東周列國志第九十五回 四国を説いて楽毅が斉を滅ぼす/火牛を駆って田単が燕を破る (說四國樂毅滅齊 驅火牛田單破燕)

楽毅の来仕と連合の準備

  • さて燕の昭王は即位して以来、日夜、斉への復讐と雪辱を心にかけていた。死者を弔い孤児を見舞い、士卒とは苦楽を共にし、賢士を礼をもって尊び、四方の豪傑たちが市のように集まってきた。
  • 趙の人に楽毅という者があり、楽羊の孫にあたり、幼い頃から兵法を好んで学んでいた。もともと楽羊は霊寿に封ぜられ、子孫はそこに住み着いた。趙の主父の沙邱の乱に際し、楽毅は一家を挙げて霊寿を去り、大梁へ逃れ、魏の昭王に仕えたが、さほど信任されなかった。
  • 燕王が黄金台を築いて天下の賢士を招いていると聞き、そこへ身を寄せようと考え、燕への使者となることを図った。燕の昭王に会って兵法を説くと、燕王はその賢明さを知り、客としての礼をもって遇した。楽毅は謙遜してこれを受けようとしなかった。
  • 燕王は「先生は趙にお生まれになり、魏にお仕えになった。燕においてはもとより客としての扱いが当然でありましょう」と言った。楽毅は「臣が魏に仕えたのは、乱を避けるためでございました。大王がもし微賎なる身を見捨てられないのであれば、どうか贄を捧げて臣従を誓い、燕の臣とさせてください」と言った。
  • 燕王は大いに喜び、ただちに楽毅を亜卿に任じ、劇辛らの上位に置いた。楽毅はその一族をことごとく燕に招き移させ、燕の人とした。
  • そのころ斉国は強盛で、諸侯を侵伐していた。昭王は深く韜晦し、兵を養い民をいたわりながら、時機を待って動こうとしていた。湣王が孟嘗君を追放して狂暴の限りを尽くすに及び、民衆は耐え難くなっていた。一方、燕国は長年休息を重ね、国は富み民は多くなり、士卒は喜んで戦うようになっていた。
  • そこで昭王は楽毅を召し寄せて問うた。「寡人は先人の恨みを胸に、すでに二十八年を経た。常に、ある朝突然にこの世を去り、斉王の腹に刃を突き立てて国の恥をすすぐことができぬのではと恐れ、夜通し胸を痛めている。今、斉王は驕り高ぶり暴虐をほしいままにして自らを恃み、朝廷も民間も人心は離れている。これは天が斉を滅ぼす時である。寡人は国を挙げて兵を興し、斉と一朝の命運を争いたいと思う。先生は何をもって寡人に教えてくださるか。」
  • 楽毅は答えて言った。「斉は国土が広く人口も多く、士卒は戦いに習熟しており、独力で攻めるべきではありません。王がどうしても討伐なさるのであれば、必ず天下と共にこれを図らねばなりません。今、燕に最も近い隣国は趙にほかなりません。王はまず趙と結ばれるがよいでしょう。そうすれば韓も必ずこれに従いましょう。また孟嘗君は魏の相であり、まさに斉を恨んでおりますので、これを聞き入れないはずがありません。こうすれば斉を攻めることができましょう。」燕王は「よかろう」と言い、符節を整えて楽毅を趙国へ遣わし説かせた。

五国連合の攻斉と斉都陥落

  • 平原君の趙勝が楽毅のために恵文王へ取り次いで進言し、王はこれを許した。ちょうど秦の使者が趙にいたので、楽毅はあわせて秦の使者にも斉討伐の利を説いた。使者は帰って秦王に報告した。
  • 秦王は斉の強大化を忌み、諸侯が秦に背いて斉に仕えることを恐れていたので、そこで再び使者を趙へ遣わし、共に斉討伐の役に加わることを願い出た。
  • 劇辛は魏王に説き、孟嘗君にも会った。孟嘗君は果たして出兵を主張し、さらに韓とも約を結んだ。皆で期日を定めた。
  • そこで燕王は国中の精鋭をことごとく起こし、楽毅にこれを率いさせた。秦の将白起、趙の将廉頗、韓の将暴鳶、魏の将晋鄙が、それぞれ一軍を率いて期日通りに到着した。燕王は楽毅に五国の兵をあわせ統べ率いさせ、楽上将軍と号させ、浩々蕩々として斉国へ攻め込んだ。
  • 斉の湣王は自ら中軍を率い、大将の韓聶とともに済水の西で迎え撃った。楽毅は自ら士卒の先頭に立ち、四国の兵将たちは皆勇を奮って争って戦い、斉の兵の屍は原野に横たわり、血は溝を成すほどであった。韓聶は楽毅の弟の楽乗に討たれた。
  • 諸軍は勝ちに乗じて逃げる敵を追い、湣王は大敗して臨淄へ逃げ帰り、夜を徹して楚へ救援を求め、淮北の地をすべて割いて賄賂とすると約した。一方で軍民を検分し、城壁に登って守りを固めた。
  • 秦・魏・韓・趙は勝ちに乗じて、それぞれの道を分かれて辺境の城を接収した。ただ楽毅ひとりが燕軍を率いて、長駆して深く侵入し、通過する先々で威徳を宣諭したので、斉の諸城は風になびくように次々と潰れ、勢いは竹を割るがごとくであった。大軍はまっすぐ臨淄に迫った。
  • 湣王は大いに恐れ、文武の臣数十人とともに、ひそかに北門を開いて逃げた。衛国に行き着くと、衛君は郊外に出迎え臣と称した。城に入ると、正殿を譲って住まわせ、供応もたいへん丁重であった。しかし湣王は驕傲で、衛君に応接するのに礼を尽くさなかった。衛の諸臣は心中穏やかでなく、夜、その荷物を掠め取った。
  • 湣王は怒り、衛君が来朝するのを待って盗賊の取り締まりを責めようとしたが、衛君はその日ついに朝見せず、そのうえ食糧の支給も打ち切ってしまった。湣王はたいへん恥じ入り、日が傾くまで待ったが飢えがひどくなり、衛君が自分に危害を加えるのではと恐れ、夷維ら数人とともに、夜を徹して逃げ去った。従臣たちは主を失い、その場で四散して逃げた。
  • 湣王は幾日も経たぬうちに魯の関所に逃げ着いた。関の役人はこれを魯君に報告した。魯君は使者を出して迎えさせ、夷維が「魯はどのように我が君をお迎えするつもりか」と言うと、使者は「十太牢をもって君をお迎えいたします」と答えた。
  • 夷維は「我が君は天子であられる。天子が巡狩されるときは、諸侯は自らの宮殿を明け渡し、朝夕には堂下で自ら天子の食膳を検分し、天子の食事が終わってから、退いて自分の朝廷の政を聴くものだ。どうしてわずか十牢の饗応で済まされようか」と言った。
  • 使者はこれを魯君に復命した。魯君は大いに怒り、関を閉じて受け入れなかった。次に鄒へ行くと、ちょうど鄒君が亡くなったばかりで、湣王は入って弔問しようとした。夷維は鄒の人に「天子が下って弔われるのだから、主人は必ずその棺柩に背を向け、西の階に立ち、北を向いて哭さねばならぬ。天子はそこで東の階(きざはし)の上に立ち、南を向いて弔われるのだ」と言った。
  • 鄒の人は「我が国は小さく、あえて天子に下って弔っていただくには及びません」と言い、これも拒んで受け入れなかった。湣王は計り尽きた。夷維は「莒州はまだ無事だと聞きます。なぜそちらへ行かれないのですか」と言った。そこで莒州へ逃げ、兵をことごとく集めて城を守り、燕軍に対抗しようとした。
  • 楽毅はついに臨淄を陥落させ、斉の財物・祭器をすべて収め、あわせて昔、燕がかつて斉に奪われていた重器を調べ、大車に積んで、ことごとく燕国へ運び帰らせた。燕の昭王は大いに喜び、自ら済水のほとりに至って三軍を大いにねぎらい、楽毅を昌国に封じて昌国君と号させた。
  • 燕の昭王は自国に帰ったが、独り楽毅を斉に留めて、斉の残りの諸城を収めさせた。

田単の脱出と王蠋の忠死

  • 斉の宗族に田単という者がおり、智謀にすぐれ兵に通じていた。湣王はこれを用いず、ただ臨淄の市の役人に過ぎなかった。
  • 燕王が臨淄に入ると、城中の人々は次々と逃げ散った。田単は一族とともに安平に難を逃れたが、あらかじめ車軸の頭をすべて切り落として輪と面一にし、鉄の板で軸を覆い、堅固にしておいた。人々はこれを笑った。
  • まもなく燕の兵が安平を攻め、城が破れると、安平の人々は再び先を争って逃げ出したが、車に乗る者は互いにひしめき合い、多くは軸の頭が触れ合って速く走れず、あるいは軸が折れて車が転覆し、皆燕兵に捕らえられてしまった。ただ田氏の一族だけは、鉄で固めた軸が堅固で、かつ他の車と絡まることもなかったため、無事に脱出することができ、即墨へ逃げのびた。
  • 楽毅は兵を分けて土地を攻略し、画邑まで至ったとき、かつての太傅王蠋の家が画邑にあると聞き、軍中に令を伝え、画邑の周囲三十里は侵犯を許さぬこととした。人を遣わして金幣をもって王蠋を聘し、燕王に推薦しようとした。
  • 王蠋は老病を理由に辞退し、行こうとしなかった。使者は「上将軍のご命令です。『太傅が来られれば、すぐに将軍とし、万家の邑を封ぜよう。来られなければ、兵を率いてこの邑を屠るであろう』とのことです」と言った。
  • 王蠋は天を仰いで嘆いて言った。「忠臣は二君に仕えず、烈女は二夫にまみえず。斉王は忠諫を退け斥けたゆえに、私は隠退して野に耕していたのだ。今、国は破れ君は亡き、私はそれを救うこともできぬのに、さらに兵をもって私を脅すというのか。私は不義を犯して生き長らえるよりも、義を全うして死ぬ方を選ぶ。」
  • そうして自ら首を木に懸け、身を大きくひるがえすと、首の骨が折れて絶命した。楽毅はこれを聞いて嘆息し、これを厚く葬るよう命じ、その墓標に「斉忠臣王蠋の墓」と表した。
  • 楽毅は出兵から六ヶ月、攻め落とした斉の地は合わせて七十余城に及び、皆燕の郡県に編入したが、ただ莒州と即墨だけは堅く守って落ちなかった。楽毅はそこで兵を休ませ士卒を厚くもてなし、苛酷な法令を除き、賦役を寛大にし、さらに斉の桓公と管夷吾のために祠を立てて祭りを行い、隠れた賢人を訪ね求め、斉の民は大いに喜んだ。
  • 楽毅の意図としては、斉に残るのはただ二城のみであり、すでに掌中に収まっているようなもので、結局は大事を成すには至るまいと考え、なおかつ恩をもってこれを結び、自ら降伏させようとしたので、あえて兵力を尽くそうとはしなかった(これは周の赧王三十一年のことである)。

淖歯の逆謀と湣王の死

  • さて楚の頃襄王は、斉の使者が来て救援を求め、淮北の地をすべて割くと約したのを見て、大将の淖歯に二十万の兵を率いさせ、斉救援を名目にその地を受け取りに向かわせた。淖歯に「斉王が窮して我らに救いを求めてきた。そなたはあちらで機を見て事を行え。ただ楚の利益になるように、便宜に従って事を処せ」と言った。
  • 淖歯は謝辞を述べて出発し、兵を率いて莒州へ赴き、斉の湣王のもとに従った。湣王は淖歯の恩に感じ、これを相国に立て、大権はすべて淖歯に帰した。
  • 淖歯は燕軍の勢いが盛んなのを見て、斉を救っても功がなく、二国に罪を得るのではと恐れ、そこで密かに使者を遣わして楽毅に通じ、斉王を弑し、燕とともに斉の国土を折半しようとし、燕にこれを認めさせて自ら王に立てようとした。
  • 楽毅は「将軍が無道を誅して自ら功名を立てられるならば、桓文の業とて語るに足りません。ご依頼の通りにいたしましょう」と返答した。淖歯は大いに喜び、鼓里で大々的に兵を陳列し、湣王に閲兵を請うた。
  • 湣王が到着すると、淖歯はこれを捕えてその罪を数え上げた。「斉には亡国の兆しが三つあった。血の雨が降ったのは天からの告げであり、地が裂けたのは地からの告げであり、人が城門で哭いたのは人からの告げである。王はこれを省みて戒めることを知らず、忠臣を戮し賢者を退け、分不相応な望みを抱いた。今、斉のすべての地を失い、なお一城に生き長らえておられるが、なお何を望まれるのか。」
  • 湣王は俯いたまま答えることができなかった。夷維は王を抱いて泣いたが、淖歯はまず夷維を殺し、そして湣王を生きたまま筋を引き抜き、屋根の梁に懸け、三日ののちに息絶えた。湣王の受けた禍は、なんと惨たらしいことであろうか。
  • 淖歯は莒州に戻ると、王の世子を探し出して殺そうとしたが見つからなかった。そこで淖歯は上表文を作って燕王に自らの功を陳べ、人を遣わしてこれを楽毅に届け、取り次ぎを求めた。このころ莒州と臨淄とは、ひそかに互いに通じ合い、往来を禁じられていなかった。

王孫賈の忠義と淖歯の誅殺

  • さて斉の大夫王孫賈は年十二歳で父を失い、ただ老いた母がいるのみであった。湣王はこれを憐れんで官を授けた。湣王が逃亡する際、賈もこれに従ったが、衛国で離れ離れになり、湣王の行方が分からなくなったので、ひそかに自ら家に帰った。
  • 老母は彼を見て「斉王はどこにおられるのか」と問うた。賈は「私は衛で王にお仕えしていましたが、王が真夜中に逃げ出され、すでに行方が分からなくなってしまいました」と答えた。
  • 老母は怒って言った。「そなたが朝に出て夕方に帰るならば、私は門に寄りかかって待とう。夕方に出て帰らないならば、私は里の門に寄りかかって待とう。主君が臣下の帰りを待つのは、母が子の帰りを待つのと何が違おうか。そなたは斉王の臣でありながら、王が夜中に出て行かれたのに、その行方も知らぬというのなら、いったい何のために帰ってきたのか。」
  • 賈は大いに恥じ、再び老母に別れを告げ、斉王の足取りをたどり、莒州にいると聞いて急いで駆けつけた。莒州に着くと、斉王はすでに淖歯に殺されたと知った。
  • 賈はそこで左肩を肌脱ぎにし、市中で叫んだ。「淖歯は斉の相でありながら、その君を弑した。臣として不忠である。私と共にその罪を討とうという者は、私と同じく左肩を肌脱ぎにせよ。」
  • 市の人々は互いに見合って「この者はまだ若いのに、なお忠義の心を持っている。我らのうち義を好む者は、皆彼に従うべきだ」と言った。たちまち左肩を肌脱ぎにする者が四百余人にのぼった。
  • そのころ楚の兵は数は多かったが、皆城外に分散して駐屯していた。淖歯は斉王の宮に居座り、まさに酒を酌み交わし、婦人に音楽を奏でさせて楽しんでいた。兵士数百人が宮の外に並んでいた。
  • 王孫賈は四百人を率い、兵士の武器を奪い取り、宮中に討ち入り、淖歯を捕らえて、その身をたたき潰して肉醤にした。そして城を閉ざして固く守った。楚の兵は主を失い、半分は逃げ散り、半分は燕国に投降した。

太史敫の娘と法章の潜伏

  • さて斉の世子法章は、斉王が変事に遭ったと聞き、急いで身なりを変えて貧しい男に扮し、自ら臨淄の人、王立と名乗り、逃げ場もなく、太史敫の家に傭人として身を寄せ、そこで庭に水をやる仕事をし、力仕事に耐えながら、誰も彼が高貴な身であることを知らなかった。
  • 太史敫には娘があり、年頃を迎えていたが、たまたま庭園を歩いていて法章の容貌を見て、大いに驚き、「これはただ者ではない、どうしてここで身をやつしているのか」と言った。侍女にその素性を尋ねさせたが、法章は禍を恐れ、決して口を割らなかった。
  • 太史の娘は「白龍が魚の姿に変じて、畏れて自ら隠れているのですね。いつか富貴になられる日は、言葉に尽くせぬほどのものでしょう」と言った。時折、侍女に衣食を届けさせ、次第に親しくなっていった。法章はこうして密かに自らの正体を太史の娘に打ち明けた。娘はそこで夫婦の約束を結び、密通するようになったが、家中の誰もこれを知らなかった。

田単の即墨籠城と法章の即位

  • そのころ即墨を守る長官が病死し、軍中に指揮者がなく、兵法に通じた者を選んで将軍に推戴しようとしたが、適任者が難しかった。田単が鉄で車軸を固めて難を逃れた話を知る者があり、その才は将軍たるにふさわしいと言ったので、共に彼を将軍に擁立した。田単は自ら土木の道具を執って士卒とともに労役に励み、一族や妻妾も皆行伍の中に編入させた。城中の人々は彼を畏れつつも愛した。
  • さて斉の諸臣は四方に散り逃げていたが、王蠋が節義に殉じた事を聞いて嘆いて言った。「あの官職を辞していた者でさえ、なお忠義の心を持っていた。我らは斉朝に立ちながら、君の亡国を座視し、恢復を図ろうとしなければ、人として恥ずべきことだ。」
  • そこで共に莒州へ走り、王孫賈のもとへ身を寄せ、共に世子を探し求めた。一年余り経って、法章は彼ら諸臣の誠意を見きわめ、そこで自ら名乗り出て「私こそまことに世子法章である」と言った。
  • 太史敫はこれを王孫賈に報告し、そこで君主の車を整えてこれを迎え、即位させた。これが襄王である。即墨に告げ、互いに呼応して二方から挟み撃ちにする態勢をとり、燕兵に対抗することを約した。
  • 楽毅はこれを包囲したが、三年経っても落とせなかった。そこで包囲を解いて九里ほど退き、軍の砦を建てさせ、令を出した。「城中の民で薪を採りに出る者があれば、そのまま任せておき、捕らえてはならない。困窮し飢えている者には食を与え、寒がっている者には衣を与えよ。」これによって民に恩を感じさせ、喜んで従わせようとしたのである。この件についてはこれ以上触れない。

騎劫の讒言と燕昭王の薨去

  • さて燕の大夫騎劫は、かなりの勇力があり、また兵法を語ることを好み、太子の楽資と親しく、兵権を得たいと望んでいた。太子に「斉王はすでに死んでいる。落とせぬ城はただ莒と即墨のみだ。楽毅は六ヶ月の間に斉の七十余城を落とせたのに、この二邑を落とすのがどうして難しかろうか。すぐに落とさないのは、斉人がまだ心服していないので、ゆっくりと恩威を用いて斉を懐柔しようとしているのだ。遠からず自ら斉王に立つつもりであろう」と言った。
  • 太子楽資はこの話を昭王に伝えた。昭王は怒って「わが先王の仇は、昌国君でなければ報いることはできぬ。たとえ真に斉の王となろうとしていたとしても、その功に対してどうしてふさわしくないことがあろうか」と言い、楽資を笞打つこと二十、使者に節を持たせて臨淄に至らせ、そのまま楽毅を斉王に任命させた。
  • 楽毅は感激して涙を流し、死をもって誓い、この任命を受けなかった。昭王は「わしはもとより毅の本心を知っている。決して寡人を裏切ることはないのだ」と言った。
  • 昭王は神仙の術を好み、方士に金石を練らせて神丹を作らせ、これを服用したが、長く経つうちに内熱を発して病となり、ついに薨じた。太子楽資が跡を継いだ。これが恵王である。

楽毅の失脚と、田単の火牛の計

  • 田単はたびたび間者を燕に潜入させて情勢をうかがわせていた。騎劫が楽毅に代わろうと謀っていること、また燕の太子が笞打たれた事を聞き、嘆じて「斉の恢復は、燕の後の王の代にあるだろう」と言った。
  • 燕の恵王が即位すると、田単は人を遣わして燕国に流言を広めさせた。「楽毅は久しく斉の王となろうとしているが、燕の先王の厚恩を受けたゆえに、それに背くことができず、それゆえ二城の攻略を緩めて、その事の実現を待っているのだ。今、燕に新しい王が即位したので、楽毅は即墨と和を通じようとしている。斉の人が恐れているのは、ただ他の将がやって来ることだけである。それでは即墨は残虐に扱われるであろう。」
  • 燕の恵王はかねてより楽毅を疑っていたが、この流言と騎劫の言葉が符合するのを聞き、これを事実だと信じてしまった。そこで騎劫を遣わして楽毅に代え、楽毅を召還した。
  • 楽毅は誅されることを恐れ、「私は趙の人である」と言い、その家を棄てて西の趙国へ奔った。趙王は楽毅を観津に封じ、望諸君と号させた。
  • 騎劫はすでに将に代わると、楽毅の令をすべて改めたので、燕軍は皆憤り不服であった。騎劫は陣を敷いてわずか三日で軍を率いて即墨を攻め、その城を幾重にも包囲したが、城中の守りはますます堅固になっていった。
  • 田単はある朝、城中の人々に言った。「私は夜、夢に上帝が現れ『斉はまさに復興し、燕はまさに敗れるであろう』と告げてくださった。近いうちに神人が我が軍の軍師として現れ、戦えば必ず勝つであろう。」
  • ある一人の小卒がその意図を悟り、田単の前に進み出て「臣が師となってもよろしいですか」と小声で言い、言い終えるとすぐに足早に立ち去った。田単は急いでこれを引き止め、人々に「私が夢の中で見た神人とは、まさにこの者のことだ」と言った。
  • そこで小卒のために衣冠を改めさせ、幕の中の上座に据え、北を向いてこれを師と仕えた。小卒は「臣には実際には何の能もございません」と言った。田単は「そなたは何も言うな」と言い、「神師」と呼ばせた。何かを命令するたびに、必ず神師にお伺いを立ててから行った。
  • 城中の人々に「神師のご命令である。すべて食事をする者は必ずまず庭で祖先を祭ること。さすれば祖宗の陰の助けを得られよう」と告げた。城中の人々はその教えに従った。飛ぶ鳥は庭の供え物を見て、皆舞い降りて食べた。朝夕二回このようにするうち、燕軍はこれを望み見て怪異と思った。神君の教えが下ったという噂が広まり、人々は互いに言い伝え、斉は天の助けを得ているので敵しがたく、これに逆らうのは天に背くことだと言い合い、皆戦意を失った。
  • 田単はさらに人を遣わして楽毅の短所を吹聴させた。「昌国君はあまりに慈悲深く、斉の人を得ても殺さぬ。だから城中の者は恐れていないのだ。もし鼻を削いで先陣に立てれば、即墨の人はさぞ苦しむだろう。」
  • 騎劫はこれを信じ、降伏兵の鼻をすべて削がせた。城中の人々は降兵が鼻を削がれたのを見て大いに恐れ、互いに戒めて堅く守り、燕人に捕らえられることを何よりも恐れるようになった。
  • 田単はさらに言いふらした。「城中の人々の家の墓は皆城外にある。もし燕人に掘り返されたら、どうなることか。」騎劫はまた兵卒に城外の墓をすべて掘り返させ、死者を焼き、骸骨をさらけ出させた。
  • 即墨の人々は城上からこれを望み見て、皆涙を流し、燕人の肉を食らってやりたいとまで思った。互いに軍門に押しかけ、一戦して祖先の仇を報いたいと請うた。
  • 田単は士卒が使える状態にあると知り、そこで精選した壮健な者五千人を選び、民間に隠しておき、その他の老弱者は婦女とともに輪番で城を守らせた。使者を遣わして燕軍に降伏の意を伝えさせ、「城中の食糧は尽きました。某日をもって降伏いたします」と言わせた。
  • 騎劫は諸将に「我と楽毅とどちらが勝っているか」と言った。諸将は皆「あなた様の方がはるかに優れております」と言った。軍中は皆躍り上がって「万歳」を叫んだ。
  • 田単はさらに民間から金千鎰を集め、富家の者に燕将へひそかに贈らせ、「城を落とす日には、家族を守っていただきたい」と頼ませた。燕将は大いに喜んでその金を受け取り、それぞれに小旗を渡して門に挿すよう命じ、目印とさせた。まったく備えをせず、ただ田単の降伏を待つばかりであった。
  • 田単は人を遣わして城中の牛を合わせて千余頭集めさせ、絳色の絹の衣を作り、五色の竜の模様を描いてこれを牛の体に着せ、鋭利な刃を牛の角に結びつけ、さらに麻や葦に膏油をしみ込ませて牛の尾に結わえ、後ろに引きずるように大きな箒のようにした。降伏を約束した日の前日、これを準備しておいた。人々は皆その意図を理解できなかった。
  • 田単は牛を屠って酒を用意し、日が暮れて黄昏に至るのを待ち、五千の壮卒を召し出して満腹させ、五色の顔料を顔に塗り、それぞれ利器を手にして牛の後ろに従わせた。民衆に城を掘らせて穴を数十ヶ所開けさせ、牛をその穴から追い出し、尾に結んだ箒に火をつけた。
  • 火が次第に牛の尾に迫ると、牛は怒り、まっすぐ燕の陣営へ突進した。五千の壮卒は声を出さずにこれに従った。燕軍は明日には降伏を受け入れるものと信じ、まさに夜、皆安らかに眠っていた。
  • 突然何かが地を蹴って駆け迫る音が聞こえ、夢から驚いて起き上がると、その松明の帚は千余りにものぼり、光は昼のように明るく輝き、望めば皆竜の模様の五色の牛が突進してくるのが見え、角や刃の触れる所、死傷しない者はなかった。軍中は大混乱となった。
  • その一団の壮卒は言葉も発せず、大刀を振るって出会う者を片端から斬り倒した。わずか五千人にすぎなかったが、混乱の中ではあたかも数万の兵かのように見えた。しかも以前から神師の教えが下っていると聞いていた上に、今日は神のごとき異様な姿を見せられ、それが何であるかも分からなかった。田単も自ら城中の人々を率いて鼓を鳴らして攻め寄せ、老人も弱者も婦女も、皆こぞって銅器を打ち鳴らして音を立て、天地を震わせるほどであった。
  • こうして胆はすっかり潰れ、足はすっかり萎えてしまい、誰一人として抗おうとする者はなかった。まことに人々は逃げ惑い、慌てふためき、自ら踏みつけ合い、死者は数えきれなかった。
  • 騎劫は車に乗って落ちのびようとしたが、ちょうど田単に出会い、戟のひと突きで刺し殺された。燕軍は大敗した(これは周の赧王三十六年のことである)。史官に詩がある。
  • (詩:火牛の奇計は古今に類なく、結局は騎劫の愚かさに乗じたものであった。もし黄金台の主が将を代えていなければ、燕と斉の勝敗はいったいどうなっていたであろうか、という趣旨。)

斉七十余城の恢復と、孟嘗君の晩年

  • 田単は隊伍を整え、勢いに乗じて敵を追撃し、戦えば必ず勝った。通過する城邑では、斉の兵が勝利を収め燕の将がすでに死んだと聞き、皆燕に背いて斉に帰った。田単の軍勢は日に日に盛んになり、土地を攻略してまっすぐ黄河のほとりまで迫り、斉の北の境に達した。燕がかつて落とした七十余城は、再び斉に帰した。
  • 諸軍の将士たちは田単の功が大きいことから、彼を王として推戴しようとした。田単は「太子法章が現に莒州に無事でおられる。私は遠縁の一族にすぎない、どうして自ら位に就くことができようか」と言った。そこで法章を莒から迎えた。王孫賈は法章のために車を御し、臨淄に至って、湣王の遺骸を収めて埋葬した。法章は日を選んで宗廟に告げ、朝廷に臨んだ。
  • 襄王は田単に言った。「斉国が危うくして再び安んじ、亡びて再び存したのは、皆叔父の功である。叔父が世に名を知られるようになったのは、安平の一件に始まる。今、叔父を安平君に封じ、食邑万戸を与えよう。」王孫賈は亜卿の爵位を拝命した。
  • 太史の娘を王后に迎え入れた。これが君王后である。そのとき太史敫は初めて自分の娘が先に法章に身を許して嫁いでいたことを知り、怒って「そなたは仲人を立てず自ら嫁いだ、私の子ではない」と言い、生涯二度と会おうとしなかった。
  • 斉の襄王は人を遣わしてその官禄を増そうとしたが、太史敫はすべて受けなかった。ただ君王后だけは、時節ごとに人を遣わして安否を尋ね、決して礼を欠かすことがなかった。これは後の回で語る話である。
  • そのころ孟嘗君は魏にあって、宰相の印を公子無忌に譲った。魏は無忌を信陵君に封じた。孟嘗君は薛に退いて住み、諸侯に比肩する存在として、平原君・信陵君と親しく交わった。斉の襄王はこれを畏れ、再び使者を遣わして相国として迎えようとしたが、孟嘗君はこれに応じなかった。そこで襄王は孟嘗君と和を結んで好誼を通じ、孟嘗君は斉と魏の間を往来した。
  • のちに孟嘗君は死に、子がなかったため、諸公子が跡目を争った。斉と魏は共に薛を滅ぼし、その地を分けとった。

楽毅の終焉と趙の廉頗

  • さて燕の恵王は、騎劫の兵が敗れてから、ようやく楽毅の賢明さを知り、悔いても及ばなかった。人を遣わして楽毅に書を送り謝罪し、国へ招き戻そうとした。楽毅は返書でこれを拒み、帰ろうとしなかった。
  • 燕王は趙が楽毅を用いて燕を図ることを恐れ、そこで再び楽毅の子の楽間に昌国君の位を襲わせ、楽毅の従弟の楽乗を将軍とし、ともに重んじて厚遇した。楽毅はこうして燕と趙の好誼を取り持ち、その間を往来した。両国とも楽毅を客卿として遇した。楽毅はついに趙で世を終えた。
  • そのころ廉頗が趙の大将であり、勇があって用兵に巧みで、諸侯は皆これを恐れた。秦の兵はしばしば趙の国境を侵したが、廉頗の力によってこれを防ぎ、深く侵入することができなかった。秦はそこで趙と好誼を通じた。
  • 後のことがどうなるかは分からない。続きは次回で明かされる。
原文(底本)
話說燕昭王自即位之後,日夜以報齊雪恥為事。弔死問孤,與士卒同甘苦,尊禮賢士,四方豪傑,歸者如市。有趙人樂毅,乃樂羊之孫,自幼好講兵法。當初樂羊封於靈壽,子孫遂家焉。趙主父沙邱之亂,樂毅挈家去靈壽,奔大梁,事魏昭王,不甚信用。聞燕王築黃金臺,招致天下賢士,欲往投之,乃謀出使於燕。見燕昭王說以兵法,燕王知其賢,待以客禮。樂毅謙讓不敢當。燕王曰:「先生生於趙,仕於魏,在燕固當為客。」樂毅曰:「臣之仕魏,以避亂也。大王若不棄微末,請委質為燕臣。」燕王大喜,即拜毅為亞卿,位於劇辛諸人之上。樂毅悉召其宗族居燕,為燕人。其時齊國強盛,侵伐諸侯。昭王深自韜晦,養兵恤民,待時而動。及湣王逐孟嘗君,恣行狂暴,百姓弗堪﹔而燕國休養多年,國富民稠,士卒樂戰。於是昭王進樂毅而問曰:「寡人銜先人之恨,二十八年於茲矣!常恐一旦溘先朝露,不及剸刃於齊王之腹,以報國恥,終夜痛心。今齊王驕暴自恃,中外離心,此天亡之時。寡人欲起傾國之兵,與齊爭一旦之命,先生何以教之?」樂毅對曰:「齊國地大人眾,士卒習戰,未可獨攻也。王必欲伐之,必與天下共圖之。今燕之比鄰,莫密於趙,王宜首與趙合,則韓必從。而孟嘗君相魏,方恨齊,宜無不聽。如是,而齊可攻也。」燕王曰:「善。」乃具符節,使樂毅往說趙國。

  平原君趙勝為言於惠文王,王許之。適秦國使者在趙,樂毅并說秦使者以伐齊之利。使者還報秦王。秦王忌齊之盛,懼諸侯背秦而事齊,於是復遣使者報趙,願共伐齊之役。劇辛往說魏王,見孟嘗君,孟嘗君果主發兵,復為約韓與共事。俱與訂期。於是燕王悉起國中精銳,使樂毅將之。秦將白起,趙將廉頗,韓將暴鳶,魏將晉鄙,各率一軍,如期而至。於是燕王命樂毅并護五國之兵,號為樂上將軍,浩浩蕩蕩,殺奔齊國。齊湣王自將中軍,與大將韓聶迎戰於濟水之西。樂毅身先士卒,四國兵將,無不賈勇爭奮,殺得齊兵屍橫原野,流血成渠。韓聶被樂毅之弟樂乘所殺。諸軍乘勝逐北,湣王大敗,奔回臨淄,連夜使人求救於楚,許盡割淮北之地為賂﹔一面檢點軍民,登城設守。秦、魏、韓、趙乘勝,各自分路收取邊城,獨樂毅自引燕軍,長驅深入,所過宣諭威德,齊城皆望風而潰,勢如破竹,大軍直逼臨淄。湣王大懼,遂與文武數十人,潛開北門而遁。行至衛國,衛君郊迎稱臣。既入城,讓正殿以居之,供具甚敬。湣王驕傲,侍衛君不以禮。衛諸臣意不能平,夜往掠其輜重。湣王怒,欲俟衛君來見,責以捕盜。衛君是日竟不朝見,亦不復給廩餼。湣王甚愧,候至日昃餓甚,恐衛君圖己,與夷維數人,連夜逃去。從臣失主,一時皆四散奔走。湣王不一日,逃至魯關,關吏報知魯君。魯君遣使者出迎,夷維謂曰:「魯何以待吾君?」對曰:「將以十太牢待子之君。」夷維曰:「吾君,天子也。天子巡狩,諸侯辟宮,朝夕親視膳於堂下,天子食已,乃退而聽朝,豈止十牢之奉而已!」使者回復魯君,魯君大怒,閉關不納。復至鄒,值鄒君方死,湣王欲入行弔。夷維謂鄒人曰:「天子下弔,主人必背其殯棺,立西階,北面而哭,天子乃於阼階上,南面而弔之。」鄒人曰:「吾國小,不敢煩天子下弔。」亦拒之不受。湣王計窮。夷維曰:「聞莒州尚完,何不往?」乃奔莒州,僉兵城守,以拒燕軍。樂毅遂破臨淄,盡收取齊之財物祭器,并查舊日燕國重器前被齊掠者,大車裝載,俱歸燕國。燕昭王大悅,親至濟上,大犒三軍,封樂毅於昌國,號昌國君。燕昭王返國,獨留樂毅於齊,以收齊之餘城。齊之宗人有田單者,有智術,知兵。湣王不能用,僅為臨淄市椽。燕王入臨淄,城中之人,紛紛逃竄。田單與同宗逃難於安平,盡截去其車軸之頭,略與轂平,而以鐵葉裹軸,務令堅固。人皆笑之。未幾,燕兵來攻安平,城破,安平人復爭竄,乘車者捱擠,多因軸頭相觸,不能疾驅,或軸折車覆,皆為燕兵所獲。惟田氏一宗,以鐵籠堅固,且不礙,竟得脫,奔即墨去訖。樂毅分兵略地,至於畫邑,聞故太傅王蠋家在畫邑,傳令軍中,環畫邑三十里,不許入犯。使人以金幣聘蠋,欲薦於燕王。蠋辭老病,不肯往。使者曰:「上將軍有令:『太傅來,即用為將,封以萬家之邑﹔不行,且引兵屠邑!』」蠋仰天嘆曰:「『忠臣不事二君,烈女不更二夫。』齊王疏斥忠諫,故吾退而耕於野。今國破君亡,吾不能存,而又劫吾以兵,吾與其不義而存,不若全義而亡!」遂自懸其頭於樹上,舉身一奮,頸絕而死。樂毅聞之嘆息,命厚葬之,表其墓曰:「齊忠臣王蠋之墓。」樂毅出兵六個月,所攻下齊地共七十餘城,皆編為燕之郡縣,惟莒州與即墨堅守不下。毅乃休兵享士,除其暴令,寬其賦役,又為齊桓公管夷吾立祠設祭,訪求逸民,齊民大悅。樂毅之意,以為齊止二城,在掌握之中,終不能成大事,且欲以恩結之,使其自降,故不極其兵力。(此周赧王三十一年事也。)

  卻說楚頃襄王,見齊使者來請救兵,許盡割淮北之地,乃命大將淖齒,率兵二十萬,以救齊為名,往齊受地。謂淖齒曰:「齊王急而求我,卿往彼可相機而行,惟有利於楚,可以便宜從事。」淖齒謝恩而出,率兵從齊湣王于莒州。湣王德淖齒,立以為相國,大權皆歸於齒。齒見燕兵勢盛,恐救齊無功,獲罪二國,乃密遣使私通樂毅,欲弒齊王,與燕中分齊國,使燕人立己為王。樂毅回報曰:「將軍誅無道,以自立功名,桓文之業,不足道也。所請惟命!」淖齒大悅,乃大陳兵於鼓里,請湣王閱兵。湣王既至,遂執而數其罪曰:「齊有亡徵三:雨血者,天以告也﹔地坼者,地以告也﹔有人當闕而哭,人以告也。王不知省戒,戮忠廢賢,希望非分。今全齊盡失,而偷生於一城,尚欲何為?」湣王俯首不能答。夷維擁王而哭,淖齒先殺夷維,乃生擢王筋,懸於屋梁之上,三日而後氣絕。湣王之得禍,亦慘矣哉!淖齒回莒州,欲覓王世子殺之,不得。齒乃為表奏燕王,自陳其功,使人送於樂毅,求其轉達。是時莒州與臨淄,陰自相通,往來無禁。

  卻說齊大夫王孫賈,年十二歲,喪父,止有老母。湣王憐而官之。湣王出奔,賈亦從行,在衛相失,不知湣王下處,遂潛自歸家。其老母見之,問曰:「齊王何在?」賈對曰:「兒從王於衛,王中夜逃出,已不知所之矣。」老母怒曰:「汝朝去而晚回,則吾倚門而望。汝暮出而不還,則吾倚閭而望。君之望臣,何異母之望子?汝為齊王之臣,王昏夜出走,汝不知其處,尚何歸乎?」賈大愧,復辭老母,蹤跡齊王,聞其在莒州,趨往從之。比至莒州,知齊王已為淖齒所殺。賈乃袒其左肩,呼於市中曰:「淖齒相齊而弒其君,為臣不忠,有願與吾誅討其罪者,依吾左袒。」市人相顧曰:「此人年幼,尚有忠義之心,吾等好義者,皆當從之。」一時左袒者,四百餘人。時楚兵雖眾,皆分屯於城外。淖齒居齊王之宮,方酣飲,使婦人奏樂為歡。兵士數百人,列於宮外。王孫賈率領四百人,奪兵士器仗,殺入宮中,擒淖齒剁為肉醬,因閉城堅守。楚兵無主,一半逃散,一半投降於燕國。

  再說齊世子法章,聞齊王遇變,急更衣為窮漢,自稱臨淄人王立,逃難無歸,投太史敫家為傭工,與之灌園,力作辛苦,無人知其為貴介者。太史敫有女,年及笄,偶遊園中,見法章之貌,大驚曰:「此非常人,何以屈辱於此?」使侍女叩其來歷。法章懼禍,堅不肯吐。太史女曰:「白龍魚服,畏而自隱,異日富貴,不可言也。」時時使侍女給其衣食,久益親近。法章因私露其跡於太史女。女遂與訂夫婦之約,因而私通,舉家俱不知也。

  時即墨守臣病死,軍中無主,欲擇知兵者,推戴為將,而難其人。有人知田單鐵籠得全之事,言其才可將,乃共擁立為將軍。田單身操版鍤,與士卒同操作﹔宗族妻妾,皆編於行伍之間。城中人畏而愛之。

  再說齊諸臣四散奔逃,聞王蠋死節之事,嘆曰:「彼已告者,尚懷忠義之心,我輩見立齊朝,坐視君亡國破,不圖恢復,豈得為人!」乃共走莒州,投王孫賈,相與訪求世子。歲餘,法章知其誠,乃出自言曰:「我實世子法章也。」太史敫報知王孫賈,乃具法駕迎之,即位,是為襄王。告於即墨,相約為犄角,以拒燕兵。樂毅圍之,三年不克。乃解圍退九里,建立軍壘,令曰:「城中民有出樵採者,聽之,不許擒拿。其有困乏饑餓者食之,寒者衣之。」欲使感恩悅附。不在話下。

  且說燕大夫騎劫,頗有勇力,亦喜談兵,與太子樂資相善,覬得兵權。謂太子曰:「齊王已死,城之不拔者,惟莒與即墨耳。樂毅能於六月間,下齊七十餘城,何難於二邑?所以不肯即拔者,以齊人未附,欲徐以恩威結齊,不久當自立為齊王矣。」太子樂資述其言於昭王。昭王怒曰:「吾先王之仇,非昌國君不能報,即使真欲王齊,於功豈不當耶?」乃笞樂資二十,遣使持節至臨淄,即拜樂毅為齊王。毅感泣,以死自誓,不受命。昭王曰:「吾固知毅之本心,決不負寡人也。」昭王好神仙之術,使方士鍊金石為神丹,服之,久而內熱發病,遂薨。太子樂資嗣位,是為惠王。

  田單每使細作入燕窺覘事情。聞騎劫謀代樂毅,及燕太子被笞之事,嘆曰:「齊之恢復,其在燕後王乎!」及燕惠王立,田單使人宣言於燕國曰:「樂毅久欲王齊,以受燕先王厚恩,不忍背,故緩攻二城,以待其事。今新王即位,且與即墨連和,齊人所懼,惟恐他將來,則即墨殘矣。」燕惠王久疑樂毅,及聞流言與騎劫之言相合,因信為然。乃使騎劫往代樂毅,而召毅歸國。毅恐見誅,曰:「我趙人也。」遂棄其家,西奔趙國。趙王封樂毅於觀津,號望諸君。騎劫既代將,盡改樂毅之令,燕軍俱憤怨不服。騎劫住壘三日,即率師往攻即墨,圍其城數匝,城中設守愈堅。田單晨起謂城中人曰:「吾夜來夢見上帝告我云:齊當復興,燕當即敗。不日當有神人為我軍師,戰無不克。」有一小卒悟其意,趨近單前,低語曰:「臣可以為師否?」言畢,即疾走。田單急起持之,謂人曰:「吾夢中所見神人,即此是也!」乃為小卒易衣冠,置之幕中上坐,北面而師事之。小卒曰:「臣實無能。」田單曰:「子勿言。」因號為「神師」。每出一約束,必稟命於神師而行。謂城中人曰:「神師有令:『凡食者必先祭其先祖於庭,當得祖宗陰力相助。』」城中人從其教。飛鳥見庭中祭品,悉翔舞下食。如此早暮二次,燕軍望見,以為怪異。聞有神君下教,因相與傳說,謂齊得天助,不可敵,敵之違天,皆無戰心。單復使人揚樂毅之短曰:「昌國君太慈,得齊人不殺,故城中不怕。若劓其鼻而置之前行,即墨人苦死矣!」騎劫信之,將降卒盡劓其鼻。城中人見降者割鼻,大懼,相戒堅守,惟恐為燕人所得。田單又揚言:「城中人家,墳墓皆在城外,倘被燕人發掘,奈何?」騎劫又使兵卒盡掘城外墳墓,燒死人,暴骸骨。即墨人從城上望見,皆涕泣,欲食燕人之肉。相率來軍門,請出一戰,以報祖宗之仇。田單知士卒可用,乃精選強壯者五千人,藏匿於民間,其餘老弱,同婦女輪流守城。遣使送款於燕軍,言:「城中食盡,將以某日出降。」騎劫謂諸將曰:「我比樂毅何如?」諸將皆曰:「勝毅多倍!」軍中悉踴躍呼:「萬歲!」田單又收民間金得千鎰,使富家私遺燕將,囑以城下之日,求保全家小。燕將大喜,受其金,各付小旗,使插於門上,以為記認。全不准備,呆呆的只等田單出降。單乃使人收取城中牛共千餘頭,製為絳繒之衣,畫以五色龍文,披於牛體,將利刃束於牛角,又將麻葦灌下膏油,束於牛尾,拖後如巨帚,於約降前一日,安排停當。眾人皆不解其意。田單椎牛具酒,候至日落黃昏,召五千壯卒飽食,以五色塗面,各執利器,跟隨牛後。使百姓鑿城為穴,凡數十處,驅牛從穴中出,用火燒其尾帚。火熱漸迫牛尾,牛怒,直奔燕營。五千壯卒,銜枚隨之。燕軍信為來日受降入城,方夜,皆安寢。忽聞馳驟之聲,從夢中驚起,那帚炬千餘,光明照耀,如同白日,望之皆龍文五采,突奔前來,角刃所觸,無不死傷,軍中擾亂。那一夥壯卒,不言不語,大刀闊斧,逢人便砍,雖只五千個人,慌亂之中,恰像幾萬一般。況且向來聽說神師下教,今日神頭鬼臉,不知何物,田單又親率城中人鼓噪而來,老弱婦女,皆擊銅器為聲,震天動地,一發膽都嚇破了,腳都嚇軟了,那個還敢相持!真個人人逃竄,個個奔忙,自相蹂踏,死者不計其數。騎劫乘車落荒而走,正遇田單,一戟刺死,燕軍大敗。(此周赧王三十六年事也。)史官有詩云:

    火牛奇計古今無,畢竟機乘騎劫愚﹔假使金臺不易將,燕齊勝負竟何如?

田單整頓隊伍,乘勢追逐,戰無不克。所過城邑,聞齊兵得勝,燕將已死,盡皆叛燕而歸齊。田單兵勢日盛,掠地直逼河上,抵齊北界,燕所下七十餘城,復歸於齊。眾軍將以田單功大,欲奉為王。田單曰:「太子法章自在莒州,吾疏族,安敢自立?」於是迎法章於莒。王孫賈為法章御車,至於臨淄,收葬湣王,擇日告廟臨朝。襄王謂田單曰:「齊國危而復安,亡而復存,皆叔父之功也!叔父知名始於安平,今封叔父為安平君,食邑萬戶。」王孫賈拜爵亞卿。迎太史女為后,是為君王后。那時太史敫方知其女先以身許法章,怒曰:「汝不取媒而自嫁,非吾種也!」終身誓不復相見。齊襄王使人益其官祿,皆不受。惟君王后歲時遣人候省,未嘗缺禮。此是後話。

  時孟嘗君在魏,讓相印於公子無忌。魏封無忌為信陵君。孟嘗君退居於薛,比於諸侯,與平原君信陵君相善。齊襄王畏之,復遣使迎為相國。孟嘗君不就。於是與之連和通好,孟嘗君往來於齊魏之間。其後,孟嘗君死,無子,諸公子爭立。齊魏共滅薛,分其地。

  再說燕惠王自騎劫兵敗,方知樂毅之賢,悔之無及。使人遺毅書謝過,欲招毅還國。毅答書不肯歸。燕王恐趙用樂毅以圖燕,乃復以毅子樂間,襲封昌國君,毅從弟樂乘為將軍,並貴重之。毅遂合燕趙之好,往來其間。二國皆以毅為客卿。毅終於趙。時廉頗為趙大將,有勇,善用兵,諸侯皆憚之。秦兵屢侵趙境,賴廉頗力拒,不能深入。秦乃與趙通好。不知後事何如,且看下回分解。

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