東周列國志第九十八回 平原君を質として秦王が魏斉を求める/長平に敗れて白起が趙の卒を坑にする (質平原秦王索魏齊 敗長平白起坑趙卒)

魏斉の逃亡と秦の趙侵攻、斉の救援

  • 須賈は范睢の言いつけを承って、夜通し大梁へ帰り、魏王に見え、范睢が言い含めた言葉を伝えた。家族を送ることは小事だが、相国の首を斬れというのは体面に関わり、口にするのも憚られることであった。魏王はためらって決めかねた。
  • 魏斉はこの知らせを聞くと、宰相の印を捨て、その夜のうちに趙国へ逃げ、平原君趙勝のもとに身を寄せた。
  • 魏王は盛大に車馬を飾らせ、黄金百鎰、彩帛千端を范睢の家族に持たせて咸陽へ送った。そして「魏斉は風聞を聞いて先に逃げ去り、今は平原君の府にいます。魏国には関わりのないことです」と告げた。
  • 范睢はこれを秦王に奏上した。秦王は言った。「趙と秦とは一貫して誼を結んでおり、澠池の会では兄弟の契りを結び、さらに王孫異人を趙へ人質として送り、その誼を固めようとした。以前秦兵が韓を伐ち閼与を囲んだ際、趙は李牧(実は趙奢)を遣わして韓を救い、秦軍を大いに破ったが、寡人はこれまで問罪しなかった。今また丞相の仇人をほしいままに受け入れているとは、丞相の仇は寡人の仇でもある。寡人は決意して趙を伐ち、一つには閼与の恨みに報い、二つには魏斉を取ろう。」
  • そこで自ら二十万の軍を率い、王翦を大将として趙を伐たせ、三城を陥落させた。
  • 時に趙の恵文王がちょうど薨じ、太子丹が立って孝成王となった。孝成王は年少であったので、恵文太后が政をとった。秦兵が深く侵入していると聞き、大いに恐れた。時に藺相如は病が篤く老いを理由に辞任し、虞卿がこれに代わって相国となっていた。
  • 大将廉頗に軍を率いて敵を防がせたが、対峙したまま決着がつかなかった。虞卿は恵文太后に言った。「事態は急を要します。臣は長安君を斉への人質として送り、救援を求めることをお願いいたします。」太后はこれを許した。
  • もとより恵文王の太后は、斉の湣王の娘であった。その年、斉の襄王が新たに薨じ、太子建が即位したが、これもまた年少で、君王后太史氏が政をとっていた。両太后は小姑と兄嫁という義理の姉妹の間柄であり、その情は睦まじく、長安君はまた恵文太后が最も愛する幼い子であった。彼が斉への人質として赴くとなれば、君王后がどうして心を動かされずにいられようか。そこで田単を大将とし、十万の兵を発して趙を救わせた。
  • 秦将王翦は秦王に言った。「趙には良将が多く、また平原君のような賢者もおります。攻め落とすのは容易ではございません。しかも斉の救援が到着しつつあります。全軍を無事に帰した方がよろしいでしょう。」秦王は言った。「魏斉を得られなければ、寡人はどのような顔で応侯に会えようか。」
  • そこで使者を遣わして平原君に言わせた。「秦が趙を伐つのは、魏斉を得るためだけです。もし魏斉を差し出されれば、すぐに兵を退きましょう。」平原君は答えた。「魏斉は臣の家にはおりません。大王は人の言を誤ってお聞きになったのでしょう。」
  • 使者が三度赴いても、平原君は最後まで認めなかった。秦王は内心不快であったが、進軍しようとすれば斉と趙が兵を合わせ勝敗が測りがたいことを恐れ、兵を引き上げようとすれば魏斉をどうして得られようかとためらった。
  • 何度も思案した末、一つの計を思いついた。そこで書を作り趙王に謝して言った。「寡人と君とは兄弟であります。寡人は誤って道路の噂を聞き、魏斉が平原君の所にいると思い、それで兵を起こして探し求めたのです。そうでなければ、どうしてあえて趙の境を侵しましょうか。取った三城は謹んで趙へお返しいたします。寡人は願わくは前のような誼を再び結び、往来に隔てのないようにいたしたく存じます。」
  • 趙王もまた使者を遣わして返書を送り、兵を退き城を返す意に謝意を表した。田単は秦軍がすでに退いたと聞くと、斉へ帰って行った。

平原君を秦へ招く

  • 秦王は函谷関に戻ると、再び使者を遣わし、一通の書を平原君趙勝に届けさせた。勝が書を開いてみると、おおよそこう記されていた。「寡人は君の高い義を聞き、君と布衣の交わりを結びたいと願う。どうか寡人のもとへお越しいただきたい。寡人は君と十日の酒宴を持ちたい。」
  • 平原君はこの書を持って趙王に見せた。趙王は群臣を集めて協議した。相国虞卿は進み出て言った。「秦は虎狼の国です。昔孟嘗君が秦へ入り、ほとんど帰ることができませんでした。まして今、彼は魏斉が趙にいると疑っております。平原君は行ってはなりません。」
  • 廉頗は言った。「昔藺相如は和氏の璧を懐にして単身秦へ入り、なお完全に趙へ帰ることができました。秦は趙を欺きません。もし行かなければ、かえってその疑いを招きます。」
  • 趙王は言った。「寡人もこれを秦王の厚意と考える。違えてはならぬだろう。」そこで趙勝に秦の使者と共に西へ咸陽へ入るよう命じた。
  • 秦王は一目見るなり平生の親友のように歓待し、日々酒宴を設けてもてなした。数日逗留していたところ、秦王が酒宴の最も歓を尽くした折、盃を挙げて趙勝に向けて言った。「寡人は君に一つ頼みがある。もし承知してくれるなら、この盃を飲んでくれ。」勝は言った。「大王のご命令、勝がどうして従わずにいられましょう。」そして盃を引き受けて飲み干した。
  • 秦王は言った。「昔、周の文王は呂尚を得て太公とし、斉の桓公は管夷吾を得て仲父とした。今、范君もまた寡人の太公・仲父である。范君の仇魏斉は、君の家に匿われているというではないか。君は人を遣わしてその首を取ってきてもらい、范君の恨みを晴らしてくれ。それこそが寡人の受ける賜物なのだ。」
  • 趙勝は言った。「臣が聞くところ、『貴くなって友と交わるのは、賤しくなる日のためであり、富んで友と交わるのは、貧しくなる日のためである』と申します。そもそも魏斉は臣の友でございます。たとえ本当に臣のもとにいたとしても、臣は忍びなくこれを差し出すことなどできません。まして実際にはおりません。」
  • 秦王は色をなして言った。「君がどうしても魏斉を差し出さぬなら、寡人は君を関から出さぬぞ。」趙勝は言った。「関を出すか出さぬかは大王のなさりようです。しかし王は酒宴でお招きになりながら、威力でこれを脅そうとされる。天下の人々はどちらに理があるか分かるでしょう。」
  • 秦王は平原君が魏斉を裏切らないと知り、そのまま彼を咸陽に留め置き、館舎に滞在させた。そして人を遣わして趙王に書を送った。「王の弟平原君は秦におり、范君の仇魏斉は平原君の家にある。魏斉の首が朝来れば、平原君は夕方には帰れよう。さもなければ寡人はまさに兵を挙げて趙に臨み、自ら魏斉を討ち、また平原君も関から出さぬ。王どうかご了承いただきたい。」

虞卿と共に大梁へ、信陵君のためらい

  • 趙王はこの書を得て大いに恐れ、群臣に言った。「寡人がどうして他国の亡命者一人のために、わが国の重鎮たる公子を犠牲にできようか。」そこで兵を発して平原君の家を囲み、魏斉を捜し求めさせた。
  • 平原君の賓客の多くは魏斉と交わりがあり、夜のうちにひそかにこれを逃がし、相国虞卿のもとに身を寄せさせた。虞卿は言った。「趙王は秦を山犬や虎よりも畏れている。これは言葉で争える話ではない。大梁へ逃げるに越したことはない。信陵君は賢士を招き、天下の亡命者は皆彼のもとに集まっている。しかも平原君とも厚い交わりがあるから、必ず庇ってくれよう。とはいえ、罪を負われたあなたを独りで行かせるわけにはいかない。私も一緒に参ろう。」
  • そこで宰相の印を解き、書を作って趙王に謝罪し、魏斉と共に賤しい者の姿に変装して趙国を脱出した。大梁に至ると、虞卿は魏斉を郊外に潜ませ、慰めて言った。「信陵君は慷慨の士だ。私が訪ねれば必ずすぐに迎え入れてくれよう。長くお待たせすることはない。」
  • 虞卿は徒歩で信陵君の門に至り、名刺を通じさせた。門番が入って報告すると、信陵君はちょうど髪を解いて沐浴していたが、名刺を見て大いに驚いて言った。「これは趙の相国だ、どうして訳もなくここに来ているのか。」門番に「主人はちょうど沐浴中です」と断らせ、しばらく座って待つよう頼んだうえで、来訪の意図を尋ねさせた。
  • 虞卿は事態が急迫していたので、やむなく魏斉が秦に罪を得た顛末と、自ら宰相の印を捨てて共に来た事情とをおおよそ語った。門番はまた中へ入ってこれを伝えた。
  • 信陵君は内心秦を畏れ、魏斉を受け入れたくなかったが、虞卿が千里を厭わず訪ねて来た心情を思うと、素っ気なく拒むこともできず、事は板挟みとなり、決めかねていた。
  • 虞卿は、信陵君が難色を示してすぐには出て来て会おうとしないと聞くと、大いに怒って去った。信陵君は賓客に問うた。「虞卿の人柄はどのようなものか。」その時侯生が傍らにいて大いに笑って言った。「なんと公子は物事に疎いことか。虞卿は三寸の舌をもって趙王の宰相の印を取り、万戸侯に封ぜられた身でありながら、魏斉が窮して虞卿を頼って来ると、虞卿は爵禄の重さを惜しまず、印綬を解いて共に行動を共にしたのです。天下にこのような人物が幾人おりましょうか。公子はまだその賢愚を判じかねているのですか。」
  • 信陵君は大いに恥じ、急いで髪を結い冠をつけ、御者に車を駆らせて、自ら郊外へ急ぎ後を追った。

魏斉の自刎

  • 一方魏斉は待ち焦がれて久しく望み続けたが、なかなか消息が来ず、思った。「虞卿が言うには信陵君は慷慨の立派な男だから一度聞けばすぐに迎えてくれるはずだったのに、これほど久しくても来ないとは、事はうまくいかなかったのだ。」
  • ほどなく虞卿が涙を浮かべて戻って来て言った。「信陵君は立派な男ではなかった。秦を畏れて私を退けたのだ。私はあなたと共に道を尋ね尋ねて楚へ落ち延びよう。」
  • 魏斉は言った。「私は一時の不覚から范叔に罪を得て、一度は平原君に累を及ぼし、再びあなたにも累を及ぼしました。その上あなたに険しい道を越えさせ、どうなるとも知れぬ楚国へ、この虫の息の命乞いに赴かせようとは。私はどうして生きていられましょうか。」そして帯びていた剣を抜いて自らの首を刎ねようとした。
  • 虞卿は慌てて前に出て奪おうとしたが、喉はすでに斬られていた。虞卿が悲しみに沈んでいるところに、信陵君の車騎が到着した。虞卿はこれを望み見ると、別の場所へ身を避け、姿を見せなかった。
  • 信陵君は魏斉の屍を見て、これを撫でて泣いて言った。「無忌の過ちである。」
  • 時に趙王は魏斉を得られず、しかも相国虞卿までも逃げ去ったと知り、二人が共に行動を共にしたことから、韓でなければ魏にいるだろうと考え、飛脚の騎馬を四方に遣わして追捕させた。使者が魏の郊外に至って、ようやく魏斉が自刎したことを知った。
  • すぐに魏王に奏上して、その首を求め、平原君を国へ帰す取り引きとした。信陵君はちょうど魏斉の屍の殯を命じたところで、心中なお忍びなかった。
  • 使者は言った。「平原君はあなたと一体でございます。平原君が魏斉を愛したのは、あなたとまた同じ心でございましょう。しかし魏斉がなお生きているというなら、臣がどうしてあえて申しましょう。今すでに死んで知覚もないその骨を惜しまれたばかりに、平原君をいつまでも秦の虜のままにしておかれて、あなたのお心は安らかでいられましょうか。」
  • 信陵君はやむを得ず、その首を取り、箱に納めて趙の使者に渡し、その屍は郊外に葬った。髯翁に魏斉を詠んだ詩がある。
  • (詩:須賈の言を鵜呑みにしていわれなく士(范睢)を辱めた魏斉は、命を捨てて范睢に詫びるほかなく、虫の息の余命が人を巻き添えにし、ついには自らをも滅ぼしたと責め、咸陽へ首が届くのが遅れたことを恨む趣旨)

虞卿の隠棲

  • 虞卿はすでに宰相の印を捨て、世情に感慨を覚え、二度と仕官の道に戻ることなく、白雲山に隠れて著書に自ら楽しみ、時事を風刺した。この書は『虞氏春秋』と名づけられた。髯翁にもまた詩がある。
  • (詩:窮愁のうちに著書に生きた虞卿の千秋に伝わる高潔さを称え、有用の文才を持ちながら相印を惜しみなく捨てて魏斉に殉じたことを惜しむ趣旨)

范睢の恩讐、王稽・鄭安平の登用と斉との盟約

  • 趙王は魏斉の首を、夜を徹して咸陽へ送り、秦王はこれを范睢に賜った。范睢はその頭に漆を塗らせ便器とし、言った。「お前が賓客に酔わせて私に小便をかけさせたのだから、今、九泉の下で常に私の尿を含ませてやろう。」
  • 秦王は礼をもって平原君を趙へ送り帰した。趙は彼を相国に用い、虞卿の位に代えた。
  • 范睢はさらに秦王に言った。「臣は布衣の下賤の身でありながら、幸いにも大王のお引き立てを受け、卿相の位に備わり、さらには臣のために深い恨みに報いていただきました。これに勝る大恩はございません。ただ、臣は鄭安平がいなければ魏で命をつなぐことができず、王稽がいなければ秦に進むこともできませんでした。どうか大王には臣の爵位を落としてでも、この二人に恩賞をお加えいただき、臣の恩に報いる思いを果たさせていただければ、臣は死んでも思い残すことはございません。」
  • 秦王は言った。「丞相が言ってくれなければ、寡人はもう少しで忘れるところだった。」そこで王稽を河東守に、鄭安平を偏将軍に任じた。
  • こうして専ら范睢の謀が用いられ、まず韓・魏を攻め、使者を遣わして斉・楚と誼を通じることとなった。范睢は秦王に言った。「臣が聞くところ、斉の君王后は賢く智があるとのこと。試してみるべきでしょう。」
  • そこで使者に玉の連環を君王后に献上させて言わせた。「斉国にこの環を解ける者があれば、寡人は敬服いたしましょう。」君王后は金鎚を取らせ、即座にその環を打ち砕き、使者に告げた。「秦王に伝えよ、老婦はすでにこの環を解いてしまった、と。」使者が帰ってこれを報告した。范睢は言った。「君王后はまことに女性の中の傑物だ、侮ることはできぬ。」こうして斉と盟約を結び、互いに侵害しないこととなり、斉国はこれによって安息を得た。

楚太子熊完の脱出

  • さて楚の太子熊完は秦への人質となり、秦は十六年もこれを帰さなかった。ちょうど秦の使者が楚との誼を結ぶために赴くと、楚の使者朱英も共に咸陽に来て答礼の挨拶をした。
  • 朱英は楚王の病が篤くなり、恐らくもう起き上がれないだろうという事情を述べた。太傅黄歇は熊完に言った。「王のご病気が重く、太子は秦に留められておられます。万一のことがあれば、太子が枕元にいらっしゃらない間に、諸公子の中から必ず代わって位に即く者が出ましょう。楚国は太子のものではなくなります。臣は太子のために応侯に謁見し、太子のご帰国をお願いしたく存じます。」太子は「よかろう」と言った。
  • 黄歇は相府に赴き范睢に説いた。「相君は楚王のご病気をご存知ですか。」范睢は「使者がすでに語っております」と言った。
  • 黄歇は言った。「楚の太子は秦に長くおり、秦の将相とは親しくない者はございません。もし楚王が薨じ太子が立てば、秦へ仕える態度もきっと謹み深いものになりましょう。相君がこの時をもって太子を楚へ帰されれば、太子の相君への感謝は無限のものとなりましょう。もし留めて帰さなければ、楚は別の公子を立ててしまい、太子は秦において咸陽の一布衣に過ぎなくなりましょう。しかも楚人が太子の帰らぬことに懲りれば、後日再び人質を送って秦に仕えることはないでしょう。一介の布衣を留め置くために、万乗の国との誼を絶つことは、臣がひそかに考えますに、良策ではございません。」
  • 范睢はうなずいて「あなたの言う通りだ」と言った。そこで黄歇の言葉を秦王に告げると、秦王は言った。「太子傅の黄歇にまず帰らせて病を見舞わせ、病が本当に篤ければ、その後で太子を迎えに来させよ。」
  • 黄歇は太子が共に帰れないと聞くと、ひそかに太子と協議して言った。「秦王が太子を留めて帰さないのは、懐王の故事のように、急を乗じて領土の割譲を求めようとしているのです。楚が幸いにも迎えに来れば秦の計にはまることになり、迎えに来なければ太子は終生秦の虜となってしまいます。」
  • 太子は跪いて請うた。「太傅の計はいかがなものでしょうか。」黄歇は言った。「愚見では、身をやつしてひそかに逃げるに越したことはございません。今楚の使者が答礼の挨拶を終えて帰ろうとしています、この機を逃してはなりません。臣は独り留まり、死をもってこれに当たりましょう。」太子は涙ながらに言った。「事が成れば、楚国はこれを太傅と共にしよう。」
  • 黄歇はひそかに朱英に会って共謀し、朱英もこれを承諾した。太子熊完は身をやつして御者に扮し、自ら手綱を執って楚の使者朱英を乗せ、そのまま函谷関を出た。誰にも気づかれなかった。
  • 黄歇は旅舎に留まり、秦王が見舞いに帰るよう命じても、黄歇は「太子はちょうど病を患い、看病する者がおりません。病が少し癒えるのを待って、臣はすぐに朝廷にお暇を申し上げましょう」と言った。
  • 半月ほど経ち、太子がすでに関を出て久しいと見計らうと、秦王に謁見を求め、ぬかずいて謝罪した。「臣歇は、楚王が万一のことになれば太子が立てず、王に仕えることができなくなるのを恐れ、すでに勝手に太子を帰しました。今すでに関を出ております。歇はそもそも王を欺いた罪がございます、どうか死罪にお処しください。」
  • 秦王は大いに怒って言った。「楚人はここまで詐りに満ちているとは。」左右に大声で命じて黄歇を捕らえさせ、殺そうとした。丞相范睢は諫めて言った。「黄歇を殺したところで太子を取り戻すことはできず、いたずらに楚の歓心を絶つだけです。むしろその忠を称えて帰す方がよろしいでしょう。楚王が薨じれば、太子は必ずその位を嗣ぎます。太子が位を嗣げば、歇は必ず相となりましょう。楚の君臣は共に秦の恩に感じ、必ず秦に仕えることでしょう。」
  • 秦王はこれを尤もと考え、黄歇に手厚く賜り物を与えて楚へ帰した。史臣に詩がある。
  • (詩:太子が御者に扮して脱出したことの危うさを述べ、黄歇の先見の明がなければ、太子は咸陽の一布衣として朽ち果て、懐王の悲劇が再び繰り返されていたであろうと詠む趣旨)

春申君の治世

  • 黄歇が帰って三月後、楚の頃襄王が薨じ、太子熊完が立って考烈王となった。太傅黄歇を進めて相国とし、淮北の地十二県を封じて春申君と号した。
  • 黄歇は言った。「淮北の地は斉と国境を接しており、郡として置き城守の便を図るべきでございます。臣は遠く江東に封じられることを願います。」考烈王はそこで黄歇を旧呉の地に改めて封じた。
  • 歇は闔閭の故城を修め、都邑とし、城内に河を濬渫して、縦四本横五本に水路を通し太湖の水を引いた。破楚門を改めて昌門とした。
  • 当時、孟嘗君はすでに亡くなっていたが、趙には平原君、魏には信陵君がおり、共に士を養うことを尊んでいた。黄歇もこれに倣い、賓客を招き、食客は常に数千人にのぼった。
  • 平原君趙勝がしばしば使者を春申君の家に遣わすと、春申君はこれを上舎に館させた。趙の使者は楚人に見せびらかそうと、べっ甲で簪を作り、珠玉で刀剣の鞘を飾っていたが、春申君の食客三千余人を目にし、その上客たちが皆明珠を履の飾りにしているのを見て、趙の使者は大いに恥じ入った。
  • 春申君は賓客の謀を用い、北に鄒・魯の地を併合し、賢士荀卿を用いて蘭陵の令とし、政法を整え兵士を練習させ、楚国は再び強盛となった。

上党の献上と長平への布陣

  • 話は変わって、秦の昭襄王はすでに斉・楚と誼を結んでいたので、大将王齕に兵を率いさせて韓を伐たせ、渭水から糧を運び、東は河洛に入って軍糧を供給させた。野王城を陥落させ、上党への往来の道は断たれた。
  • 上党の守臣馮亭は、その吏民と協議して言った。「秦が野王を占拠すれば、上党はもはや韓のものではなくなる。秦に降るくらいなら、趙に降る方がよい。秦は趙が地を得たことを怒って、必ず兵を趙に向けるだろう。趙が秦に攻め込まれれば必ず韓と親しくなり、韓と趙とが同じ脅威を分かち合えば、秦を防ぐことができる。」
  • そこで使者を遣わし、書と共に上党の地図を趙の孝成王に献上させた。時に孝成王の四年、周の赧王の五十三年であった。
  • 趙王はある夜、寝ていて夢を見た。夢の中で左右で色の違う衣を着ていると、天から龍が下り、王がこれに乗ると、龍はたちまち飛び上がったが、天に至らぬうちに王を乗せたまま墜ちてしまった。見れば両側に金山と玉山の二座があり、光輝いてまばゆかった。王は目覚めると、大夫趙禹を召してその夢を告げた。
  • 趙禹は答えた。「偏衣とは、合するという意味です。龍に乗って天に上るのは、昇進の兆しです。地に落ちるのは、地を得るという意味です。金と玉が山をなすのは、財貨が満ち溢れるという意味です。大王には近く広い領地と増える財の慶事があるでしょう。この夢はまことに大吉です。」
  • 趙王は喜び、さらに筮史の敢を召して占わせた。敢は答えた。「偏衣とは、傷むという意味です。龍に乗って天に上りながら至らぬうちに落ちるのは、事が中途で大きく変わり、名ばかりで実がないことを表します。金と玉が山をなすのは、見ることはできても用いることはできないという意味です。この夢は不吉です。王はどうかお慎みください。」
  • 趙王は趙禹の言葉に心を惹かれ、筮史の言葉をもっともとは思わなかった。三日後、上党太守馮亭の使者が趙に到着した。趙王が書を開いて見ると、おおよそこう記されていた。「秦が韓を攻めることが急を告げ、上党は間もなく秦のものとなりましょう。その吏民は秦に付くことを望まず、趙に付くことを望んでおります。臣はあえて吏民の思いに背くことはできず、謹んで管轄する十七城を再拝してこれを大王に献上いたします。どうか大王にはかたじけなくもお受け取りくださいますよう。」
  • 趙王は大いに喜んで言った。「趙禹の言った『広い領地と増える財の慶事』とは、まさに今日のことであった。」
  • 平陽君趙豹は諫めて言った。「臣が聞くところ、理由もない利益はわざわいと申します。王はお受けになりませんように。」趙王は言った。「人が秦を畏れて趙になびいてきたのだ。どうして理由がないと言えようか。」
  • 趙豹は答えた。「秦は韓の地を蚕食し、野王を陥落させ、上党への道を絶って往来を許しませんでした。自分の掌中の物として、座して手に入れるつもりでいたところ、一朝にして趙のものとなれば、秦がどうして甘んじるでしょうか。秦が力を尽くして耕し、趙がその収穫を得る、これこそ臣の申す『理由のない利益』でございます。しかも馮亭が地を秦に入れず趙に入れようとしたのは、趙に禍を嫁がせ、韓の苦境を和らげようとしたものです。王はなぜこれをお察しにならないのですか。」
  • 趙王はこれをもっともとは思わず、再び平原君趙勝を召して決めさせた。勝は答えた。「百万の兵を発して人の国を攻めても、年を越え歳月を重ねて一城すら得られぬものです。今、一兵一糧を費やさずして十七城を得られるのは、これに勝る利益はございません。逃してはなりません。」趙王は言った。「君のこの言葉は、まさに寡人の意にかなうものだ。」
  • そこで平原君に兵五万を率いさせ、上党へ地を受け取りに行かせ、馮亭を三万戸に封じて華陵君と号し、そのまま守とした。その配下の県令十七人にも、それぞれ三千戸を封じ、皆世襲の侯とした。
  • 馮亭は門を閉ざして泣き、平原君に会おうとしなかった。平原君が固く面会を求めると、亭は言った。「私には三つの不義がございます。とても使者にお目にかかれません。主のために地を守りながら死ねなかったことが一つ目の不義、主の命によらず勝手に地を趙へ入れたことが二つ目の不義、主の地を売って富貴を得たことが三つ目の不義です。」
  • 平原君は嘆じて言った。「これはまことの忠臣である。」そして馮亭の門の外で三日待ち続けた。馮亭はその心に感じ入り、ようやく出て面会したが、なお涙を流し続け、土地の引き渡しの手続きを済ませたうえで、別に良い守を選んでほしいと願った。
  • 平原君は幾度も慰めて言った。「あなたのお気持ちは、勝すでに存じております。あなたが守を務めなければ、吏民の期待に応えられません。」馮亭はそのまま従来通り守を務め、結局封を受けなかった。
  • 平原君が別れを告げる際、馮亭は言った。「上党が趙に帰属した理由は、独力では秦に対抗できないからです。どうか公子には趙王に奏上し、大いに士卒を発し、名将を急ぎ遣わし、秦を防ぐ計をお立てくださいますよう。」
  • 平原君が帰ってこれを趙王に報告すると、趙王は地を得たことを喜んで酒宴を催し、兵を発することはゆっくり議論するとして未決のままであった。
  • そのうち秦の大将王齕が兵を進めて上党を囲んだ。馮亭は二か月堅守したが、趙の援軍はなお至らず、その吏民を率いて趙へ奔った。時に趙王は廉頗を上将とし、二十万の兵を率いて上党の救援に向かわせた。長平関に至ると馮亭に出会い、上党がすでに失われ、秦兵が日ごとに近づいていることを知った。
  • そこで金門山の麓に陣営を築き、東西それぞれ数十か所に、星が並ぶように陣を布いた。別に一万の兵を分けて馮亭に光狼城を守らせ、また二万の兵を分けて都尉蓋負・蓋同にそれぞれ率いさせ、東西の二鄣城を守らせ、さらに裨将趙茄を遣わして遠く秦兵を探らせた。

長平の対陣、范睢の反間の計と趙括の起用

  • さて趙茄は五千の軍を率いて長平関の外約二十里まで哨戒に出たが、ちょうど秦将司馬梗もまた探索に来ていたのに出会った。趙茄は司馬梗の兵が少ないのを侮り、まっすぐ前に出て戦った。交戦の最中、秦の第二の哨戒隊である張唐の軍もまた到着した。趙茄は心が慌てて手も鈍り、司馬梗の一刀に斬られ、司馬梗は趙の兵をめった斬りにした。
  • 廉頗は前哨が敗れたと聞くと、各塁に令を伝え慎重に守り、秦と戦わぬようにさせた。また兵士に地を数丈掘らせて水を溜めさせたが、軍中の誰もその意図が分からなかった。
  • 王齕の大軍がすでに到着し、金門山から十里離れた所に陣を布いた。まず軍を分けて二鄣城を攻めさせ、蓋負・蓋同は出撃して共に敗れ没した。王齕は勝ちに乗じて光狼城を攻め、司馬梗が奮い勇んで先陣を切り、大軍がこれに続いた。馮亭はまた敗走し、金門山の大営へ逃げ込み、廉頗はこれを受け入れた。
  • 秦兵はさらに塁を攻めたが、廉頗は令を伝えた。「出て戦った者は、たとえ勝ったとしても斬る。」王齕は攻めても入れず、そこで陣を移して迫り、趙の陣営からわずか五里の所まで来て幾度も戦いを挑んだが、趙兵はついに出て来なかった。
  • 王齕は言った。「廉頗は老将であり、その用兵は慎重で軽々しくは動かないだろう。」偏将王陵が計を献じて言った。「金門山の麓に流れる澗があり、楊谷と申します。秦趙両軍は共にこの澗から水を汲んでおります。趙の陣営は澗の南にあり、秦の陣営はその西に拠っており、水の流れは西から東南へと向かっております。もしこの澗を絶ち水が東へ流れぬようにすれば、趙人は水を汲めなくなり、数日を出ずして軍は乱れるでしょう。乱れたところを撃てば、勝たぬことはございません。」
  • 王齕はこれをもっともと考え、兵士に澗の水を築き止めさせた。今に至るまで楊谷を「絶水」と呼ぶのは、このためである。ところが実は、廉頗は前もって深い坎を掘って余るほどの水を貯えており、日々の用に事欠くことはなかった。
  • 秦趙は四か月対峙し、王齕は一戦も交えることができず、どうしようもなかった。使者を秦に遣わして事情を告げると、秦王は応侯范睢を召して協議した。范睢は言った。「廉頗は経験を積んだ将であり、秦軍の強さを知っておりますので、軽々しくは戦いません。彼は秦兵が道のりが遠く長く持たぬだろうと見込み、こちらを疲れさせて隙を狙っているのです。この人物が去らなければ、趙にはついに入れません。」
  • 秦王は言った。「卿には廉頗を退ける何か計があるのか。」范睢は左右を退けて言った。「廉頗を退けるには『反間の計』を用いる必要がございます。これこれのやり方で、千金を費やさねばなりません。」秦王は大いに喜び、すぐに千金を范睢に授けた。
  • 范睢は腹心の食客を遣わし、間道から邯鄲へ入らせ、千金で趙王の側近を買収し、流言を広めさせた。「趙の将で最も良いのは馬服君だけだ。聞くところではその子趙括は父にも勝る勇があるという。もし彼を将とすれば、まことに敵うものはあるまい。廉頗は老いて臆病になり、幾度も戦って敗れ、趙の兵三、四万を失った。今秦兵に追い詰められ、近いうちに降伏するだろう。」
  • 趙王は先に趙茄らが殺され、続けて三城を失ったと聞いていたので、人を長平へ遣わして廉頗に出撃を促した。廉頗はあくまで「堅壁」の策を主張して出撃せず、趙王はすでにその臆病を疑っていたが、左右の反間の言葉を聞いて、これを事実と信じ込み、趙括を召して問うた。「卿は寡人のために秦軍を撃つことができるか。」
  • 括は答えた。「秦がもし武安君を将とするならば、臣も策を練らねばなりませんが、王齕程度なら取るに足りません。」趙王は言った。「どうしてそう言えるのか。」
  • 趙括は言った。「武安君はしばしば秦軍を率い、まず伊闕で韓と魏を破って首二十四万を斬り、次に魏を攻めて大小六十一城を取り、さらに南に楚を攻め鄢郢を陥落させ巫黔を平定し、また再び魏を攻めて芒卯を敗走させ首十三万を斬り、さらに韓を攻めて五城を陥落させ首五万を斬り、また趙の将賈偃を斬りその卒二万人を河に沈めました。戦えば必ず勝ち、攻めれば必ず取る、その威名はもとより著しく、兵士は名を聞くだけで震え上がるほどです。臣がもし彼と対陣すれば、勝負は半々でしょう。それゆえ策を練らねばならぬと申したのです。しかし王齕は秦の新任の将にすぎず、廉頗の臆病に乗じてあえて深く侵攻しているだけです。もし臣とぶつかれば、秋の葉が風に遭うようなもの、あっという間に一掃するに足りません。」
  • 趙王は大いに喜び、すぐに趙括を上将に任じ、黄金や色染めの絹を賜って、節を持たせて廉頗に代わらせ、さらに精兵二十万を増した。
  • 括は軍を検分し終えると、車に金や絹を積んで母のもとに帰った。母は言った。「お前の父が臨終の際、お前に趙の将になるなと戒めたが、お前は今日どうしてこれを辞退しなかったのか。」括は言った。「辞退したくないわけではないが、朝廷には括に及ぶ者がいないのだ。」
  • 母は上書して諫めた。「括はただ父の書を読んだだけで、時勢に応じた変化を知りません。将の器ではございません。どうか王には遣わさぬようお願いいたします。」趙王は括の母を召し、自らその説を尋ねた。母は答えた。「括の父奢が将であった時、賜り物はすべて軍吏に分け与え、命を受けた日には軍中に泊まり込み、家事には一切かかわらず、士卒と苦楽を共にし、事あるごとに広く衆に諮り、あえて自分一人で決めようとはいたしませんでした。今括は将になったとたん、東を向いて座して朝を受け、軍吏は誰も恐れて顔を上げることもできません。賜った金や絹はことごとく私財に納めております。将たる者がこのようであってよろしいでしょうか。括の父は臨終の際、私にこう戒めました。『括が将になれば、必ず趙の兵を敗るだろう』と。私は謹んでその言葉を心に刻んでおります。どうか王には別に良将をお選びいただき、決して括をお用いになりませんように。」
  • 趙王は言った。「寡人の意はすでに決まった。」母は言った。「王がもしそれでも妾の言葉をお聞き入れくださらないなら、もし兵が敗れましても、妾の一家には連座なきようお願いいたします。」趙王はこれを許した。趙括はそこで軍を率いて邯鄲を出て、長平へ進発した。

白起の秘密起用と伏兵の配置

  • さて范睢が遣わした食客はなお邯鄲におり、詳細な情報を集め続けていたが、趙括が趙王に述べた言葉をすべて知り、趙王がすでに彼を大将に任じ日を選んで出発すると分かると、その夜のうちに咸陽へ走り帰って報告した。
  • 秦王は范睢と協議して言った。「武安君でなければこの事は成せまい。」そこで改めて白起を上将とし、王齕を副将に任じ、軍中に令を伝えて事を秘密にさせた。「武安君が将であることを漏らす者は斬る。」
  • 趙括が長平関に至ると、廉頗は趙括の持参した符節をあらためたうえで、軍籍を趙括に引き渡した。そして廉頗は直属の親衛兵百余人だけを引き連れて邯鄲へ帰って行った。
  • 趙括は廉頗の定めた軍規をすべて改め、陣営を合併して大営とした。時に馮亭も軍中にいて固く諫めたが聞き入れられなかった。括はさらに自らが率いてきた将士をもって古参の将を入れ替え、厳しく諭した。「秦兵が来たら、皆奮って先を争うように。もし勝ちを得れば、そのまま追撃せよ。秦軍が一騎も帰れぬようにするのだ。」
  • 白起はすでに秦軍に入っており、趙括が廉頗の軍令を変えたと聞くと、まず卒三千人を出して戦いを挑ませた。趙括はすぐに一万の兵を出して迎え撃たせたが、秦軍は大敗して逃げ帰った。白起は壁の上に登って趙軍を望み見て、王齕に言った。「私はこれに勝つ方法が分かった。」
  • 趙括はこの一戦に勝って、手足を舞わせて喜び、人を秦の陣営に遣わして戦書を届けさせた。白起は王齕に答えさせた。「明日決戦しよう。」そして軍を十里退かせ、王齕の旧陣営に再び陣を布いた。趙括は喜んで言った。「秦兵は我らを畏れているぞ。」牛を屠って兵士に振る舞い、令を伝えた。「明日は大戦だ、必ず王齕を生け捕りにして、諸侯の笑いものにしてやろう。」
  • 白起は陣営を整え終えると、諸将を大いに集めて令を下した。将軍王賁・王陵に一万の兵を率いさせ、趙括と交戦を繰り返させるが、負けるだけで勝ちを求めず、趙兵を誘い秦の壁へ攻め寄せさせることを目的とさせた。さらに大将司馬錯・司馬梗の二人を呼び、それぞれ一万五千の兵を率いさせ、間道から趙軍の後方へ回り込んでその糧道を絶たせた。また大将胡傷に二万の兵を率いさせ近くに駐屯させ、趙人が陣を開いて秦軍を追撃してきたところを見計らって突き出し、趙軍を二つに分断させることとした。さらに大将蒙驁・王翦にそれぞれ五千の軽騎を率いさせ、後詰めとして呼応して救援するよう備えさせた。白起自身は王齕と共に本営を堅く守った。まさに「地網天羅の計を布き、龍虎相争う者を待って捕らえん」とはこのことである。

四十万の坑殺

  • 趙括は軍中に令を発し、四更に飯を炊き、五更に身支度を整え、明け方に陣を進めさせた。五里も行かぬうちに秦兵に遭遇し、両陣は向かい合った。趙括は先鋒傅豹を出馬させた。秦将王賁がこれを迎え撃ち、三十余合戦って王賁が敗走し、傅豹はこれを追った。
  • 趙括はさらに王容に軍を率いて応援させたが、秦将王陵に遭遇し、数合戦って王陵もまた敗れた。趙括は趙兵が連勝しているのを見て、自ら大軍を率いて追撃した。馮亭はまた諫めて言った。「秦人は詐りが多く、その敗北は信じられません。元帥、追ってはなりません。」趙括はこれを聞かず、十余里追撃して秦の壁に至った。
  • 王賁・王陵は陣営を回って走り、秦の壁は開かなかった。趙括は令を出して一斉に攻撃させたが、幾日打ち続けても秦軍は堅く守って入れなかった。趙括は人を遣わして後軍を呼び寄せ、陣営を移して共に進もうとした。すると趙の将蘇射が馬を飛ばして来て報告した。「後営が秦将胡傷の軍に突かれ遮られ、前へ進めません。」
  • 趙括は大いに怒って言った。「胡傷はこれほど無礼なことをするのか。私が自ら赴こう。」秦軍の動きを探らせると、報告があった。「西路は軍馬が絶えず、東路には人がおりません。」趙括は軍を東路へ転じさせた。
  • 二、三里も行かぬうちに、大将蒙驁の一軍が横合いから突然攻め出て、大声で叫んだ。「趙括よ、お前は我が武安君の計にはまったのだ、まだ降伏せぬか。」趙括は大いに怒り、戟をかまえて蒙驁と戦おうとしたが、偏将王容が「元帥にお手を煩わせるまでもございません、私めが功を立てましょう」と出て、蒙驁と交戦した。そこへ王翦の軍もまた到着し、趙兵は多くの死傷を出した。
  • 趙括は勝つことが難しいと悟り、金を鳴らして軍を収め、水と草のある所を選んで陣を張った。馮亭はまた諫めた。「軍の勢いは鋭さを用いるものです。今我が兵は劣勢ですが、力を尽くして戦えば、なお本営へ脱出でき、力を合わせて敵に対抗できましょう。もしここで陣営を築けば、前後から挟撃されることになり、二度と出られなくなります。」趙括はまた聞き入れなかった。
  • 兵士に長い塁を築かせ、堅く守りを固めさせる一方、急ぎ趙王に援軍を求める上奏をし、後方の部隊に糧食を催促した。ところが糧道はすでに司馬錯・司馬梗の軍によって塞がれていた。白起の大軍が前方を遮り、胡傷・蒙驁らの大軍が後方を絶ち、秦軍は日ごとに武安君の名で降伏を呼びかけた。趙括はこの時になってようやく白起が本当に軍中にいると知り、驚きのあまり肝を潰した。
  • さて秦王は武安君の勝報を得ると、趙括の軍が長平で困窮していると知り、自ら河内へ赴き、家々の壮丁を残らず徴発した。十五歳以上の者は皆従軍させ、道を分けて趙人の兵糧と馬の飼料を掠め取り、救援を断ち切った。
  • 趙括は秦軍に包囲され、四十六日間、軍中に糧がなくなり、士卒は互いに殺し合って食らうようになったが、趙括はこれを禁じることができなかった。そこで軍将を四隊に分け、傅豹の一隊を東へ、蘇射の一隊を西へ、馮亭の一隊を南へ、王容の一隊を北へ向かわせた。四隊に太鼓を一斉に鳴らして道を開き突破させ、もし一隊でも通れば、趙括は残る三隊を招き寄せて共に脱出しようと計画した。
  • ところが武安君白起は、あらかじめ射手を選んで趙の陣営を取り巻いて伏せさせていた。趙の陣営から出て来る者があれば、兵であれ将であれ構わず射た。四隊の軍馬は三、四度突撃を試みたが、いずれも射返された。
  • さらに一月が過ぎ、趙括は憤りに耐えかね、精鋭の兵五千人を選び出し、皆重い甲冑をつけさせ、駿馬に乗らせた。趙括自ら戟を握って先頭に立ち、傅豹・王容がその後にぴったりと従い、包囲を冒して突破しようとした。王翦・蒙驁の二将が一斉に攻めかかり、趙括は数合戦ったが、包囲を突破できなかった。
  • 引き返して先に築かせた長塁へ戻ろうとしたところ、馬がつまずいて落馬し、矢に当たって死んだ。趙軍は大いに乱れ、傅豹・王容は共に討ち死にした。蘇射は馮亭と共に逃げようとしたが、馮亭は言った。「私は三度諫めても聞き入れられず、今ここに至った。これも天命だ。またどうして逃げようか。」そして自ら首を刎ねて死んだ。蘇射は逃げおおせて胡地へ去った。
  • 白起は降伏を勧める旗を立て、趙軍は皆武器を捨て甲冑を解いて投降し、「万歳」と叫んだ。白起は人を遣わして趙括の首を掲げさせ、趙の陣営を招撫させた。陣営内にはなお二十余万の兵士がおり、主将が殺されたと聞くと誰もあえて抗戦せず、皆降伏を願った。甲冑や武器は山のように積み上がり、陣営中の輜重はことごとく秦のものとなった。
  • 白起は王齕と協議して言った。「先に秦はすでに野王を陥落させ、上党は手の内にあったが、その吏民は秦のために働くことを喜ばず趙に帰属することを望んだ。今、趙の兵が前後して降伏した者は、合わせて四十万近くにものぼる。もし一朝にして変事が起これば、どうやってこれを防げようか。」
  • そこで降卒を十営に分け、十人の将にこれを統率させ、秦軍二十万を配置し、それぞれ牛と酒を賜って言い触らした。「明日、武安君は趙軍を選別なさる。上等の精鋭で戦える者には武器を与えて秦国へ連れ帰り、出征に従わせて用いる。老弱で耐えられぬ者、あるいは力の弱い者は、皆趙へ帰す。」趙の軍は大いに喜んだ。
  • その夜、武安君はひそかに十人の将に一つの令を伝えた。「初更の頃、秦兵はすべて白布を一枚頭に巻け。頭に白布のない者はすなわち趙人であり、ことごとく殺せ。」秦兵は令を奉じ、一斉に事を起こした。降卒は何の備えもなく武器もなく、手をこまねいて殺戮を受けた。陣営を逃れ出た者も、蒙驁・王翦らの軍が巡邏しており、見つかれば斬られた。四十万の兵が一夜にしてことごとく尽きた。
  • 血が淙々と音を立てて流れ、楊谷の水はすべて紅く染まり、今に至るまで丹水と呼ばれている。武安君は趙卒の頭蓋骨を秦の陣営の間に集め、これを頭顱山と称した。これに基づいて台を築き、その台は高くそびえ立ち、白起台とも呼ばれた。台の下がすなわち楊谷である。
  • 後に唐の玄宗皇帝がここへ巡幸した折、悲しげに長嘆し、三蔵に通じた高僧に命じて水陸の法要を七昼夜行わせ、殺戮された卒の亡魂を弔わせた。それゆえその谷を省冤谷と名づけた。これは後の話である。史臣に詩がある。
  • (詩:百尺の高台がことごとく頭蓋骨で築かれたことを詠み、「一将功成りて万骨枯る」どころの数ではないと嘆じ、無情な矢石に倒れた降卒に何の罪があったのかと問う趣旨)
  • 通算して長平の戦いの前後で斬られ捕らえられた者は合わせて四十五万人にのぼり、王齕が先に降した卒も併せてことごとく誅殺された。ただ年少の者二百四十人だけが殺されずに残り、邯鄲へ放ち帰され、秦国の威をあまねく宣揚させられた。趙国の存亡がどうなるかは、まだ分からない。それは次回を見よ。
原文(底本)
話說須賈得命,連夜奔回大梁,來見魏王,述范睢吩咐之語。那送家眷是小事,要斬相國之頭,干礙體面,難於啟齒。魏王躊躇未決。魏齊聞知此信,棄了相印,連夜逃往趙國,依平原君趙勝去了。魏王乃大飾車馬,將黃金百鎰,采帛千端,送范睢家眷至咸陽。又告明:「魏齊聞風先遁,今在平原君府中,不干魏國之事。」范睢乃奏聞秦王。秦王曰:「趙與秦一向結好,澠池會上,結為兄弟,又將王孫異人為質於趙,欲以固其好也。前秦兵伐韓,圍閼與,趙遣李牧(實為趙奢)救韓,大敗秦兵,寡人向未問罪。今又擅納丞相之仇人,丞相之仇,即寡人之仇,寡人決意伐趙,一則報閼與之恨,二者索取魏齊。」乃親帥師二十萬,命王翦為大將,伐趙,拔三城。是時趙惠文王方薨,太子丹立,是為孝成王。孝成王年少,惠文太后用事,聞秦兵深入,甚懼。時藺相如病篤告老,虞卿代為相國。使大將廉頗帥師禦敵,相持不決。虞卿言於惠文太后曰:「事急矣!臣請奉長安君為質於齊以求救。」太后許之。原來惠文王之太后,乃齊湣王之女。其年齊襄王新薨,太子建即位,年亦少,君王后太史氏用事。兩太后姑嫂之親,親情和睦,長安君又是惠文太后最愛之少子,往質於齊,君王后如何不動心?於是即命田單為大將,發兵十萬,前來救趙。秦將王翦言於秦王曰:「趙多良將,又有平原君之賢,未易攻也。況齊救將至,不如全師而歸。」秦王曰:「不得魏齊,寡人何面見應侯乎?」乃遣使謂平原君曰:「秦之伐趙,為取魏齊耳!若能獻出魏齊,即當退兵。」平原君對曰:「魏齊不在臣家,大王無誤聽人言也。」使者三往,平原君終不肯認。秦王心中悶悶不悅。欲待進兵,又恐齊趙合兵,勝負難料;欲待班師,魏齊如何可得?再四躊躇,生出一個計策來。乃為書謝趙王,略曰:

    寡人與君,兄弟也。寡人誤聞道路之言,魏齊在平原君所,是以興兵索之。不然,豈敢輕涉趙境?所取三城,謹還歸於趙。寡人願復前好,往來無間。

趙王亦遣使答書,謝其退兵還城之意。田單聞秦師已退,亦歸齊去訖。秦王回至函谷關,復遣人以一緘致平原君趙勝。勝拆書看之,略曰:

    寡人聞君之高義,願與君為布衣之交。君幸過寡人,寡人願與君為十日之飲。

平原君將書來見趙王。趙王集群臣計議,相國虞卿進曰:「秦,虎狼之國也。昔孟嘗君入秦,幾乎不返。況彼方疑魏齊在趙,平原君不可往!」廉頗曰:「昔藺相如懷和氏璧單身入秦,尚能完歸趙國,秦不欺趙。若不往,反起其疑。」趙王曰:「寡人亦以此為秦王美意,不可違也。」遂命趙勝同秦使西入咸陽。秦王一見,歡若平生,日日設宴相待。盤桓數日,秦王因極歡之際,舉巵向趙勝曰:「寡人有請於君,君若見諾,乞飲此酌。」勝曰:「大王命勝,何敢不從!」因引巵盡之。秦王曰:「昔周文王得呂尚以為太公,齊桓公得管夷吾以為仲父。今范君亦寡人之太公仲父也!范君之仇魏齊,託在君家,君可使人歸取其頭,以畢范君之恨,即寡人受君之賜!」趙勝曰:「臣聞之:『貴而為友者,為賤時也;富而為友者,為貧時也。』夫魏齊,臣之友也。即使真在臣所,臣亦不忍出之,況不在乎?」秦王變色曰:「君必不出魏齊,寡人不放君出關!」趙勝曰:「關之出與不出,事在大王。且王以飲相召,而以威劫之,天下知曲直之所在矣。」秦王知平原君不肯負魏齊,遂與之俱至咸陽,留於館舍。使人遺趙王書,略曰:

    王之弟平原君在秦,范君之仇魏齊在平原君之家,魏齊頭旦至,平原君夕返。不然,寡人且舉兵臨趙,親討魏齊,又不出平原君於關,惟王諒之!

趙王得書大恐,謂群臣曰:「寡人豈為他國之亡臣,易吾國之鎮公子?」乃發兵圍平原君家,索取魏齊。平原君賓客多與魏齊有交,乘夜縱之逃出,往投相國虞卿。虞卿曰:「趙王畏秦,甚於豺虎,此不可以言語爭也。不如仍走大梁,信陵君招賢納士,天下亡命者皆歸之,又且平原君之厚交,必然相庇。雖然,君罪人不可獨行,吾當與君同往!」即解相印,為書以謝趙王,與魏齊共變服為賤者,逃出趙國。既至大梁,虞卿乃伏魏齊於郊外,慰之曰:「信陵君慷慨丈夫,我往投之,必立刻相迎,不令君久待也。」虞卿徒步至信陵君之門,以刺通。主客者入報,信陵君方解髮就沐,見刺,大驚曰:「此趙之相國,安得無故至此?」使主客者辭以主人方沐,暫請入坐,因叩其來魏之意。虞卿情急,只得將魏齊得罪於秦始末,及自家捐棄相印,相隨投奔之意,大略告訴一番。主客者復入言之。信陵君心中畏秦,不欲納魏齊,又念虞卿千里相投一段意思,不好直拒,事在兩難,猶豫不決。虞卿聞信陵君有難色,不即出見,大怒而去。信陵君問於賓客曰:「虞卿之為人何如?」時侯生在旁,大笑曰:「何公子之暗於事也?虞卿以三寸舌取趙王相印,封萬戶侯,及魏齊窮困而投虞卿,虞卿不愛爵祿之重,解綬相隨,天下如此人有幾?公子猶未定其賢否耶?」信陵君大慚,急挽髮加冠,使輿人駕車疾驅郊外追之。

  再說魏齊懸懸而望,待之良久,不見消息,想曰:「虞卿言信陵君慨慷丈夫,一聞必立刻相迎。今久而不至,事不成矣!」少頃,只見虞卿含淚而至曰:「信陵君非丈夫也,乃畏秦而卻我。吾當與君問道入楚。」魏齊曰:「吾以一時不察,得罪於范叔,一累平原君,再累吾子,又欲子間關跋涉,乞殘喘於不可知之楚,我安用生為?」即引佩劍自刎。虞卿急前奪之,喉已斷矣。虞卿正在悲傷,信陵君車騎隨到。虞卿望見,遂趨避他所,不與相見。信陵君見魏齊屍首,撫而哭之曰:「無忌之過也!」時趙王不得魏齊,又走了相國虞卿,知兩人相隨而去,非韓即魏,遣飛騎四出追捕。使者至魏郊,方知魏齊自刎。即奏知魏王,欲請其頭,以贖平原君歸國。信陵君方命殯殮魏齊屍首,意猶不忍。使者曰:「平原君與君一體也。平原之愛魏齊,與君又一心也。魏齊若在,臣何敢言?今惜已死,無知之骨,而使平原君長為秦虜,君其安乎?」信陵君不得己,乃取其首,用匣盛之,交封趙使,而葬其屍於郊外。髯翁有詩詠魏齊云:

    無端辱士聽須賈,只合捐生謝范睢;殘喘累人還自累,咸陽函首恨教遲!

虞卿既棄相印,感慨世情,遂不復遊宦,隱於白雲山中,著書自娛,譏刺時事,名曰《虞氏春秋》。髯翁亦有詩云:

    不是窮愁肯著書,千秋高尚記虞兮,可憐有用文章手,相印輕拋徇魏齊!

趙王將魏齊之首,星夜送至咸陽,秦王以賜范睢。范睢命漆其頭為溺器,曰:「汝使賓客醉而溺我,今令汝九泉之下,常含我溺也。」秦王以禮送平原君還趙,趙用為相國,以代虞卿之位。范睢又言於秦王曰:「臣布衣下賤,幸受知於大王,備位卿相,又為臣報切齒之仇,此莫大之恩也。但臣非鄭安平,不能延命於魏,非王稽,不能獲進於秦,願大王貶臣爵秩,加此二臣,以畢臣報德之心,臣死無所恨!」秦王曰:「丞相不言,寡人幾忘之!」即用王稽為河東守,鄭安平為偏將軍。於是專用范睢之謀,先攻韓魏,遣使約好於齊楚。范睢謂秦王曰:「吾聞齊之君王后賢而有智,當往試之。」乃命使者以玉連環獻於君王后曰:「齊國有人能解此環者,寡人願拜下風!」君王后命取金鎚在手,即時擊斷其環,謂使者曰:「傳語秦王,老婦已解此環訖矣。」使者還報。范睢曰:「君王后果女中之傑,不可犯也。」於是與齊結盟,各無侵害,齊國賴以安息。

  單說楚太子熊完為質於秦,秦留之十六年不遣。適秦使者約好於楚,楚使者朱英,與俱至咸陽報聘。朱英因述楚王病勢已成,恐遂不起。太傅黃歇言於熊完曰:「王病篤而太子留於秦,萬一不諱,太子不在榻前,諸公子必有代立者,楚國非太子有矣。臣請為太子謁應侯而請之。」太子曰:「善。」黃歇遂造相府說范睢曰:「相君知楚王之病乎?」范睢曰:「使者曾言之。」黃歇曰:「楚太子久於秦,其與秦將相無不交親者,倘楚王薨而太子得立,其事秦必謹。相君誠以此時歸之於楚,太子之感相君無窮也!若留之不遣,楚更立他公子,則太子在秦,不過咸陽一布衣耳。況楚人懲於太子之不返,異日必不復委質事秦。夫留一布衣,而絕萬乘之好,臣竊以為非計也。」范睢首肯曰:「君言是也。」即以黃歇之言,告於秦王,秦王曰:「可令太子傅黃歇先歸問疾﹔病果篤,然後來迎太子。」黃歇聞太子不得同歸,私與太子計議曰:「秦王留太子不遣,欲如懷王故事,乘急以求割地也。楚幸而來迎,則中秦之計;不迎,則太子終為秦虜矣。」太子跪請曰:「太傅計將若何?」黃歇曰:「以臣愚見,不如微服而逃。今楚使者報聘將歸,此機不可失也!臣請獨留,以死當之。」太子泣曰:「事若成,楚國當與太傅共之。」黃歇私見朱英,與之通謀,朱英許之。太子熊完乃微服為御者,與楚使者朱英執轡,竟出函谷關,無人知覺。黃歇守旅舍,秦王遣歸問疾。黃歇曰:「太子適患病,無人守視,俟病稍愈,臣即當辭朝矣。」過半月,度太子已出關久,乃求見秦王,叩首謝罪曰:「臣歇恐楚王一旦不諱,太子不得立,無以事君,已擅遣之,今出關矣。歇本欺君之罪,請伏斧鑕!」秦王大怒曰:「楚人乃多詐如此!」叱左右囚黃歇,將殺之。丞相范睢諫曰:「殺黃歇不能復還太子,而徒絕楚歡,不如嘉其忠而歸之。楚王死,太子必嗣位,太子嗣位,歇必為相,楚君臣俱感秦德,其事秦必矣。」秦王以為然,乃厚賜黃歇,遣之歸楚。史臣有詩云:

    更衣執轡去如飛,險作咸陽一布衣;不是春申有先見,懷王餘涕又重揮。

  歇歸三月,而楚頃襄王薨,太子熊完立,是為考烈王。進太傅黃歇為相國,以淮北地十二縣封春申君。黃歇曰:「淮北地邊齊,請置為郡,以便城守。臣願遠封江東。」考烈王乃改封黃歇於故吳之地。歇修闔閭故城,以為都邑;濬河於城內,四縱五橫,以通太湖之水;改破楚門為昌門。時孟嘗君雖死,而趙有平原君,魏有信陵君,方以養士相尚。黃歇慕之,亦招致賓客,食客常數千人。平原君趙勝常遣使至春申君家,春申君館之於上舍。趙使者欲誇示楚人,用玳瑁為簪,以珠玉飾刀劍之室。及見春申君客三千餘人,其上客皆以明珠為履,趙使大慚。春申君用賓客之謀,北兼鄒魯之地,用賢士荀卿為蘭陵令,修舉政法,練習兵士,楚國復強。

  話分兩頭。再說秦昭襄王已結齊楚,乃使大將王齕帥師伐韓,從渭水運糧,東入河洛,以給軍餉。拔野王城,上黨往來路絕。上黨守臣馮亭,與其吏民議曰:「秦據野王,則上黨非韓有矣。與其降秦,不如降趙。秦怒趙得地,必移兵於趙,趙受兵,必親韓,韓趙同患,可以禦秦。」乃遣使持書并上黨地圖,獻於趙孝成王。時孝成王之四年,周赧王之五十三年也。趙王夜臥得一夢,夢衣偏裻之衣,有龍自天而下,王乘之,龍即飛去,未至於天而墜,見兩旁有金山玉山二座,光輝奪目。王覺,召大夫趙禹,以夢告之。趙禹對曰:「偏衣者,合也;乘龍上天,升騰之象﹔墜地者,得地也;金玉成山者,貨財充溢也。大王目下必有廣地增財之慶,此夢大吉。」趙王喜,復召筮史敢占之。敢對曰:「偏衣者,殘也;乘龍上天,不至而墜者,事多中變,有名無實也;金玉成山,可觀而不可用也。此夢不吉,王其慎之!」趙王心惑趙禹之言,不以筮史為然。後三日,上黨太守馮亭使者至趙。趙王發書觀之,略曰:

    秦攻韓急,上黨將入於秦矣!其吏民不願附秦,而願附趙,臣不敢違吏民之欲,謹將所轄十七城,再拜獻之於大王。惟大王辱收之!

趙王大喜曰:「禹所言廣地增財之慶,今日驗矣!」平陽君趙豹諫曰:「臣聞無故之利,謂之禍殃,王勿受也。」趙王曰:「人畏秦而懷趙,是以來歸,何謂無故?」趙豹對曰:「秦蠶食韓地,拔野王,絕上黨之道,不令相通,自以為掌握中物,坐而得之,一旦為趙所有,秦豈能甘心哉?秦力其耕,而趙收其穫,此臣所謂『無故之利』也。且馮亭所以不入地於秦,而入之於趙者,將嫁禍於趙,以舒韓之困也。王何不察耶?」趙王不以為然,再召平原君趙勝決之。勝對曰:「發百萬之眾,而攻人國,踰年歷歲,未得一城。今不費寸兵斗糧,得十七城,此莫大之利,不可失也。」趙王曰:「君此言,正合寡人之意。」乃使平原君率兵五萬,往上黨受地,封馮亭以三萬戶,號華陵君,仍為守。其縣令十七人,各封以三千戶,皆世襲稱侯。馮亭閉門而泣,不與平原君相見。平原君固請之,亭曰:「吾有三不義,不可以見使者。為主守地不能死,一不義也;不由主命,擅以地入趙,二不義也;賣主地以得富貴,三不義也。」平原君嘆曰:「此忠臣也!」候其門,三日不去。馮亭感其意,乃出見,猶垂涕不止;願交割地面,別選良守。平原君再三撫慰曰:「君之心事,勝已知之,君不為守,無以慰吏民之望。」馮亭乃領守如故,竟不受封。平原君將別,馮亭謂曰:「上黨所以歸趙者,以力不能獨抗秦也。望公子奏聞趙王,大發士卒,急遣名將,為禦秦計。」平原君回報趙王。趙王置酒賀得地,徐議發兵,未決,秦大將王齕進兵圍上黨。馮亭堅守兩月,趙援兵猶未至,乃率其吏民奔趙。時趙王拜廉頗為上將,率兵二十萬來援上黨。行至長平關,遇馮亭,方知上黨已失,秦兵日近。乃就金門山下,列營築壘,東西各數十,如列星之狀,別分兵一萬,使馮亭守光狼城,又分兵二萬,使都尉蓋負蓋同分領之,守東西二鄣城,又使裨將趙茄遠探秦兵。

  卻說趙茄領軍五千,哨探出長平關外,約二十里,正遇秦將司馬梗,亦行探來到。趙茄欺司馬梗兵少,直前搏戰。正在交鋒,秦第二哨張唐兵又到。趙茄心慌手慢,被司馬梗一刀斬之,亂殺趙兵。廉頗聞前哨有失,傳諭各壘用心把守,勿與秦戰;且使軍士掘地深數丈以注水,軍中都不解其意。王齕大軍已到,距金門山十里下寨。先分軍攻二鄣城,蓋負蓋同出戰皆敗沒。王齕乘勝攻光狼城,司馬梗奮勇先登,大軍繼之。馮亭復敗走,奔金門山大營,廉頗納之。秦兵又來攻壘,廉頗傳令:「出戰者,雖勝亦斬!」王齕攻之不入,乃移營逼之,去趙營僅五里,挑戰幾次,趙兵終不出。王齕曰:「廉頗老將,其行軍持重,未可動也。」偏將王陵獻計曰:「金門山下有流澗,名曰楊谷,秦趙之軍,共取汲於此澗。趙壘在澗水之南,而秦壘踞其西,水勢自西而流於東南,若絕斷此澗,使水不東流,趙人無汲,不過數日軍必亂,亂而擊之,無不勝矣。」王齕以為然,使軍士將澗水築斷。至今楊谷名為絕水,為此也。誰知廉頗預掘深坎,注水有餘,日用不乏。秦趙相持四個月,王齕不得一戰,無可奈何。遣使入告於秦王,秦王召應侯范睢計議,范睢曰:「廉頗更事久,知秦軍強,不輕戰,彼以秦兵道遠,不能持久,欲以老我而乘其隙。若此人不去,趙終未可入也。」秦王曰:「卿有何計,可以去廉頗乎?」范睢屏左右言曰:「要去廉頗,須用『反間之計』,如此恁般,非費千金不可。」秦王大喜,即以千金付范睢,乃使其心腹門客,從間道入邯鄲,用千金賄賂趙王左右,布散流言曰:「趙將惟馬服君最良,聞其子趙括勇過其父,若使為將,誠不可當!廉頗老而怯,屢戰俱敗,失亡趙卒三四萬,今為秦兵所逼,不日將出降矣。」趙王先聞趙茄等被殺,連失三城,使人往長平催頗出戰。廉頗主「堅壁」之謀,不肯出戰,趙王已疑其怯,及聞左右反間之言,信以為實,遂召趙括問曰:「卿能為我擊秦軍乎?」括對曰:「秦若使武安君為將,尚費臣籌畫;如王齕不足道矣。」趙王曰:「何以言之?」趙括曰:「武安君數將秦軍,先敗韓魏於伊闕,斬首二十四萬;再攻魏,取大小六十一城;又南攻楚,拔鄢郢,定巫黔;又復攻魏,走芒卯,斬首十三萬;又攻韓,拔五城,斬首五萬;又斬趙將賈偃,沉其卒二萬人於河;戰必勝,攻必取,其威名素著,軍士望風而慄,臣若與對壘,勝負居半,故尚費籌畫。如王齕新為秦將,乘廉頗之怯,故敢於深入;若遇臣,如秋葉之遇風,不足當迅掃也。」趙王大悅,即拜趙括為上將,賜黃金彩帛,使持節往代廉頗,復益勁軍二十萬。括閱軍畢,車載金帛,歸見其母。母曰:「汝父臨終遺命,戒汝勿為趙將,汝今日何不辭之?」括曰:「非不欲辭,奈朝中無如括者!」母乃上書諫曰:「括徒讀父書,不知通變,非將才,願王勿遣!」趙王召其母至,親叩其說。母對曰:「括父奢為將,所得賞賜,盡以與軍吏;受命之日,即宿於軍中,不問及家事,與士卒同甘苦;每事必博諮於眾,不敢自專。今括一旦為將,東鄉而朝,軍吏無敢仰視;所賜金帛,悉歸私家。為將豈宜如此?括父臨終,嘗戒妾曰:『括若為將,必敗趙兵!』妾謹識其言,願王別選良將,切不可用括!」趙王曰:「寡人意已決矣。」母曰:「王即不聽妾言,倘兵敗,妾一家請無連坐。」趙王許之。趙括遂引軍出邯鄲,望長平進發。

  再說范睢所遣門客,猶在邯鄲,備細打聽,盡知趙括向趙王所說之語,趙王已拜為大將,擇日起程,遂連夜奔回咸陽報信。秦王與范睢計議曰:「非武安君不能了此事也!」乃更遣白起為上將,王錡齕副之,傳令軍中秘密其事:「有人洩漏武安君為將者斬!再說趙括至長平關,廉頗驗過符節,即將軍籍交付趙括。獨引親軍百餘人,回邯鄲去訖。趙括將廉頗約束,盡行更改,軍壘合并成大營。時馮亭在軍中,固諫不聽。括又以自己所帶將士,易去舊將。嚴諭:「秦兵若來,各要奮勇爭先。如遇得勝,便行追逐,務使秦軍一騎不返!」白起既入秦軍,聞趙括更易廉頗之令,先使卒三千人出營挑戰。趙括輒出萬人來迎,秦軍大敗奔回。白起登壁上望趙軍,謂王齕曰:「吾知所以勝之矣!」趙括勝了一陣,不禁手舞足蹈,使人至秦營下戰書。白起使王齕批:「來日決戰。」因退軍十里,復營於王齕舊屯之處。趙括喜曰:「秦兵畏我矣!」乃椎牛饗士,傳令:「來日大戰,定要生擒王齕,與諸侯做個笑話!」白起安營已定,大集諸將聽令。使將軍王賁王陵率萬人列陣,與趙括更迭交戰,只要輸不要贏,引得趙兵來攻秦壁,便算一功。再喚大將司馬錯司馬梗二人,各引兵一萬五千,從間道繞出趙軍之後,絕其糧道。又遣大將胡傷引兵二萬,屯於左近,只等趙人開壁出逐秦軍,即便殺出,要將趙軍截為二段。又遣大將蒙驁王翦各率輕騎五千,伺候接應。白起與王齕堅守老營。正是:「安排地網天羅計,待捉龍爭虎鬥人。」

  再說趙括吩咐軍中,四鼓造飯,五鼓結束,平明列陣前進。行不五里,遇見秦兵,兩陣對圓,趙括使先鋒傅豹出馬。秦將王賁接戰,約三十餘合,王賁敗走,傅豹追之。趙括復遣王容率軍幫助。又遇秦將王陵,略戰數合,王陵又敗。趙括見趙兵連勝,自率大軍來追。馮亭又諫曰:「秦人多詐,其敗不可信也。元帥勿追!」趙括不聽,追奔十餘里,及於秦壁。王賁王陵繞營而走,秦壁不開。趙括傳令一齊攻打,連打數日,秦軍堅守不可入。趙括使人催取後軍,移營齊進。只見趙將蘇射飛騎而來,報曰:「後營被秦將胡傷引兵沖出遏住,不得前來!」趙括大怒曰:「胡傷如此無禮,吾當親往!」使人探聽秦軍行動,回報道:「西路軍馬不絕,東路無人。」趙括麾軍從東路而轉。行不上二三里,大將蒙驁一軍從刺斜裏殺出,大叫:「趙括你中了我武安君之計,還不投降!」趙括大怒,挺戟欲戰蒙驁;偏將王容出曰:「不勞元帥,容某建功。」王容便接住蒙驁交鋒。王翦一軍又至,趙兵折傷頗眾。趙括料難取勝,鳴金收軍,就便擇水草處安營。馮亭又諫曰:「軍氣用銳,今我兵雖失利,苟能力戰,尚可脫歸本營,并力拒敵。若在此安營,腹背受困,將來不可復出!」趙括又不聽。使軍士築成長壘,堅壁自守;一面飛奏趙王求援,一面催取後隊糧餉。誰知運糧之路,又被司馬錯司馬梗引兵塞斷。白起大軍遮其前,胡傷蒙驁等大軍截其後,秦軍每日傳武安君將令,招趙括投降。趙括此時方知白起真在軍中,唬得心膽俱裂。

  再說秦王得武安君捷報,知趙括兵困長平,親命駕來至河內,盡發民家壯丁,凡年十五以上,皆令從軍,分路掠取趙人糧草,遏絕救兵。趙括被秦軍圍困,凡四十六日,軍中無糧,士卒自相殺食,趙括不能禁止。乃將軍將分為四隊:傅豹一隊向東,蘇射一隊向西,馮亭一隊向南,王容一隊向北。吩咐四隊,一齊鳴鼓,奪路殺出,如一路打通,趙括便招引三路齊走。誰知武安君白起,又預選射手,環趙壘埋伏,凡遇趙壘中出來者,不拘兵將便射。四隊軍馬,沖突三四次,俱被射回。又過一月,趙括不勝其憤,精選上等銳卒五千人,俱穿重鎧,乘坐駿馬;趙括握戟當先,膊豹王容緊幫在後,冒圍突出。王翦蒙驁二將齊上,趙括大戰數合,不能透圍。復身欲歸長壘,馬蹶墜地,中箭而亡。趙軍大亂,傅豹王容俱死。蘇射引馮亭共走,馮亭曰:「吾三諫不從,今至於此,天也!又何逃乎?」乃自刎而亡。蘇射奔脫,往胡地去訖。白起豎起招降旗,趙軍皆棄兵解甲,投拜呼「萬歲!」白起使人揭趙括之首,往趙營招撫。營中軍士尚二十餘萬,聞主帥被殺,無人敢出拒戰,亦皆願降。甲冑器械,堆積如山,營中輜重,悉為秦有。白起與王齕計議曰:「前秦已拔野王,上黨在掌握中,其吏民不樂為秦,而願歸趙。今趙卒先後降者,總合來將近四十萬之眾,倘一旦有變,何以防之?」乃將降卒分為十營,使十將以統之,配以秦軍二十萬,各賜以牛酒,聲言:「明日武安君將汰選趙軍,凡上等精銳能戰者,給以器械,帶回秦國,隨征聽用;其老弱不堪,或力怯者,俱發回趙。」趙軍大喜。是夜,武安君密傳一令於十將:「起更時分,但是秦兵,都要用白布一片裹首。凡首無白布者,即係趙人,當盡殺之。」秦兵奉令,一齊發作。降卒不曾准備,又無器械,束手受戮。其逃出營門者,又有蒙驁王翦等引軍巡邏,獲住便砍。四十萬軍,一夜俱盡。血流淙淙有聲,楊谷之水,皆變為丹,至今號為丹水。武安君收趙卒頭顱,聚於秦壘之間,謂之頭顱山。因以為臺,其臺崔嵬傑起,亦號白起臺。臺下即楊谷也。後來大唐玄宗皇帝巡幸至此,淒然長嘆,命三藏高僧,設水陸七晝夜,超度坑卒亡魂,因名其谷曰省冤谷。此是後話,史臣有詩云:

    高臺百尺盡頭顱,何止區區萬骨枯!矢石無情緣鬥勝,可憐降卒有何辜?

通計長平之戰,前後斬首虜共四十五萬人,連王齕先前投下降卒,並皆誅戮。止存年少者二百四十人未殺,放歸邯鄲,使宣揚秦國之威。不知趙國存亡何如,且看下回分解。

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