十七史百將傳巻三 後漢 岑彭(君然)

現代語訳

Kindle版『現代語訳 十七史百將傳 1 巻一〜巻五』(全2巻の第1巻)として出版する予定です。

要約

岑彭は字を君然といい、南陽の棘陽の人である。漢の兵が棘陽を抜くと宛で城を守ったが、糧が尽きて降った。諸将は誅そうとしたが、大司徒の伯升が節義を惜しんで表彰を説き、更始は帰徳侯に封じた。

伯升が害に遭うと朱鮪の校尉となった。光武が河内を徇えると、身を出して自ら効を尽くしたいと説いて受け入れられ、呂植を説いて降し、刺奸大将軍として河北を平らげた。

即位後は廷尉として洛陽を囲んだが朱鮪は下らない。岑彭が城の下から説くと、朱鮪は大司徒を害した謀りに与った罪を言う。帝は、大事を建てる者は小さな怨みを忌まない、降れば官爵は保たれると答えた。朱鮪は岑彭が縄を伝って上ろうとする誠を見て降ることを許し、五日後に面縛して降り、翌朝その衆をあげて出降した。

秦豊が黎丘に拠って楚黎王と称すると、征南大将軍として黄郵を抜いたが、鄧で進めず帝に責められた。西の山都を撃つと令して虜をわざと逃がし、秦豊が西へ向かう隙に沔水を渡って張楊を破り、黎丘を襲った。夜襲してきた秦豊を敗走させて蔡宏を斬り、舞陰侯に改封された。

呉漢と隗囂を西城に囲み、谷水を塞き止めて灌いだが、蜀の救兵が至って隗囂は脱け出し、漢軍は食が尽きて隴を下った。岑彭が殿となって拒み、諸将は軍を全うして東に帰った。

公孫述の将の任満らが荊門・虎牙に拠って水道を絶つと、帝は荊門の事はひとえに征南公によると報じた。募りに応じた魯奇が大風のなか浮橋に突き当たって炬火を飛ばし、橋と楼は崩れ焼けた。岑彭は風に順って進み、任満を斬り、田戎は江州に逃れた。

江関に入って虜掠を禁じ、百姓の牛と酒を受けなかったので争って降った。侯丹を破り、二千余里を兼行して武陽を抜き、精騎を広都に馳せさせると蜀の地は震え駭き、公孫述は杖で地を撃って、これは何という神わざかと言った。営の地は彭亡という名で、厭うて移ろうとしたが日が暮れ、蜀の刺客が奴僕と偽って降り、夜に岑彭を刺し殺した。岑彭は軍を整え保って秋毫も犯さなかった。

孫子は「近くにありながら遠くを示す」と言う。岑彭は西を撃つと令して沔水を渡った。また「声なきに至る」と言う。岑彭の軍が忽然と至って蜀の地が震え駭いたのがこれである。

原文(底本)
岑彭,字君然,南陽棘陽人也。漢兵起,攻拔棘陽,彭歸宛,與嚴說共城守。漢兵攻之數月,城中糧盡,人相食,彭乃與說舉城降。諸將欲誅之,大司徒伯升曰:"彭,郡之大吏,執心堅守,是其節也。今舉大事,當表義士,不如封之,以勸其後。"更始乃封彭為歸德侯,令屬伯升。及伯升遇害,彭復為大司馬朱鮪校尉。會光武徇河內,彭因進說曰:"今赤眉入關,更始危殆,權臣放縱,矯稱詔制,道路阻塞,四方蜂起,群雄競逐,百姓無所歸命。切聞大王平河北,開王業,此誠皇天佑漢,士人之福也。彭幸蒙司徒公所見全濟,未有報德,旋被禍難,承恨於心。今復遭遇,願出身自效。"光武深接納之。更始大將軍呂植將兵屯淇園,彭說降之,於是拜彭為敕奸大將軍,從平河北。光武即位,拜彭廷尉,行大將軍事。與吳漢等圍洛陽數月,朱鮪等堅守不肯下。帝以彭嘗為鮪校尉,令往說之。鮪在城上,彭在城下,相勞苦歡語如平生。彭因曰:"彭往者得執鞭侍從,蒙薦舉拔擢,常思有以報恩。今皇帝受命,平定燕、趙,盡有幽、冀之地,百姓歸心,賢俊雲集,親率大兵,來攻洛陽。天下之事,逝其去矣。公雖嬰城固守,將何待乎?"鮪曰:"大司徒被害時,鮪與其謀,又諫更始無遣蕭王北伐,誠自知罪深。"彭還,具言於帝。帝曰:"夫建大事者,不忌小怨。鮪今若降,官爵可保,況誅罰乎?河水在此,吾不食言。"彭復往告鮪,鮪從城上下索曰:"必信,可乘此上。"彭趣索欲上。鮪見其誠,即許降。後五日,鮪將輕騎詣彭。乃面縛,與彭俱詣河陽。帝即解其縛,召見之,復令彭夜送鮪歸城。明旦,悉其眾出降,拜鮪為平狄將軍,封扶溝侯。南郡人秦豐據黎丘,自稱楚黎王。遷彭征南大將軍,令率傅俊、臧宮、劉宏等三萬餘人,南擊秦豐,拔黃郵。豐與其大將蔡宏拒彭等於鄧,數月不得進。帝怪以誥彭,彭懼,於是夜勒兵馬,申令軍中,使明旦西擊山都。乃緩所獲虜,令得逃亡,歸以告豐,豐即悉其軍西邀彭。彭乃潛兵渡沔水,擊其將張楊於河頭山,大破之。從川谷間伐木開道,直襲黎丘,擊破諸屯兵。豐聞大驚,馳歸救之。彭與諸將依東山為營,豐與蔡宏夜攻彭,彭豫為之備,出兵逆擊之,豐敗走,追斬蔡宏。更封彭為舞陰侯。彭從車駕破天水,與吳漢圍隗囂於西城。時公孫述將李育將兵救囂,守上邽,帝留蓋延、耿弇圍之,而車駕東歸。敕彭書曰:"西城若下,便可將兵南擊蜀虜。人苦不知足,既平隴,復望蜀。每一發兵,頭須為白。"彭遂壅谷水灌西城,未沒尺餘,囂將行巡、周宗將蜀救兵到,囂得出還冀。漢軍食盡,燒輜重,引兵下隴,延、弇亦相隨而退。囂出兵尾擊諸營,彭殿為後拒,故諸將能全師東歸。後公孫述遺其將任滿、田戎、程泛,將數萬人拔夷道、夷陵,據荊門、虎牙,橫江水起浮橋、斗樓,立攢柱絕水道,結營山上,以拒漢兵。彭數攻之,不利,於是裝直進樓船、冒突露橈數千艘。彭與吳漢發南陽、武陵、南郡兵,又發桂陽、零陵、長沙委輸棹卒,凡六萬餘人,騎五千匹,皆會荊門。吳漢以三郡棹卒多費糧谷,欲罷之。彭以為蜀兵盛,不可遣,上書言狀。帝報彭曰:"大司馬習用步騎,不曉水戰。荊門之事,一由征南公為重而已。"彭乃令軍中募攻浮橋,先登者上嘗。於是偏將魯奇應募而前。時大風狂急,魯奇船逆流而上,直衝浮橋,而攢柱鈎不得去,奇等乘勢殊死戰,困飛拒焚之,風怒火盛,橋樓崩燒。彭復悉軍順風並進,所向無前,蜀兵大亂,溺死者數千。斬任滿,生獲程泛,而田戎亡保江州。彭長驅入江關,令軍中無得虜掠。所過,百姓皆奉牛酒迎勞。彭見諸耆老,為言大漢哀愍巴蜀久見虜役,故興師遠伐,以討有罪,為人除害,辭不受其牛酒。百姓大悅,爭開門降。彭到江州,以田戎食多,難卒拔,留馮駿守之,自引兵乘利直指墊江,攻破平曲。公孫述使其將延岑、呂鮪、王元及其弟恢悉兵拒廣漢及資中,又遣將侯丹率二萬餘人拒黃石。彭乃多張疑兵,使護軍楊翕與臧宮拒延岑等,自分兵浮江下還江州,溯都江而上,襲擊侯丹,大破之。因晨夜倍道兼行二千餘里,徑拔武陽。使精騎馳廣都,去成都數十里,勢若風雨,所至皆奔散。初,述聞漢兵在平曲,故遣大兵逆之。及彭至武陽,繞出延岑軍後,蜀地震駭。述大驚,以杖擊地曰:"是何神也!"彭所營地名彭亡,聞而惡之,欲徙,會日暮,蜀刺客詐為亡奴降,夜刺殺彭。彭首破荊門,長驅武陽,持軍整齊,秋毫無犯。

孫子曰:"近而示之遠。"彭申令西擊,而潛兵渡沔。又曰:"神乎神乎,至於無聲。"彭軍忽至而蜀地震駭是也。