東周列國志第七十回 三兄を殺して楚の平王が即位する/斉と魯を脅して晋の昭公が盟を求める (殺三兄楚平王即位 劫齊魯晉昭公尋盟)

楚霊王の徐討伐と乾谿駐留(鄭丹の諫言)

  • さて周の景王十二年、楚の霊王はすでに陳・蔡を滅ぼすと、さらに許・胡・沈・道・房・申の六つの小国を荊山の地へ移し、民衆は流浪し、道々で嘆きの声があがった。霊王は自ら、天下は掌を返すように手に入れられると考え、日夜章華の台で宴に興じ、周へ使者を遣わして九鼎を求め、楚国の鎮めの宝としようとした。
  • 右尹鄭丹は言った。「今、斉・晋はなお強く、呉・越はまだ服しておりません。周は楚を畏れているとはいえ、諸侯には後ろ指をさされる懸念がございましょう。」霊王は憤然として言った。「寡人はほとんど忘れておった。以前、申での会のとき、徐子の罪を赦し、ともに呉を討伐させたが、徐は結局呉に付き従い、力を尽くそうとしなかった。今、寡人はまず徐を討ち、次いで呉に及ぼう。長江以東はすべて楚の属国となり、天下はすでに半ばを定めたことになる。」
  • そこで薳罷に蔡洧とともに世子祿を守らせて留守を任せ、大いに車馬を閲兵し、東へ狩りを行うと称して州来に赴き、潁水のほとりに軍を進めた。司馬督に戦車三百乗を率いさせて徐を討伐させ、その城を包囲した。霊王の大軍は乾谿に駐屯し、後詰めとした。時に周の景王の十五年、楚の霊王の十一年のことである。
  • 冬の月、大雪に見舞われ、積雪の深さは三尺余りに及んだ。それはどのようなものであったろうか。(詩:彤雲が空を覆って風が怒号し、雪片が鵞鳥の羽毛のように舞い落ちる。たちまち峰々は青い色を失い、平地にはあっけなく銀の波が生まれる。千の木々の寒々しい巣では鳥や雀が凍えこわばり、赤々と熾した炉も暖まらず厚い皮衣さえ薄く感じられる。まして今このときに従軍する者はいっそう憐れで、鎧には氷が張りついて、つらくて身に着けることもできない、と詠う内容)
  • 霊王は左右に「かつて秦国から献上された『復陶裘』と『翠羽被』があったな、それを取ってきて着せよ」と言った。左右の者は裘と被を捧げ持ってきた。霊王は裘を着て被をまとい、頭には皮の冠をかぶり、足には豹の履物を履き、紫の絹の鞭を手に、帳の前に出て雪を眺めた。
  • 右尹鄭丹が訪ねてくると、霊王は冠と被を脱ぎ、鞭を置いて、これと立ち話をした。霊王は「寒いことよ」と言った。鄭丹は答えた。「王は重い裘に豹の履物、しかも虎の帳の中におられてさえ、なお寒さに苦しんでおられます。まして兵士たちは薄い単衣をまとい踝をむき出しにし、兜をかぶり甲を身につけて、風雪の中で武器を執っております、その苦しみはいかばかりでございましょう。王はどうして車駕を都へ返し、徐討伐の軍をお呼び戻しにならないのですか。来春、暖かくなってから改めて征伐を図られれば、両方にとってよろしいのではございませんか。」霊王は「卿の言葉はまことにもっともだ。しかし寡人は兵を用いてよりこのかた、向かうところ必ず勝ってきた、司馬(督)からは朝夕にも捷報が届くだろう」と言った。
  • 鄭丹は答えた。「徐は陳・蔡とは異なります。陳・蔡は楚に近く、久しくその支配下にありましたが、徐は楚の東北三千余里も離れており、しかも呉を頼みとして重んじております。王が徐討伐の功を貪って、三軍を長く外に留め置かれ、労苦と凍えの苦しみを受けさせておられます、万一国内に内変があれば、兵士の心が離れてしまいます、私はひそかに王のために危惧いたします。」霊王は笑って「穿封戍は陳におり、棄疾は蔡におり、伍挙は太子とともに留守を守っている、これで三つの楚があるようなものだ、寡人が何を憂うることがあろう」と言った。
  • 言い終わらぬうちに、左史倚相が王の前を通り過ぎたので、霊王は倚相を指さして鄭丹に言った。「これは博識の士である。『三墳』『五典』『八索』『九邱』に至るまで、通じないものはない、子革(鄭丹)よ、この者を大切に遇してやるがよい。」鄭丹は答えた。「王の仰せは行き過ぎでございましょう。昔、周の穆王は八駿の馬に乗り、天下を巡り歩きましたが、祭公謀父は『祈招』の詩を作って王の心を諫め止めました。穆王は諫めを聞き入れて国に帰り、禍を免れることができました。私はかつてこの詩について倚相に尋ねたことがございますが、彼は存じませんでした。本朝の事柄すらそのように存じないのですから、どうして遠い事まで及びましょうか。」
  • 霊王は「『祈招』の詩とはどのようなものか。寡人のために誦じてくれぬか」と言った。鄭丹は答えた。「臣はこれを誦じることができます。詩に曰く『祈招の愔愔たる、以て徳音を昭かにす。我が王の度を思う、玉の如く金の如し。民の力を形(はか)りて、酔飽の心無し』」霊王は「この詩はどういう意味か」と尋ねた。鄭丹は答えた。「愔愔とは、安らかで穏やかな様子でございます。祈父(軍事を司る官)の掌る軍備とその兵たちが、安和の幸いに与ることができれば、それによって我が王の徳音を明らかにすることができ、玉の堅さ、金の重みにも比せられましょう。そうなる理由は、我が王が民の力を憐れみ、適度なところで止め、酔って満腹するような度を越した欲望を持たれないからでございます。」霊王はこれが自分への諷刺だと悟り、黙って何も言わなかった。しばらくして「卿はしばらく退がるがよい、寡人はこれを考えてみよう」と言った。
  • その夜、霊王は軍を引き上げようという心が芽生えた。しかし突然、間諜が報告してきた。「司馬督はしばしば徐軍を破り、ついに徐を包囲いたしました。」霊王は「徐は滅ぼせるぞ」と言った。そのまま乾谿にとどまり続けた。冬から春に至るまで、日々狩猟を娯楽とし、民衆を使役して台を築き宮殿を建てさせ、帰国することを思わなくなった。

観従の謀と郢都の陥落(薳罷の自刎)

  • 時に蔡の大夫帰生の子朝呉は、蔡公棄疾に臣として仕えており、日夜蔡国の復興を謀り、その宰の観従と相談していた。観従は言った。「楚王は遠征に兵を興じて久しく戻らず、国内は空虚となり、外には怨みを買っております、これぞ天が楚王を滅ぼす時でございます。この機会を逃せば、蔡を再び封じることはできないでしょう。」朝呉は「蔡を復興させるには、どのような計略を用いればよいか」と言った。観従は言った。「逆賊虔(霊王)の即位には、三人の公子(子干・子晳・棄疾)は皆内心承服しておりません、ただ力が及ばなかっただけです。もし蔡公の命だと偽って、子干を晋から、子晳を鄭から呼び寄せ、このようにこう仕向ければ……楚は手に入りましょう。楚を得れば、逆賊虔の巣穴は破れます、死なずにいられましょうか。そして次の世に至れば、蔡は必ず復興いたしましょう。」
  • 朝呉はその謀に従い、観従に蔡公の命だと偽らせて、子干を晋から、子晳を鄭から呼び寄せさせた。「蔡公は陳・蔡の軍勢をもって二公子を楚に迎え入れ、逆賊虔に対抗させたいと願っておられます」と告げさせた。子干と子晳は大いに喜び、ともに蔡の郊外に集まり、棄疾との会見に臨んだ。観従はまず戻って朝呉に報告した。朝呉は郊外に出て二公子に言った。「蔡公は実はまだそのような命を出してはおりません、しかしこれを脅して事を進めることはできます。」子干と子晳は恐れる様子を見せた。
  • 朝呉は言った。「王は遊興に耽って帰らず、国内は空虚で備えがございません。蔡洧は父を殺された恨みを抱いており、事が起こることをむしろ幸いとしております。鬥成然は郊尹の職にあり、蔡公と親しく、蔡公が事を起こせば、必ず内応するでしょう。穿封戍は陳に封じられているとはいえ、内心では王に心服しておりません、もし蔡公が呼び寄せれば、必ずやって来るでしょう。陳・蔡の軍勢をもって、空虚な楚を襲えば、袋の中の物を探るがごとく容易いことです。公子方々は成功しないことを案じられずともよろしい。」この数言が利害を的確に説いたので、子干と子晳はようやく安心し、「教えの通りにいたそう」と言った。
  • 朝呉は盟を求め、そこで犠牲の血をすすって誓い、亡き先君郟敖の仇討ちを誓った。口では誓いを述べたものの、誓書には蔡公を首謀者として記し、子干・子晳とともに逆賊虔を襲うと書かれていた。地を掘って穴とし、犠牲を用いて誓書をその上に加えて埋めた。事が終わると、そのまま一族の者を率いて子干・子晳を導き、蔡城へと入った。
  • 蔡公はちょうど朝食をとっていたところで、突然二公子が到着したのを見て、思いもよらぬことに大いに驚き、立ち上がって逃げようとした。朝呉が続いてやって来て、まっすぐ進み出て蔡公の袖をつかんで言った。「事はここに至りました、公はどこへ行かれるのですか。」子干と子晳は蔡公を抱いて大声で泣き、言った。「逆賊虔は無道にも、兄を弑し甥を殺し、さらに我らを追放した。我ら二人がここに来たのは、あなたの兵力を借りて兄の仇を討ちたいからだ。事が成れば、王位はあなたに譲ろう。」棄疾は狼狽して計略もなく、答えた。「しばらくゆっくりと相談いたしましょう。」朝呉は「二人の公子は空腹でしょう、食事があればともに召し上がりください」と言った。
  • 子干と子晳が食事を終えると、朝呉は二人を急ぎ出立させた。そのまま人々に向かって宣言した。「蔡公は実際に二公子を呼び寄せ、ともに大事を起こそうとして、すでに郊外で盟を結ばれた。二公子を先に楚へ入らせたところだ。」棄疾はこれを止めて「私を誣告するな」と言った。朝呉は言った。「郊外の穴に犠牲を埋め誓書を載せたことは、見た者がいないはずがございません。公は隠し立てをなさらず、速やかに軍をお編成になり、ともに富貴を得られるのが上策でございます。」朝呉はさらに市中に呼びかけて言った。「楚王は無道にも我が蔡国を滅ぼした。今、蔡公は我らを再び封じることをお許しくださった。あなた方は皆蔡の民衆ではないか、どうして祖先の祭りが絶えるのを見過ごせようか。ともに蔡公について二公子を追いかけ、一緒に楚へ入ろうではないか。」
  • 蔡人はこの呼びかけを聞くと、たちまち集まり、それぞれ武器を手にして、蔡公の門に集結した。朝呉は言った。「人心はすでに一つになっております、公は急いでこれを慰撫し用いるべきです、そうしなければ変事が起こりましょう。」棄疾は「お前は私を虎の背に乗せようというのか。どうしたらよいのか」と言った。朝呉は言った。「二公子はまだ郊外におります、急いで合流なさるべきです。すべての蔡人を興しましょう。私は陳公のもとへ行って説得し、公に従わせましょう。」棄疾はこれに従った。子干と子晳はその軍勢を率いて蔡公と合流した。
  • 朝呉は観従に夜を徹して陳へ向かわせ、陳公に会わせようとした。途中、観従は陳人の夏齧(夏徴舒の玄孫であり、観従と平素から知り合いであった)に出会い、蔡復興の意向を告げた。夏齧は言った。「私は陳公のもとで用いられている者だが、私もまた陳の復興を図ろうと考えていた。今、陳公はすでに病篤く、あなたが会う必要はない。まず蔡に帰りなさい、私が陳人を率いて一隊を組もう。」観従は蔡公に戻って報告した。
  • 朝呉はさらに書を密かに蔡洧に届け、内応を求めさせた。蔡公は家臣の須務牟を先鋒とし、史猈を副将とし、観従に道案内をさせて、精鋭の武装兵を先に進ませた。ちょうど陳の夏齧も陳の兵を起こして到着した。夏齧は「穿封戍はすでに死んでおります、私は大義をもって陳人を諭し、特に助けに参りました」と言った。蔡公は大いに喜び、朝呉に蔡人を率いさせて右軍とし、夏齧に陳人を率いさせて左軍とし、「奇襲の事は、遅らせてはならぬ」と言った。そのまま夜を徹して郢の都へと進発した。
  • 蔡洧は蔡公の軍が到着したと聞き、まず腹心の者を城外に出して内応の意を伝えた。鬥成然は郊外で蔡公を出迎えた。令尹薳罷はちょうど兵を集めて守りを固めようとしていたが、蔡洧が城門を開いて蔡軍を招き入れ、須務牟がまず入城し、叫んだ。「蔡公は乾谿で楚王を攻め殺した、大軍はすでに城に迫っている。」国人は霊王の無道を憎んでいたので、皆蔡公が王となることを願い、敵対しようとする者はいなかった。薳罷は世子祿を奉じて出奔しようとしたが、須務牟の兵がすでに王宮を包囲しており、薳罷は入ることができず、家に帰って自ら首を刎ねて死んだ。哀れなことである。胡曾先生に詠史詩がある。(詩:私党をもって主君を助けたと誇っても、強大になりすぎた地方の都邑がすでに乱を醸していたことに気づかなかった皮肉、もし薳罷が泉下で郟敖に出会ったなら、同じく非業の死を遂げた身として、いったいどんな顔ができようかと責める内容)

子干の即位と楚霊王の逃亡・最期

  • 蔡公の大軍は続々と到着し、王宮に攻め入り、世子祿と公子罷敵に出くわし、皆これを殺した。蔡公は王宮を掃き清めると、子干を王に立てようとしたが、子干はこれを辞退した。蔡公は「長幼の序は廃せられません」と言った。子干はそこで即位し、子晳を令尹とし、蔡公を司馬とした。
  • 朝呉は密かに蔡公に言った。「公が最初に義挙を唱えられたというのに、どうして王位を人に譲られたのですか。」蔡公は言った。「霊王はまだ乾谿にいる、国はまだ定まっていない。しかも二人の兄を飛び越して自ら立てば、人はきっと私を非難するだろう。」朝呉はすでにその心を悟り、そこで謀を献じた。「王の軍勢は長らく野営を続けております、必ず帰りたいと思っているはずです。もし人を遣わして利害を説いて招けば、必ず崩れ散るでしょう。大軍でこれに続けば、王を捕らえることができましょう。」蔡公はもっともだと思った。
  • そこで観従を乾谿へ遣わし、その軍勢に告げさせた。「蔡公はすでに楚に入り、王の二子を殺し、子干を王に立てられました。今、新王のご命令です。『先に帰る者はその田畑と住まいを元通りにし、後から帰る者は鼻を削ぎ、なお(乾谿の)王に付き従う者があれば罪は三族に及び、あるいは飲食を献じる者も同じく罪に問う』と。」兵士たちはこれを聞くと、たちまちその大半が散り散りになった。
  • 霊王はなお乾谿の台で酔って寝ていたが、鄭丹は慌てて入って報告した。霊王は二人の子が殺されたと聞き、寝台から身を投げるように地に落ち、声をあげて大泣きした。鄭丹は「軍の心はすでに離れております、王は速やかにお戻りください」と言った。霊王は涙を拭きながら言った。「人が自分の子を愛する気持ちは、寡人と同じであろうか。」鄭丹は「鳥や獣でさえ子を愛することを知っております、まして人間ならなおさらでございます」と言った。霊王は嘆いて「寡人は人の子を殺すこと多かった。人が私の子を殺すのも、何の不思議があろう」と言った。
  • しばらくして、偵察の騎兵が報告した。「新王は蔡公を大将に任じ、鬥成然とともに陳・蔡二国の兵を率いて、乾谿へ攻め寄せております。」霊王は激怒して「寡人は成然を薄く扱ったことはない、どうしてあえて私を裏切るのか。むしろ一戦して死のうとも、みすみす縛につくわけにはいかぬ」と言った。そのまま陣を引き払い、夏口から漢水をさかのぼり、襄州に至り、郢を襲おうとした。士卒は一路逃げ散り、霊王は自ら剣を抜いて数人を斬ったが、それでも止めることができず、訾梁に着いた頃には、従う者はわずか百人ばかりであった。
  • 霊王は「事はもう成らぬ」と言い、冠と服を脱ぎ、岸辺の柳の木に懸けた。鄭丹は「王はひとまず近郊まで行かれて、国人が王に味方するか背くか、その去就をお確かめになってはいかがですか」と言った。霊王は「国人は皆背いている、何を調べる必要があろう」と言った。鄭丹は「そうでなければ、他国へ出奔し、援軍を求めて自らを救うのもよろしいでしょう」と言った。霊王は「諸侯の誰が私を愛してくれようか。寡人は大きな福は二度と来ぬと聞く、いたずらに恥をかくだけだ」と言った。鄭丹は霊王がその計略に従わないのを見て、自分に罪が及ぶのを恐れ、そのまま倚相とともにひそかに楚へと逃げ帰った。
  • 霊王は鄭丹の姿が見えなくなると、手足の置き所もなく、釐澤のあたりをさまよい、従う者はことごとく散り、ただ一人きりとなった。腹が減り、村里に食を求めに行こうとしたが、道もわからなかった。村人の中にも楚王だと知る者があったが、逃げ散った兵士たちの話から、新王の法令が非常に厳しいと伝え聞いていたので、誰もが恐れて遠く避けて近づかなかった。霊王は三日の間、一口の食事もとることができず、飢えて地に倒れ伏し、動くこともできなくなった。ただ両目だけを見開いて、道端を眺め、ひたすら見知った人が通りかかることを願った、それこそが自分を救う星であった。
  • ふと一人の人がやって来た。かつての門番であることに気づいたが、当時は涓人と呼ばれ、名は疇といった。霊王は叫んだ。「疇よ、私を救ってくれ。」涓人疇は霊王の呼び声だと知ると、近寄って額を地につけてぬかずいた。霊王は「寡人は三日も飢えている。私のために一杯の飯を探してくれ、寡人の息をつなぐことができるように」と言った。疇は「民衆は皆新王の命令を恐れております、臣にはどこから食を得られましょうか」と言った。霊王はため息をひとつつき、疇に近くに座らせ、その股を枕にして、しばらく休むことにした。
  • 疇は霊王が眠りにつくのを待ち、土くれを取って股の代わりに枕とし、そのまま逃げ去った。霊王は目を覚まし、疇を呼んだが答えず、枕にしていたものを探ると、土くれであった。思わず天を仰いで痛哭し、声はあっても息が続かぬほどであった。
  • しばらくして、また一人の人が小さな車に乗ってやって来た。霊王の声を聞き知り、車を降りて見ると、果たして霊王であった。そこで地に伏して拝み、尋ねた。「大王はどうしてこのようなことになられたのですか。」霊王は涙を顔中に流しながら、「そなたは何者か」と尋ねた。その人は奏上した。「臣は姓を申、名を亥と申します、芋尹申無宇の子でございます。臣の父は二度、我が王のお怒りを買いましたが、王はお赦しになり誅されませんでした。臣の父は先年臨終の際、臣に言い遺しました。『私は王より二度、命を助けていただいた恩を受けた、いつか王に難があれば、お前は必ず命を捨ててもお従いせよ』と。臣はこれを固く心に刻み、忘れることがございませんでした。近ごろ郢都がすでに破れ、子干が自ら立ったと伝え聞き、夜を徹して乾谿に馳せ参じましたが、我が王にお会いできず、一路探し求めてこちらまで参りました、思いもよらず天がこうしてお引き合わせくださったのでございます。今、あたり一面がすべて蔡公の党でございます、王はほかへお行きになってはなりません。臣の家は棘村にあり、ここから遠くはございません、王はしばらく臣の家にいらしていただき、改めて相談いたしましょう。」そこで乾いた食糧を跪いて差し出し、霊王は無理に飲み下し、ようやく立ち上がることができた。
  • 申亥は霊王を助けて車に乗せ、棘村に至った。霊王は日頃、章華の台という壮麗な宮殿住まいであったが、今日、申亥の農家を見ると、粗末な門に蓬の戸で、頭を下げてくぐらねばならず、まことに侘しく、涙が止まらなかった。申亥は跪いて「我が王、どうかご安心ください。この地は人目につかぬ場所です、行き来する人もございません、しばらく数日ここにお留まりいただき、国中の様子を探ってから、進退をお決めになるのがよろしいでしょう」と言った。霊王は悲しみのあまり口をきくこともできなかった。
  • 申亥はさらに跪いて飲食を勧めたが、霊王はただ泣くばかりで、まったく口をつけなかった。亥は自分の生んだ娘二人を侍寝させ、霊王の心を慰めようとした。王は衣も脱がぬまま、一晩中嘆き悲しみ、五更(明け方近く)になると、嘆きの声が聞こえなくなった。二人の娘が門を開けて父に報告した。「王はすでに寝所で首をお吊りになりました。」胡曾先生の詠史詩に言う――(詩:茫々たる衰えた草が章華の宮を覆い、贅を尽くした霊王の昔を笑う、台上の土もまだ乾かぬうちに管弦の音が絶え、その身は野人の家で死んだことを憐れむ内容)
  • 申亥は霊王の死を聞いて悲しみに耐えられず、自ら葬儀を執り行い、二人の娘を殺して殉葬とした。後世の人はこれを論じ、申亥が霊王の恩に感じてこれを葬ったのは正しいが、二人の娘を殉葬させたのは行き過ぎではないかと述べている。詩に嘆じて言う――(詩:章華の覇業はすでに沈み去ったのに、二人の娘に何の罪があってともに墓に伴われたのか、暴君の死後もその余殃がなお家の女たちに及んだことを恨む内容)

楚平王の即位と子干・子晳の自害

  • 時に蔡公は鬥成然・朝呉・夏齧ら諸将を率いて、霊王を乾谿に追っていた。半ばまで来ると鄭丹と倚相の二人に出くわし、楚王がこのようになった経緯を聞いた。「今、護衛の者は皆散り、王お一人で死を求めておられます、某は見るに忍びず、それで逃げてきたのです。」蔡公は「あなた方は今どこへ行くのか」と尋ねた。二人は「国中へ帰りたいと思います」と言った。蔡公は「あなた方はしばらく我が軍にとどまり、楚王の行方を訪ね出したうえで、一緒に帰るがよかろう」と言った。
  • 蔡公は大軍を率いて訪ね歩き、訾梁に至ったが、行方はまったく分からなかった。ある村人が蔡公だと知って、楚王の冠服を持って献上し、「三日前、岸の柳の木で拾いました」と言った。蔡公は「お前は王の生死を知っているか」と尋ねた。村人は「存じません」と答えた。蔡公はその冠服を収め、村人に厚く賞を与えてその場を立ち去った。
  • 蔡公はさらに探し求めようとしたが、朝呉が進み出て言った。「楚王は衣冠を捨て、力尽き果てております。おそらく溝や渠のどこかで死んでいることでしょう、これ以上お探しになる必要はございません。ただ子干がすでに位にあり、もし号令を発して民心を収めるようなことになれば、もはや図ることはできません。」蔡公は「それならばどうすればよいか」と言った。朝呉は言った。「楚王は外にあり、国人はまだその行方を知りません。この人心がまだ定まらぬうちに、数十人の小卒を遣わし、敗兵のふりをさせて城の周りを触れ回らせ、『楚王の大軍がまもなく到着する』と言わせましょう。さらに鬥成然に子干へ報告させ、このようにこう仕向けましょう。子干と子晳は、皆臆病で謀のない人物です、この知らせを聞けば、必ず驚き怖れて自害するでしょう。公はゆっくりと軍を整えて帰り、安泰に王位にお座りになれば、枕を高くして憂いなく過ごせましょう、これほど良いことがございましょうか。」蔡公はこれをもっともだとした。
  • そこで観従に小卒百余人を率いさせ、敗兵のふりをして郢都へ駆け戻らせ、城の周りを走らせて叫ばせた。「蔡公は戦に敗れて殺された、楚王の大軍は間もなく到着する。」国人はこれを真実だと信じ、皆驚き恐れた。しばらくして、鬥成然が到着し、同じことを述べた。国人はますます信じ込み、皆城壁に登って見張った。成然は子干のもとへ馳せ参じて告げた。「楚王は激怒しておられます、あなた様が勝手に王位に即いた罪を討伐にお越しになります、蔡の般や斉の慶封の故事にならおうとしておられます。あなた様は早く自らのための策をお立てになり、辱めを受けぬようになさってください、臣もまた命を逃れて参ります。」言い終わると、狂ったように走り去った。
  • 子干は子晳を呼んでこれを告げた。子晳は「これは朝呉が我らを誤らせたのだ」と言った。兄弟は抱き合って泣いた。宮の外ではさらに「楚王の軍がすでに城に入った」と伝わってきた。子晳はまず佩剣を抜き、自らの喉を切って死んだ。子干は慌てふためき、同じく剣を取って自らの首を切った。宮中は大混乱となり、宦官や宮女たちも、驚き恐れて自ら命を絶つ者が続出し、宮中には死体が横たわり、慟哭の声が絶えなかった。
  • 鬥成然は軍勢を率いて再び入城し、死体を片付けさせ、百官を率いて蔡公を出迎えた。国人は事情を知らず、なおやって来たのは霊王ではないかと疑ったが、入城してみると、蔡公であった。そこでようやく、先ほどからの報せがすべて蔡公の計略であったことを悟った。蔡公は入城すると、そのまま即位し、名を熊居と改めた、これが平王である。昔、共王が神に祈った際、埋めた璧のちょうど真上にあたる場所で拝礼した者が君主になるとされたが、ここに至ってその通りとなったのである。
  • 国人はまだ霊王が死んだことを知らず、人心は騒然とし、かつて夜中に王が来たという誤報が伝わったときには、男女は皆驚いて起き出し、門を開けて様子をうかがった。平王はこれを憂い、密かに観従と相談し、漢水のほとりで死体を求め、霊王の冠服を着せて、上流から下流へと流させ、すでに楚王の死体を見つけたと偽り、訾梁で殯(もがり)を行ったと平王に報告させた。平王は鬥成然を遣わして葬儀を執り行わせ、諡を「霊王」とした。その後で榜文を出して国人を安心させ、人心はようやく定まった。後に三年経ち、平王は改めて霊王の死体を捜し求め、申亥がその埋葬場所を告げたので、そこで改めて葬り直した。この話はここまでにしておく。

呉による司馬督軍の撃破

  • さて司馬督らは徐を包囲していたが、長らく功を挙げられず、霊王に誅されることを恐れて帰ることもできず、ひそかに徐と通じ、陣を連ねて対峙していた。霊王の軍が崩れ王が殺されたと聞くと、そこで包囲を解いて軍を退いた。豫章まで進んだところ、呉の公子光が軍を率いて要撃し、これを破り、司馬督とその戦車三百乗はことごとく呉の捕虜となった。光はその勢いに乗じて楚の州来の邑を奪った。これらはすべて霊王の無道が招いた結果である。

平王の論功行賞と陳蔡の復興

  • さて楚の平王は楚の民を安んじ集め、公子の礼をもって子干・子晳を葬った。功に応じて用いる賢者を録用し、鬥成然を令尹とし、陽匄、字は子瑕、を左尹とした。薳掩と伯州犁の無実の死を思い、犁の子である郤宛を右尹とし、掩の弟である薳射と薳越を大夫とした。朝呉・夏齧・蔡洧はいずれも下大夫の職を授かった。公子魴は勇敢に戦ったので司馬とした。時に伍挙はすでに没していたが、平王はその生前の直諫の美徳を称え、その子伍奢を連に封じ、連公と号した。奢の子尚もまた棠に封じ、棠宰とし、棠君と号した。その他薳啟疆・鄭丹ら旧臣は、皆もとの官職のままとした。
  • 観従に官職を授けようとしたところ、従は先祖が占いを開いたことにちなんで「卜尹になりたい」と願い出た。平王はこれに従った。群臣は皆恩を謝したが、朝呉と蔡洧だけは謝せず、官を辞して去ろうとした。平王がその理由を尋ねると、二人は奏上した。「もともと我が王を助けて楚を襲う軍を起こしたのは、蔡の復興を願ってのことでございました。今、王の大位はすでに定まりましたが、蔡の祖先の祭りは、いまだ供え物を受けておりません、臣がどのような面目で王の朝廷に立てましょうか。昔、霊王は貪欲に功を求め併合を行い、そのため人心を失いました。王がその行いを反対になさってこそ、初めて人心を心服させられましょう。その行いを反対になさるには、陳・蔡の祭祀を復興させることに勝るものはございません。」
  • 平王は「よかろう」と言い、そこで陳・蔡の後裔を探し求めさせ、陳の世子偃師の子である名を呉という者と、蔡の世子有の子である名を廬という者を見つけ出し、太史に吉日を選ばせ、呉を陳侯に封じた、これが陳の恵公である。廬を蔡侯に封じた、これが蔡の平公である。それぞれ本国に帰って祖先の祭りを奉じさせた。朝呉と蔡洧は蔡の平公に従って蔡に帰り、夏齧は陳の恵公に従って陳に帰った。率いていた陳・蔡の軍勢は、それぞれその主君に従い、厚くねぎらわれた。以前、霊王が両国から奪い取った重器や財宝で楚の倉庫に収められていたものは、ことごとく返還された。荊山に移された六つの小国も、皆故郷への帰還が許され、秋毫も侵されることはなかった。各国の君臣上下は、皆歓声を雷のように上げ、まるで枯れ木が再び花を咲かせ、朽ちた骨が生き返ったかのようであった。これは周の景王十六年の出来事である。髯翁の詩に言う――(詩:無駄に民の膏血を尽くして築いた二つの城が、結局は後の主君(平王)が陳・蔡に恩を売るための材料として残されたこと、返すべきものと早くから知っていれば、当時あれほどの悪名を受けずに済んだはずだと皮肉る内容)

世子建と費無極の台頭

  • 平王の長子は名を建、字を子木といい、蔡国の鄖陽の封人(国境の邑を守る官)の娘が生んだ子で、当時すでに年長であったので、世子に立てられ、連尹伍奢を太師とした。楚人に費無極という者があり、日頃から平王に仕え、へつらいに巧みで、平王はこれを寵愛し、大夫に任じた。無極は世子に仕えることを願い出て、そこで少師とされた。奮揚を東宮司馬とした。
  • 平王はすでに即位すると、四方の国境は安定し、もっぱら声色の楽しみにふけった。呉が州来を奪ったが、王はこれに報復することができなかった。無極は世子の少師でありながら、日々平王のそばにあって淫楽に付き従っていた。世子建はその諂いへつらう様子を嫌い、次第にこれを遠ざけた。令尹鬥成然は功をたのみに専横を極めたが、無極はこれを讒言して殺し、陽匄を令尹とした。世子建はたびたび成然の冤罪を語ったので、無極は内心これを恐れ、これより密かに世子建との間に隙が生じた。無極はさらに鄢将師を平王に推薦し、右領とし、これも寵愛を得た。この段の事情は、しばらくここに措いておく。

斉景公の黄河渡渉と古冶子の武勇

  • 話は二つに分かれる。さて晋は虒祁の宮を築いてよりこのかた、諸侯はその志が安逸に流れていることを見て、皆二心を抱くようになった。昭公は新たに即位したばかりで、先人の事業を修め直そうとし、斉侯が晏嬰を遣わして楚に聘問させたと聞くと、自らも人を遣わして斉に朝見を求めた。斉の景公は晋楚がともに多事であるのを見て、その隙に乗じて覇を図ろうという思いを抱き、晋の昭公の人となりを見ようと考え、身支度を整えて晋へ赴き、勇士の古冶子を随行させた。
  • 黄河を渡ろうとしていたところ、その左の添え馬は景公がもっとも愛しんでいたもので、供の舟から取り寄せさせ、船の先に繋いで、自ら馬丁に飼料を与えさせていた。突然大雨が激しく降り出し、波が荒れ狂い、舟が転覆しそうになった。大きなスッポンが水面から頭を出し、大きな口を開けて船首に迫り、左の添え馬をくわえて、深い淵へと引き込んでしまった。景公は大いに驚いた。
  • 古冶子はそばにいたが、「主君、恐れることはございません、私が取り返して参りましょう」と言った。そのまま衣を脱いで裸になり、剣を抜いて水中に躍り込み、波を凌ぎ浪を蹴立てて去っていった。沈んだり浮かんだりしながら、流れに沿って九里ほど進んだが、その姿は見えなくなった。景公は嘆いて「冶子は死んでしまったのだろう」と言った。
  • しばらくすると、風波はぴたりとおさまり、ただ水面が紅く染まって流れているのが見えた。古冶子は左手にその添え馬の尾をつかみ、右手に血のしたたるスッポンの頭を提げて、波の中から現れた。景公は大いに驚いて「まことの神勇である。先君はいたずらに勇爵(勇士への叙爵)を設けられたが、これほどの勇士がどこにいたであろうか」と言い、手厚く彼を賞した。

絳州の宴の投壺の応酬と平邱の会(魯の処分)

  • すでに絳州に着き、晋の昭公と対面すると、昭公は宴を設けてもてなした。晋国では荀呉が儀礼を、斉国では晏嬰が儀礼を執り行った。酒がほどよく回った頃、晋侯は「宴席に興を添えるものがない、どうか君侯とともに投壺をして酒を賭けようではないか」と言った。景公は「よかろう」と言った。左右の者が壺と矢を用意すると、斉侯は両手を組んで礼をし、晋侯に先に投げるよう譲った。晋侯は矢を手に取ると、荀呉が進み出て言葉を添えた。「酒は淮水のように、肉は坻(丘)のように豊かにあります。我が君がこの矢を的に当てられれば、諸侯の盟主となられましょう。」晋侯が矢を投げると、果たして壺の中に命中し、残りの矢は地に投げ捨てた。晋の臣は皆地に伏して「千歳」と唱えた。
  • 斉侯はひどく不快な様子で、矢を手に取り、同じくその言葉をまねて言った。「酒は澠水のように、肉は陵のように豊かにあります。寡人がこの矢を的に当てれば、君(晋)と代わって興ろう。」ぽんと投げると、ちょうど壺の中に命中し、晋の矢と並んだ。斉侯は大笑いし、残りの矢も投げ捨てた。晏嬰もまた地に伏して「千歳」と呼んだ。
  • 晋侯はさっと顔色を変えた。荀呉は斉の景公に言った。「君は失言なさいましたな。今日、わが国にかたじけなくもご光臨いただいたのは、まさにわが君が代々夏(中原)の盟を主宰してきたゆえでございます。君が『代わって興る』とおっしゃったのは、いったいどういうことでございますか。」
  • 晏嬰は代わって答えた。「盟主に定まった主というものはございません、ただ徳ある者がその位に就くのみです。昔、斉が覇業を失い、晋がまさにこれに代わったのです。もし晋に徳があれば、誰があえて従わぬことがございましょう。もしその徳がなければ、呉や楚もまた次々と進み出ることになりましょう、どうしてわが国(斉)だけがそうでないと申せましょう。」羊舌肹は言った。「晋はすでに諸侯の盟主となっております、どうして投壺の勝負など要りましょうか。これは荀伯(荀呉)の失言でございます。」荀呉は自らの誤りを悟り、黙り込んでしまった。斉の臣古冶子は階段の下に立ち、大声で言った。「日も傾き我が君もお疲れでございましょう、そろそろお席を辞されるべきかと存じます。」斉侯はすぐさま礼を述べて退席した。翌日、そのまま帰途についた。
  • 羊舌肹は「諸侯は離反の心を抱くようになりましょう、威をもってこれを脅さなければ、必ず覇業を失うことになります」と言った。晋侯はもっともだと思った。そこで軍備の数を大いに検分し、合わせて戦車四千乗、甲士三十万人を数えた。羊舌肹は「徳は足りずとも、この兵力は用いられましょう」と言った。そこでまず使者を周に遣わし、王臣に会へ臨席していただいて会盟の権威を重からしめようと求め、あわせて諸侯にあまねく招請し、秋七月に平邱に集まることを約束させた。諸侯は王臣が会にいると聞いて、あえて赴かない者はいなかった。
  • その日になり、晋の昭公は韓起に留守番として国を守らせ、荀呉・魏舒・羊舌肹・羊舌鮒・籍談・梁丙・張骼・智躒らを率い、四千乗の全軍を挙げて、濮陽の城へと進発した。三十余りの陣営が連なり、衛の地はあまねく晋の兵で満ちた。周の卿士劉献公摯がまず到着した。斉・宋・魯・衛・鄭・曹・莒・邾・滕・薛・杞・小邾の十二の諸侯が皆集まった。晋の軍勢の盛んなさまを見て、人々は皆恐れの色を見せた。
  • 会が開かれると、羊舌肹は皿と鉢を捧げ持って進み出て言った。「先臣趙武は、誤って休戦の盟約に従い、楚と好誼を通じました。楚虔(霊王)は信義がなく、自ら滅亡を招きました。今、わが君は践土の故事にならい、天子の恩恵にすがって、諸夏を鎮撫しようとしております、どうか諸君ともに血をすすって盟をお結びください。」諸侯は皆頭を垂れて「あえて命に従わぬことがございましょうか」と言った。ただ斉の景公だけは応じなかった。
  • 羊舌肹は「斉侯はこの盟を望まれないのですか」と言った。景公は「諸侯が服さないからこそ、盟を求めるのだ。もし皆が命に従うのであれば、何のために盟を結ぶ必要があろうか」と言った。羊舌肹は「践土の盟のとき、服さなかった国がどこにございましたか。君がもし従われないのであれば、わが君はただ甲車四千乗を率いて、貴国の城下に押し寄せ、従われぬ罪をお問いするまでです」と言った。言い終わらぬうちに、壇上で鼓が鳴らされ、各陣営が一斉に大旗を立てた。景公はこれが自分を襲うためではないかと恐れ、言葉を改めて謝った。「大国がすでに盟を廃してはならぬとおっしゃるのであれば、寡人はどうして自ら外れることができましょう。」こうして晋侯がまず血をすすり、斉以下も次々にこれに続いた。劉摯(王臣)は盟には加わらせず、ただこれに立ち会って見届けるだけであった。
  • 邾と莒は、魯国からたびたび侵伐を受けていることを晋侯に訴えた。晋侯は魯の昭公を会から締め出し、その上卿季孫意如を捕らえて幕舎に閉じ込めた。子服恵伯はひそかに荀呉に言った。「魯の地は邾・莒の十倍もございます。晋がもし魯を見捨てれば、魯は斉か楚に鞍替えするでしょう、それでは晋に何の利益がございましょうか。しかも楚が陳・蔡を滅ぼしたときに救わなかったのに、さらに兄弟の国をも見捨てるおつもりですか。」荀呉はもっともだと思い、韓起に告げた。起はこれを晋侯に伝え、そこで季孫意如を釈放して帰国させた。これより諸侯はますます晋を正しいとは思わなくなり、晋は再び盟主として立つことができなくなった。史臣が詩に嘆じて言う――(詩:奢侈の心が楚をまねて虒祁の宮を築かせ、列国が離反したのを見て晋はさらに武力で威を示したこと、投壺のときの言葉は霊験あらたかに的中して晋の覇統は散じ、往時の山河はそのままでも国の事情はすっかり変わってしまったことを嘆く内容)
  • 後の出来事がどうなるかは、次回に述べることとしよう。
原文(底本)
話說周景王十二年,楚靈王既滅陳蔡,又遷許、胡、沈、道、房、申六小國於荊山之地,百姓流離,道路嗟怨。靈王自謂天下可唾手而得,日夜宴息於章華之臺,欲遣使至周,求其九鼎,以為楚國之鎮。右尹鄭丹曰:「今齊晉尚強,吳越未服,周雖畏楚,恐諸侯有後言也。」靈王憤然曰:「寡人幾忘之。前會申之時,赦徐子之罪,同於伐吳,徐旋附吳,不為盡力。今寡人先伐徐,次及吳,自江以東,皆為楚屬,則天下已定其半矣。」乃使薳罷同蔡洧奉世子祿居守,大閱車馬,東行狩於州來,次於潁水之尾。使司馬督率車三百乘伐徐,圍其城。靈王大軍屯於乾谿,以為聲援。時周景王之十五年,楚靈王之十一年也。冬月,值大雪,積深三尺有餘。怎見得?有詩為證:

    彤雲蔽天風怒號,飛來雪片如鵝毛。忽然群峰失青色,等閒平地生銀濤。千樹寒巢僵鳥雀,紅爐不煖重裘薄。比際從軍更可憐,鐵衣冰凝愁難著。

靈王問左右:「向有秦國所獻『復陶裘』,『翠羽被』,可取來服之。」左右將裘被呈上。靈王服裘加被,頭帶皮冠,足穿豹舄,執紫絲鞭,出帳前看雪。有右尹鄭丹來見,靈王去冠被,舍鞭,與之立而語。靈王曰:「寒甚!」鄭丹對曰:「王重裘豹舄,身居虎帳,猶且苦寒,況軍士單褐露踝,頂兜穿甲,執兵於風雪之中,其苦何如?王何不返駕國都,召回伐徐之師﹔俟來春天氣和暖,再圖征進,豈不兩便?」靈王曰:「卿言甚善!然吾自用兵以來,所向必克,司馬旦晚必有捷音矣。」鄭丹對曰:「徐與陳蔡不同。陳蔡近楚,久在宇下,而徐在楚東北三千餘里,又附吳為重。王貪伐徐之功,使三軍久頓於外,受勞凍之苦,萬一國有內變,軍士離心,竊為王危之。」靈王笑曰:「穿封戍在陳,棄疾在蔡,伍舉與太子居守,是三楚也。寡人又何慮哉?」言未畢,左史倚相趨過王前,靈王指謂鄭丹曰:「此博物之士也。凡《三墳》、《五典》、《八索》、《九邱》,無不通曉,子革其善視之。」鄭丹對曰:「王之言過矣。昔周穆王乘八駿之馬,周行天下,祭公謀父作《祈招》之詩,以諫止王心,穆王聞諫返國,得免於禍。臣曾以此詩問倚相,相不知也。本朝之事,尚然不知,安能及遠乎?」靈王曰:「《祈招》之詩如何?能為寡人誦之否?」鄭丹對曰:「臣能誦之。詩曰:『祈招之愔愔,式昭德音。思我王度,式如玉,式如金。形民之力,而無醉飽之心。』」靈王曰:「此詩何解?」鄭丹對曰:「愔愔者,安和之貌。言祈父所掌甲兵,享安和之福,用能昭我王之德音,比於玉之堅,金之重。所以然者,由我王能恤民力,適可而止,去其醉飽過盈之心故也。」靈王知其諷己,默然無言。良久,曰:「卿且退,容寡人思之。」是夜,靈王意欲班師。忽諜報:「司馬督屢敗徐師,遂圍徐。」靈王曰:「徐可滅也。」遂留乾谿。自冬踰春,日逐射獵為樂,方役百姓築臺建宮,不思返國。

  時蔡大夫歸生之子朝吳,臣事蔡公棄疾,日夜謀復蔡國,與其宰觀從商議。觀從曰:「楚王黷兵遠出,久而不返,內虛外怨,此天亡之日也。失此機會,蔡不可復封矣。」朝吳曰:「欲復蔡,計將安出?」觀從曰:「逆虔之立,三公子心皆不服,獨力不及耳。誠假以蔡公子之命,召子干子晳,如此恁般,﹍﹍楚可得也。得楚,則逆虔之巢穴已毀,不死何為?及嗣王之世,蔡必復矣。」朝吳從其謀,使觀從假傳蔡公之命,召子干於晉,召子晳於鄭,言:「蔡公願以陳蔡之師,納二公子於楚,以拒逆虔。」子干子晳大喜,齊至蔡郊,來會棄疾。觀從先歸報朝吳。朝吳出郊謂二公子曰:「蔡公實未有命,然可劫而取也。」子干子晳有懼色。朝吳曰:「王佚遊不返,國虛無備,而蔡洧念殺父之仇,以有事為幸。鬥成然為郊尹,與蔡公相善,蔡公舉事,必為內應。穿封戍雖封於陳,其意不親附王,若蔡公召之,必來。以陳蔡之眾,襲空虛之楚,如探囊取物,公子勿慮不成也。」這幾句話,說透利害,子干子晳方纔放心,曰:「願終聽教。」朝吳請盟,乃刑牲歃血,誓為先君郟敖報仇。口中說誓,雖則如此,誓書上卻把蔡公裝首,言欲與子干子晳共襲逆虔。掘地為坎,用牲加書於上而埋之。事畢,遂以家眾導子干子晳襲入蔡城。蔡公方朝餐,猝見二公子到,出自意外,大驚,欲起避。朝吳隨至,直前執蔡公之袂曰:「事已至此,公將何往?」子干子晳抱蔡公大哭,言:「逆虔無道,弒兄殺姪,又放逐我等,我二人此來,欲借汝兵力,報兄之仇,事成,當以王位屬子。」棄疾倉皇無計,答曰:「且請從容商議。」朝吳曰:「二公子餒矣,有餐且共食。」子干子晳食訖,朝吳使速行。遂宣言於眾曰:「蔡公實召二公子,同舉大事,已盟於郊,遣二公子先行入楚矣。」棄疾止之曰:「勿誣我!」朝吳曰:「郊外坎牲載書,豈無有見之者?公勿諱,但速速成軍,共取富貴,乃為上策。」朝吳乃復號於市曰:「楚王無道,滅我蔡國,今蔡公許復封我,汝等皆蔡百姓,豈忍宗祀淪亡?可共隨蔡公趕上二公子,一同入楚。」蔡人聞呼,一時俱集,各執器械,集於蔡公之門。朝吳曰:「人心已齊,公宜急撫而用之,不然有變!」棄疾曰:「汝迫我上虎背耶?計將安出?」朝吳曰:「二公子尚在郊,宜急與之合,悉起蔡眾。吾往說陳公,帥師從公。」棄疾從之。子干子晳率其眾與蔡公合。朝吳使觀從星夜至陳,欲見陳公。路中遇陳人夏齧,(乃夏徵舒之玄孫,與觀從平素相識。)告以復蔡之意。夏齧曰:「吾在陳公門下用事,亦思為復陳之計,今陳公病已不起,子不必往見。子先歸蔡,吾當率陳人為一隊。」觀從回報蔡公。朝吳又作書密致蔡洧,使為內應。蔡公以家臣須務牟為先鋒,史猈副之,使觀從為嚮導,率精甲先行。恰好陳夏齧亦起陳眾來到。夏齧曰:「穿封戍已死,吾以大義曉諭陳人,特來助義。」蔡公大喜,使朝吳率蔡人為右軍,夏齧率陳人為左軍,曰:「掩襲之事,不可遲也!」乃星夜望郢都進發。蔡洧聞蔡公兵到,先遣心腹出城送款。鬥成然迎蔡公於郊外。令尹薳罷方欲斂兵設守。蔡洧開門以納蔡師,須務牟先入,呼曰:「蔡公攻殺楚王於乾谿,大軍已臨城矣!」國人惡靈王無道,皆願蔡公為王,無肯拒敵者。薳罷欲奉世子祿出奔,須務牟兵已圍王宮,薳罷不能入,回家自刎而死。哀哉!胡曾先生有詩云:

    漫誇私黨能扶主,誰料強都已釀奸。若遇郟敖泉壤下,一般惡死有何顏?

蔡公大兵隨後俱到,攻入王宮,遇世子祿及公子罷敵,皆殺之。蔡公掃除王宮,欲奉子干為王﹔子干辭。蔡公曰:「長幼不可廢也。」子干乃即位,以子晳為令尹,蔡公為司馬。朝吳私謂蔡公曰:「公首倡義舉,奈何以王位讓人耶?」蔡公曰:「靈王猶在乾谿,國未定也,且越二兄而自立,人將議我。」朝吳已會其意,乃獻謀曰:「王卒暴露已久,必然思歸,若遣人以利害招之,必然奔潰。大軍繼之,王可擒也。」蔡公以為然。乃使觀從往乾谿,告其眾曰:「蔡公已入楚,殺王二子,奉子干為王矣。今新王有令:『先歸者復其田里,後歸者劓之,有相從者,罪及三族,或以飲食餽獻,罪亦如之。』」軍士聞之,一時散其大半。

  靈王尚醉臥於乾谿之臺,鄭丹慌忙入報。靈王聞二子被殺,自床上投身於地,放聲大哭。鄭丹曰:「軍心已離,王宜速返!」靈王拭淚言曰:「人之愛其子,亦如寡人否?」鄭丹曰:「鳥獸猶知愛子,何況人也?」靈王嘆曰:「寡人殺人子多矣!人殺吾子,何足怪!」少頃,哨馬報:「新王遣蔡公為大將,同鬥成然率陳蔡二國之兵,殺奔乾谿來了。」靈王大怒曰:「寡人待成然不薄,安敢叛吾?寧一戰而死,不可束手就縛!」遂拔寨都起,自夏口從漢水而上,至於襄州,欲以襲郢。士卒一路奔逃,靈王自拔劍殺數人,猶不能止,比到訾梁,從者纔百人耳。靈王曰:「事不濟矣!」乃解其冠服,懸於岸柳之上。鄭丹曰:「王且至近郊,以察國人之向背何如?」靈王曰:「國人皆叛,何待察乎?」鄭丹曰:「若不然,出奔他國,乞師以自救亦可。」靈王曰:「諸侯誰愛我者?吾聞大福不再,徒自取辱。」鄭丹見不從其計,恐自已獲罪,即與倚相私奔歸楚。靈王不見了鄭丹,手足無措,徘徊於釐澤之間,從人盡散,祇剩單身。腹中饑餒,欲往鄉村覓食,又不識路徑。村人也有曉得是楚王的,因聞逃散的軍士傳說,新王法令甚嚴,那個不怕,各遠遠閃開。靈王一連三日,沒有飲食下咽,餓倒在地,不能行動。單單祇有兩目睜開,看著路傍,專望一識面之人,經過此地,便是救星。忽遇一人前來,認得是舊時守門之吏,比時喚作涓人,名疇。靈王叫道:「疇,可救我!」涓人疇見是靈王呼喚,只得上前叩頭。靈王曰:「寡人餓三日矣!汝為寡人覓一盂飯,尚延寡人呼吸之命。」疇曰:「百姓皆懼新王之令,臣何從得食?」靈王嘆氣一口,命疇近身而坐,以頭枕其股,且安息片時。疇候靈王睡去,取土塊為枕以代股,遂奔逃去訖。靈王醒來,喚疇不應,摸所枕,乃土塊也。不覺呼天痛哭,有聲無氣。須臾,又有一人乘小車而至,認得靈王聲音,下車視之,果是靈王。乃拜倒在地,問曰:「大王為何到此地位?」靈王流淚滿面,問曰「卿何人也」其人奏曰:「臣姓申名亥,乃芋尹申無宇之子也。臣父兩次得罪於吾王,王赦不誅。臣父往歲臨終囑臣曰:『吾受王兩次不殺之恩,他日王若有難,汝必捨命相從!』臣牢記在心,不敢有忘。近傳聞郢都已破,子干自立,星夜奔至乾谿,不見吾王,一路追尋到此,不期天遣相逢。今遍地皆蔡公之黨,王不可他適。臣家在棘村,離此不遠,王可暫至臣家,再作商議。」乃以乾糒跪進,靈王勉強下咽,稍能起立。申亥扶之上車,至於棘村。靈王平昔住的是章華之臺,崇宮邃室,今日觀看申亥農莊之家,篳門蓬戶,低頭而入,好生淒涼,淚流不止。申亥跪曰:「吾王請寬心。此處幽僻,無行人來往,暫住數日,打聽國中事情,再作進退。」靈王悲不能語。申亥又跪進飲食,靈王祇是啼哭,全不沾唇。亥乃使其親生二女侍寢,以悅靈王之意。王衣不解帶,一夜悲嘆,至五更時分,不聞悲聲。二女啟門報其父曰:「王已自縊於寢所矣。」胡曾先生詠史詩曰:

    茫茫衰草沒章華,因笑靈王昔好奢。臺土未乾簫管絕,可憐身死野人家。

申亥聞靈王之死,不勝悲慟,乃親自殯殮,殺其二女以殉葬焉。後人論申亥感靈王之恩,葬之是矣,以二女殉,不亦過乎?有詩嘆曰:

    章華霸業已沉淪,二女何辜伴穸窀,堪恨暴君身死後,餘殃猶自及閨人。

  時蔡公引著鬥成然、朝吳、夏齧眾將,追靈王於乾谿。半路遇著鄭丹倚相二人,述楚王如此恁般﹍﹍「今侍衛俱散,獨身求死,某不忍見,是以去之。」蔡公曰:「汝今何往?」二人曰:「欲還國中耳。」蔡公曰:「公等且住我軍中,同訪楚王下落,然後同歸可也。」蔡公引大軍尋訪,及於訾梁,並無蹤跡。有村人知是蔡公,以楚王冠服來獻,言:「三日前,於岸柳上得之。」蔡公問曰:「汝知王生死否?」村人曰:「不知。」蔡公收其冠服,重賞之而去。蔡公更欲追尋,朝吳進曰:「楚王去其衣冠,勢窮力敝,多分死於溝渠,不足再究。但子干在位,若發號施令,收拾民心,不可圖矣。」蔡公曰:「然則若何?」朝吳曰:「楚王在外,國人未知下落,乘此人心未定之時,使數十小卒,假稱敗兵,繞城相呼,言:『楚王大兵將到!』再令鬥成然歸報子干,如此如此。子干子晳,皆懦弱無謀之輩,一聞此信,必驚惶自盡。明公徐徐整旅而歸,穩坐寶位,高枕無憂,豈不美哉?」蔡公然之。乃遣觀從引小卒百餘人,詐作敗兵,奔回郢都,繞城而走,呼曰:「蔡公兵敗被殺,楚王大兵,隨後便至!」國人信以為實,莫不驚駭。須臾,鬥成然至,所言相同。國人益信,皆上城瞭望。成然奔告子干,言:「楚王甚怒,來討君擅立之罪,欲如蔡般齊慶封故事。君須早自為計,免致受辱,臣亦逃命去矣。」言訖,奔狂而出。子干乃召子晳言之,子晳曰:「此朝吳誤我也。」兄弟相抱而哭。宮外又傳:「楚王兵已入城!」子晳先拔佩劍,刎其喉而死。子干慌迫,亦取劍自剄。宮中大亂,宦官宮女,相驚自殺者,橫於宮掖,號哭之聲不絕。鬥成然引眾復入,掃除屍首,率百官迎接蔡公。國人不知,尚疑來者是靈王﹔及入城,乃蔡公也,方悟前後報信,皆出蔡公之計。蔡公既入城,即位,改名熊居,是為平王。昔年共王曾禱於神,當璧而拜者為君,至是果驗矣。國人尚未知靈王已死,人情洶洶,嘗中夜訛傳王到,男女皆驚起,開門外探。平王患之,乃密與觀從謀,使於漢水之傍,取死屍加以靈王冠服,從上流放至下流,詐云已得楚王屍首,殯於訾梁,歸報平王。平王使鬥成然往營葬事,謚曰靈王。然後出榜安慰國人,人心始定。後三年,平王復訪求靈王之屍,申亥以葬處告,乃遷葬焉。此是後話。

  卻說司馬督等圍徐,久而無功,懼為靈王所誅,不敢歸,陰與徐通,列營相守。聞靈王兵潰被殺,乃解圍班師。行至豫章,吳公子光,率師要擊,敗之,司馬督與三百乘悉為吳所獲。光乘勝取楚州來之邑。此皆靈王無道之所致也。

  再說楚平王安集楚眾,以公子之禮,葬子干子晳。錄功用賢,以鬥成然為令尹,陽匄子字子瑕,為左尹。念薳掩伯州犁之冤死,乃以犁子郤宛為右尹,掩弟薳射薳越俱為大夫。朝吳、夏齧、蔡洧俱拜下大夫之職。以公子魴敢戰,使為司馬。時伍舉已卒,平王嘉其生前有直諫之美,封其子伍奢於連,號曰連公。奢子尚亦封於棠,為棠宰,號曰棠君。其他薳啟疆鄭丹等一班舊臣,官職如故。欲官觀從,從言其先人開卜:「願為卜尹。」平王從之。群臣謝恩,朝吳與蔡洧獨不謝,欲辭官而去。平王問之,二人奏曰:「本輔吾王興師襲楚,欲復蔡國,今王大位已定,而蔡之宗祀,未沾血食,臣何面目立於王之朝乎?昔靈王以貪功兼并,致失人心,王反其所為,方能令人心悅服。欲反其所為,莫如復陳蔡之祀。」平王曰:「善。」乃使人訪求陳蔡之後,得陳世子偃師之子名吳,蔡世子有之子名廬,乃命太史擇吉,封吳為陳侯,是為陳惠公,廬為蔡侯,是為蔡平公,歸國奉宗祀。朝吳蔡洧隨蔡平公歸蔡,夏齧隨陳惠公歸陳。所率陳蔡之眾,各從其主,厚加犒勞。前番靈王擄掠二國重器貨寶,藏於楚庫者,悉給還之。其所遷荊山六小國,悉令還歸故土,秋毫無犯。各國君臣上下,歡聲若雷,如枯木之再榮,朽骨之復活。此周景王十六年事也。髯翁有詩云:

    枉竭民脂建二城,留將後主作人情。早知故物仍還主,何苦當時受惡名。

  平王長子名建,字子木,乃蔡國鄖陽封人之女所生,時年已長,乃立為世子,使連尹伍奢為太師。有楚人費無極,素事平王,善於貢諛,平王寵之,任為大夫。無極請事世子,乃以為少師。以奮揚為東宮司馬。平王既即位,四境安謐,頗事聲色之樂。吳取州來,王不能報。無極雖為世子少師,日在平王左右,從於淫樂。世子建惡其諂佞,頗疏遠之。令尹鬥成然恃功專恣,無極譖而殺之,以陽匄為令尹。世子建每言成然之冤,無極心懷畏懼,由是陰與世子建有隙。無極又薦鄢將師於平王,使為右領,亦有寵。這段情節,且暫擱起。

  話分兩頭。再說晉自築虒祈宮之後,諸侯窺其志在苟安,皆有貳心。昭公新立,欲修復先人之業,聞齊侯遣晏嬰如楚修聘,亦使人徵朝於齊。齊景公見晉楚多事,亦有意乘間圖伯,欲觀晉昭公之為人,乃裝束如晉,以勇士古冶子從行。方渡黃河,其左驂之馬,乃景公所最愛者,即令圉人於從舟取至,繫于船頭,親督圉人飼料。忽大雨驟至,波濤洶湧,舟船將覆。有大黿舒頭於水面,張開巨口,搶向船頭,銜左驂之馬,入於深淵。景公大驚。古冶子在側,言曰:「君勿懼也,臣請為君索之。」乃解衣裸體,拔劍躍於水中,凌波踢浪而去。載沉載浮,順流九里,望之無跡。景公嘆曰:「冶子死矣!」少頃,風浪頓息,但見水面流紅。古冶子左手挽驂馬之尾,右手提血瀝瀝一顆黿頭,浴波而出。景公大駭曰:「真神勇也!先君徒設勇爵,焉有勇士如此哉!。」遂厚賞之。

  既至絳州,見了晉昭公,昭公設宴享之。晉國是荀吳相禮,齊國是晏嬰相禮。酒酣,晉侯曰:「筵中無以為樂,請為君侯投壺賭酒。」景公曰:「善。」左右設壺進矢,齊侯拱手讓晉侯先投。晉侯舉矢在手,荀吳進辭曰:「有酒如淮,有肉如坻。寡君中此,為諸侯師。」晉侯投矢,果中中壺,將餘矢棄擲於地。晉臣皆伏地稱「千歲。」齊侯意殊不懌,舉矢亦效其語曰:「有酒如澠,有肉如陵。寡人中此,與君代興。」撲的投去,恰在中壺,與晉矢相並,齊侯大笑,亦棄餘矢。晏嬰亦伏地呼「千歲!」晉侯勃然變色。荀吳謂齊景公曰:「君失言矣!今日辱貺敝邑,正以寡君世主夏盟之故。君曰『代興』,是何言也!」晏嬰代答曰:「盟無常主,惟有德者居焉。昔齊失霸業,晉方代之。若晉有德,誰敢不服?如其無德,吳楚亦將迭進,豈惟敝邑!」羊舌肹曰:「晉已師諸侯矣,安用壺矢?此乃荀伯之失言也!」荀吳自知其誤,嘿然不語。齊臣古治子立於階下,厲聲曰:「日昃君勞,可辭席矣!」齊侯即遜謝而出,次日遂行。羊舌肹曰:「諸侯將有離心,不以威脅之,必失霸業。」晉侯以為然。乃大閱甲兵之數,總計有四千乘,甲士三十萬人。羊舌肹曰:「德雖不足,而眾可用也。」於是先遣使如周,請王臣降臨為重,因遍請諸侯,約以秋七月俱集平邱相會。諸侯聞有王臣在會,無敢不赴者。

  至期,晉昭公留韓起守國,率荀吳、魏舒、羊舌肹、羊舌鮒、籍談、梁丙、張骼、智躒等,盡起四千乘之眾,望濮陽城進發。連絡三十餘營,遍衛地皆晉兵。周卿士劉獻公摯先到。齊、宋、魯、衛、鄭、曹、莒、邾、滕、薛、杞、小邾十二路諸侯畢集,見晉師眾盛,人人皆有懼色。既會,羊舌肹捧盤盂進曰:「先臣趙武,誤從弭兵之約,與楚通好。楚虔無信,自取隕滅。今寡君欲效踐土故事,徼惠於天子,以鎮撫諸夏,請諸君同歃為信!」諸侯皆俯首曰:「敢不聽命!」惟齊景公不應。羊舌肹曰:「齊侯豈不願盟耶?」景公曰:「諸侯不服,是以尋盟﹔若皆用命,何以盟為?」羊舌肹曰:「踐土之盟,不服者何國?君若不從,寡君惟是甲車四千乘,願請罪於城下。」說猶未畢,壇上鳴鼓,各營俱建起大旆。景公慮其見襲,乃改辭謝曰:「大國既以盟不可廢,寡人敢自外耶?」於是晉侯先歃,齊宋以下相繼。劉摯王臣,不使與盟,但監臨其事而已。邾莒以魯國屢屢侵伐,訴於晉侯。晉侯辭魯昭公於會,執其上卿季孫意如,閉之幕中。子服惠伯私謂荀吳曰:「魯地十倍邾莒,晉若棄之,將改事齊楚,於晉何益?且楚滅陳蔡不救,而復棄兄弟之國乎?」荀吳然其言,以告韓起。起言於晉侯,乃縱意如奔歸。自是諸侯益不直晉,晉不復能主盟矣。史臣有詩嘆云:

    侈心效楚築虒祁,列國離心復示威﹔壺矢有靈侯統散,山河如故事全非!

要知後事如何,且看下回分解。

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