殘唐五代史演義傳第五十八回 漢主、史弘肇を謀殺する (漢主謀殺史弘肇)

要約

河東を鎮守する劉知遠は帝号を称せという諸将の勧めを退け、晋主が北へ遷されたと聞くと井陘へ出兵し晋陽に迎え帰すと称した。軍士が位号を正してから出師せよと唱えても退けたが、郭威と楊鄰が、この機に中原を取らねば人心が移ると説いた。

契丹が保義節度副使とした劉願の暴虐に苦しむ陝では、都頭の王晏が趙暉・侯章と劉願を斬って降った。知遠は晋陽で即位して大梁へ遷り、国号を漢、改元して乾祐とし名を杲と改めた。楊邠を同平章事、郭威を鄴都留守に封じた。郭威は出立に、奸邪を遠ざけ蘇逢吉・楊鄰・史弘肇を任ぜよと言い、鄴都では侵掠を禁じ契丹が来れば城塁を固め野の食糧を片づけて待てと命じた。

漢主は在位二年で崩じ、群臣は十八歳の太子承祐を立てた。称号は隠帝、漢主に高帝と諡し李氏を皇太后と尊び睿陵に葬った。隠帝は驕縦で、楊邠が機政、郭威が征伐、史弘肇が宿衛、王章が財賦を掌って国家は安定していたが、弘肇が長槍大剣で足り筆は役に立たぬと言い王章が財賦はどこから出るかと返し、将相に仇隙が生じた。邠らが寵幸を抑えたので、宣徽使を得られぬ李業や官の進まぬ聶文進・郭允明・劉銖らは恨みを抱き、弘肇は楽人への錦袍玉帯の賜与を辺の士卒にも賜与がないと怒って取り上げた。

万事は臣らに公道があると言う邠と弘肇に恨みを積んだ隠帝は李業らと誅殺を謀り、太后の諫めも閨門の知ることでないと退け、甲士数千を広政殿に伏せて入朝した邠・弘肇・王章を殺した。文武には大逆ゆえ殺した、親党も殺すと諭し、孟業に密詔を持たせて李洪義に王殷を、郭崇威・曹威に郭威と王濬を殺させようとし、劉銖は両家の家族を老幼一人も残さず殺した。

事を知った李洪義は孟業を監禁し郭威に詔を示した。魏仁浦は、進めば生があり退けば累卵と説き、諸将も、天子は幼く奸臣の所為だと泣いて入朝を願い、趙修已も南下を勧めた。郭威は養子の郭栄に鄴城を守らせ郭崇威を前駆に南下した。隠帝は慕容彦超に防がせ、城を閉じて母妻に招かせよという侯益の策は退け、侯益・閻晋卿・呉虔俗・張彦超が禁軍で澶州へ発った。卓吾子は、楊邠と弘肇は倉と兵、長槍大剣こそ国を定めると考えて権を専らにし、寵臣の手で死んだと評した。

現代語訳全文

諸将の推戴と即位の決断

劉知遠は北平王に封じられて河東を鎮守していた。諸将は知遠に、みずから帝号を称して四方に号令なさるよう勧めたが、知遠は従わなかった。晋主が北へ遷されたと聞くと、井陘へ出兵して晋陽に迎え帰すと称し、指揮使史弘肇に命じて諸軍を集めて議らせ、出師の期日を告げた。軍士はみな、今や天下に主がない、天下を平らげるのは我らが主でなくて誰か、まず位号を正してから出師すべきだと言い、推戴の万歳を唱和する声が鳴りやまなかった。知遠は、虜の勢いはなお強く我が軍威はまだ振るわない、功を建てて主室を恢復し新君を迎え立てるべきだ、汝ら士卒に天命の在りかが分かるものかと退けた。郭威と都押衙の楊鄰が入って説いた。これは天意です、大王がこの機に乗じて中原を取らなければ、人心がひとたび移れば逆に他人に制せられますぞ、と。知遠はこれに従った。

陝城の反乱と後漢の建国

このころ契丹は劉願を保義節度副使として遣わしており、陝の人々はその暴虐に苦しんでいた。都頭の王晏は指揮使の趙暉・侯章と謀った。劉公の威徳は遠くまで知られている、我らが劉願を殺して陝城を挙げて帰服し、天下の先駆けとなれば、富貴を得るのは掌を返すようなものだ、と。趙暉らはみな、その計は妙だ、速やかに行うべしと言った。王晏・趙暉・侯章らは刀を持って帥府に踏み込み、ともに劉願を斬り、城を挙げて知遠に降った。

知遠はそこで晋陽で帝位に即き、のちに大梁へ遷った。諸鎮の多くが降り、国号を漢、改元して乾祐とし、みずからの名を杲と改めた。

郭威の鄴都赴任と辞行の言

楊邠を同平章事に、郭威を鄴都留守に封じた。郭威は出立にあたり帝に言った。忠直の者を近づけ奸邪の者を遠ざけ、善悪の別は明らかに審らかにされますよう。蘇逢吉・楊鄰・史弘肇はみな先帝の旧臣ですから、陛下には心を推して任じていただきたい。辺境の事は臣が心を尽くして陛下に報いましょう、と。漢主は居住まいを正してこれに謝した。

郭威は鄴都に至ると、河北の人民が困弊しているのを見て、辺将に号令して境界を謹んで守り厳しく巡警させ、侵掠を禁じた。契丹が入寇すれば城塁を固め、野の食糧を片づけて敵に利用させぬようにして待てと命じた。

高祖の崩御と隠帝の即位

漢主は在位わずか二年で急な病にかかり、正寝で崩じた。群臣は喪を発して哀を挙げ、太子の劉承祐を迎え立てて皇帝の位に即けた。称号を隠帝という。承祐は年わずか十八であった。即位ののち、漢主に諡して高帝といい、母の李氏を皇太后と尊び、高祖を睿陵に葬った。

将相の対立と不満分子

隠帝は即位以来日ごとに驕り縦となり、政は自らの出るところではなかった。当時、枢密副使の楊邠が機政を掌り、郭威が征伐を主り、史弘肇が宿衛に与り、王章が財賦を掌った。邠の性は忠直で門に私的な謁見がなく、四方からの贈物を却けはしなかったが、余りがあれば必ず献上した。弘肇は京城を督察して道に落ちた物を拾う者もなく、王章は取りこぼしの利を拾い集めて供給を欠かさず、国家はおおむね安定していた。弘肇はかつて、天下を治めるには長槍大剣を用いるべきだ、筆などが何の役に立つかと言い、王章は、その筆がなければ財賦はどこから出るのかと言い返した。ここから将と相のあいだに仇隙が生じ始めた。

このころ隠帝の左右はみな寵幸の者が事を執り、太后の親戚が政に当たっていたが、邠らはしばしばこれを抑えた。太后の弟の李業は宣徽使の職を求めて得られず、心に深く怨みを抱いた。閻晋卿・聶文進・郭允明・劉銖の数人も、寵があるのに久しく官が進まず、それぞれ不満を抱いて執政の者を恨んだ。隠帝が喪を除いて楽を聴き、楽人・役者たちに錦袍玉帯を厚く賜ったとき、弘肇は怒って、士卒は辺を守って苦戦し汗馬の労を尽くしてもまだ賜与がないのに、お前たちに何の功があってこれを得るのかと言い、ことごとく取り上げさせた。隠帝は年が長ずるにつれて大臣に制せられるのを厭うようになった。

広政殿の伏兵と三大臣の誅殺

ある日、邠と弘肇が殿前で事を議して言った。陛下はただ声を出さずにおられればよい、あらゆる事は臣らに公道があり、処理すれば必ず理に合います、どうして聖慮を労されましょうか、と。隠帝はこれを聞くたびに憂え悶え、恨みを心に積んだ。そこで左右の者がともに讒して、邠らは法を執って恣に振る舞い、ついには乱をなすでしょうと言った。隠帝はこれに従い、李業・聶文進・匡賛・郭允明と謀って邠らを誅そうとし、この事を太后に奏した。太后は、この事は軽々しく起こしてよいものではない、宰相とともに議るべきだと言った。李業は、先帝はかつて、朝廷の大事は書生に謀ってはならぬ、その懦怯が人を誤らせるからだと仰せられましたと言った。太后は堅く不可とした。隠帝は怒って、国家の事は閨門の知るところではないと言い、衣を払って出た。

隠帝は改めて数人と謀って計を定め、まず甲士数千を広政殿に伏せた。ちょうど邠らが入朝したところへ兵が一斉に躍り出て、喊声は鼎の沸くごとく、刃を挺げて前に進み、東の廡の下で邠と弘肇および王章を殺した。

余党掃討の密詔

隠帝は急ぎ文武の官を殿下に召し集め、みずから諭して言った。楊鄰・史弘肇らは大逆を為そうとしたので朕がこれを殺した、汝らには何の関わりもない。邠らにはなお阿附した親党があって、それぞれ鎮に出て外郡にいる、使者を遣わして捕らえ、ことごとく殺して後患を除くべきである、と。

衆臣はみな、邠らは不軌を謀ったのですから陛下が殺されたのは道理に適っています、臣らがどうしてまた異心を生じましょうと応えた。隠帝はその日のうちに供奉官の孟業に密詔を持たせて鎮寧へ遣わし、李洪義に命じて弘肇の余党である歩軍指揮使の王殷を殺させようとした。さらに行営指揮使の郭崇威・曹威に命じて郭威および監軍の王濬を謀殺させようとした。李業が隠帝に奏した。郭威と王濬の二人は家族がみな京師にいます、人を遣わして捕らえ監視させましょう、そうしておけば二人が知ったとしても、先に内患を除いたことになります、と。隠帝は大いに喜び、劉銖に兵を率いさせて郭威・王濬の家族を襲って殺させた。銖は人となりが極めて残忍薄情で、兵を率いて二家に至り、老幼一人として免れる者はなかった。また李洪建を遣わして王殷の家族を襲って殺させたが、洪建はただ人に見張らせるだけで、なお飲食を与えた。

郭威の決起

孟業は数日行って澶州に至った。人をやって李洪義に報せ、二人は会見し、業は前の事をすべて告げた。洪義は驚いて言った。主上は無道で大臣を謀殺された、これは乱を招く道だ、もし本当にこのとおりなら我らは死んで身を葬る地もあるまい、と。ただちに孟業を監禁し、人をやって郭威を請い、詔を示した。威は詔を見て大いに驚き、魏仁浦を召してともに詔を見た。郭威が、今や隠帝は無道で大臣を謀殺し、さらに使者に詔を持たせて我らを殺そうとしている、この事をどうすべきかと問うと、仁浦は答えた。まずは御心配なさいますな、公は国の大臣で功業は昭らかであり、加えて大兵を掌握して重鎮に拠っておられる、それが一朝にして小人どもに狙われ、思いがけぬ禍が出たのです、こんな事が言葉で弁解できましょうか。時勢がこうである以上、坐して死を待つわけにはまいりません、と。郭威が、その道理は分かっているが奇策がなく迷っていると言うと、仁浦は、何を決しかねることがありましょう、今日進めば生があり富貴も得られ、退けば累卵の危うきに落ちるのです、この機会に乗じれば衆人は必ず助けます、と言った。郭威は、汝の言は理に適っており深く我が意に合うと答えた。

そこで郭崇威・曹威および諸将を召し、邠らが冤罪で死んだことと密詔の件を告げて言った。吾は邠ら諸公とともに荊棘を分けて先帝に従い天下を取り、さらに託孤の任を受けて力を尽くして国家を衛ってきた。その諸公が今はもう殺されてしまった、吾ひとりどうして生きていられようか。君らは詔書を奉行し、吾が首を取って天子に献じ、累が及ばぬようにせよ、と。崇威らはみな泣いて言った。諸公は何を仰せられるか。今の天子は幼く、これは必ず左右の奸臣の所為です。この輩が志を得れば国家が安らかでありましょうか。我らは明公に随って入朝して自ら訴え、鼠輩を洗い流して朝廷を清めたい、奸計に害されてはなりません、と。趙修已も、明公がいたずらに死んでも益はない、今日の計は衆心に順って兵を擁し南下するに如くはない、これは天の啓くところです、古人も天が与えるのに取らなければ却ってその殃を受けると申します、この機会を失ってはなりませんと言った。

この日、衆論は紛々とし、威の意はついに決した。養子の郭栄を留めて鄴城を鎮守させ、郭崇威に兵を率いさせて前駆とし、自ら大軍を率いて続いた。兵が封丘に至ると、物見の早馬が洛陽に急を報じた。

朝廷の迎撃策

隠帝は大いに驚き、急ぎ群臣を集めて議り、慕容彦超に兵を率いて防がせた。彦超はちょうど食事中であったが、匙と箸を捨てて入朝し、隠帝は軍事をことごとくこれに委ねた。侯益が言った。郭威の兵はその鋒が甚だ鋭い、誰が敵し得ましょう。その部下の家族はみな京師にいるのですから、官軍は軽々しく出るべきではありません、城を閉じてその鋒を挫き、彼らの母や妻を城に登らせて招けば、戦わずして下せます、と。彦超は、兵が城下に臨むのを待てば、我らは死んで生き残る者もなくなると言った。隠帝はそこで侯益と閻晋卿および呉虔俗・張彦超に禁軍を率いさせ、まっすぐ澶州へ向かわせた。後の事は次回に述べる。

評語

卓吾子は評する。楊邠は倉が満ち兵が強いことを礼楽に勝ると考え、史弘肇は長槍大剣こそ国家を定められると考えた。賄を納れて権を専らにし、愚かに目を蔽って恣に横暴を働き、ほどなく帝の寵臣どもの手にかかって死に、その禍を知ることさえできなかった。これがどうして書生や文士のなすところであろうか。

原文(底本)
卻說劉知遠封為北平王,鎮守河東,卻有諸將勸知遠稱尊,以號令四方,知遠不從。及聞晉主北遷,又稱說欲出兵井陘,迎歸晉陽,命指揮使史弘肇,集諸軍商議,告以出師之期。軍士皆曰:「今天下無主,平天下者,非我主而誰?宜先正位號,然後出師!」於是,眾軍山呼不已。知遠曰:「虜勢尚強,吾之軍威未振,當建功恢復主室,迎立新君,汝士卒何知天命有在耶?」郭威與都押衙楊鄰入說知遠曰:「此天意也!大王不乘此以取中原,人心一移,則反受他人所制矣!」知遠從之。

  是時契丹遣將劉願為保義節度副使,陝人苦其暴虐。都頭王晏,與指揮使趙暉、侯章謀曰:「劉公威德遠著,吾輩若殺劉願,舉陝城以歸之,為天下首倡,取富貴如反掌耳!」暉等皆言:「此計甚妙!可速行之。」至是,王晏、趙暉、侯章等,持刀直入帥府,共斬劉願,舉城降於知遠。知遠乃即帝位於晉陽,復遷於大梁,諸鎮多降,國號曰漢,改元乾祐,更名曰杲。

  封楊邠為同平章事,封郭威為鄴都留守。威辭行之時,言於帝曰:「親近忠直,放遠奸邪,善惡之間,所宜明審。蘇逢吉、楊鄰、史弘肇,皆先帝之舊臣,願陛下推心任之。至於疆場之事,臣願盡心以報陛下。」漢主斂容謝之。

  威至鄴都,以河北人民困弊,乃號令邊將謹守疆場,嚴加巡警,勿得侵掠。契丹入寇,則堅壁清野以待之。漢主在位方二年,忽染暴疾,崩於正寢。群臣發喪舉哀,遂迎立太子劉承祐即皇帝位,稱號隱帝。承祐年方十八,;即位之後,諡漢主為高帝,尊母李氏為皇太后,葬高祖於睿陵。

  卻說隱帝自即位以來,日益驕縱,政非已出。是時,樞密副使楊邠掌機政,郭威主征伐,史弘肇與宿衛王章掌財賦。鄰性忠直,門無私謁,雖不卻四方饋遺,然有餘輒獻之。弘肇督察京城,道不拾遺。王章捃摭遺利,供饋不乏,國家粗安。弘肇嘗謂:「治天下,須用長槍大劍,安用毛錐子?」王章曰:「若無毛錐子,財賦從何而出?」於是,將相始為仇隙。

  時隱帝左右,盡皆寵幸之人用事,太后親戚執政,鄰等屢裁抑之。太后之弟李業,求為宣徽使不得,心甚怨望。與閻晉卿、聶文進、郭允明、劉銖數人,皆有寵而久不遷官,各懷不忿之心,恨著執政之人。時隱帝除喪聽樂,厚賜伶人以錦袍玉帶。弘肇怒曰:「士卒守邊苦戰,受盡汗馬之勞,猶未有以賜之,汝曹何功而得此乎?」即命盡奪之。隱帝年益壯,厭為大臣所制。

  忽日,邠與弘肇議事於殿前日:「陛下但禁聲勿語,凡百事,臣等自有公道,處之必合於理,豈勞聖慮乎?」隱帝每聽之,憂悶不已,積恨在心。於是左右之人,相共讒之云:「邠等執法自恣,終當為亂!」隱帝從之,遂與李業、聶文進、匡贊、郭允明謀誅邠等,以此事入奏太后。太后曰:「此事何可輕發,更宜與宰相共議。」業曰:「先帝嘗言,朝廷大事,不可謀及書生,恐其懦怯誤人故也!」太后堅執不可。隱帝怒曰:「國家之事,非閨門所知。」遂拂衣而出,復與數人商議,定下計策,先埋伏甲士數千於廣政殿。正值鄰等入朝,眾兵一湧而出,喊聲鼎沸,挺刃向前,殺邠與弘肇及王章於東廡下。

  此時,隱帝急宣眾文武齊至殿下,親諭之曰:「楊鄰、史弘肇等,欲為大逆,朕故殺之,與汝等各無干礙。鄰等尚有阿附親黨,各出鎮外郡,宜遣使收捕,盡皆殺之,以除後患。」

  眾臣皆曰:「邠等謀為不軌,陛下殺之,正合其理。臣等安敢復生異心!」隱帝即日遣供奉官孟業,齎密詔至鎮寧,令李洪義殺弘肇餘黨步軍指揮使王殷。再令行營指揮使郭崇威、曹威,謀殺郭威及監軍王濬。李業奏隱帝曰:「郭威、王濬二人,家屬皆在京師,可使人執下監之。二人若知,先除內患矣!」隱帝大喜,便差劉銖領兵抄殺郭威、王濬家屬。銖為人極其慘毒,領兵至彼二家,老幼無一得免者。復遣李洪建抄殺王殷家屬,洪建但使人守視,仍與之飲食。

  卻說盂業,行了數日,已至澶州。使人報知李洪義,二人接見,業悉以前事告之。洪義驚曰:「主上無道,謀殺大臣,此取亂之道也!若果如此?吾等死無葬身之地矣!」即將孟業監下,使人請郭威以詔示之。威見詔大驚,遂召魏仁浦同來視詔。郭威告曰:「今隱帝無道,謀殺大臣,復遣使齎詔前來,欲殺我等,此事若何?」仁浦曰:「且自勿慮,公乃國之大臣,功業昭著,加之掌握大兵,據守重鎮,一旦為群小所窺,禍出非意,此豈辭說所能辨解!時勢如此,豈可坐而待死乎?」郭威曰:「吾亦知此道理,怎奈未有奇策,猶豫不決。」仁浦曰:「如何難決?今日進則有生,富而且貴,退則有壘卵之危矣!不如乘此機會,眾人必然相助,何難決之有?」郭威曰:「汝言有理,深合吾意!」乃召郭崇威、曹威及諸將,告以邠等冤死,及有密詔之故。且曰:「吾與諸公,披荊棘從先帝以取天下,復受托孤之任,竭力以衛國家。今諸公已死,吾何獨生?君等當奉行詔書,取吾首以獻天子,庶不相累!」崇威等皆泣曰:「諸公是何言也?今天子幼小,此必左右奸臣所為,若使此輩得志,國家其得安乎?眾等願隨明公入朝自訴,洗蕩鼠輩,以清朝廷,不可為奸計所害!」趙修已曰:「明公徒死無益,今日之計,不若順眾心,擁兵而南,此天啟之也!古人云,天與弗取,反受其殃。不可失此機會。」

  是日,眾論紛紛,威意遂決。乃留其養子郭榮鎮守鄴城,遣郭崇威領兵前驅,自將大軍繼之。兵至封丘,哨馬報入洛陽。

  隱帝大驚,急聚眾臣商議,遣慕容彥超領兵拒之。時彥超方食,即舍匕筋入朝,隱帝悉以軍事委之。侯益曰:「郭威之兵,其鋒甚銳,誰人與敵?其部下家屬,皆在京師,官軍不可輕出,不若閉城以挫其鋒,使其母妻登城招之,可不戰而下也。」彥超曰:「若待兵臨城下,則吾輩死無噍類矣!」隱帝乃遣侯益與閻晉卿及吳虔俗、張彥超率領禁軍,直趨澶州。不知後事若何,且聽下回分解。

  卓吾子評:

  邠以廩實兵強,為賢於禮樂,弘肇以長槍大劍為可定國家。納賂專權,愚蔽恣橫,未幾死於嬖幸之手,曾不及知其禍,又豈書生文士之所為乎?

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