十七史百將傳巻一 燕 楽毅

現代語訳

Kindle版『現代語訳 十七史百將傳 1 巻一〜巻五』(全2巻の第1巻)として出版する予定です。

要約

先祖の樂羊は魏の文侯の将として中山を伐った。齊が大いに燕を敗ったので、燕の昭王は齊を怨み、身を屈して郭隗を礼遇し賢者を招いた。樂毅は魏のために燕へ使いし、客の礼で遇されて臣従し亞卿とされた。

当時、齊の湣王は強く、宋を破って地を広げ、秦の昭王と帝を称し合い、百姓は堪えられなかった。

昭王が齊を伐つ事を問うと、樂毅は、趙および楚・魏と組むにしくはないと答え、昭王は樂毅を遣って趙の惠文王と約させ、別の使者を楚・魏と連ねさせた。諸侯は湣王の横暴を患って合従し、昭王は樂毅を上将軍とし、趙の惠文王は相国の印を授けた。樂毅は五国の兵を率いて齊を濟西で破り、諸侯の兵が引き上げた後もひとり追って臨淄に至った。

湣王は莒に拠った。樂毅は臨淄の宝と祭器を燕に送り、昭王は濟上で軍を労って樂毅を昌國君と号した。樂毅は五年のあいだ齊を巡り従え、七十余城を下して燕に属させたが、莒と即墨だけが服さなかった。

昭王が死んで、樂毅を快く思わぬ惠王が立った。齊の田單は反間を放ち、樂毅は齊に留まって南面して王となろうとしていると言わせ、惠王が騎劫を将に代えて召すと、樂毅は誅せられることを畏れて趙に降り、趙は望諸君として尊んだ。田單はのちに騎劫を即墨の下で破り、齊の城をことごとく取り戻した。

惠王は齊を失ったのを悔い、趙が樂毅を用いるのを恐れて詫びさせた。

樂毅は書を遺って答えた。先王は自分を群臣の上に立てて亞卿とされ、命を受けて長駆して齊の国都に至り、五伯より以来、功の先王に及ぶ者はない。伍子胥は闔閭に聴かれたが、夫差は鴟夷を賜って江に浮かべた、と。

燕王は樂毅の子の樂間を昌國君とし、樂毅は行き来してふたたび燕と通じ、趙で死んだ。

孫子は言う、城に攻めざる所あり、と。樂毅が莒と即墨とを取らなかったのが、これである。

原文(底本)
樂毅者,其先祖曰樂羊,為魏文侯將,伐取中山,文侯封以靈壽,子孫因家焉。樂毅賢,好兵。齊大敗燕,燕昭王怨齊,未嘗一日而忘報齊也。於是屈身下士,先禮郭隗以招賢者。樂毅於是為魏昭王使於燕,燕王以客禮待之,遂委質燕昭王以為亞卿。時齊湣王強,南敗楚相唐昧於重丘,西摧三晉於觀津,遂與三晉擊秦,助趙滅中山,破宋,廣地千餘里,與秦昭王爭重為帝。已而,復歸之。諸侯皆欲背秦,而服於齊。湣王自矜,百姓弗堪。於是燕昭王問伐齊之事,樂毅對曰:「齊地大人眾,未易獨攻也。王必欲伐之,莫如與趙及楚、魏。」於是使樂毅約趙惠文王,別使連楚、魏,令趙啖秦以伐齊之利。諸侯害齊湣王之驕暴,皆爭合從與燕伐齊。樂毅還報,燕昭王悉起兵使樂毅為上將軍,趙惠文王以相國印授樂毅。樂毅於是並護趙、楚、韓、魏、燕之兵以伐齊,破之濟西。諸侯兵罷歸,而燕軍樂毅獨追至於臨淄。齊湣王之敗濟西,亡走保於莒。樂毅獨留徇齊,齊皆城守。樂毅攻入臨淄,盡取齊寶財物祭器,輸之燕。燕昭王大說,親至濟上勞軍,行賞饗士,封樂毅於昌國,號為昌國君。於是燕昭王收齊鹵獲以歸,而使樂毅復以兵平齊城之不下者。樂毅留徇齊五歲,下齊七十餘城,皆為郡縣以屬燕。唯獨莒、即墨未服。會燕昭王死,子立為燕惠王。惠王自為太子時,嘗不快於樂毅。及即位,齊之田單聞之,乃縱反間於燕曰:「齊城不下者兩城耳,然所以不早拔者,聞樂毅與燕新王有隙,欲連兵且留齊,南面而王齊。齊之所患,唯恐他將之來。」於是燕惠王固已疑樂毅,得齊反間,乃使騎劫代將,而召樂毅。樂毅知燕惠王之不善代之,畏誅,遂西降趙。趙封樂毅於觀津,號曰望諸君,尊寵樂毅以警動於燕、齊。齊田單後與騎劫戰,果設詐誑燕軍,遂破騎劫於即墨下,而轉戰逐燕,北至河上,盡復得齊城,而迎襄王於莒,入於臨淄。燕惠王後悔使騎劫代樂毅,以故破軍亡將失齊;又怨樂毅之降趙,恐趙用樂毅而乘燕之弊以伐燕。燕惠王乃使人請樂毅,且謝之曰:「先王舉國而委將軍,將軍為燕破齊報先王之仇,天下莫不震動,寡人豈敢一日而忘將軍之功哉!左右誤寡人,寡人之使騎劫代將軍,為將軍久暴露於外,故召將軍且休計事。將軍過聽,以與寡人有隙,遂捐燕歸趙。將軍自為計則可矣,而亦何以報先王之所以遇將軍之意乎?」樂毅報遺燕惠王書曰:「臣不佞,不能奉承王命以順左右之心,恐傷先王之明,有害足下之義,故遁逃走趙。今足下使人數之以罪,臣恐侍御者不察先王之所以畜幸臣之理,又不白臣之所以事先王之心,故敢以書對。臣聞賢聖之君不以祿私親,其功多者賞之,其能當者處之。故察能而授官者,成功之君也;論行而結交者,立名之士也。臣竊觀先王之舉也,見有高世主之心,故假節於魏,以身得察於燕。先王過舉,廁之賓客之中,立之群臣之上,不謀父兄,以為亞卿。臣竊不自知,自以為奉令承教,可幸無罪,故受令而不辭。以天之道、先王之靈,受命擊齊,大敗齊人,輕卒銳兵長驅至國,齊王遁而走莒,僅以身免,珠玉、財寶、車甲、珍器盡收入燕。五伯以來,功未有及先王者也。臣聞之:善作者不必善成,善始者不必善終。昔伍子胥說聽於闔閭,而吳王遠跡至郢。夫差弗是也,賜之鴟夷而浮之江。吳王不寤先論之可以立功,故沈子胥而不悔;子胥不早見主之不同量,是以至於入江而不化。夫免身立功,以明先王之跡,臣之上計也;離毀辱之誹謗,墮先王之名,臣之所大恐也。臨不測之罪,以幸為利,義之所不敢出也。臣聞:古之君子,交絕不出惡聲;忠臣去國,不潔其名。臣雖不佞,數奉教於君子矣。恐侍御者不察疏遠之行,故敢獻書以聞,唯君王之留意焉。」於是燕王復以樂毅子樂間為昌國君,而樂毅往來,復通燕。燕、趙以為客卿。樂毅卒於趙。

孫子曰:「衢地則合交。」毅約楚、趙、韓、魏之兵以伐齊。又曰:「城有所不攻。」毅不取莒、即墨是也。