東周列國志第七十三回 伍員、簫を吹いて呉の市で乞う/専諸、炙を進めて王僚を刺す (伍員吹簫乞吳市 專諸進炙刺王僚)

漁丈人の自沈

  • 話は変わって、漁丈人はすでに伍員を渡し、さらに食べ物まで与えたが、その剣は受け取らなかった。伍員は去ってからまた戻り、丈人に事の秘密を守ってくれるよう求め、追っ手を招き寄せることを恐れ、その厚意に背くことになりはしないかと案じたのであった。
  • 漁翁は天を仰いで嘆き「私はあなたに恩を施したのに、あなたはなおも私を疑われる。もし追っ手が別の場所から渡って来たら、私はどうして自分の潔白を証すことができようか。一死をもってあなたの疑いを絶とう」と言った。
  • 言い終えると綱を解いて舟を出し、舵を抜き櫂を放り、舟底をひっくり返して、江の真ん中に身を沈めた。史臣に詩がある。
  • (詩:数年にわたり名を隠して釣り糸を垂れていた者が、小舟をもって楚の亡臣を渡した、あなたの後顧の憂いを絶つために自ら死を甘んじて受け入れ、千古に名を伝える漁丈人となった、という趣旨)
  • 今も武昌の東北、通淮門の外に解剣亭というものがあるが、これはかつて子胥が剣を解いて漁父に贈った場所である。
  • 伍員は漁丈人が自ら身を沈めたのを見て、「私はあなたを得て生き延び、あなたは私のために死んだ。なんと哀れなことか」と嘆いた。

溧陽の浣紗女

  • 伍員は芈勝とともに呉の国境に入った。溧陽まで来ると、飢えて食を乞うた。
  • ちょうど瀬水のほとりで紗を洗っている女に出会った。籠には飯があった。
  • 伍員は足を止めて「奥方、一食を分けていただけませんか」と尋ねた。
  • 女はうつむいて「妾は母と二人だけで暮らし、三十になっても嫁いでおりません。どうして旅の方に食事を差し上げたりできましょうか」と答えた。
  • 伍員は「私は窮地にあり、一飯を乞うて命をつなぎたいのです。奥方が施しの徳を行われることに、何の差し支えがありましょうか」と言った。
  • 女は伍員の姿を見て、その堂々たる様子から、ただ者ではないと思い「妾があなたの姿を拝見しますに、常人とは思えません。妾がどうしてわずかな遠慮のために、困窮しておられるのを見過ごしていられましょうか」と言った。
  • そこで籠を開け、椀に漿を取り、ひざまずいて差し出した。子胥と勝は一食を摂って止めた。
  • 女は「あなたは遠くへ旅されるご様子です。どうして満足に召し上がらないのですか」と言った。二人はさらに食べ、器を空にした。
  • 出立にあたり、伍員は女に「奥方の命の恩、この胸に深く刻みます。私は実は逃亡中の身です。もし他の人に出会っても、どうかこのことをお話しにならないでください」と言った。
  • 女は物悲しく嘆いて「ああ、妾は寡母に仕え、三十になってもまだ嫁がず、貞節を守ることを自らに誓ってきました。それが何としたことか、食事を施したばかりに、男性と言葉を交わすことになろうとは。義を破り節を汚してしまっては、どうして人として立てましょうか。あなたはもう行きなさい」と言った。
  • 伍員は別れて数歩行き、振り返ってみると、この女は大きな石を抱いて、瀬水に身を投げて死んでいた。後世の人は讃を残している。
  • (讃:溧水の岸辺、紗を打つ女、ひたすら母の食事を治め、男とは言葉を交わさなかった、この旅人を哀れみ、籠を開いて食を施した、旅人の腹は満ちたが、我が節は損なわれた、この身を捨てて貞節の規範を保ち、瀬の流れは絶えず、この人の名は千古に伝わる、という趣旨)
  • 伍員は女が水に身を投げたのを見て、深く心を痛め、指を噛み切って血を流し、石の上に二十字の血書を書いた。曰く。
  • (血書:そなたは紗を洗い、我は食を乞う、我が腹は満ち、そなたの身は溺れた、十年の後、必ず千金をもって恩に報いよう、という趣旨)
  • 伍員は書き終えると、後世の人に見られることを恐れ、土をかぶせてこれを覆った。

専諸との義兄弟の契り

  • 溧陽を過ぎ、さらに三百余里を行くと、呉趨という地に至った。
  • そこで一人の壮士に出会った。額は突き出て目は落ちくぼみ、姿は飢えた虎のようで、声は雷のようであった。ちょうど一人の大男と殴り合いをしており、周りの人々が懸命に諫めて止めようとしたが、やめなかった。
  • 門内から一人の婦人が「専諸、いけません」と呼ぶ声がした。すると当の男は畏れる様子を見せ、たちまち手を収めて家に戻った。
  • 員はこれを深く怪しみ、傍らの人に「これほどの壮士が、なぜ婦人を畏れているのか」と尋ねた。
  • 傍らの人は「これは我が郷里の勇士で、力は万人に匹敵し、権勢を笠に着て横暴を働く者にも臆せず、平生から義を好み、人が不平な目に遭うのを見れば、すぐに死力を尽くしてこれを助けます。先ほど門内で呼んだのは、彼の母です。呼ばれた専諸とは、まさにこの人の姓名です。もとより孝行者で、母には決して逆らわず、たとえ激怒していても、母が来ると聞けばすぐにやめるのです」と告げた。
  • 員は「これはまことの烈士である」と感嘆した。
  • 翌日、衣服を整えて専諸を訪ねた。専諸は出迎え、その来歴を尋ねた。員は姓名の一切と、冤罪を被った経緯を語った。
  • 専諸は「あなたはこれほどの大きな冤罪を負っていながら、なぜ呉王に拝謁して兵を借り、仇を報じようとされないのですか」と言った。
  • 員は「まだ私を引き立ててくれる人がいないので、あえて自ら売り込むことができません」と答えた。
  • 専諸は「あなたの言われる通りです。今日わざわざこの粗末な住まいをお訪ねくださったのは、何かお話がございますか」と尋ねた。
  • 員は「あなたの孝行を敬い、交わりを結びたいと願っております」と言った。
  • 専諸は大いに喜び、母にこのことを告げ、そのまま伍員と八拝の交わりを結んだ。員は諸より二歳年上であったので、諸は員を兄と呼んだ。
  • 員は専諸の母への拝謁を願い出た。専諸はさらに妻子を伴って対面させ、鶏を殺して食事をこしらえ、実の骨肉のごとく歓待した。員と勝の二人はこうして一夜を過ごした。
  • 翌朝、員は専諸に「私はこれより弟に別れを告げて都へ入り、何か機会を得て呉王にお仕えしたいと思う」と言った。
  • 専諸は「呉王は勇を好んで驕っております。それより公子光のほうが賢を親しみ士に下る方なので、将来必ず成すところがありましょう」と言った。
  • 員は「弟の教えを心に留めます。いつか弟の力を借りることがあれば、決してお断りにならないでください」と言った。専諸は承諾した。
  • 三人はここで別れた。

呉市での吹簫乞食

  • 員と勝はともに前へ進み、梅里に至った。城郭は狭く低く、朝廷と市場はやっと形をなしている程度であった。舟や車が行き交い、頼る人とてなく、そこで芈勝を郊外に隠し、自らは髪を振り乱して狂者を装い、裸足で顔に泥を塗り、手には斑竹の簫を一本携えて、市中でこれを吹きながら、往来して食を乞うた。
  • その簫の曲の一節目にはこうあった。
  • (簫の曲一:伍子胥よ、伍子胥よ、宋鄭の地を身の寄る辺もなく渡り歩き、幾多の辛苦と悲しみを重ねてきた、父の仇を報いなければ、どうして生きていられようか、という趣旨)
  • 二節目にはこうあった。
  • (簫の曲二:伍子胥よ、伍子胥よ、昭関を一度過ぎてひげも眉も変わり果てた、幾多の驚きと恐れと悲しみを重ねてきた、兄の仇を報いなければ、どうして生きていられようか、という趣旨)
  • 三節目にはこうあった。
  • (簫の曲三:伍子胥よ、伍子胥よ、蘆花の渡し場から溧陽の渓谷を越え、幾多の生死をくぐり抜けて呉の果てに至った、簫を吹いて食を乞い悲しみを重ねてきた、我が身の仇を報いなければ、どうして生きていられようか、という趣旨)
  • 市の人々の中には、彼が誰であるか気づく者はいなかった。(時に周の景王二十五年、呉王僚の七年である。)

公子光の不服と被離の推挙、伍員の大夫任官

  • さて呉の公子姫光は、呉王諸樊の子である。諸樊が薨じたとき、光は本来跡を継ぐべきであったが、諸樊が父の遺命を守り、順に位を伝えて季札に及ぼそうとしたため、余祭・夷昧が順々に相継いで立った。
  • 夷昧が薨じた後、季札は国を受けなかったので、本来なら諸樊の子を立てるべきであったが、王僚は貪欲にも譲らず、自ら王に立った。
  • 公子光は心中これを服さず、ひそかに僚を殺す志を抱いていたが、群臣は皆僚の党であり、共に謀る者がいなかったため、内心に堪え忍んでいた。
  • そこで人相見の被離を求め、呉市の吏に推挙し、豪傑を訪ね招くよう命じ、自らの助けとしようとした。
  • ある日、伍員が簫を吹いて呉市を過ぎた。被離は簫の音がひどく哀切なのを聞き、もう一度耳を傾けて、その音を聞き分けた。
  • 出て員に会うと、大いに驚き「私は多くの人相を見てきたが、これほどの相貌はまだ見たことがない」と言った。
  • そこで会釈して迎え入れ、上座に招いた。伍員は謙遜してあえて座らなかった。
  • 被離は「私は楚が忠臣伍奢を殺し、その子子胥が外国に出奔したと聞いている。あなたはもしやその人ではないか」と言った。
  • 員は身をすくめて答えなかった。被離はさらに「私はあなたに禍をもたらす者ではない。あなたの姿かたちが尋常でないことを見て、あなたのために富貴の地を求めてやりたいと思っているだけだ」と言った。
  • 伍員はそこで事の真相を語った。すでに侍者がこの事を知り、王僚に報告していた。
  • 僚は被離を召し、員を連れて謁見させた。被離は一方で人を遣わして姫光に密かに知らせ、一方で伍員を沐浴させ着替えさせて、共に朝廷に入り、王僚に拝謁させた。
  • 王僚はその姿を奇異に思い、語り合ってその賢を知り、すぐに大夫の職に任じた。
  • 翌日、員は謝礼のため入朝し、父兄の冤罪のことに及んで歯ぎしりし、目からは火が出るほどであった。王僚はその気概を壮とし、心を動かされて憐れみ、伍員のために軍を起こして仇を報じてやろうと約束した。

姫光の諫止と伍員の辞任、専諸を得ての刺殺の密謀

  • 姫光は日頃から伍員の智勇の噂を聞いており、彼を召し抱えようとする心があった。伍員が先に王僚に謁見したことを聞くと、僚に重用されることを恐れ、内心わずかに不快であった。
  • そこで王僚に会いに行き「私は楚の亡臣伍員が我が国に亡命してきたと聞きました。王はどのような人物とお思いですか」と尋ねた。
  • 僚は「賢にしてまた孝である」と言った。
  • 光は「どうしてそう分かるのですか」と尋ねた。
  • 僚は「勇壮なることは尋常でなく、私と国事を策謀すれば、いずれも適切に的中する。これがその賢たるゆえんである。父兄の冤罪を片時も忘れず、私に兵を乞うている。これがその孝たるゆえんである」と言った。
  • 光は「王は仇を報じることをお許しになったのですか」と尋ねた。
  • 僚は「私はその事情を憐れみ、すでに許した」と言った。
  • 光は諫めて「万乗の主たる者は、匹夫のために兵を興すものではありません。今、呉楚は久しく兵を交えていますが、大きな勝利は得ておりません。もし子胥のために軍を起こせば、それは匹夫の恨みを国の恥辱より重んじることになりましょう。勝てばあれは自分の恨みを晴らして快とし、勝てなければこちらの恥辱を増すだけです。断じて許してはなりません」と言った。
  • 王僚はもっともだと思い、楚討伐の議を取りやめた。
  • 伍員は光がこれを諫めたことを聞いて「光には今、内なる志があるのだ。まだ外のことを説くべきではない」と言い、大夫の職を辞退して受けなかった。
  • 光はさらに王僚に「子胥は王が軍を起こすことを許さなかったことで、辞職して受けようとしません。怨望の心があります。用いるべきではありません」と言った。
  • 僚はそこで伍員を疎んじ、その辞職を許したが、陽山の田百畝を賜った。員と勝はそこで陽山の野で耕作した。
  • 姫光は密かにそこを訪ね、米粟や布帛を贈って「あなたは呉楚の境を出入りされ、これまで才勇の士に出会われたことがおありでしょう、子胥のような人物に」と尋ねた。
  • 員は「私などは取るに足りません。私が見たところでは、専諸という者がおります。真の勇士です」と答えた。
  • 光は「子胥を通じて専先生と交わりを結びたいものだ」と言った。
  • 員は「専諸はここから遠くありません。すぐに呼び寄せましょう。明朝には謁見させることができましょう」と言った。
  • 光は「才勇の士であるなら、私が自ら訪ねて参りましょう。どうして呼びつけたりできましょうか」と言い、伍員とともに同じ車に乗って、そのまま専諸の家へ赴いた。
  • 専諸はちょうど街角で刀を研ぎ、豚を屠って生業としているところで、車馬が入り乱れて来るのを見て、逃げ避けようとした。
  • 伍員は車上から「愚兄がここにいる」と呼びかけた。専諸は慌てて刀を止め、伍員を待って出迎えた。
  • 員は公子光を指して「これは呉国の長公子で、弟の英雄ぶりを慕われ、わざわざ訪ねてこられたのだ。弟よ、辞退してはならない」と言った。
  • 専諸は「私は市井の小民、どれほどの徳や才があってか、お車を煩わせましょうか」と言い、公子光に会釈して招き入れた。
  • 柴の門に蓬の戸という粗末な住まいで、頭を垂れねば入れぬほどであり、身をかがめて中に入った。公子光がまず拝礼し、日頃から慕っていた心を伝えた。専諸も答礼した。
  • 光は金や絹を贈り物として捧げ、専諸は固辞したが、伍員が傍らから強く勧め、ようやく受け取った。
  • これより専諸は公子光の門下に入った。光は人を遣わして日々粟や肉を贈らせ、月々布帛を給し、また折に触れて母を見舞わせた。専諸はその厚意に深く感じ入った。
  • ある日、専諸は光に「私は村の卑しい者にすぎませんが、公子の飼い育ての恩を受け、報いる術がありません。もし何かお申し付けがあれば、命に従うのみです」と言った。
  • 光は左右を退け、王僚を刺そうという意図を語った。
  • 専諸は「前王夷昧が亡くなり、その子が本来自ら立つべきところ、公子はどのような名目で害そうとされるのですか」と言った。
  • 光は祖父の代からの、順に伝えるという遺命の子細を語り「季札はすでに辞退した以上、当然嫡長の子孫に返るべきだ。嫡長の後というのは、すなわち私自身のことである。僚がどうして君主となれようか。私は力が弱く、大事を成すには足りない。それゆえ力ある者の助けを借りようとしているのだ」と言った。
  • 専諸は「なぜ近臣にそれとなく王の側で申し上げさせ、先王の遺命を述べて退位を促さないのですか。どうして密かに剣士を備えて、先王の徳を傷つけることまでなさる必要があるのですか」と言った。
  • 光は「僚は貪欲で武力を頼みにしており、進むことの利は知っているが、退き譲ることを知らぬ者だ。もし言葉で説けば、かえって忌み嫌われて害を招くことになる。私と僚とは並び立つことができない仲なのだ」と言った。
  • 専諸は奮然として「公子の仰せはもっともです。ただ諸には老母が家におります。まだあえて命をお約束することができません」と言った。
  • 光は「私もお前の母が老い、子が幼いことは承知している。しかしお前でなければ共に事を図る者はいない。もし事が成れば、お前の母子は私の母子と同じである。心を尽くして養育しよう。どうしてお前に背けようか」と言った。
  • 専諸はしばらく思案した後「凡そ事は軽々しく行っては功を成せません。必ず万全を図らねばなりません。魚が千仞の淵にいながら漁師の手に落ちるのは、香りのよい餌があるからです。王僚を刺すには、まず王の好むものに投じ、その身に近づかねばなりません。王が好むものは何でしょうか」と尋ねた。
  • 光は「味を好む」と言った。
  • 専諸は「味の中では何が最も美味しいとお思いですか」と尋ねた。
  • 光は「ことに炙り魚を好む」と言った。
  • 専諸は「しばらくお暇をいただきたい」と言った。公子光が「壮士はどこへ行かれるのか」と尋ねると、専諸は「私はしばらく味付けを学び、それをもって呉王に近づこうと思います」と言い、太湖へ赴いて魚を炙る術を学んだ。
  • 凡そ三月かけて、その炙り魚を食した者は皆、美味であると称賛した。そうしてから再び姫光のもとへ戻り、光は専諸をその邸に匿った。髯翁に詩がある。
  • (詩:剛直な人として世に伍子胥を推すが、専諸を推挙したのもへつらいのゆえであった、弑逆の器がどこから起こったかと問えば、三月にわたり湖辺で魚を炙る術を学んだことに始まる、という趣旨)
  • 姫光は伍子胥を召して「専諸はすでにその味付けの術を極めた。どうすれば呉王に近づけようか」と尋ねた。
  • 員は「そもそも鴻鵠が制しがたいのは、その羽翼があるからです。鴻鵠を制するには、まずその羽翼を除かなければなりません。私は公子慶忌が筋骨は鉄のごとく、万夫も敵し得ず、手は飛ぶ鳥を捕らえ、足は猛獣を仕留めるほどであると聞いております。王僚は慶忌という一人がいて、朝夕付き従っておりますから、なお手を出すのは難しいものです。まして母を同じくする弟の掩余・燭庸がともに兵権を握っております。たとえ公子に竜を捕らえ虎と搏つほどの勇と、鬼神にも測れぬほどの謀があったとしても、どうして事を成し遂げられましょうか。公子が王僚を除こうとされるなら、まずこの三人を除かねばなりません。しかる後にはじめて大位を図ることができましょう。そうでなければ、たとえ幸いにして事が成っても、公子は安んじて位に留まれましょうか」と言った。
  • 光はしばし思案し、はっと悟って「あなたの言葉はもっともだ。まずお前の田に帰るがよい。つけ入るべき隙ができたら、また相談しよう」と言った。員はこれで辞去した。

周王室の内乱(挿話)

  • この年、周の景王が崩じた。嫡出の世子は猛といい、次子は匄といい、長子で庶出の子は朝といった。景王は朝を寵愛し、大夫賓孟に世子の位を変えて立てるよう託していたが、まだ実行しないうちに崩じた。
  • 劉献公摯もまた亡くなり、子の劉卷、字は伯蚡が跡を継いだ。もとより賓孟とは不仲であったので、単穆公旗とともに賓孟を殺し、世子猛を立てた。これが悼王である。
  • 尹文公固、甘平公鰌、召莊公奐は、もとより子朝に与しており、三家は兵を合わせ、上将南宮極にこれを率いさせて劉卷を攻めた。卷は揚へ出奔し、単旗は王猛を奉じて皇に軍を止めて駐屯した。
  • 子朝はその党の鄩肹に皇を攻めさせたが、肹は敗れて死んだ。
  • 晋の頃公は王室の大乱を聞き、大夫籍談・荀躒に軍を率いさせ、王を王城に納れさせた。尹固もまた子朝を京に立てた。
  • まもなく王猛が病没し、単旗と劉卷は再びその弟匄を立てた。これが敬王で、翟泉に居した。
  • 周人は匄を東王と呼び、朝を西王と呼んだ。二王は互いに攻め合い、六年にわたり決着がつかなかった。
  • 召莊公奐が卒し、南宮極は雷に打たれて死に、人心は騒然として恐れおののいた。
  • 晋の大夫荀躒はさらに諸侯の軍を率い、敬王を成周に納れ、尹固を捕らえ、子朝の軍は潰えた。
  • 召奐の子嚚は逆に子朝を攻め、朝は楚へ出奔した。諸侯はそこで成周に城を築いて帰った。
  • 敬王は召嚚が心を翻したとして、尹固とともに市で斬った。周人はこれを痛快とした。これは後の話である。

太子建の母の救出と雞父の戦い

  • さて周の敬王の即位元年は、呉王僚の八年に当たる。当時、楚の故太子建の母は鄖にいたが、費無極は彼女が伍員の内応となることを恐れ、平王に彼女を誅すよう勧めた。
  • 建の母はこれを聞き、密かに人を遣わして呉に救いを求めた。
  • 呉王僚は公子光を遣わして鄖より建の母を迎え取らせようとしたが、行軍が鐘離に至ったとき、楚の将薳越が軍を率いてこれを拒んだので、郢都に急を告げた。
  • 平王は令尹陽匄を大将に拝命し、あわせて陳・蔡・胡・沈・許の五国の兵を徴発した。
  • 胡子は名を髡といい、沈子は名を逞といい、二君は自ら兵を率いた。陳は大夫夏齧を遣わし、頓・胡の二国もまた大夫を遣わして助戦させた。
  • 胡・沈・陳の兵は右に陣を張り、頓・許・蔡の兵は左に陣を張り、薳越の大軍は中央に陣取った。
  • 姫光もまた呉王に急を告げた。王僚は公子掩余とともに大軍一万、罪人三千を率いて、雞父に至って陣を敷いた。
  • 両軍がまだ戦端を開かぬうちに、たまたま楚の令尹陽匄が急病で卒し、薳越がその軍勢を代わって統率することになった。
  • 姫光は王僚に「楚は大将を失い、その軍はすでに気を落としております。諸侯が従っているとはいえ、皆小国であり、楚を畏れて来ているにすぎません。胡・沈の君は幼く戦を知らず、陳の夏齧は勇があるが謀に欠けます。頓・許・蔡の三国は長らく楚の使役に苦しめられ、心服しておらず、力を尽くそうとはしません。七国は同じ役に就いていながら心を同じくしていません。楚の将は身分が低く威も足りません。もし先に軍を分けて胡・沈と陳を突けば、必ず先に敗走するでしょう。諸国が乱れれば、楚は必ず恐れおののき、全軍を破ることができましょう。どうか弱く見せかけて誘い出し、精鋭をその後ろに後詰めとして控えさせるべきです」と言った。
  • 王僚はその計に従った。三陣を作り、自ら中軍を率い、姫光は左に、公子掩余は右に置き、それぞれ十分に食事を取らせて陣容を整えて待った。
  • まず罪人三千を先に遣わし、楚の右営に乱入させた。時に秋七月晦日、兵家では晦日を忌むため、胡子髡・沈子逞・陳の夏齧は皆備えをしていなかった。
  • 呉兵が到来したと聞くと、陣を開いてこれを撃った。罪人はもとより軍紀がなく、あるいは逃げあるいは止まった。三国は呉兵が散乱するのを見て、互いに功を争って追い立て、まったく隊伍を成さなかった。
  • 姫光は左軍を率いて混乱に乗じて攻め込み、ちょうど夏齧に遭遇し、戟のひと突きで突き殺して馬から落とした。胡・沈の二君は心が乱れ、逃げ道を求めた。
  • 公子掩余の右軍もまた到着し、二君は飛ぶ鳥が網に入るように、逃れる所もなく、皆呉軍に捕らえられた。
  • 兵士の死者は数知れず、生け捕りにした武装兵は八百余人に及んだ。姫光は胡・沈の二君の斬首を命じた。
  • そしてその武装兵を放ち、楚の左軍に「胡・沈の二君と陳の大夫は皆殺されました」と伝えさせた。
  • 許・蔡・頓の三国の将士はこれを聞いて肝を冷やし、戦おうとせず、それぞれ逃げ道を探した。
  • 王僚は左右の二軍を合わせ、泰山が倒れかかるように押し寄せた。中軍の薳越はまだ陣形を整えきれず、兵士の大半は散り散りになった。
  • 呉兵はさらに追撃し、屍は野に横たわり血は渠のように流れた。薳越は大敗し、五十里逃げてようやく脱した。
  • 姫光は直ちに鄖陽に入り、楚の夫人を迎え取って帰った。蔡人はあえて抵抗しなかった。
  • 薳越は敗残の兵を収め、わずか半分ほどしか残らなかった。姫光が単独の軍で鄖陽に赴き楚の夫人を取ったと聞き、夜を徹して駆けつけたが、楚軍が蔡に着いた時には、呉兵はすでに鄖陽を離れて二日が経っていた。
  • 薳越は追いつけないと悟り、天を仰いで「私は関を守る命を受けながら、逃亡した臣を捕らえることができなかった。これは無功である。しかも七国の軍を失い、さらに君の夫人まで失った。これは有罪である。功一つもなく二つの罪を負う。どうして再び楚王にお目にかかることができようか」と嘆き、自ら首をくくって死んだ。
  • 楚の平王は呉軍の勢いが盛んなことを聞き、心中大いに恐れ、囊瓦を用いて令尹とし、陽匄に代えた。
  • 瓦は郢城が低く狭いことを理由に、その東に地を開いて大城を築くことを提案し、旧城より七尺高く、周囲二十余里の城を築いた。旧城は紀南城と名づけた。紀山の南にあるからである。新城はそのまま郢と名づけ、都をここに移した。
  • さらに西に一城を築き、右腕として、麦城と号した。三城は品の字のような形をなし、互いに連絡して勢いをなし、楚人は皆これを瓦の功とした。
  • 沈尹戍は笑って「子常(囊瓦の字)は徳政に努めず、ただ築城を事とするばかりだ。呉の兵が至れば、たとえ十の郢城があったとて何の役に立とうか」と言った。
  • 囊瓦は雞父の恥を雪ごうとし、大いに舟を整え、水軍を操練した。三月の間に水夫は熟練し、囊瓦は水軍を率いて大江から直ちに呉の境まで迫り、武威を示して帰った。
  • 呉の公子光は楚の軍が国境を犯したと聞き、夜を徹して援軍に赴いたが、境に着いたときには、囊瓦はすでに軍を還していた。
  • 姫光は「楚はまさに武威を示して帰ったばかりで、辺境の者は必ず備えをしていないだろう」と言い、ひそかに軍を進めて巣を襲いこれを滅ぼし、さらに鐘離をも滅ぼして、勝ち鬨を上げて帰った。

楚平王の死と昭王の即位

  • 楚の平王は二つの邑が滅ぼされたことを聞いて大いに驚き、心の病を得て、久しく治らなかった。
  • 敬王四年に至って病はますます篤くなり、囊瓦と公子申を召し、榻の傍らで太子珍のことを託して薨じた。
  • 囊瓦は郤宛と相談して「太子珍はまだ幼く、しかもその母は太子建に聘せられていた女性で、正妃ではありません。子西は年長で善を好みます。年長の者を立てれば名分が順い、善き者を立てれば国は治まりましょう。子西を立てれば、楚は必ずこれを頼りにできましょう」と言った。
  • 郤宛は囊瓦の言葉を公子申に告げた。申は怒り「もし太子を廃すれば、それは君王の穢れた行いを世に明らかにすることになる。太子は秦の出であり、その母はすでに君夫人に立てられている。どうして正統の跡継ぎでないと言えようか。嫡子を捨て大きな援けを失えば、内外ともにこれを憎むであろう。令尹はこの機に乗じて私を陥れようとしているのか、それとも狂気に取り憑かれたのか。二度とこれを言えば、私はきっと殺す」と言った。
  • 囊瓦は恐れ、そこで珍を主として喪を執り行わせ即位させた。名を軫と改めた。これが昭王である。
  • 囊瓦はそのまま令尹に留まり、伯郤宛を左尹、鄢将師を右尹とし、費無極は師として仕えた旧恩によって同じく国政を執った。

楚夫人の帰還と伍員の慨嘆

  • さて鄭定公は呉人が楚夫人を迎え取って帰ったことを聞き、人を遣わして珠玉やかんざし・耳飾りを持たせ、その後を追わせて贈り届け、建を殺したことへの恨みを解こうとした。
  • 楚夫人は呉に到着すると、呉王は西門の外に邸を賜り、芈勝にこれを奉じさせた。
  • 伍員は平王の死を聞くと、胸を打ち大声で泣き、一日中止まなかった。
  • 公子光は怪しんで「楚王はあなたの仇であろう。死を聞けば快とするはずなのに、かえって泣くとはどういうことか」と尋ねた。
  • 員は「私は楚王を泣いているのではない。私が彼の頭を梟首してこの恨みを晴らすことができず、彼を天寿を全うさせてしまったことを恨んでいるのです」と言った。光もまた嘆息した。胡曾先生に詩がある。
  • (詩:父兄の冤恨はまだ報いられていないのに、すでに淫らな狐は自らの死を迎えてしまった、手ずから仇の首を斬って積年の願いを果たすことはできず、悲しみのうちに霜のような鬢にまた秋を重ねる、という趣旨)

乗喪伐楚の計による三翼の出払い

  • 伍員は平王その人に手を下して仇を報いることができなかったことを自ら恨み、三夜続けて眠れず、心中に一計を思いついた。姫光に「公子は大事を行おうとされていますが、まだ乗ずべき機会はございませんか」と言った。
  • 光は「昼夜考えているが、まだ良い機会が得られない」と言った。
  • 員は「今、楚王は亡くなったばかりで、朝廷には良臣もおりません。公子はなぜ呉王に奏上し、楚の喪乱に乗じて南征を発し、覇を図られないのですか」と言った。
  • 光は「もし私を将として遣わされたら、どうしよう」と言った。
  • 員は「公子は誤って車から落ちたと見せかけ足を痛めたと称せられよ。王は必ず遣わされません。そのうえで掩余・燭庸を将として推薦し、さらに公子慶忌を鄭・衛と結ばせて共に楚を攻めさせれば、この一挙で三人の翼を除くことができ、呉王の死もすぐに目の前になりましょう」と言った。
  • 光はさらに「三翼を除いても、延陵季子が朝廷にいて、私の簒奪を見れば、私を許すでしょうか」と尋ねた。
  • 員は「呉晋の誼が今まさに深いこの時、季子を晋への使者に遣わし、中原の隙をうかがわせましょう。呉王は事を大きく見て計に疎いところがあり、必ずこれに従いましょう。彼が遠くに使いして帰る頃には、大位はすでに定まっているでしょうから、どうして廃立の議を再燃できましょうか」と言った。
  • 光は思わず拝礼して「私が子胥を得たのは、まさに天の賜りものだ」と言った。
  • 翌日、光は喪に乗じて楚を伐つ利を王僚に説いた。僚は喜んでこれを聞き入れた。
  • 光は「この事、本来私が効力すべきところですが、車から落ちて足のすねを痛め、ただいま治療中で、労を任じることができません」と言った。
  • 僚は「それではどなたを将とすればよいのか」と尋ねた。
  • 光は「この大事は、最も親しく信頼できる者でなければ託せません。王がご自分でお選びください」と言った。
  • 僚は「掩余・燭庸ではどうか」と尋ねた。光は「それこそ適任者でしょう」と答えた。
  • 光はさらに「これまで晋楚は覇を争ってきましたが、呉はその属国でした。今や晋はすでに衰微し、楚はまた度々敗れ、諸侯は離心し、まだ帰属先が定まっておりません。南北の政は東方に帰そうとしております。もし公子慶忌を遣わして鄭・衛の兵を集めさせ、力を合わせて楚を攻め、延陵季子には晋へ聘問させて中原の隙を観望させ、王は水軍を練習させてその後方に備えられれば、覇業は成るでしょう」と言った。
  • 王僚は大いに喜び、掩余・燭庸に兵を率いて楚を討たせ、季札は晋に聘問させた。ただ慶忌だけは遣わさなかった。

潜邑攻囲と姫光の内謀

  • さて掩余・燭庸は二万の兵を率い、水陸並び進み、楚の潜邑を包囲した。
  • 潜邑の大夫は堅く守って出ず、人を遣わして楚に急を告げた。
  • そのころ楚の昭王は新たに立ったばかりで、君は幼く臣は讒言をなす者ばかりであり、呉兵が潜を囲んだと聞くと、朝廷は皆慌てふためき、なす術がなかった。
  • 公子申が進み出て「呉人は喪に乗じて討伐に来ています。もし兵を出して迎え撃たなければ、弱みを見せることになり、彼らの深く攻め入る心を煽ることになります。私の愚見によれば、速やかに左司馬沈尹戍に陸兵一万を率いさせて潜を救わせ、さらに左尹郤宛に水軍一万を率いさせ、淮汭より流れに沿って下らせ、呉軍の後方を断たせれば、彼らは首尾ともに敵に受けることとなり、呉の将は坐して捕らえることができましょう」と言った。
  • 昭王は大いに喜び、子西の計を用いて二将を遣わし、水陸それぞれの道から分かれて行かせた。
  • さて掩余・燭庸はちょうど潜邑を包囲しているところへ、間者が「救援の兵が来ました」と報告した。
  • 二将は大いに驚き、兵を半分に分けて城を包囲させ続け、残りの半分で迎撃させた。
  • 沈尹戍は自軍の塁壁を固めて決戦を避け、四方に人を遣わして薪や水を汲む道をすべて石で塞がせた。
  • 二将は大いに驚いた。斥候はさらに「楚の将郤宛は水軍を率いて沙汭から江口を塞いでいます」と報告した。
  • 呉兵は進退窮まり、そこで二つの陣営に分かれ、互いに離れて牽制し支え合う態勢をとり、楚の将と対峙し、一方で人を呉へ遣わして救援を求めた。
  • 姫光は「私が先に鄭・衛の兵を徴発しようとしていたのは、まさにこのためだ。今それを遣わしても、まだ遅くはない」と言った。
  • 王僚は慶忌に鄭・衛の兵を糾合させることにした。四公子は皆遠くへ調発され、姫光だけが国内に留まった。

専諸の刺客準備

  • 伍員はそこで光に「公子は鋭利な匕首を探し求めておられましたか。専諸を用いるなら、まさに今がその時です」と言った。
  • 光は「その通りだ。かつて越王允常が歐冶子に剣五枚を鋳らせ、そのうち三枚を呉に献じた。一つは湛廬、二つ目は磐郢、三つ目は魚腸という。魚腸は匕首であり、形は短く狭いが、鉄を泥のように断ち切る。先君はこれを私に賜り、今なお大切にして寝台の枕元に蔵し、非常の備えとしている。この剣は連夜光を発している。思うに神物が自ら試みんとし、王僚の血を飽くまで浴びようとしているのではないか」と言い、剣を取り出して員に見せた。員はしきりに称賛した。
  • 光はすぐに専諸を召してこの剣を渡した。専諸は光が話を切り出すのを待たずに、すでにその意を悟り、慨然として「王は確かに殺すべきです。二人の弟は遠くに出払い、公子季札も使者として国外に出ておりますから、王は孤立しております。私をどうすることもできますまい。ただ生死の際にあっては、自ら勝手には決められません。老母に伺いを立ててから、命を受けさせていただきます」と言った。
  • 専諸は帰って母を見ると、何も言わずに泣いた。
  • 母は「諸よ、なぜそんなに悲しんでいるのか。もしや公子がお前を用いようとしているのか。我が家は皆公子の恩を受けて養われてきた。大恩には必ず報いなければならない。忠と孝は両立できるものではない。お前は急いで行きなさい。私のことは念頭に置くな。お前が人の大事を成し遂げ、名を後世に残せるならば、私は死んでも朽ちることはない」と言った。
  • 専諸はなおも未練を残していた。母は「私は清らかな泉の水を飲みたい。河のほとりで汲んでおいで」と言った。
  • 専諸は命を受けて河へ泉の水を汲みに行ったが、家に戻ると母の姿が堂になかった。妻に尋ねると、妻は「姑上は先ほど疲れたと仰って、戸を閉めて横になられました。お邪魔しないようにと仰せです」と答えた。
  • 専諸は心中怪しみ、窓を開けて中に入ると、老母はすでに寝台の上で自ら首をくくって死んでいた。髯仙に詩がある。
  • (詩:子に名を成させ我が身を惜しまない、進んで孝子を忠臣に変えたのだ、世間の人は皆貪生に惑わされているが、この老婦人の心には及ばない、という趣旨)
  • 専諸は一場の慟哭の後、母を納棺して安置し、西門の外に葬った。
  • 妻に「私は公子の大恩を受けながら、命を投げ出してお仕えするとお約束できなかったのは、老母がいたからだ。今、老母はすでに亡くなった。私は公子の急に赴くつもりだ。私が死んでも、お前と子は必ず公子の恩顧をこうむるであろう。私のことは気にかけるな」と言った。
  • 言い終えると姫光のもとへ行き、母が亡くなったことを告げた。光はいたく心を痛め、しばらく慰めた後、ようやく王僚のことについて話が及んだ。
  • 専諸は「公子はどうして宴を設けて呉王をお招きにならないのですか。王がもし来られれば、事は八九分成就しましょう」と言った。
  • 光はそこで王僚に会いに行き「太湖から料理人が来て、新たに魚の炙り方を学び、その味は非常に美味で、他の炙り物とは異なります。どうか私の粗末な屋敷にお運びいただき、お味見ください」と言った。
  • 王僚は炙り魚を好んでいたので、快く承知し「明日、王兄の屋敷にお伺いしよう。そう大げさになさらぬように」と言った。
  • 光はその夜、あらかじめ甲士を地下室の中に伏せさせ、さらに伍員に密かに決死の士百人を邸外に配置させ呼応させた。こうして大いに酒宴の道具を並べた。

専諸の刺殺と闔閭の即位

  • 翌朝、光は再び王僚を招いた。僚は宮中に入り、母に「公子光が酒を用意して私を招いているが、他に何か企みがあるのではないか」と告げた。
  • 母は「光は日頃から不満げな様子で、常に慚愧と怨恨の色を見せていた。今度の招きは、思うに良い意図ではあるまい。お断りになってはどうか」と言った。
  • 僚は「断れば隙を生じる。厳重に備えをすれば、何を恐れることがあろうか」と言った。
  • そこで獅子の甲を三重に着け、護衛の兵を配置し、王宮より光の家の門に至るまで、街々に人を満たし、絶え間なく連なった。
  • 僚の車が門に着くと、光は迎え入れて拝謁した。席に着くと、光は傍らに侍座した。僚の親戚や側近たちは、堂や階段いっぱいに立ち並んだ。
  • 席に侍る力士百人は、皆長戟を手に持ち利刀を帯び、王の左右を離れなかった。
  • 料理人が料理を献じるたびに、皆庭下で身体検査を受けて着替え、それから膝で這って進み、十余人の力士が剣を握って両側を挟んで進ませた。
  • 料理人は料理を置くと、あえて仰ぎ見ることなく、また膝で這って退出した。
  • 光は杯を捧げて敬意を表し、突然足が痛むふりをして苦しそうな様子を見せ、前へ進んで「私の足の病が起こり、痛みが心髄にまで徹しております。厚い布でしっかり巻けば、痛みが治まります。しばらく王にはお座りいただき、私は足を包んでから戻って参ります」と申し上げた。
  • 僚は「王兄はご自分の都合でどうぞ」と言った。
  • 光は一歩ごとによろけながら、中へ入って密かに地下室へと進んで行った。
  • しばらくして、専諸が炙り魚を献じると告げ、前と同様に身体検査を受けた。誰も知らなかったが、この短い魚腸の剣は、すでに魚の腹の中に隠されていた。
  • 力士は専諸を膝で這わせて王の前まで連れて行った。手で魚を開くと、突然匕首を抜き出し、まっすぐに王僚の胸を突き刺した。手に加えた力はたいへん重く、三重の堅い甲を貫き、背中まで突き抜けた。
  • 王僚は大声で一声叫んで、たちまち息絶えた。
  • 護衛の力士たちは一斉に押し寄せ、刀戟を振るい、専諸を肉塊のように切り刻んだ。堂の中は大混乱となった。
  • 姫光は地下室の中で事が成ったことを知ると、甲士を放って躍り出させ、両者は入り乱れて戦った。
  • 専諸が事を成し遂げたことで、こちらの威勢は十倍にもなり、あちらは王僚がすでに死んだことを知り、勢いは三分だけ減じた。
  • 僚に従う者は半分は殺され、半分は逃げ散った。配置されていた護衛の兵たちも、皆伍員の率いる者たちに殺し散らされた。
  • 姫光は車に乗って朝廷に入り、群臣を集め、王僚が約束に背いて自ら立った罪を国人に明らかに宣布した。「今日の事は光が位を貪ったものではない。実に王僚の不義によるものである。光は暫定的に位を代わって執る。季子が国に帰られたら、必ずこれを奉じよう」と言った。
  • 王僚の遺体は礼をもって収め、納棺して安置した。また専諸を厚く葬り、その子専毅を上卿に封じた。
  • 伍員を行人の職に封じ、客礼をもって遇し臣とはしなかった。市吏の被離は伍員を推挙した功により、大夫の職に昇進した。
  • 財を散じ粟を発して窮民を賑わせたので、国人は安んじた。
  • 姫光は慶忌が国外にいることを気にかけ、足の速い者を遣わしてその帰国の時期を探らせ、自らは大軍を率いて江上に屯し、これを待った。
  • 慶忌は途中で変事を聞くと、すぐさま逃げ去った。姫光は四頭立ての馬車を駆って追ったが、慶忌は車を捨てて走り、その速さは飛ぶがごとくで、馬でも追いつけなかった。
  • 光は矢を一点に集めて一斉に射かけさせたが、慶忌は手で矢を受け止め、一本も命中しなかった。
  • 姫光は慶忌を捕らえることができないと悟り、西の辺境に厳重な備えを命じ、そのまま呉国に帰った。
  • また数日後、季札は晋から帰国し、王僚がすでに死んだことを知ると、直ちにその墓へ赴き、哀悼の礼を執り行った。
  • 姫光は自ら墓所を訪れ、位を譲ろうとして「これは祖父や叔父たちの意向である」と言った。
  • 季札は「そなたが求めて手に入れたものだ。どうして譲る必要があろうか。もし国に祀りが絶えず、民に君主が絶えないのであれば、現に君位に立ち得た者こそ我が君である」と言った。
  • 光は無理強いできず、そのまま呉王の位に即き、自ら闔閭と号した。
  • 季札は臣下の位を守り続けた。(これは周の敬王五年のことである。)
  • 札は国位をめぐって争いが起きたこの一件を恥じ、延陵に隠居し、生涯呉国に入らず、呉のことに関わらなかった。当時の人々はこれを高く評価した。
  • 季札の死に及んで、延陵に葬られ、孔子は自らその碑に「有吳延陵季子之墓」と題した。史臣に讃がある。
  • (讃:貪欲な者は利に殉じ、わずかな食物にも心を奪われる、春秋の世では君を弑そうと争い、骨肉の情も顧みられない、それに比べれば季子は始めから終わりまで国を譲り、王僚も光も恥じ入るほどで、泰伯にも劣らない、という趣旨)
  • 宋の儒者はまた、季札が国を辞退したことが乱を招いたとし、賢名に瑕疵があると論じた。詩がある。
  • (詩:ただ一度の譲りが多くの争いを招き、先人の願いに背いてしまった、もし延陵が父の志を成し遂げていたなら、蘇台に麋鹿が跋扈することもなかったであろう、という趣旨)

掩余・燭庸の逃亡と楚の恩賞

  • さて掩余・燭庸は潜城の外で動きが取れなくなり、日を経ても救援が来ず、まさに脱出の計に苦慮していた。
  • 姫光が主君を弑して位を奪ったことを聞き、二人は声を上げて大いに泣き、相談して「光がすでに弑逆奪位の事を行った以上、必ず我らを容れないだろう。楚国に投じようにも、楚が我らを信じてくれるとは限らない。まさに『家がありながら帰れず、国がありながら身を寄せられない』という有様、どうしたものか」と言った。
  • 燭庸は「今はこの地に釘づけにされて守りを固めているばかりで、いつまでも埒が明かない。夜に乗じて人目につかぬわき道から小国へ逃れ、後の機会をうかがおう」と言った。
  • 掩余は「楚の兵は前後を取り囲んでいる。飛ぶ鳥が籠に入るようなものだ。どうして自ら脱せようか」と言った。
  • 燭庸は「私に一計がある。両陣営の将士に、明日楚兵と一戦を交えると偽って令を伝え、真夜中になったら、兄上と密かに変装して逃げれば、楚兵は疑うまい」と言った。掩余はこれを可とした。
  • 両陣営の将士は馬に秣を与え食事を早めにとり、専ら軍令を待って布陣の準備をした。
  • 掩余と燭庸は腹心の数人とともに、斥候の小卒に扮装して本営を逃げ出した。掩余は徐国へ、燭庸は鐘吾へと逃げ込んだ。
  • 夜が明けると、両陣営には主将の姿がなく、士卒は混乱し、めいめい船を奪って呉国へ逃げ帰った。捨てられた甲冑や武器は数知れず、すべて郤宛の水軍に接収された。
  • 諸将は呉の混乱に乗じて呉を討とうとしたが、郤宛は「彼らは我らの喪に乗じたのは不義であった。我らがどうしてこれに倣うことができようか」と言い、沈尹戍とともに兵を引き上げて、呉の捕虜を献上した。
  • 楚の昭王は郤宛に功があるとし、鹵獲した甲冑や武器の半分をこれに賜り、事あるごとに諮問し、たいへん礼をもって遇した。
  • 費無極はこれを深く忌み嫌い、そこで一計を案じて郤宛を害そうとした。果たして費無極はどのような計略を用いたのか、次回を見られよ。
原文(底本)
話說漁丈人已渡伍員,又與飲食,不受其劍。伍員去而復回,求丈人秘密其事,恐引追兵前至,有負盛意。漁翁仰天嘆曰:「吾為德於子,子猶見疑。倘若追兵別渡,吾何以自明?請以一死絕君之疑!」言訖,解纜開船,拔舵放槳,倒翻船底,溺於江心。史臣有詩云:

    數載逃名隱釣綸,扁舟渡得楚亡臣,絕君後慮甘君死,千古傳名漁丈人。

至今武昌東北通淮門外,有解劍亭,當年子胥解劍贈漁父處也。伍員見漁丈人自溺,嘆曰:「我得汝而活,汝為我而死,豈不哀哉!」伍員與羋勝遂入吳境。行至溧陽,餒而乞食。遇一女子,方浣紗於瀨水之上,筥中有飯。伍員停足問曰:「夫人可假一餐乎?」女子垂頭應曰:「妾獨與母居,三十未嫁,豈敢售餐於行客哉?」伍員曰:「某在窮途,願乞一飯自活!夫人行賑恤之德,又何嫌乎?」女子抬頭看見伍員狀貌魁偉,乃曰:「妾觀君之貌,似非常人,寧以小嫌,坐視窮困?」於是發其簞,取盎漿,跪而進之。胥與勝一餐而止。女子曰:「君似有遠行,何不飽食?」二人乃再餐,盡其器。臨行謂女子曰:「蒙夫人活命之恩,恩在肺腑,某實亡命之夫,倘遇他人,願夫人勿言!」女子淒然嘆曰:「嗟乎!妾侍寡母三十未嫁,貞明自矢,何期饋飯,乃與男子交言。敗義墮節,何以為人!子行矣。」伍員別去,行數步,回頭視之,此女抱一大石,自投瀨水中而死。後人有讚云:

    溧水之陽,擊綿之女,惟治母餐,不通男語。矜此旅人,發其筐筥,君腹雖充,吾節已窳。捐此孱軀,以存壺矩,瀨流不竭,茲人千古!

伍員見女子投水,感傷不已,咬破指頭,瀝血書二十字於石上,曰:

    爾浣紗,我行乞﹔我腹飽,爾身溺。十年之後,千金報德!

伍員題訖,復恐後人看見,掬土以掩之。

  過了溧陽,復行三百餘里,至一地,名吳趨。見一壯士,碓顙而深目,狀如餓虎,聲若巨雷,方與一大漢廝打。眾人力勸不止。門內有一婦人喚曰:「專諸不可!」其人似有畏懼之狀,即時歛手歸家。員深怪之,問於旁人曰:「如此壯士,而畏婦人乎?」旁人告曰:「此吾鄉勇士,力敵萬人,不畏強禦,平生好義,見人有不平之事,即出死力相為。適纔門內喚聲,乃其母也。所喚專諸,即此人姓名。素有孝行,事母無違,雖當盛怒,聞母至即止。」員嘆曰:「此真烈士矣!」次日,整衣相訪。專諸出迎,叩其來歷。員具道姓名,并受冤始末。專諸曰:「公負此大冤,何不求見吳王,借兵報仇?」員曰:「未有引進之人,不敢自媒。」專諸曰:「君言是也。今日下顧荒居,有何見諭?」員曰:「敬子孝行,願與結交。」專諸大喜,乃入告於母,即與伍員八拜為交。員長於諸二歲,呼員為兄。員請拜見專諸之母。專諸復出其妻子相見,殺雞為黍,歡如骨肉。遂留員勝二人宿了一夜。次早,員謂專諸曰:「某將辭弟入都,覓一機會,求事吳王。」專諸曰:「吳王好勇而驕,不如公子光親賢下士,將來必有所成。」員曰:「蒙弟指教,某當牢記。異日有用弟之處,萬勿見拒!」專諸應諾。三人分別。

  員勝相隨前進,來到梅里,城郭卑隘,朝市粗立。舟車嚷嚷,舉目無親,乃藏羋勝於郊外,自己被髮佯狂,跣足塗面,手執斑竹簫一管,在市中吹之,往來乞食。其簫曲第一疊云:

    伍子胥!伍子胥!跋涉宋鄭身無依,千辛萬苦淒復悲!父仇不報,何以生為?

第二疊云:

    伍子胥!伍子胥!昭關一度變鬚眉,千驚萬恐淒復悲!兄仇不報,何以生為?

第三疊云:

    伍子胥!伍子胥!蘆花渡口溧陽溪,千生萬死及吳陲,吹簫乞食淒復悲!身仇不報,何以生為?

市人無有識者。(時周景王二十五年,吳王僚之七年也。)

  再說吳公子姬光,乃吳王諸樊之子。諸樊薨,光應嗣位,因守父命,欲以次傳位於季札,故餘祭夷昧以次相及。及夷昧薨後,季札不受國,仍該立諸樊之後,爭奈王僚貪得不讓,竟自立為王。公子光心中不服,潛懷殺僚之意,其如群臣皆為僚黨,無與同謀,隱忍於中。乃求善相者曰被離,舉為吳市吏,囑以諮訪豪傑,引為己輔。一日,伍員吹簫過於吳市。被離聞簫聲甚哀,再一聽之,稍辨其音。出見員,乃大驚曰:「吾相人多矣,未見有如此之貌也!」乃揖而進之,遜於上坐。伍員謙讓不敢。被離曰:「吾聞楚殺忠臣伍奢,其子子胥出亡外國,子殆是乎?」員跼蹐未對。被離又曰:「吾非禍子者。吾見子狀貌非常,欲為子求富貴地耳。」伍員乃訴其實。早有侍人知其事,報知王僚。僚召被離引員入見。被離一面使人私報姬光得知,一面使伍員沐浴更衣,一同入朝,進謁王僚。王僚奇其貌,與之語,知其賢,即拜為大夫之職。次日,員入謝,道及父兄之冤,咬牙切齒,目中火出。王僚壯其氣,意復憐之,許為興師復仇。

  姬光素聞伍員智勇,有心收養他,聞先謁王僚,恐為僚所親用,心中微慍。乃往見王僚曰:「光聞楚之亡臣伍員,來奔我國,王以為何如人?」僚曰:「賢而且孝。」光曰:「何以見之?」僚曰:「勇壯非常,與寡人籌策國事,無不中窾,是其賢也。念父兄之冤,未曾須臾忘報,乞師於寡人,是其孝也。」光曰:「王許以復仇乎?」僚曰:「寡人憐其情,已許之矣。」光諫曰:「萬乘之主,不為匹夫興師。今吳楚搆兵已久,未見大勝。若為子胥興師,是匹夫之恨,重於國恥也。勝則彼快其憤,不勝則我益其辱,必不可!」王僚以為然,遂罷伐楚之議。伍員聞光之入諫,曰:「光方有內志,未可說以外事也。」乃辭大夫之職不受。光復言於王僚曰:「子胥以王不肯興師,辭職不受,有怨望之心,不可用之。」僚遂疏伍員,聽其辭去,但賜以陽山之田百畝。員與勝遂耕於陽山之野。姬光私往見之,饋以米粟布帛,問曰:「子出入吳楚之境,曾遇有才勇之士,略如子胥者乎?」員曰:「某何足道。所見有專諸者,真勇士也!」光曰:「願因子胥得交於專先生。」員曰:「專諸去此不遠,當即召之,明旦可入謁也。」光曰:「既是才勇之士,某即當造請,豈敢召乎?」乃與伍員同車共載,直造專諸之家。專諸方在街坊磨刀,為人屠豕,見車馬紛紛,方欲走避。伍員在車上呼曰:「愚兄在此。」專諸慌忙停刀,候伍員下車相見。員指公子光曰:「此吳國長公子,慕吾弟英雄,特來造見,弟不可辭。」專諸曰:「某閭巷小民,有何德能,敢煩大駕。」遂揖公子光而進。篳門蓬戶,低頭而入。公子光先拜,致生平相慕之意。專諸答拜。光奉上金帛為贄,專諸固讓。伍員從旁力勸,方纔肯受。自此專諸遂投於公子光門下。光使人日饋粟肉,月給布帛,又不時存問其母。專諸甚感其意。一日,問光曰:「某村野小人,蒙公子豢養之恩,無以為報。倘有差遣,惟命是從。」光乃屏左右,述其欲刺王僚之意。專諸曰:「前王夷昧卒,其子分自當立,公子何名而欲害之?」光備言祖父遺命,以次相傳之故:「季札既辭,宜歸適長。適長之後,即光之身也。僚安得為君哉?吾力弱不足以圖大事,故欲借助於有力者。」專諸曰:「何不使近臣從容言於王側,陳前王之命,使其退位?何必私備劍士,以傷先王之德?」光曰:「僚貪而恃力,知進之利,不能退讓,若與之言,反生忌害。光與僚勢不兩立!」專諸奮然曰:「公子之言是也。但諸有老母在堂,未敢以死相許。」光曰:「吾亦知爾母老子幼,然非爾無與圖事者。苟成其事,君之子母,即吾子母也,自當盡心養育,豈敢有負於君哉?」專諸沉思良久,對曰:「凡事輕舉無功,必圖萬全。夫魚在千仞之淵,而入漁人之手者,以香餌在也。欲刺王僚,必先投王之所好,乃能親近其身。不知王所好何在?」光曰:「好味。」專諸曰:「味中何者最甘?」光曰:「尤好魚炙。」專諸曰:「某請暫辭。」公子光曰:「壯士何往?」專諸曰:「某往學治味,庶可近吳王耳。」專諸遂往太湖學炙魚。凡三月,嘗其炙者,皆以為美。然後復見姬光,光乃藏專諸於府中。髯翁有詩云:

    剛直人推伍子胥,也因獻媚進專諸。欲知弒械從何起?三月湖邊學炙魚。

姬光召伍子胥,謂:「專諸已精其味矣,何以得近吳王?」員對曰:「夫鴻鵠所以不可制者,以羽翼在也。欲制鴻鵠,必先去其羽翼。吾聞公子慶忌,筋骨如鐵,萬夫莫當,手能接飛鳥,步能格猛獸。王僚得一慶忌,旦夕相隨,尚且難以動手。況其母弟掩餘燭庸並握兵權,雖有擒龍搏虎之勇,鬼神不測之謀,安能濟事。公子欲除王僚,必先去此三子,然後大位可圖。不然,雖幸而成事,公子能安然在位乎?」光俛思半晌,恍然曰:「君言是也。且歸爾田,俟有閒隙,然後相議耳。」員乃辭去。

  是年,周景王崩。有嫡世子曰猛,次曰匄,長庶子曰朝。景王寵愛朝,囑於大夫賓孟,欲更立世子之位,未行而崩。劉獻公摯亦卒,子劉卷字伯蚡嗣立。素與賓孟有隙,遂同單穆公旗殺賓孟,立世子猛,是為悼王。尹文公固、甘平公鰌、召莊公奐,素附子朝,三家合兵,使上將南宮極率之以攻劉卷。卷出奔揚,單旗奉王猛次於皇。子朝使其黨鄩肹伐皇,肹敗死。晉頃公聞王室大亂,遣大夫籍談荀躒帥師納王於王城。尹固亦立子朝於京。未幾,王猛病卒,單旗劉卷復立其弟匄,是為敬王,居翟泉。周人呼匄為東王,朝為西王。二王互相攻殺,六年不決。召莊公奐卒,南宮極為天雷震死,人心聳懼。晉大夫荀躒,復率諸侯之師,納敬王於成周,擒尹固,子朝兵潰。召奐之子嚚反攻子朝,朝出奔楚,諸侯遂城成周而還。敬王以召嚚為反覆,與尹固同斬於市,周人快之。此是後話。

  且說周敬王即位之元年,吳王僚之八年也。時楚故太子建之母在鄖,費無極恐其為伍員內應,勸平王誅之。建母聞之,陰使人求救於吳。吳王僚使公子光往鄖取建母,行及鐘離,楚將薳越帥師拒之,馳報郢都。平王拜令尹陽匄為大將,并徵陳、蔡、胡、沈、許五國之師。胡子名髡,沈子名逞,二君親自引兵。陳遣大夫夏齧,頓胡二國,亦遣大夫助戰。胡、沈、陳之兵營於右,頓、許、蔡之兵營於左,薳越大軍居中。姬光亦馳報吳王。王僚同公子掩餘率大軍一萬,罪人三千,來至雞父下寨。兩邊尚未約戰,適楚令尹陽匄暴疾卒,薳越代領其眾,姬光言於王僚曰:「楚亡大將,其軍已喪氣矣。諸侯相從者雖眾,然皆小國,畏楚而來,非得已也。胡沈之君,幼不習戰。陳夏齧勇而無謀。頓、許、蔡三國久困楚令,其心不服,不肯盡力。七國同役而不同心,楚帥位卑無威,若分師先犯胡沈與陳,必先奔。諸國乖亂,楚必震懼,可全敗也。請示弱以誘之,而以精卒持其後。」王僚從其計。乃為三陣,自率中軍,姬光在左,公子掩餘在右,各飽食嚴陣以待。先遣罪人三千,亂突楚之右營。時秋七月晦日,兵家忌晦,故胡子髡沈子逞及陳夏齧,俱不做整備﹔及聞吳兵到,開營擊之。罪人原無紀律,或奔或止﹔三國以吳兵散亂,彼此爭功追逐,全無隊伍。姬光帥左軍乘亂進擊,正遇夏齧,一戟刺於馬下。胡沈二君心慌,奪路欲走。公子掩餘右軍亦到,二君如飛禽入網,無處逃脫,俱為吳軍所獲。軍士死者無數,生擒甲士八百餘人。姬光喝教將胡沈二君斬首。卻縱放甲士,使奔報楚之左軍,言:「胡沈二君及陳大夫俱被殺矣!」許、蔡、頓三國將士,嚇得心膽墮地,不敢出戰,各尋走路。王僚合左右二軍,如泰山一般倒壓下來。中軍薳越未及成陣,軍士散其大半。吳兵隨後掩殺,殺得屍橫遍野,流血成渠。薳越大敗,奔五十里方脫。姬光直入鄖陽,迎取楚夫人以歸。蔡人不敢拒敵。薳越收拾敗兵,止存其半,聞姬光單師來鄖陽取楚夫人,乃星夜赴之。比及楚軍至蔡,吳兵已離鄖陽二日矣。薳越知不可追,仰天嘆曰:「吾受命守關,不能緝獲亡臣,是無功也。既喪七國之師,又失君夫人,是有罪也。無一功而負二罪,何面復見楚王乎?」遂自縊而死。楚平王聞吳師勢大,心中甚懼,用囊瓦為令尹,以代陽匄之位。瓦獻計謂郢城卑狹,更於其東闢地,築一大城,比舊高七尺,廣二十餘里,名舊城為紀南城,以其在紀山之南也﹔新城仍名郢,徙都居之。復築一城於西,以為右臂,號曰麥城。三城似品字之形,聯絡有勢,楚人皆以為瓦功。沈尹戍笑曰:「子常不務修德政,而徒事興築,吳兵若至,雖十郢城何益哉?」囊瓦欲雪雞父之恥,大治舟楫,操演水軍。三月,水手習熟,囊瓦率舟師,從大江直逼吳疆,耀武而還。吳公子光聞楚師犯邊,星夜來援,比至境上,囊瓦已還師矣。姬光曰:「楚方耀武而還,邊人必不為備。」乃潛師襲巢滅之,并滅鐘離,奏凱而歸。

  楚平王聞二邑被滅,大驚,遂得心疾,久而不愈。至敬王四年,疾篤,召囊瓦及公子申,至於榻前,以太子珍囑之,而薨。囊瓦與郤宛商議曰:「太子珍年幼,且其母乃太子建所聘,非正也。子西長而好善,立長則名順,建善則國治,誠立子西,楚必賴之。」郤宛以囊瓦之言,告於公子申。申怒曰:「若廢太子,是彰君王之穢行也。太子秦出,其母已立為君夫人,可謂非嫡嗣乎?棄嫡而失大援,外內惡之。令尹欲以利禍我,其病狂乎?再言及,吾必殺之!」囊瓦懼,乃奉珍主喪即位,改名曰軫,是為昭王。囊瓦仍為令尹,伯郤宛為左尹,鄢將師為右尹,費無極以師傅舊恩,同執國政。

  卻說鄭定公聞吳人取楚夫人以歸,乃使人賷珠玉簪珥追送之,以解殺建之恨。楚夫人至吳,吳王賜宅西門之外,使羋勝奉之。伍員聞平王之死,捶胸大哭,終日不止。公子光怪而問曰:「楚王乃子仇人,聞死當稱快,胡反哭之?」員曰:「某非哭楚王也。恨吾不能梟彼之頭,以雪吾恨,使得終於牖下耳。」光亦為嗟嘆。胡曾先生有詩曰:

    父兄冤恨未曾酬,已報淫狐獲首邱﹔手刃不能償夙願,悲來霜鬢又添秋。

伍員自恨不能及平王之身,報其仇怨,一連三夜無眠,心中想出一個計策來,謂姬光曰:「公子欲行大事,尚無間可乘耶?」光曰:「晝夜思之,未得其便。」員曰:「今楚王新歿,朝無良臣,公子何不奏過吳王,乘楚喪亂之中,發兵南伐,可以圖霸?」光曰:「倘遣吾為將,奈何?」員曰:「公子誤為墜車而得足疾者,王必不遣。然後薦掩餘燭庸為將,更使公子慶忌結連鄭衛,共攻楚國,此一網而除三翼,吳王之死在目下矣。」光又問曰:「三翼雖去,延陵季子在朝,見我行篡,能容我乎?」員曰:「吳晉方睦,再令季子使晉,以窺中原之釁。吳王好大而疏於計,必然聽從。待其遠使歸國,大位已定,豈能復議廢立哉?」光不覺下拜曰:「孤之得子胥,乃天賜之!」次日,以乘喪伐楚之利,入言於王僚,僚欣然聽之。光曰:「此事某應效勞,奈因墜車損其足脛,方就醫療,不能任勞。」僚曰:「然則何人可將?」光曰:「此大事,非至親信者,不可託也。王自擇之。」僚曰:「掩餘燭庸可乎?」光曰:「得人矣。」光又曰:「向來晉楚爭霸,吳為屬國。今晉既衰微,而楚復屢敗,諸侯離心,未有所歸,南北之政,將歸於東。若遣公子慶忌往收鄭衛之兵,并力攻楚﹔而使延陵季子聘晉,以觀中原之釁﹔王簡練舟師,以擬其後,霸可成也。」王僚大喜,使掩餘燭庸帥師伐楚,季札聘於晉國,惟慶忌不遣。

  單說掩餘燭庸引師二萬,水陸並進,圍楚潛邑。潛邑大夫堅守不出,使人入楚告急。時楚昭王新立,君幼臣讒,聞吳兵圍潛,舉朝慌急無措。公子申進曰:「吳人乘喪來伐,若不出兵迎敵,示之以弱,啟其深入之心。依臣愚見,速令左司馬沈尹戍率陸兵一萬救潛,再遣左尹郤宛率水軍一萬,從淮汭順流而下,截住吳兵之後,使他首尾受敵,吳將可坐而擒矣。」昭王大喜,遂用子西之計,調遣二將,水陸分道而行。

  卻說掩餘燭庸正圍潛邑,諜者報:「救兵來到。」二將大驚,分兵一半圍城,一半迎敵。沈尹戍堅壁不戰,使人四下將樵汲之路,俱用石子壘斷。二將大驚。探馬又報:「楚將郤宛引舟師從沙汭塞斷江口。」吳兵進退兩難,乃分作兩寨,為犄角之勢,與楚將相持,一面遣人入吳求救。姬光曰:「臣向者欲徵鄭衛之兵,正為此也。今日遣之,尚未為晚。」王僚乃使慶忌糾合鄭衛。四公子俱調開去了,單留姬光在國。

  伍員乃謂光曰:「公子曾覓利匕首乎?欲用專諸,此其時矣。」光曰:「然。昔越王允常,使歐冶子造劍五枚,獻其三枚於吳,一曰『湛廬』,二曰『磐郢』,三曰『魚腸』。『魚腸』,乃匕首也。形雖短狹,砍鐵如泥。先君以賜我,至今寶之,藏於床頭,以備非常。此劍連夜發光,意者神物欲自試,將飽王僚之血乎?」遂出劍與員觀之,員誇獎不已。即召專諸以劍付之。專諸不待開言,已知光意,慨然曰:「王信可殺也。二弟遠離,公子出使,彼孤立耳,無如我何。但死生之際,不敢自主,候稟過老母,方敢從命。」專諸歸視其母,不言而泣。母曰:「諸何悲之甚也?豈公子欲用汝耶?吾舉家受公子恩養,大德當報,忠孝豈能兩全?汝必亟往,勿以我為念!汝能成人之事,垂名後世,我死亦不朽矣。」專諸猶依依不舍。母曰:「吾思飲清泉,可於河下取之。」專諸奉命汲泉於河,比及回家,不見老母在堂,問其妻。妻對曰:「姑適言困倦,閉戶思臥,戒勿驚之。」專諸心疑,啟牖而入,老母自縊於床上矣。髯仙有詩云:

    願子成名不惜身,肯將孝子換忠臣﹔世間盡為貪生誤,不及區區老婦人。

專諸痛哭一場,收拾殯殮,葬於西門之外。謂其妻曰:「吾受公子大恩,所以不敢盡死者,為老母也。今老母已亡,吾將赴公子之急。我死,汝母子必蒙公子恩眷,勿為我牽掛。」言畢,來見姬光,言母死之事。光十分不過意,安慰了一番。良久,然後復論及王僚之事。專諸曰:「公子盍設享以來吳王?王若肯來,事八九濟矣。」光乃入見王僚曰:「有庖人從太湖來,新學炙魚,味甚鮮美,異於他炙。請王辱臨下舍而嘗之!」王僚好的是魚炙,遂欣然許諾:「來日當過王兄府上,不必過費。」光是夜預伏甲士於窟室之中,再命伍員暗約死士百人,在外接應。於是大張飲具。

  次早,復請王僚。僚入宮,告其母曰:「公子光具酒相延,得無有他謀乎?」母曰:「光心氣怏怏,常有愧恨之色,此番相請,諒無好意,何不辭之?」僚曰:「辭則生隙﹔若嚴為之備,又何懼哉!」於是被狻猊之甲三重,陳設兵衛,自王宮起,直至光家之門,街衢皆滿,接連不斷。僚駕及門,光迎入拜見。既入席安坐,光侍坐於傍。僚之親戚近信,布滿堂階。侍席力士百人,皆操長戟,帶利刀,不離王之左右。庖人獻饌,皆從庭下搜簡更衣,然後膝行而前,十餘力士握劍夾之以進。庖人置饌,不敢仰視,復膝行而出。光獻觴致敬,忽作唑足,偽為痛苦之狀,乃前奏曰:「光足疾舉發,痛徹心髓,必用大帛纏緊,其痛方止。幸王寬坐須叟,容裹足便出。」僚曰:「王兄請自方便。」光一步一躓,入內潛進窟室中去了。少頃,專諸告進魚炙,搜簡如前。誰知這口魚腸短劍,已暗藏於魚腹之中。力士挾專諸膝行至於王前,用手擘魚以進,忽地抽出匕首,逕椎王僚之胸。手勢去得十分之重,直貫三層堅甲,透出背脊。王僚大叫一聲,登時氣絕。侍衛力士,一擁齊上,刀戟並舉,將專諸剁做肉泥,堂中大亂。姬光在窟室中知已成事,乃縱甲士殺出,兩下交鬥。這一邊知專諸得手,威加十倍,那一邊見王僚已亡,勢減三分。僚眾一半被殺,一半奔逃,其所設軍衛,俱被伍員引眾殺散。奉姬光升車入朝,聚集群臣,將王僚背約自立之罪,宣布國人明白:「今日非光貪位,實乃王僚之不義也。光權攝大位,待季子返國,仍當奉之。」乃收拾王僚屍首,殯殮如禮。又厚葬專諸,封其子專毅為上卿。封伍員為行人之職,待以客禮而不臣。市吏被離舉薦伍員有功,亦升大夫之職。散財發粟,以賑窮民,國人安之。姬光心念慶忌在外,使善走者覘其歸期,姬光自率大兵,屯於江上以待之。慶忌中途聞變,即馳去。姬光乘駟馬追之,慶忌棄車而走,其行如飛,馬不能及。光命集矢射之。慶忌挽手接矢,無一中者。姬光知慶忌必不可得,乃誡西鄙嚴為之備,遂還吳國。又數日,季札自晉歸,知王僚已死,逕往其墓,舉哀成服。姬光親詣墓所,以位讓之,曰:「此祖父諸叔之意也。」季札曰:「汝求而得之,又何讓為?苟國無廢祀,民無廢主,能立者即吾君矣。」光不能強,乃即吳王之位,自號為闔閭。季札退守臣位。(此周敬王五年事也。)札恥爭國之事,老於延陵,終身不入吳國,不與吳事,時人高之。及季札之死,葬於延陵,孔子親題其碑曰:「有吳延陵季子之墓。」史臣有讚云:

    貪夫殉利,簞豆見色。《春秋》爭弒,不顧骨肉。孰如季子,始終讓國,堪愧僚光,無慚泰伯。

宋儒又論季札辭國生亂,為賢名之玷。有詩云:

    只因一讓啟群爭,辜負前人次及情﹔若使延陵成父志,蘇臺麋鹿豈縱橫?

  且說掩餘燭庸困在潛城,日久救兵不至,正在躊躇脫身之計。忽聞姬光弒主奪位,二人放聲大哭,商議道:「光既行弒奪之事,必不相容。欲要投奔楚國,又恐楚不相信。正是『有家難奔,有國難投』,如何是好?」燭庸曰:「目今困守於此,終無了期。且乘夜從僻路逃奔小國,以圖後舉。」掩餘曰:「楚兵前後圍裹,如飛鳥入籠,焉能自脫?」燭庸曰:「吾有一計,傳令兩寨將士,詐稱來日欲與楚兵交鋒,至夜半,與兄微服密走,楚兵不疑。」掩餘然其言。兩寨將士秣馬蓐食,專候軍令布陣。掩餘與燭庸同心腹數人,扮作哨馬小軍,逃出本營。掩餘投奔徐國,燭庸投奔鐘吾。及天明,兩寨皆不見其主將,士卒混亂,各搶船隻奔歸吳國。所棄甲兵無數,皆被郤宛水軍所獲。諸將欲乘吳之亂,遂伐吳國。郤宛曰:「彼乘我喪非義,吾奈何效之?」乃與沈尹戍一同班師,獻吳俘。楚昭王以郤宛有功,以所獲甲兵之半賜之,每事諮訪,甚加敬禮。費無極忌之益深,乃生一計,欲害郤宛。畢竟費無極用何計策,且看下回分解。

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