東周列國志第百零三回 李国舅、権を争って黄歇を除く/樊於期、檄を伝えて秦王を討つ (李國舅爭權除黃歇 樊於期傳檄討秦王)
五国合従の渭南攻めと合従の瓦解
- 話は龐煖が燕を破った勢いに乗じて列国を「合従」させ、力を合わせて秦を図ろうとしたことに続く。斉が秦に附くのを除き、韓・魏・楚・燕はそれぞれ精鋭を出し、多い国で四五万、少ない国でも二三万、共に春申君黄歇を推して上将とした。
- 歇は諸将を集めて議した、「秦を討つ軍がしばしば出ても、みな函谷関を目標にしている。秦人は守りを甚だ厳しく設けており、いまだに志を得ていない。我が軍もまた仰ぎ攻める難しさを普段から知っており、みな畏縮の心がある。もし蒲坂を経由する道を取り、華州から西へ進み、直に渭南を襲い、潼関をうかがえば、『兵法』にいう『不意を突く』というものだ」と。諸将はみな「その通りだ」と言った。
- そこで兵を五路に分け、みな蒲関を出て驪山の道を望んで進発し、まっすぐ渭南を攻めたが落とせず、これを囲んだ。秦の丞相呂不韋は将軍蒙驁・王翦・桓齮・李信・内史騰にそれぞれ兵五万を率いさせ、五隊の軍で五国に応じさせた。不韋は自ら大将となり、あわせてその軍を統べ、潼関から五十里離れたところに五つの陣営を、星を連ねるような形に分けて構えた。
- 王翦は不韋に言った、「五国の全精鋭をもって一城を攻めて落とせないのは、その無能さが知れます。三晋は秦に近く、秦との戦い慣れておりますが、楚は南方にあり、その来路は最も遠く、しかも張儀が去ってより三十余年、互いに攻伐しておりません。誠に五営の精鋭を選び、力を合わせて楚を攻めれば、楚は必ず支えきれず、楚の一軍が破れれば、残りの四軍も秦軍の勢いを聞いただけで戦わずして崩れ去るでしょう」と。不韋はもっともだと思った。
- そこで五つの陣営に平常通り塁を設け旗を建てさせたまま、暗にそれぞれ精兵一万を抽出し、四鼓の刻に一斉に起こって楚の陣営を襲うことを約した。
- このとき李信は兵糧が滞ったことで、督糧の牙将甘回を斬ろうとしたが、諸将が助命を求めたため、背中を鞭で百余打つだけで済ませた。甘回はこれを恨みに思い、夜、楚の軍に逃げ込み、王翦の計を告げた。
- 春申君は大いに驚き、各営に急報しようとしたが、間に合わないことを恐れ、そこですぐに命を伝え、陣を撤して一斉に立たせ、夜のうちに五十余里を馳せさせ、それからようやく緩やかに進んだ。秦の兵が到着した時には、楚の陣営はすでに撤していた。
- 王翦は言った、「楚兵はまず逃げた、必ず我が謀を漏らした者がいるはずだ。計はうまくいかなかったが、兵はすでにここまで来た、空しく帰るわけにはいかない」と。そこで趙の陣営を襲った。壁塁は堅固で、攻めても入れなかった。龐煖は剣を引っさげて軍門に立ち、命令もなく勝手に動く者があれば即座に斬ると申し渡した。秦の兵は一晩じゅう攻めかけて騒ぎ立てたが、明け方になって、燕・韓・魏がみな兵を合わせて救援に来たので、蒙驁らはようやく兵を収めた。
- 龐煖は楚の兵が来ないのを怪しみ、人を遣わして探らせたところ、先に撤退していたことを知り、嘆いて言った、「『合従』の事は、これでもう終わりだ」と。諸将はみな兵を引き上げるよう願い出て、韓・魏の兵はまず本国に帰った。龐煖は斉だけが独り秦に附いていることに怒り、燕の兵を率いて斉を討ち、饒安の一城を取って帰った。
春申君、朱英の献策で都を寿春に遷す
- さて春申君は郢城に逃げ帰った。四国はそれぞれ人を遣わして問うた、「楚は合従の盟主でありながら、告げもせずに先に帰られたのはどういうわけか」と。考烈王は黄歇を責めた。歇は恥じ入り、身の置き所がなかった。
- このとき魏人朱英という者が春申君の門下に客としていたが、楚がまさに秦を畏れていることを知り、春申君に説いて言った、「人は皆、楚は強国であったのに、あなたの代になって弱くなったと言っておりますが、私だけはそうは思いません。先君の時代には、秦は楚から甚だ遠く、西は巴蜀に隔てられ、南は西周君・東周君の二つの小国に隔てられ、しかも韓・魏が虎視眈々とその背後を狙っていました。それゆえに三十年、秦の患いがなかったのです。これは楚が強かったからではなく、その形勢がそうさせたのです。今、その二つの周の小国はすでに秦に併合され、秦はまさに魏に対して怨みを晴らそうとしております。魏は朝夕にも滅びるでしょう。そうなれば陳・許の地は秦にとっての通り道となり、恐らく秦と楚の争いはこれより始まるでしょう。あなたへの責めは、まだ終わらないでしょう。なぜ楚王に東の寿春へ遷都するよう勧めないのですか。秦から遠ざかり、長淮を隔てて自らを固めれば、多少なりとも安泰でいられます」と。
- 黄歇はその謀をもっともだと思い、考烈王に申し上げた。王は日を選んで遷都した。楚は先に郢に都し、後に鄀に遷り、また陳に遷り、今また寿春に遷った、これで合わせて四度の遷都であった。史臣に詩がある。(詩:周が東遷して王気が尽きたように、楚もたびたび都を遷して覇業が空しくなったこと、敵を避けて都を移すことはかえって敵を招き入れることになる、岐山に移って周を興した古公亶父の故事になぞらえてはならぬと、遷都策を批判する内容)
李園、妹嫣を春申君に献じる
- さて考烈王は在位すでに久しいが、まだ子がなかった。黄歇は子を宿しやすいと言われる婦人をあまねく求めて進めたが、ついに孕まなかった。趙人李園という者があり、これも春申君の門下で舎人となっていた。李園には李嫣という美貌の妹がいた。李園はこの妹を楚王に進めようと考えたが、後々に妹に子がなければ寵を失うことを恐れ、心中ためらった。「必ずまず妹を春申君に献じ、その懐妊を待ってから楚王に進めれば、幸いに子が生まれれば、異日楚王に立てられよう、それは私の甥ということになる」と。また考えた、「私が自ら妹を献じれば、貴重に思われまい。なお一つ小さな計略を用い、春申君自ら私に求めるようにさせるべきだ」と。
- そこで五日の休暇を得て帰省し、わざと期限を過ぎ、第十日になってようやく戻った。黄歇はその遅れを怪しんだ。李園は答えて言った、「臣に妹嫣という者がおり、頗る姿色があります。斉王がこれを聞き、使者を遣わして求めてまいりました。臣はその使者と数日飲み交わし、そのために期限に遅れました」と。黄歇は思った、「この女は斉国に名が聞こえるほどか、必ずや美色に違いない」と。そこで問うた、「すでにその聘礼を受けたのか」と。園は答えて言った、「まだ議している最中で、聘礼はまだ届いておりません」と。黄歇は「私に一目見せてくれないか」と言った。園は「臣はあなたの門下におります、その臣の妹もまた、あなたの妾婢の一人にすぎません、あえてお言葉に従わないことがございましょうか」と言い、そこで妹を盛装させ、春申君の府に送った。
- 黄歇は一目見て大いに喜び、その夜すぐに李園に白璧二対、黄金三百鎰を賜り、その妹を留めて寝所に侍らせた。三月にならぬうちに、たちまち懐妊した。李園は密かに妹の嫣に言った、「妾であることと夫人であることと、どちらが貴いか」と。嫣は笑って「妾がどうして夫人に比べられましょうか」と言った。園はまた「それでは夫人であることと王后であることと、どちらが貴いか」と言った。嫣はまた笑って「王后は貴く盛んなものです」と言った。
- 李園は言った、「お前は春申君の屋敷では、一人の寵妾にすぎない。今、楚王には子がなく、幸いお前は懐妊している。もしこれを楚王に進めれば、他日子が生まれて王となれば、お前は太后となる。妾であるより勝るではないか」と言い、そこで説くべき言葉を教え、寝所での機会に、しかじかと言い含めれば、春申君は必ず聞き入れるだろうと言った。李嫣はいちいちこれを記憶した。
- 夜、寝所に侍る際、そこで黄歇に進言して言った、「楚王があなたを重んじ寵愛することは、兄弟でさえこれには及びません。今、あなたは楚の相となって二十余年、しかし王にはまだ子がおられません。千秋百歳の後には、必ず兄弟の中から改めて立てられるでしょう。兄弟はあなたに恩がなく、必ずそれぞれ自分の親しい者を立てるでしょう。あなたはどうして長く寵を保てましょうか」と。黄歇はこれを聞き、沈思して答えなかった。
- 嫣はまた言った、「妾が案じるのはこれだけではございません。あなたは貴く、事を行うこと久しく、多く王の兄弟に対して礼を失っておられます。兄弟が誠に立てば、禍はあなたの身に及びましょう。ただ江東の封邑が保てなくなるだけでは済みますまい」と。黄歇は愕然として言った、「卿の言葉はもっともだ、私はここまで思い至らなかった。今どうすべきか」と。李嫣は「妾に一計がございます。禍を免れるだけでなく、多くの福も得られます。ただ妾は恥ずかしく、自ら申し上げにくく、またあなたが聞き入れてくださらないのではと恐れ、あえて申せずにおりました」と言った。黄歇は「卿は私のために策を立ててくれ、なぜ聞かないことがあろうか」と言った。
- 李嫣は言った、「妾は今、自ら懐妊していると気づきましたが、他人はまだ知りません。幸い妾はあなたに侍って日が浅うございます。あなたの重き身分をもって妾を楚王に進めれば、王は必ず妾を寵愛されましょう。妾が天のご加護を得て男子を生めば、異日必ず正統の跡継ぎとなりましょう。すなわちこれはあなたの子が王となるということです。楚国はすべて手に入るでしょう、身に測り知れない罪が及ぶのに比べて、どちらがよいでしょうか」と。黄歇は夢から覚めたよう、酔いから醒めたようであり、喜んで言った、「『天下に智恵ある婦人は男子に勝る』とはこのことか」と言った。
李嫣が王后となり、朱英の諫言は退けられる
- 翌日、すぐに李園を召してその意を告げ、密かに李嫣を別の屋敷に移した。黄歇は楚王に言上した、「臣が聞くところでは、李園の妹嫣という者に色があり、人相見はみな子を宿しやすい相であり、貴くなるはずだと言っております。斉王がまさに使者を遣わしてこれを求めております。王はどうか先手を打たれるべきです」と。楚王はすぐに内侍に命じて李嫣を宮中に入れさせた。嫣は媚を得意とし、楚王は大いに寵愛した。
- 産期に至り、双子の男児を生んだ。長男を捍、次男を猶と名付けた。楚王は喜びを言葉にできず、そこで李嫣を王后に立て、長子の捍を太子とした。李園は国舅となり、貴く用いられ、春申君と権勢を並べた。園は人となり多く詐術を用い、表面は春申君にますます謹んで仕えたが、内心は実に彼を忌んでいた。
- 考烈王二十五年、王は病が久しく癒えなかった。李園はその妹の懐妊のことを、ただ春申君だけが知っていることを思い起こし、他日太子が王になれば、都合が悪いと考え、殺してその口を封じるに越したことはないと考えた。そこで人を遣わしてあちこちで勇力ある士を探し求め、門下に置いて厚く衣食を与え、その心をつなぎとめた。
- 朱英はこれを聞いて疑い、「李園が多くの死をも恐れぬ勇士を蓄えているのは、必ず春申君を狙ってのことだろう」と言った。そこで春申君に会いに行き、言った、「天下には『思いがけない福』があり、『思いがけない禍』があり、また『思いがけない人』があります、あなたはご存じですか」と。黄歇は「『思いがけない福』とは何か」と言った。朱英は言った、「あなたは楚の相となって二十余年になります。名は相国と言っても、楚王とほぼ変わりません。今、楚王の病は久しく癒えず、ある日、王が崩御されれば、幼い主が立ち、あなたがこれを輔佐すれば、伊尹や周公のようになり、王の年が長じるのを待ってその政を返します。もし天と人がともにあなたに帰すれば、そのまま君主の座に即かれましょう。これが『思いがけない福』というものです」と。
- 黄歇は「『思いがけない禍』とは何か」と言った。朱英は言った、「李園は国舅、すなわち王后の兄であり、あなたの位はその上にありますが、外は柔順に見えても、内は実に不服です。しかも同じく国を盗もうとする者同士は互いに妬み合うのが常でございます。彼が密かに死をも恐れぬ勇士を蓄えていると聞き及びますが、それはすでに久しいことです、何に使うつもりでしょうか。楚王が薨じれば、李園は必ず先に権を握り、あなたを殺して口を封じるでしょう。これが『思いがけない禍』というものです」と。
- 黄歇は「『思いがけない人』とは何か」と言った。朱英は言った、「李園はその妹の縁で、宮中の情報が朝夕通じておりますが、あなたは城外に住み、動くたびに後手に回ります。誠に臣を郎中令に置いていただければ、臣が諸郎の頭として、李園が先に手を出そうとすれば、臣があなたのためにこれを殺しましょう。これが『思いがけない人』というものです」と。
- 黄歇は髭をなでて大笑いし、「李園は弱い人物にすぎない、また私に平素から謹んで仕えている。どうしてそんなことがあろうか。あなたは過度に憂慮しているのではないか」と言った。朱英は「あなたが今日私の言葉を用いなければ、悔いても遅うございます」と言った。黄歇は「あなたはしばらく退がっていよ、私によく考えさせてくれ。もし用いる時があれば、すぐに呼び寄せよう」と言った。
- 朱英が去って三日、春申君に動きが見られないので、その言葉が用いられないことを知り、嘆いて言った、「私が去らなければ、禍が及ぼう。鴟夷子皮の風にならうべきだ」と言い、告げずに去り、東は呉の地に走り、五湖の間に隠れた。髯翁に詩がある。(詩:紅顔の美女は子を身ごもったまま王宮に入り、国を盗む陰謀は道理として許されぬこと、天が春申君に無妄の禍を定めた以上、朱英が郎中令に任じられるはずもなかったと、朱英の先見の明を惜しみつつ皮肉る内容)
李園、春申君を殺し楚幽王を立てる
- 朱英が去って十七日、考烈王が薨じた。李園はあらかじめ宮殿の護衛の兵と約束していた、「一旦変事があれば、まず私に告げよ」と。ここに至りこの知らせを聞き、まず宮中に入り、命じて秘して喪を発せず、密かに死をも恐れぬ勇士を棘門の内に伏せさせた。日没まで待って、ようやく人を遣わしてゆるやかに黄歇に知らせた。
- 黄歇は大いに驚き、賓客に相談もせず、すぐに車を出して行った。棘門に入るや、両側から死をも恐れぬ勇士が突き出て、口々に叫んだ、「王后の密命を奉じる、春申君は謀反した、誅すべし」と。黄歇は事変を悟り、急いで車を返そうとしたが、手下はすでに殺し散らされていた。そのまま黄歇の首を斬り、城外に投げ捨て、城門を固く閉ざし、それから喪を発した。
- 太子捍を擁立して位を継がせた、これが楚の幽王である、時に年わずか六歳であった。李園は自ら相国となり、独り楚の政を専らにした。李嫣を王太后として奉じた。令を伝え、春申君の一族をことごとく滅ぼし、その食邑を没収した。哀れなことである。李園が国政を執って以来、春申君の賓客はことごとく散り、諸公子もみな疎んじられて政事に関わらなくなった。幼い主と寡婦の后のもとで、国政は日に日に乱れ、楚はこれよりどうにもならなくなった。
呂不韋の報復、長安君成嶠の出征
- 話は二筋に分かれる。さて呂不韋は五国が秦を攻めたことに憤り、報復を謀って言った、「もともと謀を起こしたのは、趙将龐煖である」と。そこで蒙驁を張唐とともに遣わし、兵五万で趙を討たせた。三日後、さらに長安君成嶠に樊於期とともに兵五万を率いさせ、後続の部隊とした。賓客が不韋に問うた、「長安君はまだ若く、大将たるに堪えないのではありませんか」と。不韋は微笑んで、「お前たちの知るところではない」と言った。
堯山の戦い
- さて蒙驁の前軍は函谷関を出て、上党の道を取り、まっすぐ慶都を攻め、都山に陣営を結んだ。長安君の大軍は屯留に陣を張り、後詰とした。趙は相国龐煖を大将とし、扈輒をこれに副え、軍十万を率いて敵を防がせ、龐煖に臨機応変の権を許した。
- 龐煖は言った、「慶都の北には堯山が最も高く、堯山に登れば都山を望むことができる、そこに拠るべきだ」と。扈輒に軍二万を先に行かせた。堯山に至ると、すでに秦の兵一万がそこに屯していたが、扈輒に衝き崩されて散らされ、扈輒はそのまま山頂に陣を構えた。
- 蒙驁は張唐に軍二万を率いさせ、山を争いに来させた。龐煖の大軍もまた到着し、両軍は山下に陣を構えて激戦した。扈輒は山頂で紅旗を合図とし、張唐が東に動けば旗は東を指し、張唐が西に動けば旗は西を指した。趙軍はただ紅旗の指す方角を望んで、包囲を絞っていった。龐煖は令を下した、「張唐を捕らえた者には百里の地を封ずる」と。趙軍は死力を尽くして戦った。
- 張唐は平生の勇を尽くしたが、幾重もの包囲を突破できなかった。ようやく蒙驁の軍が到着して呼応し救援したので、張唐は囲みを抜け出し、共に都山の本営へ戻った。慶都は救援がすでに至ったと知り、防備をますます固めた。蒙驁らは勝てず、張唐を屯留へ遣わし、後続の軍を催促させた。
樊於期、成嶠を唆し檄文を発する
- さて長安君成嶠は年わずか十七歳で軍事に通じておらず、樊於期を召して相談した。於期は普段から不韋が妾を献じて国を盗んだことを憎んでおり、左右を退けさせ、事の子細を成嶠に語った、「今の王は先王の血を引く方ではなく、あなただけが嫡子です。文信侯が今日兵権をあなたに託したのは、良い意図からではありません。恐らくある日事が漏れれば、あなたと今の王が対立することになるのを恐れ、表向きは恩寵を示していますが、実はあなたを都から出そうとしているのです。文信侯は宮中に出入りし、王太后とみだらな関係を続けており、夫婦と父子が一つの穴の中に入り交じっています。彼が忌み憚っているのはあなただけです。もし蒙驁の軍が敗れて功を成せなければ、これをもってあなたの罪とするでしょう。軽ければ籍を削られ、重ければ刑死させられます。嬴氏の国は呂氏に化してしまい、国中の人がみなそれが必然であることを知っています。あなたはこれに備えを講じないわけにはいきません」と。
- 成嶠は「あなたが説明してくれなければ、私は知らなかった。今どうすべきか」と言った。樊於期は言った、「今、蒙驁の軍は趙で苦戦しており、急には帰ってこられません。あなたが今、大軍を手中にしているのですから、檄を伝えて、みだらな者の罪を宣言し、宮中の偽りを明らかにすれば、臣民の誰が正統の跡継ぎを奉じて社稷を主とすることを望まないでしょうか」と。成嶠は憤然として剣を抑え、色を作して言った、「男子たる者、死ぬなら死ぬまでだ。どうして商人の子に膝を屈することができようか。将軍によく図ってもらいたい」と。
- 樊於期は使者に偽って言った、「大軍は今日のうちに陣営を移す、蒙将軍によく伝えて心して備えるように」と。使者が去った後、樊於期は檄文を書き上げた。おおよそこう書かれていた。「長安君成嶠、中外の臣民に布告して知らしめる。国を伝える義は、嫡統を尊ぶことにある。宗を覆す悪は、陰謀より甚だしきはない。文信侯呂不韋は、陽翟の商人の身をもって、咸陽の君位を窺った。今の王である政は、実は先王の嗣子ではなく、不韋の子である。始めは懐妊した妾をもって先君を巧みに惑わし、続いては私生の子をもって血統を偽り継がせた。金を撒くことを奇策と恃み、子楚を趙から帰国させたことを最上の功として求めた。両君が長寿を得られなかったのには理由がある、これを忍べようか。三代の大権を握り、誰がこれを制せよう。朝廷にどうして真の王がいようか、密かにすでに嬴氏を呂氏に変えている。仮の父として尊ばれているが、ついには臣として君を簒奪するに至るであろう。社稷は危うく、神も人もみな怒っている。それがしは畏れながら正統の跡継ぎであり、天誅を遂げたい。鎧と武器は、義の呼び声を受けて輝きを増し、子も孫も臣下も民も、先王の徳を思って共に馳せ参じよ。檄文が至る日、武具を研ぎ整えて待ち、車馬が到る時、市肆はいつも通りのままで変わってはならない」と。
檄文の波及と蒙驁の敗死
- 樊於期は檄文を四方に触れ回らせた。秦人には呂不韋が妾を進めた事を聞いている者が多く、檄文の中の懐妊・私生の語を見るや、それを本当のことと信じ、文信侯の威を畏れてあえて兵に従う者はなかったものの、それでも観望の意を免れなかった。
- このとき彗星がまず東方に現れ、また北方に現れ、また西方に現れ、占者は国中に兵乱が起こると言い、人心はこれによって動揺した。樊於期は屯留付近の県の壮丁をすべて軍伍に編入し、長子・壺関を攻め落とし、兵勢はますます盛んになった。張唐は長安君がすでに反したことを知り、夜を徹して咸陽に走り変事を告げた。
- 秦王政は檄文を見て大いに怒り、尚父呂不韋を召して計った。不韋は言った、「長安君は年若く、このようなことができるはずがありません、これは樊於期のしわざです。於期は勇はあれど謀がなく、兵を出せばすぐに捕らえられましょう、あまり過度に心配なさいますな」と。そこで王翦を大将とし、桓齮・王賁を左右の先鋒とし、兵十万を率いて長安君を討たせた。
- さて蒙驁は龐煖と対峙していたが、長安君が呼応して援軍に来ないので、まさに疑ぐっていたところ、檄文を受け取った。かくかくしかじかの内容であることを知り、大いに驚いて言った、「私は長安君と共に事に当たり、今、趙を攻めて功がないうえに、長安君がまた反した。私にどうして罪がないと言えようか。もし戈を反して逆賊を平らげなければ、どうして自分の身の潔白を証せようか」と。そこで兵を引き上げるよう令し、軍馬を三隊に分け、自ら殿を務め、緩やかに進んだ。
- 龐煖は秦の軍が移動しているのを探知し、あらかじめ精兵三万を選び、扈輒に間道から太行山の木々深い場所に伏せさせ、言い含めた、「蒙驁は老将で、必ず自ら殿を務めるだろう。秦の兵が過ぎ去るのを待って、後から迎え撃てば、必ず完全な勝利を得られよう」と。
- 蒙驁は前軍が支障なく進むのを見て、安心して前進した。砲声一発、伏兵が突き出て、蒙驁は扈輒と交戦した。しばらくして龐煖の軍が後から追いつき、秦の兵で先に進んでいた者はすでに闘志を失っており、そのまま大潰走した。蒙驁は身に重傷を負いながら、なお力戦して数十人を殺し、さらに自ら龐煖を射てその脇腹に当てたが、趙軍が幾重にも彼を取り囲み、乱れ射る矢は蝟の毛のごとくで、惜しくも秦国の一員の名将は、この日太行山の麓に死した。
- 龐煖は勝利を得て兵を引き上げて趙に帰ったが、矢傷が癒えず、間もなく彼もまた死んだ。この件はこれ以上取り上げない。
屯留の攻防と樊於期の奮戦
- さて張唐・王翦らの軍が屯留に至ると、成嶠は大いに恐れた。樊於期は言った、「王子は今日すでに虎に乗った勢いにあり、もはや下りることはできません。しかも三城の兵をすべて動員すれば、十五万を下りません。城を背にして一戦を交えれば勝負はどう転ぶか分かりませんが、何を恐れることがございましょう」と。そこで城下に陣を構えて待った。王翦もまた陣を構えて対峙し、樊於期に言った、「国家がお前に何の恩を欠いたというので、長安君を誘って謀反させたのか」と。
- 樊於期は車上で身をかがめて答えた、「秦王政は呂不韋の私生の子である、誰が知らないことがあろうか。我らは代々国恩を受けてきた者、どうして忍んで嬴氏の祖先の祭祀が呂氏に奪われるのを見過ごせようか。長安君は先王の血統であるゆえ、これを奉じるのだ。将軍がもし先王の祭祀を思うなら、共に義挙に加わり、咸陽に攻め込み、みだらな者を誅し、偽りの主を廃し、長安君を立てて王とすれば、将軍も封侯の位を失わず、共に富貴を享受できよう、なんと美事ではないか」と。
- 王翦は言った、「太后は十月身籠り今の王を生んだ、先君の御子であることに疑いはない。お前は謗りを作り出して主君を誹謗し、一族皆殺しに値する事をしでかしながら、なお巧言を飾り立て軍心を惑わそうとしている。捕らえた時には、八つ裂きにしてくれよう」と。樊於期は大いに怒り、目を見開いて大声を挙げ、長刀を振るって秦軍に直進した。秦の兵はその猛々しさに、みな逃げ散った。樊於期は左右に突き進み、無人の境地に入るがごとくであった。
- 王翦は軍を回してこれを囲んだが、何度も、樊於期は将を斬り包囲を破って出た。秦の兵の損害は甚だ多かった。この日、日が暮れ、それぞれ軍を収めた。王翦は傘蓋山に陣を張り、考えた、「樊於期はこれほど勇猛だ、急には制圧しがたい、必ず計をもって破らねばなるまい」と。そこで陣中の配下に問うた、「誰か長安君と面識のある者はいないか」と。末将楊端和という者があり、屯留の人であり、自ら「かつて長安君の門下で客をしておりました」と言った。
- 王翦は言った、「私が書を一封お前に持たせる、お前はこれを長安君に届け、早く帰順を図るよう勧め、自ら死を招くことのないようにさせよ」と。楊端和は「小将はどうやって城の中に入れましょうか」と言った。王翦は「交戦の際、軍を収める隙に乗じ、お前は敵軍のふりをして城中に紛れ込め。攻城が最も急になった時を見計らって、長安君に会いに行け、必ず異変が起こるだろう」と言った。端和は計を受けた。王翦はその場で書をしたためて封をし、端和に渡して自ら機会をうかがい行動させた。
- さらに桓齮に一軍を率いさせて長子城を攻めさせ、王賁に一軍を率いさせて壺関城を攻めさせ、王翦自ら屯留を攻め、三か所で攻めることで、互いに応援しあえないようにした。
- 樊於期は成嶠に言った、「今、敵が兵を分けている隙に乗じ、一戦の勝負を決すべきです。もし長子・壺関が守られなければ、秦の兵の勢いはますます大きくなり、なお敵しがたくなりましょう」と。成嶠は年若く臆病で、涙ながらに言った、「この事はもとより将軍の謀によるものだ、ただすべてを任せる、私の事を誤らないでくれ」と。
- 樊於期は精鋭一万余を選び、門を開いて出撃した。王翦はわざと一戦を譲り、軍を十里退いて伏龍山に屯した。於期は勝ちを得て城に入ったが、楊端和はすでに紛れ込んでいた。彼はもとよりこの城の人であったので、自ら親戚を頼って身を落ち着けた。この件はこれ以上取り上げない。
- 成嶠は樊於期に問うた、「王翦の軍馬が退かないのはどういうわけか」と。樊於期は答えた、「今日の交戦で、すでにその鋭気を挫きました。明日は全軍を挙げて出撃し、必ず王翦を生け捕りにし、まっすぐ咸陽に入り、王子を立てて君とし、我が志を遂げねばなりません」と。勝敗がどうなるか、それは次回を見て解かれよう。
原文(底本)
話說龐煖欲乘敗燕之威,「合從」列國,為并力圖秦之計。除齊附秦外,韓、魏、楚、燕,各出銳師,多者四五萬,少亦二三萬,共推春申君黃歇為上將。歇集諸將議曰:「伐秦之師屢出,皆以函谷關為事,秦人設守甚嚴,未能得志。即我兵亦素知仰攻之難,咸有畏縮之心。若取道蒲坂,由華州而西,逕襲渭南,因窺潼關,《兵法》所謂『出其不意』也。」諸將皆曰:「然。」遂分兵五路,俱出蒲關,望驪山一路進發,直攻渭南,不克,圍之。秦丞相呂不韋使將軍蒙驁、王翦、桓齮、李信、內史騰,各將兵五萬人,五枝軍兵,分應五國。不韋自為大將,兼統其軍,離潼關五十里分為五屯,如列星之狀。王翦言於不韋曰:「以五國悉銳,攻一城而不克,其無能可知矣。三晉近秦,習與秦戰,而楚在南方,其來獨遠,且自張儀亡後,三十餘年不相攻伐,誠選五營之銳,合以攻楚,楚必不支,楚之一軍破,餘四軍將望風而潰矣。」不韋以為然。於是使五屯設壘建幟如常,暗地各抽精兵一萬,約以四鼓齊起,往襲楚寨。時李信以糧草稽遲,欲斬督糧牙將甘回,眾將告求得免,但鞭背百餘。甘回挾恨,夜奔楚軍,以王翦之計告之。春申君大驚,欲馳報各營,恐其不及,遂即時傳令,拔寨俱起,夜馳五十餘里,方敢緩緩而行。比及秦兵到時,楚寨已撤矣。王翦曰:「楚兵先遁,必有洩吾謀者。計雖不成,然兵已至此,不可空回。」遂往襲趙寨。壁壘堅固,攻不能入。龐煖仗劍立於軍門,有敢擅動者即斬。秦兵亂了一夜,至天明,燕、韓、魏俱合兵來救,蒙驁等方纔收兵。龐煖怪楚兵不至,使人探之,知其先撤,嘆曰:「『合從』之事,今後休矣!」諸將皆請班師,於是韓魏之兵,先回本國。龐煖怒齊獨附秦,挾燕兵伐之,取饒安一城而返。 再說春申君奔回郢城,四國各遣人來問曰:「楚為從長,奈何不告而先回,敢請其故?」考烈王責讓黃歇,歇慚懼不容。時有魏人朱英,客於春申君之門,知楚方畏秦,乃說春申君曰:「人皆以楚強國,及君而弱,英獨謂不然。先君之時,秦去楚甚遠,西隔巴蜀,南隔兩周,而韓魏又眈眈乎擬其後,是以三十年無秦患。此非楚之強,其勢然也。今兩周已并於秦,而秦方修怨於魏,魏旦暮亡,則陳許為通道,恐秦楚之爭,從此方始,君之責讓,正未已也。何不勸楚王東徙壽春,去秦較遠,絕長淮以自固。可以少安。」黃歇然其謀,言於考烈王,乃擇日遷都。按楚先都郢,後遷於鄀,復遷於陳,今又遷於壽春,凡四遷矣。史臣有詩云: 周為東遷王氣歇,楚因屢徙霸圖空;從來避敵為延敵,莫把託岐托古公。 再說考烈王在位已久,尚無子息,黃歇遍求婦人宜子者以進,終不孕。有趙人李園,亦在春申君門下,為舍人。有妹李嫣色美,欲進於楚王,恐久後以無子失寵,心下躊躇:「必須將妹先獻春申君,待其有娠,然後進於楚王,幸而生子,異日得立為楚王,乃吾甥也。」又想:「吾若自獻其妹,不見貴重。還須施一小計,要春申君自來求我。」於是給五日假歸家,故意過期,直待第十日方至。黃歇怪其來遲。李園對曰:「臣有女弟名嫣,頗有姿色,齊王聞之,遣使來求。臣與其使者飲酒數日,是以失期。」黃歇想道:「此女名聞齊國,必是個美色。」遂問曰:「已受其聘否?」園對曰:「方且議之,聘尚未至也。」黃歇曰:「能使我一見乎?」園曰:「臣在君之門下,即吾女弟,誰非君妾婢之流,敢不如命。」乃盛飾其妹,送至春申君府中。黃歇一見大喜,是夜即賜李園白璧二雙,黃金三百鎰,留其妹侍寢。未三月,即便懷孕。李園私謂其妹嫣曰:「為妾與為夫人孰貴?」嫣笑曰:「妾安得比夫人?」園又曰:「然則為夫人與為王后孰貴?」嫣又笑曰:「王后貴盛!」李園曰:「汝在春申君府中,不過一寵妾耳!今楚王無子,幸汝有娠,倘進於楚王,他日生子為王,汝為太后,豈不勝於為妾乎?」遂教以說詞,使於枕席之間,如此這般,春申君必然聽從。李嫣一一領記。夜間侍寢之際,遂進言於黃歇曰:「楚王之貴幸君,雖兄弟不如也。今君相楚二十餘年,而王未有子,千秋百歲後,將更立兄弟。兄弟於君無恩,必將各立其所親幸之人,君安得長有寵乎?」黃歇聞言,沉思未答。嫣又曰:「妾所慮不止於此也。君貴,用事久,多失禮於王之兄弟,兄弟誠立,禍且及身,豈特江東封邑不可保而已哉?」黃歇愕然曰:「卿言是也,吾慮不及此!今當奈何?」李嫣曰:「妾有一計,不惟免禍,而且多福。但妾負愧,難於自吐,又恐君不我聽,是以妾未敢言。」黃歇曰:「卿為我畫策,何為不聽?」李嫣曰:「妾今自覺有孕矣,他人莫知也。幸妾侍君未久,誠以君之重,而進妾於楚王,王必幸妾。妾賴天佑生男,異日必為嫡嗣,則是君之子為王也。楚國盡可得,孰與身臨不測之罪乎?」黃歇如夢初覺,如醉初醒,喜曰:「『天下有智婦人,勝於男子』。卿之謂矣。」 次日,即召李園告之以意,密將李嫣出居別舍。黃歇入言於楚王曰:「臣所聞李園妹名嫣者有色,相者皆以為宜子,當貴,齊王方遣人求之,王不可不先也。」楚王即命內侍宣取李嫣入宮。嫣善媚,楚王大寵愛之。及產期,雙生二男,長曰捍,次曰猶。楚王喜不可言,遂立李嫣為王后,長子捍為太子。李園為國舅,貴幸用事,與春申君相並。園為人多詐術,外奉春申君益謹,而中實忌之。乃考烈王二十五年,病久不愈,李園想起其妹懷娠之事,惟春申君知之,他日太子為王,不便相處,不如殺之,以滅其口。乃使人各處訪求勇力之士,收置門下,厚其衣食,以結其心。朱英聞而疑之,曰:「李園多蓄死士,必為春申君故也。」乃入見春申君曰:「天下有無妄之福,有無妄之禍,又有無妄之人,君知之乎?」黃歇曰:「何謂『無妄之福』?」朱英曰:「君相楚二十餘年矣。名為相國,與楚王無二。今楚王病久不愈,一旦宮車晏駕,少主嗣位,而君輔之,如伊尹周公,俟王之年長,而反其政;若天與人歸,遂南面即真。此所謂『無妄之福』也。」黃歇曰:「何謂『無妄之禍』?」朱英曰:「李園,王之舅也,而君位在其上,外雖柔順,內實不甘。且同盜相妒,勢所必至也。聞其陰蓄死士,為日已久,何所用之?楚王一薨,李園必先入據權,而殺君以滅口。此所謂『無妄之禍』也。」黃歇曰:「何謂『無妄之人』?」朱英曰:「李園以妹故,宮中聲息,朝夕相通,而君宅於城外,動輒後時。誠以郎中令相處,某得領袖諸郎,李園先入,臣為君殺之。此所謂『無妄之人』也。」黃歇掀髯大笑曰:「李園弱人耳,又事我素謹,安有此事?足下得無過慮乎?」朱英曰:「君今日不用吾言,悔之晚矣。」黃歇曰:「足下且退,容吾察之。如有用足下之處,即來相請。」朱英去三日,不見春申君動靜,知其言不見用,嘆曰:「吾不去,禍將及矣!鴟夷子皮之風可追也。」乃不辭而去,東奔吳下,隱於五湖之間。髯翁有詩云: 紅顏帶子入王宮,盜國奸謀理不容;天啟春申無妄禍,朱英焉得令郎中? 朱英去十七日,而考烈王薨。李園預與宮殿侍衛相約:「一聞有變,當先告我。」至是聞信,先入宮中,吩咐祕不發喪,密令死士伏於棘門之內。捱至日沒,方使人徐報黃歇。黃歇大驚,不謀於賓客,即刻駕車而行。方進棘門,兩邊死士突出,口呼:「奉王后密旨,春申君謀反宜誅!」黃歇知事變,急欲迴車。手下已被殺散。遂斬黃歇之頭,投於城外,將城門緊閉,然後發喪。擁立太子捍嗣位,是為楚幽王,時年纔六歲。李園自立為相國,獨專楚政。奉李嫣為王太后。傳令盡滅春申君之族,收其食邑。哀哉!自李園當國,春申君賓客盡散,群公子皆疏遠不任事。少主寡后,國政日紊,楚自此不可為矣。 話分兩頭。再說呂不韋憤五國之攻秦,謀欲報之,曰:「本造謀者,趙將龐煖也。」乃使蒙驁同張唐督兵五萬伐趙。三日後,再令長安君成嶠,同樊於期率兵五萬為後繼。賓客問於不韋曰:「長安君年少,恐不可為大將。」不韋微笑曰:「非爾所知也!」 且說蒙驁前軍出函谷關,取路上黨,逕攻慶都,結寨於都山。長安君大軍營於屯留,以為聲援。趙使相國龐煖為大將,扈輒副之,率軍十萬拒敵,許龐煖便宜行事。龐煖曰:「慶都之北,惟堯山最高,登堯山可望都山,宜往據之。」使扈輒引軍二萬先行。比至堯山,先有秦兵萬人,在彼屯札,被扈輒衝上殺散,就於山頭下寨。蒙驁使張唐引軍二萬,前來爭山,龐煖大軍亦到,兩邊於山下列成陣勢,大戰一場。扈輒在山頭用紅旗為號,張唐往東,旗便往東指,張唐往西,旗便從西指。趙軍只望紅旗指處,圍裹將來。龐煖下令:「有人擒得張唐者,封以百里之地。」趙軍無不死戰。張唐奮盡平生之勇,不能透出重圍。卻得蒙驁軍到,接應出來,同回都山大寨。慶都知救兵已到,守禦益力。蒙驁等不能取勝,遣張唐往屯留,催取後隊軍兵。 卻說長安君成嶠,年方十七歲,不諳軍務,召樊於期議之。於期素惡不韋納妾盜國之事,請屏去左右,備細與成嶠敘述一遍,言:「今王非先王骨血,惟君乃是適子。文信侯今日以兵權托君,非好意也。恐一旦事洩,君與今王為難,故陽示恩寵,實欲出君於外。文信侯出入宮禁,與王太后宣淫不禁,夫妻父子,聚於一窟,所忌者獨君耳。若蒙驁兵敗無功,將借此以為君罪。輕則削籍,重則刑誅。嬴氏之國,化為呂氏,舉國人皆知其必然,君不可不為之計。」成嶠曰:非足下說明,某不知也。為今計當奈何?」樊於期曰:「今蒙驁兵困於趙,急未能歸,而君手握重兵,若傳檄以宣淫人之罪,明宮闈之詐,臣民誰不願奉適嗣以主社稷者!」成嶠忿然按劍作色曰:「大丈夫死則死耳!寧能屈膝為賈人子下乎?惟將軍善圖之!」樊於期偽向使者言:「大軍即日移營,多致意蒙將軍,用心准備。」使者去後,樊於期草就檄文,略曰: 長安君成嶠布告中外臣民知悉:傳國之義,適統為尊;覆宗之惡,陰謀為甚。文信侯呂不韋者,以陽翟之賈人,窺咸陽之主器。今王政,實非先王之嗣,乃不韋之子也。始以懷娠之妾,巧惑先君,繼以奸生之兒,遂蒙血胤。恃行金為奇策,邀反國為上功。兩君之不壽有繇,是可忍也?三世之大權在握,孰能禦之!朝豈真王,陰已易嬴而為呂;尊居假父,終當以臣而篡君。社稷將危,神人胥怒!某叨為嫡嗣,欲訖天誅。甲冑干戈,載義聲而生色;子孫臣庶,念先德以同驅。檄文到日,磨厲以須,車馬臨時,市肆勿變。 樊於期將檄文四下傳布。秦人多有聞說呂不韋進妾之事者,及見檄內懷娠奸生等語,信其為實,雖然畏文信侯之威,不敢從兵,卻也未免觀望之意。時彗星先見東方,復見北方,又見西方,占者謂國中當有兵起,人心為之搖動。樊於期將屯留附縣丁壯,悉編軍伍,攻下長子壺關,兵勢益盛。張唐知長安君已反,星夜奔往咸陽告變。秦王政見檄文大怒,召尚父呂不韋計議。不韋曰:「長安君年少,不辦為此,此乃樊於期所為也。於期有勇無謀,兵出即當就擒,不必過慮。」乃拜王翦為大將,桓齮王賁為左右先鋒,率軍十萬,往討長安君。 再說蒙驁與龐煖相持,等待長安君接應不到,正疑訝間,接得檄文,如此恁般,大驚曰:「吾與長安君同事,今攻趙無功,而長安君復造反,吾安得無罪?若不反戈以平逆賊,何以自解?」乃傳令班師,將軍馬分為三隊,親自斷後,緩緩而行。龐煖探聽秦軍移動,預選精兵三萬,使扈輒從間道伏於太行山林木深處,囑曰:「蒙驁老將,必親自斷後,待秦兵過且盡,從後邀擊,方保全勝。」蒙驁見前軍徑去無礙,放心前行。一聲砲響,伏兵突出,蒙驁便與扈輒交戰。良久,龐煖兵從後追及,秦兵前去者,已無鬥志,遂大潰。蒙驁身帶重傷,復猶力戰殺數十人,復親射龐煖中其脅,趙軍圍之數重,亂箭射之,矢如蝟毛,可惜秦國一員名將,今日死於太行山之下。龐煖得勝,班師回趙,箭瘡不痊,未幾亦死。此事擱過不提。 再說張唐王翦等兵至屯留,成嶠大懼。樊於期曰:「王子今日乃騎虎之勢,不得復下,況悉三城之兵,不下十五萬,背城一戰,未卜勝負,何懼之有!」乃列陣於城下以待。王翦亦列陣相對,謂樊於期曰:「國家何負於汝,乃誘長安君造逆耶?」樊於期在車上欠身答曰:「秦政乃呂不韋奸生之子,誰不知之?吾等世受國恩,何忍見嬴氏血食為呂氏所奪?長安君先王血胤,所以奉之。將軍若念先王之祀,一同舉義,殺向咸陽,誅淫人,廢偽主,扶立長安君為王,將軍不失封侯之位,同享富貴,豈不美哉。」王翦曰:「太后懷姙十月,而生今王,其為先君所出無疑。汝乃造謗,污衊乘輿,為此滅門之事,尚自巧言虛飾,搖惑軍心。拿住之時,碎屍萬段!」樊於期大怒,瞋目大呼,揮長刀直入秦軍。秦軍見其雄猛,莫不披靡。樊於期左衝右突,如入無人之境。王翦麾軍圍之,凡數次,皆斬將潰圍而出,秦兵損折極多。是日天晚,各自收軍。王翦屯兵於傘蓋山,思想:「樊於期如此驍勇,急切難收,必須以計破之。」乃訪帳下:「何人與長安君相識?」有末將楊端和,乃屯留人,自言:「曾在長安君門下為客。」王翦曰:「我修書一封與汝,汝可送與長安君,勸他早圖歸順,無自取死。」楊端和曰:「小將如何入得城去?」王翦曰:「俟交鋒之時,乘其收軍,汝可效敵軍打扮,混入城中。只看攻城至急,便往見長安君,必然有變。」端和領計。王翦當下修書,緘訖,付與端和自去伺候行事。再召桓齮引一軍攻長子城,王賁引一軍攻壺關城,王翦自攻屯留,三處攻打,使他不能來應。樊於期謂成嶠曰:「今乘其分軍之時,決一勝負。若長子壺關不守,秦兵勢大,更難敵矣。」成嶠年幼畏懦,涕泣言曰:「此事乃將軍倡謀,但憑主裁,勿誤我事。」樊於期抽選精兵萬餘,開門出戰。王翦佯讓一陣,退軍十里,屯於伏龍山。於期得勝入城,楊端和已混入去了。因他原是本城之人,自有親戚收留安歇。不在話下。成嶠問樊於期曰:「王翦軍馬不退如何?」樊於期答曰:「今日交鋒,已挫其銳,明日當悉兵出戰,務要生擒王翦,直入咸陽,扶立王子為君,方遂吾志。」不知勝負如何,且看下回分解。
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