殘唐五代史演義傳第二十五回 晋王、田令孜を取り調べる (晉王勘問田令孜)
要約
僖宗は攻め寄せるのが朱温の人馬とは知らず晋王が反したと思い込んだ。鎮東将軍艾祐が父の仇を報いたいと迎撃を願って総管とされたが、令孜は、艾祐は戦を習わず李存孝には敵し得ないと退け、西祁州へ兵を避け各鎮に檄を飛ばして帝位を取り戻すのが上策だと説き、一同も是とした。
令孜は夜に帝を長安から連れ出し、誰も知らぬまま宝鶏県の南の山に入って守らせたが、朱温の人馬が水も漏らさず囲んだ。令孜は君臣二人だけで知る計だからと妃嬪・群臣を脇門へ退かせ、田竜・田虎に門を守らせた。以後内外は通ぜず飲食を絶たれ、七日飢えた帝は水を乞うたが山に水はないと答えられ、餓え死にすると叫んで死んだ。時に文徳元年夏六月で、外の文武は誰も知らなかった。
李嗣源の報告に激怒した晋王は存孝に五万で賊を討たせた。長安で、帝は令孜に連れ出され軍民は晋王の兵が反いたと言うと聞き、存孝は朱温と令孜の通謀だと見た。晋王は嗣源に一万で長安を守らせ、存孝と四万で西祁州へ向かった。宝鶏山では尚譲が午まで退かなかったが、晋王が鉄騎三千で東北へ回り、存孝の追い討ちで梁兵は敗走し、朱温は汴梁へ逃げ帰った。
令孜が轅門で旨を待てと言い渡し、諸将は五里退いて晋王と存孝だけが帳外に残った。令孜は田竜・田虎に、父子は素手だから晋王を捕らえよと命じたが、存孝は鎧も着けずに馬に乗り、田竜を掴んで山下へ投げ落として死なせ、田虎をその槍で突き落とした。李琦が大宝を献じ、妃嬪を率いて拝して訴え、晋王は初めて帝の崩御を知って慟哭し、令孜を訊問した。
令孜は、朱温の兵を引き入れて汝が反いたと偽り、実は唐の天下を奪おうとしたのだと言い放つ。打たれ舌を割かれかけて自供し、朱温の贈った金玉宝物を受けたが奏は容れられず閑田と空き家しか賜られなかったので、旨を偽って朱温を大梁王に封じ、晋王の兵が反いたと称して内応外合し、駕を宝鶏山で七日餓死させたと述べ、階に身を打ちつけて死んだ。晋王はその四肢を四つに分けさせた。
晋王は僖宗の喪を発せしめ、納棺しながら柩を長安へ還し、李嗣源が郭外三十里で迎えて偏殿に安置した。太子少保の孔緯が剣を抜いて太子を即位させよと宣し、百官はその日のうちに即位させ、竜紀元年と改元して昭宗皇帝と号した。劉崇望を同平章事に封じ、晋王には黄金万両・蜀錦百匹を加賜し、晋王は兵を太原へ返した。
滄州節度使王鐸の帰路が汴梁城外の脱泥崗にかかると知った朱温は誅そうとしたが、楊彦洪は名分を失うと止め、王鐸の娘如翠を酒宴で世子の妻に求め、承知すれば精兵十万・猛将千員が力を尽くし、承知せねば剣で脅せば従うと計を述べた。
現代語訳全文
艾祐の出陣志願
僖宗は晋王がまことに反したと思い込み、攻め寄せているのが朱温の人馬だとは知らなかった。大軍が覇陵川に至り、もはや間近だから急ぎ防げという急報が飛び込む。僖宗は驚いて文武を召し、誰が将となって克用を退けるかと問うた。一人が声を応じて進み出、自分の父は太原で死んだので切歯の仇を常々報いたいと思っていた、今克用が叛いたからには手勢の猛将を率いて迎え撃ちたい、陛下みずから関西の兵を差し向けられよ、上は国家のため下は先人の仇のため、死すとも恨みはないと願い出た。鎮東将軍の艾祐であった。三叉の宝冠に二条の雉の尾、柿紅の戦袍に銀の護心鏡、柳緑の征裙は刺繍の鞍を覆い、魚獺の尾を象った束帯、小連環の護心甲、手には画桿方天戟、金鈴を付けた五色の幡をなびかせた出で立ちであった(詩:艾祐の装束)。
令孜の諫めと帝の長安脱出
帝はその場で艾祐を総管に任じ、軍馬を整えて迎え撃たせることにした。すると令孜が進み出て諫めた。艾祐は将門の子とはいえ戦を習ったことがなく大任は不適である、まして晋王配下の十三太保李存孝は驍勇人に迫り、智勇兼備の者でなければ敵し得ない、と。艾祐は、幼い頃から父に従って兵書を学び用兵の法をよく知っている、なぜ侮るのか、存孝を生け捕りにできなければ誓って兵を返さぬと言い張った。令孜は叱りつけ、存孝がひとたび怒って五鳳楼前まで斬り込んだことを知らぬのか、黄巣の百万の兵ですら敵し得なかったのに、まして汝ごときがと退けた。そのうえで、今の諸将は老いさらばえた懦弱の士ばかりで防ぎきれぬ、ふたたび西祁州へ上っていったん兵を避け、各鎮に檄を飛ばして四方の兵が集まるのを待ち、そこで帝位を取り戻すのが上策だと説いた。一同もその言を是とし、艾祐も口をつぐんだ。そこで田令孜は夜に乗じて帝を長安から連れ出し、宝鶏山へ向かった。従う者はわずか数百人で、内外の宰相・朝臣は誰一人知らなかった。
宝鶏山への籠城
数日行くと、後ろから晋王の軍馬が追ってくるという報が入った。帝は、敵が近い以上、険要の地に陣取って救兵を待たねばならぬと言う。令孜は一行を宝鶏県へ導いた。県の南に広大で険峻な山があり、しばらく身を寄せるによかった。崔嵬として高く聳え、嶺は雲の端に接し、峰は霄漢に連なり、頂は青天を貫く。山脈は起伏して勢いが綿々と続き、沙水は曲がりくねって周囲を巡る。斑々とした苔の翠は色蒼々として、澗を流れる水は叮噹と音を立てる。万木を渡る風の声は虎の嘯くようで、猿が果を捧げ麋鹿が芝を銜え、山の前には百花が明るく咲き、山の後ろには好い鳥の啼き声ばかりが聞こえる。喬松の上には千年の白鶴、深い澗には万年の霊亀がいる。樵夫は斧を執って山の坂に立ち、野老は藜の杖に縋って峻しい嶺を越え、崖は壁のごとく山路は険しい。山の翁は酒を酌んで囲碁を打ち、童子の歌声が耳に喧しい。蓬莱や閬苑も羨むに足らず、ひとたび山中に入れば帰るのを忘れてしまう――そういう仙境めいた山であった(詩:宝鶏山の景)。君臣数人は山中に入り、兵を四方に分けて固く守らせた。令孜は、急ぎ人を遣って各鎮に兵を催促し救援に来させよと進言した。
令孜の人払いと僖宗の餓死
議している最中に喊声が起こり、朱温の人馬が蜂の群れのように押し寄せて周囲を囲み、水も漏らさぬほどになった。帝が高みから望むと、隊伍は整い軍馬は堂々としている。帝が「誰か奇計をもって晋王を退けられるか」と問うと、令孜は、一計はあるが君臣二人だけで知るべきもの、殿下には妃嬪・群臣を率いて左の脇門のほうへ退いていただき、帳中は陛下と臣だけにせねば策は立てられぬ、そして田竜・田虎に剣を持たせて門を守らせ、勝手に入る者は令に違えば斬首とすべしと奏した。僖宗はこれを容れた。こうしてこの賊は帝を宝鶏山中に欺き据え、左右の者はみな令孜の掌中に落ちた。号令がひとたび出ると内外は通ぜず、帝の飲食は絶たれ、膳が運ばれても令孜に奪われた。七日飢えた帝は眼が黄ばみ鼻は黒ずんで半死半生となり、令孜に向かって、昔梁の武帝は台城に囲まれてやむなく蜜水で命をつないだ、どこかに水はないか一口くれと求めた。令孜は、ここは山です、どこに水がありましょうと答えた。帝は山頂に坐し天を仰いで「餓え死にする」と叫び、そのまま地に伏して死んだ。時に文徳元年夏六月であった。
僖宗への評と嘆き
後に宋の孫甫はこう評した。僖宗の人となりは荒淫暴虐で、暗愚な振る舞いが次々と重なり、禍乱も相次いでやまず、民は愁えて盗賊が起こり、もはや支えきれなくなった、これは天も人もともに憤るところであろう、と。静軒先生も、唐末に刀兵が四方に起こり令孜という奸賊が猖獗を極め、僖宗は水を求めて得られぬまま、瞬く間に君臣ともども滅びたと詠じた(詩:君臣並び亡ぶ)。憐れむべし僖宗は七日絶食して餓死したが、外にいた文武は誰も知らなかった。
晋王の出陣と天子の行方
李嗣源が上表しても田令孜がこれを握り潰して取り次がせなかったので、嗣源は戻って晋王にその次第を残らず報告した。晋王は激怒し、李存孝を呼んで五万の兵で賊を討たせた。進軍は一路阻むものなく長安に達したが、守城の兵が、僖宗は田令孜に連れ出されて西祁州へ兵を避けに行かれた、軍民はみな晋王の兵が反いたと言っていると告げた。晋王は驚き、この言はどこから出て天子を外に蒙塵させるに至ったのかと嘆いた。存孝は、これは必ず朱温と令孜が通謀し、こちらの討伐を恐れて偽りを流し進軍の道を断とうとしたもの、急ぎ天子を尋ね当てれば潔白は明らかになると言った。李嗣源は、父王は長安を守られ、自分と存孝が兵を率いて虚実を探ると申し出たが、晋王は、汝は進退緩急を弁えぬ、自分が行くと言い、嗣源に一万を分けて長安を守らせ、自身は存孝と四万を率いて西祁州へ向かった。
宝鶏山の戦いと朱温の敗走
宝鶏山に至ると、朱温は尚譲を出して迎え撃たせた。晋王は存孝と薛阿檀に西南の角から鼓を鳴らして攻め入らせ、尚譲は精鋭を率いて西南で存孝と戦った。辰の刻から午の刻まで梁兵は退かない。そこで晋王は鉄騎三千を自ら率いて東北の角へ回り込み、身を翻して梁兵を斬り立てた。梁兵は西南を捨てて引き返し、存孝が後ろから追い討ちをかけたので梁兵は敗走し、朱温は汴梁城へ逃げ帰った。
田竜・田虎の襲撃と存孝の迎撃
田令孜は声を励まし、天子は帳内におられるから騒ぐな、轅門の外で旨を待ってから入見を許すと言い渡した。諸将は五里退き、晋王と存孝だけが帳外に控えた。令孜は帳内に入ると密かに田竜・田虎を呼び、出て晋王を捕らえよと命じた。田竜が、存孝が側にいるのにどうして近づけようかと渋ると、令孜は、あの父子はここへ来るのに必ず下着のままの軽装で、素手だから何もできぬと言う。二将は喜んで甲冑を着けて出た。存孝が振り返ると果たして一隊の人馬が来る。怒った存孝は鎧を着ける間もなく身を翻して馬に乗った。田竜は存孝が手に武器を持たぬのを見ると、物も言わず槍で突きかかったが、存孝は槍を払いのけ、片手で田竜を馬上から掴み取り、山下へ投げ落として死なせた。田虎が刀を振るって斬りかかると、存孝は田竜の槍を拾い、一突きで馬から突き落とした。
李琦の哀願と帝崩の露見
敗兵が営に駆け込み、田竜は投げ殺され田虎は槍で落とされたと報じた。李琦は声を上げて泣き、慌てて群臣と相談した。群臣は、殿下泣かれるな、八般の大宝を献上して晋王に哀願し、母子の身を落ち着ける場所を乞うのが上策だと勧めた。李琦は群臣・妃嬪・采女を率いて営を出て拝し、皇伯にあたるあなたは帝室の血筋でありながら、なぜこのように反かれたのかと訴えた。晋王は驚いて仔細を問い、李琦が事の次第を残らず語った。晋王は初めて帝の崩御を知って激しく慟哭し、この賊の罪は誅しても足りぬと言い、令孜を捕らえて訊問させた。
令孜の自供と処刑
晋王が、誰が汝に我を謀反したと奏させたのかと問うと、令孜は禍が身に及んで死を免れぬと悟り、声を張り上げて、天が我に朱温の兵を引き入れさせ、汝が反いたと偽らせた、実は唐の天下を奪おうとしたのだ、今日事が露れたのは天が我を敗ったのだと言い放った。晋王は激怒し、令孜の身に針を立てる隙間もないほど打たせた。さらに舌を割かせようとすると、令孜は、舌は割かないでくれ、もう堪えられぬから正直に申すと言って自供した。朱温が高い爵位を求め、尚譲・斉克譲の二将を使いに立てて金玉宝物を自分のもとへ贈ってよこした、その賄賂を受け取ったうえで翌日主上に奏したが容れられず、朱温には閑田三百頃と空き家三百間が賜られただけだった、旨意が下りたとき自分が不都合にも旨を偽って朱温を大梁王に封じ、あなたさまの兵が反いたと称して互いに内応外合し、駕を長安から連れ出して宝鶏山に避けさせ、七日水も食も与えずに餓死させた、これらはみな自分の仕業であると。言い終えると階に身を打ちつけて死んだ。晋王は軍士に命じて令孜の四肢を四つに分けさせた。後人は、謀反はならず禍はすでに明らかとなった、千の刀で肉を削ぎ落として八つ裂きにしても恨みは消えぬ、昔から宦者は権勢を握るものだが天網は恢恢として赦しはしないと詠じ(詩:天網恢恢)、逸狂もまた、閹宦を寵任しすぎるな、威権さえ与えなければ彼らに何ができよう、君たる者はこれを鑑として警戒せよ、奸謀に陥れば禍は多いと詠じた(詩:閹宦を戒む)。
僖宗の葬送と昭宗の即位
令孜が死ぬと、晋王は文武に僖宗の喪を発せしめ、柩を長安へ還した。百官は哀しみ慟哭してやまない。時節は暑く聖体はすでに傷んでいたので、納棺を済ませながら道を進んだ。長安にいた李嗣源は帝の崩御を聞き、大小の官員を率いて郭外三十里まで出迎え、道に伏して柩を城へ迎え入れ、偏殿に安置して喪服を着け哀を挙げた。そのとき列中から一人が進み出た。冀州の人、姓は孔、名は緯、字は世文、現に太子少保である。孔緯は、聖上すでに崩じ太子が側におられる、このままでは互いに変が生じ、変が生ずれば社稷が危うい、今こそ太子を宝位に即けて衆心を安んずべしと述べ、剣を抜いて、みだりな言を吐く者があれば袍を割って令とすると宣した。百官は太子を擁して殿に上げ、その日のうちに即位させた。竜紀元年と改元し、昭宗皇帝と号した。大小の官員の拝賀が終わると、劉崇望を同平章事に封じ、晋王には黄金万両・蜀錦百匹を加賜した。晋王は謝恩して退朝し、兵を太原へ返した。この時、天下の諸侯は一つには朝賀のため、二つには帝の喪のため、みな長安に集まった。
王鐸の娘をめぐる楊彦洪の計
話は転じて、滄州節度使の王鐸が朝を退いて帰る途中、汴梁城外の脱泥崗を通った。これを知った朱温は驚き、王鐸は世の豪傑で今や滄海の軍馬を総督し、必ず精鋭を鍛えているから我が大患となる、先手を打って兵を率いここで誅すべきだと言った。楊彦洪はこれを止め、大王はまさに事を挙げようというのに、罪なき者を一人殺せば出兵に名分がなく天下の議論を招くと諫め、王鐸を味方に付ける計があると述べた。その計はこうである。王鐸には如翠という娘があり、たいそう美しく、年は幼いが嫁がせられる。城内に招いて酒宴の席で如翠を世子の妻にと求める。王鐸が承知すれば、彼の精兵十万・猛将千員は、晋王と戦になったとき必ず力を尽くして助けてくれる。もし承知せねばその場で剣を抜いて脅せば、大王の勢いを畏れて心も従うであろう、と。この先がどうなるかは、次回に語られる。
王鐸が朝から帰る道が汴梁にかかり、朱温は王の兵を損なおうと企てたが、彦洪は人の嘲りを恐れて脅しの計を立てた、その心はいずれにせよ良からぬものだと詠ずる(詩:計挟の不良)。
評語
卓吾子曰く、権勢を弄する奸臣はどの時代にもいるが、田令孜ほど僖宗を宝鶏山中で餓死させるに至った者はいない。寵任する相手を誤るという過ちは朝廷に限らず家庭にもあることで、鑑とせねばならない。
原文(底本)
當時,僖宗疑晉王實反,不知是朱溫人馬殺來。飛報大兵至霸陵川,今已至近,速為拒敵。僖宗大驚,急聚文武商議曰:「誰可為將?以退克用。」忽一人應聲出曰:「臣父死於太原,切齒之仇,常欲報之,今克用作叛,臣當引本部猛將迎敵,乞陛下親撥關西之兵,上為國家出力,下為先人復仇,死無遺恨。」視之,乃鎮東將軍艾祐也。怎生打扮,但見: 三叉寶冠光燦爛,兩條雉尾錦斕斑,柿紅戰襖遮銀鏡,柳綠征裙壓繡鞍,束帶雙跨魚獺尾,護心甲掛小連環,手持畫桿方天戟,飄動金鈴五色幡。 帝即命艾祐為總管,調理軍馬,前去迎敵。令孜出班諫曰:「艾祐雖將門之子,素不曾習戰,今付以大任,非所宜也。更兼晉王部下十三太保李存孝驍勇逼人,非智勇兼全者,不可與敵。」艾祐曰:「吾自幼從父習學兵書,深知用兵之法,何為期我?若不生擒存孝,誓不回兵!」令孜叱曰:「豈不聞存孝一怒,直殺至五鳳樓前!黃巢百萬之兵,尚且不敢迎敵,何況你乎?今日諸將老邁,皆懦弱之士,難以拒敵,不如復上西祁州,暫且避兵,發檄各鎮,待四方兵至,謀復大位,此為上策。」眾皆曰:「斯言是也!」艾祐亦不敢言,於是田令孜乘夜劫帝出了長安,逕奔寶雞山而去,從者只數百人,內外宰相朝臣,一無知者。 卻說帝與令孜,行了數日,人報後面晉王軍馬趕來。帝曰:「人馬將近,必得險要屯駐,以待救兵。令孜聽帝之言,引至一縣,名曰寶雞縣,縣南有一山,極其廣峻,周圍廣闊,可以暫祝但見那寶雞山: 崔嵬高聳,嶺接雲端。峰連霄漢,頂透青天。來龍起伏勢綿綿,沙水繞圍形曲曲。斑斑蘇翠色蒼蒼,澗中流水響叮噹。萬木風聲如虎嘯,只見猿猴擎果,麋鹿銜芝。山前時見百花明,山後只聞啼好鳥。喬松上,千年白鶴;深澗內,萬載靈龜。樵夫執斧站山坡,野老扶藜過峻嶺。山崖如壁,山路崎嶇。山翁飲酒弈圍棋,童子歌聲猶聒耳。何足羨,蓬萊閬苑;入山中,竟欲忘歸。 君臣數人,走入山中,分兵四下緊守。帝與令孜商議,令孜曰:「町速遣人,各鎮催兵,急來救護。」正議間,忽聞喊聲大振,朱溫人馬到來,勢如蜂湧,周回圍繞,水泄不通。帝登高阜望之,軍兵隊伍,分佈整齊,軍馬雄偉。帝曰:「誰有奇計,退了晉王?」令孜曰:「臣有一計,只可君臣二人共知,須著殿下領媳嬪群臣左掖下迴避,帳中只留陛下與臣,方好定計。再喚田龍、田虎,仗劍守門,不許一人擅進,如違吾令,斬首示眾。」僖宗聞奏從之。原來此賊哄德宗在寶雞山中,左右之人,皆在令孜掌握。號令一出,內外不通,帝之飲食盡絕,雖有進膳,皆被令孜所奪。帝餓了七日,眼黃鼻黑,半死半活,乃呼曰:「令孜愛卿,昔日梁武帝困於臺城,不得已,將密水度命,何處有水,尋一口與我度命?」令孜曰:「此乃是山,何處尋水?」帝坐山頂,仰天叫曰:「餓死我也!」隨伏地而死,時文德元年,夏六月也。 後宋孫甫評云: 僖宗為人,荒淫暴虐,昏庸相繼,禍亂相仍,民愁盜起,不可復支,蓋亦天人之所共憤歟! 靜軒先生詩云: 唐末刀兵起四方,令孜奸賊太猖狂, 僖宗思水無由得,瞬息君臣而並亡。 可憐僖宗,七日絕食,遂餓而死,外面文武,並無知者。 卻說李嗣源上表,被令孜匿之,不與遞奏,回見晉王,具言其事,晉王大怒,急喚李存孝,領兵五萬討賊,發兵前來,一路並無阻礙,直抵長安。忽守城兵報說:「僖宗主上,被田令孜拐上西祁州避兵去了。軍民皆說,晉王兵反。」晉王聽得此言,吃了一驚。歎曰:「此語從何況來,使天子蒙塵於外乎?」存孝曰:「此必朱溫逆賊與令孜通謀,恐吾兵擊之,假設此言,以絕征進之路也!急當尋見天子,方得明白。」李嗣源曰:「父王守定長安,兒與存孝,引兵探聽虛實。」晉王曰:「汝不識進退緩急,吾必親自去之。」於是,分兵一萬與嗣源守長安,自與存孝領兵四萬,直上西祁州去。 比及前至寶雞山,朱溫遣尚讓前來迎戰。晉王遣存孝、薛阿檀,自西南角上鳴鼓大進。尚讓盡帥精銳之眾,前來西南角與存孝交戰。從辰至午,梁兵不退。晉王自取鐵騎三千,逕取東北角上,翻身殺梁兵,梁兵棄西南而回,存孝從後面趕殺,梁兵敗走,朱溫引兵奔還汴梁城去。田令孜厲聲喝曰:「天子已在帳內,汝眾不得喧嚷,只在轅門外等旨,方許入見。」於是,眾將皆退在五里之地,惟晉王、存孝侍立帳外,只見令孜走入帳內,密喚田龍、田虎,出擒晉王。田龍曰:「存孝在彼,安敢近之?」令孜曰:「他父子此來,必素體絨裝,空拳赤手,無能為也!」二將欣然披掛而出。存孝回頭,果見一彪人馬到來,存孝大怒,披掛不迭,翻身上馬。田龍到來,見存孝手無兵器,更不打話,挺槍直取存孝,存孝逼開槍,把田龍一手抓過馬來,望山下一摔而死。田虎輪刀便砍,被存孝拾田龍槍,一槍挑下馬去。 敗兵進營,報說摔死了田龍,槍挑下田虎,李琦聽了,放聲大哭,慌與眾臣商議。眾臣曰:「殿下勿哭,可將八般大寶出獻,哀告晉王,討一去處,與你母子安身,此上計也。」李琦遂領眾臣妃嬪采女,拜出營來,告晉王曰:「皇伯乃帝室之冑,何故如此反乎?」晉王失驚,問其故,李琦歷言備細。晉王始知帝崩,大慟曰:「此賊罪不容誅!」即令擒令孜來問? 晉王曰:「誰使你奏吾反?」令孜知禍已臨身,死必難免,乃厲聲言曰:「天使我引朱溫兵來,詐言汝反,實欲謀唐天下,今日事泄,乃天敗之也!」晉王大怒,責打令孜身上無容針處。 晉王又令割其舌,令孜曰:「勿割吾舌,吾今熬不過了,只得從實告之。當日朱溫欲求高爵,使尚讓、齊克讓二將,資金玉寶物送我,我次日即奏主上,主上不從,只賜溫閒田三百頃,空房三百間,旨意下來,是我不合,假傳旨意,封溫為大梁王,假稱大王兵反,彼此裡應外合,遂拐駕出了長安,避兵於寶雞山,七日不沾水米,遂餓而死。只此數事,皆吾所為。」言訖,便觸階而死。晉王命軍士,將令孜四肢,分為四段。後人看到此處,有詩歎曰: 謀逆無成禍已昭,千刀萬剮恨難消, 從來宦者皆權勢,天網恢恢豈肯饒。 逸狂詩云: 閹宦休教寵任過,威權不與奈如何, 君人鑒此當警惕,若墮奸謀禍必多。 卻說令孜已死,晉王命文武發僖宗喪,柩還長安,百官哀慟不已。時天氣暄熱,聖體已是壞了,一面殯殮,一面啟行。 時李嗣源在長安,聞帝已崩,率大小官員,出郭三十里,伏道迎柩入城,停於偏殿,掛孝舉哀。忽班中一人出稟,此人乃冀州人也,姓孔名緯字世文,現為太子少保。緯曰:「聖上已崩,太子在側,彼此生變,彼此既變,則社稷將危矣!今太子宜登寶位,以安眾心!」掣劍在手曰:「敢有亂言者,割袍為令!」百官擁太子上殿,即日登位,改元為龍紀元年,稱號為昭宗皇帝。大小官員,拜賀已畢,封劉崇望同平章事,加賜晉王黃金萬兩,蜀錦百匹。晉王謝恩出朝,兵還太原。是時,天下諸侯,一為朝賀,二為帝喪,皆至長安。 話分兩頭,卻說滄州節度使王鐸,朝罷而歸,路經汴梁城外脫泥崗過,早有人報知朱溫。溫大驚曰:「王鐸世之豪傑,今已總督滄海軍馬,必然訓練精銳,為吾之大患也。可宜先帥兵,就此誅之!」楊彥洪曰:「不可!大王正欲舉事,戮一無辜,兵出無名,惹天下人議論。某有一計,使王鐸相助大王。」朱溫問曰:「妙計若何?」彥洪曰:「某聞王鐸生有一女,名曰如翠,極有姿色,雖年幼亦可適人,令人請入城來,飲酒中間,求翠與世子為妻,若王鐸肯許,彼有精兵十萬,猛將千員,便與晉王交兵,必來奮力相助;若王鐸不許此親,即拔劍挾之,必懼大王之勢,心亦自順矣!」欲知後事如休,且看下回分解。 逸狂詩云: 王鐸回朝過汴梁,朱溫意欲王兵傷, 彥洪恐惹人非笑,計挾存心總不良。 卓吾子評: 權奸之臣,何代無之,未有如令孜之致僖宗餓死於寶雞山中,寵任得非其人,不特朝端,即家庭有之,不可不鑒!
訳文の誤りにお気づきの場合はお問い合わせからお知らせください。