殘唐五代史演義傳第六十回 周世宗、位を宋祖に禅る (周世宗禪位宋祖)
要約
世宗は沢州に陣し、高平南の北漢兵を撃たせて十里退かせ、白重賛・李重進を左軍、樊愛能・何徽を右軍、向訓・史彦超を中央、張永徳を身辺に置いた。周将が楊兗と戦う間もなく右軍の樊・何が逃げ、一千余人が甲を脱いで降った。
世宗は自ら矢石を冒して督戦した。趙匡胤は張永徳と左右の翼から挟撃しようと謀り、精兵二千ずつで出戦した。匡胤が先んじると兵は一人で百人に当たり、北漢兵は大敗、北漢主は晋陽へ逃げ、屍は山谷に満ちた。
世宗は降兵を殺し、戻った樊愛能・何徽と部下七千余人を、朕を奇貨として劉崇に売ろうとしたと責めて斬らせ、驕将怠卒は懼れを知った。詩も、樊・何の誅から軍容に丈夫が現れたと詠んだ。
匡胤は殿前都虞候に抜擢された。顕徳六年秋八月初一日の大風で周太祖の陵の松柏が抜け飛び、世宗は病んで九月に危篤となり、魏仁浦を同平章事、匡胤を殿前都点検として幼君を託し崩じた。年三十九、在位六年。史評は、柴氏の子として大統を継ぎ、軍法を正して弊政を革め、江西・秦・鳳・三関を取り、五代十二君のうち最と称される。
衆臣は七歳の太子宗訓を恭帝に立て、范質・魏仁浦が輔政して匡胤を帰徳節度使に封じた。匡胤は涿郡の人、父は禁衛将校の弘殷で、甲馬営で生まれたとき赤光と異香があり香孩児営と呼ばれた。世宗は箱の書に点検が天子となるとあるのに驚き、点検の張永徳を遷して匡胤に替えた。
劉鈞が遼と結んで入寇し恭帝は匡胤に兵を率いさせた。苗訓は日の下の日を天命と言い、陳橋駅で軍士は点検を天子に立てて北征するのが上策だと謀った。酔い臥して知らぬ匡胤は黄袍を着せられ拝を受けて汴梁へ還り、少帝と太后を犯すな、公卿を凌ぐな、掠奪するなと誓わせ、軍は秋毫も犯さなかった。
防ごうとした侍衛指揮使韓通は王彦升に殺され妻子も戮された。范質・王溥が崇元殿に文武を集め、陶谷が禅詔を出した。詔は、人心は去り天命は帰するところがある、堯に法って舜に禅ると述べた。周は三君二姓九年で宋が興った。匡胤は袞冕を着けて即位し太祖皇帝と号し、顕徳七年を建隆元年と改め国号を宋とし、恭帝を鄭王、光義を殿前都虞侯、趙普を枢密直学士とし、杜氏を皇太后と尊んだ。逸狂・後賢・麗泉も詩で宋の興隆を詠じた。卓吾子は、五代の後に宋の太祖が中華を統一したのは世道の幸いと評した。
現代語訳全文
高平の対陣と右軍の潰走
世宗の軍が進むさまは、旌旗が日を蔽い、剣戟は霜を凝らし、人は猛虎のごとく、馬は飛彪にも勝るありさまであった。日ならずして沢州に至り陣営を構えた。北漢の兵は高平の南に屯していた。世宗が前鋒に命じてこれを撃たせると、北漢の兵は十里退いた。周の世宗は敵が逃げ去ったのかと疑い、諸軍に急ぎ進むよう催した。後軍がまだ到着せず衆の心は危ぶみ懼れたが、世宗の志気はなお鋭かった。そこで白重賛・李重進に左軍を率いて西に居らせ、樊愛能・何徽に右軍を率いて東に居らせ、向訓・史彦超に精騎を率いて中央に居らせ、張永徳には禁兵を率いて身辺の守りに当たらせた。
両陣が円く向かい合い、周の将が出馬すると、北漢の将楊兗が槍を挺げて迎え撃った。両者が戦い合って間もなく、周の右軍の樊愛能・何徽が騎兵を引いて先に逃げ出し、残る兵は大きく崩れ、およそ一千余人が甲を脱ぎ万歳を呼んで北漢に降った。
趙匡胤の奮戦と北漢の大敗
世宗は兵勢の危急を見て、自ら矢石を冒し兵を率いて督戦した。宿衛将の趙匡胤は同列の者に、主君の危ういことがこれほどなのに、どうして死力を尽くさずにいられようかと言ったが、一同は黙ったまま答えなかった。
匡胤はさらに禁兵の将張永徳に言った。賊の気が驕り猛るのを見るに、力戦すれば破れます。公は急ぎ兵を率いて高みに乗り西に出て左翼となられよ、私が右翼となり、両側から挟み撃ちにしましょう。国家の安危はこの一挙にあります、と。永徳はこれに従った。そこで二人はそれぞれ精兵二千を率いて出戦した。匡胤はこのとき身をもって士卒に先んじ、兵はみな一人で百人に当たらぬ者がなかった。北漢の兵は大敗し、楊兗も敢えて援けず、北漢主は兵を収めて北へ走り、かろうじて生きて晋陽に入った。このとき漢兵の屍は山谷に満ち、棄てられた御物や輜重・器械の類は数え切れなかった。
樊愛能・何徽の誅殺
その夕、世宗は野に宿り、敵に降った歩兵を捕らえるとみな殺した。樊愛能らは周兵が大勝したと聞いて、士卒とともに少しずつ戻ってきた。世宗は将令を粛正しようとして愛能・何徽および部下七千余人を捕らえ、責めて言った。汝らはみな累朝の宿将であり、戦えぬわけではない。今、敵の威勢を遠目に見ただけで戦いもせず奔り逃げたのは他でもない、朕を奇貨として劉崇に売り、功を請おうとしたのだ、と。諸将は黙って答えなかった。周の世宗は大いに怒り、武士に命じて引き出させ、ことごとく斬らせた。これより驕れる将や怠け者の卒も初めて懼れるところを知り、姑息な政は行われなくなった。証しの詩は、五代の積弱の果てに驕れる軍が主を売り主はそれを知らずにいたが、高平でこそ樊・何が斬られ、これより軍容に丈夫が現れたと詠う(詩:高平の軍法)。
世宗の発病と崩御
このとき永徳は匡胤の智勇を大いに称え、匡胤は殿前都虞候に抜擢された。顕徳六年秋八月初一日、にわかに大風が起こり、江海は湧き上がり、平地の水深は数尺に及び、周太祖の陵の上の松柏がことごとく抜けて空中を飛び、汴城の南門外まで来て南の路に逆さに突き立った。これによって世宗は驚いて病を得、九月に至って病は次第に危篤となった。そこで魏仁浦を召して同平章事とし、趙匡胤を殿前都点検に加え、ともに政を聴かせた。さらに諸臣を御榻の前に召して幼君を託し、後事を囑した。世宗はやがて崩じた。年三十九歳、在位六年であった。
世宗への史評
はじめ世宗は藩にあったころは努めて才を隠していたが、即位ののち高平の寇を破ると、人はみなその英武に服した。
五代史に按ずるに、世宗は柴氏の子として大統を継いだのであり、ここに至って周の国姓は一変した。即位の初め、憤然として天下を削平しようとしたのは、乱を憂えること甚だしく治を望むこと切であったからで、まことに中原の主である。近世の弊が威令の行われぬこと、すなわち上に立つ者が下から凌がれ、下にある者が分を越えて僭することから起こると深く知り、まず樊・何を誅して軍法を正し、五十年の弊政を革め、ついに弱を変じて強となし、敗に因って功をなし、勝ちに乗じて敗走する敵を追撃し、太原にまで至った。帰っては兵を選び衆を整え、鋭意進取に努めた。そこで南は江西を割き、秦・鳳を克ち、北は三関を取り、威武の名声は夷にも夏にも響き渡った。雄傑と言うべきである。
近世以来、このような主はいなかった。かつて夜に書を読んで唐の元稹の均田図を見ると、詔してその図法を天下に頒ち、吏民にまず習い知らせ、一年を期して大いに天下の田を均そうとした。その規模はどうして小さいものであろうか。民を思い邦の本に心を留めた跡をたどれば、五代十二君のうちひとり最と称される。もし天がこれに年を貸していたなら、その成就は計り知れなかったであろう。
恭帝の即位と趙匡胤
その日、衆臣は太子の宗訓を請うて皇帝の位に即け、称号を恭帝といった。宗訓は年わずか七歳で、范質・魏仁浦が伊尹・周公が幼君を輔けた故事に倣って輔政し、趙匡胤を帰徳節度使に封じた。
匡胤は涿郡の人である。父の名は弘殷、洛陽の禁衛の将校であった。杜氏を娶り、甲馬営で匡胤を生んだ。そのとき赤い光が室に満ち、営中に異香が漂って月を経ても散らなかった。時の人はここを香孩児営と呼んだ。少くして新文説に就いて学び、長じては容貌雄偉、器量は豁然としていた。世宗の時に軍政を掌ること六年、士卒はその恩威に服し、しばしば征伐に従って大きな功を立てた。世宗はある日、箱の中から一本の書を得たが、そこに点検が天子となると書かれていたので大いに驚いた。当時は張永徳が点検であったのでこれを他へ遷し、匡胤に替えたのであった。
陳橋の変
このとき、河東の劉鈞が遼の兵と結んで入寇したとの報が入った。恭帝はそこで匡胤に兵を率いさせた。
主は幼く国は危うく、内外にようやく推戴の議が起こった。軍校の苗訓が営中から東北の空を望むと、日の下にもう一つの日があって黒い光が互いに揺れ動いていた。苗訓は驚き怪しんで、これは天命だと指さして言った。ちょうど黄昏のころ、兵は陳橋駅に至った。軍士は集まって謀った。主上は幼く弱い、我らが力を奮って敵を破っても誰がそれを知ろうか、まず点検を天子に立て、それから北征するのが上策だ、と。衆はみな賛同した。その日のうちに声を張り上げて一声叫ぶと、みな臂を袒いで従い、めぐり並んで夜明けを待った。匡胤は酔って臥しており、実は何も知らなかった。
空がやや明るむころ、軍士はみな甲をまとい武器を執って寝所の戸を叩いた。匡胤は目覚めて慌ててその訳を問うた。諸将は、我らには主がありません、太尉を天子に策てたいのですと答えた。匡胤が驚いて起き衣を羽織ると、諸将はともに扶け出して黄袍を着せ、万歳を唱和して一斉に拝し、腋を挟んで馬に乗せ、擁して汴梁へ還った。匡胤はこのとき拒むこともできず、轡を取って諸将に誓って言った。汝らが自分たちで我を天子とすると言うのなら、我が命に従えるならよい、さもなくば我は天子にはならぬ、と。一同はみな馬を下りて跪き、命令を受けたいと言った。匡胤は言った。少帝および太后には我はかつて北面して仕えた身だ、驚かし犯してはならぬ。公卿大臣はみな我と肩を並べた者だ、侵し凌いではならぬ。朝市や府庫を掠奪してはならぬ。命に従えば重く賞するが、さもなくば一族皆殺しにするぞ、と。一同は唯々と応じた。こうして軍を整えて仁和門から入り、秋毫も犯すことがなかった。
禅譲と宋の建国
周の侍衛指揮使韓通は衆を率いて防ごうと謀ったが、軍校の王彦升に殺され、その妻子までも戮された。匡胤が公署に退いていたところ、宰相の范質・王溥が崇元殿に詣り、文武の官僚を集めた。日暮れに班列が定まってもなお禅譲の詔がなかったが、翰林承旨の陶谷が撰しておいた禅詔を袖の中から取り出し、これを用いた。
制文はこう述べる。天は庶民を生んでこれに司牧を樹てた、二帝は公を推して位を禅り、三王は時に乗じて革命した、その極まるところは一つである。わたくし未熟な幼き身は家門の不幸に遭い、人心はすでに去り天命は帰するところがある。ああ爾、帰徳軍節度使・殿前都点検の趙匡胤よ、上聖の資を稟け神武の略があり、我が高祖を佐けてその功は皇天に至り、世宗に事えては大麓に納れられて堪えたほどの功を存し、東を征すれば西の民が我が方に後回しにされたと怨むほどに、その績は盛んであった。天地の鬼神は有徳の者に享け、謳歌も訟獄も至仁に帰す。天に応じ人に順い、堯に法って舜に禅る、重荷を降ろすようなもので、予は賓となろう。ああ慎め、ただ天命を畏れよ、と。
これまでの周の国は凡そ三君二姓、九年を歴て宋が興ったのである。
詔を読み終わると、宣徽使が匡胤を庭に引き、北面して受命させ、宰相が腋を挟んで崇元殿に升らせた。匡胤は袞冕を着けて皇帝の位に即き、称号を太祖皇帝といい、群臣が朝賀した。周の顕徳七年を建隆元年と改め、領していた鎮をもって宋州帰徳軍とし、国号を宋とした。周の恭帝を奉じて鄭王とし、弟の光義を殿前都虞侯に、趙普を枢密直学士に封じた。太廟を立て、その祖考を追尊して帝号を贈り、母の杜氏を皇太后と尊んだ。その日、太祖は太平の筵宴を設けて群臣を大いに会した。これより文官武将は済々彬彬として朝廷に満ちた。上には堯舜の風があり、下には鼓腹の楽があった。華山の隠士陳搏は宋が周に代わったと聞いて欣然と喜び、天下はこれより定まったと言った。その他は宋伝に見えるので、この編には多くを録さない。
逸狂の詩は、五代の干戈がやまず乱臣賊子が中原を乱し、黎民の苦怨に天心が怒り、胡虜が馳せ交って世道が顛倒したが、点検が天子になるという天の数が真命の主に帰し、陳橋の兵変が太平の年をもたらした、黄袍と丹詔が須臾にして至ったのは三百年の鴻図として偶然ではないと詠う(詩:逸狂)。後賢の詩は、紛々たる五代の乱離の間からひとたび雲が開けてふたたび天が見え、草木は百年ぶりの新しい雨露を受け、車書は万里の旧山川に通うと詠う(詩:後賢)。麗泉の詩は、幼主が無知のまま社稷を終わらせ、危急に臨んで首を垂れ降囚となり、一朝にして帝業が宋に帰し、恥を忍んで鄭州に入ったと詠う(詩:麗泉)。
評語
卓吾子は評する。五代は日々干戈を事とし、胡虜が馳せ交い、乱賊が横行して、中原にはついに安寧の地がなかった。幸いにも宋の太祖が中華を統一したのは、これもまた世道の幸いというべきであろう。
原文(底本)
當日,世宗兵行之次,但見旌旗蔽日,劍戟凝霜,人如猛虎,馬賽飛彪。不日已至澤州,安下營寨。北漢之兵,屯於高平之南,世宗命前鋒擊之,北漢兵退十里。周世宗疑其遁去,催諸軍亟進。後軍未至,眾心危懼,而世宗志氣亦銳,乃命白重贊、李重進,將左軍居西;樊愛能、何徽,將右軍居東;向訓、史彥超,將精騎居中;張永德,將禁兵自衛。兩陣對圓,周將出馬,北漢將楊兗挺槍來迎。兩下合戰未久,忽見周之右軍樊愛能、何徽引騎兵先走,餘兵大潰,約有一千餘人,皆解甲聲呼萬歲,降於北漢。 世宗見兵勢危急,遂親冒矢石,引兵督戰,宿衛將趙匡胤謂同列曰:「主危如此,吾安得不致死乎?」眾皆默然未答。 匡胤又謂禁兵將張永德曰:「吾觀賊氣驕暴如此,力戰可破也!公急引兵乘高西出為左翼,我為右翼,兩下夾攻,國家安危,在此一舉!」永德從之。於是,二人各帥精兵二千出戰。匡胤此時身先士卒,眾兵無不一當百。北漢兵大敗,楊兗亦不敢援,北漢主收兵北走,僅得生入晉陽。此時,殺得漢兵屍滿山谷,委棄御物及輜重器械之類,不可勝紀。 是夕,世宗野宿,得步兵之降敵者皆殺之。樊愛能等,聞周兵大獲全勝,與士卒稍稍復還,世宗欲肅將令,即收愛能、何徽及部下七千餘人。責之曰:「汝輩皆累朝宿將,非不能戰,今望風奔逃者無他,是欲以朕為奇貨,賣與劉崇請功耳!」諸將默然不答。周世宗大怒,喝令武士,推出盡皆斬之。自是驕將惰卒,始知所懼,不行姑息之政矣。有詩為證: 五代紛紛積弱餘,驕軍賣主主無知。 高平自是樊何斬,從此軍容有丈夫! 是時,永德盛稱匡胤智勇,擢為殿前都虞候。此時,顯德六年秋八月初一日,忽起大風,江海騰湧,平地水深數尺,周太祖陵上松柏,盡皆拔起,直從空中飛來汴城南門外,倒卓於南路。因此,世宗受驚得病,至九月病漸危篤。乃召魏仁浦同平章事,加趙匡胤為殿前都點檢,一同聽政。復召諸臣至御榻前托孤,更囑以後事。世宗遂崩,年三十九歲,在位六年。 初,世宗雖在藩,多務韜晦,及即位後,破高平之寇,人皆服其英武。 按五代史,世宗以柴氏子入繼大統,蓋至此而周之國姓一變焉。即位之初,憤然欲削平天下,蓋念亂甚而望治切,真中原之主也。深知近世之弊,起於威令之不行,上凌下僭,首誅樊、何以正軍法,革五十年之弊政,遂能變弱為強,因敗為功,乘勝逐北,至於太原。歸而簡兵整眾,銳意進齲於是,南割江西,克秦、鳳,北取三關,威武之聲振響夷夏,可謂雄杰。 近世以來,末之有也。嘗夜讀書見唐元稹均田圖,乃詔頒圖法於天下,使吏民先習知之,期以一歲,大均天下之田,其規模豈小小哉?跡其注意元元,留心邦本,於五代十二君之中,獨稱為最!使其天假之以年,其成就蓋未可量也! 當日,眾臣請太子宗訓即皇帝位,稱號恭帝。宗訓年方七歲,范質、魏仁浦效伊尹、周公輔幼故事,封趙匡胤為歸德節度使。匡胤涿郡人也,父名弘殷,洛陽禁衛將校。娶杜氏,生匡胤於甲馬營,赤光滿室,營中異香,經月不散。時人謂之香孩兒營。少從新文說學。及長,容貌雄偉,器度豁如。世宗時掌軍政凡六年,士卒服其恩威,數從征伐,樹立大功。世宗一日於篋中得書一本,中云:「點檢作天子。」世宗大驚。時張永德為點檢,遂遷之,而易以匡胤。 是時,人報河東劉鈞結連遼兵入寇。恭帝遂命匡胤領兵。 此時,主少國危,中外始有推戴之議。軍校苗訓在營中望見東北上,日下復有一日,黑光相蕩,駭然大驚,且指曰:「此天命也!」正值黃昏左側,兵至陳橋驛,軍士相聚謀曰:「主上幼弱,我等奮力破敵,誰則知之,不如先立點檢為天子,然後北征,此為上策。」眾皆然之。即日厲聲一呼,皆袒臂相從,環列待旦,而匡胤醉臥,實不知也。比及天色微明,軍士皆環甲執兵,直叩寢門,匡胤覺悟,慌問其故。諸將答曰:「某等無主,願策太尉為天子!」匡胤驚起披衣,諸將相與扶出,披以黃袍,山呼齊拜,掖之上馬,擁還汴梁。匡胤此時拒之不可,乃攬轡誓諸將曰:「汝等自謂我為天子,若能從我命則可,不然我不為也!」眾皆下馬跪曰:「願受命令!」匡胤曰:「少帝及太后,我曾北面事之,不得驚犯。公卿大臣,皆我比肩,不得侵凌。朝市府庫,不得擄掠。用命則重賞,不然則族誅矣!」眾皆喏喏連聲。於是,整軍自仁和門而入,秋毫無犯。 時周侍衛指揮使韓通,謀帥眾御之,被軍校王彥升所殺,並戮其妻子。當匡胤退居公署,宰相范質、王溥詣崇元殿,集文武官僚,至日暮時班定.猶未有禪詔,翰林承旨陶谷所撰禪詔,出諸袖中,遂用之。制曰: 天生庶民,樹之司牧,二帝推公而禪位,三王乘時而革命,其極一也。予末小子,遭家不造,人心已去,天命有歸。咨爾歸德軍節度使、殿前都點檢趙匡胤,稟上聖之資,有神武之略,佐我高祖,格於皇天,逮事世宗,功存納簏,東征西怨,厥績懋焉!天地鬼神,享於有德,謳歌訟獄,歸於至仁。應天順人,法堯禪舜,如釋重負,予其作賓。嗚呼欽哉,只畏天命。 上按周之國凡三君兩姓,歷九年而宋興焉。 讀詔已畢,宣徽使引匡胤就庭,北面聽受,宰相掖升崇元殿,服袞冕,即皇帝位,稱號太祖皇帝,群臣朝賀。改周顯德七年為建隆元年,以所領鎮為宋州歸德軍,國號曰宋。奉周恭帝為鄭王,封弟光義為殿前都虞侯,封趙普為樞密直學士。立太廟,追帝其祖考,尊母杜氏為皇太后。當日,太祖設太平筵宴,大會群臣。自是,文官武將,濟濟彬彬,佈滿於朝。上有堯舜之風,下有鼓腹之樂。華山隱土陳搏,聞宋代周,欣然喜曰:「天下自此定矣!」餘見宋傳,此編不多錄也。 逸狂詩云: 五代干戈未息肩,亂臣賊子混中原; 黎民苦怨天心怒,胡虜交馳世道顛。 點檢數歸真命主,陳橋兵變太平年; 黃袍丹詔須臾至,三百鴻圖豈偶然。 後賢有詩云: 紛紛五代亂離間,一旦雲開復見天; 草木百年新雨露,車書萬里舊山川。 麗泉有詩云: 幼主無知社稷休,臨危俯首作降囚。 一朝帝業歸於宋,忍恥含羞入鄭州。 卓吾子評: 五代日事干戈,胡虜交馳,亂賊橫行,中原始無寧宇,幸宋太祖一統中華,其亦世道之幸歟!
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