殘唐五代史演義傳第五十一回 晋の兵、計略で王延政を追い詰める (晉兵智困王延政)

要約

閩では王潮の没後に弟の審知が閩王となったが、跡継ぎの延翰は兄弟を滅ぼして延稟に弑され、次の延鈞は李仿に、福王昶も叔父の曦に弑された。曦は驕り淫らで、諌めた建州刺史の王延政と兵を交え、閩粵の間は骨が野に満ちた。曦の立って二十一年、指揮使の朱文進が曦を弑して立つと、閩の人々は文進を討って首を建州へ送った。

延政は自ら帝を称して国号を殷とした。平章事の潘承祐は、兄弟の攻め合い、重賦と力役、徴兵の怨み、楊思恭の収奪、官吏の増置、臨汀攻めの隙、資財の取り立て、果菜魚米への課税、隣国との絶交、宮室と酒色の十か条を陳べたが、延政は怒って官爵を削った。晋に背くのは不忠だと諌めた参軍の雷友金も斬らせ、苟琳・虞淳を先鋒に八閩の軍馬十五万を起こした。

晋王に召された劉知遠は馬歩軍五万で足りると奏し、柴研を正先鋒、石燉を副として南へ向かった。越王が董銓・周麟に二万五千を授けて救わせると柴研が破り、越兵は十五里退いた。延政も自ら二万を率い晁鏜が挑戦した。知遠は、越兵は利を図るという張会の言に従い陳燧・李援を葉坊に伏せ、田芳の弱兵一万で誘い、晋兵が乱れたところで伏兵が出て延政は大敗し建州城へ逃げた。

知遠は張会の策で南門を空け三門だけを攻め、土城を築いて長期戦の構えを示した。城中は糧が尽きて人が食い合い、延政が宰相の謝甫に降を乞わせると知遠は怒って斬り首を送り返した。その夜二更、延政は百騎で南門を出たが砲声とともに知遠らが現れ、荒れ野へ回れば陳燧・李援と田芳が固め、縛に就いた。晋兵は入城して一族七十余人を誅殺し、民を安んじ三軍に賞して八閩は平定された。延政は洛陽で赦されて羽林将軍に封じられた。卓吾子は、道に背いた延政を知遠が一鼓で擒にし東南も安らかになったと評した。

現代語訳全文

閩の王氏の内訌

  • 王審知は光州固始の人で、王潮の弟である。唐の昭宗のとき、閩を占めていた王潮が没し、弟の審知が閩王に封じられた。審知は延翰を跡継ぎに立てたが、延翰は驕り残虐で兄弟を暴虐に滅ぼし、審知の養子の延稟に弑された。
  • 延稟は、弑された延翰の弟にあたる延鈞を立て、名を璘と改めさせたが、璘もまた臣下の李仿に弑され、李仿は福王の昶を帝に立てた。数か月も経たぬうちに、昶は叔父の曦に弑された。
  • 曦は位に即くと驕り淫らで苛酷になり、建州刺史の王延政がたびたび書を上げて諌めたことから、兄弟は互いに猜疑を積み重ね、兵を整えて攻め合い、勝敗は一定せず、閩粵の間では野に骨が満ちた。曦が立って二十一年、指揮使の朱文進が謀って曦を弑し自ら立ったが、閩の人々はともに文進を討ち殺し、その首を建州へ送った。

王延政の即位と潘承祐の十事の諌め

  • ここに至って延政は自ら帝を称し、国号を殷とした。平章事の潘承祐が書を上げて十か条を陳べた。その大旨は次のとおりである。
  • 第一に、兄弟が攻め合って天理を滅ぼしていること。
  • 第二に、賦斂が重く、力役に節度がないこと。
  • 第三に、民を徴発して兵とし、旅先に留め置かれた者たちが愁え怨んでいること。
  • 第四に、楊思恭が人の衣食を奪い、その怨みを主上に帰させていること。
  • 第五に、領土は狭いのに州県を多く置き、官吏を増やして民を苦しめていること。
  • 第六に、これから臨汀を攻めようというのに、金陵・銭唐が手薄に乗じて襲いかかってくることを憂えていないこと。
  • 第七に、民の資財を取り立て、逃亡した者を刑に処していること。
  • 第八に、果物・野菜・魚・米の利にまで税を課していること。
  • 第九に、即位以来、隣国と徳義を通じたことがないこと。
  • 第十に、宮室の造営に限度がなく、酒色に荒み耽っていること。
  • 殷主の延政は大いに怒り、承祐の官爵を削り取った。
  • 参軍の雷友金が諌めて言った。「晋は主公に重い爵を加えて封じ、辺隅の鎮守をお任せになり、銭糧も徴しておりません。今もしこれに背くようなことがあれば、はなはだしい不忠でございます。そのうえ劉知遠は用兵に長け、威は華夏に振るい、かつて唐の兵ですらこれを恐れたほどでした。まして主公におかれてはなおさらでございましょう。」延政は激怒し、友金を引き出させて斬らせた。
  • そして大将の苟琳・虞淳を先鋒とし、八閩の軍馬を起こして合わせて十五万を得、進路の各地で火を放ち略奪を働いた。

劉知遠の出征

  • 晋王はこれを聞き、ただちに劉知遠を洛陽に召して起兵を協議させた。このとき劉知遠は長安におり、夜を日に継いで洛陽へ駆けつけ君に拝謁した。
  • 晋王は言った。「遠路わざわざ将軍を召し返したのは、他でもない。今、王延政が義に背いて謀反した以上、誅さぬわけにはいかぬ。」知遠は「臣の部下の馬歩軍五万で、王延政を破るのに十分でございます」と奏上した。
  • 知遠は柴研を正先鋒、石燉を副先鋒に挙げた。晋王は城外まで遠く見送り、大軍は南へ向かった。旌旗は日を覆い、鉦太鼓は天に響き、建州めざして殺到した。

越兵の来援と緒戦

  • 物見の早馬が王延政に飛報すると、延政はいささか怯えた顔色を見せた。すぐ人を遣って呉越に救援を求めると、越王はまず董銓を先鋒、周麟をその副として、本部の軍二万五千を率いて迎撃に向かわせた。
  • 晋軍からは柴研が馬を出し、董銓と刃を交えたが、十合と戦わぬうちに董銓は槍を引きずって敗走した。周麟が代わって出て戦ったものの支えきれず、これも馬首を返して逃げた。晋兵は押し包んで斬り立てながら前進し、越兵は大敗して十五里も退いた。
  • 小卒が建州に報じると、王延政は自ら二万の人馬を率いて出陣した。延政は「誰か馬を出して戦いを挑む者はいるか」と問うと、部下の一将で姓は晁、名は鏜という者が声に応じて進み出て、晋兵の陣前へ出て挑戦した。

誘い出しての大破

  • 劉知遠は帳中で、王延政が越兵と合して大戦を決しようとしていると聞き、諸将を集めて協議した。張会が進み出て「越兵が王延政を救うのは、実は利を図ってのことです」と述べると、知遠は「その言、まことによろしい」と応じた。
  • そこで副将の陳燧・李援に二軍を与えて葉坊に伏せさせ、柴研・石燉には精兵をすべて伏せて後詰めとさせた。まず弱兵一万を割き、偏将の田芳に率いさせて前に出し敵を誘わせ、陣の後ろには牛馬・輜重や軍に賞するための品々を多く載せて、四方に集めておいた。
  • その日、王延政は軍中にあり、晁鏜が左、董銓が右につき、三軍はいっさい問答もしなかった。田芳の軍馬はみな弱兵で持ちこたえられず、敵の勢いを見ただけで逃げ出した。三方から押し包んで斬り立てられ、晋兵は大いに乱れた。
  • そこで号砲が上がり、陳燧・李援が二軍をそろえて躍り出、続いて柴研・石燉が精兵を大いに率いて飛ぶように駆けつけ、その勢いは山が倒れるようであった。劉知遠も後から軍を率いて斬り込んだ。王延政は大敗して建州城へ逃げ込んだ。

三面攻囲の計

  • 劉知遠は軍士に四面を囲ませ、力を合わせて攻めさせた。このとき越兵は剣潭に退き、晋兵は建邑に屯していた。
  • 張会は言った。「今、延政は敗れたとはいえ、城内の軍士は籠もって出ません。さらに越兵も剣潭に屯して、城と呼応し我が軍を内外から挟み撃つ構えをとっております。もし四面から攻め立てすぎれば、賊は必ず城を開いて死に物狂いで戦いましょう。そこへ越兵が来れば内外から挟み撃たれ、我が軍に利はありません。それよりも三面だけを攻め、南門は賊が逃げ出せるように空けておき、逃げるところを撃てば、完勝できましょう。」
  • 知遠は「まことに妙算である」と応じ、柴研に命じて南門の兵を撤退させ、東・西・北の三門だけを攻めさせ、それぞれ低い土城を築いて長期戦の構えを示した。

謝甫の降伏使と斬首

  • 晋兵の囲みが長く続き、建州城中は糧が尽きて人が互いに食い合うありさまとなり、人々は王延政を殺そうとした。延政は慌てて、宰相の謝甫を遣わして城を献じ降を乞わせた。
  • 謝甫が晋営に来ると、知遠は「お前は何をしに来たのか」と問うた。謝甫は「どうか将軍、しばらく兵を三十里お退けください。さすれば我が君臣は自ら身を縛って降ります」と答えた。
  • 知遠は大いに怒って「反賊の分際で、よくも吾を軽んじたな」と言い、左右を叱って引き出させて斬らせ、その首級を従者に渡して王延政のもとへ送り返させた。延政は謝甫が斬られたのを見て心中大いに驚き、文武の臣とともに逃げ出す相談をした。

延政の脱出と生け捕り

  • その夜の二更、延政は百騎を連れて南門を開いて逃げた。あたりはひっそりとして兵の姿も見えず、延政は内心ひそかに喜んだ。しかし五更にもならぬうちに、山の上で砲声が一発響き、真っ先の一軍が展開した。
  • 中軍には劉知遠、左に柴研、右に石燉が控え、「反賊、逃がさぬぞ」と大喝した。王延政は伏兵があると見て荒れ野へ馬を回したが、背後からも喊声が近づいてくる。左には陳燧、右には李援、さらに田芳の軍馬が加わって四面を固めていた。王延政は馬を下りて縛に就いた。
  • 晋兵はことごとく入城し、延政の一族七十余人を誅殺した。そして榜を出して民を安んじ、諸官に地を分けて守らせ、三軍に賞を与え、八閩はすべて平定された。
  • 延政は縛られて洛陽に送られ君前に引き出されたが、晋王はこれを赦し、延政を羽林将軍に封じ、命を奉じて指図に従うようにさせ、あらためて三軍に賞を与えた。
  • そこへ流星のごとき物見の早馬が「辺関、急を告げる」と飛報してきた。どこの兵馬が攻め入ってきたのかは、次回を見られたい。

評語

卓吾子の評。八閩の君位は子や臣に弑され奪われ続け、ついに王延政が自ら尊んで帝を称し、倨傲で道に背いたが、知遠が出師して一鼓のうちに擒にした。これで東南の一隅も安らかな住まいを得たのである。

原文(底本)
卻說王審知,乃光州固始人,王潮之弟也。唐昭宗時,王潮據閩已卒,弟審知封為閩王,審知立延翰為嗣。延翰驕殘,暴滅兄弟,被審知養子延稟弒之,而立其弟延鈞,更名曰璘,璘又被其臣李仿所弒,而立福王昶為帝,未及數月,昶又為叔曦所弒。曦既立,驕淫苛虐,建州刺史王延政數以書諫之,於是兄弟積相猜忌,治兵相攻,互有勝負,閩粵之間,暴骨盈野,曦立方二十一年,指揮使朱文進謀弒之,而自立,閩人共討殺文進,傳首建州。

  至是,延政乃自稱帝,國號曰殷。有平章事潘承祐上書陳十事,大旨言兄弟相攻,蕩滅天理,一也。賦斂繁重,力役無節,二也。發民為兵,羈旅愁怨,三也。楊思恭奪人衣食,使怨歸於上,四也。疆土狹隘,多置州縣,增吏困民,五也。將攻臨汀,不憂金陵、錢唐乘虛相襲,六也。括民資財,逋逃者被刑,七也。征果菜魚米利,八也。即位未嘗與鄰通德,九也。

  宮室無度,荒淫酒色,十也。殷主延政大怒,削去承祐官爵。

  參軍雷友金諫曰:「晉以重爵加封主公,又令鎮守邊隅,不征錢糧,今若反背,深為不忠,加之劉知遠善能用兵,威振華夏,當初唐兵尤自懼之,況主公乎?」延政大怒,將友金推出斬之。

  乃令大將苟琳、虞淳為先鋒,起八閩軍馬,共得十五萬,於路放火搶劫。

  晉王聞之,即宣劉知遠至洛陽商議起兵。此時,劉知遠在長安,星夜赴洛陽面君。晉王曰:「遠宣將軍還朝,別無他事,今王延政負義謀反,不可不誅。」知遠奏曰:「臣部下馬步軍五萬,足可破王延政矣!」知遠舉柴研為正先鋒,石燉為副先鋒。晉王遠送出城,大隊人馬南行,只見旌旗掩日,金鼓喧天,殺奔建州而來。

  卻說哨馬飛報王延政,延政略有懼色。即差人求救於吳越,越王先差董銓為先鋒,周麟副之,引本部軍二萬五千,前來迎敵。晉軍中柴研出馬,與董拴交鋒,戰不十合,銓拖槍敗走,周麟出馬接戰,抵敵不過,亦撥馬而走。晉兵掩殺前來,越兵大敗,退走十五里。小卒報入建州,王延政親自引二萬人馬出陣。延政曰:「誰敢出馬搦戰?」只見部下一將,姓晁名鏜,應聲而出,前來晉兵營前搦戰。

  劉知遠在帳中聽知王延政會合越兵,來決大戰,乃聚眾將商議。張會進曰:「越兵救王延政者,實圖利也。」知遠曰:「此言甚善!」遂喚副將陳燧、李援引兩軍去葉坊埋伏,卻令柴研、石燉盡伏精兵為後應,先撥一萬弱兵,令偏將田芳提領前去誘敵,陣後多載牛馬輜重及賞軍之物,四面聚集。當日,王延政在軍中,晁鏜在左,董銓在右,三軍更不答話。田芳軍馬皆弱,抵敵不住,望風便走,三路掩殺,晉兵大亂,放起號炮,陳燧、李援引得兩軍齊出,隨後柴研、石燉大率精兵飛奔而來,勢如山倒,劉知遠隨後亦引軍殺至。王延政大敗,奔入建州城。

  劉知遠令軍士四面圍定,並力攻打。此時,越兵退於劍潭,晉兵屯於建邑。張會曰:「今延政雖敗,城內軍士屯住不出,更有越兵屯在劍潭,為犄角之勢,若四面攻打太急,賊必開城死戰矣!越兵若來,內外夾攻,吾軍必不獲利。不如只攻三面,容南門與賊出走,走而擊之,可全勝矣!」知遠曰:「真妙算也!」於是,命柴研撤退南門之兵,只攻東西北三門,各築低土城,示為久計。

  卻說晉兵攻圍日久,建州城中糧盡,人皆相食,眾欲殺王延政。延政驚慌,即使其相謝甫獻城投降。謝甫來到晉營,知遠問曰:「汝來欲何為也?」謝甫告曰:「請將軍權退兵三十里,君臣當自縛而降。」知遠大怒曰:「反賊輒敢輕吾!」叱左右推出斬之,將首級付與從者,發回見王延政。延政見斬了謝甫,心中大驚,與文武共議出奔。

  是夜二更,帶百騎開南門而走。只見悄無兵土,延政心中暗喜。行不到五更,山頭上一聲炮響,當先一軍擺開。中軍劉知遠,左柴研,右石燉,大喝:「反賊休走!」王延政見有埋伏,落荒回馬,後面喊聲又近,左有陳燧,右有李援,更兼田芳軍馬,四面圍定。王延政下馬受縛,晉兵盡已入城,誅殺延政宗黨七十餘人。於是,出榜安民,令眾官分地把守,賞犒三軍,八閩悉平。將延政捆赴洛陽面君,晉王赦之,封延政為羽林將軍,奉命聽調,復又賞犒三軍不提。卻說流星探馬飛報:「邊關告急!」不知何處兵馬入寇?且聽下回分解。

  卓吾子評:

  八閩君位,子臣弒奪,至王延政自尊稱帝,倨傲悖逆,被知遠出師一鼓而擒,東南一隅,得有寧宇。

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