東周列國志第七十九回 女楽を贈って黎彌が孔子を阻む/会稽に棲んで文種が伯嚭に通ずる (歸女樂黎彌阻孔子 棲會稽文種通宰嚭)

斉、女楽を魯に贈り孔子を除く計

  • さて斉侯は夾谷の会から帰った後、晏嬰が病没し、景公は数日間哀悼の涙を流した。ちょうど朝廷に人材が乏しいことを憂えていた矢先、孔子が魯の相となり魯国が大いに治まったと聞き、驚いて言った。「魯が孔子を相としたからには、魯は必ず覇者となろう。覇者となれば必ず領土を争う。斉は近隣にあるから、禍が真っ先に及ぶのではないか、どうすればよいか。」
  • 大夫の黎彌が進み出て言った。「主君が孔子の用いられることを憂えておられるなら、なぜこれを妨げないのですか。」
  • 景公は言った。「魯は今まさに彼に国政を任せているのに、どうして寡人が妨げられようか。」
  • 黎彌は言った。「臣が聞くところによれば、治安が続けば驕り怠りが必ず生じるものです。盛大に女楽を飾り立て、魯君に贈られてはいかがでしょう。魯君が幸いにもこれを受け入れれば、必ず政事に怠慢となり、孔子を疎んじるようになります。孔子が疎まれれば、必ず魯を捨てて他国へ移りましょう。そうなれば主君は枕を高くして休まれることができます。」
  • 景公は大いに喜び、すぐに黎彌に命じて、女閭(遊里)の中から容貌が美しく二十歳以内の者を選ばせ、八十人を集めて十隊に分け、それぞれに錦繍の衣を着せ、歌舞を教え込ませた。
  • その舞曲は『康楽』と名付けられ、その声や姿はすべて新たに作り出したもので、あらゆる艶やかさを尽くし、これまでにない出来栄えであった。
  • 教習が終わると、さらに良馬百二十頭を用意し、金の勒と彫った鞍をつけ、毛色もそれぞれ異なり、遠くから見れば錦のように見えた。使者にこれを魯侯へ届けさせた。
  • 使者は魯の南門の外に二つの錦の棚を設け、東の棚には馬群を、西の棚には女楽を並べた。
  • まず国書を定公に届けた。定公が書を開いて見ると、こう書かれていた。「杵臼(景公)、ぬかずいて魯の賢侯殿下に申し上げる。孤(わたくし)は先に夾谷で罪を犯し、その恥じる思いを今も心から忘れられずにいる。幸いに賢侯が孤の謝罪の誠意をお汲みくださり、ついに好誼を結ぶに至った。国事多端のため、聘問が久しく途絶えていた。ここに歌い女十組を、歓びを添えるためにお贈りし、良馬三十駟を、車を引かせるためにお贈りする。謹んで左右にお届けし、いささか敬慕の情を申し述べたい。伏してお納めいただけますように!」

季斯・定公、女楽に溺れ、孔子は魯を去る

  • さて魯の相国、季斯は太平を安んじて享受しており、その本来のあり方をすっかり忘れ、贅沢と楽しみを求める心はすでに胸に潜んでいた。
  • 斉から女楽が贈られたと聞き、その盛大さに耐えられないほど心惹かれた。すぐに身なりを変え、腹心数人と共に、こっそり車に乗って南門を出て見に行った。
  • そのとき楽師たちはまだ演習の最中であった。歌声は雲を遮り、舞の姿は風を生み出すかのようで、一進一退の動きは目もくらむばかり、まるで天上を遊び、仙女を見るかのようで、人間界の想像を超えたものであった。
  • 季斯は長い間見入り、さらにその容色の美しさ、衣装の華やかさを見るうちに、思わず手足が萎え、目が見開いたまま口も開き、心が乱れ魂を奪われた。
  • 魯定公はその日、三度も召したが、季斯は女楽を見るのに夢中で、ついに召しに応じなかった。
  • 翌日になってようやく宮中に入り定公に会うと、定公は国書を示した。
  • 季斯は奏上した。「これは斉君の好意です、拒むわけには参りません。」
  • 定公にも慕う気持ちがあったので、「女楽はどこにあるのか。試しに見られるだろうか」と尋ねた。
  • 季斯は言った。「高門の外に並べられております。車駕で参るなら、臣もお供いたしますが、百官を驚かせることを恐れます。お忍びの身なりで参られるのがよろしいかと存じます。」
  • そこで君臣そろって儀式用の正装を脱ぎ、それぞれ小さな車に乗って南門を馳せ出て、そのまま西の棚まで至った。
  • 早くも「魯君がお忍びの身なりで自ら楽を観に来られた」との知らせが伝わっていた。使者は女子たちに念入りに芸を見せるよう命じた。
  • そのとき歌声はいよいよ甘美に、舞袖はいよいよ艶やかに、十隊の女子が次々と入れ替わり進み出て、まさに耳目を奪われるほどで、応接に暇もなく、魯国の君臣二人は手足を動かして踊り出しそうなほど喜んだ。
  • 証として詩がある。(詩:一曲の艶やかな歌に一塊の金、一つの妙なる舞に一皿の宝、ただ十隊の女子の顔ゆえに、君臣両人の心が塗り替えられたという趣旨)
  • 従者はさらに東の棚の良馬をほめそやして勧めた。定公は「これだけでもう極上の見物だ、馬まで見る必要はない」と言った。
  • その夜、定公は宮に入っても一睡もせず、耳にはなお楽の音が聞こえるようで、まるで美人が枕元にいるかのようであった。
  • 群臣の議論が分かれることを恐れ、翌朝ひとり季斯だけを宮に召し、急いで返書を書き上げた。書には感激の意を詳しく述べた。詳しくは述べない。
  • さらに黄金百鎰を斉の使者に贈った。
  • 女楽は宮中に収め、三十人を季斯に賜った。馬は馬丁に預けて飼育させた。
  • 定公と季斯は新たに得た女楽を、それぞれ自ら享受し、昼は歌舞、夜は枕席を共にし、三日間、朝廷に出て政を聞くこともなかった。
  • 孔子はこのことを聞き、悲しげに深く嘆息した。そのとき弟子の仲子路がそばにいて進み出て言った。「魯君が政事に怠慢になったからには、先生はもう行かれるべきです。」
  • 孔子は言った。「郊祭が間近い。もしその大礼が廃されなければ、国はまだ何とかなるかもしれぬ。」
  • 祭りの日になり、定公は儀礼を終えるとすぐに宮に戻り、それでも朝廷には出ず、祭りの供え肉を分け与えることさえ心にかけなかった。
  • 祭りの供え肉を司る者が宮門を叩いて指示を仰ごうとしたが、定公はこれを季孫に任せ、季孫はさらに家臣に任せてしまった。
  • 孔子は祭りから帰った後、夕方になっても祭りの供え肉が届けられないのを見て、子路に言った。「私の道は行われぬ、天命であろうか!」そこで琴を弾いて歌った。(詩:あの婦人の口によって出て行くことになり、あの女の讒言によって死に敗れることになる、悠々自適に、まあこうして年を過ごそうという趣旨)
  • 歌い終えると、荷物をまとめて魯を去った。子路と冉有も官を捨てて孔子に従って旅立った。これより魯国は再び衰えた。
  • 史臣に詩がある。(詩:数列に並ぶ化粧した女たちは鋼刀にも勝る、だがこれは黎彌の計略が巧みだったからではない、天運の衰えが瓦解を招いたのだ、どうして魯国だけが独り栄え続けられようかという趣旨)

孔子、衛へ行き匡で難に遭う

  • 孔子は魯を去って衛に行くと、衛霊公は喜んで迎え、戦陣のことを尋ねた。孔子は答えた。「丘(わたくし)はそのことをまだ学んでおりません。」翌日、そのまま去った。
  • 宋の匡邑を通りかかると、匡の人々は日頃から陽虎を恨んでいたが、孔子の容貌がそれによく似ていたため、陽虎が再びやって来たと思い込み、人々を集めてこれを囲んだ。
  • 子路が出て戦おうとしたが、孔子はこれを止めて言った。「私は匡に何の仇もない。これは必ず何かの誤解だ。ほどなく自然に解けるだろう。」そこで落ち着いて座り、琴を鳴らした。
  • ちょうど霊公が人を遣わして孔子を呼び戻そうとしていたことから、匡人はようやく誤解に気づき、謝罪して去った。
  • 孔子は再び衛国に戻り、賢大夫の蘧瑗の家に身を寄せた。

衛霊公と南子の醜聞、孔子諸国を巡る

  • さて霊公の夫人、南子は宋の女で、美貌で淫らな性格であった。宋にいたころ、公子朝とすでに通じていた。朝もまた男性の中でも絶世の美男子であり、二人の美しさは相愛し、夫婦以上の仲であった。
  • 霊公に嫁いでからは蒯瞶を生み、すでに成長して世子に立てられていたが、南子と公子朝の旧情は絶えなかった。
  • そのとき、さらに彌子瑕という美男子がいて、日頃から国君(霊公)の寵愛を得ていた。かつて桃を食べ半分残ったものを、霊公の口に押し込んだ。霊公は喜んでそれを食べ、人々に自慢して言った。「子瑕は寡人をこれほど愛しているのだ!美味な桃を自分で食べきることもせず、寡人に分け与えてくれた。」群臣はみな心の中で密かに笑った。
  • 子瑕は寵愛を恃んで権勢を振るい、なんでもやりたい放題であった。
  • 霊公は外では子瑕を寵愛し、内では南子を恐れており、彼女の機嫌を取ろうと、常に宋の公子朝を召して夫人と会わせていた。醜聞は広まったが、霊公はこれを恥とも思わなかった。
  • 蒯瞶はこのことを深く恨み、家臣の戯陽速に命じて、南子が朝廷に出て謁見する折を狙ってこれを刺し殺させ、醜聞を消させようとした。
  • 南子はこれに気づき、霊公に訴えた。霊公は蒯瞶を追放した。瞶は宋へ逃れ、さらに晋へ亡命した。霊公は蒯瞶の子、輒を世子に立てた。
  • 孔子が再び衛に至ると、南子は謁見を求めた。孔子が聖人であることを知り、いっそう手厚く敬った。
  • ある日、霊公は南子と同じ車に乗って外出し、孔子を後ろの車に陪乗させた。街中を通ると、市の人々がこう歌った。(詩:同じ車に乗るのは色ゆえか、後の車に従うのは徳ゆえかという趣旨)
  • 孔子は嘆じて言った。「あの君主は徳を好むことが色を好むことに及ばない!」そこで衛を去って宋へ行き、弟子たちと大樹の下で礼を習った。
  • 宋の司馬、桓魋もまた男色によって景公の寵を得ており、まさに権勢盛んなときであった。孔子が来たことを妬み、人を遣わしてその木を伐らせ、孔子を殺そうと図った。
  • 孔子は身なりを変えて宋を去り、鄭へ向かった。晋へ行こうとして黄河のほとりに至ったところ、趙鞅が賢臣の竇犨舜華を殺したと聞き、嘆じて言った。「鳥や獣ですら同類が傷つけられるのを嫌うものだ、まして人ならなおさらだ。」そのまま衛へ引き返した。
  • ほどなく衛霊公が没し、国人は輒を君に立てた。これが出公である。蒯瞶もまた晋の援助を頼りにし、陽虎と共に戚を襲ってこれに拠った。
  • このとき衛の父子は国を争い、晋は蒯瞶を助け、斉は輒を助けた。孔子はこの道理に反する争いを嫌い、再び衛を去って陳へ行き、さらに蔡へ向かおうとした。
  • 楚昭王は孔子が陳・蔡の間にいると聞き、人を遣わして招聘した。陳・蔡の大夫たちは相談し、楚が孔子を用いれば陳蔡が危うくなると考え、共に兵を発して孔子を野外に囲んだ。
  • 孔子は糧を絶たれること三日に及んだが、絃歌を絶やさなかった。今の開封府陳州の界に桑落という地があり、そこに台があって厄台と呼ばれるが、それがまさに孔子が当時糧を絶たれた場所である。
  • 宋の劉敞に詩がある。(詩:四海を栖々と流浪する一人の旅人、糧を絶たれること三日、生死は隣り合わせ、これはもとより天の心が木鐸たる孔子を働かせ苦労させているからであって、陳蔡に愚かな家臣がいたことなど関わりはないという趣旨)

怪人の正体は大鮎、楚への招聘と魯への帰還

  • ある夕方、九尺余りの怪しい人物が現れ、黒衣に高い冠をかぶり、甲を着けて戈を持ち、孔子に向かって大声で威嚇した。その声は周囲を震わせた。
  • 子路がその者を庭に引き出して戦ったが、その者は力が強く、子路は勝てなかった。
  • 孔子は傍らからじっと見つめていたが、しばらくして子路に「なぜその脇腹を探らないのか」と言った。
  • 子路がその脇腹を探ると、その者は力尽きて手が垂れ、敗れて地に倒れ、大きな鮎(なまず)に姿を変えた。
  • 弟子たちはこれを怪しんだ。孔子は言った。「そもそも生き物は年老いて衰えると、さまざまな物の怪が取り憑くものだ。殺してしまえばそれまでのこと、何を怪しむことがあろうか。」弟子たちに命じてこれを煮て飢えをしのがせた。
  • 弟子たちはみな喜んで「天の賜物だ!」と言った。
  • 楚の使者は兵を発して孔子を迎えに来た。
  • 孔子が楚に至ると、昭王は大いに喜び、千社(一社は二十五家)の地を孔子に封じようとした。
  • 令尹の子西は諫めて言った。「昔、文王は豊に、武王は鎬におり、地はわずか百里に過ぎませんでしたが、その徳を修めることで、ついに殷に代わりました。今、孔子の徳は文武にも劣らず、弟子たちもまた皆大賢の士です。もし土地を得るようなことがあれば、楚に代わることも難しくはありますまい。」
  • 昭王はこれを聞いて封地を取りやめた。
  • 孔子は楚が自分を用いることができないと知り、再び衛へ戻った。衛出公は孔子に国政を任せようとしたが、孔子はこれを拒んだ。
  • 魯の相国、季孫肥もまたその門人、冉有を召そうとした。孔子はこれを機に魯へ帰り、魯は大夫を退官させる礼をもって孔子を遇した。
  • こうして弟子たちのうち、子路と子羔は衛に、子貢・冉有・有若・宓子賤は魯に仕えることになった。これらは皆後の話であり、話の種として記しておく。

呉王闔閭、斉に婚を求める

  • さて呉王闔閭は楚を破って以来、威勢は中原に響き渡り、しきりに遊楽を事とするようになっていた。宮室を盛んに造営し、長楽宮を国都の中に建て、姑蘇山に高台を築いた。(山は城の西南三十里にあり、別名を姑胥山という。)胥門の外には九曲の径を通し、山への道とした。春夏は城外に居を構え、秋冬は城中に居を構えた。
  • ある日、越人が呉を伐った恨みを思い出し、報復を謀ろうとした。
  • ちょうど斉と楚が互いに使者を交わしていると聞き、怒って言った。「斉と楚が誼を通じている。これは我が北方の憂いである!」まず斉を伐ち、その後で越に及ぼうとした。
  • 相国の子胥は進み出て言った。「使者のやりとりは隣国の常のことです。楚を助けて呉を害すると決まったわけではありません。にわかに兵を興すべきではありません。今、太子波の正妃はすでに亡くなり、太子にはまだ後添えの妃がおりません。王はなぜ使者を遣わして斉に婚を求めさせないのですか。もし斉が従わなければ、討伐しても遅くはありません。」
  • 闔閭はこれに従い、大夫の王孫駱を斉に遣わし、太子波のために婚を求めさせた。
  • そのとき景公はすでに年老いて意気も衰え、自ら奮起することもできなくなっていた。宮中にはただ一人、まだ嫁いでいない幼い娘がいたが、これを呉の地へ手放すには忍びなかった。
  • しかしながら朝廷に良臣なく、辺境に良将もいなかった。ひとたび呉の求婚を拒めば、軍を興して攻めてくるかもしれず、楚国が受けた災禍のようなことになれば、後悔してもしきれない。
  • 大夫の黎彌もまた景公に、呉と婚姻を結び、その怒りを刺激しないよう勧めた。
  • 景公はやむを得ず、娘の少姜を婚約させた。
  • 王孫駱が呉王に復命すると、王は再び使者を遣わして斉に納幣し、斉の娘を迎え取った。
  • 景公は娘を愛しみながらも呉を恐れる、二つの思いに挟まれ、思わず涙を流して嘆じた。「もし晏平仲か司馬穰苴、どちらか一人でもここにいてくれたなら、孤がどうして呉人を憂えることがあろうか。」
  • 大夫の鮑牧に言った。「そなたに寡人のために少姜を呉へ送り届けてもらいたい。これは寡人の愛する娘である。呉王によく面倒を見てもらうよう伝えてくれ。」
  • 出立に際し、景公は自ら少姜を車に助け乗せ、南門まで見送って帰った。
  • 鮑牧は少姜を伴い呉に至り、うやうやしく斉侯の命を伝えた。あわせて子胥の賢明さを慕い、深く親交を結んだ。これ以上は述べない。

少姜の望郷病死と太子波の死、夫差立太孫

  • さて少姜は年が幼く、夫婦の情の楽しみを知らぬまま、太子波と婚礼を挙げた後も、ただひたすら父母を思い、昼夜泣き続けた。
  • 太子波は幾度も慰めたが、その悲しみは止まらず、ついに気鬱の病となった。
  • 闔閭はこれを憐れみ、北門の城楼を改築させ、極めて華やかにし、その名を望斉門と改め、少姜に日々そこへ登らせた。
  • 少姜は欄干にもたれて北を望んだが、斉国は見えず、悲しみはますます深まり、病はいよいよ重くなった。
  • 臨終に際し、太子波にこう遺言した。「妾は虞山の頂からは東海が見えると聞いております。どうか私をそこに葬ってください。もし魂魄に知るところがあれば、せめて斉国を一望できましょうから!」
  • 波は父にこれを奏上し、虞山の頂に葬らせた。今の常熟県の虞山には斉女墓があり、また望海亭がある。
  • 張洪の『斉女墳』の詩がある。(詩:南方(呉)の風は勢いを増し北方(斉)の風は衰え、呉は中原の諸姫と覇長を争い、さらに斉から妃を娶った。国境を越えて嫁がせるにはどうしても車千輛の行列を仕立てねばならず、道半ばで万行の涙を拭った。故郷を望んで台に登ることを厭わず、恨みを埋めるにはただ塚が低いことを嫌う。蔓草は垂れ下がりなお露に泣くようで、誰にこの露を故郷の泥に滴らせてもらおうかという趣旨)
  • 太子波も斉女を偲んで病を得て、ほどなく亡くなった。
  • 闔閭は諸公子の中から後継を選ぼうとしたが、まだ決めかねており、子胥を召して決めさせようとしていた。
  • 太子波の前妃が生んだ子、夫差はすでに二十六歳で、堂々として英邁な風采の持ち主であった。祖父の闔閭が後継を選ぼうとしていると聞き、まず子胥のもとに参上して言った。「私は嫡孫です。太子を立てるとすれば、私を措いて誰がおりましょうか。これは相国の一言にかかっております。」
  • 子胥はこれを許した。
  • しばらくして闔閭は人を遣わして子胥を召し、後継を立てる件を相談した。
  • 子胥は言った。「嫡子をもって太子を立てれば、乱は生じません。今、太子波はすでに亡くなりましたが、嫡孫の夫差がおります。」
  • 闔閭は言った。「寡人が夫差を見るに、愚かで不仁である。呉の統を奉じるには適さないのではないかと恐れる。」
  • 子胥は言った。「夫差は誠実で人を愛し、礼義に篤い人物です。父が死ねば子が代わるのは、古来明文にある道理、どうして疑われましょうか。」
  • 闔閭は「寡人は卿の言に従おう。卿よ、よく彼を輔けてくれ」と言い、そこで夫差を太孫に立てた。
  • 夫差は子胥の家に至り、頭を地につけて礼をし、謝意を述べた。

檇李の戦いと闔閭の死

  • 周敬王二十四年、闔閭は年老いてますます気が短くなっていた。越王允常が薨去し、子の句踐が新たに即位したと聞き、その喪に乗じて越を伐とうとした。
  • 子胥は諫めて言った。「越にはかつて呉を襲った罪があるとはいえ、今まさに大喪の最中です。これを討つのは不吉です。しばらくお待ちください。」
  • 闔閭はこれを聞き入れず、子胥と太孫夫差を残して国を守らせ、自ら伯嚭・王孫駱・専毅らを率い、精兵三万を選んで南門を出て、越国へと進発した。
  • 越王句踐は自ら軍を統率してこれを迎え撃った。諸稽郢を大将、靈姑浮を先鋒、疇無餘と胥犴を左右の翼とし、呉兵と檇李で相まみえた。
  • 十里の距離を挟んでそれぞれ陣を張った。両軍は挑発しあったが、勝敗はつかなかった。
  • 闔閭は大いに怒り、全軍を五臺山に布陣させ、軍中に軽々しく動かぬよう戒め、越兵が油断するのを待って乗じようとした。
  • 句踐は呉の陣の隊列が整然とし、戈や甲冑といった武具が精良であるのを見て、諸稽郢に言った。「彼らの兵勢は非常に盛んだ。軽々しく戦ってはならぬ。必ず計をもって乱さねばならぬ。」
  • そこで大夫の疇無餘と胥犴に決死の士を率いさせ、左の五百人には長槍を、右の五百人には大きな戟を持たせ、一斉に鬨の声を上げて呉軍に突入させた。
  • 呉の陣はまったく相手にせず、陣中は弓弩の手が固く守り、鉄の壁のようであった。三度突撃を試みたがいずれも突破できず、引き返すほかなかった。
  • 句踐はどうしようもなかった。
  • 諸稽郢はひそかに奏上した。「死罪人を使うことができましょう。」句踐はこれを悟った。
  • 翌日、ひそかに軍令を伝え、軍中の死罪人をすべて出させると、合わせて三百人になった。これを三列に分け、みな衣をはだけ首に剣を当てて、静かに呉軍に歩み寄らせた。
  • 先頭の者が進み出て言った。「我が主、越王は身のほど知らずにも大国に罪を犯し、かたじけなくもご征討のお手を煩わせるに至りました。臣らはあえて死を惜しみません、我が身の死をもって越王の罪の代わりとしたく存じます。」
  • 言い終わると、順に自ら首をはねていった。
  • 呉兵はこれまでこのような光景を見たことがなく、はなはだ怪しみ、みな注視した。互いに語り合いながらも、なぜこのようなことをするのかまったく理解できなかった。
  • 越の陣中で突然太鼓が鳴り響き、その音は大いに轟いた。疇無餘と胥犴が決死の兵二隊を率い、それぞれ大楯を掲げ、刀剣などの短い得物を持ち、鬨の声を上げて突撃してきた。
  • 呉兵は動揺し、隊列は乱れた。
  • 句踐は大軍を率いて続き、右には諸稽郢、左には靈姑浮が呉の陣を切り開いた。
  • 王孫駱は命がけで諸稽郢と渡り合った。
  • 靈姑浮は長刀を奮い左右に突入し、敵を探して斬り結んでいたところ、ちょうど呉王闔閭に出くわし、靈姑浮は刀を振り下ろした。
  • 闔閭は後ろへ身をかわしたが、刀は右足に当たり、その足の指を傷つけ、履物が一つ車から落ちた。
  • そこへ専毅の兵が到着し、呉王を救い出した。専毅は重傷を負った。
  • 王孫駱は呉王が負傷したことを知り、あえて戦い続けず、急いで兵を収めた。越兵に追撃されて散々に打ちのめされ、死者は半数を超えた。
  • 闔閭は傷が重かったため、すぐに兵を引き上げて陣に戻った。靈姑浮は呉王の履物を得て功として献上した。句踐は大いに喜んだ。
  • さて呉王は年老いて痛みに耐えられず、七里ほど戻ったところで大声を一つ叫んで死んだ。
  • 伯嚭が喪を護って先に行き、王孫駱が兵を率いてしんがりを務め、ゆっくりと引き返した。越兵は追撃しなかった。
  • 史臣に、闔閭が用兵をやめなかったためにこの禍を招いたことを論じた詩がある。(詩:楚を破り斉を凌ぐほどの意気豪快さで、さらに越を呑もうと兵刀を起こしたが、戦を好む者はついに戦の中で死ぬもの、順風のときこそ篙(さお)の使い方に気をつけよという趣旨)

夫差嗣位、復讐を誓う

  • 呉の太孫夫差は喪を迎えて帰り、喪服をまとって位を継いだ。
  • 破楚門の外にある海湧山を選んで葬り、工人に山を穿たせて墓穴とし、専諸が用いた魚腸の剣を副葬させた。その他の剣甲六千揃え、金や玉の宝物をも墓の中いっぱいに納めた。
  • 埋葬が終わると、工人たちをことごとく殺して殉葬させた。
  • 三日後、ある人が墓の場所に白虎がうずくまっているのを見たといい、それによって虎邱山と名付けられた。識者はこれを埋められた金の気が現れたものと考えた。
  • 後に秦始皇が人を遣わして闔閭の墓を暴かせ、山を穿って剣を求めたが何も得られず、その掘った場所は深い谷となった。今の虎邱剣池がそれである。
  • 専毅も傷が重く亡くなり、山の後ろに合葬された。今もその場所はわからない。
  • 夫差は祖父を葬った後、長子の友を太子に立てた。
  • 侍者十人を用意し、代わる代わる庭に立たせ、自らが出入りするたびに、必ず大声でその名を呼ばせて告げさせた。「夫差よ!お前は越王がお前の祖父を殺したことを忘れたか。」夫差はそのたびに涙を流して答えた。「はい!忘れておりません!」これによって自らの心を戒めようとしたのである。
  • 子胥と伯嚭に太湖で水軍を訓練させ、また靈巖山に弓の練習場を設けて弓術を訓練させた。喪の三年が明けるのを待って、報復の兵を挙げようとした。(これは周敬王二十四年のことである。)

晋の六卿の内訌

  • このとき、晋の頃公は政を失い、六卿が党を組んで権を争い、互いに食い合っていた。
  • 荀寅は士吉射と親しく、姻戚関係を結んでいたため、韓不信と魏曼多はこれを忌んでいた。
  • 荀躒には寵臣の梁嬰父がいた。躒は彼を卿にしようとしていた。嬰父は荀躒の寵愛を恃み、荀寅を追放して自らその位に代わろうと謀った。それゆえ荀躒もまた范氏・中行氏と仲が悪くなった。
  • 上卿の趙鞅には族子の午がいて、邯鄲に封じられていた。午の母は荀寅の妹であったため、寅は午を甥と呼んでいた。
  • 先年、衛霊公と斉景公が結んで晋に叛いた際、晋の趙鞅は軍を率いて衛を討ち、衛は恐れて戸口五百家を貢いで謝罪した。鞅はこれを邯鄲に留め、「衛貢」と呼んだ。
  • ほどなく鞅はこの五百家を晋陽に移そうとしたが、午は衛人が従わないことを恐れ、すぐには命令に応じなかった。
  • 鞅は午が自分に逆らったことに怒り、午を晋陽に誘い出して捕らえ殺した。
  • 荀寅は趙鞅が私的に自分の甥を殺したことに怒り、士吉射と相談し、共に趙氏を討って邯鄲午の仇を報じようとした。
  • 趙氏の謀臣、董安于はそのとき趙氏のために晋陽城を守っていたが、二氏の企てを聞き、特に絳州へ赴き、趙鞅に告げた。「范氏・中行氏はまさに親しくしています。ひとたび乱を起こせば、制しきれないでしょう。主君はあらかじめこれに備えるべきです。」
  • 趙鞅は言った。「晋国には『最初に禍を起こした者は必ず誅される』という掟がある。彼らが先に事を起こすのを待って、それから応じればよい。」
  • 董安于は言った。「多くの民を害するよりは、むしろ私一人が死んだ方がよろしい。もし事が起これば、安于がその責を負いましょう。」鞅はこれを許さなかった。
  • 安于はひそかに甲冑と武器を用意し、その変事をうかがい待った。
  • 荀寅・士吉射は人々に言いふらした。「董安于は兵を治め、我らを害そうとしている。」そこで兵を連ねて趙氏を討ち、その邸宅を囲んだ。
  • 董安于は備えがあったため、兵を率いて血路を切り開き、趙鞅を護って晋陽城まで逃れた。二氏の攻撃を恐れ、砦を築いて自らを守った。
  • 荀躒は韓不信・魏曼多に言った。「趙氏は六卿の長である。寅と吉射が君命によらずして勝手にこれを追放したのだから、政はやがて二家に帰することになろう。」
  • 韓不信は言った。「なぜ最初に禍を起こした罪をもって、二家とも追放しないのですか。」
  • 三人はそこで共に定公に請い、それぞれの家兵を率いて定公を奉じて二家を討った。寅と吉射は力を尽くして防戦したが、勝てなかった。
  • 吉射は定公を劫かそうと謀った。韓不信はすぐさま人を遣わし、市中に「范・中行氏が謀反し、その君を劫かそうとしている!」と叫ばせた。国人はこの言葉を信じ、みな武器を取って定公を助けに来た。
  • 三家は国人の勢力を借りて、范・中行の兵を打ち破った。寅と吉射は朝歌へ逃れて叛乱を続けた。
  • 韓不信は定公に告げた。「范・中行氏こそ実に禍の首謀者です。今すでに追放されました。趙氏は代々晋に大功があります。鞅の位を復すべきです。」
  • 定公はことごとくこれに従い、鞅を晋陽から召して爵禄を復した。
  • 梁嬰父は荀寅に代わって卿になろうとし、荀躒がこれを趙鞅に伝えた。鞅は董安于に問うた。安于は言った。「晋はただ政が多くの門から出るゆえに、禍乱が絶えないのです。もし嬰父を立てれば、これはまた一人の荀寅を置くようなものです!」鞅はこれに従わなかった。
  • 嬰父は怒り、董安于に阻まれたことを知り、荀躒に言った。「韓・魏は趙に加担しています。智氏の勢力は孤立しております。趙氏が頼りとする者は、その謀臣、董安于です。なぜこれを除かないのですか。」
  • 躒は「除くにはどのような策があるか」と問うた。嬰父は言った。「安于はひそかに甲冑と武器を用意し、それによって范・中行の変事を誘発しました。最初に禍を起こした責を論ずれば、やはり安于が筆頭です。」
  • 荀躒は嬰父の言葉に従い、これをもって趙鞅を責めた。鞅は恐れた。
  • 董安于は言った。「臣は先にすでに死をもって自ら期しておりました。臣が死んで趙氏が安泰であれば、死は生よりも賢いことになります。」そのまま退いて自ら首を吊った。
  • 趙鞅はその屍を市に晒し、人を遣わして荀躒に告げさせた。「安于はすでに罪に服しました。」荀躒はそこで趙鞅と盟を結び、互いに害さないことを約した。
  • 鞅はひそかに自らの家廟に董安于を祀り、その労に報いた。
  • 寅と吉射は長らく朝歌に拠っており、晋に叛いた諸侯たちはみなこれを頼りに晋を害そうとしていた。趙鞅はたびたび兵を興して攻めたが、斉・魯・鄭・衛が粟や兵を送って二氏を助けたため、鞅は勝ちきれなかった。
  • 周敬王三十年に至り、趙鞅は韓・魏・智の三家の兵を合わせて朝歌を攻め落とした。寅と吉射は邯鄲へ逃れ、さらに柏人へ逃れた。ほどなく柏人城も破られ、その一党の范皋夷・張柳朔はいずれも戦死した。豫讓は荀躒の子、荀甲に捕らえられたが、甲の子、荀瑤が請うてこれを助命し、智氏の臣となった。
  • 寅と吉射は斉国へ亡命した。
  • 哀れなことに、荀林父から五代を経て寅に至り、士蒍から七代を経て吉射に至った。いずれの祖先も晋室を支えた重臣であったが、子孫は貪欲で横暴となり、ついに自らの宗族を滅ぼすに至った。まことに哀しいことではないか!晋の六卿はこれより趙・韓・魏・智の四卿のみとなった。これは後の話である。
  • 髯仙に詩がある。(詩:六卿は互いに併合し合いあるいは滅ぼし合ったが、すべては臣下の私家が主導したことであった、四氏が分割を急いだ結果、むしろ范・中行を残しておいた方がよかったのではないかという趣旨)

夫差、越を討ち句踐を固城に囲む

  • さて周敬王二十六年春二月、呉王夫差は喪が明けて久しく、太廟に告げ、国を挙げて兵を興し、子胥を大将、伯嚭を副将として、太湖から水路を取って越を攻めさせた。
  • 越王句踐は群臣を集めて協議し、出兵して迎え撃つこととした。
  • 大夫の范蠡、字は少伯、進み出て奏上した。「呉はその君(闔閭)を失ったことを恥とし、復讐を誓ってから今日で三年になります。その意志は激しく、その力は結束しております。当たることはできません。兵を収めて堅く守るのが良策です。」
  • 大夫の文種、字は会、奏上した。「愚見によれば、言葉を低くして謝罪し、和議を乞い、その兵が退くのを待ってから改めて策を練るのに越したことはありません。」
  • 句踐は言った。「二卿の言う守るとか和すとかは、いずれも最善の策ではない。呉は我が代々の仇敵である。攻めて来られながら戦わずにいれば、私には軍を率いる力がないと見なされよう。」
  • そこで国中の壮丁をことごとく起こし、合わせて三万人を率い、椒山の麓で迎え撃った。
  • 初めの戦いで呉兵はやや退き、百十人ほどが討たれた。句踐はその勢いに乗じてまっすぐ進み、数里も行ったところで、ちょうど夫差の大軍に出くわし、両軍は陣を布いて大いに戦った。
  • 夫差は船の舳先に立ち、自ら太鼓の枹を握って打ち鳴らし、将士を激励したので、勇気は十倍にもなった。
  • 突然北風が激しく吹き、波が湧き立つと、子胥と伯嚭はそれぞれ余皇の大艦に乗り、風に乗って帆を上げて下り、いずれも強い弓と強力な弩を用いて矢を雨あられのように射た。
  • 越兵は風を正面から受け、抵抗できず大敗して逃げた。呉兵は三手に分かれてこれを追撃した。
  • 越の将、靈姑浮は舟が転覆して水死し、胥犴も矢に当たって死んだ。呉兵は勝ちに乗じて追撃し、数えきれないほどの越兵を斬り殺した。
  • 句踐は固城まで逃げて自らを守ったが、呉兵はこれを幾重にも取り囲み、その水汲みの道を絶った。
  • 夫差は喜んで言った。「十日も経たぬうちに、越兵はことごとく渇き死ぬだろう。」
  • ところが山の頂には、もともと霊泉があり、泉には見事な魚が棲んでいた。句踐はこの魚数百尾を捕らせ、呉王に贈らせた。呉王は大いに驚いた。
  • 句踐は范蠡を留めて堅く守らせ、自らは残兵を率いて隙をついて会稽山へ逃れた。甲や楯の数を点検すると、残ったのは王を含めわずか千余人であった。
  • 句踐は嘆じて言った。「先君の代からこの孤の代に至るまで三十年来、これほどの敗北は一度もなかった。范・文の二大夫の言葉に従わなかったのを悔やんでも、こうなってしまった。」
  • 呉兵は固城への攻撃をますます急にした。子胥は右に、伯嚭は左に陣を張った。范蠡からの急報は、一日に三度も届いた。
  • 越王は大いに恐れた。
  • 文種は策を献じて言った。「事は急を要します!今こそ和議を求めるべきで、それならばまだ間に合いましょう。」
  • 句踐は言った。「呉が和議を許さなければどうする。」
  • 文種は答えた。「呉には太宰、伯嚭という者がおります。この者は財を貪り色を好み、功を妬み能力を憎む性質で、子胥と同じ朝廷にありながら志向が合いません。呉王は事において子胥を畏れておりますが、伯嚭には馴れ親しんでおります。もしひそかに太宰の陣を訪ね、彼の歓心を得て、和議の約束を結べば、太宰が呉王に言上し、聞き入れられないことはないでしょう。子胥がたとえこれを知って阻もうとしても、もう間に合いません。」
  • 句踐は言った。「卿が太宰に会うには、何を贈り物とすればよいか。」
  • 種は答えた。「軍中に不足しているのは女色でございます。まことに美女を得て献じることができれば、天が越を助けるならば、伯嚭は必ずこれを聞き入れましょう。」
  • 句踐はそこで夜通し使者を都に遣わし、夫人に命じて宮中の美しい女子を選ばせ、八人を得た。容色を整えさせた上、白璧二十双、黄金千鎰を添えて、夜に太宰の陣を訪ねさせ、太宰への謁見を求めた。

伯嚭の口添えで和議成り、子胥の諫めは退けられる

  • 嚭は初め拒もうとしたが、しばらく人を遣わしてその様子を探らせ、贈り物があると聞いて招き入れた。嚭は傲然と座って待った。
  • 文種は跪いて言った。「わが君、句踐は年若く物事を知らぬまま、大国によくお仕えできず、罪を犯すに至りました。今、わが君はすでに悔い改めております。国を挙げて呉の臣となることを願っておりますが、王に咎められて受け入れられないことを恐れております。太宰の巍々たる功徳が、外にあっては呉の干城となり、内にあっては王の腹心となっておられることを存じております。わが君は下臣、種を遣わし、まず陣営の門にてぬかずかせ、あなた様の重いお力添えをお借りして、わが君を庇護の下にお収めいただきたく存じます。粗末ではございますが、これをもってわずかなしるしとし、これより先も絶えず献上いたす所存です。」そう言って賄賂の目録を嚭に差し出した。
  • 嚭はなお顔色を作って言った。「越国は朝夕にも滅び去ろうというのに、越の持てるものすべては、いずれ呉のものになるのではないか。どうしてこれしきのものを私に贈り物とするのか。」
  • 種はさらに進み出て言った。「越兵は敗れたとはいえ、会稽を守る精兵はなお五千おり、まだ一戦する力があります。戦って勝てなければ、府庫の蓄えをことごとく焼き払い、異国に身を投じて楚王のような身の振り方を図る所存です。どうしてたやすく呉の物になりましょうか。仮に呉がすべてを手に入れたとしても、その大半は王宮に帰し、太宰は諸将と共に一二を分け合うに過ぎません。それよりも、越との和議を太宰みずから取り仕切られる方が良いのではないでしょうか。わが君は王に身を委ねるのではなく、実は太宰に身を委ねているのです。春秋の貢献も、王宮に入る前に、まず太宰の府に入ることになります。これは太宰が独り越の利益をすべて占め、他の諸将にはその分がないということです。しかも窮した獣ですら猶も争うもの、城を背に一戦すれば、なお予測しがたい事態も起こりましょう。」
  • この一席の言葉は伯嚭の心に深く入り込み、思わずうなずいて微笑んだ。
  • 文種はさらに目録に記された八人の美人を指して言った。「この八人はみな越の宮中から出た者です。もし民間にこれ以上の美人がいれば、わが君はもし生きて越国に帰れましたなら、力を尽くしてこれを探し求め、太宰の掃除役として差し上げましょう。」
  • 伯嚭は立ち上がって言った。「大夫は右営を捨てて左営に来られた。これは私に危うきに乗じて人を害する意図がないからでしょう。私は明朝、あなたを我が王に引き合わせ、この件を決めましょう。」
  • そのまま献上品をすべて受け取り、種を陣中に留めて、賓主の礼をもてなした。
  • 翌朝、共に中軍に赴き、夫差に謁見した。伯嚭が先に入り、越王句踐が文種を遣わして和議を求めていることを詳しく伝えた。
  • 夫差は激しい怒りを見せて言った。「越と寡人には共に天を戴けぬ恨みがある。どうしてその和議を許せようか。」
  • 嚭は答えた。「王は孫武の言葉をお忘れですか。『兵は凶器であり、しばらく用いることはあっても、長く用いてはならぬ』と。越は呉に罪を犯したとはいえ、その臣従の意はすでに極まっております。その君は呉の臣となることを願い、その妻は呉の妾となることを願い、越国の宝器珍玩はことごとく掃い集めて呉宮に貢ぐと申しております。王に乞うのは、ただ祖先の祭りを一筋残すことのみです。そもそも越の降伏を受け入れれば、それは実利であり、越の罪を赦せば、それは名声であります。名も実も共に手に入れば、呉は覇を唱えられましょう。もしどうしても兵力を尽くして越を誅そうとされれば、句踐は宗廟を焼き、妻子を殺し、金や玉を江に沈め、決死の兵五千を率いて呉に必死の抵抗をするでしょう。それでは王の左右の者にまで害が及ばないとも限りません。かの者を殺すことと、その国を得る利益とでは、どちらが優れているでしょうか。」
  • 夫差は「今、文種はどこにいるか」と尋ねた。嚭は「幕外にお召しを待たせております」と答えた。夫差は種を召し入れた。
  • 種は膝行して進み出て、先の言葉を繰り返し、さらに卑下した態度で述べた。
  • 夫差は「そなたの君は臣下として仕えることを願うと言うが、寡人に従って呉に来られるか」と問うた。
  • 種は頭を地につけて礼をして言った。「すでに臣下として仕える以上、生死は大王のお心のままです。あえて左右に仕えぬことがございましょうか。」
  • 嚭は言った。「句踐夫婦が呉に来ることを望んでいる以上、呉は名目上越を赦すだけで、実際にはすでにこれを手中に収めたようなものです。王はこれ以上何を求められましょうか。」
  • 夫差はそこで和議を許した。
  • ちょうどそのとき右営に人がこれを報じ、子胥に知らせた。子胥は急いで中軍に馳せつけると、伯嚭が文種と共に王の側に立っているのを見た。
  • 子胥は怒りに顔を満たし、呉王に尋ねた。「王はすでに越との和議をお許しになったのですか。」
  • 王は「すでに許した」と答えた。
  • 子胥は続けざまに叫んだ。「なりません、なりません!」
  • 文種は驚いて何歩か後ずさりし、静かにその言葉を聞いた。
  • 子胥は諫めて言った。「越と呉は隣り合い、両立し得ぬ勢いにあります。もし呉が越を滅ぼさなければ、越は必ず呉を滅ぼすでしょう。そもそも秦や晋のような国は、我らが攻め勝ってもその地に居ることはできず、その車を得ても乗ることはできません。しかし越を攻めて勝てば、その地に居ることができ、その舟に乗ることができます。これは社稷の利であり、捨ててはなりません。まして先王の大仇があります。越を滅ぼさなければ、どうして立庭の誓いに応えられましょうか。」
  • 夫差は言葉に詰まり、答えられず、ただ目で伯嚭を見た。
  • 伯嚭は進み出て言った。「相国の言葉は誤りです!先王が国を建てられたとき、水陸それぞれに封じられました。呉と越は水に、秦と晋は陸に適した国です。もしその地に居られる、その舟に乗れるという理由で、呉と越が共に存在しえないと言うなら、秦・晋・斉・魯もみな陸の国であり、その地にも居ることができ、その車にも乗ることができます。彼ら四国もまた併せて一つになるべきだとおっしゃるのですか。もし先王の大仇ゆえに必ず赦せないと言うなら、相国の楚に対する仇はさらに深いはずです。それなのに相国はなぜ楚国を滅ぼしてしまわず、その和議をあっさり許したのですか。今、越王夫婦はいずれも呉に仕えることを願っており、羋勝を単に受け入れた楚の場合とは比べものになりません。相国は自ら情に厚く誠実な行いをなさりながら、王には刻薄な汚名を着せようとしておられます。忠臣とはこのようなものではありません。」
  • 夫差は喜んで言った。「太宰の言葉には理がある。相国はしばらく退かれよ。越国からの貢献の品が届いた際には、そなたにも分けよう。」
  • 子胥は面が土色になるほど怒り、嘆いて言った。「私が被離の言葉を聞かず、このような佞臣と共に仕えることになったのは、悔やんでも悔やみきれない。」口の中で恨みの言葉を絶やさなかった。
  • やむなく本陣を出て、大夫の王孫雄に言った。「越は十年かけて民を蓄え力を養い、さらに十年かけて教育訓練を施すだろう。二十年を出ずして、呉の宮殿は沼になるだろう。」
  • 雄はまだ深く信じてはいなかった。
  • 子胥は憤りを抱えたまま自らの陣に戻った。
  • 夫差は文種に越王への返答を持ち帰らせ、再び呉軍に来て謝辞を述べさせた。
  • 夫差は越王夫婦が呉に入る時期を尋ねた。文種は答えた。「わが君は大王の赦しを受け誅を免れましたゆえ、しばらく帰国することをお許しいただき、玉や絹と子女をことごとく集めて呉に貢ぎたく存じます。願わくは大王、いましばらく期限をお緩めください。もし約束に背けば、どうして大王の誅を逃れられましょうか。」
  • 夫差はこれを承諾し、五月中旬に夫婦して呉に臣従することを約束した。
  • そこで王孫雄を文種に同道させて越国に遣わし、出発を促させた。太宰伯嚭は兵一万を呉山に駐屯させて待ち、もし期限が過ぎても来なければ、越を滅ぼしてその旨を報告することとした。
  • 夫差は大軍を率いて先に帰った。
  • 果たして越王がどのように呉に入るかは、次回をご覧いただきたい。
原文(底本)
話說齊侯自會夾谷歸後,晏嬰病卒,景公哀泣數日,正憂朝中乏人,復聞孔子相魯,魯國大治,驚曰:「魯相孔子必霸,霸必爭地,齊為近鄰,恐禍之先及,奈何?」大夫黎彌進曰:「君患孔子之用,何不沮之?」景公曰:「魯方任以國政,豈吾所能沮乎?」黎彌曰:「臣聞治安之後,驕逸必生。請盛飾女樂,以遺魯君,魯君幸而受之,必然怠於政事,而疏孔子。孔子見疏,必棄魯而適他國,君可安枕而臥矣。」景公大悅,即命黎彌於女閭之中,擇其貌美年二十以內者,共八十人,分為十隊,各衣錦繡,教之歌舞。其舞曲名《康樂》,聲容皆出新製,備態極妍,前所未有。教習已成,又用良馬一百二十匹,金勒雕鞍,毛色各別,望之如錦,使人致獻魯侯。使者張設錦棚二處,於魯南門之外,東棚安放馬群,西棚陳列女樂。先致國書於定公,公發書看之。書曰:

    杵臼頓首啟魯賢侯殿下:孤向者獲罪夾谷,愧未忘心。幸賢侯鑒其謝過之誠,克終會好。日以國之多虞,聘問缺然。茲有歌婢十群,可以侑歡,良馬三十駟,可以服車,敬致左右,聊申悅慕。伏惟存錄!

  且說魯相國季斯安享太平,忘其所自,侈樂之志,已伏胸中。忽聞齊饋女樂,如此之盛,不勝豔慕。即時換了微服,與心腹數人,乘車潛出南門往看。那樂長方在演習。歌聲遏雲,舞態生風,一進一退,光華奪目,如遊天上,睹仙姬,非復人間思想所及。季斯看了多時,又閱其容色之美,服飾之華,不覺手麻腳軟,目睜口呆,意亂神迷,魂消魄奪。魯定公一日三宣,季斯為貪看女樂,竟不赴召。至次日,方入宮來見定公,定公以國書示之。季斯奏曰:「此齊君美意,不可卻也。」定公亦有想慕之意,便問:「女樂何在?可試觀否?」季斯曰:「見列高門之外,車駕如往,臣當從行,但恐驚動百官,不如微服為便。」於是君臣皆更去法服,各乘小車,馳出南門,竟到西棚之下。早有人傳出:「魯君易服親來觀樂了!」使者吩咐女子用心獻技。那時歌喉轉嬌,舞袖增豔,十隊女子,更番迭進,真乃盈耳奪目,應接不暇,把魯國君臣二人,喜得手舞足蹈,不知所以。有詩為證:

    一曲嬌歌一塊金,一番妙舞一盤琛﹔只因十隊女人面,改盡君臣兩個心。

從人又誇東棚良馬。定公曰:「只此已是極觀,不必又問馬矣。」是夜,定公入宮,一夜不寐,耳中猶時聞樂聲,若美人之在枕畔也。恐群臣議論不一,次早獨宣季斯入宮,草就答書,書中備述感激之意。不必盡述。又將黃金百鎰,贈與齊使。將女樂收入宮中,以三十人賜季斯,其馬付於圉人餵養。定公與季斯新得女樂,各自受用,日則歌舞,夜則枕席,一連三日,不去視朝聽政。孔子聞知此事,淒然長嘆。時弟子仲子路在側,進曰:「魯君怠於政事,夫子可以行矣。」孔子曰:「郊祭已近,倘大禮不廢,國猶可為也。」及祭之期,定公行禮方畢,即便回宮,仍不視朝,並胙肉亦無心分給。主胙者叩宮門請命,定公諉之季孫,季孫又諉之家臣。孔子從祭而歸,至晚,不見胙肉頒到,乃告子路曰:「吾道不行,命也夫!」乃援琴而歌曰:

    彼婦之口,可以出走。彼女之謁,可以死敗。優哉游哉,聊以卒歲!

歌畢,遂束裝去魯。子路冉有亦棄官從孔子而行。自此魯國復衰。史臣有詩云:

    幾行紅粉勝鋼刀,不是黎彌巧計高。天運凌夷成瓦解,豈容魯國獨甄陶。

  孔子去魯適衛,衛靈公喜而迎之,問以戰陣之事。孔子對曰:「丘未之學也。」次日遂行。過宋之匡邑,匡人素恨陽虎,見孔子之貌相似,以為陽虎復至,聚眾圍之。子路欲出戰,孔子止之曰:「某無仇於匡,是必有故,不久當自解。」乃安坐鳴琴。適靈公使人追還孔子,匡人乃知其誤,謝罪而去。孔子復還衛國,主於賢大夫蘧瑗之家。

  且說靈公之夫人曰南子,宋女也,有美色而淫。在宋時,先與公子朝相通。朝亦男子中絕色,兩美相愛,過於夫婦,既歸靈公,生蒯瞶,已長,立為世子,而舊情不斷。時又有美男子曰彌子瑕,素得君之寵愛,嘗食桃及半,以其餘,推入靈公之口。靈公悅而啖之,誇於人曰:「子瑕愛寡人甚矣!一桃味美,不忍自食,而分啖寡人。」群臣無不竊笑。子瑕恃寵弄權,無所不至。靈公外嬖子瑕,而內懼南子,思以媚之。乃時時召宋朝與夫人相會,醜聲遍傳,靈公不以為恥。蒯瞶深恨其事,使家臣戲陽速因朝見之際,刺殺南子,以滅其醜。南子覺之,訴於靈公。靈公逐蒯瞶,瞶奔宋,轉又奔晉。靈公立蒯瞶之子輒為世子。及孔子再至,南子請見之。知孔子為聖人,倍加敬禮。忽一日,靈公與南子同車而出,使孔子為陪乘。過街市,市人歌曰:

    同車者色耶?從車者德耶?

孔子嘆曰:「君之好德不如好色!」乃去衛適宋,與弟子習禮於大樹之下。宋司馬桓魋,亦以男色得寵於景公,方貴幸用事,忌孔子之來,遂使人伐其樹,欲求孔子殺之。孔子微服去宋適鄭。將適晉,至河,聞趙鞅殺賢臣竇犨舜華,嘆曰:「鳥獸惡傷其類,況人乎?」復返衛。未幾,衛靈公卒,國人立輒為君,是為出公。蒯瞶亦藉晉援,與陽虎襲戚據之。是時,衛父子爭國,晉助蒯瞶,齊助輒。孔子惡其逆理,復去衛適陳,又將適蔡。楚昭王聞孔子在陳蔡之間,使人聘之。陳蔡大夫相議,以為楚用孔子,陳蔡危矣,乃相與發兵圍孔子於野。孔子絕糧三日,而絃歌不輟。今開封府陳州界有地名桑落,其地有臺,名曰厄臺,即孔子當時絕糧處。宋劉敞有詩云:

    四海栖栖一旅人,絕糧三日死生鄰﹔自是天心勞木鐸,豈關陳蔡有愚臣。

  忽一晚,有異人長九尺餘,皂衣高冠,披甲持戈,向孔子大咤,聲動左右。子路引出與戰於庭,其人力大,子路不能取勝。孔子從旁諦視良久,謂子路曰:「何不探其脅?」子路遂探其脅,其人力盡手垂,敗而仆地,化為大鮎魚。弟子怪之。孔子曰:「凡物老而衰,則群精附焉。殺之則已,何怪之有。」命弟子烹之以充飢。弟子皆喜曰:「天賜也!」楚使者發兵以迎孔子。孔子至楚,昭王大喜,將以千社之地封孔子。令尹子西諫曰:「昔文王在豐,武王在鎬,地僅百里,能修其德,卒以代殷。今孔子之德,不下文武,弟子又皆大賢,若得據土壤,其代楚不難矣。」昭王乃止。孔子知楚不能用,乃復還衛。衛出公欲任以國政,孔子拒之。魯相國季孫肥亦來召其門人冉有,孔子因而返魯,魯以大夫告老之禮待之。於是諸弟子中,子路子羔仕於衛,子貢、冉有、有若、宓子賤仕於魯。這都是後話,敘明留作話柄。

  再說吳王闔閭自敗楚之後,威震中原,頗事遊樂。乃大治宮室,建長樂宮於國中,築高臺於姑蘇山。(山在城西南三十里,一名姑胥山。)於胥門外為徑九曲,以通山路。春夏則治於城外,秋冬則治於城中。忽一日,想起越人伐吳之恨,謀欲報之。忽聞齊與楚交通聘使,怒曰:「齊楚通好,此我北方之憂也!」欲先伐齊,後及越。相國子胥進曰:「交聘乃鄰國之常,未必助楚害吳,不可遽興兵旅。今太子波元妃已歿,未有繼室,王何不遣使求婚於齊?如其不從,伐之未晚。」闔閭從之。使大夫王孫駱往齊,為太子波求婚。時景公年已老耄,志氣衰頹,不能自振。宮中止一幼女未嫁,不忍棄之吳地。無奈朝無良臣,邊無良將,恐一拒吳命,興師來伐,如楚國之受禍,悔之何及!大夫黎彌亦勸景公結婚於吳,勿激其怒。景公不得已,以女少姜許婚。王孫駱回復吳王,工復遣納幣於齊,迎齊女歸國。景公愛女畏吳,兩念交迫,不覺流淚出涕,嘆曰:「若平仲穰苴一人在此,孤豈憂吳人哉?」謂大夫鮑牧曰:「煩卿為寡人致女於吳,此寡人之愛女,囑吳王善視之。」臨行,親扶少姜登車,送出南門而返。鮑牧奉少姜至吳,敬致齊侯之命﹔因慕子胥之賢,深相結納。不在話下。

  話說少姜年幼,不知夫婦之樂,與太子波成婚之後,一心只想念父母,日夜號泣。太子波再三撫慰,其哀不止,遂抑鬱成病。闔閭憐之,乃改造北門城樓,極其華煥,更其名曰望齊門,令少姜日遊其上。少姜凭欄北望,不見齊國,悲哀愈甚,其病轉增。臨絕命,囑太子波曰:「妾聞虞山之巔,可見東海,乞葬我於此,倘魂魄有知,庶幾一望齊國也!」波奏聞其父,乃葬於虞山頂上。今常熟縣虞山有齊女墓,又有望海亭是也。有張洪《齊女墳》詩為證。詩曰:

    南風初勁北風微,爭長諸姬復娶齊。越境定須千兩送,半途應拭萬行啼。望鄉不憚登臺遠,埋恨惟嫌起塚低。蔓草垂垂猶泣露,倩誰滴向故鄉泥?

太子波憶念齊女亦得病,未幾卒。闔閭欲於諸公子中,擇可立者,意猶未定,欲召子胥決之。太子波前妃生子名夫差,年已二十六歲矣,生得昂藏英偉,一表人材。聞其祖闔閭擇嗣,乃先趨見子胥曰:「我嫡孫也,欲立太子,舍我其誰!此在相國一言耳。」子胥許之。少頃,闔閭使人召子胥,商議立儲之事。子胥曰:「立子以嫡,則亂不生。今太子雖不祿,有嫡孫夫差在。」闔閭曰:「吾觀夫差,愚而不仁,恐不能奉吳之統。」子胥曰:「夫差信以愛人,敦於禮義,父死子代,經之明文,又何疑焉?」闔閭曰:「寡人聽子,子善輔之。」遂立夫差為太孫。夫差至子胥家稽首稱謝。

  周敬王二十四年,闔閭年老,性益躁,聞越王允常薨,子句踐新立,遂欲乘喪伐越。子胥諫曰:「越雖有襲吳之罪,然方有大喪,伐之不祥,宜少待之。」闔閭不聽,留子胥與太孫夫差守國,自引伯嚭、王孫駱、專毅等,選精兵三萬,出南門望越國進發。越王句踐親自督師禦之,諸稽郢為大將,靈姑浮為先鋒,疇無餘胥犴為左右翼,與吳兵相遇於檇李。相距十里,各自安營下寨。兩下挑戰,不分勝負。闔閭大怒,遂悉眾列陳於五臺山,戒軍中毋得妄動,俟越兵懈怠,然後乘之。句踐望見吳陣上隊伍整齊,戈甲精銳,謂諸稽郢曰:「彼兵勢甚振,不可輕敵,必須以計亂之。」乃使大夫疇無餘胥犴督敢死之士,左五百人,各持長槍,右五百人,各持大戟,一聲吶喊,殺奔吳軍。吳陣上全然不理,陣腳都用弓弩手把住,堅如鐵壁。沖突三次,俱不能入,只得回轉。句踐無可奈何。諸稽郢密奏曰:「罪人可使也。」句踐悟。次日,密傳軍令,悉出軍中所攜死罪者,共三百人,分為三行,俱袒衣注劍於頸,安步造於吳軍。為首者前致辭曰:「吾主越王,不自量力,得罪於上國,致辱下討。臣等不敢愛死,願以死代越王之罪。」言畢,以次自剄。吳兵從未見如此舉動,甚以為怪,皆注目而觀之,互相傳語,正不知其何故。越軍中忽然鳴鼓,鼓聲大振。疇無餘胥犴帥死士二隊,各擁大楯,持短兵,呼哨而至。吳兵心忙,隊伍遂亂。句踐統大軍繼進,右有諸稽郢,左有靈姑浮,沖開吳陣。王孫駱捨命與諸稽郢相持。靈姑浮奮長刀左沖右突,尋人廝殺,正遇吳王闔閭,靈姑浮將刀便砍。闔閭望後一閃,刀砍中右足,傷其將指,一屨墜於車下。卻得專毅兵到,救了吳王。專毅身被重傷。王孫駱知吳王有失,不敢戀戰,急急收兵,被越兵掩殺一陣,死者過半。闔閭傷重,即刻班師回寨。靈姑浮取吳王之屨獻功,句踐大悅。

  卻說吳王因年老不能忍痛,回至七里之外,大叫一聲而死。伯嚭護喪先行,王孫駱引兵斷後,徐徐而返。越兵亦不追趕。史臣有詩論闔閭用兵不息,致有此禍。詩曰:

    破楚凌齊意氣豪,又思吞越起兵刀﹔好兵終在兵中死,順水叮嚀莫放篙。

吳太孫夫差迎喪以歸,成服嗣位。卜葬於破楚門外之海湧山,發工穿山為穴,以專諸所用魚腸之劍殉葬,其他劍甲六千副,金玉之玩,棄牣其中。既葬,盡殺工人以殉。三日後,有人望見葬處,有白虎蹲踞其上,因名曰虎邱山,識者以為埋金之氣所現。後來秦始皇使人發闔閭之墓,鑿山求劍無所得,其鑿處遂成深澗,今虎邱劍池是也。專毅傷重亦死,附葬於山後,今亦不知其處矣。夫差既葬其祖,立長子友為太子。使侍者十人,更番立於庭中,每自己出入經由,必大聲呼其名而告曰:「夫差!爾忘越王殺爾之祖乎?」即泣而對曰:「唯!不敢忘!」欲以儆惕其心。命子胥伯嚭練水兵於太湖,又立射棚於靈巖山以訓射,俟三年喪畢,便為報仇之舉。(此周敬王二十四年事也。)

  是時,晉頃公失政,六卿樹黨爭權,自相魚肉。荀寅與士吉射相睦,結為婚姻,韓不信魏曼多忌之。荀躒有寵臣曰梁嬰父,躒欲以為卿。嬰父恃荀躒之愛,謀逐荀寅而代其位。故荀躒亦與范氏中行氏相惡。上卿趙鞅有族子名午,封於邯鄲。午之母,荀寅之娣,故寅呼午為甥。先年,衛靈公與齊景公合謀叛晉,晉趙鞅帥師伐衛,衛懼,貢戶口五百家謝罪,鞅留於邯鄲,謂之「衛貢」。未幾,鞅欲遷五百家以實晉陽,午恐衛人不服,未即奉命。鞅怒午之抗己,遂誘午至晉陽,執而殺之。荀寅怒趙鞅私殺其甥,因與士吉射商議,欲共伐趙氏,為邯鄲午報仇。趙氏有謀臣曰董安于,時為趙氏守晉陽城,聞二氏之謀,特至絳州,告於趙鞅曰:「范中行方睦,一旦作亂,恐不可制,主君宜先為之備。」趙鞅曰:「晉國有令,始禍必誅,待其先發而後應之可也。」董安于曰:「與其多害百姓,寧我獨死,若有事,安于當之。」鞅不可。安于乃私具甲兵,以伺其變。荀寅士吉射倡言於眾曰:「董安于治兵,將以害我。」於是連兵以伐趙氏,圍其宮。卻得董安于有備,引兵殺開一條血路,保護趙鞅奔晉陽城。恐二氏來攻,建壘自守。荀躒謂韓不信魏曼多曰:「趙氏六卿之長,寅與吉射不由君命而擅逐之,政其歸二家矣。」韓不信曰:「盍以始禍為罪,而并逐之?」三人遂同請於定公,各率家甲,奉定公以伐二家,寅吉射悉力拒戰,不能取勝。吉射謀劫定公,韓不信遽使人呼於市中曰:「范中行氏謀反,來劫其君妖!」國人信其言,各執兵器,來救定公。三家借國人之眾,殺敗范中行之兵。寅吉射奔於朝歌以叛。韓不信告於定公曰:「范中行實為首禍,今已逐矣。趙氏世有大功於晉,宜復鞅位。」定公言無不從,遂召鞅於晉陽,復其爵祿。梁嬰父欲代荀寅為卿,荀躒言於趙鞅。鞅問董安于,安于曰:「晉惟政出多門,故禍亂不息。若立嬰父,是乃又置一荀寅也!」鞅乃不從。嬰父怒,知為董安于所阻,謂荀躒曰:「韓魏黨於趙,智氏之勢孤矣。趙氏所恃者,其謀臣董安于也,何不去之?」躒問曰:「去之何策?」嬰父曰:「安于私具甲兵,以激成范中行之變,若論始禍,還是安于為首。」荀躒如嬰父之言,以責趙鞅,鞅懼。董安于曰:「臣向者固以死自期矣。臣死而趙氏安,是死賢於生也。」乃退而自縊。趙鞅乃陳其屍於市,使人告於荀躒曰:「安于已伏罪矣。」荀躒乃與趙鞅結盟,各無相害。鞅私祀董安于於家廟之中,以答其勞。寅吉射久據朝歌,諸侯叛晉者,皆欲借之以害晉。趙鞅屢次興師攻之,齊、魯、鄭、衛遣使輸粟助兵,以救二氏,鞅不能克。直至周敬王三十年,趙鞅合韓、魏、智三家之兵,攻下朝歌,寅吉射奔邯鄲,再奔柏人。未幾,柏人城復破,其黨范皋夷張柳朔俱戰死﹔豫讓為荀躒子荀甲所獲,甲子荀瑤請而活之,遂為智氏之臣。寅吉射逃奔齊國去訖。可憐荀林父五傳至寅,士蒍七傳至吉射,祖宗俱晉室股肱之臣也,子孫貪橫,遂至滅宗,豈不哀哉!晉六卿自此只有趙、韓、魏、智四卿矣。此是後話。髯仙有詩云:

  六卿相并或存亡,總是私門作主張﹔四氏瓜分謀愈急,不如留卻范中行。

  且說周敬王二十六年春二月,吳王夫差除喪已久,乃告於太廟,興傾國之兵,使子胥為大將,伯嚭副之,從太湖取水道攻越。越王句踐集群臣計議,出師迎敵。大夫范蠡字少伯,出班奏曰:「吳恥喪其君,誓矢圖報者,三年於茲矣。其志憤,其力齊,不可當也。宜斂兵為堅守之計。」大夫文種字會,奏曰:「以愚見,莫若卑詞謝罪,以乞其和,俟其兵退而後圖之。」句踐曰:「二卿言守言和,皆非至計。夫吳,吾世仇也,伐而不戰,以我不能軍矣。」乃悉起國中丁壯,共三萬人,迎於椒山之下。初合戰,吳兵稍卻,殺傷約百十人。句踐趨利直進,約行數里,正遇夫差大軍,兩下布陣大戰。夫差立於船頭,親自秉枹擊鼓,以激厲將士,勇氣十倍。忽北風大起,波濤洶湧,子胥伯嚭各乘餘皇大艦,順風揚帆而下,俱用強弓勁弩,箭如飛蝗般射來。越兵迎風,不能抵敵,大敗而走,吳兵分三路逐之。越將靈姑浮舟覆溺水而死,胥犴中箭亦亡,吳兵乘勝追逐,殺死不計其數。句踐奔至固城自保,吳兵圍之數重,絕其汲道。夫差喜曰:「不出十日,越兵俱渴死矣。」誰知山頂之上,自有靈泉,泉有嘉魚,句踐命取魚數百頭,以饋吳王,吳王大驚。句踐留范蠡堅守,自帥殘兵,乘間奔會稽山。點閱甲楯之數,纔剩得王千餘人,句踐嘆曰:「自先君對於孤,三十年來,未嘗有此敗也!悔不聽范文二大夫之言,以至如此。」吳兵攻固城益急,子胥營於右,伯嚭營於左,范蠡告急,一日三至。越王大恐。文種獻謀曰:「事急矣!及今請成,猶可及也。」句踐曰:「吳不許成,奈何?」文種對曰:「吳有太宰伯嚭者,其人貪財好色,忌功嫉能,與子胥同朝,而志趣不合。吳王畏事子胥,而暱於嚭。若私詣太宰之營,結其懽心,與定行成之約,太宰言於吳王,無不聽。子胥雖知而阻之,亦無及矣。」句踐曰:「卿見太宰,以何為賂?」種對曰:「軍中所乏者,女色耳。誠得美女而獻之,天若祚越,嚭當見聽。」句踐乃連夜遣使至都城,命夫人選宮中之有色者得八人,盛其容飾,加以白璧二十雙,黃金千鎰,夜造太宰之營,求見太宰。嚭初欲拒絕﹔姑使人探其來狀,聞有所齎獻,乃召入。嚭倨坐以待之。文種跪而致詞曰:「寡君句踐,年幼無知,不能善事大國,以致獲罪。今寡君已悔恨無及。願舉國請為吳臣,而恐王見咎不納,知太宰以巍巍功德,外為吳之干城,內作王之心膂。寡君使下臣種,先叩首於轅門,借重一言,收寡君於宇下。不腆之儀,聊效薄贄,自此當源源而來矣。」乃以賄單呈上嚭。猶作色謂曰:「越國旦暮且破滅矣,凡越所有,何患不歸吳?而以此區區者啖我為耶?」種復進曰:「越兵雖敗,然保會稽者,尚有精卒五千,堪當一戰。戰而不捷,將盡焚庫藏之積,竄身異國,以圖楚王之事,安得遽為吳有耶?即使吳盡有之,然大半歸於王宮,太宰同諸將,不過瓜分一二。孰若主越之成,寡君非委身於王,實委身於太宰也,春秋貢獻,未入王宮,先入宰府,是太宰獨擅全越之利,諸將不得與焉。況困獸猶鬥,背城一戰,尚有不可測之事乎?」這一席話,說入伯嚭之心,不覺點頭微笑。文種又指單上所開美人曰:「此八人者,皆出自越宮,若民間更有美於此者,寡君若生還越國,常竭力搜求,以備太宰掃除之數。」伯嚭起立曰:「大夫舍右營而趨左,以某無乘危害人之意也。某來朝當引子先見吾王,以決其議。」逐盡收所獻,留種於營中,敘賓主之禮。次早,同造中軍,來見夫差。伯嚭先入,備道越王句踐使文種請成之意。夫差勃然曰:「越與寡人有不共戴天之恨,安得允其成哉?」嚭對曰:「王不記孫武之言乎?『兵凶器,可暫用而不可久也。』越雖得罪於吳,然其下吳者已至矣。其君請為吳臣,其妻請為吳妾,越國之寶器珍玩,盡掃以貢於吳宮。所乞於王者,僅存宗祀一線耳。夫受越之降,厚實也,赦越之罪,顯名也。名實俱收,吳可以伯。必欲窮兵力以誅越,彼句踐將焚宗廟,殺妻子,沉金玉於江,率死士五千人,致死於吳,得無有所傷於王之左右乎?與其殺是人,孰若得是國之為利?」夫差曰:「今文種安在?」嚭對曰:「見在幕外候宣。」夫差乃命種入見。種膝行而前,復申前說,加以卑遜。夫差曰:「汝君請為臣妾,能從寡人入吳否?」種稽首曰:「既為臣妾,死生在君,敢不服事於左右!」嚭曰:「句踐夫婦願來吳國,吳名雖赦越,實已得之矣,王又何求焉?」夫差乃許其成。早有人到右營報知子胥。子胥急趨至中軍,見伯嚭同文種立於王側。子胥怒氣盈面,問吳王曰:「王已許越和乎?」王曰:「已許之矣。」子胥連叫曰:「不可,不可!」嚇得文種倒退幾步,靜聽其說。子胥諫曰:「越與吳鄰,有不兩立之勢,若吳不滅越,越必滅吳。夫秦晉之國,我攻而勝之,得其地,不能居,得其車,不能乘。如攻越而勝之,其地可居,其舟可乘,此社稷之利,不可棄也。況又有先王大仇,不滅越,何以謝立庭之誓乎?」夫差語塞不能對,惟以目視伯嚭。伯嚭前奏曰:「相國之言誤矣!先王建國,水陸並封,吳越宜水,秦晉宜陸。若以其地可居,其舟可乘,謂吳越必不能共存,則秦、晉、齊、魯皆陸國也,其地亦可居,其車亦可乘,彼四國者,亦將并而為一乎?若謂先王大仇,必不可赦,則相國之仇楚者更甚,何不遂滅楚國而遽許其和耶?今越王夫婦皆願服役於吳,視楚僅納羋勝更不相同,相國自行忠厚之事,而欲王居刻薄之名,忠臣不如是也。」夫差喜曰:「太宰之言有理,相國且退,俟越國貢獻至日,當分贈汝。」氣得子胥面如土色,嘆曰:「吾悔不聽被離之言,與此佞臣同事!」口中恨恨不絕。只得步出幕府,謂大夫王孫雄曰:「越十年生聚,再加以十年之教訓,不過二十年,吳宮為沼矣。」雄意殊未深信。子胥含憤,自回右營。夫差命文種回復越王,再到吳軍申謝。夫差問越王夫婦入吳之期,文種對曰:「寡君蒙大王赦而不誅,將暫假歸國,悉歛其玉帛子女,以貢於吳,願大王稍寬其期。其或負心失信,安能逃大王之誅乎?」夫差許諾,遂約定五月中旬,夫婦入臣於吳。遂遣王孫雄押文種同至越國,催促起程。太宰伯嚭屯兵一萬於吳山,以候之,如過期不至,滅越歸報。夫差引大軍先回。畢竟越王如何入吳,且看下回分解。

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