殘唐五代史演義傳第五十六回 斉王重貴を立てて帝とする (立齊王重貴為帝)

要約

晋王の没後、馮道・景延広が輔政して斉王重貴を立て開運と改元した。太子重睿は宮中に養われたまま、晋王に高祖皇帝と諡して顕陵に葬り、張氏を皇太后とした。劉知遠は晋陽に出鎮していた。

景延広は、喪は告げるが契丹に臣と称さぬと議った。怒った契丹王へ、囚われて脱出した使者が、新君は中国が立てたもので戦うなら十万の横磨の刀剣が待つと延広が言ったと告げた。契丹王は河を渡り、太原の知遠を恐れて偉王に李得・樊彪を添え五万で太原を攻めさせ、自らは十五万で長安へ進んだ。

太原では郭威が樊彪を刺し殺し、李得も史弘肇が斬り、郭威が遼帥の総営に火を放つと遼兵は乱れ、偉王も郭威の矛に刺し殺された。契丹主は趙延寿の勧めで耿雍を柳河川に屯させて太原の兵を防ぎ、自らは貝州を囲んだ。出戦した呉巒は城に斬り込まれ井戸に投身し、契丹主は済陽へ移った。

幼主は具州陥落に驚き、杜威が李谷・張英と十万で済陽に営した。杜威は李谷の火計を用いず戦い、大風が晋軍の旗を倒す中、李谷は趙延朗に捕らえられ張英は趙延寿に打ち殺され、杜威は降った。契丹主は李谷を許し長安の三十里手前に陣した。幼主は、延広の首を献じ臣と称せという李崧の奏に従わず翠雲楼に火を放って身を投じたが救われた。卓吾子は、晋主は驕奢を極め馮玉が権を弄んで朝政は壊れ、入寇にも鶯を調えていた、桑維翰は晋氏の滅亡を見抜いたと評した。

現代語訳全文

斉王重貴の即位

  • この日、晋王は正殿で世を去り、馮道・景延広の二人が輔政して、ただちに斉王重貴を帝に立て、開運と改元した。
  • 太子重睿は宮中で養われたままであった。新君が立ってのち、晋王に高祖皇帝と諡を贈り、張氏を皇太后と尊び、高祖を顕陵に葬った。
  • このとき劉知遠は晋陽に出鎮していた。

契丹との断交と入寇

  • 晋の高祖は即位当初、契丹に立てられた身であったため、きわめて謹んで契丹に仕えていた。少主が即位すると、景延広は諸人と議って言った。「今、高祖が崩御された。契丹に喪を告げるが、もはや臣とは称さぬ。」一同はこれに同意した。
  • 契丹王はこれを聞いて大いに怒った。数か月とたたぬうちに、延広はさらに契丹の使者を囚えた。使者はほどなく脱出して帰り、契丹王に報じて言った。「先帝は北朝が立てられたゆえ、臣と称して表を奉りました。しかし新君は中国が立てたもので、貴国とは関わりがありません。ただ隣国として好を通じれば足りましょう。もし怒って戦おうというのなら、こちらには十万の横磨の刀剣が待ち受けております、と延広は申しております。桑維翰はたびたび、へりくだった辞で貴国に謝すべきだと諌めましたが、そのたびに景延広に阻まれております。」
  • 契丹王はこれを聞くと、ただちに三軍を点検し、河を渡って入寇した。契丹王は「気にかかるのは、劉知遠がいま兵を屯して太原を鎮守しており、兵を出して背後を断たれるのを恐れることだ」と言った。そこで別に御弟の偉王を元帥、李得・樊彪を先鋒として兵五万を与え、まず太原を攻めさせ、自らは大将の趙延寿・楊光遠を率い十五万の兵を統べて長安へ進発した。

太原の戦い

  • 偉王の人馬が太原に至って陣を構えると、劉知遠がこれを聞き、郭威が進み出て言った。「これは必ず契丹主が兵を興して中原へ攻め入ろうとし、我が軍に後方を断たれるのを恐れて先に太原を攻めに来たのです。末将が一戦仕ります。」
  • 郭威は甲冑をつけて馬に乗り、営を出て樊彪と交戦、数合もたたぬうちに矛で刺し殺し、敵兵の大半を討った。敗残の兵が営に逃げ帰り、「樊彪が郭威に刺し殺されました」と偉王に報じた。偉王は大いに驚いた。そこへ李得が叩頭して「小将が参って賊を生け捕りにいたします」と願い出、ただちに馬を出して陣前で戦いを挑んだ。
  • 知遠はそれを聞いて史弘肇に陣頭へ出て戦うよう命じ、郭威には一隊の兵を率いさせ、西路から回り込んで遼の帥の総営を衝き、火を放たせた。李得は史弘肇と馬を交えて一合、弘肇の一刀に斬られて馬の下へ落ち、討ち取られた。遼兵は大敗して営へ逃げ戻った。
  • ところが営内には火の手が上がっており、偉王は単騎で逃げ出した。郭威が兵を率いて営の背後から斬って出たため、偉王は慌てふためき、郭威の矛に刺し殺された。遼兵は大半を討たれ、郭威と史弘肇は兵を収めて知遠のもとへ戻り、人を遣って契丹の動静を探らせた。

契丹主の南下と具州の陥落

  • 行軍中の契丹主のもとへ、偉王の軍馬がことごとく知遠の部下に討たれたとの報が届いた。契丹主は大いに驚いて「知遠は必ず勝ちに乗じて出てくるだろう。そうなれば我が身を葬る地もない」と言った。
  • 趙延寿が進み出て「我が主、憂えられるには及びません。あらためて耿雍を遣わし、柳河川に屯して守らせ、太原の兵が出るのを防がせればよろしいでしょう」と告げた。契丹王はこれに従い、耿雍を柳河川に屯して守らせた。
  • 契丹主自身は兵を率いて貝州に至り、その城池を囲んだ。具州を守る呉巒が兵を率いて城を出、楊光遠と三合手合わせしたが、力及ばず引き返したところを楊光遠に追いつかれ、光遠はその勢いに乗じて城中へ斬り込んだ。呉巒は身を脱するのは難しいと覚り、井戸に身を投げて死んだ。契丹主は入城して駐屯し、翌日、人馬は済陽まで進んで陣を構えた。

杜威の敗北と降伏

  • 幼主は即位以来、国政を顧みず、景延広と日夜後苑で酒を飲んで楽しんでいた。ある日、飲んでいる最中に、「契丹主が兵を率いて入寇し具州を破りました、日ならず長安に至りましょう」との報が入った。幼主は大いに驚いた。
  • 景延広は「我が主、ご心配には及びません。ただ大将の杜威に兵を授けて迎え撃たせればよろしいでしょう」と奏した。杜威は命を受け、副将二員の李谷・張英とともに十万の兵を率いて済陽に営を構えた。
  • 李谷は計を献じて言った。「全軍に樹木を伐らせ、水中に置いて橋として渡らせ、私が一隊の兵を率いて敵の営の裏手へ回り、火を放って合図といたします。さすれば大功を成せましょう。」
  • 杜威は李谷の計を用いず、兵を率いて営を出て戦いを求めた。趙延朗が真っ先に馬を進めて晋の副将張英と交鋒し、趙延寿が刀を振るって延朗に加勢すると、晋方の李谷も槍を挙げて張英に加わり、挟み撃ちにかかった。戦いの最中、突如大風が起こって晋軍の旗号を吹き倒し、兵は目を開けていられなくなった。延寿は風の勢いに乗じて斬りかかった。
  • 李谷は馬が前脚を踏み外したところを延朗に捕らえられた。延寿は鞭の一撃で張英を打ち殺した。杜威は自ら身を縛って降伏し、手勢を取りまとめて契丹の軍中へ入っていった。

幼主の窮地

  • 契丹主は李谷を許して殺さず、大軍に令を伝えて長安まで一気に攻め上り、三十里を隔てて陣を構えた。
  • 幼主のもとへ「杜威が虜に降り、我が師は大敗して全軍ことごとく失われました」との報が入った。幼主は魂も身に付かぬほど恐れおののいた。
  • 右丞相の李崧は「契丹主が恨んでいるのは景延広でございます。景延広の首を斬って契丹主に献じ、あらためて臣と称することを求め、社稷をお保ちください」と奏した。
  • 幼主はこれに従わず、宮に戻って自ら死に処を求め、火を放って翠雲楼を焼き、その炎の中へ身を躍らせた。ところが一人の者に救い起こされた。その命がどうなったかは、次回を見られたい。

評語

卓吾子の評。晋主は陽城の勝利以来、天下に憂いはないと思い込み、驕奢はいよいよ甚だしくなった。馮玉はその勢いに乗じて権を弄び、朝政はますます壊れた。契丹が大挙して入寇したときも、晋主は苑中で鶯を調えており、言を左右にして執政の臣にも会おうとしなかった。桑維翰はすでに晋氏が祭祀を保てぬことを見抜いていたのである。

原文(底本)
是日,晉王卒於正殿,馮道、景延廣二人輔政,即立齊王重貴為帝,改元開運。太子重睿,養在宮中,自立新君後,諡晉王為高祖皇帝,尊張氏為皇太后,葬高祖於顯陵。此時,劉知遠出鎮晉陽。

  卻說晉高祖初即大位,乃契丹所立,事之甚謹。至少主即位,景延廣與眾商議云:「今高祖晏駕,告哀契丹,不復稱臣。」眾皆然之。契丹王聞此大怒。未及數月,延廣又囚番使,未幾得脫,歸報契丹王言:「先帝是北朝所立,故稱臣奉表,今新君乃中國所立,與我國無預,只宜為鄰,稱好足矣!如若發怒,準備廝戰,更有十萬橫磨刀劍以待。桑維翰屢諫,遜辭以謝我國,每為景廷廣所阻。」契丹王聞此言,即點三軍渡河入寇。契丹王曰:「所慮者,劉知遠現屯兵鎮守太原,恐出兵斷吾之後。」於是,別遣御弟偉王為元帥,李得、樊彪為先鋒,領兵五萬,先攻太原,自領大將趙延壽、楊光遠統兵十五萬,望長安進發。

  卻說偉王人馬到太原下營,劉知遠聽知,郭威進說:「此必契丹主興兵入朝,恐我軍截其後,故先來攻太原,末將見陣一遭!」郭威披掛上馬,出營與樊彪交戰,不數合被郭威用矛刺死,殺軍大半。敗卒回營報偉王:「樊彪被郭威刺死!」偉王大驚,李得叩頭道:「小將願往擒賊!」隨出馬陣前搦戰。

  知遠聽得,令史弘肇見陣,郭威引一支兵,從西路去抄出遼帥總營放火。李得與史弘肇交馬一合,被弘肇一刀劈落馬下,遼兵大敗,奔歸回營。只見營內放火,偉王匹馬逃生,郭威領兵從營後殺出,偉王慌張,被郭威一矛刺死,遼兵殺了大半,郭威與史弘肇收兵,回見知遠並差人打聽契丹消息。

  卻說契丹主兵正行,報偉王軍馬盡被知遠部下殺了。契丹主大驚曰:「知遠必乘勝而出,使吾無葬身之地!」趙延壽告道:「我主不必憂愁,可再差耿雍,屯在柳河川守把,以防太原兵出。」契丹主聽說,差耿雍屯在柳河川守把去了,自領兵到貝州圍了城池。守具州吳巒引兵出城,與楊光遠比手三合,吳巒力怯走回,被楊光遠趕上,乘勢殺入城中。吳巒自料難以脫身,投井而亡。契丹主入城投紮。次日,人馬到濟陽下營。

  卻說幼主即位以來,不理國政,與景延廣日夕在後苑飲酒取樂。一日,正飲間,報契丹主引兵入寇,破了具州,不日到長安了!」幼主大驚,景延廣奏口:「我主無妨,只遣大將杜威,部兵前去迎敵。」杜威受命,同副將二員李谷、張英,領十萬兵到濟陽安營。李谷獻計曰:「令眾軍砍伐樹木,置水中作橋以渡,我引一支兵,抄出他營,放火為號,可成大功。」

  杜威不聽李谷計,領兵出營索戰。趙延朗一馬當先,與晉副將張英交鋒,趙延壽舞刀相助,李谷也舉槍夾鬥。正戰之間,忽一陣大風,把晉軍旗號吹倒,眾軍不能開眼,延壽乘風勢殺來。

  李谷馬失前蹄,被延朗捉了。延壽一鞭打死張英,杜威自縛納降,收拾軍中去了。

  契丹主饒了李谷不殺,傳令大軍,直殺到長安,離三十里下營。報幼主:「杜威降虜,我師大敗,全軍皆沒!」幼主唬得魂不附體。右丞相李崧奏曰:「契丹主所恨者景延廣,把景延廣斬首級獻契丹主,再求稱臣,以保社稷。」幼主不從,回宮自尋個盡處,放起一把火,燒著翠雲樓,幼主望火中一跳,卻得一人救起。不知性命若何,且聽下回分解。

  卓吾子評:

  晉主自陽城之捷,謂天下無虞,驕侈益甚,馮玉乘勢弄權,朝政益壞。契丹大舉入寇,晉主在苑中調鶯,辭不出執政。桑維翰已知晉氏不血食矣!

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