壕を埋めて進んでおります、勢いが大きく敵しがたいです」と言った。
  • 靈公は初めて恐れの色を見せ、巫山に登って敵軍を望んだ。到るところの山沢の険要な地に旗幟が翻り、車馬が駆けているのを見て、大いに驚いて言った。「諸侯の軍はなんと多いことか。しばらく避けよう。」
  • 諸将に問うた。「誰が殿を務めてくれるか。」
  • 夙沙衛は言った。「小臣が一軍を率いて殿を務め、力を尽くして主公を無事にお守り致します。」靈公は大いに喜んだ。
  • 突然二人の将が進み出て言った。「堂々たる齊国に、勇力の士が一人もいないなどということがありましょうか。宦官に軍の殿をさせては、諸侯に笑われましょう。夙沙衛には先に行ってもらい、殿は臣ら二人が務めたく存じます。」
  • この二将は殖綽・郭最であり、ともに万夫不当の勇があった。
  • 靈公は言った。「将軍らが殿を務めてくれるなら、寡人は後顧の憂いがない。」
  • 夙沙衛は齊侯に用いられなかったことを見て、恥じ入って退き、やむなく齊侯に随って先に走った。

石門山の妨害と殖綽・郭最の捕縛

  • 約二十余里行くと石門山に至った。険しい隘路で、両側は大石であり、真ん中に一本の道があるのみであった。
  • 夙沙衛は綽・最の二人を恨んでおり、その功を挫こうとして、齊軍が通り過ぎるのを待ってから、随行の馬三十余匹を殺してその道を塞ぎ、また大きな車数台を城のように連ねて山口を横に遮った。
  • さて殖綽・郭最の二将は兵を率いて殿を務め、緩やかに退いていた。石門の隘口近くに来ると、死んだ馬が縦横に転がり、また大きな車が遮っているのを見て、進退が容易でなく、互いに顧みて言った。「これはきっと夙沙衛が恨みを含み、わざとこうしたのだ。」
  • 急いで兵士に死んだ馬を運び去らせ、道を通そうとした。前方には車が塞がっているため、一匹ずつ後ろへ退けて空いた場所に運び出さねばならず、どれほど手間がかかったか分からなかった。
  • 兵士は多くいても、道が狭いため力を有効に使えなかった。
  • 背後で土煙が立ち上り、晉の驍将州綽の一軍が早くも到着した。殖綽はまさに車を回して迎え撃とうとした。
  • 州綽の一矢が飛んで来て、殖綽の左肩にちょうど命中した。郭最は弓を引いて助けようとしたが、殖綽は手を振ってこれを止めた。
  • 州綽は殖綽がこのような様子を見せたのを見て、やはり手を出さなかった。
  • 殖綽は慌てず騒がず、矢を抜いて問うた。「来られた方はどなたか。殖綽の肩を射当てるとは、なかなかの好漢だ。姓名を伺いたい。」
  • 答えて言った。「私は晉国の名将、州綽である。」
  • 殖綽は言った。「小将は他でもない、齊国の名将、殖綽とはこの私のことだ。将軍は『からかうな、二人の綽が怖い』という言葉を聞いたことがないか。私とあなたは勇力で名を等しくする、好漢は好漢を惜しむもの、どうして互いに傷つけ合うことができようか。」
  • 州綽は言った。「そなたの言葉はもっともだが、それぞれその主のためにやむを得ぬのだ。将軍がもし自ら降伏する気があれば、小将は将軍の命を必ずお守りしよう。」
  • 殖綽は言った。「欺くことはあるまいな。」
  • 州綽は言った。「将軍がもし信じられぬなら、誓いを立てよう。もし将軍の命を全うできなければ、共に死ぬことを願う。」
  • 殖綽は言った。「郭最の命も、今、将軍に託そう。」
  • 言い終えると、二人はそろって自ら進んで縄目についた。随行の士卒もみな投降した。
  • 史臣はこの事を詩に詠んでいる。
  • (詩:殖綽・郭最という二人の猛虎のごとき臣が、狭い道で行き場を失い、私怨によって軍を覆され将を捕らえられた。国を辱めたのは結局のところあの宦官(夙沙衛)だったのだと詠う)

臨淄包囲と高厚の諫言

  • 州綽は綽・最の二将を中軍まで護送して功を献じ、あわせて二人は勇猛であり登用するに値すると述べた。中行偃は暫くこれを中軍に留め置き、兵を引き上げる際に処分を定めることとした。
  • 大軍は平陰から進発し、通過する城郭はいずれも攻撃・略奪せず、まっすぐ臨淄の外郭の下に至った。魯・衛・邾・莒の兵もみな到着した。
  • 范鞅がまず雍門を攻めた。雍門には葦が多く、火をかけて焼いた。州綽は申池の竹木を焼いた。各軍は一斉に火攻めを行い、四方の外郭をことごとく焼き払った。
  • そのまま臨淄城下に迫り、四方から囲み、喊声が地を震わせ、矢が城楼にまで及んだ。城中の民は慌て乱れた。
  • 靈公は非常に恐れ、密かに左右に車を用意させ、東門を開いて出て逃げようとした。
  • 高厚がこれを知り、急いで進み出て佩剣を抜いてその手綱を断ち、涙を流して諫めて言った。「諸軍の勢いは鋭いとはいえ、深く入り込んで後の憂いがないはずがありません。まもなく引き上げましょう。主公がひとたび去られれば、都城は守れません。願わくばあと十日おとどまりください。もし力が尽き勢いが衰えれば、その時に逃げても遅くはございません。」
  • 靈公はこれをやめた。高厚は軍民を督励し、力を合わせて堅く守った。

鄭の急報による撤退

  • さて各軍が齊を囲んで六日目、突然鄭国から急報が飛来した。大夫の公孫舍之と公孫夏が連名で封じた文書で、中には非常に緊急な機密事項が記されていた。
  • 鄭簡公はこれを開いて見た。おおよそこう記されていた。「臣舍之、臣夏、命を奉じて子孔とともに国を守っておりますが、思いがけず子孔に謀反の心があり、私かに楚に款を通じ、楚兵を招いて鄭を伐たせ、自ら内応せんとしております。今、楚兵はすでに魚陵に陣を張っております、旦夕にも到るでしょう。事は危急に迫っております、どうか一刻も早く軍を返し、社稷をお救いください。」
  • 鄭簡公は大いに恐れ、すぐに文書を持って晉軍の中に至り、晉平公に見せた。平公は中行偃を召してこれを議した。
  • 偃は答えた。「我らの兵はろくに攻めず戦わず、ただ臨淄まで進んで来ました。この鋭気に乗じて一気に落とすことを期待していましたが、今、齊の守りはまだ欠けておらず、鄭国にはまた楚の危急がございます。もし鄭が失われれば、その咎は晉にございましょう。しばらく帰って、鄭を救う計とするのがよろしいでしょう。今回、齊を破れなかったとはいえ、齊侯はすでに肝を潰しておりましょう、二度と魯国を侵すことはありますまい。」
  • 平公はその言葉に従い、包囲を解いて去った。鄭簡公は晉に別れを告げ先に帰った。

師曠の占いと楚軍の撤退

  • 諸侯は祝阿まで来て、平公は楚軍のことを憂え、諸侯と酒を飲みながらも楽しめなかった。
  • 師曠は言った。「臣に音律をもって占わせてください。」そこで律を吹いて『南風』を歌い、また『北風』を歌った。
  • 『北風』は和やかでよく響いたが、『南風』は声が揚がらず、しかも肅殺の気が多かった。
  • 曠は奏上して言った。「『南風』は勢いが振るわず、その声は死に近いものでございます。ただ功がないだけでなく、まさに自ら禍を招くでしょう。三日を出でずして、必ず吉報が届きましょう。」
  • 師曠、字は子野は、晉国第一の聡明な士であった。幼い頃から音楽を好み、その専一でないことを苦にし、嘆いて言った。「技が精しくないのは心が多いためだ、心が一つでないのは見るものが多いためだ。」そこで艾の葉で自らの目を薫じて盲目にし、専ら音楽に意を注いだ。
  • こうして気候の盈虚を察し、陰陽の消長を明らかにし、天時人事を審らかに検証して誤りなく、風の動きや鳥の鳴き声から吉凶を見て取ることができた。晉の太師として楽の官を掌り、平時から晉侯に深く信頼されていたため、行軍には必ず随行させた。
  • ここに至ってその言を聞き、軍を留めて待ち、人を遣わして先の道を遠く探らせた。
  • 三日を経ずして、探り手が鄭の大夫公孫蠆とともに戻って報告し、「楚の軍はすでに去りました」と言った。
  • 晉平公は驚いてその詳細を尋ねると、公孫蠆は答えた。「楚では子庚が子囊に代わって令尹となり、先代の仇に報いようと鄭国を伐つことを謀っておりました。公子嘉は密かに楚と通じ、楚兵が到着したら敵を迎えると偽って兵を城外に出し、これに呼応する約束をしておりました。幸い公孫舍之・公孫夏の二人が予め子嘉の謀を知り、武装兵を手もとに掌握して城を固め、出入りを厳しく取り締まりましたため、子嘉はあえて城を出て会うことができませんでした。子庚は潁水を渡っても内応の消息が見えず、やむなく魚齒山の麓に軍を屯しました。折から大雪に見舞われて数日止まず、営中の水は深さ一尺余りとなり、軍人はみな高い場所を選んで雨を避けましたが、寒さが甚だしく死者が半数を超え、士卒は怨み罵り、子庚はやむなく兵を引き上げざるを得ませんでした。わが君は子嘉の罪を討ち、すでに誅戮を行いました。(鄭を救うために)諸侯の軍勢をお煩わせしてはならぬと存じ、特に下臣蠆を遣わして夜を徹してお知らせ申し上げる次第でございます。」
  • 平公は大いに喜んで言った。「子野はまことに音に聖なる者だ。」
  • そして楚が鄭を伐って功なかったことを諸侯にあまねく告げ、それぞれ本国へ帰った。
  • 史臣は師曠を讃える詩を詠んでいる。
  • (詩:『南風』の後『北風』を歌い分けて両国の吉凶を言い当て、その音は極まって天地に通じる。師曠こそ昔から盲目の楽師たちの宗匠であると讃える)
  • 時に周霊王十七年冬十二月の事であった。晉の軍が河を渡り終えたのは、すでに十八年の春であった。

中行偃の死

  • 中行偃は帰る途中、頭にできものが生じ、痛みに耐えられず、著雍の地に逗留した。
  • 二月まで長引き、そのできものはただれ崩れ、目玉までもが脱け出して死んだ。
  • 首が落ちる夢と梗陽の巫者の言葉は、ここに至ってすべて的中したのであった。
  • 殖綽・郭最は偃の急変に乗じて枷を破って脱出し、齊国へ逃げ帰った。
  • 范匄は偃の子の吳とともに喪を迎えて帰った。晉侯は吳を大夫として跡を継がせ、范匄を中軍元帥、吳を副将とし、なお荀を氏として荀吳と称させた。

齊莊公の即位と夙沙衛の反乱

  • その年の夏五月、齊靈公は病になり、大夫崔杼と慶封が謀り、人を遣わして温車(幌で覆って中が見えぬようにした車)で即墨から旧太子光を迎え入れた。
  • 慶封は家兵を率い、夜、太傅高厚の門を叩き、高厚が出迎えると捕らえて殺した。
  • 太子光は崔杼とともに宮中に入り、光は戎子を殺し、また公子牙を殺した。
  • 靈公は変事を聞いて大いに驚き、数升の血を吐き、その場で息絶えた。
  • 光が即位した。これが莊公である。
  • 宦官夙沙衛はその家族を率いて高唐へ逃げ、齊莊公は慶封に軍を率いて追わせ、夙沙衛は高唐に拠って反乱を起こした。
  • 齊莊公は自ら大軍を率いて包囲攻撃したが、一か月余り落ちなかった。
  • 高唐の人、工僂は勇力があり、夙沙衛はこれを用いて東門を守らせた。工僂は夙沙衛が事を成し得ないと知り、城上から矢文を放って、夜半に東北の角で大軍が城に登るのを待つ約束を伝えた。
  • 莊公はまだ十分に信じられなかった。殖綽・郭最が請うて言った。「彼がすでに約束したなら、必ず内応がございます。小将二人が参ります、必ずあの宦官の畜生め(夙沙衛)を生け捕りにし、石門山で阻まれた恨みを晴らして御目にかけましょう。」
  • 莊公は言った。「そなたら気をつけて行け、寡人自ら来て応援する。」
  • 綽・最は軍を率いて東北の角に至り、夜半を待つと、城上から突然長い縄が数か所下ろされた。綽・最はそれぞれ縄をつたって登り、兵士も続々と城に上った。
  • 工僂は殖綽を引き連れて、真っすぐ夙沙衛を捕らえに向かった。郭最は城門を打ち破りに行き、齊兵を城内に入れた。
  • 城中は大いに乱れ、互いに殺し合い、およそ一更(二時間ほど)かかってようやく治まった。
  • 齊莊公が城に入ると、工僂は殖綽とともに夙沙衛を縛って引き立てて来た。
  • 莊公は大いに罵った。「宦官の畜生め、寡人がお前に何を負ったというのか、それなのにお前は少を輔けて長を奪った。今、公子牙はどこにいる。お前はすでに少傅であったのに、なぜあの世でこれを輔けぬのか。」
  • 夙沙衛はうなだれて言葉がなかった。
  • 莊公は引き出して斬らせ、その肉を塩漬けにして、随行の諸臣にあまねく分け与えた。
  • そのまま工僂を高唐の守将とし、兵を引き上げた。

澶淵の盟

  • 時に晉の上卿范匄は、前回の齊包囲では講和を取り付けられなかったとして、平公に請い、再び大軍を率いて齊を侵した。
  • 黄河を渡ったばかりの時、齊靈公の訃報を聞き、言った。「齊は新たに喪に服している、これを伐つのは仁ではない。」ただちに兵を引き上げた。
  • 早くも人がこれを齊国に知らせた。大夫晏嬰が進み出て言った。「晉が我らの喪を伐たなかったのは、我らに仁を施したのです。我らがこれに背くのは義に反します、和を請い、両国が干戈の苦しみを免れるに越したことはございません。」
  • あの晏嬰、字は平仲は、身の丈五尺に満たなかったが、齊国第一の賢智の士であった。
  • 莊公もまた国家がようやく粗方定まったばかりで、晉軍が再び来ることを恐れ、晏嬰の言に従い、人を晉に遣わして謝罪させ、盟を請わせた。
  • 晉平公は諸侯を澶淵に大いに合わせ、范匄を相礼(君に代わって式を執り行う介添え役)として齊莊公と血をすすって盟わせ、和を結んで散会した。
  • これより一年余り事なきを得た。

欒盈の紹介と欒氏の勢力

  • さて下軍副将の欒盈は、欒黶の子である。黶は范匄の婿であり、匄の娘が黶に嫁ぎ、欒祁と呼ばれた。
  • 欒氏は欒賓・欒成・欒枝・欒盾・欒書・欒黶を経て欒盈に至るまで、続けて七代の卿相を務め、貴盛比べるものがなかった。
  • 晉の朝廷の文武は半分がその門から出て、半分がその姻戚であった。魏氏には魏舒、智氏には智起、中行氏には中行喜、羊舌氏には叔虎、籍氏には籍偃、箕氏には箕遺がおり、みな欒盈と声勢を頼み合い、死をも辞さぬ党を結んでいた。
  • さらに盈は幼い頃から謙虚に人を厚遇し、財を散じて客を厚くもてなしたため、死を覚悟した士が多く帰服していた。州綽・邢蒯・黄淵・箕遺らはみなその配下の驍将であった。
  • また力士督戎がいて、千鈞の力を持ち、両手に二本の戟を握り、突けば当たらぬことなく、これは盈の身辺で寸時も離れぬ腹心の者であった。
  • また家臣の辛俞・州賓らも、走り回って労を尽くす者数え切れなかった。

欒祁の不倫と讒言

  • 欒黶が死んだ時、その夫人欒祁はまだ四十歳ほどで、寡婦のまま節を通すことができなかった。
  • 州賓がしばしば府に入って用事を報告するうち、欒祁は屏の後ろからこれを窺い見て、その若く美しい姿に心を動かし、密かに侍女を遣わして意を伝えさせ、私通するに至った。
  • 欒祁は室中の器物や財貨をことごとく州賓に贈った。
  • 盈が晉侯に従って齊を伐っている間、州賓は公然と邸の中に泊まり、二度と憚らなくなった。
  • 盈は帰って事を知ったが、なお母の面目を考え、他の事に事寄せて内外の門番の吏を鞭打ち、家臣の出入りを厳しく取り締まった。
  • 欒祁は一つには恥じ入るあまり怒りに転じ、二つには淫らな心を絶ちがたく、三つにはその子が州賓の命を害するのを恐れた。
  • 父の范匄の誕生日に、拝寿を名目として范府に赴き、機に乗じてその父に訴えた。「盈は乱を起こそうとしております、どうしたらよいでしょう。」
  • 范匄がその詳細を尋ねると、欒祁は言った。「盈はかつてこう申しました、『鞅がわが兄を殺し、わが父がこれを追放し、また放って国に帰し、誅されなかっただけでも幸いなのに、かえって寵位を加えられている。今、父子で国を専らにし、范氏は日々盛んになり、欒氏は衰えようとしている。吾は死んでも、范氏とは両立しない』と。日夜、智起・羊舌虎らと密室で謀を巡らせ、諸大夫をことごとく除いてその私党を立てようとしております。私がその消息を漏らすことを恐れ、門番の吏に厳しく命じて、私の実家である范氏との連絡を許しません。今日、無理して参りましたが、この先はもうお目にかかれないかもしれません。私は父子の恩が深いため、言わずにはいられませんでした。」
  • 時に范鞅も傍らにいて、これに力を添えて言った。「兒(私)も聞いております、今果たしてその通りになりました。あの一党は非常に盛んです、防がねばなりません。」
  • 一人の子と一人の娘の言うことが同じであったので、范匄は信じないわけにいかなかった。
  • 密かに平公に奏上し、欒氏を追放するよう請うた。

平公と范匄の欒氏排除策

  • 平公は密かに大夫陽畢に問うた。陽畢は元来欒黶を憎み范氏と親しかったので、答えて言った。「欒書は実に厲公を弑した者です。黶はその凶悪な徳を世々受け継ぎ、盈にまで及んでいます。民が欒氏に親しんでから久しくなりました。もし欒氏を除いて弑逆の罪を明らかにし、君の威を立てられれば、これは国家数世の福でございます。」
  • 平公は言った。「欒書は先君を擁立した功がある。盈の罪はまだ明らかではない、これを除く名分がない、どうしたものか。」
  • 陽畢は答えた。「欒書が先君を擁立したのは、その罪を覆い隠すためでした。先君が国家の仇を忘れて私的な恩義に従い、君もまたこれを放任すれば、害はさらに大きくなりましょう。もし盈の悪がまだ明らかでないなら、まずその党を除くべきです、盈は赦してこれを遣わすのがよろしいでしょう。もし彼が(反乱を)企てれば、誅する名分ができます。もし他国へ逃れて死を免れるなら、それもまた君の恵みというものです。」
  • 平公はもっともと考え、范匄を宮中に召してこの事を共に議した。
  • 范匄は言った。「盈がまだ去らぬうちにその党を除けば、これは乱を速めることになります。君は盈に著邑の城を築かせるのがよろしいでしょう。盈が去れば、その党には主がいなくなり、それから図ることができましょう。」
  • 平公は言った。「よかろう。」そこで欒盈を遣わして著邑の城を築かせた。
  • 盈が旅立つ際、その党の箕遺が諫めて言った。「欒氏には怨みを持つ者が多いことは、主のご存じの通り。趙氏は下宮の難で欒氏を怨み、中行氏は秦討伐の役で欒氏を怨み、范氏は范鞅の追放で欒氏を怨んでおります。智朔は夭折し、智盈はまだ幼く、中行氏の言うことを聞いております。程鄭は主君(平公)に寵愛されております。欒氏の勢いは孤立しております。著邑の築城は国の急務ではありません、なぜあなたを遣わすのでしょうか。あなたはこれを辞退し、君の意向がどうなるかを見て、備えを固めるべきです。」
  • 欒盈は言った。「君命は辞退できぬ。盈にもし罪があれば、どうして死を逃れられよう。もし罪がなければ、国人は私を憐れむだろう、誰が害することができようか。」
  • そこで督戎を御者として、絳州を出て著邑へ向かった。

欒盈の追放と叔虎の乱

  • 盈が去って三日後、平公は朝廷に出て、諸大夫に言った。「欒書は昔、弑逆の罪があったのに、まだ正式に刑罰を科していない。今その子孫が朝廷にいる、寡人はこれを恥じる。どうしたものか。」
  • 諸大夫はみな声を合わせて答えた。「追放すべきです。」
  • そこで欒書の罪状を布告し、都の城門に懸け、大夫陽畢を遣わして兵をもって欒盈を追放させた。国中にいるその宗族はことごとく追い出し、欒邑を没収した。
  • 欒樂・欒魴はその一族の者を率い、州綽・邢蒯とともに絳城を出て、そのまま欒盈のもとへ奔った。
  • 叔虎は箕遺・黄淵を伴って城を出ようとしたが、城門はすでに閉ざされていた。欒氏の党を捜索・処罰するとの噂を聞き、それぞれ家の手勢を集め、夜に乗じて乱を起こし、東門を斬り開いて出ようと相談した。
  • 趙氏の食客に章鏗という者がおり、叔虎の家と隣り合って住んでいたため、その謀を聞き、趙武に報告した。趙武は范匄に転じて伝えた。
  • 匄は子の范鞅に甲冑をつけた武装兵三百人を率いさせ、叔虎の邸を包囲した。

(後事の次第は次回に続く)

原文(底本)
話說尹公佗不信庚公之言,復身來追衛侯,馳二十餘里,方纔趕著。公孫丁問其來意,尹公佗曰:「吾師庚公,與汝有師弟之恩。我乃庚公弟子,未嘗受業,於子如路人耳。豈可狥私情於路人,而廢公義於君父乎?」公孫丁曰:「汝曾學藝於庚公,可想庚公之藝從何而來?為人豈可忘本!快快回轉,免傷和氣。」尹公佗不聽,將弓拽滿,望公孫丁便射。公孫丁不慌不忙,將轡授與獻公,候箭到時,用手一綽,輕輕接住。就將來箭搭上弓弦,回射尹公佗。尹公佗急躲避時,撲的一聲,箭已貫其左臂。尹公佗負痛,棄弓而走。公孫丁再復一箭,結果了尹公性命。嚇得隨行軍士,棄車逃竄。獻公曰:「若非吾子神箭,寡人一命休矣。」公孫丁仍復執轡奔馳。又十餘里,只見後面車聲震動,飛也似趕來。獻公曰:「再有追兵,何以自脫?」正在慌急之際,後車看看相近,視之,乃同母之弟公子鱄冒死趕來從駕。獻公方纔放心,遂做一路奔至齊國。齊靈公館之於萊城。宋儒有詩謂獻公不敬大臣,自取奔亡。詩曰:

    尊如天地赫如神,何事人臣敢逐君?自是君綱先缺陷,上梁不正下梁蹲。

  孫林父既逐獻公,遂與寧殖合謀迎公子剽為君,是為殤公。使人告難於晉。晉悼公問於中行偃曰:「衛人出一君復立一君,非正也。當何以處之?」偃對曰:「衛衎無道,諸侯莫不聞,今臣民自願立剽,我勿與知可也。」悼公從之。齊靈公聞晉侯不討孫寧逐君之罪,乃嘆曰:「晉侯之志惰矣!我不乘此時圖伯,更待何時?」乃帥師伐魯北鄙,圍郕,大掠而還。時周靈王之十四年也。

  原來齊靈公初娶魯女顏姬為夫人,無子,其騰鬷姬,生子曰光,靈公先立為太子。又有嬖妾戎子,亦無子,其娣仲子生子曰牙,戎子抱牙以為己子,他姬生公子杵臼,無寵,戎子恃愛,要得立牙為太子,靈公許之。仲子諫曰:「光之立也久矣,又數會諸侯,今無故而廢之,國人不服,後必有悔!」靈公曰:「廢立在我,誰敢不服?」遂使太子光率兵守即墨。光去後,即傳旨廢之。更立牙為太子,使上卿高厚為太傅,寺人夙沙衛強而有智,以為少傅。魯襄公聞齊太子光之廢,遣使來請其罪。靈公不能答。反慮魯國將來助光爭國,所以與魯為仇,首先加兵,欲以兵威脅魯,然後殺光。此乃靈公無道之極也!魯使人告急於晉,因悼公抱病,不能救魯。

  是冬,晉悼公薨,群臣奉世子彪即位,是為平公。魯又使叔孫豹弔賀,且告齊患。荀偃曰:「俟來春當會諸侯,若齊不赴會,討之未晚。」周靈王十五年,晉平公元年,大合諸侯於溴梁。齊靈公不至,使大夫高厚代。荀偃大怒,欲執高厚,高厚逃歸。復興師伐魯北鄙,圍防,殺守臣臧堅。叔孫豹再至晉國求救。平公乃命大將中行偃合諸侯之兵,大舉伐齊。中行偃點軍方回,是夜得一夢,夢見黃衣使者,執一卷文書,來拘偃對證。偃隨之行,至一大殿宇,上有王者冕旒端坐。使者命偃跪於丹墀之下。覷同跪者,乃是晉厲公、欒書、程滑、胥童、長魚矯、三郤一班人眾。偃心下暗暗驚異。聞胥童等與三郤爭辯良久,不甚分明。須臾獄卒引去,止留厲公、欒書、中行偃、程滑四人。厲公訴被弒始末。欒書辯曰:「下手者,程滑也。」程滑曰:「主謀皆出書偃,滑不過奉命而已,安得獨歸罪於我?」殿上王者降旨曰:「此時欒書執政,宜坐首惡,五年之內,子孫絕滅。」厲公忿然曰:「此事亦由逆偃助力,安得無罪?」即起身抽戈擊偃之首。夢中覺首墜於前,偃以手捧其首,跪而戴之,走出殿門,遇梗陽巫者靈皋,皋謂曰:「子首何歪也?」代為正之。覺痛極而醒,深以為異。次日入朝,果遇見靈皋於途,乃命之登車,將夜來所夢,細述一遍。靈皋曰:「冤家已至,不死何為?」偃問曰:「今欲有事東方,猶可及乎?」皋對曰:「東方惡氣太重,伐之必克,主雖死,猶可及也。」偃曰:「能克齊,雖死可矣!」乃帥師濟河,會諸侯於魯濟之地。晉、宋、魯、衛、鄭、曹、莒、邾、滕、薛、杞、小邾共十二路車馬,一同往齊國進發。齊靈公使上卿高厚輔太子牙守國,自帥崔杼、慶封、析歸父、殖綽、郭最、寺人夙沙衛等,引著大軍,屯於平陰之城。城南有防,防有門,使析歸父於防門之外,深掘壕塹,橫廣一里,選精兵把守,以遏敵師。寺人夙沙衛進曰:「十二國人心不一,乘其初至,當出奇擊之。敗其一軍,則餘軍俱喪氣矣。如不欲戰,莫如擇險要而守之,區區防門之塹,未可恃也。」齊靈公曰:「有此深塹,彼軍安能飛渡耶?」

  卻說中行偃聞齊師掘塹而守,笑曰:「齊畏我矣!必不能戰,當以計破之。」乃傳令使魯衛之兵,自須句取路,使邾莒之兵,自城陽取路,俱由瑯琊而入。我等大兵,從平陰攻進,約定在臨淄城下相會。四國領計去了。使司馬張君臣,凡山澤險要之處,俱虛張旗幟,布滿山谷,又束草為人,蒙以衣甲,立於空車之上,將斷木縛於車轅,車行木動,揚塵蔽天,力士挽大旆引車,往來於山谷之間,以為疑兵。荀偃士匄率宋鄭之兵居中,趙武韓起率上軍,同滕薛之兵在右,魏絳欒盈率下軍,同曹、杞、小邾之兵在左,分作三路,命車中各載木石,步卒每人攜土一囊。行至防門,三路砲聲相應,各將車中木石,拋於塹中,加以土囊數萬,把壕塹頃刻填平,大刀闊斧,殺將進去。齊兵不能當抵,殺傷大半。析歸父幾為晉兵所獲,僅以身免。逃入平陰城中,告訴靈公,言:「晉兵三路填塹而進,勢大難敵。」靈公始有懼色,乃登巫山以望敵軍。見到處山澤險要之地,都有旗幟飄揚,車馬馳驟,大驚曰:「諸侯之師,何其眾也!且暫避之。」問諸將:「誰人敢為後殿?」夙沙衛曰:「小臣願引一軍斷後,力保主公無虞。」靈公大喜。忽有二將並出奏曰:「堂堂齊國,豈無一勇力之士?而使寺人殿其師,豈不為諸侯笑乎?臣二人情願讓夙沙衛先行。」二將者,乃殖綽郭最也,俱有萬夫不當之勇。靈公曰:「將軍為殿,寡人無後顧之憂矣。」夙沙衛見齊侯不用,羞慙滿面而退,只得隨齊侯先走。約行二十餘里,至石門山,乃是險隘去處,兩邊俱是大石,只中間一條路徑。夙沙衛懷恨綽最二人,欲敗其功,候齊軍過盡,將隨行馬三十餘匹,殺之以塞其路,又將大車數乘,聯絡如城,橫截山口。

  再說綽最二將,領兵斷後,緩緩而退。將及石門隘口,見死馬縱橫,又有大車攔截,不便馳驅,乃相顧曰:「此必夙沙衛銜恨於心,故意為此。」急教軍士搬運死馬,疏通路徑。因前有車阻,逐一匹要退後抬出,撇於空處,不知費了多少工夫。軍士雖多,其奈路隘,有力無用。背後塵頭起處,晉驍將州綽一軍早到。殖綽方欲迴車迎敵。州綽一箭飛來,恰射中殖綽的左肩。郭最彎弓來救,殖綽搖手止之。州綽見殖綽如此光景,亦不動手。殖綽不慌不忙,拔箭而問曰:「來將何人?能射殖綽之肩,也算好漢了!願通姓名。」對曰:「吾乃晉國名將州綽也。」殖綽曰:「小將非別,齊國名將殖綽的便是。將軍豈不聞人語云:『莫相謔,怕二綽?』我與將軍以勇力齊名,好漢惜好漢,何忍自相戕賊乎?」州綽曰:「汝言雖當,但各為其主,不得不然。將軍若肯束身歸順,小將力保將軍不死。」殖綽曰:「得無相欺否?」州綽曰:「將軍如不見信,請為立誓!若不能保全將軍之命,願與俱死。」殖綽曰:「郭最性命,今亦交付將軍。」言罷,二人雙雙就縛。隨行士卒,盡皆投降。史臣有詩云:

    綽最赳赳二虎臣,相逢狹路志難伸。覆軍擒將因私怨,辱國依然是寺人。

  州綽將綽最二將解至中軍獻功,且稱其驍勇可用。中行偃命暫因於中軍,候班師定奪。大軍從平陰進發,所過城郭,並不攻掠,逕抵臨淄外郭之下。魯、衛、邾、莒兵俱到。范鞅先攻雍門。雍門多蘆荻,以火焚之。州綽焚申池之竹木。各軍一齊俱火攻,將四郭盡行焚毀。直逼臨淄城下,四面圍住,喊聲震地,矢及城樓。城中百姓慌亂。靈公十分恐懼,暗令左右駕車,欲開東門出走。高厚知之,疾忙上前,抽佩劍斷其轡索,涕泣而諫曰:「諸軍雖銳,然深入豈無後虞?不久將歸矣。主公一去,都城不可守也。願更留十日,如力竭勢虧,走猶未晚。」靈公乃止。高厚督率軍民,協力固守。

  卻說各兵圍齊,至第六日,忽有鄭國飛報來到,乃是大夫公孫舍之與公孫夏連名緘封,內中有機密至緊之事。鄭簡公發而視之,略云:

    臣舍之,臣夏,奉命與子孔守國。不意子孔有謀叛之心,私自送款於楚,欲招引楚兵伐鄭,己為內應。今楚兵已次魚陵,旦夕將至。事在危急,幸星夜返旆,以救社稷!

鄭簡公大懼,即持書至晉軍中,送與晉平公看了。平公召中行偃議之。偃對曰:「我兵不攻不戰,竟走臨淄,指望乘此銳氣,一鼓而下。今齊守未虧,鄭國又有楚警,若鄭國有失,咎在於晉,不如且歸,為救鄭之計。此番雖不曾破齊,料齊侯已喪膽,不敢復侵犯魯國矣。」平公是其言,乃解圍而去。鄭簡公辭晉先歸。

  諸侯行至祝阿,平公以楚師為憂,與諸侯飲酒,不樂。師曠曰:「臣請以聲卜之。」乃吹律歌《南風》,又歌《北風》。《北風》和平可聽,《南風》聲不揚,且多肅殺之聲。曠奏曰:「《南風》不競,其聲近死,不惟無功,且將自禍。不出三日,當有好音至矣。」師曠字子野,乃晉國第一聰明之士。從幼好音樂,苦其不專,乃嘆曰:「技之不精,由於多心﹔心之不一,由於多視。」乃以艾葉薰瞎其目,專意音樂。遂能察氣候之盈虛,明陰陽之消長,天時人事,審驗無差,風角鳥鳴,吉凶如見。為晉太師掌樂之官,平時為晉侯所深信,故行軍必以相隨。至是聞其言,乃駐軍以待之,使人前途遠探。未三日,探者同鄭大夫公孫蠆來回報,言:「楚師已去。」晉平公訝問其詳,公孫蠆對曰:「楚自子庚代子囊為令尹,欲報先世之仇,謀伐鄭國。公子嘉陰與楚通,許楚兵到日,詐稱迎敵,以兵出城相會。賴公孫舍之公孫夏二人,預知子嘉之謀,斂甲守城,嚴譏出入。子嘉不敢出會楚師。子庚涉潁水,不見內應消息,乃屯兵於魚齒山下。值大雨雪,數日不止,營中水深尺餘,軍人皆擇高阜處躲雨,寒甚,死者過半,士卒怨詈,子庚只得班師而回矣。寡君討子嘉之罪,已行誅戮,恐煩軍師,特遣下臣蠆連夜奔告。」平公大喜曰:「子野真聖於音者矣!」乃將楚伐鄭無功,遍告諸侯,各回本國。史臣有詩讚師曠云:

    歌罷《南風》又《北風》,便知兩國吉和凶﹔音當精處通天地,師曠從來是瞽宗。

時周靈王十七年,冬十二月事也。比及晉師濟河,已在十八年之春矣。

  中行偃行至中途,忽然頭上生一瘍疽,痛不可忍,乃逗遛於著雍之地。延至二月,其瘍潰爛,目睛俱脫而死。墜首之夢,與梗陽巫者之言,至是俱驗矣。殖綽郭最乘偃之變,破械而出,逃回齊國去了。范匄同偃之子吳,迎喪以歸。晉侯使吳嗣為大夫,以范匄為中軍元帥,以吳為副將,仍以荀為氏,稱荀吳。

  是年夏五月,齊靈公有疾,大夫崔杼與慶封商議,使人用溫車,迎故太子光於即墨。慶封帥家甲,夜叩太傅高厚之門,高厚出迎,執而殺之。太子光同崔杼入宮,光殺戎子,又殺公子牙。靈公聞變大驚,嘔血數升,登時氣絕。光即位,是為莊公。寺人夙沙衛率其家屬奔高唐,齊莊公使慶封帥師追之,夙沙衛據高唐以叛。齊莊公親引大軍圍而攻之,月餘不下。高唐人工僂,有勇力,沙衛用之以守東門。工僂知沙衛不能成事,乃於城上射下羽書,書中約夜半於東北角伺候大軍登城。莊公猶未准信。殖綽郭最請曰:「彼既相約,必有內應。小將二人願往,當生擒奄狗,以雪石門山阻隘之恨!」莊公曰:「汝小心前往,寡人自來接應。」綽最引軍至東北角,候至夜半,城上忽放長繩下來,約有數處。綽最各附繩而上,軍士陸續登城。工僂引著殖綽,竟來拿夙沙衛。郭最便去砍開城門,放齊兵入城。城中大亂,互相殺傷,約有一個更次方定。齊莊公入城,工僂同殖綽綁縛夙沙衛解到。莊公大罵:「奄狗!寡人何負於汝,汝卻輔少奪長?今公子牙何在!汝既為少傅,何不相輔於地下?」夙沙衛垂首無言。莊公命牽出斬之,以其肉為醢,遍賜從行諸臣。即用工僂守高唐,班師而退。

  時晉上卿范匄,以前番圍齊,未獲取成,乃請於平公,復率大軍侵齊。纔濟黃河,聞齊靈公凶信,乃曰:「齊新有喪,伐之不仁!」即時班師。早有人報知齊國。大夫晏嬰進曰:「晉不伐我喪,施仁於我,我背之不義,不如請成,免兩國干戈之苦。」那晏嬰字平仲,身不滿五尺,乃是齊國第一賢智之士。莊公亦以國家粗定,恐晉師復至,乃從嬰之言,使人如晉謝罪,請盟。晉平公大合諸侯於澶淵,范匄為相,與齊莊公歃血為盟,結好而散。自此年餘無事。

  卻說下軍副將欒盈,乃欒黶之子。黶乃范匄之婿,匄女嫁黶,謂之欒祁。欒氏自欒賓、欒成、欒枝、欒盾、欒書、欒黶,至於欒盈,頂針七代卿相,貴盛無比。晉朝文武,半出其門,半屬姻黨。魏氏有魏舒,智氏有智起,中行氏有中行喜,羊舌氏有叔虎,籍氏有籍偃,箕氏有箕遺,皆與欒盈聲勢相倚,結為死黨。更兼盈自少謙恭下士,散財結客,故死士多歸之。如州綽、邢蒯、黃淵、箕遺,都是他部下驍將。更有力士督戎,力舉千鈞,手握二戟,刺無不中,是他隨身心腹,寸步不離的。又有家臣辛俞州賓等,奔走效勞者不計其數。

  欒黶死時,其夫人欒祁,纔及四旬,不能守寡。因州賓屢次入府稟事,欒祁在屏後窺之,見其少俊,遂密遣侍兒道意,因與私通。欒祁盡將室中器幣,贈與州賓。盈從晉侯伐齊,州賓公然宿於府中,不復避忌。盈歸,聞知其事,尚礙母親面皮,乃把他事,鞭治內外守門之吏,嚴稽家臣出入。欒祁一來老羞變怒,二則淫心難絕,三則恐其子害了州賓性命。因父范匄生辰,以拜壽為名,來至范府,乘間訴其父曰:「盈將為亂,奈何?」范匄詢其詳,欒祁曰:「盈嘗言『鞅殺吾兄,吾父逐之,復縱之歸國,不誅已幸,反加寵位。今父子專國,范氏日盛,欒氏將衰,吾寧死,與范氏誓不兩立!』日夜與智起羊舌虎等,聚謀密室,欲盡去諸大夫,而立其私黨。恐我洩其消息,嚴敕守門之吏,不許與外家相通。今日勉強來此,異日恐不得相見!吾以父子恩深,不敢不言。」時范鞅在旁,助之曰:「兒亦聞之,今果然矣。彼黨羽至盛,不可不防也。」一子一女,聲口相同,不由范匄不信。乃密奏於平公,請逐欒氏。

  平公私問於大夫陽畢。陽畢素惡欒黶而睦於范氏,乃對曰:「欒書實殺厲公﹔黶世其凶德,以及於盈,百姓暱於欒氏久矣。若除欒氏,以明弒逆之罪,而立君之威,此國家數世之福也。」平公曰:「欒書援立先君,盈罪未著,除之無名,奈何?」陽畢對曰:「書之援立先君,以掩罪也。先君忘國仇而狥私德,君又縱之,滋害將大。若以盈惡未著,宜翦除其黨,赦盈而遣之。彼若求逞,誅之有名﹔若逃死於他方,亦君之惠也。」平公以為然,召范匄入宮,共議其事。范匄曰:「盈未去而翦其黨,是速之為亂也。君不如使盈往築著邑之城,盈去,其黨無主,乃可圖矣。」平公曰:「善。」乃遣欒盈往城著邑。盈臨行,其黨箕遺諫曰:「欒氏多怨,主所知也。趙氏以下宮之難怨欒氏,中行氏以伐秦之役怨欒氏,范氏以范鞅之逐怨欒氏,智朔殀死,智盈尚少,而聽於中行,程鄭嬖於公,欒氏之勢孤矣。城著非國之急事,何必使子?子盍辭之,以觀君意之若何,而為之備。」欒盈曰:「君命,不可辭也。盈如有罪,其敢逃死?如其無罪,國人將憐我,孰能害之?」乃命督戎為御,出了絳州,望著邑而去。

盈去三日,平公御朝,謂諸大夫曰:「欒書昔有弒逆之罪,未正刑誅。今其子孫在朝,寡人恥之!將若之何?」諸大夫同聲應曰:「宜逐之。」乃宣布欒書罪狀,懸於國門,遣大夫陽畢,將兵往逐欒盈。其宗族在國中者,盡行逐出,收其欒邑。欒樂欒魴率其宗人,同州綽邢蒯,俱出了絳城,竟往奔欒盈去了。叔虎拉了箕遺黃淵隨後出城,城門已閉,傳聞將搜治欒氏之黨,乃商議各聚家丁,欲乘夜為亂,斬東門而出。趙氏有門客章鏗,居與叔虎家相鄰,聞其謀,報知趙武。趙武轉報范匄。匄使其子范鞅,率甲士三百,圍叔虎之第。不知後事如何,且看下回分解。

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