十七史百將傳巻二 前漢 李広

現代語訳

Kindle版『現代語訳 十七史百將傳 1 巻一〜巻五』(全2巻の第1巻)として出版する予定です。

要約

李廣は隴西の成紀の人で、家は代々射を伝えた。孝文帝のとき匈奴が蕭関に侵入し、従軍して騎射に巧みで武騎常侍となり、文帝に「そなたは時に遇わなかった。高帝の時代なら万戸侯など言うに足りぬ」と惜しまれた。吳・楚の反では亞夫に従い昌邑で功名をあらわしたが、梁王の将軍の印を受けたため賞されず、上谷太守を経て上郡太守に移された。

匈奴が上郡に侵入し、中貴人が匈奴の三人に射られて逃げ帰ると、李廣は「これは鵰を射る者だ」と言って百騎で追い、二人を殺し一人を生け捕った。匈奴数十騎が現れて百騎は恐れたが、李廣は「留まれば大軍の誘いと思って撃つまい」と言って進んで鞍を解かせ、白馬の将を射殺した。夜半、胡は伏兵を疑って去った。

武帝が立つと未央衛尉となった。李廣は部伍を設けず刁斗も打たせなかったが斥候を遠く出して害に遭わず、程不識は営陣を正しくして軍を休ませなかったがやはり害に遭わなかった。匈奴は李廣の謀略を畏れ、士卒も李廣に従うのを喜んだ。

のち雁門を出て敗れ生け捕られたが、死んだふりをして胡の若者の馬に躍り乗り、弓を奪って南へ馳せ、追う騎兵を射殺して軍と合流し、漢に至って贖い庶人となった。霸陵亭で尉に止められて宿らされ、のち右北平太守となるとその尉を斬った。匈奴は李廣を「漢の飛将軍」と号し、数年右北平に侵入しなかった。

狩りで草中の石を虎と思って射ると鏃まで没した。賞賜は麾下に分け、二千石四十余年、家に余財はなかった。水も食も士卒が済むまで口にせず、士は喜んで用いられた。

のち四千騎で右北平を出、左賢王の四万騎に囲まれた。子の李敢が数十騎で胡騎を貫いて帰り「たやすい相手です」と告げて軍は安んじた。漢兵は半ばを超えて死んだが、李廣は大黄の弩で副将を射て胡の攻めをゆるめさせ、軍は勇に服した。翌日、張騫の軍も至って匈奴は囲みを解いた。

王朔に封邑を得られぬわけを問い、隴西守のとき降らせた羌の降人を偽って殺したのが悔いだと語ると、王朔は「禍は降った者を殺すより大きいものはありません」と言った。

のち大将軍青に従って出ると、青は自ら單于に向かい、李廣を東の道に回した。李廣は先に單于に向かいたいと請うたが容れられず、憤って部に就き、道案内がなく道を失って後れた。青は單于を捕らえられずに帰って長史に責めさせた。李廣は「諸校尉に罪はない。わし自身が道を失ったのだ」と言い、「匈奴と七十余たび戦いながら部を移されて迷った。年六十余、刀筆の吏には答えられぬ」と言って自ら首をはねた。一軍は哭し、百姓も皆涙を垂れた。

孫子はいう、形を示せば敵は従う、令が平素から行われれば衆と相得る、卒はよく遇して養う、郷導を用いなければ地の利を得ない、と。鞍を解いて伏兵を疑わせたこと、士が喜んだこと、降った者を殺して封じられなかったこと、道を失ったことが、これである。

原文(底本)
李廣者,隴西成紀人也。廣家世世受射。孝文帝時,匈奴大入蕭關,而廣以良家子從軍擊胡,因善騎射,殺首虜多,為武騎常侍。嘗從行,有所衝陷折關及格猛獸,而文帝曰:"惜乎,子不遇時。如令子當高帝時,萬戶侯豈足道哉!"及孝景初,李廣為隴西都尉。吳、楚反時,廣為驍騎都尉,從太尉亞夫擊吳、楚軍,取旗顯功名昌邑下。以梁王授廣將軍印,故還賞不行。徙為上谷太守,匈奴日以合戰。屬國公孫昆邪為上泣曰:"李廣才氣天下無雙,自負其能,數與虜戰,恐亡之。"於是乃徙為上郡太守。匈奴大入上郡,天子使中貴人從廣勒習兵,擊匈奴。中貴人將騎數十縱,見匈奴三人,與戰。三人還射,傷中貴人,殺其騎且盡。貴人走廣,廣曰:"是必射鵰者也。"廣乃遂從百騎往馳三人,三人亡馬步行,行數十里。廣令其騎張左右翼,而廣身自射彼三人者,殺其二人,生得一人。果匈奴射鵰者也。已縛之上馬,望匈奴有數十騎,見廣,以為誘騎,皆驚,上山陳。廣之百騎皆大恐,欲馳還走。廣曰:"吾去大軍數十里,今如此以百騎走,匈奴追射我立盡。今我留,匈奴必以我為大軍之誘,必不敢擊我。"廣令諸騎曰:"前。"未到匈奴陳二里所,止,令曰:"皆下馬解鞍。"其騎曰:"虜多且近,即有急,奈何?"廣曰:"彼虜以我為走,今皆解鞍以示不走,用堅其意。"於是胡騎遂不敢擊。有白馬將出護其兵,李廣上馬與十餘騎奔射殺胡白馬將,而復還至其騎中,解鞍,令士皆縱馬臥。是時會暮,胡兵終怪之,不敢擊。夜半時,胡兵亦以為漢有伏軍於旁欲夜取之,胡皆引兵而去。平旦,李廣乃歸其大軍。大軍不知廣所之,故弗從。武帝立,左右以為廣名將也,於是廣以上郡太守為未央衛尉,而程不識亦為長樂衛尉。程不識故與李廣俱以邊太守將軍屯。及出擊胡,而廣行無部伍行陣,就善水草屯舍止,人人自便,不擊刁斗以自衛,莫府省文書,然亦遠斥候,未嘗遇害。程不識正部曲行伍營陳,擊刁斗,士吏治軍簿至明,軍不得休息,然亦未嘗遇害。不識曰:"李廣軍極簡易,然虜卒犯之,無以禁也;而其士卒亦佚樂,咸樂為之死。我軍雖煩擾,然虜亦不得犯我。"是時漢邊郡李廣、程不識皆為名將,然匈奴畏李廣之略,士卒亦多樂從李廣而苦程不識。後廣以衛尉為將軍,出雁門擊匈奴。匈奴兵多,破敗廣軍,生得廣。單于素聞廣賢,令曰:"得李廣必生致之。"胡騎得廣,廣時傷病,置廣兩馬間,絡而盛臥廣。行十餘里,廣佯死,睨其旁有一胡兒騎善馬,廣暫騰而上胡兒馬,因推墮兒,取其弓,鞭馬南馳數十里,復得其餘軍,因引而入塞。匈奴捕者騎數百追之,廣行取胡兒弓射殺追騎,以故得脫。於是至漢,贖為庶人。嘗夜從一騎出,從人田間飲。還至霸陵亭,霸陵尉醉,呵止廣。廣騎曰:"故李將軍。"尉曰:"今將軍尚不得夜行,何乃故也?"止廣宿亭下。居無何,匈奴入殺遼西太守,敗韓將軍。於是天子乃召拜廣為右北平太守。廣即請霸陵尉與俱,至軍而斬之。廣居右北平,匈奴聞之,號曰"漢之飛將軍",避之,數歲不敢入右北平。廣出獵,見草中石,以為虎而射之,中石沒鏃,視之石也。因復更射之,終不能復入石矣。廣廉,得賞賜輒分其麾下,飲食與士共之。終廣之身,為二千石四十餘年,家無餘財,終不言家產事。廣為人長,猿臂,其善射亦天性也。雖其子孫他人學者,莫能及廣。廣訥口少言,與人居則畫地為軍陳,射闊狹以飲,專以射為戲。廣之將兵,乏絕之處見水,士卒不盡飲,廣不近水;士卒不盡食,廣不嘗食。寬緩不苛,士以此愛樂為用。其射,見敵急,非在數十步之內,度不中不發,發即應弦而倒。後廣以郎中令將四千騎出右北平,博望侯張騫將萬騎與廣俱,異道。行可數百里,匈奴左賢王將四萬騎圍廣,廣軍士皆恐。廣乃使其子敢往馳之。敢獨與數十騎馳,直貫胡騎,出其左右而還,告廣曰:"胡虜易與耳。"軍士乃安。廣為圓陳外向,胡急擊之,矢下如雨。漢兵死者過半,漢矢且盡。廣乃令士持滿毋發,而廣身自以大黃射其裨將,殺數人,胡虜益解。會日暮,吏士皆無人色,而廣意氣自如,益治軍。軍中自是服其勇也。明日,復力戰,而博望侯軍亦至,匈奴軍乃解去。廣嘗與望氣王朔燕語,曰:"自漢擊匈奴而廣未嘗不在其中,而諸部校尉以下才能不及中人,然以擊胡軍功取侯者數十人。而廣不為後人,然無尺寸之功以得封邑者,何也?豈吾相不當侯邪?且固命也?"朔曰:"將軍自念,豈嘗有所恨乎?"廣曰:"吾嘗為隴西守,羌嘗反,吾誘而降,降者入百餘人,吾詐而同日殺之。至今大恨獨此耳。"朔曰:"禍莫大於殺已降,此乃將軍所以不得侯也。"後從大將軍青擊匈奴,既出塞,青捕虜知單于所居,乃自以精兵走之,而令廣出東道。廣自請曰:"臣部為前將軍,今大將軍乃令臣出東道;且臣結髮而與匈奴戰,今乃不得當單于,臣願居前,先死單于。"大將軍青亦陰受主誡,以為李廣老,數奇,毋令當單于,恐不得所欲,故徙廣。廣固辭,大將軍不聽。廣不謝而走,意甚慍怒而就部,引兵出東道。軍亡導,或失道,後大將軍。大將軍與單于接戰,單于遁走,弗能得而還。南絕幕,遇廣。大將軍使長史問廣失道狀,曰:"青欲上書報天子失軍曲折。"廣未對,大將軍使長史急責廣之幕府對簿。廣曰:"諸校尉無罪,乃我自失道。"廣謂其麾下曰:"廣結髮與匈奴大小七十餘戰,今幸從大將軍出接單于兵,而大將軍又徙广部行回遠,而又迷失道,豈非天哉?且廣年六十餘矣,終不能復對刀筆之吏。"遂引刀自剄,廣軍士大夫一軍皆哭。百姓聞之,知與不知,無老壯者皆垂涕。

孫子曰:"形之,敵必從之。"廣下馬解鞍,而虜疑有伏。又曰:"令素行,與眾相得。"廣法易簡,而士樂為用。又曰:"卒善而養之。"廣以殺降而不得封侯。又曰:"不用鄉導,不能得地利。"廣軍亡導而失道是也。