東周列國志第八十一回 美人計により呉宮で西施が寵される/言語の科をもって子貢が列国を説く (美人計吳宮寵西施 言語科子貢說列國)

越王句踐、美女を求める

  • 越王句踐は国内の美女を訪ね求め、呉王に献上しようとした。文種が計を献じて言った。「王の側近の若い者百人を得て、人相見の巧みな者を交えて用い、その術を携えて国中をあまねく巡らせ、容色のある者を見つけたら、その人の居所を記録させましょう。その中から選抜すれば、美女がいないことを憂える必要がありましょうか」。句踐はその計に従った。半年のうちに、報告のあった美女は二十余人どころではなかった。句踐はさらに人を遣わして改めて見させ、とりわけ美しい二人を得たので、その姿絵を描かせて献上させた。その二人とは誰か。西施と鄭旦である。西施は苧蘿山のふもとで薪を採る者の娘であった。その山には東西二つの村があり、施という姓の者が多く、娘は西村にいたので、西施と呼んで区別した。鄭旦もまた西村におり、施の娘と隣り合わせに住み、川に臨んで暮らしていた。毎日ともに川で紗を洗い、その紅顔と花のような容貌が互いに映えあい、まるで並んで咲く蓮のようであった。句踐は范蠡に命じ、それぞれ百金で二人を招かせた。綺羅の衣を着せ、幾重にも帳を垂らして人目を遮った車に乗せると、国人は美人の噂を慕って、争って見ようとし、みな郊外に出て出迎え、道はそのために塞がった。范蠡はそこで西施と鄭旦を別館にとどめ、布告した。「美人を見たい者は、まず金銭一文を納めよ」。箱を設けて金を集めると、たちまち満ちた。美人が朱塗りの楼に登り、欄干に凭れて立つと、下から見上げる者は、まるで天女が空を歩むかのようであった。美人は郊外に三日とどまり、得た金銭は数え切れず、すべて府庫に運び入れ、国の費用に充てた。句踐は自ら美人を送って土城に別居させ、老楽師に歌舞を教えさせ、立ち居振る舞いを学ばせ、その芸が成るのを待って、その後に呉に進上することにした。(このとき周の敬王三十一年、句踐が位に在って七年目であった。)

齊の政変――悼公の擁立

  • 前年、齊の景公杵臼が薨じ、幼子の荼が跡を継いだ。この年、楚の昭王軫も薨じ、世子の章が跡を継いだ。当時、楚はちょうど事変が多く、晋の政もまた衰え、齊は晏嬰の死以来、魯は孔子が去って以来、いずれも国が振るわず、ただ呉国だけが強盛で、天下に並ぶ者がなかった。夫差はその兵力を頼み、山東の地を蚕食しようとする志があり、諸侯でこれを畏れぬ者はなかった。
  • さて齊の景公には夫人燕姫がいたが、生んだ子は夭折し、庶出の公子は六人おり、陽生が最年長、荼が最年少であった。荼の母鬻姒は身分卑しいが寵愛を受けており、景公は母のゆえに子をも溺愛し、荼を特別に可愛がって「安孺子」と号した。景公は在位五十七年、すでに七十余歳になっていたが、世子を立てることを肯んぜず、安孺子が成長するのを待ってから立てようとしていた。ところが病に倒れて起き上がれなくなり、そこで代々仕える世臣の国夏・高張に、荼を輔佐して君とするよう託した。大夫陳乞は、かねて公子陽生と親しかったので、陽生が誅されるのを恐れ、出て避難するよう勧めた。陽生はその子の壬および家臣の闞止とともに、魯国へ出奔した。景公は果たして国氏・高氏の二氏に群公子を追放させ、萊の邑に遷らせた。景公が薨じ、安孺子の荼が立つと、国夏・高張が左右で政をとった。陳乞は表向き従順に振る舞ったが、内心では二氏を忌んでいた。そこで諸大夫の前で偽って言った。「高氏・国氏には謀があり、旧臣を除いて安孺子の党を用いようとしている」。諸大夫はこれを信じ、みな陳乞のもとに計を求めた。陳乞は鮑牧とともに首謀者となり、諸大夫の家兵を率いて、共に高氏・国氏を攻め、高張を殺し、国夏は莒国へ出奔した。そこで鮑牧が右相となり、陳乞が左相となり、国書・高無平を立てて二氏の祭祀を継がせた。安孺子はわずか数歳で、言動は人まかせであり、自立できなかった。陳乞は内心公子陽生を擁立しようとし、ひそかに人を遣わして魯からこれを召した。陽生は夜に齊の郊外に着き、闞止と我が子の壬を郊外にとどめ、自らは単身で城内に入り、陳乞の家に身を隠した。陳乞は先祖を祀ると偽り、諸大夫を家に招いて、共に祭りの余りを食べさせた。諸大夫はみな来た。鮑牧は別の場所で飲んでいたので、最後に到着した。陳乞は皆が席に着くのを待って、告げて言った。「私は新たに精良な甲冑を得た。ともに見てほしい」。皆は言った。「見たいものだ」。そこで力士が大きな袋を背負って内門から出て、堂の前まで来た。陳乞が自ら手で袋を開くと、一人の人間が袋の中から頭を出したのが見えた。よく見ると、それは公子陽生であった。人々は大いに驚いた。陳乞は陽生を扶けて出し、南を向けて立たせ、諸大夫に言った。「『年長の者を立てる』のは、古今の通則である。安孺子は幼く、君主に堪えない。今、鮑相国の命を奉じ、長公子にお仕えするよう改めて願う」。鮑牧は目をむいて言った。「私には元よりそのような謀はない。どうして誣告するのか。私が酔っているのに乗じるつもりか」。陽生は鮑牧に向かって会釈して言った。「廃立の事は、どの国にもあること。ただ義がどこにあるかによる。大夫は義の可否をお考えください。謀の有無を問う必要がありましょうか」。陳乞は言い終わるのを待たず、強いて鮑牧を引きずって拝礼させた。諸大夫はやむを得ず、みな北を向いてぬかずいた。陳乞は諸大夫とともに血をすすって盟を定めた。車がすでに整えられ、陽生を奉じて車に乗せ、朝廷に入り、御殿に即位させた。これが悼公である。その日のうちに安孺子を宮外に遷し、殺害した。悼公は鮑牧が自分を立てることを望んでいなかったのではないかと疑い、陳乞に問うた。陳乞もまた鮑牧の地位が自分より上であることを忌んでおり、ひそかに「鮑牧は群公子と交わりがあります。鮑牧を誅さなければ、国は結局安定しません」と讒言した。そこで悼公は改めて鮑牧を誅殺し、鮑息を立てて鮑叔牙の祭祀を存続させた。陳乞は独りで齊国の相となった。国人は悼公が無実の者を誅殺したのを見て、かなり怨みの声を上げるようになった。

邾国事件と悼公の毒殺・簡公の擁立

  • また、悼公には妹があり、邾子益に嫁いで夫人となっていた。益は傲慢無礼で、魯と不仲であった。魯の上卿季孫斯が哀公に進言し、兵を率いて邾を伐ち、その国を破って、邾子益を捕らえ、負瑕に幽閉した。齊の悼公は大いに怒って言った。「魯が邾君を捕らえたのは、齊を欺くものだ」。そこで使者を遣わして呉に援軍を乞い、共に魯を伐つことを約した。夫差は喜んで言った。「私は山東で兵を試したいと思っていたが、今その名分ができた」。そこで齊のために出兵することを承諾した。魯の哀公は大いに恐れ、すぐに邾子益を釈放して国に帰らせ、人を遣わして齊に謝罪させた。齊の悼公は大夫公孟綽を遣わして呉王に言わせた。「魯はすでに罪に服しており、大王の軍旅を煩わす必要はございません」。夫差は怒って言った。「呉の軍の進退は、すべて齊の命に従うものか。呉は齊の属国であろうか。寡人はまさに齊国に至り、前後二つの命令の理由を問おう」と、公孟綽を叱って退かせた。魯は呉王が齊に怒っていることを聞き、そこで人を遣わして呉によしみを通じて帰順を申し出、逆に呉王と共に齊を伐つことを約した。夫差は喜んでその日のうちに兵を起こし、魯とともに齊を伐ち、その南部の辺境を包囲した。齊は国を挙げて驚き慌て、みな悼公が無用に敵を招いたのだと考え、怨みの声はますます強くなった。
  • このとき陳乞はすでに没しており、子の陳恒が政を執っていた。国人が従わないのに乗じて、鮑息に言った。「あなたはどうして大事を行い、外は呉の怨みを解き、内は家門の仇を報いないのですか」。鮑息は自分にはできないと辞退した。陳恒は言った。「私があなたのためにこれを行おう」。そこで悼公が軍を閲兵する機会に乗じ、毒酒を進めて悼公を毒殺し、病のためだと呉軍に訃報を送って言った。「大国は天命を受け、わが君は罪を得て、にわかに悪疾を患いました。上天が大王に代わって誅を行ったのです。どうかご憐憫を賜り、社稷を滅ぼされませんように。世々大国にお仕えすることを願います」。夫差はそこで軍を引き返した。魯の軍もまた帰った。国人はみな悼公が非業の死を遂げたことを知っていたが、陳氏を畏れかつ愛していたため、誰も口にする者はなかった。陳恒は悼公の子の壬を立てた。これが簡公である。簡公は陳氏の権力を分けようとし、陳恒を右相とし、闞止を左相とした。昔の人は齊の禍はすべて景公に始まると論じた。詩に曰く(詩:溺愛が乱を招いた昔からの理を詠み、景公の溺愛が自ら禍の門を開いたことを歎じる内容)。

西施の呉宮入りと館娃宮

  • このとき越王が美女を教習させて三年、技芸も容姿もすっかり整い、真珠の帳で飾り、宝車に乗せ、通り過ぎる街々には香風が遠くまで漂った。また美しい侍女の旋波・移光ら六人を侍女とし、相国范蠡に命じて呉国に進上させた。夫差は齊から呉に戻ると、范蠡が拝謁し、再拝稽首して言った。「東海の賤臣句踐は、大王のご恩に感じ、自ら妻妾を率いて左右にお仕えすることはできませんので、境内をあまねく捜し、歌舞に巧みな者二人を得ましたので、陪臣にこれを王宮に納めさせ、掃除の役に供させます」。夫差はこれを見て、まるで神仙が下界に降りてきたかのように思い、魂も魄もすっかり酔いしれた。子胥は諫めて言った。「私は聞いております。『夏は妹喜のために滅び、殷は妲己のために滅び、周は褎姒のために滅びた』と。美女とは、国を滅ぼす物です。王はお受けになってはなりません」。夫差は言った。「色を好むのは、人の共通の心である。句踐はこの美女を得ても自ら用いず、寡人に進上した。これはまさに呉に忠を尽くす証である。相国、疑ってはならぬ」。そして受け取った。二人の女はいずれも絶世の美女であり、夫差はともに寵愛したが、妖艶にして人を魅了する巧みさでは、さらに西施が第一とされた。そこで西施ひとり歌舞の頭領となり、姑蘇の台に住み、寝所を独占する寵愛を受け、出入りの儀礼は妃后に准じるほどであった。鄭旦は呉宮に住み、西施の寵を妬み、鬱々として志を得ぬまま、一年余りで死んだ。夫差はこれを哀れみ、黄茅山に葬り、祠を建てて祀った。これは後の話である。
  • さて夫差は西施を寵愛し、王孫雄に命じて特に館娃宮を霊巌の上に建てさせた。銅の溝と玉の欄干をめぐらし、珠玉で飾って、美人が遊び休む場所とした。「響屧廊」を建てた(響屧とは何か。屧とは靴の名である。廊下の地面を空洞に掘り、大きな甕を敷き並べて平らにし、厚板で覆い、西施と宮人に靴を履いて歩かせて廻らせると、カラカラと音が鳴ったので、響屧と名づけた)。今の霊巌寺の円照塔の前にある小さな斜めの廊が、その跡である。高啓の『館娃宮』の詩に曰く(詩:館娃宮の高楼の建築を詠み、当時もっと高く築いていれば越の兵が来るのが見えただろうにと歎く内容)。王禹偁に『響屧廊』の詩あり(詩:廊は壊れ名だけが残ることを詠み、伍子胥が屍諫に終わったことをあわせて偲ぶ内容)。
  • 山上には翫花池・翫月池がある。また井戸があり、名を呉王井といい、井の水は清く碧く、西施は時々泉に姿を映して化粧をし、夫差はその傍らに立って自ら髪を整えてやった。また洞窟があり、名を西施洞といい、夫差は西施とともにここに坐った。洞の外の石にわずかな窪みがあり、今は俗に西施跡と呼ぶ。またかつて西施と山頂で琴を鳴らしたことがあり、今は琴台がある。また人に香山に香草を植えさせ、西施と美人たちに舟を浮かべて香草を採らせた。今、霊巌山から南を望むと、一筋の水が矢のようにまっすぐ流れており、俗に箭涇と呼ばれるが、これがすなわち採香涇の旧跡である。また採蓮涇があり、郡城の東南にあり、呉王が西施と蓮を採った場所である。また城中に大きな濠を開削し、南から北へまっすぐに通し、錦の帆をかけて遊んだので、錦帆涇と号した。高啓の詩に曰く(詩:呉王の在りし日の栄華と没後の荒廃を対比させ、花は年々咲くが見る人がいなくなったことを歎く内容)。
  • また城南には長洲苑があり、狩猟の場とした。また魚城で魚を養い、鴨城で鴨を飼い、雞陂で鶏を飼い、酒城で酒を造った。またかつて西施と西洞庭の南湾で避暑したことがあり、湾は十余里、三方は山に囲まれ、南側だけが門のようになっていた。呉王は「ここは夏を過ごすのによい」と言い、そこで消夏湾と名づけた。張羽にはまた『蘇台歌』あり(詩:館娃宮の花盛りと西施の舞姿を詠じ、干将莫邪の剣光の輝きにまで及ぶ内容)。
  • 夫差は西施を得てからというもの、姑蘇台を家として、四季思うままに出遊し、管弦の音を追い求め、遊びにふけって帰るのを忘れた。ただ太宰嚭と王孫雄だけが常に左右に侍り、子胥が謁見を求めても、しばしば断られた。

越の乞粟の計略

  • 越王句踐は呉王が西施を寵愛し、日ごとに遊興にふけっていると聞き、また文種と謀った。文種は答えて言った。「私は聞いております。『国は民を本とし、民は食を天とする』と。今年は穀物が不作で、粟米が高くなるでしょう。主君におかれては呉に借り入れを願い出て、民の飢えを救われてはいかがでしょう。天がもし呉を見捨てるなら、必ず私どもの借り入れを許すはずです」。句踐はすぐに文種に命じ、多額の贈り物で伯嚭を買収させ、呉王への謁見を取り次がせた。呉王は姑蘇台の宮で謁見を許した。文種は再拝して願い出た。「越国は低地にあり、水害と旱害が調わず、穀物が実らず、人民が飢えて困窮しております。願わくば大王より太倉の穀万石をお借りし、目前の飢えを救わせてください。来年穀物が実れば、すぐにお返しいたします」。夫差は言った。「越王は呉に臣従しており、越民の飢えは、すなわち呉民の飢えである。私がどうして蓄えた穀物を惜しんで、これを救わないでいられようか」。このとき子胥は越の使者が来たと聞き、彼もまた蘇台に至り、呉王に謁見して、穀物を貸すことを許すと聞くと、さらに諫めて言った。「なりません、なりません。今日の情勢は、呉が越を有するのでなければ、すなわち越が呉を有することになります。私が見るに、越王が使者を遣わしたのは、本当に飢えて困窮して穀物を乞うているのではなく、呉の粟を空にしようとしているのです。与えても親しくなるわけではなく、与えなくても仇になるわけでもありません。王は断るのがよいでしょう」。呉王は言った。「句踐は我が国に囚われ、馬前を歩かされたことは、諸侯で知らぬ者はない。今、私はその社稷を復興させ、恩は再生のごときであり、貢献は絶えていない。どうしてまた背叛の懸念があろうか」。子胥は言った。「私は聞いております。越王は朝早くから夜遅くまで政務に励み、民を憐れみ士を養い、志は呉に報いることにあります。大王がまた粟を輸してこれを助ければ、私は鹿が姑蘇台に遊ぶ日が来るのを恐れます」。呉王は言った。「句踐はすでに臣と称している。どうして臣でありながら君を伐つ者があろうか」。子胥は言った。「湯王が桀を伐ち、武王が紂を伐ったのは、臣が君を伐ったのではないのですか」。伯嚭が傍らから叱って言った。「相国の言は甚だしすぎます。我が王がどうして桀紂に比べられましょうか」。そして奏上して言った。「私は聞いております。葵丘の盟いでは、飢えた国が穀物を買い付けるのを妨げることを禁じておりますが、それは隣国を憐れむためです。ましてや越は、我らへの貢献の出どころではありませんか。来年穀物が実れば、その数だけ返済させれば、呉に損はなく、越に恩を施すことになります。何をはばかってこれを行わないのでしょうか」。夫差はそこで越に粟万石を与え、文種に言った。「寡人は群臣の議に逆らって、越に粟を輸す。豊作になれば必ず返してもらう。信を失ってはならぬぞ」。文種は再拝稽首して言った。「大王が越を憐れんでその飢えをお救いくださったのですから、約束通りにいたさぬはずがございません」。文種は穀物万石を受け取り、越に帰った。越王は大いに喜び、群臣はみな「万歳」と叫んだ。句踐はすぐにその粟を国中の貧民に分け与え、人民はみな徳を讃えた。

蒸し種の計と剣士・射師の招聘

  • 翌年、越国は大豊作となった。越王は文種に問うた。「寡人が呉の粟を返さなければ、信を失う。もし返せば、越に損をして呉に利することになる。どうすればよいか」。文種は答えて言った。「精良な粟を選び、蒸してから与えるのがよろしいでしょう。彼らは我が国の粟を愛して、それを種として植えるでしょう。私の計はそこにあります」。越王はその計を用い、蒸した穀物を、貸した升目の数だけ呉に返した。呉王は感嘆して言った。「越王はまことに信義の人だ」。またその穀物が並外れて粒が大きいのを見て、伯嚭に言った。「越の地は肥沃で、その種はすぐれている。国中に分け与えて民に植えさせよ」。そこで国中みな越の粟種を用いた。しかし芽が出ず、呉の民は大いに飢えた。夫差はそれでも土地が違うためだと思い込み、粟種が蒸されていたことに気づかなかった。文種の計もまた毒辣なものであった(これは周の敬王三十六年の事である)。越王は呉国が飢えて困窮していると聞き、すぐに兵を興して呉を伐とうとした。文種は諫めて言った。「時はまだ至っておりません。呉の忠臣がまだ健在です」。越王はまた范蠡に問うた。蠡は答えて言った。「時は遠くありません。王はさらに戦の稽古を積んでお待ちください」。越王は言った。「攻戦の武具は、まだ整っていないのか」。蠡は答えて言った。「戦に巧みな者には、必ず精鋭の兵がおり、精鋭の兵には必ず人並み以上の技があります。大きくは剣戟、小さくは弓弩。名だたる師の教習を受けなければ、十分に習熟できません。私が訪ねたところ、南林に処女がおり、剣戟に精通しております。また楚人陳音がおり、弓矢に巧みです。王はどうかこれを召し招いてください」。越王は二人の使者を分けて遣わし、重い贈り物を持たせて処女と陳音を招かせた。

南林の処女と楚人陳音

  • さて処女は姓名を知られておらず、深林の中に生まれ、人の住まぬ野に育ち、師について習うことなく、生まれつき撃刺に巧みであった。使者が南林に至り、越王の命を伝えると、処女はすぐに使者に従って北へ向かった。山陰の道中に至ったとき、一人の白髭の老翁に出会った。老翁は車の前に立ち、問うた。「来る者は南林の処女ではないか。どのような剣術を持っているのか。越王の招聘を受けるからには、試してみてはどうか」。処女は言った。「妾は隠しはいたしません。どうかご教示ください」。老翁はすぐに林の中の竹を、まるで腐った草を摘むかのように易々と引き抜き、処女を突き刺そうとした。竹は折れ、先端が地に落ちると、処女はすぐにその竹の先を取って、老翁を突いた。老翁はたちまち木の上に飛び上がり、白猿に変じて、一声長く嘯いて去った。使者はこれを不思議に思った。処女は越王に謁見し、越王は席を与えて、撃刺の道を尋ねた。処女は言った。「内には精神を充実させ、外には安らかな様子を示す。見れば良家の婦人のようであるが、これを奪えば猛虎のようになる。姿勢を整え気を伺い、神とともに動く。速さは跳ねる兎のごとく、影を追うように形を変え、縦横に往来し、目もまばたく暇がない。この道を得た者は、一人で百人に、百人で万人に匹敵します。大王がお信じにならないのなら、試していただきたく存じます」。越王は勇士百人に命じ、戟を並べて処女を突かせた。処女はその戟をつぎつぎと受け取って投げ返した。越王はそこで感服した。処女に兵士を教習させたところ、その教えを受けた兵士は三千人に及んだ。一年余りして、処女は暇乞いをして南林へ帰った。越王が再び人を遣わして招いたときには、すでにその姿はなかった。ある人が言った。「天が越を興し呉を滅ぼそうとして、神女を遣わして剣術を授け、越を助けさせたのだ」と。
  • さて楚人陳音は、人を殺して仇を避けるために越にいた。范蠡はその弓が必ず命中するのを見て、越王に推挙し、射師として招いた。王は陳音に問うた。「弓弩がどのようにして始まったのか聞かせてほしい」。陳音は答えて言った。「私が聞くところ、弩は弓から生まれ、弓は弾から生まれ、弾は昔の孝子から生まれました。昔、人民は素朴で、飢えれば鳥獣を食べ、渇けば霧露を飲み、死ねば白茅で包み、野原に投げ捨てました。ある孝子が、自分の父母が禽獣に食われるのを見るに忍びず、弾を作ってこれを守りました。当時これを歌にして言いました。『木を折り竹をつなぎ、土を飛ばして肉を追う』と。神農皇帝の代になり、木に弦を張って弧とし、木を削って矢とし、四方に威を立てました。弧父という者がおり、楚の荊山に生まれ、生まれてすぐに父母を見ることがなく、幼い頃から弓矢の使用を習い、射れば外れることがありませんでした。その道を羿に伝え、羿は逢蒙に伝え、逢蒙は琴氏に伝えました。琴氏は、諸侯が互いに攻伐するとき、弓矢だけでは制圧できないと考え、そこで弓を横にして腕に着け、機関と留め具を仕掛け、これに力を加えました。その名を弩といいます。琴氏はこれを楚の三侯に伝え、楚はこれ以来、代々桃の弓、棘の矢を用いて、隣国に備えてきました。私の先祖は、その道を楚に受け、今に至るまで五代になります。弩の向かうところ、鳥は飛び逃げるのが間に合わず、獣は走り逃げるのが間に合いません。どうか王、お試しください」。越王もまた士三千人を遣わし、陳音に北郊の外で教習させた。陳音は連弩の法を授け、三本の矢が連続して放たれ、人はこれを防ぐことができなかった。三か月でその技を極めた。陳音は病死し、越王は厚くこれを葬り、その山を陳音山と名づけた。これは後の話である。髯仙の詩に曰く(詩:越が剣を撃ち弓を彎くのはすべて呉を討つためで、臥薪嘗膽の涙も涸れんばかりであるのに、呉の蘇台では歌舞が沸き立ち、隣国の動静を問おうともしないと詠む内容)。

子胥の諫言と呉王の越伐の意

  • 子胥は越王が武を習っている事を聞き、そこで夫差への謁見を求め、涙を流して言った。「大王は越の臣従を信じておられますが、今、越は范蠡を用い、日夜士卒を訓練し、剣戟弓矢の技はすべて精良です。ひとたび我らの隙に乗じて攻め込めば、我が国の禍は支えきれないでしょう。王がお信じにならないのなら、どうして人を遣わしてこれを探らせないのですか」。夫差は果たして人を遣わして越国を探らせ、処女と陳音の事をすっかり知って、夫差に報告した。夫差は伯嚭に言った。「越はすでに服従している。また兵を治めて何をしようというのか」。嚭は答えて言った。「越は大王より賜った地を守っており、兵がなければ守ることができません。兵を治めることは、国を守る常事です。王は何を疑われるのですか」。夫差はそれでも釈然とはせず、ついに兵を興して越を伐とうとする意図を持つに至った。

齊の陳氏の専権と子貢の遊説

  • 話は二つに分かれる。さて齊国の陳氏は、代々民心を得ており、久しく国を専断する志を抱いていた。陳恒が後を継ぐに及び、その逆謀はますます急を告げたが、高氏・国氏の党がなお多いのを憚り、これをすべて除こうと考えていた。そこで簡公に奏上して言った。「魯は隣国でありながら呉と共に齊を伐ちました。この仇は忘れることができません」。簡公はその言葉を信じた。陳恒はそこで国書を大将に推挙し、高無平・宗楼を副将とし、大夫の公孫夏・公孫揮・閭丘明らをみな従わせた。すべて千乗の車を出し、陳恒自らその軍を見送った。汶水のほとりに駐屯し、魯を滅ぼしてから初めて帰ると誓った。
  • このとき孔子は魯にあり、『詩』『書』を刪定編纂していた。ある日、門人の琴牢、字は子張が、齊から魯に来て、その師に会いに来た。孔子は齊の事情を尋ね、齊の兵が国境にあることを知り、大いに驚いて言った。「魯は父母の国である。今、兵を被っているからには、救わずにおくわけにはいかぬ」。そして門弟たちに問うた。「誰か私に代わって齊に使いし、魯を伐つ兵を止めることができる者はいないか」。子張と子石はともに行きたいと願ったが、孔子は許さなかった。子貢が座を離れて問うた。「賜が行ってもよろしいでしょうか」。孔子は言った。「よろしい」。子貢はその日のうちに暇を告げて出発し、汶水のほとりに至り、陳恒に謁見を求めた。陳恒は子貢が孔門の高弟であることを知っており、この来訪には必ず遊説の言があると考え、あらかじめ厳しい顔つきをして待ち受けた。子貢は平然と入り、傍らに人がいないかのようであった。陳恒は迎え入れて対面し、席が定まると、問うた。「先生がここに来られたのは、魯のために説客となるためですか」。子貢は言った。「賜がここに来たのは、齊のためであり、魯のためではありません。そもそも魯は、討伐しにくい国です。相国はどうしてこれを伐とうとするのですか」。陳恒は言った。「魯がどうして討伐しにくいというのか」。子貢は言った。「その城壁は薄く低く、その堀は狭く浅く、その君主は弱く、大臣は無能で、士は戦を習っていません。ですから『討伐しにくい』と申すのです。相国のために計るなら、呉を伐つに越したことはありません。呉は城が高く堀が広く、武器と鎧は精良で、さらに良将が守っています。これは攻めやすいのです」。陳恒は激しい様子で言った。「あなたが言う難易は、道理を転倒させている。私には理解できない」。子貢は言った。「どうか左右を退けさせてください。相国のためにこれを解き明かしましょう」。陳恒は従者を退け、席を進めて教えを乞うた。子貢は言った。「私が聞くところでは、『憂いが外にある者はその弱いところを攻め、憂いが内にある者はその強いところを攻める』と申します。私がひそかに相国の勢いを窺いますに、他の大臣たちとうまく協調できる方ではありません。今、弱い魯を破って諸大臣の功とし、相国には与かるところがなければ、諸大臣の勢いは日々盛んになり、相国は危うくなります。もし軍を呉に移せば、大臣たちは外は強敵に苦しみ、相国は内で齊国を専制できます。これこそ計として最も便利ではありませんか」。陳恒は顔つきがたちまち和らぎ、喜んで問うた。「先生の言葉は、私の心の奥底まで徹しました。しかし兵はすでに汶水のほとりにあります。もしこれを移して呉に向かわせれば、人々は私を疑うでしょう。どうしたらよいでしょうか」。子貢は言った。「ただ兵を動かさずにおいてください。賜が南に呉王にお目にかかりに参り、魯を救って齊を伐たせるようにいたします。このようにして呉と戦うことになれば、口実がないことを憂える必要はございません」。陳恒は大いに喜び、そこで国書に言った。「私は呉が齊を伐とうとしていると聞いた。我が軍はしばらくここに留め、軽々しく動いてはならぬ。呉人の動静を探り、まず呉兵を破ってから、魯を伐つべきである」。国書は承知し、陳恒はそこで齊国へ帰った。
  • さて子貢は昼夜兼行で東の呉に至り、呉王夫差に謁見して、説いて言った。「呉と魯が連合して齊を伐ったことで、齊の恨みは骨髄に達しております。今その兵はすでに汶水のほとりにあり、まさに魯を伐とうとしており、次には必ず呉に及ぶでしょう。大王はどうして齊を伐って魯を救わないのですか。万乗の齊を破って、千乗の魯を手中に収めれば、威は強晋にも及び、呉はついに覇を成すでしょう」。夫差は言った。「先に齊は世々呉国に仕えることを約束したので、寡人はこれによって軍を引き上げた。今、朝見の使者が来ないので、寡人はまさにその罪を問おうとしていたところだ。ただ越君が政務に励み武を訓練し、呉を謀る心があると聞くので、寡人はまず越国を伐ち、その後で齊に及んでも遅くはないと考えている」。子貢は言った。「それはなりません。越は弱く齊は強い。越を伐つ利は小さく、齊を放っておく患いは大きいのです。そもそも弱い越を畏れて強い齊を避けるのは、勇ではありません。小さな利を追って大きな患いを忘れるのは、智ではありません。智勇をともに失って、どうして覇を争うことができましょう。大王が必ず越国を懸念されるのであれば、私が大王のために東へ行って越王に会い、弓矢を身につけて臣下として従わせるよう仕向けましょう。いかがですか」。夫差は大いに喜んで言った。「まことにそのようになれば、それは孤の願うところである」。子貢は呉王に暇を告げ、東へ向かって越に至った。越王句踐は子貢が来ようとしていることを聞き、係の者に前もって道を整えさせ、郊外三十里まで出迎え、上等な宿舎に泊まらせ、身をかがめて問うた。「わが国は東海の僻地にあります。どうして賢者を煩わせて遠路お越しいただいたのでしょうか」。子貢は言った。「わざわざ君上を弔いに参りました」。句踐は再拝稽首して言った。「孤は『禍と福は隣り合う』と聞いております。先生がお下りになって弔われるとは、孤にとって福でありましょう。どうかその子細をお聞かせください」。子貢は言った。「私は今、呉王に謁見して、魯を救って齊を伐つように説きましたが、呉王は越がそれを謀っているのではないかと疑い、その意図はまず越に誅を加えようとするものです。人に報復する志がないのに、人にそれを疑わせるのは拙劣であり、人に報復する志があるのに、人にそれを知らせてしまうのは危険です」。句踐は驚いて、ひざまずいたまま上体をまっすぐ起こして言った。「先生はどうして私を救ってくださるのですか」。子貢は言った。「呉王は驕り佞人を好み、宰嚭は権力を専らにして讒言に巧みです。君上は貴重な財宝でその心を喜ばせ、へりくだった言葉でその礼を尽くし、自ら一軍を率いて齊討伐に従軍なさい。彼らが戦って勝てなければ、呉はこれより弱まります。もし戦って勝てば、必ず驕り高ぶって諸侯に覇を唱える心を持ち、兵をもって強晋に臨むでしょう。このようになれば、呉国には隙が生じ、越はこれに乗じることができます」。句踐は再拝して言った。「先生のお越しは、まことに天の賜物です。死人を生き返らせ、白骨に肉をつけるようなものです。孤があえて教えに従わずにおられましょうか」。そして子貢に黄金百鎰、宝剣一口、良馬二匹を贈った。子貢は固く辞退して受けなかった。呉王のもとに戻って、報告して言った。「越王は大王の生かしてくださった徳に感謝し、大王がお疑いだと聞いて、大いに恐れ入っております。近いうちに使者を遣わして謝意を表すでしょう」。夫差は子貢を宿舎にとどめ、五日間留めておくと、越は果たして文種を呉に遣わし、呉王の前でぬかずいて言った。「東海の賤臣句踐は、大王が命を助けてくださった恩を受け、祖先の祭りを奉ずることができました。たとえ肝脳を地に塗るとも、その恩に報いることはできません。今、大王が大義を興し、強きを誅して弱きを救うと聞き、そこで下臣種を遣わし、前王の伝えた精良な甲二十領、『屈盧』の矛、『歩光』の剣を貢納し、軍吏を祝わせます。句踐は出兵の時期をお伺いし、四境の内より選抜した士三千人を挙げて、下吏に従わせたいと存じます。句踐は堅い甲冑を身につけ鋭い武器を執り、自ら矢石を受けることを願い、死をも恐れません」。夫差は大いに喜び、子貢を召して言った。「句踐はまことに信義の人であった。選抜した士三千人を率いて、齊討伐に従軍したいとのことだが、先生はどう思うか」。子貢は言った。「なりません。人の兵を用いるだけでなく、その君主まで従軍させるのは、あまりに度が過ぎます。その軍だけを受け入れ、その君主の従軍はお断りになるのがよいでしょう」。夫差はこれに従った。子貢は呉に暇を告げ、また北へ向かって晋国に至り、晋の定公に謁見して、説いて言った。「私は聞いております。『遠い先を慮らない者には、必ず近い憂いが起こる』と。今、呉が齊と戦う日は近いでしょう。戦って勝てば、必ず晋と覇を争うでしょう。君上は兵を修め兵卒を休ませて、これに備えるのがよろしいでしょう」。晋侯は言った。「謹んで教えを受けよう」。子貢が魯に戻る頃には、齊の兵はすでに呉に敗れていた。呉がどのように齊を破ったかは、次回を見て解き明かそう。
原文(底本)
話說越王句踐欲訪求境內美女,獻於吳王,文種獻計曰:「願得王之近豎百人,雜以善相人者,使挾其術,遍遊國中,得有色者,而記其人地,於中選擇,何患無人?」句踐從其計。半年之中,開報美女,何止二十餘人。句踐更使人覆視,得尤美者二人,因圖其形以進。那二人是誰?西施,鄭旦。那西施乃苧蘿山下採薪者之女。其山有東西二村,多施姓者,女在西村,故以西施別之。鄭旦亦在西村,與施女毗鄰,臨江而居,每日相與浣紗於江,紅顏花貌,交相映發,不啻如並蒂之芙蓉也。句踐命范蠡各以百金聘之。服以綺羅之衣,乘以重帷之車,國人慕美人之名,爭欲識認,都出郊外迎候,道路為之壅塞。范蠡乃停西施鄭旦於別館,傳諭:「欲見美人者,先輸金錢一文。」設櫃收錢,頃刻而滿。美人登朱樓,凭欄而立,自下望之,飄飄乎天仙之步虛矣。美人留郊外三日,所得金錢無算,悉輦於府庫,以充國用。句踐親送美人別居土城,使老樂師教之歌舞,學習容步,俟其藝成,然後敢進吳邦。(時周敬王三十一年,句踐在位之七年也。)

  先一年,齊景公杵臼薨,幼子荼嗣立。是年楚昭王軫薨,世子章嗣立。其時楚方多故,而晉政復衰,齊自晏嬰之死,魯因孔子之去,國俱不振,獨吳國之強,甲於天下。夫差恃其兵力,有荐食山東之志,諸侯無不畏之。就中單說齊景公,夫人燕姬,有子而夭,諸公子庶出者,凡六人,陽生最長,荼最幼。荼之母鬻姒賤而有寵,景公因母及子,愛荼特甚,號為安孺子。景公在位五十七年,年已七十餘歲,不肯立世子,欲待安孺子長成,而後立之。何期一病不起,乃屬世臣國夏高張,使輔荼為君。大夫陳乞,素與公子陽生相結,恐陽生見誅,勸使出避。陽生遂與其子壬及家臣闞止,同奔魯國。景公果使國高二氏逐群公子,遷於萊邑。景公薨,安孺子荼既立,國夏高張左右秉政。陳乞陽為承順,中實忌之。遂於諸大夫面前,詭言:「高國有謀,欲去舊時諸臣,改用安孺子之黨。」諸大夫信之,皆就陳乞求計。陳乞因與鮑牧倡首,率諸大夫家眾,共攻高國,殺高張,國夏出奔莒國。於是鮑牧為右相,陳乞為左相,立國書高無平以繼二氏之祀。安孺子年纔數歲,言動隨人,不能自立。陳乞有心要援立公子陽生,陰使人召之於魯。陽生夜至齊郊,留闞止與其子壬於郊外,自己單身入城,藏於陳乞家中。陳乞假稱祀先,請諸大夫至家,共享祭餘。諸大夫皆至。鮑牧別飲於他所,最後方到。陳乞候眾人坐定,乃告曰:「吾新得精甲,請共觀之。」眾皆曰:「願觀。」於是力士負巨囊自內門出,至於堂前。陳乞手自啟囊,只見一個人,從囊中伸頭出來,視之,乃公子陽生也。眾人大驚。陳乞扶陽生出,南向立,謂諸大夫曰:「『立子以長』,古今通典。安孺子年幼,不堪為君,今奉鮑相國之命,請改事長公子。」鮑牧睜目言曰:「吾本無此謀,何得相誣?欺我醉耶?」陽生向鮑牧揖曰:「廢興之事,何國無之?惟義所在。大夫度義可否,何問謀之有無?」陳乞不待言終,強拉鮑牧下拜。諸大夫不得已,皆北面稽首。陳乞同諸大夫歃血定盟。車乘已具,齊奉陽生升車入朝,御殿即往,是為悼公。即日遷安孺子於宮外,殺之。悼公疑鮑牧不欲立己,訪於陳乞。乞亦忌牧位在己上,遂陰譖牧與群公子有交,不誅牧,國終不靖。於是悼公復誅鮑牧,立鮑息,以存鮑叔牙之祀。陳乞獨相齊國。國人見悼公誅殺無辜,頗有怨言。

  再說悼公有妹,嫁與邾子益為夫人。益傲慢無禮,與魯不睦。魯上卿季孫斯言於哀公,引兵伐邾,破其國,執邾子益,囚於負瑕。齊悼公大怒曰:「魯執邾君,是欺齊也。」遂遣使乞師於吳,約同伐魯。夫差喜曰:「吾欲試兵山東,今有名矣!」遂許齊出師。魯哀公大懼,即釋放邾子益復歸其國,使人謝齊。齊悼公使大夫公孟綽辭於吳王,言:「魯已服罪,不敢勞大王之軍旅。」夫差怒曰:「吳師行止,一憑齊命,吳豈齊之屬國耶?寡人當視至齊國,請問前後二命之故。」叱公孟綽使退。魯聞吳王怒齊,遂使人送款與吳,反約吳王同伐齊國。夫差欣然即日起師,同魯伐齊,圍其南鄙。齊舉國驚惶,皆以悼公無端召寇,怨言益甚。時陳乞已卒,子陳恒秉政,乘國人不順,謂鮑息曰:「子盍行大事,外解吳怨,而內以報家門之仇?」息辭以不能。恒曰:「吾為子行之。」乃因悼公閱師,進鴆酒,毒殺悼公,以疾訃於吳軍曰:「上國膺受天命,寡君得罪,遂遘暴疾,上天代大王行誅,幸賜矜恤,勿隕社稷,願世世服事上國。」夫差乃班師而退,魯師亦歸。國人皆知悼公死於非命,因畏愛陳氏,無敢言者。陳恒立悼公之子壬,是為簡公。簡公欲分陳氏之權,乃以陳恒為右相,闞止為左相。昔人論齊禍皆啟於景公。詩曰:

    從來溺愛智逾昏,繼統如何亂弟昆?莫怨強臣與強寇,分明自己鑿凶門。

  時越王教習美女三年,技態盡善,飾以珠幌,坐以寶車,所過街衢,香風聞於遠近,又以美婢旋波、移光﹍﹍等六人為侍女,使相國范蠡進之吳國。夫差自齊回吳,范蠡入見,再拜稽首曰:「東海賤臣句踐,感大王之恩,不能親率妻妾,伏侍左右,遍搜境內,得善歌舞者二人,使陪臣納之王宮,以供灑掃之役。」夫差望見,以為神仙之下降也,魂魄俱醉。子胥諫曰:「臣聞『夏亡以妹喜,殷亡以妲己,周亡以褎姒。』夫美女者,亡國之物,王不可受!」夫差曰:「好色,人之同心。句踐得此美女不自用,而進於寡人,此乃盡忠於吳之證也。相國勿疑。」遂受之。二女皆絕色,夫差並寵愛之,而妖豔善媚,更推西施為首。於是西施獨奪歌舞之魁,居姑蘇之臺,擅專房之寵,出入儀制,擬於妃后。鄭旦居吳宮,妒西施之寵,鬱鬱不得志,經年而死。夫差哀之,葬於黃茅山,立祠祀之。此是後話。且說夫差寵幸西施,令王孫雄特建館娃宮於靈巖之上,銅溝玉檻,飾以珠玉,為美人遊息之所。建「響屧廊」,(何為響屧?屧乃鞋名,鑿空廊下之地,將大甕鋪平,覆以厚板,令西施與宮人步屧繞之,錚錚有聲,故名響屧。)今靈巖寺圓照塔前小斜廊,即其址也。高啟《館娃宮》詩云:

    館娃宮中館娃閣,畫棟侵雲峰頂開﹔猶恨當時高未極,不能望見越兵來!

王禹偁有《響屧廊》詩云:

    廊壞空留響屧名,為因西子繞廊行﹔可憐伍相終屍諫,誰記當時曳履聲!

山上有翫花池,翫月池。又有井,名吳王井,井泉清碧,西施或照泉而妝,夫差立於旁,親為理髮。又有洞名西施洞,夫差與西施同坐於此。洞外石有小陷,今俗名西施跡。又嘗與西施鳴琴於山巔,今有琴臺。又令人種香於香山,使西施與美人泛舟採香。今靈巖山南望,一水直如矢,俗名箭涇,即採香涇故處。又有採蓮涇,在郡城東南,吳王與西施採蓮處。又於城中開鑿大濠,自南直北,作錦帆以遊,號錦帆涇。高啟詩云:

    吳王在日百花開,畫船載樂洲邊來﹔吳王去後百花落,歌吹無聞洲寂寞。花開花落年年春,前後看花應幾人?但見枝枝映流水,不知片片墮行塵。年年風雨荒臺畔,日暮黃鸝腸欲斷﹔豈惟世少看花人,從來此地無花看。

又城南有長洲苑,為遊獵之所。又有魚城養魚,鴨城畜鴨,雞陂畜雞,酒城造酒。又嘗與西施避暑於西洞庭之南灣,灣可十餘里,三面皆山,獨南面如門闕。吳王曰:「此地可以消夏。」因名消夏灣。張羽又有《蘇臺歌》云:

    館娃宮中百花開,西施曉上姑蘇臺。霞裙翠袂當空舉,身輕似展凌風羽。遙望三江水一杯,兩點微茫洞庭樹。轉面凝眸未肯回,要見君王射麋處。城頭落日欲棲鴉,下階戲折棠梨花﹔隔岸行人莫倚盼,干將莫邪光粲粲。

夫差自得西施,以姑蘇臺為家,四時隨意出遊,絃管相逐,流連忘返。惟太宰嚭王孫雄常侍左右,子胥求見,往往辭之。

  越王句踐聞吳王寵幸西施,日事遊樂,復與文種謀之。文種對曰:「臣聞『國以民為本,民以食為天。』今歲年穀歉收,粟米將貴,君可請貸於吳,以救民飢。天若棄吳,必許我貸。」句踐即命文種以重幣賄伯嚭,使引見吳王。吳王召見於姑蘇臺之宮,文種再拜請曰:「越國洿下,水旱不調,年穀不登,人民飢困。願從大王乞太倉之穀萬石,以救目前之餒,明年穀熟,即當奉償。」夫差曰:「越王臣服於吳,越民之飢,即吳民之飢也,吾何愛積穀,不以救之?」時子胥聞越使至,亦隨至蘇臺,得見吳王,及聞許其請穀,復諫曰:「不可,不可!今日之勢,非吳有越,即越有吳。吾觀越王之遣使者,非真飢困而乞糴也,將以空吳之粟也。與之不加親,不與未成仇,王不如辭之。」吳王曰:「句踐囚於吾國,卻行馬前,諸侯莫不聞知。今吾復其社稷,恩若再生,貢獻不絕,豈復有背叛之虞乎?」子胥曰:「吾聞越王早朝晏罷,恤民養士,志在報吳,大王又輸粟以助之,臣恐麋鹿將遊於姑蘇之臺矣。」吳王曰:「句踐業已稱臣,烏有臣而伐君者?」子胥曰:「湯伐桀,武王伐紂,非臣伐君乎?」伯嚭從旁叱之曰:「相國出言太甚,吾王豈桀紂之比耶?」因奏曰:「臣聞葵邱之盟,遏糴有禁,為恤鄰也。況越,吾貢獻之所自出乎?明歲穀熟,責其如數相償,無損於吳,而有德於越,何憚而不為也?」夫差乃與越粟萬石,謂文種曰:「寡人逆群臣之議,而輸粟於越,年豐必償,不可失信!」文種再拜稽首曰:「大王哀越而救其飢餒,敢不如約。」文種領穀萬石,歸越,越王大喜,群臣皆呼「萬歲!」句踐即以粟頒賜國中之貧民,百姓無不頌德。

  次年,越國大熟,越王問於文種曰:「寡人不償吳粟,則失信﹔若償之,則損越而利吳矣。奈何?」文種對曰:「宜擇精粟,蒸而與之,彼愛吾粟,而用以布種,吾計乃得矣。」越王用其計,以熟穀還吳,如其斗斛之數。吳王嘆曰:「越王真信人也!」又見其穀粗大異常,謂伯嚭曰:「越地肥沃,其種甚嘉,可散與吾民植之。」於是國中皆用越之粟種。不復發生,吳民大飢,夫差猶認以為地土不同,不知粟種之蒸熟也。文種之計亦毒矣!(此周敬王三十六年事也。)越王聞吳國飢困,便欲興兵伐吳。文種諫曰:「時未至也,其忠臣尚在。」越王又問於范蠡,蠡對曰:「時不遠矣!願王益習戰以待之。」越王曰:「攻戰之具,尚未備乎?」蠡對曰:「善戰者,必有精卒,精卒必有兼人之技,大者劍戟,小者弓弩,非得明師教習,不得盡善。臣訪得南林有處女,精於劍戟﹔又有楚人陳音,善於弓矢,王其聘之。」越王分遣二使,持重幣往聘處女及陳音。

  單說處女不知名姓,生於深林之中,長於無人之野,不由師傅,自然工於擊刺。使者至南林,致越王之命,處女即隨使北行。至山陰道中,遇一白鬚老翁,立於車前,問曰:「來者莫非南林處女乎?有何劍術,敢受越王之聘?願請試之!」處女曰:「妾不敢自隱,惟公指教!」老翁即挽林內之竹,如摘腐草,欲以刺處女。竹折,末墮於地,處女即接取竹末,以刺老翁。老翁忽飛上樹,化為白猿,長嘯一聲而去。使者異之。處女見越王,越王賜坐,問以擊刺之道。處女曰:「內實精神,外示安佚,見之如好婦,奪之似猛虎。布形候氣,與神俱往,捷若騰兔,追形還影,縱橫往來,目不及瞬。得吾道者,一人當百,百人當萬。大王不信,願得試之。」越王命勇士百人,攢戟以刺處女。處女連接其戟而投之。越王乃服。使教習軍士,軍士受其教者三千人。歲餘,處女辭歸南林,越王再使人請之,已不在矣。或曰:「天欲興越亡吳,故遣神女下授劍術,以助越也。」

  再說楚人陳音,以殺人避仇於越。蠡見其射必命中,言於越王,聘為射師。王問音曰:「請聞弓弩何所而始?」陳音對曰:「臣聞弩生於弓,弓生於彈,彈生於古之孝子。古者人民朴實,飢食鳥獸,渴飲霧露,死則裹以白茅,投於中野。有孝子不忍見其父母為禽獸所食,故作彈以守之。時為之歌曰:『斷木續竹,飛土逐肉。』至神農皇帝興,弦木為弧,剡木為矢,以立威於四方。有弧父者,生於楚之荊山,生不見父母,自為兒時,習用弓矢,所射無脫。以其道傳於羿,羿傳於逢蒙,逢蒙傳於琴氏。琴氏以為諸侯相伐,弓矢不能制服,乃橫弓著臂,施機設樞,加之以力,其名曰弩。琴氏傳之楚三侯,楚由是世世以桃弓棘矢,備禦鄰國。臣之前人,受其道於楚,五世於茲矣。弩之所向,鳥不及飛,獸不及走。惟王試之!」越王亦遣士三千,使音教習於北郊之外。音授以連弩之法,三矢連續而去,人不能防。三月盡其巧。陳音病死,越王厚葬之,名其山曰陳音山。此是後話。髯仙詩云:

    擊劍彎弓總為吳,臥薪嘗膽淚幾枯﹔蘇臺歌舞方如沸,遑問鄰邦事有無。

  子胥聞越王習武之事,乃求見夫差,流涕而言曰:「大王信越之臣順,今越用范蠡,日夜訓練士卒,劍戟弓矢之藝,無不精良。一旦乘吾間而入,吾國禍不支矣。王如不信,何不使人察之?」夫差果使人探聽越國,備知處女陳音之事,回報夫差。夫差謂伯嚭曰:「越已服矣,復治兵欲何為乎?」嚭對曰:「越蒙大王賜地,非兵莫守。夫治兵,乃守國之常事,王何疑焉?」夫差終不釋然,遂有興兵伐越之意。

  話分兩頭。再說齊國陳氏,世得民心,久懷擅國之志。及陳恒嗣位,逆謀愈急,憚高國之黨尚眾,思盡去之。乃奏於簡公曰:「魯鄰國而共吳伐齊,此仇不可忘也。」簡公信其言。恒因薦國書為大將,高無平宗樓副之,大夫公孫夏、公孫揮、閭丘明等皆從。悉車千乘,陳恒親送其師。屯於汶水之上,誓欲滅魯方還。時孔子在魯,刪述《詩》《書》。一日,門人琴牢字子張,自齊至魯,來見其師。孔子問及齊事,知齊兵在境上,大驚曰:「魯乃父母之國,今被兵,不可不救!」因問群弟子:「誰能為某出使於齊,以止伐魯之兵者?」子張子石俱願往,孔子不許。子貢離席而問曰:「賜可以去乎?」孔子曰:「可矣。」子貢即日辭行,至汶上,求見陳恒。恒知子貢乃孔門高弟,此來必有遊說之語,乃預作色以待之。子貢坦然而入,旁若無人。恒迎入相見,坐定,問曰:「先生此來,為魯作說客耶?」子貢曰:「賜之來,為齊非為魯也。夫魯,難伐之國,相國何為伐之?」陳恒曰:「魯何難伐也?」子貢曰:「其城薄以卑,其池狹以淺,其君弱,大臣無能,士不習戰,故曰『難伐』。為相國計,不如伐吳。吳城高而池廣,兵甲精利,又有良將為守,此易攻耳。」恒勃然曰:「子所言難易,顛倒不情,恒所不解。」子貢曰:「請屏左右,為相國解之。」恒乃屏去從人,前席請教。子貢曰:「賜聞『憂在外者攻其弱,憂在內者攻其強。』賜竊窺相國之勢,非能與諸大臣共事者也。今破弱魯以為諸大臣之功,而相國無與焉,諸大臣之勢日盛,而相國危矣!若移師於吳,大臣外困於強敵,而相國專制齊國,豈非計之最便乎?」陳恒色頓解,欣然問曰:「先生之言,徹恒肺腑。然兵已在汶上,若移而向吳,人將疑我,奈何?」子貢曰:「但按兵勿動,賜請南見吳王,使救魯而伐齊,如是而戰吳,不患無詞。」陳恒大悅,乃謂國書曰:「吾聞吳將伐齊,吾兵姑駐此,未可輕動,打探吳人動靜,須先敗吳兵,然後伐魯。」國書領諾,陳恒遂歸齊國。

  再說子貢星夜行至東吳,來見吳王夫差,說曰:「吳魯連兵伐齊,齊恨入骨髓。今其兵已在汶上,將以伐魯,其次必及吳。大王何不伐齊以救魯?夫敗萬乘之齊,而收千乘之魯,威加強晉,吳遂霸矣。」夫差曰:「前者齊許世世服事吳國,寡人以此班師。今朝聘不至,寡人正欲往問其罪。但聞越君勤政訓武,有謀吳之心,寡人欲先伐越國,然後及齊未晚。」子貢曰:「不可!越弱而齊強,伐越之利小,而縱齊之患大。夫畏弱越而避強齊,非勇也﹔逐小利而忘大患,非智也﹔智勇俱失,何以爭霸?大王必慮越國,臣請為大王東見越王,使親櫜鞬以從下吏何如?」夫差大悅曰:「誠如此,孤之願也。」子貢辭了吳王,東行至越。越王句踐聞子貢將至,使候人預為除道,郊迎三十里,館之上舍,鞠躬而問曰:「敝邑僻處東海,何煩高賢遠辱?」子貢曰:「特來弔君!」句踐再拜稽首曰:「孤聞『禍與福為鄰。』先生下弔,孤之福矣,請聞其說。」子貢曰:「臣今者見吳王,說以救魯而伐齊,吳王疑越謀之,其意欲先加誅於越。夫無報人之志,而使人疑之者,拙也﹔有報人之志,而使人知之者,危也。」句踐愕然長跪曰:「先生何以救我?」子貢曰:「吳王驕而好佞,宰嚭專而善讒,君以重器悅其心,以卑辭盡其禮,親率一軍,從於伐齊,彼戰而不勝,吳自此削矣﹔若戰而勝,必侈然有霸諸侯之心,將以兵臨強晉,如此,則吳國有間,而越可乘也。」句踐再拜曰:「先生之來,實出天賜。如起死人而肉白骨,孤敢不奉教!」乃贈子貢以黃金百鎰,寶劍一口,良馬二匹。子貢固辭不受。還見吳王,報曰:「越王感大王生全之德,聞大王有疑,意甚悚懼,旦暮遣使來謝矣。」夫差使子貢就館,留五日,越果遣文種至吳,叩首於吳王之前曰:「東海賤臣句踐,蒙大王不殺之恩,得奉宗祀,雖肝腦塗地,未能為報!今聞大王興大義,誅強救弱,故使下臣種,貢上前王所藏精甲二十領,『屈盧』之矛,『步光』之劍,以賀軍吏。句踐請問師期,將悉四境之內,選士三千人,以從下吏。句踐願披堅執銳,親受矢石,死無所懼。」夫差大悅,乃召子貢謂曰:「句踐果信義人也。欲率選士三千,以從伐齊之役,先生以為可否?」子貢曰:「不可。夫用人之眾,又役及其君,亦太過矣。不如許其師而辭其君。」夫差從之。子貢辭吳,復北往晉國,見晉定公,說曰:「臣聞『無遠慮者,必有近憂。』今吳之戰齊有日矣。戰而勝,必與晉爭伯,君宜修兵休卒以待之。」晉侯曰:「謹受教。」比及子貢反魯,齊兵已為吳所敗矣。不知吳如何敗齊,再看下回分解。

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